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〔『篁物語』の総合的研究(2)〕
承空筆『小野篁集』による 校訂本文作成の試み
中 村 一 夫
『篁物語』『小野篁集』は主に江戸初期に書写された『篁物語』枡形本(彰考館 蔵・甲本)によって読まれてきた。『日本古典文学大系』(岩波書店)に所収のも のをはじめ、これまでに公刊された各種の校注本や校本の類も、同本を底本とし て本文が立てられている。
しかし、2002 年に鎌倉時代後期に写されたとされる承空筆『小野篁集』袋綴 本(冷泉家時雨亭文庫蔵)が新資料として公開された。江戸初期に写された彰考 館蔵甲本・乙本や宮内庁書陵部蔵本と近しい本文を有するものの、細部にはなお 検討すべき相違点が存在する。承空本についての研究はまだ緒に就いたばかりで あり、これの詳細な調査、考察や残されている伝本との相対的な関係性の解明な どが急務であることは言うを俟たない。
そこで、この鎌倉期書写の承空本を読むために、これを底本とした校訂本文を 作成することとした。本文の質をうかがう伝本間の異同の状況を考慮することは 必要であるが、まずは書写年代の古いものを読むべきであり、そのための校訂本 文が必須であるとの判断からである。本文を整えるに当たっての方針については、
すべて以下の凡例に記した。
凡例
1 本文は、承空筆『小野篁集』袋綴本(冷泉家時雨亭文庫蔵)を底本として用 いた。文意不明の箇所については、『小野篁集』(宮内庁書陵部蔵)、『篁物語』
枡形本(彰考館蔵・甲本)、『篁物語』袋綴本(彰考館蔵・乙本)を参照したが、
底本の本文を尊重し、手を加えないことを原則とする。
2 読みやすさを考えて、底本の片仮名漢字交じりの表記を平仮名漢字交じりに 改めた。またエピソードごとにまとめて、それぞれに小見出しを付した。
3 本文は、底本をできるだけ忠実に活字化することを期したが、仮名遣いを歴 史的仮名遣いに改め、適宜仮名に漢字をあてた。宛字は普通の表記に戻した。
字体はすべて通行のものとした。
4 送り仮名は現行の基準に従って補った。
5 校訂者の理解するところに従って、濁点を施した。
6 底本に使用される踊り字は用いず、文字を繰り返して表記した。
7 段落に分けて改行し、句読を切り、会話や心話などを鉤括弧で括った。
8 原本の表記はルビとして記した。本行とルビを辿ると、承空本の本文となる。
なお解釈の難しい箇所については、ルビに「ママ」を付し、原文の形を残した。
今後の課題とする。
9 原本になく、校訂本文に追加した箇所はルビに「・」を付した。
10 和歌の詠者を〔 〕に括って、歌の冒頭に示した。
11 彰考館本や書陵部本と校合して掲げるべきだと判断した異同を稿末にまとめ て示した。主にいわゆる自立語の異同を取り上げている。
参考文献
財団法人冷泉家時雨亭文庫編『冷泉家時雨亭叢書 承空本私家集 上』(2002 年)
平林文雄・財団法人水府明徳会編著『増補改訂小野篁集・篁物語の硏究 影印・
資料・翻刻・校本・対訳・硏究・使用文字文責・総索引』(2001 年)
平林文雄「承空本片仮名書本『小野篁集』対校本」(「文学研究」vol.95、2007 年 4 月)
安部清哉「『篁物語』承空本(「小野篁集」)に関する研究課題」(「人文」7 号、2008 年)
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小野篁集(冷泉家時雨亭文庫蔵・承空本)
第一部
一 篁と女の出会い
親おやのいとよくかしづきける人の娘むすめありけり。女のする才ざい1のかぎりしつくして、
