源俊頼の歌論における
美意識について
稲
田
繁
夫
歌論史において公任が︑もののあはれの美意識を﹁あまりの心﹂
として理念的に規定したところに彼の歌論史的意義のあることをさ
きに述べた︒①公任以後︑三代集の伝統と興信︑俊頼の革薪的な立
場とがどのやうに交錯しつ㌧俊成の幽玄の理念に発展して行くか︒この展開の上における俊頼歌論の意義はきはめて大きい︒俊頼の伝
記についてはすでに詳細な研究が発表せられてみる︒②これによる
と︑父経華麗後③の歌壇歌論界に於ては︑彼と同年の顕季︑一才年
長の基俊が鼎立してみたが︑既に康和二年四十六才の時源宰相申零
墨信家歌合は衆議判であったが彼は中心的役割を占め︑同四年から
の堀河院百首は彼が発起して経信亡き後の歌壇に指導的地位を占めつ﹄あったことがわかる︒④丈献に見える彼を判者とする最初の歌
合は長治元年五月二十六日の俊忠朝臣家歌合で⑤彼は五十才であっ
た︒この判詞の申で︑すでに﹁珍らしきふし﹂﹁すべらか﹂なる歌
を賞揚し﹁古めかしき﹂を退けようとする彼の革新的態度が明らか
に確立されてるる︒⑥其の後彼の判者と成った歌合の今日残るもの は六編を数える︒この聞父経信.兄基綱が高官に就いたのに対し︑彼は天永二年木工頭を退官し︑以後大治四年七十五オで殴するまで現世的栄達には恵れす老いゆくま﹂に佗しい気持で日々を暮した︒⑦たとへ歌才に於て勝れてみても︑基俊のやうに学和漢を兼ねてをらす⑧顕季︑顕隆が詩交についての学力の不足から参議︑弁官を望んで得なかったのに徴しても⑨漢学の素養の少い彼が事務官吏として栄達することは不可能であった︒然し彼が五十七才で退官して超するまでの十九年間は隠然たる歌壇の長老として尊ばれ︑保安四年顕季理後は基俊と俊頼は保守と革薪といふ対立の形で歌壇を指導したが.藤原実行と藤原長実が貫之と躬恒の優劣を白河院に御伺びした時︑ ﹁俊頼に尋ねよ﹂と仰せられたこと⑩や.俊成がその師基俊と比較して俊頼を門よみくちに至りては俊頼には及ぶべくもあらす俊頼いとやんごとなきものなり﹂⑪と師基俊以上に賞讃してみることから考へて︑当時の第⁝者は実に俊頼であったのである︒であるから元永元年六月+日顕季の東洞院亭に行はれた人切影供に撃て満座の賛成で俊頼はその初廻者と成ったのである︒⑫ 俊頼の体系的歌論である俊頼髄脳⑱はその成立年代の推定に諸説があるが︑⑭何れにしても彼の退官以後︑永久元年五十九才から永久三年六十一才の間に成立し摂政関白忠実の女︑泰子に奉ったものであることは動かされぬところであらう︒この俊頼髄脳を彼の歌論の野里として位置させながら︑先に述べた彼の最初の判者となった俊忠朝臣家歌合の判詞︑及び俊頼髄脳以後の元永元年十月二日間内大臣家歌合の誓詞をその前後の両翼として︑彼の歌論随特に美意識を中心として眺めようと思ふ︒
二
俊頼髄脳に﹁おほかた歌のよしといふは︑心をさきとしてめづら
47 一
【
.しきふしをもとめ︑詞をかざりよむべきなり︑心あれども詞かざらねば歌おもてめでたしとも聞えす︑詞かざりたれどさせるふしなけ
ればよしとも聞えす︒めでたきふしあれども優なる心ことばなければ叉わうし︒けだかく遠白きをぴとつのこととすべし︒⑮とは秀歌
