• 検索結果がありません。

沖禎介の「文明学堂」創設前後の日中教育文化交流の一断面

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "沖禎介の「文明学堂」創設前後の日中教育文化交流の一断面"

Copied!
26
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

―文明学堂章程(条規)の資料紹介もかねて―

増 田  史 郎 亮

A Phase of the Exchanges of Educational Culture between China and Japan before and after

the Establishment of Bummei‑Gakudo by Teisuke Oki

 ―Partli for the Introduction of the Historical  Materials of Bummei‑Gakudo‑Shotei―

Shirosuke MASUDA

 沖禎介の「文明学堂」創設前後の日中教育文化交流の一断面一文明学堂章程(条規)

の資料紹介もかねて一

      増田史郎亮

 矢動丸広氏の「平戸史話」によれば「平戸の藩史の中で,ロマンチックな匂いのする人 物を求めるなら,浦敬一,菅沼貞風の二人であろう。」と言うが11)平戸藩史以後も含めて平 戸が生んだ海外発展に関係のある人物を掲げるとなれば,上記両氏以外に沖禎介を挙げね

ばなるまい。それぞれ,浦敬一は万延元(一八六〇) 年生れ,菅沼貞風は慶応元(一八六 五)年生れ,沖禎介は明治七(一八七四)年生れで,生れこそ異にしているが,その志し た所,行動には海外発展という類似した点がある事を筆者は感ずるからである。平戸と言 う対ポルトガル・イギリス・オランダ貿易港としての土地柄がこういう人士を輩出せしめ たと言うべきであろうが,今暫く,この三人の類似性に触れてみたい。

 浦敬一は明治二十(一八八七)年,中国に渡った。年二八才である。翌年,漢口の楽善 堂の十数人の同志達と対露策を討議し,その結果,楽善堂を嫁点として同志で中国各地を 踏査する事に決し,浦は新旧方面に派遣される事となった。それで直ちに彼は蘭州まで行っ たが,一旦引返し,翌明治二二(一八八九)年三月,再び新潮に向って出発し,五月,西 安を経て九月,三州に到着し,その後,西蒙古の嘉三関へ向つた所まで判明しているが,

以後一切の消息は不明のままである。因みに漢口の野間堂というのは彼の有名な岸田吟香 の経営していた薬屋で,渡清した日本の「志士ヲ会シテ共二清国ノ時事ヲ談ジ大二為ス所ア ラント」していた『)浦敬一も「居ルコトニ年清話二熟シ辮ヲ蓄工宛然一個ノ清人ト化ス」

(2)

程で,志士達「ト伍シ侶二別々タル令聞アリ」,語り,楽善堂の仕事に参加していた訳であ る曾}このグループの中に「命ヲ帯ビテ渡清シ」ていた荒尾精がいたが,「平戸郷土誌」など によると,「荒尾等ハ明治二十年露国が二二利亜鉄道ヲ敷設シテ東亜方面二活躍セントスル ノ計画ヲ有スルコトヲ知ルや之が対策ヲ百万討議研究ノ末,十年以内二清国ヲ改造シ日清 相提携シテ其南下ヲ防遇スルノ外,策無シトシ其第一着手トシテ民二補助員若干名ヲ付シ テ,時ノ伊門下軍二丁巣ヲ説キ其幕僚トナツテ先ヅ蒙古民族ノ結合ヲ計り,以テ同志ノ士が 支那本部改造ノ目的ヲ達スルマデ露人ノ辺彊侵入ヲ防二二ントスルノ計ヲ画セシナリ。」と いう事であった。筆者が先に,同志達が対露策を討議し…各地を踏査する事に決し…派遣 される事となったと述べた事と以上の文がオーバー・ラップする事は言う迄もない伊浦敬 一が「漢ロヨリ実父二巴レル最後ノ書翰」には次のように述べられていて,当時の,彼の みでなく,彼等の考え方の委曲も尽されていると考えられる。前の文のみならず後の文に も関係ありと考えるのでここはやや長いが,引用してみよう。「清国二渡航以来,実地二二 イテ清国々内ノ形勢及欧州諸国ノ清国二着手スル方略ヲ熟察スルニ,実二驚クベキ有様二 之レ有り,先ヅ欧州諸国ノ清国二対スル有様ヲ略述スレバ,英国ハ東方政略二二モ早クヨ リ着手スル処ニシテ,諸国ノ南地ナル香港ヲ奪領シテヨリ着々歩ヲ丁丁,各港二於ケル利 権ヲ占ムルノミナラズ,信証清国ノ中央ナル揚子江沿岸ノ権力ヲモ占有スル事二注目シ,

近来四川省重慶府開港ノ条約ヲ実施センが為メ,漢ロヨリ重慶二適スル汽船ヲ作り,清政 府ト談判シ,日ナラズシテ汽船ヲ通ジ開港スル事二相運ビ申ス可ク,又印度ヨリ延長セル       ビルマ

鉄道ハ,二三緬句ヲ経テ清国ノ四川雲南二連接スル事ヲ計画致シ居り候得者,二二遠回ラ ズシテ成就致ス可ク候。蓋シ英国ノ今日清国二対スル政署ハ陽二清政府ヲ援助シ……以テ 露国ヲ防ギ,而シテ東洋二於ケル権力ヲ保持セントスル事二在ル事ハ十目ノ視ル処二之レ 有り。……仏国ハ安南ヲ征服セシ後,未ダ充分手ヲ出サザルモ,其ノ清国々境ナル雲南地 方ヲ窺イ居候事パー日ノ二二之レ無ク,独逸ハ東洋政策二手ヲ着ケタル事ハ,近来ノ三二 之レ有り候得共,其術ノ巧ナルヲ以テ非常二進歩シ来り,李三章ノ顧問ニモ自国人ヲ以テ シ,海軍ノ指揮官ニモ総テ自国人ヲ入込マシメ,種々ノ方便ヲ用イテ清政府二信用ヲ買イ,

而シテ財政上軍略上等ノ事二二立入リ,且ツ貿易上二二テ近来東洋二丁勢力ヲ大二有スル ニ至リタルコトハ著シキ事実二之レ有り。……右二墾ゲタル処ハ恐ルベキ事二三得共,此 等ハ先ズ直接二奪略主義ヲ以テ来ルニアラズ,種々ノ方便ヲ運ラシ東洋二等ケル権力ヲ占 メ,而シテ將来ノ計ヲナスニ過ギザレドモ,凹凹モ恐ルベクシテ満腹ノ雄図ブ展ント欲ス ルモノハ露国二之レ有り候。露国ノ目的ハ,御承知遊バサレ丁令リ其図南ノ志ヲ抱クヤー 朝一タノ二二之レ無ク,一丁ヲ奪ウニハー地ヲ略シ,漸々蚕食シテ中央亜細亜ハ大半其有       アフガニスタン

トナリ,一方二於テハ阿不干斯学ヲ越エテ印度ヲ衝カントシ,一方二於テハ清国ノ新彊蒙 古満州及朝鮮ト境ヲ接シ之ヲ略シテ,遂二清国ノ本部ヲ衝カントスルノ計画ハ日二盛ンニ    シベリア       ウラジオストック

