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高倉泰夫

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(1)

物象的依存諸関係・生産諸力・生産諸関係

高倉泰夫

1.物象的依存諸関係としての「協同組合的な社会」の存立

マルクスが資本制社会の次に想定した「社会主義社会」を『ゴータ綱領批 判』(1875年)で見てみると,そこでは協同組合的(genossenschaftlich)所 有が全面化しかつ「プロレタリアの独裁」が行われている社会であるととも に,物象的依存諸関係が完全に消滅した社会として描かれている。そしてそ こでは,投下労働時間の計算が社会全体でも個人においても全く透明に行わ れることが可能だと考えられている。「生産諸手段の共有にもとづいた協同 組合的な社会の内部では,生産者たちは彼らの生産物を交換しはしない。同 様にこの社会では,生産物についやされた労働は,これらの生産物の昼垣主 上三,すなわちその生産物が有するひとつの物象的属性としてあらわれるこ ともない。なぜなら,この社会では資本制社会とは反対に,個人的な労働は,

もはや間接にではなく直接に,総労働の諸構成部分として存在するからであ る。」(MEW,Bd.19,S.19〜20,邦訳は,望月清司訳〔岩波文庫版〕によ る)。「ここで問題にしているのは,それ自身の基礎のうえに発展した共産主 義社会ではなくて,反対に,資本制社会から生まれたばかりの共産主義社会 である。したがってこの共産主義社会は,あらゆる点で,経済的にも道徳的 にも精神的にも,それが生まれてきた母胎である古い社会の母斑をまだ身に つけている。それゆえ,個々の生産者は,彼が社会にあたえたのときっかり 同じだけのものを−あの諸控除をすませたあと−とりもどすのである。

彼が社会にあたえたものとは,彼の個人的労働量である。たとえば,社会的

労働日は,個人的労働時間の総和からなる。個々の生産者たちの個人的労働

(2)

時間は,社会的労働日のうち彼が給付した部分,すなわち社会的労働日のう ちの彼の持ち分である。個々の生産者は, (共同の基金のための彼の労働を 控除したのち)これこれの量の労働をしたという証書を社会から受けとり,

そしてこの証書をもって消費手段の社会的な貯えのなかから,それとちょう ど等しい量の労働がついやされている消費手段をひきだす。個々の生産者は,

ある形態で社会にあたえたのと同じ労働量を,べつの形態でとりもどすので ある

J(a.  a. 0., S. 20)

『資本論』第

1

部第

l

章の「第

4

節 商品の物神崇拝的性格とその秘密」

では「共同的な

(gemeinsam)

,すなわち直接に社会化された労働

J(KI.  S.  92)

について次のように述べている。「人々が彼らの労働や労働生産物にた いしてもつ社会的諸関連は,ここでは生産においても分配においても透明で ある

J(KI. S.  94)

このような社会的総労働および個人的労働の双方が直接的に計算可能な社 会の存在を前提として,マルクスは『経済学批判要綱』をブルードン主義者 ダリモンの時間紙券論批判から始めている。

ブルードン主義者の場合,時間紙券の発行によって,資本制的生産の行わ れる社会から,諸個人の連合による生産が行われる社会への転換が可能だと 考えた。これに対してマルクスは,連合した諸個人による社会が成立したと きに,時間紙券も存在しうるのであって逆ではないと批判した。マルクスは 問題を次のように提出している。「問題は一般的にはこうであろう。すなわ ち流通用具の一一流通の組織の一変更によって現存の〔物象化したー引 用者〕生産諸関係とそれに照応する分配諸関係とを変更することができるの か?と

J(Gr. S.  57)

。そして,流通用具の変更は「強力的

(gewaltsam)

性 格

J(ibid.)

をもっ生産諸関係の変革を同時に生じさせる必要があることから,

プルードン主義者ダリモンの時間紙券の発行による資本制的生産の漸次的変

革という立論は成立しえないとしている。マルクスは,その想定するこのよ

うな「社会主義社会」を成立させる条件のーっとして「強力的性格」をもっ

た変革を考えていたのであり,そのためには社会的労働の生産諸力の十分な

発展が基礎となると考えているのである。

(3)

その「社会主義社会」すなわち「共同社会的

(gemeinschaft1ich)

生産」

(Gr. S.  103)

が行われる社会について次のように述べている。「諸個別者

(Einze1ne)

の労働は,生産の行為それ自体の内部で考察すれば,彼が直接に 生産物を,彼の特殊な活動の対象を買うための貨幣である。しかしこの貨幣 は,まさにこの限定された生産物だけを買う特殊的な貨幣であるにすぎない。

直接に一般的貨幣であるためには,諸個別者の労働は初めから特殊的労働で はなくて,一般的労働でなければならず,すなわち初めから,一般的生産の 分肢として措定されていなければならないであろう。しかしこうしたことが 前提されるとすれば交換によって初めて労働に一般的性格があたえられるこ とにはならず,労働の前提となっている共同社会的

(gemeinschaft1ich)

性 格が諸個別者の生産物への参与の仕方を規定することになろう。生産の共同 社会的性格が初めから生産物を共同社会的,一般的なものにすることになろ う

J(Gr. S. 102)

。この共同社会

(Gemeinschaft)