たるべき歌の姿を論じたもので︑これは実方清氏も指摘される如
く︒⑯ 一︑優なる心を先とする
二︑珍らしきふしあること
三.詞をかざること
の成立条件の上に秀歌が成立する︒歌において心を先とする考は古今集序に始まり︑公任に至って︑これが一あまりの心﹂として発展
したことは薪撰髄脳︑和歌九品に明らかである︒しかし公任に於て
はへあまりの心一は︑口では言ぴ表はし得ない言外の心︑即ち象徴
美を現はす⑰ものであっても︑ 一心﹂そのものの内容については十
分触れることが出来なかった︒公任は﹁心をかしき﹂門︑心ふかく﹂の
意識はあっても︑歌心としての心そのものの構造を明らかにしてみ
ない︒俊頼はこれを一︑優なる心﹂といふ語によって理念化したとこ
ろに表現内容としての心に対する美意識の深化が見られる︒彼の判
詞には﹁心あり﹂の評は多く見られるのであるが⑱心が古今集以来
歌の素材なり︑素材に対する把握の仕方に於て︑花鳥誠詠的な日本
的美の景趣の詠嘆であったことは述べるまでもないが︑とのやさし
く風雅な心を彼は﹁優なる心﹂として規定したのである︒歌論史上
判詞として﹁優﹂なる美を認めたのは︑天徳内裡歌合⑲にもある
が︑まだ優の内容が明確でなく歌論として理念化されてはみない︒
これを明らかに美的理念として規定したのは俊頼である︒俊頼髄脳
秀歌の条にあげた
ぴとへに優なる歌 よきふしに優なる事ぐしたる歌 ・の例歌や︑多くの歌合の判詞の評語から考へると表現素材としての美的情緒だけではなく︑表現内容としての美的情緒の内的揺曳といふことにまで認識されてみたといふ実方清氏の言⑳は適切であらう︒後鳥羽院御口伝⑳に俊頼の歌を評されセ︑ ﹁うるはしくやさしき様もことにおほくみゆ﹂とあることからも︑俊頼の庶幾した歌心はやさしくうるはしき心でこれを﹁優なる心﹂と規定したのである︒この優なる心を基盤としてこの上に︻︑珍らしきふし﹂が加はらなければ秀歌とはならないQ ︐めづらししとは既に経信によって意識された⑳好忠︑経信と発展して来る清聴な革新的見解であるが︑これを﹁めづらしきふし﹂と規定して︑歌に於ける新しい趣向︑着想や構想や表現などの創意ある格別の興趣を掲げて来たことは︑中世歌論の展開上重要な契機をなすものと言はなければならない︒この萌芽はすでに公任に於ても新撰髄脳で﹁古く人の詠める詞を節としたるはわうし︑一節にても︑めづらしき詞を詠み出で.むと随ふべし﹂と述べられてみるが︑これは俊頼に於けるやうな表現内容としての本質領域に迫るものではなく︑表現技巧の問題であった︒めづらしきふしとはいつれにしても感情内容といふよりも︑知的内容に関係し知的な構成構想を巡らし知的な趣をもたなければならないとするのである︒めづらしきふしといふ語は俊忠朝臣家歌合の判詞以来しばしぼ使はれた評語であって︑これが俊頼髄脳の秀歌の構成条件として組織化されたのである︒俊忠朝臣家歌合三番五月雨の歌は左右持であるが配置の 五月遅はいとかの里のびきまゆも絶えねとすれや晒すぴまなみ 肥前権守要望に対し一︐左歌珍らしき節に思ぴよられたりと聞ゆるは︑いとかの里