シテ,二丁利亜鉄道ハ四,五年ヲ出デズシテ黒龍江ヲ経テ浦二期徳二連接致ス可ク,中央 亜細亜鉄道ハ数年ナラズシテ清国新彊二達スベシ。斯クスレバ,露国二於テ大兵ヲ繰出ス ニ数日ヲ費ヤサズシテ清国々二二討チ入ルベク,清朝ノ兵備ニチハ決シテ防禦ノ道之レ有 ル間敷候。而シテ又タ清国ノ内地緊要ナル処ニチハ商人二二シ武官ヲ入レ……要路ニハ処 トシテ露商若クハ宣教師アラザルハナシ(英仏ノ宣教師モ到ル処在ラザルハナシ)。此等ハ 皆ナ軍略上ノ偵察二従事スルモノニ之レ有り,又武漢口其他ニケ処二大ナル茶製造所ヲ設

(3)

ケ,之ヲ担任スルモノハ佐官以下ノ武人ニシテ,陽ニハ北清ノ利権ヲ占メントシ,陰型ハ 他日雄略ヲ展スノ方策ヲナシ居り候。其方略ノ大戸シテ而シテ着々歩ヲ進卜居ル固目,実 二寒心ノ至りニ之レ有り候。欧州諸国ノ清国二対シテ着手スル有様ハ,大略此ノ如キ勢二 御座悪処,顧ミテ清国ノ形勢ヲ看レバ,実二長大息ノ至りニ之レ有り,……実二危急存亡 ノ秋ト存候。清国ハ野卑ト唇歯里雪ノ形ヲナスノミナラズ,地勢力亜細亜ノ中原ニシテ,

之ヲ保テバ亜細亜二覆タルノ利ヲ有シ居候。故二我邦二於テ,進デ欧州ト威ヲ争ワントス ルニモ此ノ地勢ヲ連合スルニアラザレバ出来申サズ。若シ一旦,欧州ヲシテ清国ヲ制セシ メンカ,寺号層形格シ勢禁シ,進ム事モ出来ズ,退ク事モ出来ズ,遂二共隠亡滅野獣ルハ必 然ノ理博シテ,清国ナケレバ即チ我邦ナキト同様二之レ有り。サレバ,,今日清国ノ憂ハ実 二甲唄ノ憂,手足ノ憂ニアラズシテ,腹心ノ憂二之レ有ル可ク候。今ノ論者,清国二対ス ル策ヲ論ズルニ,或ハ云ウ和スベシ,三田云ウ戦ウベシト。然レドモ実際手ヲ下サント欲 セバ,和スルモ戦ウモ,実二容易ナル事ニアラズ……。且ツ,対自ラ大国中華ヲ以テ自ラ 居り,深ク我ヲ軽侮シ,我亦タ彼ノ腐迂ナルヲ軽侮シ,双方意気投合セザルや極メテ甚シ ク,我仮令,節ヲ屈シテ交ヲ求メントスルモ,彼却テ己二奉承スルモノトナシ驕傲ノ念ヲ 生ズルノミニ之レ有り。シカノミナラズ,彼ノ国勢今日ノ如キ有様二男得バ,之ト交ヲ厚 ウシテ,東洋ノ振興ヲ共二手セン事ハ到底豊平ナキ様国号ラレ候。然レバ,則チ彼トー戦 スルヲ以テ得策トスルカト云ウニ、彼国内衰弊スト錐モ,国力ヲ墾ゲテ海岸防禦二力ヲ用 イ居レバ,外部頗ル堅固二,其軍艦ノ如キハ,充分我二勝レルトモ劣ル事ナシ。之ヲ撃破 シテ,万全ノ勝ヲ収ムル廟算アルカ。仮令廟算アリトスルモ,充分二善後ノ方策アルカ。

云々」(文中,筆者が読み易いようにした所と新仮名遺いに改めた所がある。以下同じ)

と。(5野上は浦敬一の中国観・欧州諸国観の大要であるが,これが彼のみならず,奇特堂の 志士達の考え方と共通したとも考えられ,またそれは当時の為政者層,実業家層,知識人 層の考え方の相当程度とも重なったとも考えられ,こう言った考え方の大前提の上で,先 の楽聖社グループの上記の言動も考えられた事は前述の通りである。前の文・後の文にも 関係し,また当時の為政者達などの考え方をも集約していると思われるので敢て長い引用

をした。

 尤も,ここの所で論者或いは次のような疑問を発するかも知れない,浦敬一は英仏独の やり方を奪略主義に非ずと見ているが,果して然るかと。浦はまた,英仏玉露諸国の蚕食 的中国経論を盛んに非難するが,自己を含む楽善会グループの中国経輪については全く無 反省ではないかと。ここを衝かれれば,それらについて多くの人は批判の余地なきにしも あらずとするであろう。或いは一部の人は却って批判の余地大いにありと言うかも判らな い。筆者がそこまで言えば,論者の中には,英仏独のやり方が奪略主義に非ずとする浦ら の解釈には問題ありとする考え方については一応納得のするとしても,浦,荒尾ら楽善会 グループの中国経論は英仏摩羅の蚕食的中国国倫ほど露骨なもの,えげつないものではな

く,寧ろそこでは後述のように中国とは同三共苦,唇歯輔車的な連帯を示しているではな いかと反論する向きもないではなかろう。浦敬一の父親に宛てた最後の書面にも見受けら れるように,彼等の中国経紛の中には確かにそういう欧州列強に迫られている弱国同志の 連帯感も見られ,成る程,日中間の関係は唇歯輔車,同憂共苦のそれであると説明されて はいるが,和すれば彼の軽侮を招く,戦えば我に勝算の見込は難し,彼侮り難し,和戦何

(4)

れも難しと言っている点は如何?と筆者がその論者に若し逆襲したとしたら,その人はど う答えるであろうか。その論者も筆者如き反論に屈せざるをえないのではなかろうか。成 る程また,日本の中国経論はこの頃までは,ある面,中国を見下しながらも恐れている感 を免れず,中国に対し脅威感と劣等感とを持っていたので蚕食的英仏独の中国経編ほどの 直接的露骨さは当時はなかったとしても,それを裏返し,時を得れば攻撃に転じうる体の ものであった事は確かである。これに就いては後でも言及する積りである。少くとも,彼等の 主観では,中国を干渉・蚕食している気持が当時の彼等になかったとしても,客観弓勢,又は 後から考えると決してそうではなかったと言えるのではなかろうか。筆者にはそこに後年満州事 変の際の「満州は日本の生命線」,今で言う「代理国境」の原型があるような気がしてならない。

 菅沼貞風と言えば,彼の有名な,「大日本商業史」の著者であり,それが(東京)帝国大 学卒業時の卒業論文の原型であったと言う事で有名である。帝大入学前年の明治一六(一 八八三)年には大蔵省関税局(貿易沿革史編纂の企画)→長崎県→北松浦郡役所の依嘱に よる「平戸貿易志」なる報告書の提出があり(後で増補訂正されて刊行された),これが先 の著の言わば前史であり,またこれは貞風が海外に関心を向けた具体物の最初であると言 えよう。然し,彼の海外への関心はこれで跡絶えた訳ではなかった。明治ニー(一八八八)

年帝大を卒業すると間もなく,東京商業学校に奉職する傍ら,日本商業史の編纂に当る事 となったが,教壇の講義だけでは飽足りなくなり,わが国の対外事業を興隆せしめたい念 が時に勃然として起り,そのためには南方,海南諸邦の実情を調査して貿易や植民政策を 画策し,同胞を喚醒したいと考えるに至った。彼は自己の担任講座の終わった時点で辞任 を申し出,慰留されたが,決心は固く,辞任し,翌二二(一八八九)年四月,マニラに向 け,東京を出発した。浦敬一が,大陸の奥へ帰らぬ旅につこうとして漢口を出発したのが この年の三月であり,西安を経て蘭州に到着したのが九月であった事は前述の通りである。

