査
�
ヌ1」彫 刻
研
経 調 の
と
俊乗一房重源の研究
俊采一同市源が鎌倉時代における東大寺の復興造宮を中心として、あるいは帰黙の浄土寺、あるいは伊賀の新大仏寺、あるいは周防の阿弥陀寺その他の造営に刀を尽した一代の傑俄であることは、いまさらいうまでもない乙とであるが、電源がその生波になし遂げた仕事の数々
彫刻の調査と研究経過
過
美術工芸研究室
・彫
刻
は、彼自らが書き記した「南無阿弥陀仏作善集」に詳細に伝えられて
鳥羽一念守
その実際の仕事でいまになおその元のままの姿で遣されているものも決して少くない。例えば、東大寺南大門とその二王像や、陣術院浄土寺の浄土堂とその本尊の阿弥陀三尊像や、醍醐寺の宋版一切経や、周防阿弥陀寺の鉄宝塔とその内に納められた水品五輪型舎利塔などはそのもっとも著しいものであろう。したがってこれ等に対する調査なり研究なりは、すでに早く昭和6、7年頃から東大寺の筒井英俊師と小林との協力ではじめられていたが、それはまた当研究所の開設と同時に小林を中心とする研究所の綜合研究としてつづけられ、昭和お年度には文部省の科学研究費を補助されたとともあり、その後もずっと引続いて研究をおこなっている次第である。そして昭和泊年においては、かつて東大寺浄土堂に安置されていたのが、その後 いるのみならず、
阿弥陀如来像
いつか京都鳥羽の一念寺に移されたものと伝えられている丈六の阿弥陀如来像を調査し、また東大寺の俊乗一民霊源像の伝来を追って、
かっ
ての俊乗堂すなわちいまの行基堂の造営年次などを尋ね、さらにまた作善集などにも記されている周防の遠石、小松原(いまの松原)、末武(いまの花岡)の3八幡宮などを調査して、それぞれかなりの成果をお
5
さめた。ζとに一念寺の阿弥陀如来像は周丈六(実測像高7尺3寸5分)
奈良 国 立文 化 財研 究所 年 報
の 実 に 堂 々 とし た もの で ︑ そ れ がい わ ゆ る 藤原 和 様 を 追っ て 鎌 倉 初 期
あ た り に 造 ら れ た もの で あ るこ とは すぐ わ か る が ︑ もし こ れ が 寺伝 の よ う に 東 大 寺 浄 土 堂の もの で あ れ ば ︑こ れ は お そら く六 条 殿尼 御 前 す
な わ ち丹 後局 高 階栄 子 が
究 合研 綜 る す 対 に 寺 研 ︑ も 究 興正 尊の 叡 薩 菩 所 当研 究 とし に て る西 け お 大 度 和30 昭 は 年 薩 二 興 正 菩 尊 叡 の 研 究 あ ︒ る で わ る な に もの な 貴重 めて わけ き ま 違い ず間 ない して と もの と もの 関 思 わ れ︑ 重源 造っ 係 資料 とし て た 後 白 に め た う を弔 提 菩 の 崩︶ 3年 建久 皇︵ 法 河 成 果 の 査 調 同 年 度 に 発 行 た﹁ され 西 大 寺叡 尊伝 記 集 成 ﹂ があ して る と の 一 礎 め とし て すで に は じ ら 基 部 ︑ そ の 最 初 の れ こ と は 周 知 の 通 り で あ る ︒し か し 叡 尊 が鎌 倉 中 期 頃 に西 大 寺を 中 心 と して 活 躍 し た業 蹟 の ほ どは ︑ 地 域 的 に も かな り ひ ろ く︑ ま たそ の 関 係 寺 院そ の 他 の 数 も き わ めて 多 数 に 上 り ︑ あま つ さえ そ れら の 寺 院な ど
に は 必
