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ストラヴィンスキーとヘリコン・オペラ

‑気晴らしのための《マヴラ≫をめぐって‑

はじめに

20世紀を代表するロシア出身の作曲家、イ‑ゴリ・ス トラヴィンスキー1882‑1971は、音楽という聴覚領 域のみならず、生涯にわたって芸術における視覚的な要 素を追いつづけた作曲家である。約60年にわたる創作 活動の中で作曲した約100ほどの作品のうち、 20作品以 上が舞台のための音楽であったという事実がそのことを 証明している。実際に《火の鳥》 (1910)、 ≪ペトルーシュ カ》 (1911)、 《春の祭典》 (1913)、 《結婚》 (1923)、 《エディ プス王》 (1927)、 《道楽者のなりゆき≫ 1951など、現 在最も知られている彼の作品のそのほとんどがバレエを

はじめとするステージアート作品である。

そのストラヴィンスキーの舞台作品が、近年、祖国ロ シアで上演される機会が増えている。ポリショイ劇場の

《道楽者のなりゆき≫、マリインスキー劇場の《エディプ ス王》、 《春の祭典≫、 《結婚》、ゴーゴリ劇場の《兵士の 物語≫の上演など、この2、 3年を振り返るだけでも、

それは一目瞭然であろう。今挙げた作品だけでも、オペ ラ、バレエ、演劇とステージアートにおけるジャンルは 多岐にわたっており、 1990年代以降、舞台という芸術分 野においても劇的な変化をむかえつつあるロシアの、多 様なものを受け入れる状況を物語っている。

このストラヴィンスキー作品をレパートリーに入れて いる音楽劇場のひとつに、モスクワのポリシヤーヤ・ニ キーツカヤ通りに位置するヘリコン・オペラ劇場があ る。この通りには、斬新な演出で人気のマヤコフスキー 劇場、ロシア音楽の最高学府であるモスクワ音楽院があ

り、ヘリコン・オペラも、その芸術的雰囲気の漂う地 区に溶け込むように、最近増えつつあるブティックやカ フェやレストランなどと同じようなたたずまいの、美し い歴史的建造物の中にある。ここで毎晩、本格的なオペ ラが上演されていて、ポリショイ劇場、スタニスラフ スキイ・ネミロヴイツチ‑ダンテェンコ音楽劇場、ノー ヴァヤ・オペラ劇場やポクロフスキイ室内音楽劇場とい う、オペラでは定評ある劇場といまや肩を並べるほどの 高い人気と評価をえている。ソ連崩壊後、またはその前 後から多様なステージアートが実験されているモスクワ で、ドミートリー・ベルトマンという若い才気あふれる この劇場の芸術総監督が、 10年以上、エンターテインメ

ント性の強い音楽劇を試みてきた。

エンターテインメントとしてのステージアート、また はオペラ。これは一見ストラヴィンスキーとは無縁のも ののようにみえる。しかし、 20世紀初頭のクラシック 音楽の革命児と一面的にみなされがちなストラヴインス

森 田 まり子

キーをステージアートという側面から振り返ってみると き、エンターテインメントという言葉が、実はストラ ヴィンスキーのステージアート作品を生み出すエッセン スの鍵になってくるのではないだろうか。本論では、ス トラヴィンスキーを娯楽という点から探り、彼の娯楽的 作品のひとつである 《マヴラ≫をとりあげ、この作品が 上演されているヘリコン・オペラを通して実現されてい るストラヴィンスキーのステージアート観を明らかにL mm

1.ストラヴィンスキーのステージアート観 1.1ストラヴィンスキーとステージアート

20世紀初頭の欧米を席巻したセルゲイ・デイアギレ フ率いるバレエ・リュスで初漬された《春の祭典≫のバ レエ音楽を作曲したストラヴィンスキーは、従来のクラ シック音楽の伝統を覆す新しい音楽語法を打ち出して音 楽界に衝撃を与えた。その後、創作初期のプリミテイヴ な作風から《エディプス王≫に代表される新古典主義に 移行し、 「12音技法」の創始者アーノルド・シェーンベ ルグの死後に、それまで否定していた「12音技法」を 使った作品《アゴン≫ (1957)や《レクイエム・カンテイ クルス≫ (1966)を発表した。このように時と共に、創 作スタイルを変えていったストラヴィンスキーの作品 は、その多様な形式にもかからず一般的にはアヴァン ギャルドで難解なイメージが常につきまとう。しかし実 際には、ロシアの縁日の見世物小屋を舞台にした《ペト ルーシュカ≫や旅回り劇場をイメージした《兵士の物語》

(1918)、コメディア・デラルテを意識した《プルチネッ ラ≫ (1920)、ロシア民話を題材に動物を擬人化した音楽 ファルス《狐》 (1922)にみられるような、大衆娯楽を 意識したステージアート作品も創作していた。

こうした作品を創作した背景には、ストラヴィンス キーが参加していたバレエ・リュスと連動したロシアの 芸術界における民衆文化への再評価の影響があったと考 えられる。 19世紀末から20世紀初頭にかけて、ロシア では、カーこヴァル的雰囲気や見世物小屋といった民衆 文化を再評価する動きがあった。絵画では道化のモチー フが取り上げられた作品が多数措かれた一方、バレエ・

