埼玉大学紀要 教育学乱 56(2):21‑36(2007)
植民地台湾における戦時下の 玉川国民学校 と平和 国民学校の
教員の意識 と実態
新井 淑子*
キーワー ド :植民地教育、植民地 台湾 の教 員、玉川 国民学校 、平和 国民 学校
は じめ に
植民地台湾の1895年か ら50年に及ぶ統治政策 の実施上、重要な役割を担 った教員は学校教育、
社会教育に日夜遭進 し、特に風俗習慣の 「同化」、 皇民化 に遭進 していた。1938年前後か ら1945年 前後の大東亜共栄圏構想による皇民化政策 を強 力 に推進 し、改姓名や台湾人への徴兵令実施や 初等教育の義務化等が実施 された。
台湾 も戦争で街や民家が焼失 し学童疎 開が実 施 された。植民地下の男教員が兵役 に就 き教員 不足 は深刻であ り、従来の 日台の中等学校卒前 後か ら臨時教員養成講習や資格向上の夏の講習 を受け、教員検定試験 を受け 「助教」か ら正規 の教員 となっていた。 また高等小学校卒で独学 で教員検定試験 に合格 した教員 (高雄市張 自流)
もいたが、半年間の講習を受けて教壇 に立って いた (嘉義市の林連山)。 この ような状況の中 で嘉義市玉川国民学校 と高雄市平和国民学校の 実態や若い教員の実践や植民地教育をどの よう に認識 し、実践 し推進 したのか否かについて聞 き書 きを基に明 らかにするのが、本論の 目的で ある。
教員に関する先行研究のうち台湾の第三高等 女学校卒の女教員養成 ・長期勤務の傑出女教員
♯ 埼玉大学名誉教授
の意識や実態 を聞き書 きも交え丹念に資料を収 集 した実証的な歴史研究を瀞鑑明は 『日拠時期 培養台籍女教 師的揺藍一 台北第三高等女学校 (1897‑1947)‑
』(
『日拠時期公学校女教 師的 揺藍 台北第三高等女学校』)を発表 している。さらに 「受益者か、それとも被害者か‑第二次 世界大戦時期の台湾人女性 (1937‑1945)」 (『戦 争 ・暴力 と女性』吉川弘文館)の研究がある。
また中央研究院近代史研究所発行の 「口述歴史 叢書」の 「人間訪問記録49」には許雪姫 らが公 学校女教師唐楊鴛鴛に言及 している。済 らもま た 「同52」で、公学校教師を経て議員や婦女会 で活躍 した林察素女 ・陳愛殊女の聞 き書 きを出 版 している。 日本では、山本鎧子 『植民地台湾 の高等女学校研究』で女教員張瑞軒の意識や生 活等 に言及 している。同様に広谷多喜夫の 「日 本統治下の台湾における公学校教育一 日本人教 師か らの証言による構成‑」 (F釧路短期大学紀 要』第13号1986年)や前田均 「資料 日本統治 下台湾の藩童教育所女性補助教員か らの聞 き取
り」 (『天理大学学報』第183輯1996年)があ り、
それ らは貴重である。
拙論 「植民地台湾の女教員史」が (『埼玉大 学教育学部紀要』2001‑06年 まで に6回)や
「植民地台湾の戦時下の女教 員の意識 と実態」
(国立台湾大学東亜文明研究中心 国立台湾師範 大学教育学系他略 『東亜伝統等家庭教育輿家内
21‑
秩序』2005年)がある。本論 は、上記の紀要に 連載 した拙論 「植民地台湾 における女教員史」
同 (2)〜 (6)に継続す るものである。
玉川国民学校 と平和 国民学校の母体 は、共 に 国語伝習所であるが、1887年の公学校令によ り それぞれ嘉義公学校 (32年度 より玉川公学校、
41年度 よ り玉川国民学校)、打猫公学校 (高雄 第一公学校、平和国民学校) と名称 を変更 して、
嘉義市 と高雄市の中心校 として位置付 き、その 役割 を果た した学校である。玉川公学校 に北海 道か ら出向 した五十嵐千代次は、校 長か ら 「台 湾で2番 目」 に古い学校 と聞 く。1
なお両校では、共 に戦後 日台の教 師 と日台在 住の卒業生 との交流があ り、玉川公学校 と玉川 国民学校 は 「玉川会」、平和 国民学校 は 「‑公 会」 を組織 している (いた)。Z
研究対象である嘉義市や高雄市等 は台南州の 主催 の助教講習会で資格の取得 に励 んでいた。
高等科卒の教員 も共 に働いていた。
Ⅰ 台湾教育界の動向
教員にとって1940年 は、歴史的な年であった。
「教育勅語換発五十年記念式典」や それに 「記 念紀元二千六百年奉祝 全 島教育者大会その盛 大 な記念行事 (台湾総督府や台湾教育会主催) があった。その上台湾総督府国民精神総動員本 部か ら「国民精神稔動員実践項 目投 に徹底方策」
が発表 され 「皇国精神 の透徹」「戦時意誠 の徹 底」「興亜生活の推進」 を挙 げ、教 員は 「指導 者の教化」やその 「錬 成」の徹底3で国民精神 等の講習会が延長 (69日) され、受講者 を拡大
してい く。
総督府は、 さらに同講習会 を 「各州庁主催」
として 「州は各2回、庁 は各1回」の開催 を計 画 させ 「講師1名 を派遣」 した。 その 目的 は
「日本精神 の真義鼓 に其の教育上 の実現 に就 き 十分 なる把握 をなさしめると同時 に、現下非常 時局 と本島の特殊事情 に対応 して必要 なる識見 と実力 とを得 しめ、以て地方教育教化の推進力」
