数学教育はどのような順序で行うべきか
若 槻 実
1.緒 言
数学教育はどのような順序で行うべきかについては,多種多様な説がある。
小平邦彦氏は「数学の教育は,数学の歴史的発展の順序に従って行うべきである。生物 の個体の発生はその系統の発生を繰返すが,数学の教育もそれと同様で,論理的に基礎的 な概念よりも歴史的に早く現われた概念ほど子供にとってわかり易い。この順序を逆にし て子供に教えようとすれば,その分野の本質的な部分は理解できないので,結局,二本質 的なつまらない部分を教えることになる」と述べている1)。ところがJ.S.ブル・一ナーは これと意見を異にし「位相幾何学はユークリッド幾何学よりも歴史的には後で現われた概 念であるが,心理的発達の面ではこれと逆な過程をたどるのである。数学の教育は歴史的 な順序に従うよりも論理的または公理的順序に従う方がよい」2)という意味の事を述べて いる。また小平氏は「高等学校までに教え得る数学は18世紀に発展した微積分までであろ う。従って19世紀末にはじまった集合論を小学校で教えるなどとんでもない間違いであ る」1)という意味の事を述べているが,矢野健太郎氏は歴史の解釈において小平氏とは異 見を異にし「集合の概念は(自分の羊),(他人の羊)というような形で,人間が物を数え はじめる前からあったものである。2)と述べている。また小平氏は「小学生には対角線論 法も実数もわからないから,集合論の最もつまらない,どうでもよい部分を教えることに なる。小学生に教える集合論は決して難しくはないが,それは集合論の最もつまらない部 分だからである」1)と述べているが,秋月康夫氏は集合の価値について小平氏と意見を異 にし「集合は物を区別し関係を明確にするという考え方を養う上で大切な概念である」4)
と述べている。小平,矢野,秋月の三面はそれぞれ有数の数学者であるし,ブルーナーは 世界的な心理学者であるが,このように意見の分れる所にこの問題の複雑さがわかるよう である。
黒田孝郎氏は広岡亮蔵氏のらせん方式による教材構造論を批判し「教育課程を計画する 場合に銘記すべき一点は,科学や数学などの中核をなす基礎的概念の重視である。ところ がわが国では,科学による構造は実際的でないという先入主がある。教材の構造よりも教 科の構造を,そしてさらにはその教科の依拠する学問の構造を先行させることある」5)と 述べているがB.S.ブルームは「教授と学習の構造は,教育学的考察に基づいたものでな ければならず,必ずしもその領域の学者による見解そのままである必要はない」6)と述べ ている。数学教育の中に数学の構造をどの程度に持込むべきかは,数学教育の歴史の中で 常に議論されてきた所である。
以上は数学教育全般を通じての大域的な議論に関するものであるが,どちらかといえば
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局所的な指導順序に関する方法論として,水道方式がある。遠山啓氏は「水道方式は 特 殊から一般へ というドグマを打ち破った」7)と称している。ところがこの水道方式に対
して「つめこみ教育」「人間形成を忘れた無味乾燥な非人間的教育」という非難の声もあ るという事を遠山氏自身がのべている。7)
本稿では以上のような諸点を踏え,数学教育をどのような順序で行うべきかについて,
数学の歴史的発展の順序,心理的発達の順序,数学の体系,水道方式それぞれとの関係に 関する考察を述べる次第である。
2.数学の歴史的発展の順序との閉係
数学の歴史は大まかにいえば,法則または概念の発見または発生,それらの具体から抽 象へ,特殊から一般へ,素朴から洗面へ,曖味から厳密へ,粗雑から精密への過程を辿っ ている。このような数学の歴史の過程は一人の人間が物を発見してその認識を深めていく 過程に酷似している。一人の人間が何かを認識するとき,最初から厳密に精密に一般的に 見えるわけではない。次第に正確に精しく見え構造や関係がわかって来るのである。子供 に数学を教えるとき,抽象化され厳密化され精密化され,いわば出来上ってしまったもの を持ち出しても,子供の認識能力はそれを受けつけないであろう。かって発見された当時 の具体的で素朴な姿に立ち戻り,その生成発展の過程を辿らせる事によって,よく解らせ る事ができるのである。しかもこのようなかっての素朴な姿を見,その生成発展の過程を 辿ることは,数学の本質を身をもって味わう事になるのである。例えば微積分を教える場 合,はじめから実数の連続性やε一δ論法を教えても徴積分の本質は掴み難い。はじまっ