リュスの前身である 《芸術世界≫ グループの発端とも なった鉄道王マモントフのアムラムツェヴォ村における イコンやルボークなどの民衆芸術に注目した芸術運動な

どもその例にあげられる。また1906年にアレクサンド ル・ブロークの戯曲《見世物小屋》を演出したフセヴオ ロド・メイエルホリドも、 1908年以降帝室劇場の監督と して伝統的な舞台を演出する傍ら、以前から関心をもっ

‑79‑

(2)

ていたコメディア・デラルテやサーカスなどの民衆劇に ついて研究を重ねていた。

ストラヴィンスキーの娯楽的なものに対する意識は、

このような時代精神に加えてリヒヤルト・ワーグナーへ の反発から叙々に形成されていったと考えられる。

1.2 ストラヴィンスキーのステージアート観

ストラヴィンスキーのステージアート観を決定づける 転機となったのが、 1912年、リヒヤルト・ワーグナーの 作品が上演されるバイロイトの劇場への訪問であった。

その時のことを後に次のように回想している。

私がこの平和な生活から呂をさましたのは、聖地で

《パルジフアル≫ を聴きにバイロイト‑行こうという デイアギレフからの招待であった。私は舞台にかけら れた《パルジフアル≫ を一度もみたことがなかった。

この申し込みは誘惑的で、私は喜んで承諾した。 ‑私 がそこで観た公演は、たとえ無料で席を提供されても、

今では私を誘惑しないであろう。劇場や設計や装置の 雰囲気そのものが憂馨に思えたo それは火葬場、それ も非常に旧式な火葬場のようであり、死者をたたえて 歌う仕事をひきうけた喪服の紳士たちがあらわれてく るようであった。院想に身をゆだねよとの命令が、ト ランペットの音で与えられた。私は謙虚にじっと坐っ ていたが、 15分ばかりで耐えられなくなった。手足が しびれたので姿勢をかえねばならなかった。めりめり と音がした。しまった。私の椅子が音をたて、そのこ とによって私は何百という眼におそろしくにらみつけ られた。もう一度身をちぢめてじっとしていたが、一 幕の終わりになったらこの受難も終わるだろうという ことしか頭に浮かばなかったのだ。とうとう休憩にな り、 2本のソーセージと一杯のビールで私の労苦がむ くわれることになった。ところが煙草に火をつけるや いなや、また隈想を要求するトランペットが響き渡っ

た。私の全思考がまだ一服もしていない煙草に集中し たときに、もう一幕我慢しなければならなくなった。

私はなんとか第2幕を耐えた。またもやソーセージと ビール、ふたたびトランペットの音、もう一度隈想に 身をゆだね一幕、そして終わった。

私は《パルジフアル≫の音楽を、またはワーグナー の音楽全体を論じるつもりはない。

今日ではそれは私からあまりにもかけ離れている。

この事柄全体に反感を感じるのは、それを支配する根 本的な考え方なのである。それは芸術作品を、宗教の 式典を構成する神聖で象徴的な儀式と同じレヴェルに 置くという原則である。そしてなるほど、ばからしく 形式ばったこのバイロイトの喜劇は、単に宗教儀式の 無意識な猿真似ではなかっただろうか。

・・・芸術を宗教とし、劇場を寺院とするようなこの不 適当で冒演的な考え方に、未来永劫にわたって終止符

をうつべき時はまさにきているのである(1)

以上のようなバイロイト訪問の回想から明らかなの は、ストラヴィンスキーがバイロイトの高尚な雰囲気に 反発を抱いたということである。バイロイトの劇場は一 種の宗教寺院のように崇め奉られ、物音ひとつ立てては ならない神聖な場所とされていた。これは、ストラヴィ ンスキーには理解できないことであり、以後の彼のス テージアート観に多大な影響を与えていったのである。

またこのようにも述べている。

音楽がこのような楽劇のシステムを採り入れる必然 性を私は決して見出せないと言った。さらにつけ加え ると、このシステムは音楽文化を向上させるどころか、

それをむしばむことを決してやめずに、最終的に音楽 文化を最も逆説的なスタイルに堕落させるのだ。昔の 人は、安易な音楽作品が差し出す気晴らしを求めにオ ペラを聴きに行った。後になると楽劇にあくびをLに 行くようになった。というのも、それ自体の法則とは 異質なものに束縛されて勝手に麻痔してしまった音楽 はワーグナーの偉大な才能にもかかわらず、最も注 意深い観客を退屈させてしまわざるをえないからであ る(2)。

ここでストラヴィンスキーは、昔のオペラ、すなわち 番号オペラは観客の「気晴らし」であったとし、オペラ にそのようなものを求めていた観客にとってワーグナー の楽劇は非常につまらないものだと言っている。ここか ら、ステージアートとはあくまで不特定多数の観客に