のもとでは,

I

諸個別者の 労働は初めから社会的

(gesellschaft1ich)

労働として措定されている

JCGr.  S.  103)

その社会では,諸個人としての諸個別者の労働はそのまま一般的労働,社 会的労働として措定されるのであり,そこでは「生産手段の共同的な

(ge meinsam)

領有と統制の基礎のうえに,連合している

(associirt)

諸個人(I

n dividuen)

の自由な交換

J(Gr. S.  92)

が行われる。この「連合している諸個 人」による「共同社会的生産」においては,貨幣も交換価値も廃絶され諸個 人の労働時間は全て社会的な総労働時間の一部として正確に測られるとして いる。このような社会の実現が時間紙券の発行を可能とするとともにそれ自 体を無意味にするのである。その条件は以下の通りである。「ところで,時 間紙券の発行が上記のすべての困難を克服すると考えてみるのもよかろう。

…さしあたり,諸商品の価格がその交換価値に等しくなるための諸前提,

すなわち需要と供給の一致,生産と消費の一致,最終的には均衡のとれた生

産(¥,、わゆる分配諸関係はそれ自体生産諸関係である)という諸前提が満た

されるものと前提すれば,貨幣問題はまったく二次的なものとなる。しかも

とくに切符は青色か緑色か,ブリキ製か紙製か,また切符が発行されるのか,

(4)

それともほかのどんな形態で社会的簿記がとり行われるのか, といった問題 は,まったく二次的なものになる

J(Gr. S.  86"'87)

。この「社会的簿記」が 行われるもとでの「均衡のとれた生産」が可能である状態は,全ての諸個人 の,そして全ての組織の経済的行動が完全に予知できる状況だといえる。

しかし,マルクスが想定した「個人的所有

J

( L e  

C

ital

p. 342)

が再建 される社会,すなわち「結合生産様式

J(Kill.  S.  456)

が全面化した「連合 した諸個人」による共同社会

(Gemeinschaft)

において,個人の労働量がそ のまま直接に共同社会の社会的労働として完全に計算されうる状態が可能で あるためには,全ての諸個人および協同組合等の諸組織の経済的行動に関す る情報がとらえられ尽くすこととその情報が全ての諸個人と諸組織において 利用され尽くすことが必要であろう。そのことが可能であるときには,個人 的労働量は社会的労働量の中で直接かつ完全に計算されることになる。すな わちその時には,個人的な労働量は「すべての結合された社会的労働

J

(K 

ill.  S.  399)

の直接的な一部として表現されることになる。しかし,以上に 指摘した個人的労働の社会的総労働への直接的に計算可能な状況は,現実に は実現可能とは考えられないであろう

D

なぜなら,そのような無限ともいえ る諸個人の凡ゆる経済的行動に関する凡ゆる情報の充分な処理は,おそらく 将来においても存在可能ないかなる電子計算機の処理能力をもってしでも不 可能だと考えられるからである。

また,別の観点から言えば,諸個人と共同社会との関係が完全に透明であ るような諸個人の経済的行動が全てに予見可能な状態の経済というのは一般 的には考えられないであろう。そのような諸個人の経済的行動が完全に予見 可能な状態とは,完全な定常状態にある経済を意味することになると考えら れるからである。そして,定常状態にない経済では,貨幣はその経済におけ る不確実性に対処するための非常に重要な存在であるといえる。

ところで,以上みてきたような直接的な計算可能性が存在しえない「協同

組合的な社会」においては,個人の労働が社会的総労働の一部として直接に

表現されえないのであるから,この両者をつなぐ媒介項によって個人的労働

を社会の総労働の一部として表現することが必要となる。すなわち,直接的

(5)

な計算可能性が存在しないもとでは社会的総労働自体は個人の側からは直接 に知ることは不可能であり,逆も同じであることから,ズレを含んで社会的 総労働の中へ個人的労働を位置づける手段としては貨幣が登場することにな る。これは貨幣商品金に限定されない,一般的な規定としての貨幣である。

すなわち,直接的な計算可能性の条件が満たされない「協同組合的な社会」

では物象的依存諸関係が一般的に存在することになる。すなわち,直接的な 計算可能性が存在しないときには,諸個人の諸関係は貨幣を通じて表現され ることになる。このように社会的総労働の一部として個人的労働を表現する 手段としての貨幣は,この社会においても物象化した「一つの生産関係」と して現れる。次の表現はこの社会にも妥当する。「なぜなら,生産をその総 体性

(Totalitat)

において考察するばあいには,貨幣関係それ自体が一つの 生産関係である

J(Gr. 

S .   1 4 2 ) 。

このようにマルクスの想定した「協同組合的な社会」の存立条件を吟味す るとき,それは高次において復活した人格的依存諸関係そのものの社会では なく,物象的依存諸関係の特質をもった社会として一般的には考えられるべ きだということになる。そこでは,流通過程において労働時間がその裸の姿 のままで現れることはありえない。また,そこでは貨幣が存在せざるをえ ないことから,

I

協同組合的所有

J(MEW

, 

Bd.19

, 

S. 