た当時の微積分がそうであったように,余り厳密な事はいわずに,区分求積によって体積 を求めたり,平均速度の極限として速度を求めたりして,その生れた当時の姿を味わせ,
しかる後厳密化一般化されたものを教えるべきであろう。勿論厳密化や一般化も数学の重 要な仕事である事に違いないのである。
このような意味において,緒論で述べたような「数学の教育は数学の歴史的発展の順序 に従って行うべきである」という小平氏の説は非常によくわかるのである。緒論で述べた 矢野氏も恐らくこの小平氏の説に反対なのではあるまい。矢野氏と小平氏の見解は相違は
「集合は人間が物を教える事を知る以前からあった」と「集合論は19世紀末にはじまった ものであるから,小学生に教えるのは聞違いだ」にあるのである。筆者の知る限り,矢野 氏は数学教育に集合を持ち込む事を提唱した最初の一人である。ところで現在小学校で教 えられている集合(小平氏のいう集合論)は 山田くんの家族 , あがねをかけている 人 といったように,物をある条件で区別するためにあるものである。そのような意味で は 自分の羊 , 他人の羊 というような用い方,すなわち人聞が数えることを知る前 からあった概念であるという事ができる。欧米のset, Menge, ensenbleという日常語 がずっと古い歴史をもつように,そのような意味において用いられている小学校の集合 は,ずっと古い歴史を持っていることは確かである。この集合が小平氏のいうように無意 味なものであるか,秋月氏のいうように有意義なものであるかは別として,その歴史的な 位置づけ方としては矢野氏の方が正しいように思われる。
ところで一体,小学校や中学校における教材内容を一々歴史的に位置ずけすることがで
きるのであろうか。例えば小学校1年生の段階で,整数(自然数)を個数の段階から数直 線上の位置の段階へ移すのがあるが,この数直線は数学の分野でいえばどこに属し,歴史 的にはどこに位置ずけられるのであろうか。解析幾何学だとして17世紀頃に位置ずけられ るのか,「ある点を基準にしてそこからどれだけの距離にある位置」という考え方は紀元 前からあったとしてそこに位置ずけられるものであろうか。こう考えてくると,実は数学 の歴史をさかのぼるとき,現在の数学の殆んどの分野の芽生えが,既にそこにはあったの であるまいか。大まかにいえば,小学校の内容はその芽生えの時代のものであり,中学校 の内容はそのやや進んだ形であり,高等学校の内容はいくつかの分野に分れる時代のはじ あの部分だといえるのではないか。したがって,現代数学の分野をそのまま小学校,中学 校の中にまで持ち込み,その分野の歴史的順序をそのまま小学校,中学校で教える順序に まで持ち込もうとするのは間違いであるまいか。大まかにいえば数学教育は「小学校→中 学校→高等学校→大学」の過程を,数学の歴史の「芽生え→若木→枝分れのはじめ→枝の 成長」の過程に合わせ,更に各分枝の中で,「具体→抽象,曖昧→厳密,特殊→一般,素 朴→洗錬,粗雑→精密」の過程を辿らせるべきである。大木になってしまった後,その分 枝のできた順序を二葉の時代にまで持ち込もうとしてはならない。いうまでもなく歴史的 発展の順序に従うといっても,それを動かすべからざる大前提として受けとってはならな い。教育が成立するための条件は極めて複雑で,他にも配慮すべき事柄は少なくない。歴 史的発展の順序は他の教育的配慮から動かされる事も当然あり得ることである。
3.心理的発達の順序との平調