「気晴らし」に見せることを第1の目的とするべきだと いうことを学んだといえよう。

同時に、エンターテインメントとしてのステージアー トというコンセプトがストラヴィンスキーの中に生まれ てきた。ドゥルースキンの言葉を借りてみよう。

ステージアートに彼がひきつけられたのは、ステー ジアートでは娯楽要素がコンサート形式よりもより はっきりと現われるからである。スペクタクルは演 じられ、コンサートの音楽は演奏される。スペクタ クルは共有の見世物であり、コンサートは精神を集中 した孤独である。なぜならコンサートホールの音楽は 頭で聴くのに対し、舞台上での行為は共有して見られ るからである。 ‑・儀式ぼった行為ではなく娯楽的なも の、説教ではなく独自の約束事の特性すべてを伴った ショー的な芝居‑これこそが彼をステージアート に、もっと広く言えば演劇性という表現にひきつける ものなのである(3)

ストラヴィンスキーは、自分自身が作曲家でありス テージアートを創作するプロデューサーであるという以 前に、 1人の劇場愛好家として劇場にショー的なスペク タクルとしてのステージアートを求めていた。かつてス トラヴィンスキーが来日した際に、彼は歌舞伎や能など 日本の伝統的な舞台に関心を示したが、街のテンドン屋

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にも吸い寄せられたように魅入っていたというエピソー ドが残っている(4)。これはストラヴィンスキーの「人を 楽しませる」場‑の愛着心を物語ってはいないだろうか。

このようなエンターテインメントとしての場を自分自身 が提僕するのに身近でふさわしかったのが、ストラヴィ ンスキーの場合はステージアートであった。だからこ そ、娯楽好きのストラヴィンスキーはたくさんのステ‑

ジアートを創作したのである。そして、こうした̀ステー ジアート観が実践されている作品の代表に挙げられるの が、 《マヴラ》なのである。

1.3 《マヴラ≫‑全1幕の室内コミック・オペラ‑

《マヴラ》は1922年6月にパリ・オペラ座で《狐≫ と 共に初演された全1幕の室内コミック・オペラである。

リブレットはボリス・コフノによってロシア語で書か れ.アレクサンドル・プーシキンの物語詩≪コロムナの 小さな家》を基にした物語が軸になっている。カルル10 世治下のロシアの小村を舞台にした喜劇であり、粗筋は 以下の通りである。

若い娘パラシャの家の召使が亡くなり、母親から代り の召使を捜すように言われ、彼女は自分の恋人ワシ‑

リーを女装させてマヴラという名の召使として連れて来 るが、まもなく母に見つかり、ワシ‑リーは泥棒と思わ れて追い出されてしまう。

音楽はストラヴィンスキーの新古典主義時代の作品に 特徴的なシニカルで無味乾燥とした旋律が中心となって いる。 《結婚≫、 《エディプス王》、 《道楽者のなりゆき≫

などの有名な作品と比較すると他愛もない小作品のよう に見えるが、ストラヴィンスキーは創作にあたり、次の ようなことを考えていた。

‑・沸き起こったのは、偉大な詩人プーシキンへの愛 と尊敬の念だった。残念なことに、外国人にとってそ の名前は百科事典に載っているというだけだが、彼の 万能ぶりは単にわれわれにとって貴重なものであった というだけでなく、あらゆる思想の流派を代表してい た。プーシキンは、その性質、精神、イデオロギー において、ピョ‑トル大帝からはじまる、幸運な混 合でもってロシア的要素と西欧の精神的豊かさを典型 的な形で融合した偉大なる系譜の完全な継承者であっ

‑}蝣,  ‑

デイアギレフは疑いなくこの系譜に属しており、彼 の活動はすべてこの系譜の起点の真実性を確認してい ただけである。私自身に関していえば、さらなる発展 を要するこの同じ精神の肱芽が私にもあるということ をいつも意識して、そして慎重にその発展に努めよう とした。

この精神と、リムスキー‑コルサコフとグラズノフ の支配下にあったベラーエフのサークルに集中してい た五人組のやけに学問的な精神との違いは、前者がい わばコスモポリタンであったのに対し、後者は純粋な 国民主義者であったということではないか。民族主義

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的要素はグリンカやチャイコフスキーと同様にプーシ キンにおいても突出した位置を占めていた。しかし彼 らはその本質から自然発生的に民族主義的なものが溢 れ出ていたのに対し、五人組の民族主義的傾向は彼ら が乱用したがる空論的教理問答であった。彼らが発展 させようとしたこの民族主義的、な美意識は、ツァー リや大貴族時代のロシアを措くフイルムにインスピ レーションを与えるような精神からは、実際にかけ離 れている。‑

上記の計画は結果としてプーシキンの物語詩『コロ ムナの小さな家』に基づくオペラ≪マヴラ》を生み出 すことになった。 ‑さらに私はこの作品をプーシキン、

グリンカ、チャイコフスキーに捧げた(5)