今いま
は「書ふみ読よません」とて、「博は か せ士にはむつかしからん2人をせん」とて、異こと腹はらの 子のかみ、大だい学がくの衆しうにてありけり、異こと腹はらなれば、うとくて、「あひ見みず」などあ りけれど、「知しらぬ人よりは」とて、簾すだれ越ごしに、几木帳丁立たててゝぞ読よませける。
この男おとこ、いとをおかしきさまを見みて、すこし馴なれゆくままゝに、顔かほを見みえ、物語がたりな どもして、文ふみのてう3いふ物を取とらせたりけるを見みれば、角かう筆ひち4して歌5をなん 書かきたりける。
〔篁〕中なかに行ゆく吉よし野ののゝ川かははゝあせななゝん妹いも背せの山を越こえて見みるべく とありければ、「かかゝりける」と心遣づかひしけれど、「情なさけなくやは」とて、
〔女〕妹いも背せ山かげだに見みえてやみぬべし吉よし野のの川かははゝ濁にごれとぞ思おもふ 又、男おとこ、
〔篁〕濁にごる瀬せはしばしばかりぞ水みづしあらば澄すみなんとこそ頼たのみわたらめ 女、
〔女〕淵ふち瀬せをばいかに知しりてか渡わたらんと心を関せき6に人の言いふらむ 男おとこ
、
〔篁〕身のならん淵ふち瀬せも知しらず妹いも背せ川おりたちぬべき心こ ゝ ち地のみして かく言いふ程に、人憎にくからぬ世よなれば、いとけふとくなかりけり。
二 師走の月夜、篁の思い
師し は す走の十も五日頃ち ころ、月いと明あかきに、物語がたりしけるを人見みて、「誰たれぞ。あな、すさまじ。
師ゝ は す走の月夜ともあるかなん」と言いひければ、
〔篁〕春を待まつ冬の限かぎりと思おもふにはかの月つきしもぞあはれなりける 返し、
〔人〕年としを経へて思おもひも飽あかじこの月はみそかの人やあはれと思おもはむ
かく言いふ程に、夜更ふけにければ、「人うたて見みむも物の」とて、入り・にけり。男おとこは、
曹さう
司しにとみにも入いらで、嘯うそぶきありきけり。
さて、あしたに、久ひさしう書ふみ読よませざりければ、父ちゝ主ぬし、「あやしう篁たかむらが見みえぬかな」
と言いひて、呼よびにやるに、おどろきて7、例れいの書ふみかき集あつめて教をしへけるままゝになむ、
この女のみ心に入り・て、僻ひが事をのみなむ、しける。かう教をしふる中に、角かう筆ひち8して、
「かやうの物の書ふみ9は、僻ひが事ごとつかまつるらむ。この頃ころはもの覚おぼえずや。
〔篁〕君をのみ思おもふ心は忘わすられず契ちぎりしことも惑まどふ心か 返し、
〔女〕はかせ博士とはいかがゝ頼たのまむさとられず10もの忘わすれする人の心こゝろを 又、男おとこ、
〔篁〕読よみ聞ききゝてよろつの書ふみは忘わするとも君 一ひとり人をば思おもひもたらむ かくて、この男おとこはい、てふくみをぞ常つねに作つくりかへりける。返
三 稲荷詣でにて
さて、この女、願ありて、如きさらぎ月の初はつ午むまに、稲い な り荷に参まいりけり。供ともに人多おほくもあらで、
大お と な人二人、童わらは二人ぞありける。大お と な人は色々の袿うちき、二ふ た り人は同おなじ11をなむ着きたりける。
君は、綾あやの掻かい練ねりの単ひとへ襲かさね、唐からの薄うす物の桜さくら色の細ほそ長なが着きて、花はな染ぞめの綾あやの細ほそ長なが折おりてぞ 着きたりける。髪かみはうるはしくて、丈たけに一尺ばかり余あまりて、頭かしらつきいと清きよげなり。
顔かほ
もあやしう世よ人には似にず、めでたうなむありける。男おの童わらは三四人、さてはこの 兄せうと
とゝぞありける。まほ12にはあらねど、先さき立たち遅をくれて来きける。詣まうでざまに困こうじ にければ、兄せうといとほおしがりて13、「篁たかむらにかかり給へ」とて寄よりければ、「いで、い ないな」と言いひて、道みち中に居ゐにけり。