ブルーナーは「とくに数学の教育課程の順序をどうするかということに関連したいま一 つのことがある。心理発達の順次性は教科の中にある諸概念の発達の歴史的順序性にした がうよりも,もっと密接に教材の公理の順性,分離性,内在性などという位相幾何学上 の概念は,幾何学におけるユークリッド的概念や射影幾何的概念に先行していると考えら れている。もっとも,数学の歴史においては前者の諸概念は後者の諸概念よりも形式化さ れるのがおそかったのだが。教科の構造を教えるのに,歴史的発展の順次性よりもむしろ 適切な論理的または公理的順次性に従うことになにか特殊の理由づけが必要であるとすれ ば,いまのべたことがそれをしてくれる筈である」とのべている。すなわち歴史的には
「ユークリッド幾何学→位相幾何学」だが心理発達の面では「位相幾何学→ユークリッド 幾何学」であるから,後者の順序で教育課程が組まれるのがよいのではないか,という事 である。実際この「位相的→ユ・一クリッド的」は!953年,ピアジェが発表しているもので ある。8)子供は用いた線,閉じた線,切れた線,などを早くから認識するし,幼児のかく 絵は,形よりも頭,二本の手,二本の足があるかどうかという位相的な観点でかかれてい
る。したがって心理発達の順序は「位相的→ユークリッド的」であり,教える順序もこの 方がよいというのである。
筆者は心理学はよく知らないが,この説にはいくつかの疑問を持たざるを得ない。めく ら蛇に困ずの類かも知らないが,その疑問を述べて諸賢の批判を乞いたい。
人間の認識能力の成長は「具体→抽象」,「単純→複雑」,r曖昧→厳密」,「粗雑→
精密」,「狭さ→広さ」などの過程を辿るように思われる。ピアジェのいう「感覚・運動
→操作前→具体的操作→形式的操作」9)は上にあげた「具体→抽象」と同じ方向の成長過
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鐘であるが,それだけで認識能力の成長を説明し切れないように思う。少し抽象的でも単 純な事ならわかるように,複雑にこみ入った事柄はたとえ具体的でもわからないことがあ
る。1,2才の幼時期は上述の曖昧,粗雑の段階であって,母親と母親以外の人というよ うな,数学でいえば集合としての区別,ひもが結んである,ひもが結んでないというよう な,数学でいえば位相的区別がまず理解できる時期である。しかし,その離すぐに 大き い 小さい 曲っている まっすぐである ,というようなユークリッド的認識の 時期がやってくるのである。すなわち位相的把握のみの時期はほんの一時期で,その後は ユークリッド的と位相的とが同時進行していると考えられる。このような事は日常の体験 の中で余りにも明らかな事である。小学校の入学時;期に達すれば, さんかく , しか
く , まる , 大きい , 小さい , まっすぐ , まがる , とがってい る , とがっていない ,というユークリッド的感覚の方が活発で, まるのうちが わ まるのぞとがわ というような位相的感覚の方があまりにも漠然としていてピンと 来ない(というと少しいい過ぎたが)ようになって来ているのである。このような子供達
に図形教育をする場合,漠然とした位相で教育するよりも,さんかく,しかく,まる,な どで図形教育をやる方が効果的であろうと思うのである。位相的な認識が先にあるという のは,粗雑,曖昧の段階にある一時;期のことで,既にある程度の発達を遂げ,興味の対象 がもっと精しいものに向っている学齢児童をそこに引き戻す必要はないように思う。大学 生がドイツ語を学ぶ方法と幼児がドイツ語を学ぶ方法が同じでなければならないというこ
とはない。十段目までのぼってしまった人は,その後十段目から登り出せばよいのであっ て,はじめの一段目からやり直さなくてはならない理由はないのである。教育というもの は幼児のときから辿った過程をそのままもう一度たどるのが最も良い方法なのだという説 のあることはわかるが筆者の素人考えではこの説を十分理解し得ない。筆者はこのような 意味において,ブルーナーの「数学の教育課程の順序は論理的または公理的順序に従う方 がよい」という説には疑問をもたざるを得ない。