轟な袖と続けられ﹂たる一けにや云々﹂・と︑いと・かの田凱の繭悼か〃絶えてしまへ
48 [
一
と言はんばかりに五月雨の降る知的聯想を﹇珍らしきふし﹂と言っ
たのであるが.同歌合六番握麦の歌
左 勝 仲 正
露重みまだ折れ伏して常夏の起きぬや花のあさいなるらん
右 和泉前司道経
の両歌の判詞は全墨引導出来ないが︑⑳左空誉勝としながらも﹁古めかしき歌にこそ侍めれ﹂と古めかしいものを退けてみる︒彼が古
めかしき歌をきらったことは枚挙にいとまなく⑳あるが︑この左歌
を﹁古めかし﹂と言ぴながらしかも勝としたのは︑歌合に於て亭主
の思惑を考慮しなければならない点と︑さきの源宰相中将国信家歌
合に於ける衆議判で俊頼がその判を隆源︑基俊などに門︑をこっき﹂
された⑳ことか︑ら︑笹下がこの歌合の判を極めて慎重にし︑その上
主催者や方人の意見を豊︑重してるるのであらう︒右の歌は﹁庭と上
路とは病﹂と方人や︑ ﹁あるじ﹂たる主催者に言はれたが︑その程
度の歌病論的難点は小さいとして踏歌において︸︐詠まむとしける心
ざしも思ぴ知られて︑古めかしさにはなどか立ちも勝らざらんと増
給ふるばかりなり︒いかが﹂と︑解しい趣向をめぐらさうとして努
力してみる右歌の作者の意図をよく洞察してみる︒ 一︐古めかしさに
はなどか立ちも勝らざらん云汝﹂には︑気の弱い性格⑳の俊頼が押
して自説を柱.げきれね口吻が見える︒内大臣家歌合は内大臣家屋判
歌合とも言ぴ︑俊頼︑基俊の両判で歌論史上︑歌合史上︑特別な形
態と内容を持ち︑それ以前の承暦二年内裡歌合や寛治八年高陽院七
首歌合などから見られる衆議判的傾向が判者に対する方人の難陳難
判であったのが︑この歌合では対立的な思想を代表する二人の判者
が︑それぞれ独自な判を下し︑通俊と経信との対立︑俊頼と基俊の
対立︑更に六条家を代表する中砂と俊成の対立を生む一つの頂点を
なす歌合であっ鞄︒この十二番 時雨 左俊勝 重 基 朝 臣 ははそ原くれなみ深く染めてけり時雨の雨は色なけれども 二半勝 為実朝臣 山家には楢のから葉の散り敷きて時雨の音もはげしかりけりと両判者の判定が異なってみて︑俊頼は左.歌は﹁珍らしげなし﹂と言って格別の興味がないとしつ﹂も︑ ﹁山家の歌は楢のから葉とい
へるいと憎きさまなり﹂と優ならざる心ことばをこのやうに激しく
攻撃し︑その結果珍らしげの無い粟興をも勝としたことは︑歌合の
左右一組の歌が常た秀歌ではなく︑.比較的に一方を勝とするためで
あって︑このことは逆に言へば俊頼が門珍らしきふし﹂を強く意識
してみることを知ることのできるものであらう︒寿歌合爵十一番右
俊隆朝臣の歌を⁝ことのほかに古めかし︑よりて前の歌勝ちたるべ
し﹂とか︑恋十番左忠房朝臣の歌を﹁︐なにともなし︑これほどの歌
は目も驚かすしと言ぴ放って古︐めかしい言ぴふるした情趣の因習的
な詠出を単的に退けてみる︒平凡陳腐な趣向を捨てて清艶な珍らしい趣向を追求しようとした言忌の特色の良く見られる忌詞であら
う︒このやうに要しい趣向を求めようとする情熱は晩年に到っても
衰へす︑大治三月二月五日の翠玉奈良房歌合に於ても︑⑳桜一番右
脚に対して一︐珍らしきふし見えす﹂同二番左歌を﹁めづらしく液く