と、教員を位置づ け、植民地の教員の任務 を明 確 に した。その推進者は小公実業補習学校教員 が対象である。4
同年 の8月の橋 田文相 は文教 に関す る談話 (「国体 の本義 を明 らかに し、国体の精華発揚 を 期」 し 「自我功利 の思想」排 除、「国家奉仕 を 第一義 とす る国民道徳の確立 を期す・・・科学の真 諦 を普及発展」、「国家奉仕実現の実践的基礎 を 確立」) を発表 した。その体得 には 「研 究 と工 夫」した教育実践が今後の 「台湾教育」の 「中心 問題」であると、台湾教育で述べている。 5
同年10月31日には台湾教育界主催 の 「教育勅 語換発五十年記念紀元二千六百年奉祝 全島教 育者大会」 (500余名参加)では、「宮城、橿 原 神宮 に対 し奉 る造拝、戦没将兵の英霊 に対す る 感謝投 に皇軍の武運長久祈願の黙祷 の後、君が 代の斉唱・・・教育勅語鼓 に紀元節 に換発せ られた る詔書 を奉読」等があった。次に文政局の 「国 防国家建設 を目標 とす る国策に対応す る為め本 島教育上努力強調すべ き事項如何」の諮問の答 申が各学校種別に発表 された。 さらに大会宣言 と時局の認識 と戦意昂揚 を決議 した。 6
初等教育の 「馬公第一公学校」の答 申では、
「教 員不足」「教職員の質の低下」「師範入学者 希望者の激減」対策は 「教育」の増大 と 「給与」
の 「優 遇」 にあ り、 それが諮 問の国策 に添 う
「本 島教育上努力強調すべ き事項」である とし ていた。 7
同年11月には41年度実施の国民学校制度講習 会8が あ り、その本質 は 「皇国の道の実践行 に まで高 まることが皇国の道 に則 ること‑・。教師 自身が先つ学 と行 との一体 (し、それが) 自己 確立の根本問題」であ り 「師弟同行」である、
とした。9 翌1941年12月には太平洋戦争が開始 したが、国民学校 の教員は学内や講習会等で多 忙 な 日々を送 る。
1940年度には1943年度の公学校の義務制 に備 え、新竹 と犀東に師範学校が設置 され台湾内に 師範学校 は6校 に増加 した。10 また、同年5月 には台南 師範学校 に急速女子講習科 が設置 さ
れ11、教月養成数が2千名 を越 えた。翌41年度 には国民学校令が施行 されたが、それに伴い台 湾の師範学校は 「師範学校公学師範部、小学師 範部の別がな く」なった。12
1943年には師範学校が専門学校 に昇格 し修業 年限が1年延長 されるため、卒業生が出ないの で女教員を養成 して、その穴埋めを実施する。
同校の女子は2年か ら3年制 となったが、非常 時で 「当分2年間に短縮」 された。台湾では台 北第一 と台北第二師範学校が統合 し、台北第‑
師範学校 となり、同女子部本科生は1944年度か ら定員は急速 3倍の 「120名」に急増 したのは
「学徒 出陣、徴兵検査」が男子 にあ り 「1年引 き下げ」 られたのであろうか。13
この間の教員補充 を見 ると1942年 は教 員が
「1800名」増である。その補充は1402名 (「師範」
卒 「800名」「各州委託の臨時教員が300名」「内 地か ら302名」)を決定 したが、不足分は高女卒、
中学校 と高等科卒で補充する14、 とい う。それ で も不足 した前 (1941)年10月には、「国民学 校高等科修了以上の学力を有する者 (男女 を問 はず)」の300名を対象に 6か月間の 「臨時教員 講習会」を開催 し、その最終 日に 「臨時教員検 定試験」をして、合格す ると 「匡L民学校初等科 準訓導免許状」が取得出来る。合格者は 「昭和 17年3月31[】付で助教 に採用」 という条件であ る。 それは5市 (「台北、新竹、台中、台南 2 教室、犀東」)で 「台湾総督府委託臨時教 員養 成講習会」 として開催 された。15 同年の夏休み には各種講習会が開催 されたが、30日間の 「小 公学校教員資格向上講習会」は、現職の教員対 象 (小公学校専科訓導、準訓導、教員心得) と
して実施 され 「小本正」「乙本正」の資格 は講 習 で試験 に合格 す る と取得 で きたので あ る。
100名弱 (台北、台中、台南は各20、新竹、高 雄が各15、花蓮港庁4、台東1、瀞湖 島2名) 資格 をとったようである。中学校や高女卒青年 学校 、高等小学校卒の教員心得や助教 (43年度 か ら)たちは、例年 この講習を受けて訓導にな った例が多い。16
戦時下の教員不足 は 「時勢 に気の利いた もの が教員なんかになるものか」 という、「教育者 の世論」は 「教育者 たるの 自覚 を忘れた妄言」
と、いわれた。17
また、例年の如 く渡台教員を対象に台北、台 中、台南で1週間の 「新渡台教員講習会」、小 公学校教員 を対象 と した5日間の体操講習会 (男子105、女子56名参加)、上席教員を対象 と した 「国民精神の高揚 と教育者 としての信念 を 確立」 し 「非常時局下」の 「初等教育者の志気 を」高める講習が7日間あ り、校長等100名が 参加 している。18