貞風はマニラにいる事四ヶ月,実地踏査に記録に精魂をうちこんだ甲斐あって基礎資料の 収集も完了したが,帰朝の準備にとりかかった折,病を得て,同年七月,マニラの空で病 残した。年僅かに二五才であった『}、

 沖禎介に関しては,平戸尋常高等小学校編「平戸郷土読本」の関係箇所を借りると,次 の如くなる。明治「三四年九月渡清,北京二入ル。東文学社長中島裁之氏ト相識リ二二其 社ノ教師トナリ,中島氏ヲ補佐シテ校務ヲ処理ス。清人亦能ク氏ノ威厳アル風采二服ス。

三六(一九〇三)年六月,議,中島氏ト合ワザルモノアリ,退テ,二二文明学校ヲ創立シ,

専ラ乱文ニヨリテ清国ノ子弟ヲ教ウ。同士田村一三等,該学堂ニアリテ能ク氏が業ヲ輔ク。

三七年二月,宣戦ノ大詔下リ北京二心テ特別任務班ノ組織セラルルヤ,氏踊躍シテ日ク,

当サニ吾が宿志ヲ成スベキ秋ナリト。後事ヲ諸同人二托シ有志ト共二慨然奮起盟テ王事二 尽サント進ンデ命ヲ奉ズ。特二困難ナル任務ノ配当ヲ受ケテ北京ヲ出ヅ。朔北不毛ノ地,

胡馬二二噺クノ辺,減等一行六人,服ヲ変ジテ二丁僧トナリ,潜行五〇余日備サニ銀苦ヲ 嘗メ漸ク敵ノ背後二出デ鉄路橋梁ヲ殿タントス。乱世ノ山江將二成ラントシテ不幸横川ト

       ハルピン       キク

忌日敵手二落チ吟爾賓二二送セラル。敵二百端鞠訊スレドモ答ウル所ナシ。唯日ウ我ハ大 日本ノ沖禎介ナリ。殺サント欲スレバ則チ殺セ,同志,二二我両人ノミナランヤト。敵將 終二丁ノ奪ウベカラザルヲ知り銃殺ノ刑二処ス。敵將又,其欲スル所ヲ問ウ。氏浴ヲ求ム。

既ニシテ畢リ,東向再拝シテ刑二就ク。敵人乃チ布ヲ裂キ氏ノ眼ヲ蔽ウ。銃手十二人其前

(5)

二列ス。愁思シテ日ク,速二布ヲ撤セヨ。我汝等ノ跨下巧拙如何ヲ見ント。眼光野々人ヲ 射ル。敵其勇二感ジ死ヲ宥サンコトヲ乞ウ。其物聴カズ遂二節二時ズ。時二明治三七年四 月ニー日ナリ。年僅二三十一,其最後ノ状実二壮絶悲三井シテ氏ノ名遠ク万国二黒ユ。氏        バイ カル

ノ壮掌側不幸目的ヲ遂ゲザリシモ敵ハ大二此平心怖レ爾後,戦役間具加爾以東鉄道ノ掩護i 二歩騎各五十余中隊ヲ常置シ,為メニ其第一線ノ兵力ヲ減殺セシメ,我軍ノ作戦上二至大       ンデノ貢献ヲ万端リト云ウ。」と9)沖禎介が両親に贈った最後の書翰には「児禎介謹而父母親大

人二告別ス。児不孝。平常膝下二四シテ孝道ヲ尽ス事能ワズ。嘗テ遺憾ト愚管シ処二御座候。

然ルニ,此度本国政府ノ命令ヲ奉ジ決死数名ト共心蒙古旅行ノ途二上リ駅馬,運命ナル哉,

某地二於テ挙兵ノ専門ニ捕獲セラレ,丁丁軍事裁判ヲ以テ死刑ヲ宣告セラレ,本日銃殺致 サレ候。是亦国家ノ為,何卒不孝ノ響応宥免下サレ度ク,先ハ御暇ヲ乞ウ此ノ如シ。携・≠車

所≠銀一以上。於ハルビン 明治三七年四月廿日 児禎介 父母親大人膝下 右金輪川島浪速(北京警務学堂監督)四二御相談願イ奉り

候。銀五百両一件ハニ人(捕獲セラレシモノ野人 一人ハ横川省三ト云イ,司令官ナリ。

不肖平目第二級高等官)相談ノ上露国赤十字社二寄贈二子シ申候。何レ不肖等ノ後事ハ日 本政府其事二型ズベシト芳平。以上。」とある『)沖禎介に就いては,ここは紹介した文章で 即して言うと,その後半が有名で,筆者も少年時その話を聞いた折受けた強烈な印象を今 だに想起する事が出来る。私事に亘って恐縮であるが,後年,筆者が中国教育史,中でも 中日教育交渉を本格的に研究し始めた折,沖禎介なる人物にそう云った軍事面でなく,別 の面,詰り,教育面で中国にかかわりを持った事があったと言う事を知った時は,自己の 無知を恥じると共に事の意外さに驚いた次第であった。そう云う私に次のような事を云う 資格はないかも知れないが,沖禎介のかかる側面は一般には案外知られていないのではな かろうか。標題のような本稿を物したのも一つにはそう云う所にもある。

 ともあれ,今迄段々に筆者は平戸出身の,言わば海外発展三人男を墾げて来たのである が,この三人を生み出したのは,先にも若干述べたように,平戸の風土・土地柄と当時の 日本全体の時代相であったと考えられる。尤も,同じく三者と言っても浦と菅沼は年令は 五才の違いであっても渡清・渡比(律賓)の時期とそこでの活動の時期は殆んど重なって         あい

いて,種々な事が相類似した情況下にあるが,沖の場合は浦・菅沼より年令は十才以上も 離れ,事実また,早手時期とそこでの活動期も彼等二人とは十三,四年近い開きがあるの で,当然その二人とは異なった側面が出て来る事は否めまい。第一に浦・菅沼より沖に至 る間に(日清)戦争を日清両国が経験した事は浦・菅沼と沖との間にその背景に相当な違 いを与えている事を指摘せざるをえまい。後述する積りであるが,日清戦争における彼我 の勝敗は善かれ悪しかれ,彼我のそれ迄の文化的・経済的・政治的・教育的諸関係を逆転 せしめたとも言え,その意味で日本全体の時代相,時代思潮,延いては,その波をかぶる

       り    

平戸の風土,土地柄も共に,それぞれのそれ以前の様相にある程度依存し乍らも,相当に,

また変化も与えたと見なさざるをえないのである。先に記したように,浦敬一は父親にあ てた書面の中で,中国と日本の関係を唇歯輔車と言い,清国より欧州勢力駆逐せざれば共 に滅亡に至るは必然であり,日清間の憂いは手足の憂いでなく,腹心の憂いであると一面 では言い切り乍らも,清国と和するとするも戦うとするも何れも容易な事ではない,何故 ならば,和すれば,彼の軽侮を招くは必定,かと言って東洋の振興を共にしょうとするに

(6)

は彼の方は覚束ないし,戦えば我に必ずしも勝算の可能性なし,彼また侮り難しと述べ,

中国に対し相当な屈折感を有していた事を表わしていたのである。このような中国観,日 本観が浦や満貫堂グループのみならず,当時の日本の為政者層,実業家層,知識人層にも 同様に見られた事は前述の通りであるが,これが日清戦争を境として画然と変貌するに至 るのである。言わば貧小国でそれまで劣等感を大国中国に持続けていたのが,急に自信を 得たと言うが,従前の劣等感の補償作用としてか,またその反動としてか,優越感を以て 中国に臨むようになり,短言すれば,今まで中国を学習していた日本が,逆に中国を教え るに到ったのである。必要な限り,これらについて後述する積りであることは前述め通り である。