さる程に、兵衛佐より14の人、容か た ち姿清きよげにて、年とし二廿十ばかりなりけるが、詣まう であひて、かへさに、女の道みちに居ゐたる、「あな苦くるし。かくてやは出いで立たち給へる」。
もの嫉ねたみして、男おとこ申す・に、「かもは車15作つくりて、乗のせ奉たてまつりて16、このわたりなる きさきの峯みね17に据す えゑ 奉たてまつらむ。女の事18には大だい王わう、帝さかとには誰たれをかと」言いふ程ほどに暮く れにければ19、破わ り ご籠探さがして食く わはせんとするに、この佐すけをやりすぐす。この男おとこ、休やす むやうにて、降おりて、
〔兵〕人知しれず心糺たゝすの神ならば思おもふ心をそらに知しらなむ 返し、
〔女〕やしろ社にもまだきね据す えゑず20石いし神がみは知しること難かたし人の心こゝろを 又もおこせけれど、この兄せうと、いそがしく、車ゝるまに乗のせて、率ゐて去いぬ。
この佐すけ、人をつけて、「いづくにか、率ゐて去いぬる」と見みせければ、「その家いゑ」と 見みてけり。あしたに文ふみあり。「神の教をしへ給たまへしかばなむ。さして奉たてまつる。かの石いしがみ神 の御もとにて、今け ふ日あらば」。文ふみを取とり入れ・て見みれば、この兄せうと、出いで走はしりて、「父ちゝ 主ぬし
も聞ききゝ給たまふに。いとも物の騒さはがしく。この童わらははゝいづくから来きたるぞ。いづれのす き者物の使ぞ」と言いひければ、「御文ふみは奉たてまつらせつれど、昨日いませし主ぬしの、『いづ れの使つかひぞ』との給を、うちからは翁おきなびたる声こゑにて、『何なに事ぞ』などの給たまひつれば、
わづらはしさになん、参まうで来きぬる」と言いひければ、「とうめの童わらは」と言いひて、又 のあしたに、「昨日の御返。たびた/び\、いとおぼつかなし。この童わらはの、あとはか なくて参まうで来きにしかば。
〔兵〕あとはかもなくやなりにし21浜はま千ち鳥どりおぼつかなみに騒さはぐ心こゝろ22か
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この兄せうと、大だい学がくに出いでにけり。樋ひすましわらは洗童、取とり入れ・て奉たてまつる。文ふみをも取とり、「大だい学がくの 主ぬし
もぞ見みつくる。近ちかからん、人の家いゑに据すゑよ」とて、「昨日も見みしかど、いさや。
〔女〕玉たま鉾ぼこの道みち交かゐひなりし君なればあとはかもなくなると知しらずや」
見みて、「ざれたるべき人かな。うたて、まがまがしうもいりたるかな。いかに言い はまし」と思おもふ。時の大納言の子なりけり。「あとはかもなしと、誰たれも。道みちにこ そ入いり給たまへりしか23。
〔兵〕ししばはしすばこ 24にあとはかなしと言いふ事も同おなじ道には又またもあひなむ」
また、これを例れいの童わらは、もて来きたり。兄せうと、道みちにさしあひて、「今いま、これより」と言い ひて、やりてけり。「かくなむ」と言いへば、「例れいの心こゝろ肝きももゝなき童わらはかな。先さきに気け し き色あ しう言いひけむ人にや取とらすべき。この稲い な り荷にて、まならひものしげに思へりし者物 ぞや。男おとこよりの物ぞや。そもそ/も\、御返り・」とりてやりつ。御返り・にくしと思おもふ も物ののやに、兄せうと、出いであひて、「御文ふみたてまつ奉り給ふ・人は、夜べ男おとこに盗ぬすまれ給たまひにしかば、
求もと
めにゆくぞ。もし、この御文ふみ給たまへる人とも知しらず。そち率いてゆけ25」と言いひけ れば、しりへ答こたへに答こたへて、走はしりにけり。