しか し1944年になると米軍機が台湾の主要な 戦時関連ある郡や市 を爆撃 し疎開が開始 された。
同年10月以後か ら高雄 には 「米軍艦載機の空襲 が毎 日のようにあ り、授業は半 どん状態で、45 年3月には旗後 (半島)の住民は強制疎開とな った。平和国民学校 は、寿国民学校 (寿 山下) に疎開は したが、先生方 もば らば ら、子 どもも 来ないので授業 どころではない状態」が続 き、
町や学校 は一部を残 して焼失 した。19
嘉義郡民雄では、45年3月13日は 「B24 2 機」、 5月11日は 「焼夷弾」で被害 を受けた。
嘉義市では44年末か ら11時になると空襲警報で
「部分疎 開」 とな り、それが 「全面的疎開」 を 開始 したのは、「45年4月3日」である。当 日
「焼夷爆弾が2」個投下 され市内の半分を焼失 し、生徒 も学校に来な くなって、教員 も疎開者 がでた。嘉義郡市では家族で教員 も多 く生徒 も 疎開 し殆 どいなかった。 また、45年3月初旬に は 「基隆」にも敵機襲来」 し 「5月31日には台 北大空襲」 とな り 「警報」や 「解除」がその後
も繰 り返 された。20
教員の兵隊 もポツダム宣言を受託 し玉音放送 以後、学校 にもどったが、 日本の教員たちは自 然退職や僅かの教員が学校に残 り21年の引 き上 げを待っていた。その間の生活、生 きるための
日々の苦悩 と生徒 との別れがあった。
この ような状況で 「忙 しい先生達」は、「時 局時局 という叱噂に追われて‑大切であるべ き
23
児童の教育を忘れて、次第に児童の魂 に食い入 るような迫力のない、機械的な即頭式な事務や に自らな り下」がった21、 という。
本論の対象校である両校の1944年度の教員は 玉川国民学校 は、嘉義市玉川町2310にあ り、初 等科39学級、高等科2学級があ り、学校長は児 玉乙三郎 と教員は42名 (訓導は30名‑男21・女 9‑、助教12名一全員女‑)である.同年の平 和国民学校 は、高雄市平和町2819にあ り、校長 は横 山農夫志である。同校の教員は37名 (訓導 27名一男24、女3一、準訓導女1名、助教9名 一男1、女8)である。22
Ⅰ 玉川 公学校 か ら玉川 国民学校 へ 1玉川国民学校の概観
台湾では三大節 と 「始制記念 日」には、判任 官の教員は、勲章 をつけ文官服 を着て 「肩章つ け」た 「正式の服装」をした。 しか し教育行政 官か ら校長に就任 した某校長を生徒たちは 「あ、
今度の校長先生勲章下げてない」 と 「びっ くり し」ていたことがあった。23 この校長は1938年 に校長室に神棚 を設置 し、 日本人の女教 員には その当番があった (後述)。
児玉校長は会議で 自ら発言中に読書中の教員 の ところに来て 「パ ン、パ ン顔を叩いた」。24
玉川の特色は、駅員がホームで連絡 しあうの をヒン トに 「午後3時に立会」 を設置 し 「全員 招集」 した。立会は 「本 日の注意」や 「校長先 生か らと学年 間の話」がある。何 もない時 は
「その まま解散」 したが、普段 は 「5分位」か か った。立会 は 「課外授業」 中で も中断 して
「職員室」 に行 ったが、戦争が激 しくなるまで 続けた。
玉川では、隣接 した嘉義高女補習科生の教育 実習生を 「家弓武千代 と樋口先生」が例年 「担 当」 した。25
若い先生同士での交流は 「ほとん ど、なかっ た」が 「内地か ら来た先生方同士は互いに行 き
来」 していた。26 日本か ら来た教員が中心 に教 授法の研究に情熱 をかけていた教員がいて、研 究熱心 な平良や山下二人等は国語教育 (日本語) を研究 していた。同校の台湾教育刷新同盟は、
岩本文治 も小倉、山下 も知 らなかった。㌘
2 日本人同士の違和感 と女教具
日本か ら来た教員や 日本の中学校卒で台湾の 師範卒は、台湾生 まれの 「湾生」 と台湾人に対 する見方や 日本人同士で も 「湾生」を一段 と下 に視ていた教員が多かったようである。同校の 中畑文子 (現熊谷) も同様に感 じた.28 玉川で は、台湾生 まれの男教員は岩本一人であった。
「同 じ日本人で も」「君は湾生かって、ち ょっと 軽蔑する。特 に内地の中学校出て台湾の師範に 来た人なんかですね。湾生が どこが悪か とか思 って。内地か ら来た先生は自尊心 を持っとるか なんか知 りませんが。 『なんや、君 は湾生か。
って馬鹿 に しますの。』某教員は 「剣道が強か った し軍隊は海軍で鍛えられた‑・短期兵役 も‑・
海軍には少ないですけど」、 と。29
岩本は、台湾人 と対等に関わっていた。戦後 日本に来た 「同級生が、飲む会」の時岩本の耳 元で、 「台湾語で、がんぷん (岩本の台湾語読 み)だけな、俺たちを差別せなったのは」 と、
言った。
若い女教員の中には低学年担任で嘉義高女出 身の 日台の6人組 と自称 して映画 もデパー トも 食事 も一緒、仲良 しグループがあった。何かあ ると集 まって話 し合い校長室にも 「全員 じゃな くて」「二人で行った り、抗議 をLに」いった。