それでは心理的発達の順序と数学教育の行われるべき順序が無関係なのかというとそう ではない。のみならず心理的発達の順序を無視しては教育は成り立たないのは明らかであ る。前に述べたように,人間の運動能力が強さ,敏捷さ,正確さ,持久性,瞬発性,柔軟 性などがあるように,人間の認識能力の成長にも「具体的把握→抽象的把握」,「単純な 把握→複雑な把握」,「曖昧な把握→厳密な把握」,「粗雑な把握→精密な把握」「小規 模な把握→大規模な把握」というような多様な方向性があるように思われる。ピアジュは この中の「具体的把握→抽象的把握」の事を主に論じているように思われる。数学の教材 が子供の認識能力に応じて,適度に具体性,単純性,小規模性をもち,まあり厳密でな
く,あまり精しくないものでなければならない。子供の心理的発達からかけ離れて抽象的 過ぎたり複雑過ぎたり大規模であり過ぎたり,厳密であり過ぎたり,精密であり過ぎた
りしてはならないのはいうまでもない。ところでまた人聞の認識能力は自然の発達に任せ る以外に方法がなけというものではない。それは練習によって発達するものである。たと えばはじめは学習者にとって抽象的な内容であった事柄でも練習の積み重ねによって,具 体的な内容としての役割を果すようになることはよく経験している所である。また思考の 練習を積み重ねると直管としての脳が発達するという事は脳生理学の教える所である10)。
すなわち練習は考え易い手掛りをつくってくれると同時に考える力もつけてくれるのであ
る。数学の教育もレディネスの発達をただ待つだけでなく,レディネスの発達を促すよう なものでなければならない。心理的発達を十分配慮しながら,それを助長させるものでな ければならない。
4.数学的体系の関係
教育の目標は人間形成にあり,数学教育の目標は,そのうちの特に数理的論理的な思考 力と態度を養い,事象を数理的論理的に処理する能力を養うことにある。数学はその目標 を達成するための一手段として位置づけられる。上記の目標を達成するための方法として は勿論数学を教えることが最適であることは疑いのない所であるが,その数学をどのよう な形で教えるのがよいかについては議論の分れる所である。黒田氏の「科学の構造を先行 させること」が出来上った数学をそのまま教育の中に持ち込むことを意味するならば,子 供にとって抽象的過ぎ,複雑過ぎ,厳密すぎであって手の届かない存在となり,有害無益 となるであろう。出来上った数学という意味では,ブルバギの 原論 がその典型であろ うが,弥永昌吉氏は「大学教育においても,ブルバギの黙原論 をそのまま教科書とし て用いるのは,多くの場合成功をもたらさない。それは経験上よく知られている事であ る11)」と述べている。弥永氏の経験といえば,恐らく東京大学理学部での経験を指して いるのだろうが。パピイの教科書は,集合を基礎にして平行とか整数とかを定義し,自然 数の演算のみたす法則を証明するという極端なものである。これを小学校6年で教えて或
る程度の成功をおさめたというが,信じ難いことである。余程よくわかる生徒であったに ちがいない。一般には,ブルームのいうように,科学の体系とそれを教育するための体系 は必ずしも一致する必要はないのである。むしろ子供のレディネスに応じて「具体→抽 象」 「単純→複雑」などの過程を辿るのがよく,小学校前半,小学校後半,中学校などの 各段階で,それぞれ各領域(二つ乃至四つぐらいの大まかに分けたもの)について一通り 教えるというやり方がよいのではあるまいか。現行のスパイラル方式は,あまりにも周期 を短かくし,一つ一つの教材がこま切れ的になり,現代化失敗の原因になっている。
勿論数学の体系が教育上全く無意味だというわけではない。教育のための体系の中に も,自然数,整数,分数,小数などの関係,合同,相似の関係,一次方程式,二次方程 式,の関係などそれぞれ重要な意味をもつものである。レディネス形成の各段階にも,そ れなりの数学的体系が存在していなければならないのはいうまでもない。
5.水道方式に関して