わ 業で は な い ︒ の研 た がっ て こ し 究は 和30 年以 来 ずっ な と おこ て 続け 昭 を か すっ ︑こ 等 れ ら か る あ なか な 容易 なか べ上 とは り とい る げ うこ 調 ず と で 尊関 て よ い く ら い 叡 係の るの 資料 を何 かと いっ え て い 伝 の 堂の て ︑ 前 に その 一 部 整 理し た本 を 文 殊 菩 薩 像の そ 納 入 文 書こ に と だろ い よ ︑ し 心と を中 寺 大 り西 は や いて は う お に 度 年 和34 昭 し か ︒し れ て て だそ ると は い う もの の ︑ ま の いっ 半 ばに も 達し て い な い と い
大 般若 経の 奥 書を すっ か り 調 べ︑ ま た西 大 寺文 書の 調 査 を はじ め た ︒
そ し て
ま た関 係 寺 院の 大 蔵 寺の 地 蔵 菩 薩 像や ︑西 方 寺の 薬 師如 来 像 や︑ 金峯 山 寺の 聖 徳太 子 像 や︑ 円 成 寺の 南 無 仏 太子 像 や︑ 海 竜王 寺の 愛 染 明 王 像 等の 調 査 並 び に研 究 を おこ ない ︑ さ ら に 遠 く尾 道 浄土 寺の 聖 徳 太 子 像 や 浄 土 寺文 書の 調 査 を実 施し た ︒ な お 偶 然の 機会 から 叡 尊 ゆか り の 仏 師 善 慶の 造っ た 薬 師如 来 像 が淡 路 島の 正 福 寺で 発 見 さ れ たこ と は 喜 ばし い 限り で あ る ︒ 三 藤 原 彫 刻 の 研 究 藤原 彫 刻の 研 究 は ︑ 昭 和31 年 度 に お け る 文 部 省の 科 学研 究 費 に よ る 小 林の﹁ 和 様 彫 刻の 形 成 と その 伝 播﹂ とい う研 究 に よっ て は じ め ら れ た もの で あ る が︑ 周 知の よ う に 藤原 彫 刻 は その 作 例の 数 も き わ めて 多 く ︑ ま た研 究し な け れ ばな ら ない 諸要 素 も か な り 多 岐 に 亙っ て い るの で あ る か ら ︑こ れ 等 を一 応 整 理 す る だ けで も な か な か 容 易で ない ︒ そ こ で こ の 研 究で は と に か く その 造 立の 年 次 と か 由 緒 と か がた し か め ら れ る もの を 主 と して ︑ そ れ 等 に 関 係 か あ る と 思 わ れ る もの だ け を と り 上 げる こ と に し た ︒そ れ で も な か な か 大 変で ︑こ こ 数 年 の 間 に よ う や く 次の よ う な も のの 基礎 調 査 だけ を 終っ た ︒す な わ ち 仏 師定 朝に よっ て 完 成 され
る と を とり あ げ︑ ま た 和 様の 成 完 その ね き がで 後の るこ と 尋 を 播と 伝 六 興 福 寺 薬 師如 来 像︑ 薩 波 蜜 寺本 堂地 蔵菩 像 等 羅 新 胝 寺准 師 薬 面 像︑ 音 観 十一 音 観 像︑ 像︑ 来及 善 侍 両 脇 如 師 薬 寺 水 波 船 寺阿 弥陀 如 来 像︑ 六 師如 羅 蜜 寺本 堂 薬 来 像︑ 同 像︑ 岩 尊 薬 師三 隆 金 広 寺講 堂阿 弥陀 如 来 像︑ 仁 和 寺 堂阿 醐 堂 師 薬 寺 醍 像︑ 尊 三 弥陀 経過 がで き るま で の た を ど る作 例 と して 像と 養 供 その 弥陀 来 如 薩 堂の 阿 菩 様 像群 と して ︑こ う し た 和 彫 刻 鳳 凰 た と 院 の頂 わ れ る 和 様 彫 刻 点 等 を一 応 ︑ 通 説の よ う に平 い
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ものとして広隆寺十二神将像、霊山寺薬師三尊像、興善寺釈迦知来及薬師如来像、浄瑠璃寺本堂九鉢阿弥陀像、同毘沙門天像(四天王の中)、