「一視同仁」 といった某校長が朝礼で 「チ ャ ンコロ」 と言った。その場で台湾人の女教員が す ごく怒った。すると校長室に呼ばれた。戦首 されると覚悟 して校長室に行 くと校長は 「僕が 悪かった」 と謝 った。 6人組の1人である女教 員は、それ以来 この校長を尊敬 している、 と。
玉川には1936年4月の高野校長以来校長室に 神棚があ り、 日本人の女教員が当番で毎朝掃除
を した。転入 して きた高学年担任 の中畑澄江が 当番時に校長室に花 を活けた。それを6人組の 日本人の女教員が 「あんたは生意気 だ‑校長先 生の ご機嫌ばっか とって‑ (花 を活ける等)何 であんたに変わっちゃったの よ」 と怒 られた。
姉の中畑文子 (師範卒)の嘉義高女の同級生達 (高女 卒) で あ る。花代 は 自腹 なので校 長 の
「機嫌取 ったと思われで も仕方が無い」。
中畑 は、学年が違 ったので台湾の先生 と話す 機会 はなかったが、 6人組 を 「うらや ましい と 思 う余裕が無かったね。呼びつけ られて恐 いな
あと思 った」が。
しか し玉川の教員たちは 「台湾の人 もみんな 一緒で一番年上の先生 も温和 な人だったか ら、
そんなに仲たがいするような人はいない」 と、
中畑 は言 う。30
岩本 は、 6人租の存在 を全然知 らなかった。
しか し一度写真 を見せ られたが、 「日浅芳一 さ ん」が写っていた、 と。31
3 教育実践一岩本文治‑
1)必要観から発する日本語を待つ
岩本 は、 2年生男子組 を3年に持 ち上 った途 中で 「短期兵役」 で、「台南の台湾歩兵 第二連 隊5ケ月間」訓練 を受け 「伍長」で帰校 した。
玉川では、兵役 を終わると教員が 「バ リバ リし た とこで、上学年持たせ る」が、岩本 も5、 6 午 (以前は2、 3年) と担任 した。その後1年 生 を担任 している。
1940年度は 1年生男子組の担任 とな り日本語 のみで教育をしたのである。
嘉義市内の公学校 は就学増で生徒数が増 えた。
玉川公学校では1940年 は、1年生が8学級 もあ り「1学級78名」であった。その うち 「4‑ 5 名 は幼稚園で、 日本語」 を習っていたが、他 は
日本語 は全然通 じない。 「台湾人の先生 は台湾 語で言って 日本語に直 して」教える。岩本 は師 範で習 った台湾語は 「全然通用」 しなっかった。
岩本は言語の修得は 「必要観 を覚 えて、習得
す る」 もの と考え 「始めか ら日本語で教 え台湾 語 は、全然交 えなか った」。担任が台湾語 を し ゃべれないか ら子 どもの方が学校生活上 日々身 近な言葉 を日本語で発す る必要性 を体得す る。
子 どもが言葉 を発 して伝達で きる、意志 の疎通 が可能 となることを体得 させ るまで 「待つ」教 授法 を岩田は実践 した。 なお、 この教授法は師 範学校で習 った教育方法ではなかった、 と。
その実践の結果、22歳の岩 田は生理現象の後 始末 を厭 わず にやっていた。岩本の 日本語の取 得法 を長いが岩本の言葉で聞こう。なお1年生 は、台湾語の名前 を 日本語読みに教 えて もらっ て入学 していた。
授業中1年生は 「せんひいや、ぽん じょ、ぽ ん じょ !」 って くる
。
「ぽん じょ。 ぽんは話す。じょはお しっこ。小便 て言 うまでは私は知 らん 顔 して もんずけ、幼稚 園出の子が 「先生、お し
っこ。お しっこ」 って教 えるのは、岩本は 「止 め」 ないで 「お しっこじゃない小便」 と教 える。
その子 は 「先生、小便」 って言 うと 「行 って来 い。行 って来いって」。
教科書 を使 っての 日本語の教育 を岩 田は、 1 年生には 日本語は 「単語」 と掛図を使 って教 え た。「掛 図 を見せて‑た とえば先生がお って生 徒が頭下げてる図があると、その画面か ら想像 させ る。生徒が先生 に挨拶 しとるところとか言 うて、「おはようございます。」 と言葉 をだんだ ん教 えてです ね。」教科書 を読 むのは教員が範 読 して、「復唱 させ る」。
日本語 を教 えるのに一番 困ったのは、山下二 人同様 「ダ行の発音が全然 ダメ」で、 「泥棒 が 田んぼで転んで泥んこになったなんていう言葉 が、ろろほうが田んぼで、 こんな して "ど'が みんな "ろ"。 ラ行 にな ります な。泥だ らけに なったって、 ろろららけになった。何回 も反復 練習ですね。」
岩本 は、文体 に も注 目し日本語 と台湾語 を意 識 して教 えた。 「私 は 山家 に 行 きま した」
これ を台湾語で は 「私 は 行 きました 山家」
となる。
ー 25‑
1年生には 「学年主任」はいたが、子 どもへ の教授方法や内容等についての話 し合いは 「め ったに無かった」ので 「学級王国みたい」で 自 由に担任が教育で きた。
岩本は、低学年で も学習の遅れている子 ども に 「課外授業 をしていた」が立会 には、それを 打ちきって参加 した。
2)遊びを基軸
岩本の教員 としての信念 は師範卒業の時に教 育学の先生か 「服の汚れない先生にはなるな。