 筆者は先に,明治三四(一九〇一)年渡清,北京に入り,東文学社長中島裁之と相識り,

遂に同社の教師となり,中島を補佐して校務を処理するに至ったが,同三六年中島と合わ ざるものがあり,退いて別に文明学堂を創立した旨の事を述べたが,唯一の伝記とも言う べき村尾要三の「志士沖禎介」によって之を補えば次の如くなる。村尾によれば,沖は 平生,鄭成功の人となりを喜び,菅沼貞風の志気に感じ,釈元恭の快事を慕っていたが,

それらが動機となって渡清の挙となったと言う。それはとも角として,彼が東東文学社の 校長中島と合わなかった理由は「平戸郷土読本」等では明らかにされていないが,村尾の 上記伝記では次の如く書かれている。「東文学社に教鞭を採り,傍ら同校の拡張を計れり,

其画策当を得て,同校内の勢力,却て校長中島某(後述するように正確に言えばここは校 長ではなく教頭)を凌ぐの観ありき,終に議する所中島氏と合はず,去りて独力文明学校 を創設し……」とある。筆者は先に村尾のこの本は唯一の伝記と言ったが,先年平戸に調 査に行った際,平戸図書館で館長浦恒一氏が私の求めに応じて示された伝記もこれのみで あったし,先日,貰った国会図書館よりの私の質問に対する返事でも沖の伝記はこれのみ であると言う事である斜なので,この点に関してはこれ以上の事は判らない。

 倦,ここで言う東文学社と言うのは何であったか。今少しくこれに触れる必要があろう。

東文学社というのは学校であり,東文と言うのは日本語の事を指す。後で触れる積りであるが,

この頃,中国には中国・日本人から招きを受けて渡清した日本人教師  中国では,これを

「日本教習」と呼んだ  が居り,日本人設立の学校があったが,北京東文学社はこれら の学校中の言わば最高峰であった。尤も,東文学社と言っても日本語のみを教える学校で はない事は後述の通りである。副校長中島裁之は西本願寺の文学寮出身者で,明治二四(一 八九一)年半清し,足跡を一四省に残し,明治三一(一八九八)年,保定府料地書院等長・

呉汝論の門下生になると,師の依頼で他の門下生に日・英語を教授して効果を挙げ,また 農工学堂を開く計画ももっていたが,家事の都合で一旦帰国,明治三四(一九〇一)年再 び北京で呉汝編(彼は当時の著名な碩学,大儒で,京師大学堂の総教習の経験もあり,同 時に新学にも理解を示した人でもあり,後,教育視察のため来日,三ヶ月滞在し,各種施 設を視察したり,学制に関し日本の文部省の講習を受けたり,日本朝野の名士を訪問した りした。)に会い,北京に学校をつくる事を相談した上で開学したのが北京東文学社であっ た。計画には呉の姪婿の戸部郎中・廉良も参加し,運動の結果,彼の有名な「老残遊記」

(7)

の著者・劉鉄琴の国元の寄付等があったので,北京城外前孫公園の錫金会館を校舎にあて,

総理・廉泉,総教習(教頭)・中島裁之により明治三四(光緒二七年・西暦一九〇一)年開 校したのが,この東文学社であった9)寄付は蘇鉄雲ほか,早場章の命により,毎月,塩運翠 雨宗濠から一〇〇両,日本人知己某氏から毎月;○○円,衰世凱から機械書籍購入費三〇

〇〇元,川島浪速(前記の如く,沖禎介の両親宛の絶筆書翰によれば,川島は前記の通り 北京警務学堂監督で,沖から後事を托されている)から印刷機購入費三〇〇円,嘉納治五 郎から書籍多数駐屯將校から物品,荒甲子之助からは愛馬が寄贈され,学社の用にあて

たgo)

 時に北京には一校もなく,評判を呼び,当初定員三〇名のところ,開校迄に六〇名の申 込を受け,開校翌日に九〇名,翌々日には一二〇名,一週間後には一八○名を数えるに至っ た。学校当局はこれを二班に分け,老壮年の漢学の素養ある者を集めて専門学班と名付け,

主に日本文を翻訳する力を養成し(後にこれは専門科・速成科となった),年少者を集めて 普通学班と名付け,日本語及び普通学を授けた(これは後に中学科・師範科となった)。当 初,中島は午前に専門学班を,午後は普通学班を一人で担当していたが,やがて学生も二 八○余名にも達したので,一人では教授出来なくなり,一方,日本人で中国語研究の膏,

教授する事を希望する者があったので,原口新吉以下六名を入社せしめ,六教場の分担教 授が行われた91)後年,カルピス社長となった三島海雲は中島裁之の文学寮の後輩で,中島 の求めに応じ,(梅原の推挙が決まった時点で空席が埋まった旨の電報を中島は寄越すが,

中島は渡弓勢の三島の面倒を見た),師梅原眞隆の推挙を得て当時,当学社に就職した一人 であるが,彼が言うには「下文下町の目的の一つは,青雲の志を抱いて中国に渡って来た

日本の人々に,中国の正しい姿とともに中国語を教えることであった。もう一つの目的は,

中国人に対して逆に日本を知らしめることであった。」と云う事である92)

 当校の入学資格は年令の制限はしないが,「鴉片を吸引せざる者」という制限は設け,授 業料は一切不要とした。然し,これがため中島は百方寄付集めに奔走し,書籍の編纂や家 庭教師の言わばアルバイトをし,日本議会に向って補助金の請願運動すらも行わざるを得な

かった93)しかも,彼自身は学校の事業に奔走する費用のほかは一銭だに身につける事がな く,常に清廉に身を持し,中国語研究の労,教授にあたる人々には月々一〇元乃至一五元 を小遣いとして与えていたと言う94)掌骨が英文補習科を設けて月謝を徴収すると,不満な 学生は退校して西洋人を招いて英文学堂を開設した。教師の中には多少放坪なものも事実 いたので,不平学生が退学した上記の事件を契機として反省し,学生の侮りを受ける事が ないようにというので社則(教員規定)を設け,一,飲酒ヲ禁ズ。二,花街二出入ヲ禁ズ。

三,和服着用ヲ禁ズ。を申合わせたと言う。先にも記したように,沖のこの点について言 うと,「清人亦能ク氏ノ威厳アル風采二服ス」と言う事であった95)

 先に述べたように,中島は身を持するに厳であったが,また教育に対しても非常に熱心 であった事は言う迄もない。彼は細かな規定を設ける事よりも彼等の心情にアッピールす る事に努めたようである。学生が彼の意に従わぬ時は,自己の教育の至らなさのためであ るとして,学生の前で自己を鞭打ち,鞭が三世四裂するに至ったと言い,これを「九尊」

と名付けたとも言う。その折は学生は色を失い,以後おこないを改める事を誓った由であ る。読者はここで想起されるであろう。彼の新島裏が明治一三年の昔,学生の無届連挟欠

(8)

席事件に対し左掌を鞭打ち自己を責めた事を96)中島と新島とは約二十年の歳月の隔りがあ り,そう言う時代の隔りだけでなく,両者の気質,思想,信条の違いなどもあるので,直 ちに同じ次元で比較出来ないが,両者とも,結果は同じく自己を責め,鞭打つという事に なって居るとしても,其処に至る迄のプロセス,動機には(此処に出てくる,学生が自己

