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承空筆『小野篁集』による 校訂本文作成の試み

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95

〔『篁物語』の総合的研究(2)〕

承空筆『小野篁集』による 校訂本文作成の試み

中 村 一 夫

 『篁物語』『小野篁集』は主に江戸初期に書写された『篁物語』枡形本(彰考館 蔵・甲本)によって読まれてきた。『日本古典文学大系』(岩波書店)に所収のも のをはじめ、これまでに公刊された各種の校注本や校本の類も、同本を底本とし て本文が立てられている。

 しかし、2002 年に鎌倉時代後期に写されたとされる承空筆『小野篁集』袋綴 本(冷泉家時雨亭文庫蔵)が新資料として公開された。江戸初期に写された彰考 館蔵甲本・乙本や宮内庁書陵部蔵本と近しい本文を有するものの、細部にはなお 検討すべき相違点が存在する。承空本についての研究はまだ緒に就いたばかりで あり、これの詳細な調査、考察や残されている伝本との相対的な関係性の解明な どが急務であることは言うを俟たない。

 そこで、この鎌倉期書写の承空本を読むために、これを底本とした校訂本文を 作成することとした。本文の質をうかがう伝本間の異同の状況を考慮することは 必要であるが、まずは書写年代の古いものを読むべきであり、そのための校訂本 文が必須であるとの判断からである。本文を整えるに当たっての方針については、

すべて以下の凡例に記した。

凡例

1 本文は、承空筆『小野篁集』袋綴本(冷泉家時雨亭文庫蔵)を底本として用 いた。文意不明の箇所については、『小野篁集』(宮内庁書陵部蔵)、『篁物語』

枡形本(彰考館蔵・甲本)、『篁物語』袋綴本(彰考館蔵・乙本)を参照したが、

底本の本文を尊重し、手を加えないことを原則とする。

2 読みやすさを考えて、底本の片仮名漢字交じりの表記を平仮名漢字交じりに 改めた。またエピソードごとにまとめて、それぞれに小見出しを付した。

3 本文は、底本をできるだけ忠実に活字化することを期したが、仮名遣いを歴 史的仮名遣いに改め、適宜仮名に漢字をあてた。宛字は普通の表記に戻した。

字体はすべて通行のものとした。

(2)

4 送り仮名は現行の基準に従って補った。

5 校訂者の理解するところに従って、濁点を施した。

6 底本に使用される踊り字は用いず、文字を繰り返して表記した。

7 段落に分けて改行し、句読を切り、会話や心話などを鉤括弧で括った。

8 原本の表記はルビとして記した。本行とルビを辿ると、承空本の本文となる。

なお解釈の難しい箇所については、ルビに「ママ」を付し、原文の形を残した。

今後の課題とする。

9 原本になく、校訂本文に追加した箇所はルビに「・」を付した。

10 和歌の詠者を〔 〕に括って、歌の冒頭に示した。

11 彰考館本や書陵部本と校合して掲げるべきだと判断した異同を稿末にまとめ て示した。主にいわゆる自立語の異同を取り上げている。

参考文献

財団法人冷泉家時雨亭文庫編『冷泉家時雨亭叢書 承空本私家集 上』(2002 年)

平林文雄・財団法人水府明徳会編著『増補改訂小野篁集・篁物語の硏究 影印・

資料・翻刻・校本・対訳・硏究・使用文字文責・総索引』(2001 年)

平林文雄「承空本片仮名書本『小野篁集』対校本」(「文学研究」vol.95、2007 年 4 月)

安部清哉「『篁物語』承空本(「小野篁集」)に関する研究課題」(「人文」7 号、2008 年)

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小野篁集(冷泉家時雨亭文庫蔵・承空本)

第一部

一 篁と女の出会い

 親おやのいとよくかしづきける人の娘むすめありけり。女のする才ざい1のかぎりしつくして、

いま

は「書ふみません」とて、「博は か せ士にはむつかしからん2人をせん」とて、異ことはら 子のかみ、大だいがくの衆しうにてありけり、異ことはらなれば、うとくて、「あひ見ず」などあ りけれど、「知らぬ人よりは」とて、簾すだれしに、几ててぞ読ませける。

 この男おとこ、いとをかしきさまを見て、すこし馴れゆくままに、顔かほを見え、物語がたり どもして、文ふみのてう3いふ物を取らせたりけるを見れば、角かうひち4して歌5をなん きたりける。