服の汚れる先生になれ !」 と 「結局子 どもがす がって くる」教員になれ、 といわれ、それを取 り入れた教育実践であった。子 どもが学校 は楽 しい とこだ と思えるように子 どもたちを教育 し たい と、考えていた。そのために学校生活で遊 びやスポーツ (相撲)を取 り入れ、放課後の生 徒 と共に過 ごしたいが、「なかなかね遊 びた く て も時間が取れな くて」、そ こで 日曜 日に子 ど もを順番に郊外へ連れ出 して、遊 びなが ら子 ど もと日本語で語 り、 自然に触れ自然に 日本語 を 取得 し語桑が豊富になり自然に親 しみ、人間的 な共感がで きる、異民族 を越えた師弟の杵が深 化 されたのであろう。 「日曜 日には私は必ず生 徒5、 6人ずつ連れて郊外 に遊 び」「みんなを 平等に連れ」出 し、岩本には休養 日はなかった のである。
他の郡で 「万引 き」 した子 どもが警察に捕 ま った。親の名前を言わないで岩本の名前を言い、
岩本の家族は子 どもを 「ひもじか 目に合わせた らいかんか らって‑握 り飯いっぱい作って‑・、 警察で引 き受け‑ひもじかったろうって飯食わ
した後、子 どもが喜んで、喜んで」いた。
岩本は戦後 「時々台湾帰って も先生は勉強教 えんかった もんね え。僕たちと遊んでぽっか り」
と言われる位、師範学校の教育を忠実に実現 し ていた教員である。
なお、同校 には有夫玉枝 (現佐藤、演習科卒) も 「管理法」の 「匡l府先生が繰 り返 し言われた ように、休み時間返上で」子 どもと 「縄跳び、
ドッチボール」等で遊ぶ ことを大切に した教員
であった。32
3)オルガンの交代授業不許可
玉川では、高学年 (「上学年」)の教師は、音 楽の授業はオルガンが弾けないと交代 していた。
岩本はそれを希望 したが 「普段 は優 しい小野校 長」が、上学年 は難 しいが 「君は2年生やない か。君は若い し、低学年だか ら君の交代授業は 認めん」、 と言われた。そこで好 きな 「乙女の 祈 り」 をバイエルやソナチネもや らないで独習
した。
同校 には、体育館 にピアノがあ り、金城 と二 人で 「ピアノを奪い合い」練習に励んだ。同校 の伊藤ヤヨヒ (現後藤)はピアノを目がけて走 っている2人が印象 に残 っている。岩本は、宿 直を頼 まれ宿直室が 「常直の ように」な り、用 務員が 「寝静 まってか ら」練習に励んだ。
その後岩本は、子たち達に自らピアノを弾 き 音楽を教えていた。
戦後岩本は熊本で模範的な合唱指導で一 目お かれる存在 となった。33
4)施設 ・設備等を担当
玉川公学校の正面の車回 しの真正面に立つ時 計台 (上に照明燈がった)は、道路か ら真正面 に見えて 「玉川の一つの顔」であった。その管 理を岩本は採用直後か ら敗戦 まで毎週月曜か ら 土曜 日まで、毎朝登校直後時計台に乗 って時計 を合 わせ、「正時に音」 を調べ るのが 日課であ った。その上に照明がついて国語講習所の夜学 で学ぶ人たちの安全 を見 まもっていた。
家弓が設計 したラジオ塔 は、グラウンドに面 した運動場にあった放送装置で何千人 と生徒が いる朝礼は、マイクを使用 して拡声 しないと通 じなかった。 ラジオ燈は他校か らも見学に来て いた。
岩本はガラス器具を持参で各組に出かけガラ ス修繕を担当 した。大 きな板 ガラスを切 るには 技術 を要すため岩本は、彼以外 「器具は絶対に 使 わせ ない」で、板 ガラス を切 ってはめる。
「いわゆる雑務 も私」 と岩本 は言 うが、大規模 校で一番若い男教員だか ら 「文句言わずはいは
い」 と職務 を全 うした。
後 にさらに 「金魚漕作 った ら」「フナ とか金 魚 とか、大 きな水槽が3つ並んで‑鑑賞魚」の 管理等が任 された。玉川では余人を以て代 え難
い、10年間であろう。34
4 女教具の質の向上 と使命感‑中畑澄江‑
1)教具の資格取得一最短距離‑
中畑澄江 (現岩崎)は 「最短距離」をとった 教員 となった。嘉義高女 を卒業 した1941年4月 か らは、15日間師範学校で講習を受け 「準訓導」
の資格 をもらい公学校 に務めた。講習が一緒だ ったのは、「100人」か 「70人位か」35定かでない。
事故が嘉義高女卒の教員養成の聞 き書 きの調 査 によると1941‑1943年は、卒業後台南師範で 講習を受けたのち教貞心得で就職 し 「9か月後 に準訓導」 とな り、その 「半年後に正教員」 と なる。1944年 までは、教員免許取得に関 しては、
上記 と同様であった。それが1944年度の高女卒 は、戦争激化に伴 う措置かと思われるが、出身 国民学校 (在学中は公学校)で講習を受けた。
45年卒は高女の4年の3学期 を全て教員養成の 講習の時間とした。1944‑45年卒は、全て母校 に就職 した。44年度に倉雪貞は白川、45年度に は鄭春葉は疎開先の竹崎、同年の母校の玉川に は欧識、林水連が採用 された。
嘉義中卒で郵便局勤務 を経て教員なら 「兵役 免除」の噂を聞 き頼彰能は、東門国民学校 (以 下東門と略記)に助教 として就職 した。同校 に は嘉義中の同級生が3名いた。 ところが台湾人 徴兵令第 1号で招集 され戦地で訓練 を受け敗戦 直後解除され、同校 に戻 った。36