「さもあらん」と言いひて26、文ふみもやらずなりにけり。女、兄せうとの謀はかりたるとは知しらで、
「あやしう訪をとづれぬ」と思おもふをおり。この兄せうと、例れいのごとあるなり。「道みちあひ人の、知しり も知しらぬ人に、文ふみ通かよはし懸け想さうじ給たまふ人の御心にこそありけれ。かの人は、御妻めに やがてあはせ奉たてまつらん。仲なかると人27こそよからめ。許ゆるされ給たまひては28不ふ用よふぞ」など言い ひければ、「なでう、目めにかつかん。いかに知しりてか、ともかうも思おもはん」。「世 を知しらざらん人は、さやうにも言いはでこそあらめ。見みつかずの御ありさまや。心 うし。思おもはずなり」など言いへば、妹いもといとおしうて、「なにか目めにちかざらん人を、
しひも見み給たまへと思おもはん」とて、入いりにけり。
四 深く心を通わせる篁と女
例れいの書ふみ読よみて、「内ない侍しになさん」の心ありて、親おやは書ふみを教ゝしふるなりけり。文ふみかよ通 はしにはしマらマたれど29、この兄せうと、 心をまどはして、思おもひ出いでられけり。男おとこ、言い ふやう、「かく思おもひ出いでられ、限かぎりなき心を思おもひしらずして、よそなる人を思おもひ 給たま
へるこそつらけれ。
〔篁〕目めに近ちかく見みるかひもなく思おもへども心をほかにやらばつらしな と言いひければ、「人の御心も知しらずや。
〔女〕あはれとは君ばかりをぞ思おもふらむやるかたもなき心とを知しれ 重おも
くある注や30」と言いひければ、すこし心ゆきて、 (注:「る」見せ消ち「な」傍記)
〔篁〕いとどしく君が嘆なげきのこがるればあらぬ31思おもひも燃ゝええまさりけり かく言いひて、心は通かよひけれど、親おやにもつつゝみ、人にもさはりければ、心とけて 久ひさ
しくも語かたらはずあり。されど、いかでか入いりけむ、この妹いもうとの寝ねたる所へ入り・ にけり。いと忍しのびて、また夜深ぶかく出いでにけり。たまさかに入いりは入いり・たりけれ
ど32、逢あふことは難かたかりけり。常つねに向むかひにければ33、夜よるは逢あはず、な中かなかに/ \ 心はそらにて、「いかにせん」と思ひ・嘆なげきて、
〔篁〕うちとけぬも物のゆゑへ夢ゆめを見みて34飽あかぬもの思おもふ頃ころにもあるかな 返し、
〔女〕ゐを寝ねずは夢ゆめにも見みえじを逢あふことの嘆なげく嘆/く\も明あかかし果はてじを かく夢ゆめのご事とある人は、妊はらみにけり。書ふみ読よむ心地もなし。「例れいの障さはりせず」など、
うたてある気け し き色を見みて35、この兄せうとも、「いとほをし」と見みて36、人/々\ 37春はるのこ事とに やありけむ、ものも食くはで、花はな柑か う じ子・橘たちばなをなむ願ねがひいける、知しらぬ程ほどは、親おや求もとめて 食くはす、兄せうと、大だい学がくの主あるじするに、「皆みな取とらまほし」と思おもひけれど、二三ばかり、畳たゝう 紙がみ
に入れ・て取とらす。
「〔篁〕あだに散ちる花 橘たちばなの匂にほひには緑みどりの衣きぬの香かこそまさらめ これをきこしめすなればなむ」。返事に、「御 懐ふところにありければなむ、
〔女〕渡わたりとや38花 橘たちばなを嗅かぎつれば緑みどりの香かさへうつらざりけり」
五 引き裂かれる二人
かかゝることを、母はゝおとどゝ聞ききゝ給たまひて、も物のもの給はで、うかがゝひ給ひ・て、向むか ひ給たまひたりけるを、手てを取とりて、引ひきもていきて、部へ屋やに籠こめてけり。これを、
父ちゝ
主ぬし
聞ききゝ給たまひて、のどかなりける人なりければ、「男おのこもかしこき者物にて、女 幼おさな き者物にあらず。さしたるやうあらむ。なほ許ゆるし給たまひて、の給たまへ」とありければ、