2 2 ) も形態的には

G

G'

という形式において存在することになる。ただ,この

G...G'

という 形態の内部における「共同存在

(Gemeinwesen)J

のあり方の相違が資本所 有と協同組合的所有を分けることになる。

ここでも物象的依存諸関係の社会としてとらえられることから,投下労働 量は価値として現れることになる。それゆえ次の表現もその場合に妥当する。

「同様に交換価値が生産物の社会的形態として残っているかぎり,貨幣その ものを止揚することは不可能である

J(Gr. S. 80)

。そしてここでも,貨幣は 一つの「社会的権力

(Macht)(Gr.  S.  90)

として現れ,あるいは一つの疎 外された「共同存在

(Gemeinwesen)J

として現れる。

すなわち「貨幣は,そのことによって,それがすべての人にとっての存立

の一般的実体であるかぎり,直接的に実在的な共同存在

(dasreale Gemein‑

(6)

wesen)

でもあると同時に,すべての人の共同社会的な

Cgemeinschaftlich)

生産物でもある

JCGr.  S.  150)

。このように「それ〔貨幣一一引用者〕自体 が共同存在なのである。

JCGr. S. 147)

が ,

r

しかし,このことは,諸交換価 値の完全な発展を想定し, したがってそれに照応する社会の有機的組織の完 全な発展を想定している

JCibid.)

。そして,

r

結合生産様式」が一般化した 社会を想定する際も,そこでは次の側面が存在することになる。「交換価値 において,人格

CPerson)

と人格との社会的関連

(diegesellschaftliche  Beziehung)

は物象

(Sache)

の社会的な関係行為

(Verha1ten)

に転化し,人 格的な力能は物象的な力能に転化している

JCGr. S.  90)

このような「協同組合的な社会」における社会的総労働と個人的労働とを つなぐ媒介項としての貨幣は,ここでも同時に交換において個人の自由と平 等とを示す物象として現れることになる。

『経済学批判・原初稿』の「単純流通における領有法則の現象」の叙述が そこでもあてはまる。「彼ら〔諸個人一一引用者〕は一つの自然生的な共同 体

CGemeinwesen)

のもとに包摂されているわけでもなければ,他面で共同 社会的であることを意識している

(bewust Gemeinschaftliche)

個人として 共同存在〔本質

J(das Gemeinwesen)

を自分自身のもとに包摂しているわ けでもないのだから,諸個人が独立した諸主体として存在しているのと同様 に,共同存在の方も,彼らに対立して,ひとつの独立した,外的な偶然的な,

物象的なものとして存在せざるをえない。このような事情こそがまさに,諸 個人が一つの社会的な連関のなかにおかれていながら,同時に独立した私的 人格

(Privatperson)

(あるいは自由な個人一一引用者〕として存在するため の条件なのである

J(Ur. S.  54)

。そして,同じく『原初稿』の次の叙述も,

物象的依存諸関係において存在しうる「協同組合的な社会」にもあてはまる。

「彼ら〔諸個人一引用者〕は第一に,交換行為のなかで,互いに所有者と

して承認しあっている諸人格として対応しあう,つまり,自分の意志を自分

の商品のなかにしみ込ませる諸人格として対応しあうのであり,そこでは彼

らは互いに譲渡しあうことによって互いに領有しあうのであるが,それはた

だ,彼らの共同社会的な

(gemeinschaftlich)

意志を通じてのみ, したがっ

(7)

て本質的には契約を媒介にしてのみ,行われるのである。ここには人格およ び人格のうちに含まれている自由という法的な契機が入り込んでくる」

(Ur. S. 56) r

このように流通があらゆる側面からみて個人的自由の現実化 であるとすれば,流通の過程は,そのものとしてみるならば…すなわち 流通の過程を交換の経済的諸規定の点からみれば,それは社会的平等の完全 な実現をなしている

J(Ur. S.  57)

。この社会でも,貨幣を媒介として諸個 人の自立性と平等とが表現されうる。

マルクスは「資幣の資本への転イヒ」以降ではこの単純流通における自由・

平等が実際には虚構として現れることを論じている。しかし「自由な諸個 人の連合」による社会でも物象的依存諸関係が一般的だと考えられることか ら,その社会の単純流通において貨幣を媒介としながら諸個人の自由・平等 がし、かにして存在するかが論理的に考察されるべきである。そのことは「協 同組合的な社会」における貨幣を通じた価値計算としての経済的合理性の追 求もまた行われることになる。このように考えることは, [J要綱』から『資 本論』へ至るマルクスの経済学の方法からは自然なものといえよう。

以上のように考えてくると,マルクスが『要綱』で示した世界史の第三段 階としての「自由な諸個人の連合」としての社会は,実際には物象的依存諸 関係のもとでのより高次の人格的依存諸関係の原理の存在可能性としてとら えられるべきことになろう。

『要綱』では次のように述べている。「人格的な

(personlich)

依存諸関係

(最初はまったく自然成長的)は最初の社会諸形態であり,この諸形態にお

いては人間的生産性

(Produktivitat)

は狭小な範囲においてしか,また孤立

した地点においてしか展開されないのである。物象的依存性のうえに築かれ

た人格的独立性は第二の大きな形態であり,この形態において初めて,一般

的社会的物質代謝,普遍的諸関連

(Beziehungen)

,全面的諸欲求,普遍的

諸力能といったものの一つの体系が形成されるのである。諸個人の普遍的な

発展のうえに築かれた,また諸個人の共同社会的

(gemeinschaft1ich)

,社

会的

(gesel1schaft1ich)

生産性を諸個人の社会的力能として服属させること

のうえに築かれた自由な個体性(I

ndividualitat)

は,第三の段階である。第

(8)

二段階は第三段階の諸条件をっくり出す

J(G

r .  