(教師)の意に従わぬから〔中島〕・無届連挟欠席したから〔新島〕,ということも含め,そρ れそれ両者が振舞った事を考えると)若干の違いがあるような気がしてならない。一口に 言えばその教養の背景からして中島が儒教,仏教的色彩を持つのに対し,新島はキリスト 教的色彩を持っているとも考えられ,その違いが上記のような違いを自ら醸成していると考 えていいものだろうか。このことを考えるのが本稿の意図でもないので,この問題はこれ 位で止める事とする。

 寄宿生が食事に不平を抱き騒擾した時もあったが,その時,彼は一同を食堂に集めて夜 の八時から朝の四時まで厳責説諭する所があったという97}また,体操特別教授の申請が あった時には,彼は最新式の体操を教える必要があるという配慮から,多忙さの中を毎朝 五時,日本駐屯軍をたずねて最新式のを学び,これを学生に教授する事を怠らなかったと

も言う98)

 以上のようなことから,学生は次第に増加して校舎狭隆となり,三度も移転を余儀iなく された。開校第二年目の一九〇二年には一八人の教員を擁iし,教場も一七を教え,実藤恵 秀氏は前後を通じ,当校で教鞭をとった日本人は五六名を数えたと云う。それらの人の一 部を紹介すると,後の早大の中国語教師となった原口新吉,カルピス社長の三島海雲(こ の点は前述した),渡清前には中国人在日留学生の作った「国民報」の印刷名義人であった 船津輸助,日露戦争時,雅児河の鉄橋を爆破しようとして捕えられ銃殺された「特別任務 班」六人の中の三人であった沖禎介・松崎保一・脇光三などがいる。沖禎介はかかる様々 な志を持った人々の群れの一人であったのである99)

 これらの人々は皆,中国語研究の募,教鞭をとったのであって,中国語修得後は各々そ の志す目的に向つた事,その志の目指す方向がそれぞれに違った事は上述した通りである。

      ゆえん学校教員の出入,移動の激しい所以であった『o)因みに「彼等の中で各地学堂の教習にあたっ たのは皆,中島の斡旋するところであったので,それらの学堂は言わば東文学社の分身た る観があった。この意味では東文学社は日本教習揺藍の地であった」と実藤恵秀氏は言う劉  学生もまた,教師に劣らず出入りが激しかったが,その入学だけについて見れば,次の

通りである騨 1902年 1903年 1904年 1905年  1906年前半

 引子を卒業しだもの(翻訳の能力を得て中途退学したものも含めて)は,新たに学堂を 設けたり,新事業を始めたりして,社会に多大の貢献をした。中でも,斡林御史・蒋一理 は京師大学堂提調となり,翰林侍講・連甲は山西大学総辮となり,挙人・王可塑は北京大 学堂教習となった『3)

331名 141名 189名 137名  168名

(9)

 開学以来,六年間の内外に亘る苦心惨憺の経営の挙句,中島はひどく健康を害したので,

やむなく蓑世話総督に申入れて,学社全部を直隷学務処に帰属させることにした。学部侍 郎・厳修は日本留学帰りの張良士をその後継者としたので,明治三九(面癖二年・一九〇 六)年七月一〇日,第六年第一学期留学式とともに譲渡式を行った『4}

 この後,校名を直隷官立中学校と改め,上記張鎮緒のもとで,日本人甲斐寛甲が教務を 統べ,他の日本教習は引続き教員として教えていたが,同年の末,経費不足の理由で閉鎖,

翌年正月,日本人の手で再開され,副文学府の名に復したが(教員は鈴木直人,斉藤伝 寿),これ迄のように隆盛は見られなかったと言う野

 中島裁之については,彼が直隷総督の李漏壷に向って次のような助言をした事も付け加 えて置かねばなるまい。次に述べるように,彼の助言は中国の農業技術・教育にも大きな 影響を及ぼしたからである。彼が助言したのは「速やかに農作試験所を開設して,肥料の 効用を摘発し,農業を勧誘し,富強の源を開展させるべし」(東文学社紀要)と言う事であ

るが,中島のこの進言は効を奏し,明治三五(一九〇二)年,衰世凱は新農法の視察,技 術の招聰,農書農具の購入のため,部下の藩王景を日本に派遣するに至った。黄王景は五人の 従者を連れ,衰世凱の農事顧問・農学士楠原正三および通訳池部政次と共に来日した。そ の費用は一万六千元だったと言うが,この時,学事視察のため来日していた前述の大儒・

呉汝論とも出会った。君王景はこの年の九月,外務総務長室の珍田捨己の斡旋で農学士の山 中寿弥・指宿武吉・岩田次郎の三人を招聰して帰国した。同年末,直隷省城保定府では黄 環が中心となり,楠原正三を総教習として農務大学堂,農事試験場が出来,多くの学生を 入学せしめた。因みに,この頃,中国に設けられた農学校はそれだけに止まらず,各地に 以下のものがあり,またそこには後に挙げるような人達が二野せられた。

山東高等農林学堂(済南・川上精一),山西高等農林学堂(太原・農学士島居信平,岡田眞一郎,三戸章 三,樋口千五郎,林学土松下荘作など),高等農学堂(事解・農学土斉藤豊喜),農務学堂(武昌・農学士美 代清彦),中等農学堂(成都・農学士本土源次郎,松浦勝太郎),官立農林学堂(貴州・元北海道庁技手石川 時人),盛会中等農業学堂(雲南・盛岡高等農林学校出身者岩城単作ほか二名),農業実習学堂(吉林・笠井 善三郎),以下はみな奉天一農事試験所(角田啓司ほか四名),農業学堂(井上初之助ほか二名),農林 学堂(林学士富永馬吉郎ほか一名)(26}

 以上が大体,北京東文学社の発生から終末に至るまでの概要である。やや長い引用になっ たが,それは一つには,前述のように北京東文学社が中国における日本人設立の学校の最 高峰であり,二つには,後述の如く,それが北京における類似校の言わばモデル校になっ たからであり,  沖禎介の文明学堂などはその一校である  ,三つには北京のみなら ず,中国全土の類似校の教育活動の模様もこれで大体推察で出来るからであり,四つには,

後述のように,残念乍ら,文明学堂での教育活動の詳細も不明であるので,北京東文学社 のそれを以て代用させようと考えたからでもある。

 上記のように,当校創立以後,北京には当校類似の学校が言わば転生した。沖禎介創設

(実藤恵秀氏は一説には横川省三創設と言われるが,筆者も調べてみたけれど未詳。横川 省三が沖と共にハルビンで処刑された人である事は前述の通り)の文明学堂,保坂直哉創 設の日英語学堂,大柴丑松設立の日語速成学堂,黒権道隆創立の日英速成学校,沖禎介開 設の振華学堂(実藤恵秀氏は振華学堂を沖の開設として居られるが,筆者の調べでは不明,

(10)

前記平戸図書館長浦恒一氏も私のこの点に関する質問に対しては「未聞」と答えられた。)