このようにロシア文学の祖と呼ばれるアレクサンド ル・プーシキンとロシア音楽の父と呼ばれるミハイル・

グリンカへのオマージュとして《マヴラ≫は創作された。

とくに19世紀後半のロシア音楽をリードした「五人組」

‑の反発と、アリアとレチタティーヴオによって構成さ れる番号オペラがメインのイタリア・オペラの流れを汲 むグリンカへの尊敬の念を以下のようにも述べている。

オペラ 《マヴラ≫は、私がロシア‑イタリア・オペ ラの中でもさらに評価するようになった旋律の体現

‑、またヴォーカルスタイル、紋切り型の言葉‑の自 然な共感から生まれた。このような共感によって私が ごく自然に導かれていったのは伝統の道であり、その 道は音楽全体の注意が完全にドラマ‑、あらゆる歴史 的観点における伝統といったものを何も表現せず、あ らゆる音楽的観点における必然的なものを何も実行し ないドラマ‑向かった瞬間に失われたように見えたの である。・・

《マヴラ≫の音楽はグリンカとダルゴムイシスキー の伝統の中にある。私にはこの伝統を復興するような 目的は全くない。私は単にテーマを与えてくれたプー シキンの話にふさわしいオペラ・ブッフアの生きた形 式を手がけたかっただけなのだ(6)

ストラヴィンスキーのいうイタリア歌劇とはアリアに 代表される豊かな旋律、紋切り型のスタイルであり、そ れはリヒヤルトワーグナーが「娯楽的気晴らし(7)」と 非難したオペラ形式であった。つまり 《マヴラ》 という 作品は、イタリア・オペラを通してグリンカ‑と受け継 がれたロシア音楽の伝統と、同じくイタリア・オペラの

‑ジャンルであるオペラ・ブッフアを意識した「気晴ら し」のための作品だといえよう。

1.4 実際に上演された《マヴラ≫

初演は、当時バレエ・リュスで中心的に活躍し、スト ラヴィンスキーも全面的に信頼を置いていたプロニスラ ワ・ニジンスカが振付を担当した。しかし初演当日は彼 が思い描くような成功をおさめることはなかった。

(4)

ああ!私はあわれな《マヴラ≫ と小さな《狐》が 置かれた悲惨な状況にとてもがっかりした。バレエ・

リュスのプログラムの一部でありながら、私の形式ぼ らない2つの作品は、そのシーズンのデイアギレフの レパートリー作品で特別注目されていたスペクタクル な作品にはさまれてしまったのだ。この壊滅的な環境、

オペラハウスの大がかりな舞台構造、有名な常連客を 含む観客の心構え、これらすべてが重なった結果、私 の2つの小作品、とくに《マヴラ≫は場違いにみえた。

・ 《マヴラ≫は私の気まぐれ、完全な失敗作と見なさ れたのである(8)

オペラ、ストラヴィンスキー、クラシック音楽はみな 高尚な芸術であり、この失敗の後も「気晴らし」のため に《マヴラ≫の上演が実現することはなかった。

2.へリコン・オペラ 2.1劇場のつくり

18世紀の貴族の邸宅を改造してできたヘリコン・オペ ラ劇場は、まるでカフェかブティックを思わせるドアか らすでに非日常的な凝った空間を醸し出している。鏡張 りのガルデローブでコートを脱ぎ、身だしなみを整える。

迎えてくれるのは、赤い蝶ネクタイをつけたタキシード 姿の若いスチュア‑ドたち。開演まではその奥にあるカ フェでくつろいだり、廊下に展示してあるモスクワ現代 画家たちの絵を鑑賞したりする。その廊下を通って踊り 場にでると、目の前に赤い械椴が敷かれた階段があらわ れ、それを上ったところには、美しいシャンデリア、グ ランド・ピアノ、アンティークの家具、定期的に変わる しっらえ、絵画で彩られたホワイエが広がる。プログラ ムも、公演ごとにおしゃれなデザインのものである。

ホールは250席の大ホールと普段はスタッフルームと して使われ、オペラ・カフェのときにだけ使用される50 席あまりの小ホールの2つある。

大ホールは、舞台の上手側のオーケストラ・ピットの 脇と、客席の後方両サイドに出入り口があり、もちろん、

観客は客席の入り口を使うのだが、オーケストラ奏者た ちもピット脇の入り口を使用し、開演前、幕間、終演後 も彼らはホワイエを通って、楽屋となっている小ホール に出入りするので、観客は常に彼らを見ることができる。

これも他の音楽劇場ではなかなかみられない光景で興味 深い。ついでに、幕間に出演者やスタッフの休憩ルーム をホワイ工からのぞきみることができるので、舞台化粧 をして衣装をつけたままの歌手が飲みものを口にしてい る姿を何度も見かけることもあるのだ。

開場、開演のチャイムは《ホフマン物語≫の第3幕の 出だしのフルートによるワン・フレーズが使われてお

り、この劇場の凝った空間の一部を演出している。

舞台は、高さ・幅・奥行きを含め、非常に狭い。もち ろん、幕などはなく、ホールに入ると、すぐに舞台装置 が目にはいる。歌手たちはこのせまい舞台の両サイドに ある、演目のたびにちがうセットの入り口から舞台‑壁