1941‑45年 までの高等科卒は 「都市」の役所 の所在地で開催 した。嘉義邦は 「朴子国民学校」、
嘉義市は 「白川国民学校」で講習会を受けた。
嘉義高女の卒業 と同時に 3月か ら2ケ月間講 習を受けて、各国民学校の教員になった。嘉義 市内の東門には林淑慧、白川には洪清蘭、嘉義 郡の民雄の母校 には李教が配属 されたのである。
1943年の給与 は日本人は60円 (加俸込み)であ ったが、台湾人は38円であった。
それが翌1944年3月8日に嘉義高女 を卒業 し て教員になった倉雪貞達は、同月10日か ら3週 間の教員の講習を受けて、その最終 日の31日に は教員検定試験 を受けた。合格者は1年間の師 範学校講習科 を修了 した者 と同等の乙種本科正 教員の資格が取得で きた、 という。 しか し就職 時 には、教 員検定試験 の合否前であるために
「助教」の辞令で母校 の田之頭清校長の願い通 り唐雪貞は白川に採用 となったのである。同年 の夏休みには 「台南州主催の助教講習会」に参 加 (「各校か ら4‑5名」)した。盾雪貞の給与 は 「助教の時は28円」であったが、43年度 より 台湾人の教 員 に も訓導 には加俸がついたので
「訓導 になって 『一足飛びに』月報96円 となっ た」のである。37
中畑澄江 は教員 になった2年後の43年 に、
「優秀 な教員 を3ケ月師範学校で講習」 を給与 を貰いなが ら受 け 「訓導」 になった。「嘉義市 内か ら3人位」推薦 され受講 した。
中畑は受講中も5年女組の担任であったが、
6年に持 ち上が り高女入試に取 り組む。
2)進学指導
玉川の学 区は 「裕福」 な家庭が多 く生徒数
「70名近 くいた半分」 は受験希望者でその 「内 申書善 くのに困った」。
例年玉川では、 1つの組か ら2名位ずづ合格 していた。中畑は子 ども達の進学希望 を叶える ために、毎 日放課後 と休みの 日や空襲警報等で 授業がないときには、昼間 も自宅の隣の空 き家 の教員宿舎で学習指導をした。それを知ってい たのは宿舎の隣の五十嵐教頭位であった。その 結果、1944年度の嘉義高女に6年女子組で7名 が合格 (24回生)、台南第二高女に3名が合格
した。中畑は玉川始 まって以来の快挙であろう。
家政女学校 には日本人がいないため台湾の子 どもが何十人 も入れた。 しか し戦後になって生 徒か ら 「他の組か ら誰 も」高女に合格 しなかっ た、 と中畑は聞いた。その要因は、低学年か ら
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日本人の担任であ り 「優秀だった、良い子 はい っぱいいた」 と言う。中畑の取 り組み と母親の 応援や協力であろう。
中畑 を女教員 として成長 させ る基礎 を身に付 けた公学校の指導を見 よう。他の女教員や長瀬 百合子 (後述)にも見 られる指導である。
3)学内外での女教員の質の向上の取 り組み 六寮公学校の清水豊校長は、1941年度か ら中 畑 を採用 したが、念願叶っての 日本人の女教員 であった。中畑の教員宿舎は門構 えの校長 と教 頭の間にあ り、食事や風呂も校長宅や教頭宅で とるので、一緒に採用 された男教員 (長屋住 ま い)が羨 ましがるほど優遇 された。六寮には代 用の女教員が多 く国語講習所で教 えていた台湾 の女教員が3‑ 4名いた。 また青年学校 出の国 語講習所の教 員 もいたが、中には 「台南師範」
出の男教員 もいた。生徒は1学年2学級あ り生 徒 は各80名位いた。
担任 は男親 は女教員、女組 は男教員が担任 し た。国語講習所の専任が休むと中畑が代わ りに 夜 自転車で出かけたが、校長が送 り迎 をして く れた。
中畑 には校長が模範授業 を して くれた。「40 分の授業の流れ、授業の展開の仕方、 オルガン の弾 き方、清水豊校長は嘉義郡部では、一番上 手 な音楽の先生で ピアノよりもビオラが上手」
であった。
男教員は兵隊に行 くが女教員はそれがないた めに学校運営上貴重であったのであろう。 また、
同校では、 日本人の女教員に対す る期待 も大で あろう。中畑の教員生活の基礎 を清水豊校長が 培 って くれた。同校 は中畑にとっては 「師範学 校」的な存在であった、 という。現在 「考えた ら一番良い校長」であった。 また 「一番思い出 の深い学校で」約束の1年の離任時には 「全校 生徒 を道路に並べて、見送って くれた」。
中畑 は学務課の手違いで1年間に2校 (北港 の宮前 と新高国民学校) を経て、1943年度か ら 引 き揚げまで玉川国民学校に勤務 した。
43年度の嘉義市内では、助教の質の向上 を目
指 してか初任者に校 内や夏の講習会で研究発表 をさせている。東門国民学校の林淑慧が体挽の 研究授業をした。書写 を発表 したのは倉雪貞で ある。夏の講習会で も理科の研究授業や各教科 の研究授業で、生徒 は他校の生徒 を借 りて発表 した。その時は、校長が発表者を決めたところ もあ り、所属学校の先生方が協力 して教材 を集 めたと、盾雪貞 らは言 う。