「おをのが身を思ふとて、の給ふ・に」とて、いよい/よ\鍵かぎの穴あなに土つち塗ぬりて、「大だい学がくの主ぬし をば、家いゑの中にな入れ・そ」とて、追おいければ、曹ざう司しに籠こもりゐて、泣なきけり。妹いもうとの 籠こも
りたる所に行いきて見みれば、壁かべの穴あなのいささゝかありけるを、くじりて、「ここゝも とに寄より給へ」と呼よび寄よせて、物語がたりして、泣なきをおりて、出いでなまほしく思へど も、まだいと若わかうて、ねマたりたべきマ 39人もなく、わびければ、ともかくもえゑせで、
いといみじく思おもひて、語かたらひをる程に夜明あけぬべし。男おとこ、
〔篁〕数かずならばかかゝらましやは世の・中にいと悲かなしきは賤しづの緒をだまき 返かへ
し、
〔女〕いささゝめにつけし思おもひの煙けぶりこそ身を浮うき雲となりて果はてけれ と言いひて、泣なきあへりけり。
六 女の死
夜よ明あけにければ、曹ざう司しに帰りて、この女をんな食くひつべきやうに40、物をか返へて、持も ていかんとするに、心まどひして41、足あしもえ踏ふみ立たてず。も物のおぼえざりければ、
むつましう使つかふ雑ざう色しきを使つかひにて、「ただゝいま心地あしうて、え参まいり来こず。その程ほどこ れすき給たまへ。ためらひて参まいらむ」。女、穴あなのもとにて待まつに、かく言いひたれば、
〔女〕誰たがためと思おもふ命いのちのあらばこそ消けぬべき身をも惜おしみとどゝめめゝ
101
取とり入れず。帰返り・て、「かくなん」と言いひければ、かしこかうして、またま/た\行 き・て見みれば、三四日物も食くはで、も物のを思おもひければ、いとくちをおしう息いきもせず。「い かがゝおはします」と言いひければ、
〔女〕消きえ果はててゝ身こそはるかに42なり果はてめ夢ゆめの魂たままで43君に逢あひ添そへ 返し、
〔篁〕たましゐ魂は身をもかすめずほのかにて君まじりなばなににゝかはせむ
とて、よろづの事を言いひて泣なけど、答いらへせずなりにければ、「死しぬ」とて泣なき騒さはげば、
声声を聞ききゝて、ときあけて見みれば、絶たえゑ入いる気け し き色を見みて、まどひ出いでてゝ 44、ほかの 家いゑ
に往ゐにけり。親おや出いでてゝ後のちに、出いで、率ゐて入いりて、見みれば、死しにて臥ふせり。泣なき 呼よべど45、かひなし。
七 女の霊魂と篁のその後
その日の夜よさり46、火をほのかにかきあげて、泣なき臥ふせり。あとの方かたそそゝめき けり。火を消けちて見みれば、添そひ臥ふす心地しけり。死しにし妹いもうとの声こゑにて、よろづの悲かな しきこ事とを言いひて、泣なく声こゑも言いふことも、ただゝそれなれば、もろともに語かたらひて、
泣なく泣/く\さぐれば、手てにも触さはらず、手てにだにあたらず。懐ふところにかき入れ・て、我身の ならんやうも47、臥ふさまほしきこ事とかぎりなし。
〔篁〕泣なき流ながす涙なみだの上うへにありしにもさらぬあはぬ48浮うかべる 女、返し、
〔女〕常つねに寄よるしばしばかりは泡あはなればつひゐに溶とけなむことぞ悲かなしき と言いふ程に、夜明あけにければ、泣なく49。
親おやは捨すててゝ往ゐにければ、とかくをおさむることは、ただゝこの兄せうとぞしける。人はみ な捨ててゝ行き・にければ、兄せうと50、従す ん ざ者三四人、学がく生さう一人して、この女を死しにける親おやを、