そ見給ふる﹂と革製的な歌人として新しい構想を追求することを歌
壇人に要望してみるのである︒八雲御抄で俊頼に悶噛して 珍らしからぬ秀句は無下のえせ歌よみがこのむことなり﹂⑳と仰せられて
みるのは広く国学に於ける構想の問題として遙かに後世まで重要な
問題とされた点で︑その歌論史上に於ける理念化をした俊︑頼の意義
は大である︒前述した彼の判詞に見える︷︑心ありしの心が聖なる心
であり︑これは叉定家の和歌十体の中核である﹇有心体﹂に連なるものであり︑その有心体の理念内容段こ﹄で直接問題とすること組
49 一
〔
できないが︑千五百番歌合巻十一秋四︑七六一番
時雨には色も変らぬ高砂のおのへの松に秋風ぞ吹く 有家朝 臣
に定家は難五穀余情可謂無傷事と評してみるが︑定家の有心体の内
容が余寒を重んずる象徴的な妖艶美を基調としつ﹄も︑この判詞から考へると定家の関心は余情だけではなく殊事が無ければならない
とし︑その金事とは何かと言ふと︑毎月抄の秀逸体の歌が﹁心を・す
まし﹂⑳思ひを凝らして設けた珍らしい意匠や趣向が中心となって
みることや︑歌は一︐こしらへて出すべきL⑳ものであるとするとこ
ろがら考へると知的な趣向を指したもののやうである︒このやうな
巧緻な︻︑知的な心﹂が中心となって情緒情調の深いものを﹂有心﹂
の歌とすれば︑俊頼のやさしくうるはしい美の心﹁聖なる心﹂を基
調として︑これに﹁珍らしきふし一を加へた美意識が定家有心体へ
発展して行く前提となった意義を思はなければならないであらう︒
定家の和歌十体中の面白様︑有一様⑳は歌体を知的内容を主として
分類したもので︑これらの歌体が薄髭からの影響左受けて考へられたことは疑ぴ得ないが︑翠玉の秀歌に於ける必要条件としての⁝珍
らしきふし﹂は︑決して一歌体としての狭いものではなかったので
あって︑後拾遺集などの保守的な歌人が︑歌ぴ古された平凡な趣向
から.抜け出ることの出来ないのに対して革薪的な熱意がこの語を強
調させたのである︒であるから歌合判詞に於ても常に一説らしきふ
し﹂ある歌を勝とするのでなく︑ ﹁珍らしげなけれどもなだらかな
り﹂⑫に見られるやうに︑平凡陳腐な歌に対して﹁珍らしきふし恥やを引ぎ上げてくるのである︒であるから高脚結七首歌合の俊頼の作
⑳
山ざくら咲き初めしょりぴさかたの雲居に見ゆる滝のしら糸
を父経信は私意を挾んではならないといふ考慮から﹇きららかに詠 まれたるやう﹂だと負としたのであらうが︑優艶な風情をたけ高く︑しかも落着いて詠み上げてみる︒ 一きららか﹂と難じた点は俊頼の革薪的な清新な趣向に向けられてみるが︑この歌から見ても単に奇に走るところのものが﹁珍らしきふし⁝ではなかったのである︒俊成︑定家︑為家などが⑭これを秀歌としてあげてみるのはもっともであらう︒ 薬頼髄脳の⁝けだかく遠白きをひとつのこととすべしレは歌学大系本に拠ったが︑実方度量によると俊頼口伝集には融けだかくおもしろき歌⁝とあり︑ ︻こととすべし一が覧ふしとすべし﹂と夕桜抄を引用されてるるがこの校異はこ﹂では出来ない︒しかし秀歌の歌例としてあげた第二に﹁けだかく遠白き歌回があることから考へてこれは歌学大系本に従ふのが良いであらう︒ ﹇けだかく︸は忠塔の高情体からの影響であらうが︑歌論に於けるこの美意識は好忠︑経信︑裏罫の系列に発展して来たのであって.