5 決戦下の学校
戦争で非常事態 とな り 「満州か ら来た兵隊が 嘉義市内の学校 を宿舎に南方行 きを待機中」で あった。学校で夜 間に戦意昂揚の映画会がある と兵隊は 「お しろい」や 「お鰻頭」等 を女教員 に振 る舞う。教室に も 「ピアノ弾かせて」 と入 って くる。そこで兵隊 と結婚 した女教員 も何人 かいた。
他校の兵士達 も 「警戒警報が鳴ると玉川 (学 校)の前 (を)みんな車に乗って逃げて行 く。
兵隊 も疎開」 した。
このような状況の玉川では、校長室内には神 棚の他 に金庫 には教育勅語を保管 していた。校 長が教育勅語 を持 って防空壕に入った。防空壕 は畳一畳半位で学校の周 りの塀の際にあった。
防空壕 には生徒 は疎 開 していて、「ほ とん ど入 らなかった」 と、中畑はいう。
それが45年4月以降には、欧識 (母校玉川に 就職)によると、玉川では生徒 「全員 (が)郊 外に疎開」 していて 「生徒が一人」 もいない。
教員は 「20人余」いた、 という。
教員の数 も半数 となったが、教員 も 「体護る」
ために自主的に疎開 したためである。 日本人で 玉川に残った教員は児玉校長 と五十嵐教頭 (級 述、兵隊に行 く) と、大部、本部、岩本 と中畑 で 「校長先生の周 りにいた」教員であった。台 湾の 「年配の先生」 や寮順 (敗戦後校長) は
「疎開 しない」が、嘉義市内が半分焼失後 に就 職 した欧識達は疎 開先か ら玉川に出勤 していた。
中畑 も校長 と五十嵐教頭の三家族が、学校か
ら徒歩30分位の郷里の市会議員の別荘 を借用 し て玉川に通勤 した。38 玉川では、毎 日空襲警報 がなると防空壕 に避難 して解除されると、教員 は 「やることもないのでお喋 り」 をして帰宅 し た、 と欧講はいう。39
教育 どころではない市内の教員は疎開地に派 遣 した。45年度の途中か ら敗戦後招集 された斗 六小学校 (12学級)の3名の男教員が帰校する 間の補充を、生徒のいない嘉義市内の学校の女 教員3名が派遣 された。その 1人が中畑で1年 生 を担任 した。40
6 玉音放送 と敗戦後
1)玉音放送
45年8月15日の玉音放送は「直立不動の姿勢」
で聞いた。玉川では、欧識連教員は児玉 「校長 の宿舎の前庭でラジオ」で玉音放送 を聞いた。
欧は 「みんなの気持ちはさまざまで した。台湾 人は (台湾光復)だ と歓呼の人は沢 山で した」
と。 また、台湾人が 「嬉 しかった。伸び伸 び台 湾語がつかえるようになった」人 もいるが 「日 本が負けたことを聞いてびっ くりした」。「残念 だった」 という教員 もいた。「日本人の先生 は 涙 を流 した」。「学校で急にお互い同士で台湾語 をはなせる」。41
中畑 も疎開先 (斗六)で 日本人の1年生にも、
「負 けたのが分かるらし」 く 「日本が どっか行 かな くちゃいけないの」 と聞かれた。
斗六の男教員は招集解除により敗戦後学校 に 戻 ったが、 1名が 「軍刀」を 「提げて」出勤 し た。 日本人女教員たちは 「戦争に負けたんだか
らそんな軍刀 もうおか しいか ら、外 しなさい よ」
って言う一幕 もあった。
そこで中畑 も斗六か ら玉川に戻 ると児玉校長 は 「ご苦労 さんだったね」 と言った。中畑は、
玉川 を最後 まで護るのは男教員たちと思い、疎 開をしなかった岩本たちの方が酷かった、 と。
そこで疎開地には、女教員である中畑は 「私が 行 くよりはかない」 と斗六に行ったのである。
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2)敗戦後
除隊後の教員や渡台後 日が浅い教員達は特に 生活 に困窮 し 「米にも困るような状態」になっ た。教員たちは 「着物やあるもの」 を売ってい た。台湾での生活基盤が確立 していた高女出の 教員免許を取得 していた中畑の母親は、良妻賢 母で 「恩給」生活 も堅実 さが功 を奏 した。 また 台湾人の 「ねいや」が農家で米や卵等 「随分貰 っていた。それ らを教員宿舎の家族に分けてい た ら Fおばさん助けて、おばさん助けて』 と教 員の奥 さんが きた」。見かねて 「たいや きみた いの作 って売 る」 ことを提案 し、実際に自宅で 作 ってみせた。それを 「売ればその 日のお金に なる し、みんなでやれば恥ずか しいこと無いの よ。先生 してたって もう食べないわけいかない」
厳 しい生活であった。
その様 な教員を台湾人は 「1945年10月頃には 家財道具を売る日本人教員が帰 る」ので 「生活 のため」に 「今 まで命令を下 したのは昔のこと」
と思った。 また、学校の教職員会議 も台湾語に なって、台湾語で教 える。それが北京語に変わ り、台湾の教員はそれ らを前夜 に習い、翌 日子 どもに教 えるという大変 さはあったが、民族 自 立の希望を持って、大変 さにも喜んで望めた。42
担任の子 ども達 との分かれや引 き上げの惨め な姿 を子 どもに見せた くない。 日本人教員の苦 悩 と子 どもの純な情感が痛 ましい。