興善
寺大日如来像、法界寺阿弥陀堂阿弥陀如来像、法金剛院本堂阿弥陀如来像、善明寺阿弥陀知来像、安楽寿院阿弥陀如来像、大日寺五智
如来像、大原来迎院薬師如来、阿弥陀如来及釈迦如来像、長岳寺阿弥陀三尊像、福寿寺千手観音像、湯川阿弥陀堂本尊像、円成寺本堂阿弥陀如来像等を、そしてなお藤原後期でありながらまだ前期の要素を多分に伝えているものとして融念寺聖観音像、鞍馬寺吉祥天像、醍醐寺薬師堂吉祥天、閤魔天及帝釈天像等
をとりあげて、
乙れ等の各像についてかなり詳しく調査もし、またき
わめて精密な写真などを撮影した。
四
鎌倉時代における院派仏師の研究
ー!日本彫刻作家研究の中||
院派仏師とは、名匠定朝にはじまる専門仏師の中でそのもっとも正しい嫡系をなすもの、すなわち定朝、覚助、院助、院覚、院尊と伝え
られた系統のものを指すわけで、鎌倉時代の初頭においては院尊、院実、院承、
院賢等の名がかなりよく知られている。
しかしどうした乙 とか、この院派仏師の鎌倉時代における活躍のほどは、後に述べるよ うにその現存作例もかなり数多く遺されていながら、
それ等の各作者
彫刻の調査と研究経過
のことがあまりよくわかっていない。乙とにそれ等各作者の師弟関係その他の仏師としての立場といったような乙とがほとんど明らかにされていない。そ乙でこの研究においては、むしろその現存作例に重点をおいて、それ等の彫刻としての線式や手法などの上から、
関係を明らかにして、
いわゆる院派仏師の歴史をたどってみたいと思ぅ。いま知られている院派仏師の現存作例の主なるものは東大寺及手向山神社舞楽散手面|承元元年(一二O七〉院賢作京都宝積寺十一面観音像天福元年(一三三二)院範作
京都
仁和寺悉達太子像
l
建長四年(一二五二)院符作滋賀
求法寺慈
恵大師
像|文永四年(一二六七〉院農作奈良達磨寺聖徳太子像
l
建治三年(一二七七)院恵、院道作滋賀高野神社慈恵大師像|弘安六年(一二八一一一)院信作法金剛院 十 一 面観音像
その相五
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奈良国立文化財研究所年報
滋賀金剛輪寺慈恵大師像二躯−弘安九年︵三︵六︶正応元年︵三︵︵︶蓮妙作高野山常喜院地蔵菩薩像−永仁二年︵匸一九四︶院修︑院湛︑院唱︑院亮作熊本青蓮寺阿弥陀 E尊像−永仁三年︵匸一九五︶院玄作伊勢外宮伝来妙見菩薩
祖寺高金剛頂知浮彫真言八 像上鎌倉覚園阿泪三尊寺兀亨︶二興院作二二匸一年︵ 院二十一面観音像上兀応元年︵て吉九︶院湛︑院︑覚舜︑院聖等作金剛都法京 道
−
尾浄土寺聖徳子像太乾元 作年︵一三〇三︶院二憲 像師大神弘法浮彫寺護正−
二安四年︵一三〇︶定喜作京都 像 i作命院二〇三一年︵安三正といの如くであるが︑昭和34年度におては︑この中で求法寺と達磨寺 吉作院神社像山祗︶大日如来
−
愛媛元徳二年︵一三三〇大 像 i作審定︶七二三一年︵暦二嘉金剛輪 寺と常喜院と法金剛院との各像を調査した︒この中で法金剛院の十一面観音像の如きは︑これ等がすべてその造像にたずさわったものかどうかよくわからないが︑とにかくその納入文書の中に仏師として院湛︑院吉︑覚舜︑院聖︑観保︑定審︑院蔵︑院救︑慶賢︑院即︑院舜︑観存︑快実︑院鑒︑澄審︑定憲等の名が見出されて︑この研究に一つの大きな光明を与えてくれた︒
五 能 楽 発 達 期︵ 室町− 江戸 初期 ︶ に お け る 能 狂 言 面 の 研 究
わ が国 の 伝 統芸 術に 対 す る一 般の 関 心 は 近