〔篁〕なかに行く吉よしかはあせななん妹いもの山を越えて見るべく とありければ、「かかりける」と心遣づかひしけれど、「情なさけなくやは」とて、

〔女〕いも山かげだに見えてやみぬべし吉よしの川かはにごれとぞ思おも 又、男おとこ

〔篁〕にごる瀬はしばしばかりぞ水みづしあらば澄みなんとこそ頼たのみわたらめ 女、

〔女〕ふちをばいかに知りてか渡わたらんと心を関せき6に人の言ふらむ おとこ

〔篁〕身のならん淵ふちも知らず妹いも川おりたちぬべき心こ ゝ ち地のみして かく言ふ程に、人憎にくからぬ世なれば、いとけふとくなかりけり。

二 師走の月夜、篁の思い

 師し は す走の十五日頃 ころ、月いと明あかきに、物語がたりしけるを人見て、「誰たれぞ。あな、すさまじ。

ゝ は す走の月夜ともあるかなん」と言ひければ、

〔篁〕春を待つ冬の限かぎりと思おもふにはかの月つきしもぞあはれなりける 返し、

〔人〕としを経て思おもひも飽かじこの月はみそかの人やあはれと思おもはむ

かく言ふ程に、夜更けにければ、「人うたて見むもの」とて、入りにけり。男おとこは、

さう

にとみにも入らで、嘯うそぶきありきけり。

 さて、あしたに、久ひさしう書ふみませざりければ、父ちゝぬし「あやしう篁たかむらが見えぬかな」

と言ひて、呼びにやるに、おどろきて7、例れいの書ふみかき集あつめて教をしへけるままになむ、

この女のみ心に入りて、僻ひが事をのみなむ、しける。かう教をしふる中に、角かうひち8して、

「かやうの物の書ふみ9は、僻ひがごとつかまつるらむ。この頃ころはもの覚おぼえずや。

(4)

〔篁〕君をのみ思おもふ心は忘わすられず契ちぎりしことも惑まどふ心か 返し、

〔女〕はかせ士とはいかがたのまむさとられず10もの忘わすれする人の心こゝろ 又、男おとこ

〔篁〕み聞てよろつの書ふみは忘わするとも君 一ひとり人をば思おもひもたらむ かくて、この男おとこ、てふくみをぞ常つねに作つくりかへりける。

三 稲荷詣でにて

 さて、この女、願ありて、如きさらぎ月の初はつむまに、稲い な り荷に参まいりけり。供ともに人多おほくもあらで、

お と な人二人、童わらは二人ぞありける。大お と な人は色々の袿うちき、二ふ た り人は同おな11をなむ着たりける。

君は、綾あやの掻かいねりの単ひとへかさね、唐からの薄うす物の桜さくら色の細ほそながて、花はなぞめの綾あやの細ほそながりてぞ たりける。髪かみはうるはしくて、丈たけに一尺ばかり余あまりて、頭かしらつきいと清きよげなり。

かほ

もあやしう世人には似ず、めでたうなむありける。男の童わらは三四人、さてはこの せうと

ぞありける。まほ12にはあらねど、先さきち遅をくれて来ける。詣まうでざまに困こう にければ、兄せうといとほしがりて13、「篁たかむらにかかり給へ」とて寄りければ、「いで、い ないな」と言ひて、道みち中に居にけり。

 さる程に、兵衛佐より14の人、容か た ち姿清きよげにて、年とし廿十ばかりなりけるが、詣まう であひて、かへさに、女の道みちに居たる、「あな苦くるし。かくてやは出で立ち給へる」。

もの嫉ねたみして、男おとこ申すに、「かもは車15つくりて、乗せ奉たてまつりて16、このわたりなる きさきの峯みね17に据す えゑ 奉たてまつらむ。女の事18には大だいわう、帝さかとには誰たれをかと」言ふ程ほどに暮 れにければ19、破わ り ご籠探さがして食く わはせんとするに、この佐すけをやりすぐす。この男おとこ、休やす むやうにて、降りて、

〔兵〕人知れず心糺たゝすの神ならば思おもふ心をそらに知らなむ 返し、

〔女〕やしろにもまだきね据す えゑず20いしがみは知ること難かたし人の心こゝろ 又もおこせけれど、この兄せうと、いそがしく、車ゝるまに乗せて、率て去ぬ。

 この佐すけ、人をつけて、「いづくにか、率て去ぬる」と見せければ、「その家いゑ」と てけり。あしたに文ふみあり。「神の教をしへ給たまへしかばなむ。さして奉たてまつる。かの石いしがみ の御もとにて、今け ふ日あらば」。文ふみを取り入れて見れば、この兄せうと、出で走はしりて、「父ちゝ ぬし