中畑が敗戦で 日本に帰国することを子 どもに 話す と、「私 も連れて帰 って くれ、 つて泣いて 泣いて」。引 き上げの集結地に 「む しろ引いて」、
持参 した 「布団引いて寝た」が、その姿を子 ど もには見せた くないので話 さなかった。そこま で子 どもが探 してきて 「連れてって。連れてっ て」 って。「3日位泣いていた」 と。43
3)台湾人の寛大 さ
教頭の五十嵐は、「1945年3月に軍隊に召集」
され敗戦 とな り、「9月15日除隊」後玉川に 「挨 拶 に行 く」と 「黍順」が校長になっていて、五十 嵐 と 「大部先生の二人は引続 き当校で勤務」 と いわれ、 2人の教員宿舎の居住が認め られた。44
また、中畑 も同校 に勤務 している。
東門で も日本人教員が1‑2名新体制の学校 に残 ったが、「慎 ましく遠慮 していた」。 白川で は、「いつの間にか 日本 人の先生 はいなかった」。
玉川の 日本人岩本は敗戦で学校 には行かないで 肉体労働 をしたが、いつの間にか条件の悪い と ころが 日本人になったので止めて、親族の仕事 を した。45
玉川には1945年 「十月半頃、玉川校 に中国軍
‑ ケ師団が進駐」 したので、 「職 員で将校連 の 慰労会」 をした。 日本人教 員は 「末席で肩身狭 い思いで座って居た処、師団長が私達 を自分 の 近 くに呼 んだ。「今 回の戦争で 日本 は負 け ま し たが、 日本人は非常 に優秀で、近い将来亜細亜 の先進国 として必ず繁栄す るだろう、 この二人 の先生 を決 して侮蔑 してはいけない」 と。五十 嵐は 「師団長の人柄 に頭が下が り、 日本人の狭 量 さが反省 された」、 と。46
台湾の1945年8月15日、 日本の敗戦が知 らさ れた 日の夕食 中、「抗 日運動で投獄 された」 父 親が、 中学校2年生 の戴囲帰 に向か って、 「恩 義 は1年、怨恨 は一生、 と人 々は言 う。悠久 な 歴 史を持つ中華民族の一員 として、 われわれは その道 を行 くべ きだろう。 日本 人‑の恩義 は一 生感謝 して行 くべ きだ。特 に素晴 らしい教 師へ の恩義 は忘れてはな らない」、 とい う。 それ を 聞いた息子 は 「抗 日運動で投獄 されたことのあ る父の言葉 を聞いて、中学2年生の私は、全 く 複雑 な気持 ちだった」、 と述懐 している。47
この ことは、玉川の五十嵐が聞いた前述 の将 校 の寛大 な中華民族の懐の寛 さと深 さであろう。
嘉義や高雄で 日本人教 員に対す る敗戦後の暴 言 は聞いていない。
台湾 の校 長先生 は 日本 人 の 中畑 か ら見 て も
「立派 な人で した」 とい うが、 その選定 は言 う まで もな く台湾人の手によって実施 された。東 門の20代 の若い頼彰能に も参加が要請 され、参 加者が真剣 に話 し合 い48 筆者 か ら見る と、公 平 に民主的に台湾の校長選定 を行 った と思 われ る。
Ⅰ 平和国民学校
1戦時下の師弟の鮮
平和国民学校 (以下平和 と略記)では、師弟 関係が濃密で校長 は生徒 の学習は勿論、中等学 校等の入学の奨励やその指導、生活や就職の世 話、「結婚 問題 の配慮」等 を した。就職の一つ には高等科卒の優秀 な卒業生 を教員に採用 して、
検定試験 に合格 させて正教員 としていたが、後 に校長 となった林守盤 (改正名後松林成守)や その教 え子張 自流がいた。斉藤牧次郎は18年間 80余名の 日台の教 師が不満 を一切言わないで よ
くやった、 といっている。
3代校長斉藤牧次郎 (1906年8月〜1923年10 月まで18年 間) は卒業生や親たちにも絶大 な信 頼があった。斉藤の教育信念等 は下記の通 りで ある。
「只お勅語の御精神 をその ま ゝいただ き、そ れに台湾高雄 とい う郷土の特殊性 を考慮 して、
敏捷、忠実、進歩 の3項 目を校 訓 として挙げ、
指導原理 とした (1908年〜1923年 「作業科」 を 設置)。 また、「同化の根本精神 は至情主義の教 育 を原則 とせねば ならぬ。至情 的実践 には必ず 至情 的反応が現 はれ此の事実が反復転廻せ られ る間に内台‑如の紐帯が結 んで解かない様にな る。‑即ち情 に始 っで情に終 る間に其の効果 を 表はす事になると思 い ます。唯私共の遺憾 とす るのは下級官吏が不謹慎 な行動です。本島人中 に反発 を抱 きいる者 は皆此の不謹慎 に発芽 して いるのです。故 に官 に於て此の矛盾 を避け教 に 此情 を重ん じ相侯 って遂ひには同化 は口にす る には及ばない時機 に達す る事 と思はる ゝ」、と。49
それ らを卒業生の王天質 らは 「一視同仁の聖 旨を奉体 して誠心誠意母校 々運の発展や教育の 為」につ くし同校 を 「州下有数の模範校」 に し た。大山正義 は斉藤 を 「統治上の功労者」 と述 べている。同校 は下記の ことか らも大正新教育 が実施 されていたので ある。「全 島に冠 たる校 風の確立に、校友会の 自治的菅生に、児童 自営