がひ じ うで じよ うに く なっ て き たよ 多 あ 於て る は の もそ に 究所 研 ︒当 能衣 な 裳や その 他の 小 道具 け どに も注 意を 向 るも の 能面 や る ら い 用 れ 文 史的 に 能 楽に つ い て は その 学 は な問 題 こ もと よ り のこ と ︑ そ れ に と 来 と が︑ た き て っ 高ま に み
め は
なっ なこ かの を 発見 し た が︑ そ ん と 能面 が 幾 度か 度重 て ︑ 従 来 あ 古い ま こ くつ 山 い 偶然 な機 から 奈 とに 良の 会 間 ら あ る小 さ な 神社 か に
も室町時代のしものとて間しかれでのもたっかないてら知に世りま違いない と思われる古い能面がかなり数多く知られるようになったわけである︒それ等の中で︑とくにこの研究によって見出されたものを表示してみると次の通りである︒応永二十年︵一言 I︶ 奈良豆比古神社癧見面−千草左衛門大夫作︵銘︶
奈良豆比古神社
︒し社にも査の手を指調伸たいと思っているべ すま︑に共とい出ね尋面能古近たを江道路のりたあ神陽や道陸北や山 於地良奈はてのに究研こてがった方にまとだるれら考えるいてれさ残 に化変なき大も方え考るす対にをなたとら︒るれわ思しかはでのすい 上にとこまに能の史面等れ重こ貴はな︑資面能の従来でのもるなと料 社寛永五年︵一六二︵︶ 吉川野天若女面−秀能井時守︵銘︶い ︑父面︒翁面尉面色尉面︑黒 面い男面︑若い女延︑命冠者面︑尉社若神八間水生柳幡 柳生水 幡神間八面社飛出︱喜兵作︵銘︶ 吉︶ 五九一天年︵一九十正川野天キヒ社ヤ猩作︵ウエ銘︶タロマヤ々面− 天正六年︵一黽︵︶頃 多武峯山談社若い女面︵面箱銘︶神 一聒吉四︶ 天年︵二正川野天ちの社翁面−おきたらう作︵銘︶ 怪士若面︑い男面面箱銘︶等︵ 以海陀宇前 社父己亘︵年︵祿五永神飛出尉面者面︑黒面︑︑命冠延︑尉面色 天文︵一三 尾T一藍五︶頃 柳生長社神延者面命冠等︑尉面︑翁面 若い応二年︵一四九三︶ 吉野明勝手神社若い男︑女面−七郎作︵銘︶面 社宇海神陀翁面−二︵銘︶十 社黒年︵一四言︶ 吉野天川尉面−色十二又五郎︵銘︶永享二 翁 面等尉面︑尉面色黒︑
六 印 仏 の 研 究−元興寺極楽坊の庶民信仰資料研究の一部としてI
S
印仏とはまた摺仏ともいわれ
、紙
にいろいろな仏の姿を木版で印刷したもので、それには一紙に単独の仏菩薩をあらわしたものや、また同じ姿のものを多数並べたものなどがあって、
尉面ー阿古父尉ヵ 長尾神社 面
能
その形式は多種多様で
ある。との印仏がはたしてどんな意味をもったものであるかという乙
とは、いままでにもこれを論究したものがない乙とはないが、どうもあまりはっきりとした結論を出していないように思われる。そ乙で元興寺極楽坊における庶民信仰資料の研究をきっかけとして、
たまたま同寺にかなり多数の印仏が伝えられていたのを中心として、その伝来その他の由緒の正しいもの、例えば仏像の像内に納入されていたものなどを、できるだけ数多く調べて、それ等がそれぞれどんな
意味合いをもって造られたものであるかを尋ねて、そのほんとうの意義や性格などをも研究したいと思っている。現在はまだその資料集収
彫刻の調査と研究経過 の時期であるが、いままでに調査した主なものは次の通りである。
阿弥陀如来印仏(浄瑠璃寺九鱗阿弥陀像納入〉毘沙門天印仏(旧中川寺毘沙門天像納入)十一面観音印仏(福寿寺千手観音像納入)阿弥陀如来印仏(遣迎院阿弥陀如来像納入)弥物仏印仏(興福寺北円堂弥勅
仏
像納入)
吉 祥 天
印仏(浄瑠璃寺吉祥天像納入)如意輪観音印仏(一克興寺極楽坊伝来)
千
手観
毘沙門天印仏(興福寺食堂千手観音像納入) 音印仏(興福寺食堂千手観音像納入)