場するのである。

オーケストラ・ピットと客席には白いアンティーク調 の柵があるだけで、段差はない。指揮台は一列目の客席 の真ん中にあるため、指揮者は客席を通って登場する。

指揮台は高いものを使用しているが、 1列目のもっとも 中央よりに座る2人の観客の頭を指揮者の手がかするほ

どの間隔しかない。

このように、ヘリコン・オペラは入り口から建物の内 装、ホールを含めて、アンティーク調な凝った空間が演 出されている。

2. 2 劇場の歴史と上演作品

ヘリコンとは、ギリシャにある山で、アポロンと ミューズたちが住み、詩人の霊感の泉があるといわれた 山である。また大型の管楽器に同じ名前のものがある。

この名前を戴いた劇場、 ‑リコン・オペラで、弱冠23 歳のベルトマン演出の下、キリル・ティホノフの指揮で、

若い才能ある歌手とオーケストラ奏者を集めて、 1990年 4月10日にイ‑ゴリ・ストラヴィンスキーの《マヴラ》

で柿落としが行われた。もともとこの建物はベルトマン の父が所有していたもので、それを改造し、私立劇場と してスタートを切ったが、 1993年には国立劇場になっ た。

1967年モスクワに生まれたベルトマンは、国立ルナ チヤルスキー演劇大学(現在のロシア舞台芸術アカデ ミー)で音楽劇場の演出コースを専攻し、 1989年に卒業 した。在学中から、モスクワをはじめ数都市のプロの劇 場で演出を手がけ、ポリショイ劇場などでも働いていた

ことがある。若いときからキャリアを着々と積んでいた ベルトマンは、ヘリコン・オペラでその名を広く知られ るようになり、 1998年にはロシア功労芸術活動家という 名誉ある称号を与えられた。

ヘリコン・オペラで上演された演目は全部で30作品 以上にのぼり、小編成のオペラからチャイコフスキー、

ヴェルディなど大編成のオペラ、また17世紀から20世 紀のオペラと、驚くほど多岐にわたっている(9)。毎シー ズンのレパートリーに必ず入るのは、チャイコフスキー の《エフゲ二一・オネ‑ギン》や《スペードの女王》、

ヴェルディの《アイーダ≫、ビゼーの《カルメン≫、ショ スタコ‑ヴイチの《ムツェンスク郡のマクベス夫人》、

ヨハン・シュトラウスの《こうもり》などである。

現在は毎年、ヨーロッパを中心に外国公演も行うほど の人気を博し、世界各地の音楽祭にも招待され、国内で は、毎年4月に開催される演劇フェスティバル「黄金の マスク」で、数々の賞を受賞している。

2.3 実際の上演舞台からうかがえる娯楽としてのオペラ ヘリコン・オペラでは実際にどのような舞台が上演さ れているのか、いくつか例にとってみよう。

毎年4月10日前後に開催されるガラ・コンサート「ヘ リコン・マニア」では、レパートリー作品の中から一部 分を抜粋し、それらをパロディ風につなげて一つのス

一82一

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トーリーに仕立てられた舞台が上演されている。その メッセージは「これからもヘリコン・オペラをよろしく。

スポンサー大歓迎」というもので、国立オペラ劇場とい えども、予算の大部分をスポンサーに頼っている現在の モスクワの舞台をめぐる経営実態が垣間見られる。普通、

オペラのガラ・コンサートというと、色々なオペラから アリアを抜粋し、その劇場のソリストたちが得意な歌を 披露するという形式が多いが、 ‑リコン・オペラではい わゆる「高尚」なオペラという芸術を、パロディに仕立 てて笑いをとる演出になっている。これはクラシック・

オペラの専門劇場としては異例であろう。例えば、 《ス ペードの女王≫の第3幕第1場で、主人公ゲルマンは、

伯爵夫人の亡霊に出会い、カードの3枚の勝ち札、ロシ ア語だと、トロイカ・セミョルカ・トウ‑ズ、つまり

「3」「7」「エース」を知ることになるのだが、この舞 台では、白髪頭のぼろぼろになったゲルマンが鏡に映っ た自分の姿をみて驚惜し、ひとりで「3」「7」 ・・・と繰

り返して最後に、「3」 「7」 「10」、そうだ今日は10日だ、

ヘリコン・オペラが誕生した日だ‑と歌っていく。観客 の笑いは最初から最後まで絶えることはない。このよう

なガラ・コンサートは、世界中のオペラ劇場をまわって みてもなかなか観ることのできないある意味貴重な舞台

といえよう。

また、シュトラウスの《こうもり》は、独特の空間を つくりだして、観客を楽しませる。パルテール、つまり 客席の中央部分を舞台にし、通常の舞台にオーケストラ、

残りの3方向から観客が上演舞台を囲む。天井のシャン デリア、かわいらしい舞台装置によって、観客は、まさ に《こうもり≫の舞台のイリュージョンの中にいるよう な感覚にさせられる。このオペレッタは、フアルケ博士 が金持ちの友人アイゼンシュタインを、オルロフスキー 公爵邸の夜会にうまく誘いだし、最後に一杯くわせて昔 の悪戯の仕返しをする他愛ない喜劇だが、ヘリコン・オ ペラの《こうもり≫は、そのタイトルに「サプライズつ き」とつけ加えられている。このサプライズとは、観客 に事前に宛てたメッセージであり、舞台がはじまると、