これが俊成の幽玄体の重要な要素をなすことは周知の通りである︒興信が⁝たけ高き﹂歌を好んだことは古来風体抄︑後鳥羽院御口伝の伝へるところであり︑俊頼もまたその影響を受けて﹁けだかく遠白き﹂歌を秀歌の成立条件と考へて来たのであらう︒ ﹁遠白し﹂の理念内容については既に先学⑯の明らかにされたところであるが︑これが歌論の理念として明確にされたのは長明無名抄の俊恵の言以後のこととしても︑俊頼髄脳に歌論上の美として意識されたところは俊頼のすぐれた点であると言はなければならない︒ 俊成の幽玄体の美的理念の内容は﹁たけ高し﹈門遠白し﹂と三代集の伝統である﹁あはれ﹂の深化たる﹁姿さび﹂﹁心細し﹂の相対立する観念の綜合の上に樹立されたものと言はれ⑳しかもこのうち後者の語によって表はされる美の意識は俊頼には認識されなかった
とも指摘されてるる⑰が︑御鳥羽院御口伝によると⑳︑院は俊頼の
50 【
一
歌であるところの
うづら鳴く真野の入江の浜風におばな波よる秋の夕ぐれを﹁うるはしき姿也﹂と仰せられ︐俊成はへこれ程の歌たやすくは
出来がたし﹂と言ったと述べてをられる︒これから考へると結髪は
詠歌の実践に於て既に幽玄の境地に味到してみたと言はなければな
らない︒
三
俊頼の庶幾した秀歌が具現するためには︑その表現が愚なる言葉
の続けがらが﹁なだらか﹂であり﹁︐すべらか﹂でなければならないし︑趣向を清新にするためには﹁古りたることば﹂に拘ってはなら
ないとする︒⑳秀歌はその表現から見ると︑俊頼の考へるやうな
﹁優なる心﹂に胚胎し︑ ﹁珍らしきふし﹂なる意匠なり趣向や構想
があり︑更に優なることばが﹁なだらか﹂﹁すべらかに一詠出され
て行かなければならないのである︒これは公任の新訂髄脳以来の歌
における調べの重要性の自覚であって︑内大臣家歌合十一番右時雨
の歌を﹁珍らしからねどすべらかに聞ゆ﹂と勝ちとしてみるやう
に︑時には︻珍らしきふし﹂の足らない場合でも調べを重んじたこ
とがわかるのである︒俊忠朝臣家歌合十三番恋左
水寵りいはで古屋の忍草忍ぶとだにも知らせてしがな
讃 岐 入 道の﹁古屋の﹂の続きが﹁破れたる心地す﹂と言ってみるのは︑語感
を重んずるよい例であらう︒
内大臣家歌合時雨十一番 左 俊 隆 朝 臣
さごろもの挟はせぱしかづけども時雨の雨は心して降れ
右両判勝と為す︐ 時 昌 朝 臣
初時雨おとつれしょり水茎の岡の梢の色をしそ思ふ の判詞で右歌を﹁珍らしからねどすべらかに聞ゆ﹂と言ぴ﹁色をしそ思ふぞ古きことよと耳にとどまる心地する一と言ってみるが︑基俊は一岡の梢の云々一は﹁言ひなれてをかしさ勝り﹂と述べ︑このやうな表現は俊頼にとって古風な思想表現として否定され︑基俊はこの伝統的なものに好尚を持つたところが異り.同じ勝にするにしてもその判定過程に開きがあることがわかると同時に︑俊頼が﹁すべらか﹂なる歌としてとった点を考へなければならない︒与へられた紙数も終ったので︑終りを急いだが︑俊頼が歌論に於ける中世的な美の自覚に於て劃期的なものを持ち.俊成の幽玄美の樹立に大きな影響を及ぼしたことを確認したいと思ふ︒