S.  90"'9

1 ) 。

この第三段階での自由な諸個人の連合として形成された諸関係という「社 会諸形態」では,

I

普遍的に発展した諸個人は,彼らの社会的

(gesellschaftlich)

諸関係を,彼ら自身の共同社会的諸関連

(gesellschaftlicheBeziehungen)

して,やはり彼ら自身の共同社会的な諸コントロールに服させているのであ るが,このような普遍的に発展した諸個人は,自然の産物ではなくて,歴史 の産物である。こうした個体性が可能となるための諸力能

(Verm

gen)

の 発展の程度と普遍性とはまさに交換価値の基礎のうえでの生産を前提として おり,この生産によって初めて,個人の自己および他者からの疎外の一般性 がっくりだされるとともに,他方では個人の諸関連と諸能力

(Fahigkeiten)

の一般性と全面性もまたっくりだされるのである

J(Gr. S. 94)

このように「自由化な個体性」をもった諸個人は物象的依存諸関係として の「社会諸形態」である資本制社会を出発点とする。以上,述べてきたこと からすれば「人格的独立性」をもつより高次の人格的依存諸関係の回復が目 ざされるということは,物象的依存諸関係の中でその回復のための諸運動が 行われるなかにおいて「自由な諸個人の連合」としての社会のあり方が目指 されるということである。その場合には,そこでも諸個人の「社会的力能」

が直接に共同社会的な

(gemeinschaftlich)

ものとしては現れずに,物象化 した姿で現れることになる。

[註]

)セルツキーは次のようにマルクスの物象的依存話関係の消失した社会としての「社

会主義社会」理解に対して批判している。「マルクスによれば,自由な個性は,物象的

依存性(市場)の廃止を前提する個人の全面的発達だけに,もとづくことができるで

あろう。マルクスは,人間が,市場の廃止をつうじて人間の物象的依存性を克服する

ことによって,同時に人間の人格的独立性の基礎そのものをも破壊してしまうという

事実に,関心をもっていない。彼は希少性としいう条件のもとで,人間の物象的依存

性から生じるその人格的独立性を保護されうるのかという問題に,積極的には答えて

いない

J([ 

3 4 ページ)。

(9)

本稿ではセルツキーの「社会主義社会」においても「社会的分業と希少性の枠内」

では市場の存在が必然、的であるという接近法とは異り,投下労働価値説から接近した 場合にも社会的総労働時間と個人の労働時間の間に完全な通約可能な状況は作り出さ れ得ないこと,すなわちその両者をつなぐ環として貨幣が必然、的に生じることになる ことを論じている。

)このような計算可能性とは別の問題であるが,塩沢由典は新古典派経済学批判の視 点から経済的行動の計算可能性の問題を論じている((1

0J

および(11]を参照)。

)ブルードンの「自由な労働者の連合」としての未来社会論については,阪上孝

[9J

を参照されたい。また,初期社会主義者たちにおける「連合」概念に関する最近の研 究として,杉原四郎他(1

3J

がある。

)このマルクスの世界史における三段階認識と,そこでのゲマインシャフトとケ

e

l

レ シャフトの相違については,望月清司

([6J

113~ 1l 4 ページ,および,

261 

~382ペー ジ),および森田桐郎

([7J

62~ 1l 0ページ)を参照されたい。

5) 

~ドイツ・イデオロギー』での,あるべき理想状態としてではなく現実の中での運動

として規定したマルクスの「共産主義」の定義は,物象的依存諸関係における「自由 な諸個人の連合」による社会の存立可能性の論証につながるものといえる。「共産主義 というのは,僕らにとって,創出されるべき一つの状態,それに則って現実が正さる べき一つの理想ではない。僕らが共産主義と呼ぶのは現実的な運動,現在の状態を止 揚する現実的な運動だ。この運動の諸条件は今日現存する前提から生ずる

J(dI

,  { 

C

, 

S.  37)

このような「共産主義」の定義からは,それは商品・貨幣が廃絶されたあるべき社 会としてではなく, I 現実的な運動」そのものに即してとらえられることになる。この 点について,副田満開は次のように指摘している。「商品生産=貨幣計算が支配的に行 なわれるかぎり社会主義はないとすれば,われわれの語りうる将来において社会主義,

広くは共産主義はついにやってくることはないであろう。……あらゆる疎外から解放

された一一貨幣も国家も神もない一一自由な生産者たちの連合体としての共産主義の

理念は,理念型モデルとして疎外され転倒された資本主義や商品生産社会を分析・批

判するに当つての比較基準としてはすぐれて有効ではあるが,これが資本主義の後に

つづいてこの地上に到来するものであるとするとき,そこに問題がある。実現される

(10)