  以上はすべて東文学社教員が分離独立して創設したもの  佐々木安五郎(照山)の 東亜善隣学堂,佐伯信太郎の八丁中学堂などが,それである『7)。

 「文明学堂章程」の紹介をする前に,文明学堂または北京東文学社出現前後の中国,日 本,欧米の諸1青況について,もう少し言及して置きたい。筆者は本稿の二で,その点につ いては平戸関係に主として触れながら少しく述べたし,もっと巨視的立場では昭和三三年 の本教育学部の研究紀要に「中国清末教育史における日本教育文化進出の一断面  中国 の教科書出版文化に及ぼした日本の影響に就いて」と題して発表した事もある。云う迄も なく,本稿の二は大体平戸に舞台を置いた若干,微視性を帯びたものであり,主として時 期としては浦,菅沼関係で日清戦争以前を扱って居り,前記,昭和三三年の論文は巨視的 立場で,しかも時期は主として日清戦争以後から日露戦争後に迄亘っているので,両論文 の相重なり合う部分は少ししかなく,自ら性質の異なる論文ではある事を一応断って置き たいが,本稿の二の事を念頭に置きつつ,日清戦争後の事を取扱った昭和三三年の論文な

どを参照し乍ら,日清戦争後の中国・日本の諸事情を次に瞥見してみる事としたい。

 倦,西洋先進諸国が清朝末期,中国を蚕食しつつあった事は先の浦敬一の書翰にも語ら しめたが,西洋先進列強は中国に対し軍事的経済的進出を背景に教育文化の進出も図った のであった。日本が其伍列に加わったのは梢々遅れて,日清戦争以後の事である。日清戦 争以後,十数年と云えば中国史では清朝末期に当るが,此時期は我が国教育文化の進出が 先進列強に伍しながら活発に行われた時代で,それが中国教育界に与えた影響は相当深刻 なものがあった。例えば明治三五年(一九〇二)年の「欽定学堂章程」は「日本の学制そ のまま抄略して持込んだものであり」128)その翌年制定の張之洞・三百煕・栄町らによる「奏 定学堂章程」は「主として日本の学制を採用して作成したものである」事は周知の事であ り(実はこれは張之洞が日本の学制と欽定学堂章程とを参考にして作りあげたもの)129)そ の翌々年(一九〇五年),正式の教育行政機関として成立した「学部」は「日本の文部省の それにならったものである」事もよく知られた事であり130L九〇三(明治三六)年前後,

日本教師が多数中国に等等されて所謂,中国教育史上「日本教習時代」と呼ばれる時期を 現出したの等は其最も顕著な例で,例えば,一九〇六年には中島裁下は「今や日本人開導 の任になる者五〜六百を数えん」とすら言っているが131喫は其当時,我が国は中国教育の 全面に亘って多大の影響を及ぼしていたのである92)これを一口で言えば,日清戦争迄は中 国を尊敬し,学んで来た日本が,日清戦争以後は位置が転倒し,日本が中国に教える,中 国が日本に学ぶと言う事になったと言ってよかろう。尤も,其間両者相互に軽侮の念がな くはなかった事は日清戦争前と錐も例外ではなく,それは先の書翰でも「彼レ自ラ大国中 華ヲ以テ自ラ居り,深ク我ヲ軽侮シ,我亦タ彼ノ腐迂ナルヲ軽侮シテ云云」とあった通り である。尤も又,中国を軽侮したと言っても,日清戦争以前の場合の日本のそれは,内心 は恐れ乍らのそれであった事も前述の通りであるが,日清戦争後はそれ以前と異なって,

自己の勝利によって今迄の劣等感を裏返して,日本は中国に恐るる事なく優越感を以て臨 むに至ったと見ていいのではあるまいか。日清戦争の敗北によって日本を学ぶ気持が中国

(11)

に噴出し始めたと言っても,中国のプライドが無くなった訳でなく,中国の文化は古く,

寧ろその影響が西洋に及んで行ったのだから,(諸種の発明,事実的源流や最近の考古学的 発掘の成果やマルコ・ボーロの「東方見聞録」などからすると,強ち彼等の言う所は決し て誇大ではないのだが)今度は西洋並び1ヨ本がお返しする段階になったのだという気持を含 んでの日本・西洋学平熱となったと見るべきではあるまいか。「国学が主,西洋学は輔」,

中体国用論,華夷思想という中国の言葉もある。言う迄もなく,「国学が主,西洋学は輔」

と言うのは文字通りで,註釈の要なしとして,中体西陣論と言うのは中国学が本体で,西 洋学はその用を供するものだという事の謂であり,華夷思想と云うのは中国は文化の中心,

中国以外の国は夷(えびす),詰り野蛮という事の意味である。唇歯輔車,同文同種と云う 当時よく使用されたスローガンは,言わば日中両者の建前だったとすれば,本音は以上の ように建前とは違う別の所にあったと言ってよいのではなかろうか。先にも言及した張之 洞も光緒三四(明治三一一一八九八)年,有名な「勧学篇」(日本で云う福沢諭吉の「学問 ノススメ」に当る。)の中で「一年間外国に出るのは西洋の書物を五年間読むに勝り,…外 国の学堂に一年間居るのは中国学堂での三年間に勝る。……日本は小国なのに,その興起 するのが俄かであったのは何故であろうか。伊藤,山県,榎本,陸奥諸氏は皆,二十年前,

外国に留学した事のある学生であったが,自国が西洋に脅やかされるのを憤り,其徒百余 人を率いて,独・仏・英諸国に詣り,或は政治工商を学び,或は陸海の兵法を学び,学究っ て,もって將相となり,政事一変し,東方に雄視したからである。……遊学の国に至って は西洋は東洋(日本)に如くはない。一,路が近くて費用を省き,多く遺すことが出来る。

一,中国を去ること近く,考察し易く,一,日本文は中国文に近くて,通暁し易い。一,

西洋学は甚だ繁で,凡そ西洋学の不必要な部分は,日本人が既に捌節して之を加減して改 めている。中・日の情勢風俗相近くて眞潤し易いし,事半ばで効果は倍加することこれに 過ぐるものはない。もし,精と備とを求めるのならば西洋に赴けばいいのであって,ぞう すればこの上なしである。」と言って居り〔以上は篇中の遊学篇〕,「概ね,商質市井には英 文の用が多く,公憤条約には仏文の用が多い。各種西洋学の必要なものに至っては,,日本 が既に訳している。われわれが径を東洋に取ったならば,力も省けて効果も速やかである。

そこで日本文の用が多いのである。……西洋文を学ぶ者は効遅く,用は広く,少年のまだ 仕えた事のない者のための計である。西洋書を訳するのは功近く,効果は速やかで,中年 の既に仕えている者のための計である。もし日本文を学び,日本書を訳すれば則ち功も効 も速やかである。だから外国人教師に従うには外国文に通ずるに如くはなく,西洋書を訳 するは日本書を訳するに如かずである。」と言っている〔以上は船中の広訳篇〕(筆者の意 訳による)騨この「勧学篇」は上述の如く,日本での福沢諭吉の「学問ノススメ」に当て

られる程,広く読まれ,多くの影響を中国に与えた碩学の一大文章で,しかも,上諭によ り各省に頒布されても居り,中国の先に述べた本音がここに明白に出ていると思う。梁啓 超が「戊戌政変記」の中で,一・八六二(文久二)年より一八八四(明治一七)年迄の前後        そし二十余年の中国社会を叙して,「朝士皆西学を言うを恥づ,談ずる者あらぼ言氏って漢好とな

す」と言って居るのと思い比ぶべきであろう。隔世の感がありとでも言って然るべきであ     エ

ろうか騨筆者がこう云う,一見教育問題には無縁にも見える問題にも言及しているのは,

寧ろ却って根本の所で教育問題にも深くかかわっていると考えるからである。一言断って

(12)