聖徳
太子
印仏(元興寺極楽坊聖徳太子像納入)十一面観音印仏〈法金剛院十一面観
音像
納入)愛染明王印仏(元興寺極楽坊弘法太子像納入)
乙れ等は多くその造像の勧進などに利用されたようであるが、その利用の仕方が時代により、また寺によってそれぞれかなり異ったものが
うかがわれるのも興味をひく。それにしても、これはやはり仏を造る一人でも多くの人に浴さしめようとした仏家の善意か
ζの印仏もなかなかおもしろい研究の
という作善を、
ら出ているように考えられて、対象であると思う。
七
淡路島の文化財調査
昭和M年の5月幻日からぬ日までと、8月初日からお日までの計8
日聞に、洲本市にある淡路信用金庫美術館の要請によって淡路島全島
の文化財を調査した。乙れはとれまでとかく見棄てられ勝ちであった
淡路島にも何か文化財があるのではないかということを調べると共に、
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奈良国立文化財研究所年報 いままであまり文化財などに関心のなかった島内の人達にこの調査をきっかけとしてす乙しでも文化財K対する認識を深めてもらうために、とくに美術館の方で企画されたものであった。したがって乙の調査の実施もほとんど美術館の計画した通りにおこなったのであるが、それはこの調査のもともとの主旨からして島内を隅なく廻るというのであったから、ととろによってはあまりじゅうぶんな調査をするいとまもなかったわけである。しかしほぼ次に掲げるようなかなりすぐれた文化財の数々に接するζとができた。すなわち
銅 銭
(弘安六年銘)鉄宝塔残欠(文保二年銘)
金 鼓
(天文十五年銘)千手観音像(室町時代)
金 談
(延康二年銘)
薬師如来像(平安初期)
金 談(正平三年銘)
光寺(洲本市)
寺(洲本市)
寺(津名町)
山泉 東満
十二神将像(藤原時代)
成 楽
寺(北淡町)大日如来像(藤原時代)岩上神社(一宮町)
金 鼓
(応安三年銘)
妙 京
寺(一宮町)金銭(永享十二年銘)
浄 土
寺(二呂町)石造宝俵印塔(鎌倉時代)
竜 宝 寺(一宮町)不動明王像(平安初期)河上神社(五色町)神像八躯(藤原前期|室町時代)河内神社(五色町)
銅 銭
(永和五年銘)鳥飼八幡宮(五色町)大般若経(天福元年奥書)
日 光
寺(西淡町)
銅 鐸 大 和神社(三原町)大和社鉄印(平安初期)
賢 光
寺(三原町)銅造経筒(鎌倉時代)国分寺(三原町)釈迦如来像(磨応三年仏師命門作銘)飛天像残欠(藤原時代)
成 相
寺(三原町)薬師如来像(平安初期)成相寺伽藍絵図(室町時代)
護 国 寺(南淡町)大日如来像(藤原時代)古文書(鎌倉室町時代〉福良八幡神社(南淡町)
神像六躯(鎌倉室町時代)
正 福
寺(南淡町)
薬師如来像(建長一克年仏師善慶作銘)
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竜宝寺の如くである。ことに乙の中の竜宝寺の不動明王像は近世の粗悪な修補によって見た目をひじようにわるくしているが、元来はまことに古様を伝えた本格的な像で、またなかなかすばらしい造型をなすものである。平安初期のものとして間違いないものであろう。また正福寺の 薬師如来像は建長元年(一二四九〉に仏師善慶によって造られたとの
銘をもつもので、
もつばら西大寺叡尊に用いられた仏師善慶の作例が
ζんなと乙ろに在るのはちょっと奇異にも思われるが、
との像の様式
王 イ象
明 動 不
や手法などはたしかに鎌倉中期頃の写実を主とじたもので、
またかなりすぐれたものである。
とれ等は乙の調査のもっとも大きな収穫とい
(小林 えよう。
'--'