べき理想的な状態ではなく,今日の状態を止揚する現実の運動こそが共産主義である と言うときのマルクスに真実があるように感じられる

J

( ( 1

2J 

i u ページ)。この立場か らは, I 共産主義」とは

L

、くつかの差違をもった諸理念をもちうるような現実的な諸運 動としてとらえられることになろう。そこでは「プロレタリア独裁」は存在し難い。

6) 

~要綱』の「資本一般」の叙述を支える「社会全体の資本 J

I

一つの資本」という 基本的視角が出てきた重要な淵源として,資本制的生産における個別的生産過程での

「共同社会的な労働」と,社会全体としての「共同社会的な労働」との重ね合わせに よって,資本制的生産を分析するとともに,資本制的生産を未来社会との対比におい てそれぞれの特質を明らかにしようとした発想があったのではな

L

、かと考えられる。

その対比されている「協同組合的な社会

j

においてはそのような個別の「共同社会的 な労働」と社会全体の「共同社会的な労働 J との関係は完全に透明なものとして現れ ることになる。

この『要綱』の方法では「資本に関する章」で見ることができるように個別資本お よび個別の生産分野における特別剰余価値としてとらえられる社会的労働の生産諸力 の上昇と,社会全体における社会的労働の生産諸力の上昇としての相対的剰余価値と の相違を明らかにすることができない点で,すでにその方法自体に無理が生じること

となった(この点については,高倉(1

4J

4

章を参照されたい)。

2. r

社会的労働の生産諸力」と物象化

(  i  ) 

r

労働の生産力」と「社会的労働の生産諸力」

マルクスによる「社会的労働の生産諸力」の規定に入る前に,まず単数で 規定されている「労働の生産力」および「労働の生産性」の定義を見てみる。

『資本論』第

1

部の「第

10

章 相対的剰余価値の概念」で「労働の生産力」

にふれている。「われわれが労働の生産力

CProduktiv kraft)

というのは,こ こでは一般に,一商品の生産に社会的に必要な労働時間を短縮するような,

したがってより小量の労働により大量の使用価値を生産する力を与えるよう

な,労働過程における変化のことである

JCK

I .  

S.  333)

。また「第

13

章 機

(11)

械と大工業」では次のように述べている。「一般的に言えば,相対的剰余価 値〔ここでは特別剰余価値のこと‑引用者〕の生産方法は,労働の生産力 を高くすることによって,労働者が同じ労働支出で同じ時間により多くを生 産することができるようにする,ということである

J(KI. S. 432) 

~経済学

批判要綱』の「生成した資本」においては, I 労働の生産力の発展(労働が 一定の時間にっくり出しうる生産物量)

(Gr.  S.  426)

としており,この「生 産物量」の上には「諸使用価値

J(Gr. Apparat

, 

S.  876)

と書かれている。

このように単数の「労働の生産力」とは,特定の使用価値をもった商品が 生産される際の,商品量/投下総労働時間, として定義されている。すなわ ち,まず投下された過去労働としての不変資本の比率を一定とすれば, I 労 働の生産力」は生きた労働の投入量としての投下労働量に対する生産された 生産物量の比率によって示される。この場合, I 労働の生産力」の上昇は同 一労働時間内での生産された生産物量の増加によって示される。このように して分析を進めるとき,次には一定比率として仮定された不変資本の労働力 に対する比率を変化させることによって,分析をさらに進めることになる。

このようにして,次には特別剰余価値の生成・消滅の機構において「労働の 生産力」を叙述することになる。

次に「労働の生産性」の定義を見てみよう。同じく『資本論』第

1

部第

4

篇で「機械は,労働の生産性

(Produktivitat)

を高くするための,すなわち 一つの商品の生産に必要な労働時間を短縮するための,最も強力な手段だと すれば

J(KI.  S. 425)

と述べていることからも明らかなように,

I

労働の生 産性」は,一商品/一商品の生産に必要な投下労働時間,として示される。

このように定義された「労働の生産性」は, I 労働の生産力」と同じ内容を

もっ。すなわち,それはある生産部面における,生産された生産物量/総投

下労働時間, と同ーの事象の別の表現ということである。すなわち, I 労働

の生産力

J

I 労働の生産性」とすることができる。『直接的生産過程の諸

結果』に,次の叙述をみることができる。「すでに見たように,労働の生産

性または生産力の程度の相違に応じて,同じ労働時間が非常にさまざまな量

の生産物に表され,あるいはまた,同じ大きさの交換価値がまったく違う量

(12)

の使用価値に表される

JCR. S.  36)

ここで「社会的労働の生産諸力」の定義を検討する前に,

w

ドイツ,イデ オロギー』での生産力規定を見ておこう。「そして,この協働

CZusammen‑

wirken)

の様式がそれ自身一つの 生産力"

CProduktivkraft)

なのである」

CdI. { 7} b

, 

S. 26)

。このような,

I

複数の諸個人の協働

JCibid.)