置く。

 所で以上に関連した事で,行文の都合から言及しなからた事があるので,それに触れて から次の四に続ける事とする。

 言及しなかった事と言うのは実は次のような事なのである。筆者は先に,明治三五(一 九〇二)年制定の「欽定学堂章程」と其翌年制定の「奏定学堂章程」は日本の学制に倣っ たものであり,其翌々年成立した「学部」も日本の文部省に倣ったものであった旨の事を 述べ,日本の中国に対する影響が過大になりつつあり,また延いては「日本教習時代」現 出の直接的背景をもそこで同時に暗示した積りであるが,実はこの「学部」成立の年こそ は中国にとっては画期的年であった事をそこでも言いたかった訳である。

 「学部」成立の年,明治三八(光緒三一一一九〇五)年は「学部」が成立したのみでな く,清朝政府が世論の動かし難いのを見て,遂に詔勅を下して,言わば旧時代の遺毒とも 言うべき「科挙の停止」を命じた括目すべき年であった。朱駅子はこの年を以て近代中国 教育令の「最初の転換」であるとして,以下の如く述べている。「旧い中国の教育制度にお いては,国民大衆の間から指導者を選出するのに,倫理的理想と華やかな文章表現とを重 視する一系列の試験制度が行われ,従って科学的な,批判的な物の見方の養成は無視され ていた。かかる教育制度の下にあって,人々は事物を表面的な特徴と,間違った類推とに よって分類し系統づけるべく馴らされ,研究と実験によって根抵まで追求する努力を払わ なかった。この便宜主義は人性の英知を拘束し,またその文章作法は個性的な表現を狭い 権の中に閉じこめた。この時において,教育の改革とは,異った思考の方法を人々に教え る事を意味した。すなわち,牽強な演繹から自然力の直接観察へ,形式主義から個人の経 験と性格との自由な表現へ,気まぐれな類推から実証方法への転換を意味した。このこと は,単に教育学上の問題であるばかりでなく,社会的な行為の根本的な変革という意味を 含むものであった。」(35)と。正に的確かつ余藏なき解釈と言うべきであろうか。

 上記段々と述べたように,矢継早に新教育令が発布され,特に科挙制度の全廃された事 は当時の中国教育界を一挙に,一時渾沌たる状態に陥れたのであった。これはアーサー・

スミスが言った所でもあるが136)林語堂の「北京の日」では,次のように描かれている。「平 亜の勉学はその頃は大混乱を極めていた。何故なら中国の全教育制度が変ったからである。

……フながらの文官試験の改革令が発布され,古い型の大学はすべて新式の大学に変更さ れて,大学,・高等学堂,小学堂となる筈であった。……学校の課程も一変され,文官試験 では伝統的な八股文が時事的な政治論文に変更される筈であった。学校はどんどん建てら れていたが,何を生徒に教えていいかわからなかった。曽氏にしても官吏にするためには,

一体息子達に何を習わせていいのかわからなかった。」(37)と。ロッスとかウイリアムズとか 言う外国人の眼にも,科挙廃止と裏腹に始まった猛烈な学校設立熱は強烈な印象を残した ようだが138)事実「全国到る所の佛寺・道寺並に科挙試験場に当てられた建物は或は殿たれ,

或は修理・改造されて諸学堂へと変って行った。」㈹ともあれ,かかる新学校の大増設は適 格教員の大量不足,教師難を招き,その急場を救う者としての多くの日本人教師の招聰(中 国人は言わでもの事,日本人による招聰もあった)または彼等の自発的な渡清となったの であり1鋤日本への亡命客の影響,上述如き張之洞等の日本留学の積極的勧誘によって日本 留学熱は高まるばかりという情況下では,「日本教習」の活躍も更に上げ潮に乗るばかりで

(13)

あった。これらを併せて考えると,この頃,日本が中国に及ぼした直接・間接の影響は甚 大なものがあった鯉

 倦,中・日それに欧米列強との諸関係はどうであったか。紙幅の関係もあるので,この 四では出来る限り事項を列挙する形で述べる事にした。詳しくは三で紹介した拙稿につい て見られたい。

 実藤恵秀氏が中国に於ける近代的出版事業の歴史は日清戦争までは「西洋人中心時代」,

日清戦争以降民国初年までは「日支合併時代」であるとするように142)我が国が中国と出版 文化一般の上で本格的な接触を持つに至ったのは日清戦争以後である。例えば墨図書館は 一八四三(天保一四)年,英国倫敦教伝道会伝道団が上海に設立した印刷所,花華聖経書房 は一八四四年,米国長老会により設立された印刷所等々というように,欧米のキリスト教 系の印刷文化によって中国印刷文化近代化が始まる。一方,中国に日本の出版文化の技術 や資本が導入され始めるのは少しく遅れて一九〇〇年前後である。但し,それ迄に日本書 の翻刻から始まり,在日中国人留学生の日本書翻訳(翻訳の最重点が教育関係であった事 は此の際注目すべきである),日本書訳本出版の中国人書店の続出,日清合作書の激増など の前史もあっていて,日清戦争以後,特に一九〇一,二年前後ともなると中国近代出版を 牛耳る主役は日本に代わっていたと言えるぽ3L九〇四年の「訳書経図録」所収の目録によ れば此の前後四年間の訳書の総数は次のように分けられている。原本・日本文が三戸ー冊,

英文五五冊,四文三二冊,独文二五冊,仏文一五冊,露文四冊,其他八一冊計五三三冊で,

日本文はこの中の六〇パーセントを占める騨尚,前記,三の所で紹介した拙稿での私の調 査によれぽ,中国での教科書出版物中の日本教科書翻訳のそれは甚だ多く,西洋諸国のも のを断然圧している。次の頁の表1は「教科書之発刊概況」という著書を筆者が参考にし て原文の各国系の冊数とその年次的変動を表に作製したものである。出来る限り正確を期

した積りであるが,尚,訳・原本不明のものがあり,或種の遺漏は免れぬし,先の「訳書 芳平録」と比べ仏・独・露文がないのを疑問にする向きがなくもなかろうが,それでも尚 且つ,日本書翻訳のそれが圧倒的であるのは察知出来よう。なお,以上のことにも密接な 関連があり,これ以外の事にも重大な関係をもつ政治的経済的背景を概観すると大要以下 の如くなろう。日清戦争の勝利は新興日本をして世界列強の列に加わらしめ,且つ日本を して世界,就中,中国に於ける政治的経済的進出に乗出さしめた。明治二九年清国との通 商条約締結,次いで上海居留民地,一一の領事館設置,明治二十年代以降の三井物産や正 金銀行の支店等の進出等がその一例であるが,一九〇一年日本の貿易額中,中国貿易がほぼ 其半ばを占め145)モトイレフによれば其翌年の列国の対清貿易額では日本は英国に次いで第 二位を占め146)リーマーの「列国対中投資」によると,同年最下位にあったが,一,二年後 英・独に次いで第三位にのしあがっているの等も,当時日本がその面での上げ潮を示しつ つあった証拠ともなろうか即

 中国の留学教育は同治一一(明治五一一八七二)年の米国留学を嗜矢とするが,三年遅 れて欧州留学も始まり,日本への留学はそれより更にニー年遅れて,明治二九(一八九六)

年に始まった。尤も,陳青之も云うように,日清戦争後の留学教育は「東西各国に学生を

(14)

       送ったとはいう

  表1      ものの,日本に

       赴くものが最も        多かった。」『8)そ        の理由は先に述        べたので繰返さ        ないが,とも角,

       日本留学の開始        された上記の明        治二九(一八九        六)年の留学生        が僅か一三名で        あったのが,九        八年三一名,一        九〇二年四,五        百名,三年千名,