も聞たまふに。いともの騒さはがしく。この童わらはいづくから来たるぞ。いづれのす き者の使ぞ」と言ひければ、「御文ふみは奉たてまつらせつれど、昨日いませし主ぬしの、『いづ れの使つかひぞ』との給を、うちからは翁おきなびたる声こゑにて、『何なに事ぞ』などの給たまひつれば、

わづらはしさになん、参まうで来ぬる」と言ひければ、「とうめの童わらは」と言ひて、又 のあしたに、「昨日の御返。たびた、いとおぼつかなし。この童わらはの、あとはか なくて参まうで来にしかば。

〔兵〕あとはかもなくやなりにし21はまどりおぼつかなみに騒さはぐ心こゝろ22

(5)

99

 この兄せうと、大だいがくに出でにけり。樋ひすましわらは洗童、取り入れて奉たてまつる。文ふみをも取り、「大だいがく ぬし

もぞ見つくる。近ちかからん、人の家いゑに据ゑよ」とて、「昨日も見しかど、いさや。

〔女〕たまぼこの道みちなりし君なればあとはかもなくなると知らずや」

て、「ざれたるべき人かな。うたて、まがまがしうもいりたるかな。いかに言 はまし」と思おもふ。時の大納言の子なりけり。「あとはかもなしと、誰たれも。道みちにこ そ入り給たまへりしか23

〔兵〕 24にあとはかなしと言ふ事も同おなじ道には又またもあひなむ」

また、これを例れいの童わらは、もて来たり。兄せうと、道みちにさしあひて、「今いま、これより」と言 ひて、やりてけり。「かくなむ」と言へば、「例れいの心こゝろきもなき童わらはかな。先さきに気け し き色あ しう言ひけむ人にや取らすべき。この稲い な り荷にて、まならひものしげに思へりし者 ぞや。男おとこよりの物ぞや。そもそ、御返り」とりてやりつ。御返りにくしと思おも ののやに、兄せうと、出であひて、「御文ふみたてまつり給ふ人は、夜べ男おとこに盗ぬすまれ給たまひにしかば、

もと

めにゆくぞ。もし、この御文ふみたまへる人とも知らず。そち率てゆけ25」と言ひけ れば、しりへ答こたへに答こたへて、走はしりにけり。

 「さもあらん」と言ひて26、文ふみもやらずなりにけり。女、兄せうとの謀はかりたるとは知らで、

「あやしう訪をとづれぬ」と思おもふをり。この兄せうと、例れいのごとあるなり。「道みちあひ人の、知 も知らぬ人に、文ふみかよはし懸さうじ給たまふ人の御心にこそありけれ。かの人は、御妻 やがてあはせ奉たてまつらん。仲なかると27こそよからめ。許ゆるされ給たまひては28よふぞ」など言 ひければ、「なでう、目にかつかん。いかに知りてか、ともかうも思おもはん」。「世 を知らざらん人は、さやうにも言はでこそあらめ。見つかずの御ありさまや。心 うし。思おもはずなり」など言へば、妹いもといとおしうて、「なにか目にちかざらん人を、

しひも見たまへと思おもはん」とて、入りにけり。

四 深く心を通わせる篁と女

 例れいの書ふみみて、「内ないになさん」の心ありて、親おやは書ふみを教ゝしふるなりけり。文ふみかよ はしにはしたれど29、この兄せうと、 心をまどはして、思おもひ出でられけり。男おとこ、言 ふやう、「かく思おもひ出でられ、限かぎりなき心を思おもひしらずして、よそなる人を思おも たま

へるこそつらけれ。

〔篁〕に近ちかく見るかひもなく思おもへども心をほかにやらばつらしな と言ひければ、「人の御心も知らずや。

〔女〕あはれとは君ばかりをぞ思おもふらむやるかたもなき心とを知 おも

くある30」と言ひければ、すこし心ゆきて、    (注:「る」見せ消ち「な」傍記)

〔篁〕いとどしく君が嘆なげきのこがるればあらぬ31おもひも燃まさりけり  かく言ひて、心は通かよひけれど、親おやにもつつみ、人にもさはりければ、心とけて ひさ

しくも語かたらはずあり。されど、いかでか入りけむ、この妹いもうとの寝たる所へ入り にけり。いと忍しのびて、また夜深ぶかく出でにけり。たまさかに入りは入たりけれ

(6)