まもなくタキシードを来たスチュワ‑トたちが、シャ ンパンを観客全貞にふるまう。第1幕の終わりでは、小 さく切ったパンとピクルスをのせた、ウオツカの入った グラスもサービスされる。時機を見て、スチュワードが グラスを集めに来るが、何よりも驚くのは、そのウオツ カやシャンパンを舞台上の歌手たちにも配ることだ。彼 らはお酒をおいしそうに飲んで、また上演中にケーキな ども平気な顔をして食べ、その後、すぐにアリアなどを 歌いだす。実はこの演目の本当のサプライズは、歌手た ちが上演中に本当にお酒を飲むことにあるのかもしれな い。また、客席の中央部が舞台になるので、歌手たちは、

普段オーケストラ奏者たちが使っている出入り口と、観 客が使う出入り口2つの計3つをフル活用して、舞台の 中はもちろん、劇場中を走り回って、舞台を進行してい く。こうして、上演中にあちこちから人が出入りするの で観客もおのずとテンションが高くなる。

そしてチャイコフスキーの《スペードの女王≫。この 作品では、舞台の真ん中にしっらえられたテーブルに5 人のソリストが座ったままドラマが進行していく静的 な演出になっている。もともとこのオペラは18世紀の 貴族社会を背景に、野心家のゲルマンが、伯爵夫人の 孫娘リーザに近づき、友人トムスキーから聞いた3枚の カードの秘密を探ろうと伯爵夫人と直接体面するが、そ の時彼女はショック死し、その後、伯爵夫人と思われる 亡霊からカードの秘密を聞いたゲルマンは、そのとおり すべてを賭けるが、エレツキーに土壇場で負けてしまう という話である。ポリショイ劇場などでは、グランド・

オペラとして大掛かりで美しいスタンダードな舞台演出 がなされているが、ヘリコン・オペラでは、舞台には伯 爵夫人、リーザ、トムスキー、ゲルマン、エレツキーの 5人がテーブルを囲んで座っているだけである。次々と 歌が歌われ、ゲルマンを除く登場人物たちは順に舞台か ら去っていき、最後にゲルマンが残ってしまうという演 出になっている。またこのヘリコン・バージョンの《ス ペードの女王》で面白いのは、幕間にホワイ工で、上演 中は表舞台に登場しない合唱団たちが歌を披露すること である。 《スペードの女王≫以外にも、開演前や幕間の サービスがある演目がいくつかあるので、これらもサプ ライズと呼ぶことができよう。

これらの上演舞台からわかるのは、ヘリコン・オペラ がいわゆる「芸術」を披露する場所ではなく、あくまで オペラという「芸術」をマテリアルにした娯楽、エンター テインメントを観客に享受させる場であるということ だ。これは後で論じるベルトマンのステージアート観に あらわれている。

2.4 本当に「お茶する」オペラ・カフェ

オペラ・カフェの舞台は、普段はオーケストラ奏者た ちの楽屋となっている小ホールで上演される。 《マヴラ≫、

《アポロとヒュアキントス≫、 《奥様は召使≫、 《コーヒー・

カンタータ≫、 《農民カンタータ≫、《ピュラムスとシス ピー≫、これらの作品が主なレパートリーで、カンター タ2作品はベルトマンではなく、オレグ・イリインが演 出を手がけている

まず、オペラ・カフェでは、その名の通り、ホールが カフェになっていて、観客は飲み食いしながら(10)、舞台 を観ることができる。

《マヴラ≫は、上記の通り台本がプーシキンの物語詩

『コロムナの小さな家』に基づいているので、伝統的な ロシアのティータイム、紅茶とお菓子がメニューになっ ている。《アポロとヒュアキントス≫はモーツアルトが 10歳のときに創った、ラテン語台本による1幕オペラ であり、また《奥様は召使》は、ペルゴレージのオペラ

《誇り高い囚人≫の幕間劇として自身が創作したもので ある。《コーヒー・カンタータ≫では、ソリストが歌い ながらコーヒーを観客に掩れてくれ、 《農民カンタータ≫

では、ドイツの農村が舞台になっているので、ドイツの ビールが出されるというわけだ。この2つの作品は、イ

ー83‑

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リインが台本はもちろん、バッハのカンタータから抜粋 して創ったオリジナル・オペラである。 《ピュラムスと シスピー≫はジョン・フレデリック・ランプの作品だが、

シェークスピアの《真夏の夜の夢≫の幕間劇を基にして いるので、イギリスのティータイムを象徴するロイヤル

ミルクティーがメニューになっているのである。

これらの作品はすべて、幕間劇や室内での見世物的な 小オペラとして創作されているので、ベルトマンが考え 出したオペラ・カフェのような形で上演されるのが最も ふさわしいといえるだろう。