の様式とし ての「生産力」について,エンゲルスも次のように述べている。「社会的権 力

Cdiesoziale Macht)

,すなわち幾重にも屈折された生産力

CProduktion skraft)

一一これ〔生産力〕はさまざまな諸個人の分業において制約されて

いる協働によって生成するものなのだが

JCdI. { c

  , }

S.  36)

このような「協働の様式」としての生産力の規定は,生産物量/投下労働 時間,として示される「労働の生産力」の規定よりも広範だといえる。この ような「生産力」の規定は,

w

要綱』の「諸形態」での次のような生産(諸) 力の規定とつながっている。「最初の大きな生産力

CProductivkraft)

として 現れるのは共同体

CGemeinwesen)

である:特殊な種類の生産諸条件(たと えば牧畜,農耕)にたいしては,特殊な生産諸様式

CProductionsweise)

と 特殊な生産諸力

CProductivkrafte)

が発展するが,この生産諸力は,諸個人 の特質として現れるような主体的なものであり,また客体的なものでもある」

CGr. S.  399)

ここでは「共同体」が単数の「生産力」として規定されているが,同時に その共同体の内部で特殊な使用価値を生産するそれぞれの分野で,それぞれ の特殊な生産諸様式と特殊な生産諸力が発展するとしている。このように,

社会全体から規定するときには単数の「生産力」としても規定しながら,そ れぞれの生産分野に即しては,複数の「生産諸力」として規定されている。

この社会全体の視点から出発してそれぞれの使用価値の生産において複数の

「生産諸力」としてとらえられているものが,他方では単数の「労働の生産

力」あるいは「労働の生産性」として個別的にとらえられることになる。そ

の過程をみることは広い意味での「協働の様式」としての「社会的労働の生

産諸力」が,物象化した「生産力」として現れる機構を考えるということに

なる。

(13)

『要綱』の「生成した資本」では「労働の生産諸力」の「資本の生産力」

への転化について次のように述べている。「労働者の連合

(Association)

は一一労働の生産性の基本条件としての協業と分業は, 一一すべての労働の 生産諸力と同じように,すなわち労働者の集団結合の集約度と, したがって その外延的な実現の程度を規定している労働の生産諸力と同じように,資本 の生産力として現れる。したがって労働者の集合力

(Collectivkraft)

,すな わち社会的労働としての労働の特性は,資本の集合力である。科学も同様で ある

J(Gr.  S.  476)

。ここでは,生産過程における労働者の「連合」として の共同社会的

(gemeinschaft1ich)

な労働の様式を「生産諸力」としてとら えるとともに,その「生産諸力」あるいは「集合力」が「資本の生産力」と

して労働者から疎外された姿で現れることが言われている。

また,マルクスは『資本論』第

l

部「第1

1

章 協業」で「どんな事情のも とでも,結合労働日の独自な生産力は労働の社会的生産力または社会的労働 の生産力なのである。

J(KI. S.  349)

と述べている。

他方で,商品論でも「労働の生産力」について叙述をみることができる。

「労働の生産力は多種多様な事情によって規定されており,なかでも特に労 働者の技能の平均度,科学とその技術的応用可能性との発展段階,生産過程 の社会的結合,生産手段の規模および作用能力によって,さらにまた自然的 事情によって,規定されている

J(KI. S. 54)

。このことは, w資本論~

I

l

部 資本の生産過程」は物象化した「一つの生産関係」としての貨幣ととも に同じく物象化した「一つの生産関係」としての産業資本の存立構造を解明 することを課題としたことと同時に,使用価値視点をも重視しながら「社会 的労働の生産諸力」の構造の解明を同じく商品論から始めて G

G ' の一応 の終了まで行うのが課題であったことを示している。

なお,

I

総体」としての社会的再生産過程からその物象化の構造をみる場

合には,マルクスは複数の「生産諸力」を単数の「生産力」として一元化し

て使用している場合も多い。その場合には,

I

総体」としてとらえられた「生

産力」と,個別的資本の生産過程における,生産物量/投下労働量, として

示される,すでに物象化した姿で現されている単数の「生産力」とはその理

(14)

論的意味を異にしている。

このように物象化した「一つの生産関係」である資本の「生産力」として

「労働の生産諸力」が転化して現れるということは,生産過程での「共同社 会的な労働」の結果が,生産物量/投下総労働時間,として現れるというこ とだけではなく,

r

労働者の連合」としての「共同社会的な労働」が個別化 された労働者の労働量に即して表現されているということである。すなわち,

そのことは一方での「共同社会的な労働」の遂行と,他方での商品としての 労働力の価値の計算過程とが同時に行われる中で「協働の様式」としての「社 会的労働の生産諸力」は単数の「労働の生産力」として表現されることにな っている。すなわち,

r

協働」の編制様式としての生産諸力は,たえず物象 化した姿で「労働の生産力」あるいは「労働の生産性」および「資本の生産 力」として現れるのである。このような複数の生産諸力の単数の「労働の生 産力」あるいは「資本の生産力」への転成の基礎を労働力の商品化において 見ることができる。

マルクスは『要綱』の「生成した資本」では次のように述べている。「し

たがって一面からみれば,それ〔資本一一引用者〕は科学と自然、のいっさい

の諸力

(Machte)

を,また社会的結合と社会的交通

(Verkehr)

のいっさい

の諸力を呼びおこして,その結果富の創造をそれにもちいられた労働時間と

はかかわりのない(相対的に)ものにしようとする。他面からみれば,資本

はこのようにして創造された巨大な社会的諸力(

Gesellschaftskrafte)