32、逢ふことは難かたかりけり。常つねに向かひにければ33、夜よるは逢はず、なかなかに 心はそらにて、「いかにせん」と思ひなげきて、

〔篁〕うちとけぬものゆゑゆめを見34かぬもの思おもふ頃ころにもあるかな 返し、

〔女〕ゐを寝ずは夢ゆめにも見えじを逢ふことの嘆なげく嘆も明あかかし果てじを  かく夢ゆめのごとある人は、妊はらみにけり。書ふみむ心地もなし。「例れいの障さはりせず」など、

うたてある気け し き色を見35、この兄せうとも、「いとほし」と見36、人 37はるのことに やありけむ、ものも食はで、花はなか う じ子・橘たちばなをなむ願ねがける、知らぬ程ほどは、親おやもとめて はす、兄せうと、大だいがくの主あるじするに、「皆みならまほし」と思おもひけれど、二三ばかり、畳たゝう がみ

に入れて取らす。

〔篁〕あだに散る花 橘たちばなの匂にほひには緑みどりの衣きぬの香こそまさらめ これをきこしめすなればなむ」。返事に、「御 懐ふところにありければなむ、

〔女〕わたりとや38花 橘たちばなを嗅ぎつれば緑みどりの香さへうつらざりけり」

五 引き裂かれる二人

 かかることを、母はゝおとどたまひて、ものもの給はで、うかがひ給ひて、向 ひ給たまひたりけるを、手を取りて、引きもていきて、部に籠めてけり。これを、

ちゝ

ぬし

たまひて、のどかなりける人なりければ、「男おのこもかしこき者にて、女 幼おさな き者にあらず。さしたるやうあらむ。なほ許ゆるし給たまひて、の給たまへ」とありければ、

「おのが身を思ふとて、の給ふに」とて、いよいかぎの穴あなに土つちりて、「大だいがくの主ぬし をば、家いゑの中にな入れそ」とて、追いければ、曹ざうに籠こもりゐて、泣きけり。妹いもうと こも

りたる所に行きて見れば、壁かべの穴あなのいささかありけるを、くじりて、「ここ とに寄り給へ」と呼び寄せて、物語がたりして、泣きをりて、出でなまほしく思へど も、まだいと若わかうて、ねたりたべき 39人もなく、わびければ、ともかくもえせで、

いといみじく思おもひて、語かたらひをる程に夜明けぬべし。男おとこ

〔篁〕かずならばかからましやは世の中にいと悲かなしきは賤しづの緒だまき かへ

し、

〔女〕いささめにつけし思おもひの煙けぶりこそ身を浮うき雲となりて果てけれ と言ひて、泣きあへりけり。

六 女の死

 夜けにければ、曹ざうに帰りて、この女をんなひつべきやうに40、物をかへて、持 ていかんとするに、心まどひして41、足あしもえ踏み立てず。ものおぼえざりければ、

むつましう使つかふ雑ざうしきを使つかひにて、「ただいま心地あしうて、え参まいり来ず。その程ほど れすき給たまへ。ためらひて参まいらむ」。女、穴あなのもとにて待つに、かく言ひたれば、

〔女〕がためと思おもふ命いのちのあらばこそ消ぬべき身をも惜しみとどめめ

(7)

101

 取り入れず。帰て、「かくなん」と言ひければ、かしこうして、またま て見れば、三四日物も食はで、ものを思おもひければ、いとくちをしう息いきもせず。「い かがおはします」と言ひければ、

〔女〕え果てて身こそはるかに42なり果てめ夢ゆめの魂たままで43君に逢ひ添 返し、

〔篁〕たましゐは身をもかすめずほのかにて君まじりなばなににかはせむ

とて、よろづの事を言ひて泣けど、答いらへせずなりにければ、「死ぬ」とて泣き騒さはげば、

を聞て、ときあけて見れば、絶る気け し き色を見て、まどひ出でて 44、ほかの いゑ

に往にけり。親おやでてのちに、出で、率て入りて、見れば、死にて臥せり。泣 べど45、かひなし。

七 女の霊魂と篁のその後

 その日の夜さり46、火をほのかにかきあげて、泣き臥せり。あとの方かたそそめき けり。火を消ちて見れば、添ひ臥す心地しけり。死にし妹いもうとの声こゑにて、よろづの悲かな しきことを言ひて、泣く声こゑも言ふことも、ただそれなれば、もろともに語かたらひて、