いとよく払はらひて、花はな・香かう焚たきて、遠とをき所に火をともしてゐいたれば、この魂たましゐ51、夜よ な夜/な\来きて語かたらひける。三七日、いとあざやかなり。七日52、時/々\見みえけり。こ の男おとこ、涙なみだ尽つきせず泣なく。その涙なみだを硯すゝりの水にて、法花経を書かきて、比ひ叡えの53七日 のわざしけり。その人、七日はなし果はててゝも、ほのめくこ事と絶たえざりけり。三年 過すぎては、夢ゆめにも確たしかには見みえざりけり。なほ悲かなしかりければ、初はじめのごとして なむまかせたりける。妻めにも寄よらで、一ひとり人なむありける。
第二部
一 篁と右大臣の娘の結婚
時の右大臣の娘女賜たまへと、文ふみをおもしろく作りて、内うちに参まいり給たまふうとて、御車くるまより 通とほ
り給たまふことに54、ついふるまひて、奉たてまつれ侍る・に55、取とりて見み給たまひ、「 承うけたまはりぬ。
今いま
、家いゑにまかりて、御返り・聞きこえん」との給ふ・。大だい学がくに入り・にけり。殿に帰かへり給ひ・ て56、御娘女三人おはしけり、大君に、「しかじ/か\のことなむある。いかに」と聞きこ えゑ給へば、怨えじて、泣なきて入り・給ひ・ぬ。中の君、同おなじ事聞きこえ給ふ・。三の君に聞きこ え給ふ・。「ともかうも、仰おほせ言ごとにこそ従したがはめ」との給へば、いと清きよげに寝しむ殿てむ造つくり て、よき日ひして呼よび給ふ。御消せう息そこ57ありければ、いと悲かなしう、橡つるばみの衣きぬの58やれ 困こう
じたる着きて、てゝりゐたる59沓くつ履はきて、ふくめる文ふみのなく60取とりて、来きにけり。
帳たう
の内うちに入いりて、まづこの文ふみ巻まきを賜たまへれば61、取とり給たまはねば、 篁たかむら差さして行いけば、
この君、皮かはの帯をびを取とりて、引ひき止とめ給たまへば、止とまり給ひ・にけり。これを垣か い ま間見みて、
父ちゝ
大お と ゝ臣、見み給ひ・て、「いとかしこうしつつ」喜よろこびび給たまふ。「出いでてゝ往いなまし。いかに 人聞ききゝやさしからまし。いとかしこきことなり」と喜よろこび給ふ・に、一日の夜62、い といかめしうして63待まち給たまふ。ただ童わらは一ひ と り人ぞ具くし給たまひける。
二 女の霊魂とそれを知った妻
さて、この頃ころ、妹いもうとのある屋や 64に行ゐきたりければ、いと悲かなしかりければ、寝ねにけり。
妹いもうと
、
〔女〕見みし人にそれかあらぬかおぼつかなも物の忘わすれせじと思おもひしも物のを と言いひければ、かの殿にもいかでぞ泣なきをりける。久ひさしう来こねば、大殿65、「あやし」
とおぼしけり。七日ばかりありて、来きたり。「などか見みえ給たまはざりける」との給たまへば、
素す直なをなりける人にて、こと隠かくして言いひければ、妻め、「いとあるべかしき事にて、
あはれの事や。我がためにも、さらずはおはせめ、わいてもこそは、むかし人は 心も容か た ち姿も、さも物のし侍り・ければ66こそ、年としを経へて、え忘わすれがたくし給たまふらめ。
さる人を見み侍り・ 67けんに、言いひ知しらで見みえ奉たてまつるよ。後のちの世いかならむ。
〔三君〕飽あかずして過すぎける人の魂たましゐに生いける心を見みせ侍る・ 68らむ
あな、はづかし」との給ふ・に、男おとこ、「なにか、それはおぼしめす。かくては、果は てはえ知しろしめさじ。御 魂たましゐのあるやうも見みるべく、試心みにさへやなり給たまはぬ」とて、
〔篁〕別わかれなばをのがたまた/ま\ 69なりぬともおどろかさねばあらじとぞ思おもふ 出いでてゝまかりしを引ひき止とゝめて、今け ふ日までさぶらはせ給ふ・。うるさしかし」と言いひ ける。
三 篁という人
この男おとこは、若わかき間あひだは、いと懇ねむころに見みえで70、他ほかに夜よ離がれなどもしけり。なり出い