輩をかぶり17、 8世紀の宮廷音楽家の格好をした数人 のオーケストラ奏者が舞台脇にすわり、舞台中央で3、

4人の歌手たちがオペラを演じる。どの演目でも、彼ら の歌はともかく、演技や衣装、メークはかなり仰々しい。

ときには観客のテーブル席にのりこんできたりするの で、よけいにその滑稽さやわざとらしさが強調される。

ヘリコン・オペラに、オペラ・カフェの新しいメ ニュー、ストラヴィンスキーの《マヴラ》が登場した。

小ホールでお茶しながら提供されるメニューだ。ニ キーツカヤ通りを散歩する人が30分ほど寄り道して、

テーブルに座って1人前の芸術を味わい、そしてまた 散歩に戻‑(ll)

こう評されているように、ここでは「高尚」なオペラ、

または芸術的な歌を上演するというよりも、明らかに軽 いのりのエンターテインメントによって観客の受けと笑 いをねらった演出で、散歩にきている観客に楽しんでも らう場になっているのである。

このように、ヘリコン・オペラのオペラ・カフェは、

普段はうずもれがちな名作曲家の小オペラを、彼らの創 作意図に添うような、観客がお茶できるカフェという場 所で上演するユニークな舞台だといえよう。

2.5 へリコン・オペラの特徴

まず、ヘリコン・オペラはすべてが狭い劇場だ。昔の 貴族の邸宅の大広間を改造して、小さな舞台と250の客 席をつくり、オペラを上演している。当然、大劇場にみ

られるようなリアリスティックなイリュージョン演出、

また壮大なスペクタクル的演出は不可能であり、それゆ え、狭い空間を逆手にとったモダンな演出をするのは、

このオペラ劇場の、そしてベルトマンの演出の大きな特 徴になっている。しかも彼が手がける作品は、また、 ‑ リコン・オペラのソリストは一流の役者である。この劇 場の歌手たちは一流のオペラ歌手だが、ポリショイ劇場 などの大劇場などと比べると、この狭い「空間」で、観 客に非常に近い位置で歌うため、大劇場とは比較になら ないほどの演技力も要求される。時にシリアスな、時に コミカルな「演じる」歌手のちょっとした仕草、目の動 きで、目の前にいるわれわれ観客は臨場感を体験させら れ、身体が凍りつくような思いをしたり、また大笑いを したりするのだ。

そして、ヘリコン・オペラのアンサンブル(合唱)は 舞台上で可能なあらゆるパフォーマーンスを行う。彼ら

は、従来のオペラ上演によくあるような単なる合唱団と して、ドラマに合った衣装を着て、立ったまま歌うこと はない。男女あわせても総勢20名ほどしかいないため、

コーラス以外のところでも常に細かな役を割り当てら れ、ソリスト以上に専門外のマルチな演技を披露する。

オペラは歌唱がメインの舞台芸術であるが、 ‑リコ ン・オペラでは、聴覚面の歌とオーケストラ演奏、視覚 面の舞台装置、身振りが対等に扱われ、そこから生み出 される時空間の中で、演じる者と観る者が対等に存在す る。つまり、ベルトマンが創りだそうとしているのは、

聴覚面が重視されがちなオペラという芸術形態で、 「空 間」という視覚面を前面に押し出すような舞台なのであ る。

このような劇場が出来上がった背景には、ベルトマン が次のように述べているステージアート観が見え隠れし ている。

劇場とはなにか。何のためにあるのか。気晴らし、

喜び‑まさにこのためである。これに加えて、劇場 とはクラブだ。ここでひとつのことばで話す人々、仲 間が出会い交流する(12)

この言に象徴されるように、ベルトマンはオペラを完 全に新しい娯楽、ステージ・エンターテインメントと位 置づけている。新しい音楽劇といえば、モスクワでは現 在ミュージカルが人気を博していて、劇場占拠テロ事件 のあった《ノルド・オスト≫などロシア・オリジナルの ものをはじめ、フランス・オリジンの《ノートル・ダ ム・ド・パリ≫など世界的に有名な作品も日々上演され ている。しかし、ベルトマンはオペラを演出する。彼は あえてクラシック・オペラのテクストを使い、それを現 代人にわかりやすいようにアレンジして、 「オペラ」と いう枠におけるミュージカルを常にめざしているのだ。

そして、これらの舞台を享受する観客層は、ポリシヨイ 劇場などとは一味違う刺激を求めている人たちであり、

彼らもまた、ソ連崩壊後のモスクワで急速に発達してい る資本主義経済の富によって生み出された新たなる価値 観の影響を大きく受けているのである。

3.ヘリコン・オペラで上演される 《マヴラ≫の意味 ストラヴィンスキーは劇場を「気晴らし」をLに、ま た気軽に「お茶する」ことができる場所と考え、 「娯楽 的気晴らし」を象徴するイタリア・オペラの流れを汲む グリンカへのオマージュ、またロシアの伝統を体現する オペラとして《マヴラ≫を創作した。そして現在この作 品は、モスクワのヘリコン・オペラのレパートリー作品 として、オペラ・カフェというこの劇場独特の舞台で上 演されている。そのオペラ・カフェとは、まさに「気晴 らし」と実際に「お茶する」ことのできる空間なのであ る。

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(7)