水道方式は部分的にではあるが,計算の指導順序に独自の工夫をしたものである。例え ば整数の加法は通常
2十2一一一→・9十9−20十2一一→20一←20 −22十20一一一>22十22一一一→29十29 の順序で教えられているが,水道方式では
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22 20 20
ロ ジ / 十20 十20 十 2
22/ 一 2十2一一→9十9一 _ト22 \
一 \ 29 十29
一一 一 一
ω (ロ) ㈲
の順序として(イ)の部分を素過程,回の部分を一般(水源池),㈲の部分が特殊(家庭)と 名づけている。水道方式提唱都「(・)1こおいて溺を粉指導して湖ば,¢高分は その特殊な場合として簡単に出来る。それに引きかえ通常のやり方では,20+2,20+
20,22+20,22+22,などを一々やらなければならないから子供が間違い易い」と主張し ている。これに対して水道方式反対論者は「22一←22をたて書きの計算でやって,たとえ答 えは正しく出したとしても単に2+2を2回くり返したに過ぎない子供がいるのではない か。22+22の筆算形式で位取りの意味を十分理解できる子供は20+2,2Q+20,などが出 来ない子供である。この子供達に,はじめから筆算形式,22+22をやらせる場合,たとえ
タイルなどを用いてどんなに良く説明したとしても,計算となると2+2を2回繰返した に過ぎないという恐れは十分ある。子供は説明によってわかるのではなく,やる事によって わかるものだからである。したがって本当に位取りの概念をわからせようとするならば,
20+20,20+10,10+2,20+2……などを繰返しさせる方がよい。」と主張している。
また分数の乗法は通常,
÷×2−1×1−2÷×1−2÷×41
のように進むが,水道方式では /5×2
÷×1〈223 23
\25×一「一→23×4了一
の順序で勘のである・1×÷力搬(水源池)で÷×2・2÷樗などは鰍
(家庭)である・水無産の提唱都「一調×÷をやっておけば・1×2一÷×
÷・2÷×1壽×1のようにできる・この方法でやれば分数は鍍わか蜴 い」と主張する・水勘式反対緒はrl×2の意味のわからない子供が・1樗一 鞭味がわかるだろう加意味のわか蜴さからいえば÷×2の方がはるかにわか呪
い・÷×2の意味がわかればこの計算もできる筈である・もし1×÷からはじめる とすると・1×2のよく出来ない子供・すなわち水勘式で救わ鮒ればならないと称 する子供はそれこそ何もわからないでしまう事になる・1×2・1×2・÷×2・
2 ×2などについて絵などをみながら繰返し練習することによってわかるようになるの 3
だ・1×÷などをたとえ・タイルなどを用し・てどんなにていねいに糊しても子供は 説明だけではわからない。殊に救わなければならない子供ほどわからないものである。で
きない子供というのは教師の話を30%くらいしか聞かないものである12)。説明された事 柄の7Q%が空白になっていて,どうしてこのような難しい醐がわかるだろうか・÷+
1一争計÷寄とやる子供がずい分いるが・水道方式はこういう子供を多
くっくることになりはしないか。はじめからレールを敷いてやって,その上を走らせると いうやり方では,数の概念が育ち難いばかりでなく,形式的機械的な思考の持ち主にして
しまいはしないか」と主張する。
ところで遠山氏は「水道方式は 特殊から一般へ というドグマを打ち破った」と称し ているが,
□□
+[]□
22 +22 型 (0が1つもない)
22 +20 型
(1の位が1つだけO)
その他 22 22
でわかるように.←20は+22の特殊な場合ではない。また水道方式の提唱する 折れ線 の幾何学 13)は開いた折れ線から多角形への進む方式だが,
㈱儲麟撫
からわかるようにこれも 黙一般から特殊へ ではないのである。もしこのような順序を
一ハから特殊 であると称するならば,通常のやり方の中に 一般から特殊へ が無数 にあるという事になる。何故なら,ある典型的な例をやってから他はそれに準じてやると いう事ならば,殆んどの場合がそうだからである。また通常のやり方でも本来の意味での