①長崎大学学芸学部人文社会科学砥究報告第一号拙稿︒ 誰
②字佐美喜三八︑源俊頼伝について︑国語と国文学昭和十四年六月号︒
③承徳元年︑俊頼四十三才②の天喜三年出生説による︒
④堀河院百首の最後的成立は長治元年四月より年宋までの問であるが︑第
一次的成立は康和四五年の頃である︒国語と国文学昭和九年九月号石田
書貞︑堀河院百首の成立その他について︑
⑤袋草紙遺編による︒日本古典全書﹁歌合集﹂の峯岸義秋民の解説では四
十四五才とあるも
註②に従うべきであらう︒
⑥左近権中将俊忠朝臣家歌合三番左歌評日本古典全書⑤歌合集二〇五頁
⑦散木集九月秋の歌﹁殿上おりたりける頃云々﹂︑ 流布本金葉集末﹁七十
になるまで云々﹂の歌︒︵国家大観七一七番︶
③類従弓袋草紙三二︑七八二頁
⑨国史大系第十七巻今鏡第二︑七四五︑七四六頁
⑩日本歌学全書三五頁︑無名抄﹁貫之躬恒勝劣﹂の記事
⑪同︑三八頁三位入道基俊弟子に成る事の記事
八雲御抄巻第六︑用意部にも虚血院の同様の言がある︒⑮三巻八六頁
田 一
一
⑫国史大系第十五巻古今著聞集巻五︑二六五頁
⑬書名については多くの異名のあることは日本歌学大系の佐々木信綱博士
の解説参照
⑭岡田希雄﹁俊頼無名抄の著者と其の著作年代﹂﹁芸文﹂十二巻六︑ 七号
井上了﹁俊秘抄考﹂︑﹁国語﹂二巻三号︒
佐々木信綱﹁俊書契について﹂国語と国文学第十六巻三号︑及び⑬参照
久曾神昇﹁俊秘抄について﹂を読む︑国語国文九巻九号
⑮日本歌学大系第一巻俊頼髄脳一八九頁
⑯実方溝︑日本歌論︑源俊頼の歌論
⑰久松潜一︑日本文学評論史総論歌論編三九六頁
⑲例へば左近権⁝中将皿俊忠朝臣家︸歌A口十番祝判
⑲二十番判詞﹁左右ノ歌ニモテ優ナリ﹂⑤の一一六頁⑳⑯参照
⑳岩波文庫中世歌論集一コ=頁︒
⑳筒陽院七首歌合二番桜︑四番月︑等の判詞︵七番歌合ともいふ︶
⑳白本古典全書歌合集二〇七一二〇八頁参照
⑳前書による俊忠朝臣家歌合二蕾︑内大臣家歌合残菊六番︑十一番等
⑳国史大系十五巻︑十訓抄第一︑六四三頁︒
⑳俊頼の温厚︑むしろ気の弱い︑臆病とでも言ふべき性絡については︑帥
記承暦五年正月十九日の賭弓の記事によると人前で大声の出せぬ人であ
つた︒其の他︑百入一首一夕話︵巻六︶源俊頼朝臣の項参照
⑳群書類従第八輯一〇一頁︑俊頼七十四才
⑳日本歌学大系八六頁︑第六用意部
⑳岩波文庫中世歌論集一七四頁︑一七八頁
⑳同一七四頁
⑳同一七三頁
⑫内大臣家歌合︑残菊一番左歌評
⑧父経信判︑当時俊頼四十才︑桜七番右
⑭古来風体抄︑近代秀歌︑詠歌一体︑ ⑳の二二七︑一六一﹃一九〇︑二〇二頁参照⑳契沖代匠記説を復活された橋本進吉﹁遠白し考﹂奈良文化第六号︒⑳次の番号の著書参照⑰久松潜一﹁日本文学評論史総論歌論篇﹁俊頼と基俊﹂の項四二四頁⑳中世歌論集二ご一頁以下⑳囚大臣家歌合残菊二業︑六番︑恋五番等多くの評語あり︒
52 }
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