を労

働時間で測定し,そしてすでに創造された価値として維持するために必要な

諸限界のうちに,これらの諸力を封じこめようと欲する。生産諸力と社会的

諸関連一社会的個人の発展の異った二つの側面一ーは,資本にとってはた

んに手段として現れるだけであり,そしてまた資本にとってのその偏狭な基

礎から出発して生産をおこなうための手段にすぎな L

J(Gr. S.  582)

。社会

的個人の発展を見る二つの視角である「生産諸力と社会的諸関連」あるいは

社会的諸関係は,資本制的生産ではこのように「社会的諸力」の創出とその

疎外の過程においてとらえられることになる。『要綱』の「第 3 篇 果実を

もたらすものとしての資本」では次のように述べている。「ブルジョア経済

(15)

学者たちは,社会の一定の歴史的発展段階の諸表象のなかにふかく追い込ま れているために,労働の社会的諸力

(Machte)

の対象化の必然性は,彼らの 眼には生きた労働に対立してのそれらの疎外の必然性と分離できないものの ように見えるのである。しかしたんに個別的な

(einzeln)

労働としての,あ るいはたんに内的にだけ,あるいはたんに外的なだけ一般的な労働としての 生きた労働の直接的性格が止揚されるとともに,直接的に一般的な,すなわ ち社会的な諸個人としての諸個人の活動が措定されるとともに,この疎外の 形態は生産の対象的な諸契機からはぎとられる。それらはそれとともに,そ のなかで諸個人が諸個別者

(Einzelne)

として, しかし社会的な諸個別者と して再生産されるところの所有

(Eigenthum)

として,有機的な社会的な身 体

(Leib)

として措定される

J(Gr. S.  698)

「協働の様式」としての「生産諸力」はもともと,生産物の生産に即して 労働者の「連合」をとらえるものであった。しかし,生産物の生産が「社会 的個人」としての人間の再生産と相即して行われることから,

r

社会的諸力」

としての「生産諸力」は「諸個別者

(Einzelne)J

としての「社会的諸個人 ( I

ndividuen) J

の再生産そのものにおいてとらえられるような地点にーたん は還元されることが必要となる。その場合でも,

r

諸個別者」は「社会的な 諸個別者」であり,そこに「所有者」として各個人が現れる出発点を見るこ とができる。この過程が,労働力の商品化として現れるときには,以上の過 程は「共同社会的」な労働が行われるとともに,同時にそれが絶えず物象化 して現れることで,

r

生産諸力」は諸個人から疎外された姿で,すなわち「労 働の生産力」として表現されることになる。

『諸結果』では次のように述べている。「このように資本は労働者たちに

たいして労働の社会的な生産力を表しているのであるが,生産的労働〔価値

を 生 産 す る 労 働 一 一 引 用 者 〕 は 資 本 に た い し て つ ね に た だ 個 別 化 さ れ た

(vereinzelt)

労働者の労働を表しているだけなのである

J(R. S.  123)

。この

個別化の過程は,諸個別者としての社会的諸個人に基礎をもっ。そして,そ

のことは資本制社会では労働力がたえず商品化する過程において見ることが

できる。この労働力の商品化の過程の反復と対応して,

r

社会的労働の生産

(16)

諸力」は「資本の生産力」あるいは「資本の生産諸力」として,社会的個人 としての労働者からは疎外された姿で現れる。この「社会的労働の生産諸力」

が「労働の生産力」として転成して現れる過程は,労働力の商品化の反復の 前提から出発することから,特定の使用価値をもった生産物を生産するため の,技術的必然としての分業に基礎をおきながら,物象化した「一つの生産 関係」としての資本の運動(G . . . G '   )の中において,そしてその運動の反 復を根拠づけるとともにそれを動かしていく動因を明らかにすることにな る 。

i23

冊のノート」では次のように記している。「生きている労働は一一資 本と労働者とのあいだの交換によって一一資本に合体され,資本に属する活 動として現れるのであるから,労働過程が始まればそのときは,社会的労働 のいっさいの生産諸力は資本の生産諸力として現れるのであって,それはち ょうど労働の一般的な社会的形態が貨幣において物

(Ding)

の属性として現 れるのと同じである

J (Kr.[21

冊 ,

S.  131

7 ] ,  

S.  2160)0 i

したがって,資本 が生産的であるのは, 1) 剰余労働の強制として, 2) 社会的労働の生産諸 力および科学のような一般的社会的生産諸力を自己のうちに吸収する者とし て,そして領有する者

(Aneigner)

(それらの人格化)としてである

J(Kr. [21 

冊 ,

S. 1320J

, 

S. 2166)

。資本家および資本家階級は「社会的労働の生産諸 力」をその物象化した姿で領有するのであり,彼らは物象化した「社会的労 働の生産諸力」の人格化として存在する。「資本家自身は資本の人格化とし てのみ権力者なのである

J(R.S. 12

1 ) 。

そして「労働は,まさにこの剰余労働の実行者として,労働能力の価値と

その価値増殖分との差額によって,生産的なのである

J (R. S.  123)