エンターテインメントとしてのステージアート、また はオペラ。飲み食いしながら舞台をェンジョイする「気 晴らし」の場としての劇場。これらはストラヴィンス

キーとベルトマンに共通するステージアート観の重要な キーワードである。ストラヴィンスキーは、オペラを高 尚な芸術としドラマを実現するものとして神聖視する ワーグナーのステージアート観を否定するところから、

番号オペラに代表される、 「気晴らし」をもたらすワー グナー以前のオペラの良い所を取り入れようとした。一 方ベルトマンは、オペラ劇場を現代の娯楽の主流を占め るクラブの一形態と考え、クラシック音楽におけるオペ ラを現代のクラブにふさわしい演出で上演する。二人の

「気晴らし」 ‑至る経緯は異なるものの、時代を超えて 彼らのステージアート観はパラレルに響きあっているの

である。

初演から70年あまりを経て、ストラヴィンスキーの

《マヴラ≫はベルトマンのステージアート観と重なり合っ て生まれたヘリコン・オペラでの上演をもって、ひとつ の完成をみたといえよう。

注1 ) Stravinsky, Igor, An Autobiography, (The Norton

Library, 1962) , p.38‑39

( 2 ) Stravinsky, Igor, Poetics of Music in the Form of Six Lessons, (Harvard University Press, 1970, p.79 ( 3 ) HpycKHH, M. Hropb CTpaB:mCKHH JIHHHOCTb TBODHeCTBO

田r、ijismbL ‑JL Cob打CKHH KOMnXBHTop, 1979. ‑ C.93‑94.

(4)杜こなて『チャップリンと音楽狂時代』 (春秋社、

1995年)、 pl73

( 5 ) Stravinsky, Igor, An Autobiography, op.cit, p.96‑98 ( 6 ) Stravinsky, Igor, Poetics of Music in the Form of Six

Lessons, op.cit, p.77

(7)三光長治監修『ワーグナー著作集③ オペラとドラ マ』 (第三文明社、 1993年)、 plOO参照

( 8 ) Stravinsky, Igor, An Autobiography, op.cit.,p.103 9) 1990年には《マヴラ≫、パウル・ヒンデミットの《行

きと帰り≫、 1991年にはセルゲイ・プロコフィエフ の《マググレーナ≫、ニコライ・リムスキー‑コル サコフの《不死身のカスチェイ≫、 1992年にはプロ コフィエフの《みにくいアヒルの子≫、ヴオルフガ ング・アマデウス・モーツアルトの《アポロとヒュ アキントス≫、 1993年にはルツジェ一口・レオンカ ヴァッロの《道化師》、1994年にはピョ‑トル・チャ イコフキーの《水の精》、リムスキー‑コルサコフ の《モーツアルトとサリエリ》、チャイコフスキー の《スペードの女王》、 1995年にはジュゼッペ.ヴェ ルディの《椿姫≫、 1996年にはヴェルディの《アイー ダ≫、ヨハン・シュトラウスの《こうもり》、ジョ ルジュ・ビゼーの《カルメン≫1997年にはチャイ コフスキーの《エフゲニー.オネ‑ギン》、リムス キー‑コルサコフの《皇帝の花嫁》、ヨハン・クリ スチャン.バッハの曲を基にした《コーヒー・カン タータ≫、 1998年にはジャック・オッフェンバック の《ホフマン物語≫、ジョヴァン二・パテイスタ・

ペルゴレージの《奥様は召使≫、 1999年にはチャイ コフスキーの《マゼッパ≫、リムスキー‑コルサコ

ー85‑

フの《金鶏》、聖書三部作の《見えざる声〉、 2000年 にはドミートリー・シヨスタコ‑ヴイチの《ムツェ ンスク郡のマクベス夫人≫、バッハの曲を基にした

《農民カンタータ≫2001年にはヴェルディの《ファ ルスタッフ≫、 2002年にはアルバン・ベルクの《ル ル》、2003年にはアンドレ・グレトリの《ピョート ル大帝≫、ジョン・フレデリック・ランプの≪ピュ ラムスとシスピー》、レオシュ・ヤナーチェクの《マ クロプロス家の秘伝≫、 2004年にはジョージ・ガー シュインの曲を集めた《ガーシュイン・ガラ≫、フ ランシス・プ‑ランクの《カルメン派修道女の対話》

が初演された。

(10) 《マヴラ≫ ‑紅茶とプリヤーニキというロシア菓子

《アポロとヒュアキントス≫ ・・∵赤ワインと白菓子

《奥様は召使≫‑ホットチョコレートとチョコレー トケーキ

《コーヒー・カンタータ≫・‑コーヒー

《農民カンタータ≫ ‑ドイツ製ビール

《ピュラムスとシスピー≫ ‑クッキーとロイヤルミ ルクティー

(ll) BnpioKOBa E. Mexny // H3b∝THH.ra3. 2001. (23 穴en).

http : / /main. izve stia. ru/culture/ar ticle l l 894

(12) BepTMaH II. CoBpeMeHHoe MeueHa‑rcTBo : HanexHW h 阿皿H∝Tb // 3H8MH. ‑ 1999. ‑ No.7 ‑ C. 168.

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