一ハから特殊へ はいくらでもある。その一つの例が
三解く講鴬野〉直角二等辺三脚
と進む順序である。ただ初等教育においては,特殊から一般へ,具体から抽象へ,単純か ら複雑へというのが殆んどの場合に必要な順序である事に違いはない。上述の三角形の場 合は,一般から特殊へとなっているがもう一つの原則, 条件の単純なものから条件の複 雑なものへ を満しているのである。水道方式の加法や乗法は 形式的な単純から形式的 な複雑さへ の条件をみたしているのである。ただし 形式的な単純さ は 安易な容易 さ そして 内容の見過し に通じる恐れがある事と銘記すべきである。
遠山氏はまた因数分解について「根の公式を用いてやればよい」13)と述べている。こ の方法は形式的には極く単純であるから,時間をかけさえずれば誰れでもできるであろ う。しかしこれで二次式とか,因数分解とか,二次方程式とか,根の意味などがわかるだ ろうか。根はもともと因数分解から求められたものではないか。因数分解を知らずに根の
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公式を機械的に憶えて,それで因数分解するなど話が逆である。何も急ぐ必要はないので ある。簡単な因数分解でよいから繰返しやって因数分解の意味,根の意味をじっくり味わ い,それから根の公式を用いて分解する方法を教えても遅くはないのである。x2−3x+
2のようなものを一々根の公式を用いなければならないようでは非能率的である。因数分 解の考え方は数学のあらゆる分野に登場してやる重要なものである。それを一々根の公式 を用いなければ出来ないような理解の仕方では不自由な話である。とに角答が出ればよい という安直なやり方では数学教育にならない。それはキイさえ押せば答がでる計算機を用 いているのと同じだからである。数学教育を行う場合の順序の原則として 単純から複雑
へ ェあるが,それはあくまでも中味を味わいながらでなければならない。
5.結 論
数学教育における順次性は,歴史的発展,心理的発達,数学的体系のそれぞれと密接な 関係をもつものであるが,これらを杓子定規にあてはめてはならない。殊に初等教育の数 学は数学芽生えの時代の殆んどを包含しているものであるから数学完成後の分野の順序を ここにあてはめようとしてはならない。
また幼児期の僅かな時間だけ位相的把握がユークリッド的把握に先行したからといっ て,既にユークリッド的認識の中で生活している小学生に,位相的教育から始める方がよ いというブルーナーの説は理解できない。教育は,その時点でのレディネス,興味関心に もとづいて考えられるべきである。
また形式的単純さを重視する水道方式は本質的にはかえって非能率的ではないかと考え
る。
文 献
(1)小平 邦彦著 数学教育を歪めるもの 文芸春秋 昭和50年8月号 p.128〜132
(2)J.S.ブルーナー著 鈴木祥義,佐藤三郎訳 教育の過程,岩波書店 P.55〜56
㈲ 矢野健太郎 講演 NHK総合テレビ
(4)秋月 康夫著 「集合」で論理を理解 日本経済新聞 昭和50年12月8日号
(5)広岡 亮蔵著 教材構造入門 明治図書 p.114〜U5
(6)B.S.ブルーム著梶田叡一他訳教育評価法ハンドブック 第一法規P.16
(7)遠山 啓渡辺幸信著水道方式について数学教育協議会p.4
(8)コープランド著 佐藤俊太郎訳 ピアジェを算数にどう生かすか 明治図書p.254〜296
(9)波多野完治編 久原 恵子他著 ピアジェの発達心理学 明治図書 p.55〜117
(1① 中 脩三著 脳髄の発達と教育 慶患通信 p.249〜271
(11)弥永 昌吉著 数学教育の現代化について,科学 Vo143喩8 p.486
働 遠山 啓著 水道方式入門整数編 国土社 水道方式入門 小数・分数編 国土社
⑬ 波多野完治著 教育機器の学習心理学 大日本図書
(1の 仙波 元著 中学校の幾可(上)(下)明治図書
㈲ 遠山 啓著 新数学勉強法 講談社 P56〜60.