       五年八千名前後        に激増して行っ        た事は,張之洞        等の言う所の地 理的に近い点等を考慮に入れても其学習熱の程を偲ぶよすがとなし得ようま9)しかも,その 際日本に学ぶ彼等の関心が主として日本の教育と憲法・政治にあった事は逸せられてなる まい劉尤も,一九〇五年の日本文部省の所謂「清国留学生取締規則」に対する反対事件,

それを好機とした欧米諸国の中国人教育への割込み(それ迄,日本の中国教育権の独占的 傾向に対し西洋諸国はやきもきしていた),日本政治家の冷淡さなど相侯って在日留学生の 数は,その後漸減の傾向を辿った事は否めない曾Dこの点については後にも述べる積りであ

る。

 日本教習の時代は大体明治三十年目の初め頃より清期末三斜に亘り,その盛衰も上記在 日中国人留学生の盛衰に大凡,正比例した。清国熱がたかまった挙句,明治三二(一八九 九)年一七二五人になっていた在中日本人は,数年経た明治三八(一九〇五)年には一万 六千九百十人となった由であるが⑱日本人の手によってひらかれた学校も杭州の日文学堂 が明治三一(一八九八)年開設されて以来,彰化学堂(泉州,一八九九年),東亜学院(守 門・一九〇〇年),同文書院(南京・一九〇〇年),本願寺東文学堂(南京・一九〇一年ご ろ),留学高等予備学堂(上海・一九〇五年)等が開かれた鯉これらの学校の一校であり,

その最高峰が北京東文学社であり,その言わば分身が沖禎介の文明学堂や振華学堂などで あった事は前言の通りである。

 以上は日本人が自発的に渡清して中国で学校を開いたり,日本人が所謂「日本教習」を 招聰したりした例の一部であるが,そう言う事が無言の教訓となり,またモデルとなって,

中国人が日本の教育を視察するため来日しては,日本教習を招く事を依頼・取付けるなど

日文 英文 米文

  i   i

ai編i不明訳  l   i

合計 1896 年

i明治29年置 2

1897年

… i1

1

1898年

P899 年

P900年

数冊? 2i 7i 2 Si 2} 2

Qi i

15?

@8@2

1901年 P902年 P903年 P904年 P905年 P906年

 3

P3 T0?

Q2

123

1151

i i26i 69?i  426i 41 17 1      13i  12i  716i 4?i l      l9i  54i  13

 6

X4?

P25?

@22

Q0?

@99

1907年 P908年

51 i7i 5?i  25i

17?

Q6

1909年

〟@ 計

 15

P13? 24 8

igi6468i195?i117?

 88

T25?

I      l

(15)

すると云う形で「日本教習」を招聰する例も多かった。先の呉汝繍はそういう代表例とも なるが,以下その例を若干示そう。

 日本教習が中国に渡った例は,明治三三(一九〇〇)年以前もないではなかったが,そ れが一つの潮流をなしたのは義和国事件以後である馴

 中国から招聰された日本教習は多い時は,本稿三の一九〇六年の中島裁之の言で示した ように五,六百人に達した。筆者蔵書の房兆櫨の編になる「清末彫上洋学学生題名馴初輯」

によると155L九〇六(明治三九)年の「京師大学堂同学録」の「教習題名」の中に,服部 宇之吉(東京帝大教授),太田達人(文部省図書審査官),桑野久任(東大助教授),矢部吉 槙(東大助教授),氏家謙曹(二高教授),坂本健一(文学士),西村熊二(工学士),高橋 勇(東京美声日本画卒業),法貴慶次郎(後の東京市視学),鈴木信太郎諸氏の名前が見え,

担当学科は物理・算学・植物・鉱物・歴史・日本語・化学・図画・倫理などに亘っていて,

これでも大体の様子が察せられるが,その二年後の明治四一(一九〇八)年から同四五(一 九一二)年迄北京の京師法政学堂に押せられた松本亀次郎の言う所によると,その頃,天 津では学部侍郎厳修経営の高等女学校・師範学校に三智修(厳修の息で東京高師出身),世 家棋(日本宏文学院速成師範科卒業)と共に小幡勇治が居り,天津:法政学堂には中島半次 郎(早大教授),吉野作造(東大教授)今井嘉幸,浅井周治,石橋哲爾(名古屋高商教 授),樋口龍淵なども居たと言うし,北京では北京大学堂に服部宇之吉文博,宇野哲人文博

(東大教授),矢部吉禎理博,桑野久任理博,坂本健一,氏家謙曹,法貴慶次郎(以上の中 に京師大学堂の折と氏名の重複して居る人がいるのは改名された同じ学校だからである),

京師法政学堂に厳谷孫蔵法博(京大教授),杉栄三郎法博(後の図書西暦兼諸陵頭),矢野 仁一文博(京大教授)小林吉人(文学士,後の新潟中学校長),井上翠(後の大阪外語教 授),原岡武(後の小樽高商教授),松本亀次郎(在日中国人留学生教育界で活躍した),法律 学堂に岡田朝太郎法博(東大教授),小河滋次郎法博(監獄学の大家),志田界釧法博,松 岡義正法博(後の東京大審院部長),岩井尊文法学士,財政学堂には小林丑太郎法博,相川 茂郷法学士,巡警学堂には川島浪速(先にも述べた),町野武馬(後の張作森軍事顧問,少 將,代議士),北京尋常師範学堂には北村沢吉文博(後の広島高師教授),芸徒学堂には原 田武雄,岩滝多摩,等がいたと言うし,当時これらの学校では日本教習が教授する際,日 本語を用いる事が多かったので,その通訳には日本から帰った留学生がその労を取ったと 言う鯉その主な人々に曹汝森,艦齢祥,萢四月など後年各界で活躍した人物がいる。なお,

先の岡田,小河,松岡,志田の諸博士は修訂法律館で法典起案の顧問が本職で,また,岡 田,小河両博士は法政学堂にも兼務していたと言う曾ηこれでも日本教習や日本留学生出身 者が重用されていた様が推察出来る。

 前記の日本教習の一人,中島半次郎は一九〇九(明治四二)年,「日清間の教育関係」で 当時の中国全土の外国教習の調査を報じているが158}それによると,実はその頃,日本教習 の最盛期は過ぎていたが,それでも次の各学校に日本教習が教鞭をとっていた事が判る。

因みに,日本教習が最盛期を過ぎていたと言うのは本稿四の所で述べた日本教習と中国人 日本留学との盛衰は正比例すると言った箇所に正しく該当し,一九〇五年の留学生取締規 則に対する反対事件,それを好機とした西洋諸国の中国人教育への割込み等で在日学生が 漸減した事と同一原因に基くと言ってもよかろうか。在日留学生の漸減の問題はこれも四

参照

関連したドキュメント

明治33年8月,小学校令が改正され,それま で,国語科関係では,読書,作文,習字の三教

  「教育とは,発達しつつある個人のなかに  主観的な文化を展開させようとする文化活動

長尾氏は『通俗三国志』の訳文について、俗語をどのように訳しているか

長尾氏は『通俗三国志』の訳文について、俗語をどのように訳しているか

③ 新産業ビジョン岸和田本編の 24 ページ、25 ページについて、説明文の最終段落に経営 者の年齢別に分析した説明があり、本件が今回の新ビジョンの中で謳うデジタル化の

一貫教育ならではの ビッグブラ ザーシステム 。大学生が学生 コーチとして高等部や中学部の

 米田陽可里 日本の英語教育改善─よりよい早期英 語教育のために─.  平岡亮人

関西学院大学社会学部は、1960 年にそれまでの文学部社会学科、社会事業学科が文学部 から独立して創設された。2009 年は創設 50