く泣さぐれば、手にも触さはらず、手にだにあたらず。懐ふところにかき入れて、我身の ならんやうも47、臥さまほしきことかぎりなし。

〔篁〕き流ながす涙なみだの上うへにありしにもさらぬあはぬ48かべる 女、返し、

〔女〕つねに寄るしばしばかりは泡あはなればつひに溶けなむことぞ悲かなしき と言ふ程に、夜明けにければ、泣49

 親おやは捨ててにければ、とかくをさむることは、ただこの兄せうとぞしける。人はみ な捨てて行きにければ、兄せうと50、従す ん ざ者三四人、学がくさう一人して、この女を死にける親おやを、

いとよく払はらひて、花はな・香かうきて、遠とをき所に火をともしてゐたれば、この魂たましゐ51、夜 な夜て語かたらひける。三七日、いとあざやかなり。七日52、時えけり。こ の男おとこ、涙なみだきせず泣く。その涙なみだを硯すゝりの水にて、法花経を書きて、比53七日 のわざしけり。その人、七日はなし果てても、ほのめくこと絶えざりけり。三年 ぎては、夢ゆめにも確たしかには見えざりけり。なほ悲かなしかりければ、初はじめのごとして なむまかせたりける。妻にも寄らで、一ひとり人なむありける。

(8)

第二部

一 篁と右大臣の娘の結婚

 時の右大臣の娘たまへと、文ふみをおもしろく作りて、内うちに参まいり給たまとて、御車くるまより とほ

り給たまふことに54、ついふるまひて、奉たてまつれ侍る55、取りて見たまひ、「 承うけたまはりぬ。

いま

、家いゑにまかりて、御返りきこえん」との給ふ。大だいがくに入りにけり。殿に帰かへり給ひ 56、御娘三人おはしけり、大君に、「しかじのことなむある。いかに」と聞きこ 給へば、怨じて、泣きて入り給ひぬ。中の君、同おなじ事聞きこえ給ふ。三の君に聞きこ え給ふ。「ともかうも、仰おほせ言ごとにこそ従したがはめ」との給へば、いと清きよげに寝しむ殿てむつく て、よき日して呼び給ふ。御消せうそこ57ありければ、いと悲かなしう、橡つるばみの衣きぬ58やれ こう

じたる着て、てりゐたる59くつきて、ふくめる文ふみのなく60りて、来にけり。

たう

の内うちに入りて、まづこの文ふみまきを賜たまへれば61、取り給たまはねば、 篁たかむらして行けば、

この君、皮かはの帯をびを取りて、引き止め給たまへば、止まり給ひにけり。これを垣か い ま間見て、

ちゝ

お と ゝ臣、見給ひて、「いとかしこうしつつ」喜よろこびび給たまふ。「出でてなまし。いかに 人聞やさしからまし。いとかしこきことなり」と喜よろこび給ふに、一日の夜62、い といかめしうして63ち給たまふ。ただ童わらはひ と り人ぞ具し給たまひける。

二 女の霊魂とそれを知った妻

 さて、この頃ころ、妹いもうとのある屋 64に行きたりければ、いと悲かなしかりければ、寝にけり。

いもうと

〔女〕し人にそれかあらぬかおぼつかなもの忘わすれせじと思おもひしものを と言ひければ、かの殿にもいかでぞ泣きをりける。久ひさしう来ねば、大殿65「あやし」

とおぼしけり。七日ばかりありて、来たり。「などか見え給たまはざりける」との給たまへば、

なをなりける人にて、こと隠かくして言ひければ、妻、「いとあるべかしき事にて、

あはれの事や。我がためにも、さらずはおはせめ、わいてもこそは、むかし人は 心も容か た ち姿も、さものし侍りければ66こそ、年としを経て、え忘わすれがたくし給たまふらめ。

さる人を見侍り 67けんに、言ひ知らで見え奉たてまつるよ。後のちの世いかならむ。

〔三君〕かずして過ぎける人の魂たましゐに生ける心を見せ侍る 68らむ

あな、はづかし」との給ふに、男おとこ、「なにか、それはおぼしめす。かくては、果 てはえ知ろしめさじ。御 魂たましゐのあるやうも見るべく、試みにさへなり給たまはぬ」とて、

〔篁〕わかれなばをのがたまた 69なりぬともおどろかさねばあらじとぞ思おも でてまかりしを引き止とゝめて、今け ふ日までさぶらはせ給ふ。うるさしかし」と言 ける。

三 篁という人

 この男おとこは、若わかき間あひだは、いと懇ねむころに見えで70、他ほかに夜れなどもしけり。なり出

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