。すな

わち,

i

現実の労働過程における「共同社会的な労働」は価値増殖過程にお

いて,個別の労働量へと分解させられ,その結果として個別の労働者に対し

て剰余価値が相対することになる。「労働の社会的な自然、力は,価値増殖過

程そのものにおいてではなく,現実の労働過程において発展する。・・・・・・生産

的労働一価値を生産するものとしての一ーは,資本にはつねに個別化され

(vereinzelt)

労働者たちの労働として相対するのであって,たとえこれら

(17)

の労働が生産過程でどんなに結合されようとも,そうなのである。このよう に資本は労働者たちにたいして労働の社会的生産力を表しているのである が,生産的労働〔価値をうむものとして現れている労働者の共同社会的労働 一一引用者〕は資本にた L 、してつねにただ個別化された労働者たちの労働を 表しているだけなのである

JCR. S.  123)

。この「個別化された労働者たち」

と L 、ぅ表現のうちに,労働者から疎外され物象化して「資本の生産力」とし て現れている「社会的労働の生産諸力」が労働者と相対している状態を見る だけではなしこの「個別化された労働者たち」が同時に物象的依存諸関係 のなかで諸個人としての自立性をもって現れている社会的根拠までもが読み

とられるべきであろう。

以上見てきたように, I 労働の生産力」として生産過程での「社会的労働 の生産諸力」が現れるとき,この「労働の生産力」は「資本の生産力」とし て現れるのであり,また同時に,疎外された「社会的労働の生産諸力」はと くに生産手段においてその物化した姿をもつものであり,それは「資本の生 産力」の具現化した姿として現れることになる。すなわち, I 労働者自身の 労働の社会的な性格よりも,生産条件が結合労働の共同社会的生産条件とし て受け取る社会的な性格の方が,はるかにより以上に,労働者たちから独立 にこれらの生産条件そのものに属する資本制的な性格として現れるのであ る

JCR. S.  120)

。生産手段こそが,労働者が行う「共同社会的な労働」に おける「共同社会性」あるいは「社会的な性格」を,疎外された姿すなわち 物化した姿であるにしても,むしろ逆に特徴的に示すものとして現れるので ある。「要するに資本が生産的であるのは,……「労働の社会的生産諸力」

の,または社会的な労働の生産諸力の人格化および代表者として,それらの 物化された姿としてである

JCR. S.  123)

(  i i   )人間の存在様式の二重性と社会的分業および抽象的人間労働につい

ここで生産過程は労働過程と価値増殖過程の二面から成ることから, I 労

働の生産力」をあらためてその二面において叙述してみよう。

(18)

あらたな使用価値をもった生産物がつくられる労働過程での労働は「共同 社会的な労働」として行われている。すなわち,

I

それ自体として見た労働 過程では,労働者が生産手段を使用する

J(R. S.  8

1)。その労働は分業に基 づく協業として行われる。

機械制大工業では,

I

機械は,のちに述べるいくつかの例外を除いては,

直接に社会化された

(vergesellschaftet)

労働すなわち共同的な

(gemein sam)

労働によってのみ機能する。だから,労働過程の協業的性格は,今で

は,労働手段そのものの性質によって命ぜられた技術的必然となるのである」

(KI. S.  407)

このような労働過程での「直接に社会化された労働

J

,すなわち新たな使 用価値をもった生産物を作り出す具体的有用労働としての「共同社会的な労 働」は同時に抽象的人間労働としてそして価値として現れることになる。そ こでは新たな使用価値をもった生産物をっくり出す「共同社会的な労働」は,

「対象化された労働の一定量

J(KI. S. 210)

として同一平面上におかれた量 的にのみ差異をもっ労働として現れる。

このように「共同社会的な労働」が個別の労働者の労働量に還元された姿 でとらえられる労働過程における「共同社会的な労働」は抽象量としてのみ 計測され,そこでは労働の「共同社会的な」側面は消え失せてしまう。すな わち「労働はもはやその時間尺度によって数えられるだけである

J(KI.  S.  210)

このように,

I

共同社会的な労働」が個別の労働者における抽象的一般的 な量としてとらえられるとき,その労働は生産された使用価値量と対比する ことが可能となる,すなわち,

I

共同社会的な労働」は労働者の個別性に基 づく労働の抽象的人間労働の側面において,

I

労働の生産力」あるいは「労 働の生産性」としてとらえられることになる。

このような生産された生産物量/投下労働量, としての「労働の生産力」

の表現を通じて,

I

共同社会的な労働」は,労働者から疎外されたものとし

て現れ, G . . . G ' としての資本運動として現れることになるのである。この

ように量的にのみ差異をもっ投下労働量として,

I

共同社会的な労働」が現

図 1 生産諸力と生産諸関係 戸 ' J t l ' 1:,t H H , G . . 可 ↓一一一一一一一一一一一一一一‑ i 一 一 一 一 ‑ J 図 2 i 労働の生産力」 共同社会的労働の成果 剰 余 価 値 [註] 7)  W 諸結果』では生産諸力と生産力について,次のように述べている。「協業や工場内 の分業や機械の応用による,そして一般的に言えば,特定の目的のための自然科学や 力学や化学などの意識的応用への,すなわち技術学などの応用への,生産過程の転化 による,そしてまた,これらすべてに対応す

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