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明治前期における長崎県の 銀行業とその特質

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(1)

銀行業とその特質

都野尚典

(2)

1 .   日清戦争前後における銀行業

一一銀行業確立期についての概観一一

わが国における近代的金融の確立は,一般的にみて,日清戦争前後になさ れたとみられる。法制的には, [""銀行条 o u の明治2 3 8 月公布および2 6 7

月施行があるし,それによって明治 1 5 年に設立された日本銀符の独占的中央 発券銀行としての確立過程,すなわち,明治 2 9 年 9 月から 3 2 年 2 月にいた る第 l 国立銀行をはじめ 1 5 3 行からなる国立銀行の解消と普通預金銀行への 継承転換(国立銀行紙幣消却の完了〉が制度的保証をえたといえる

O

また現実 的にも,明治1 0 年代初期の国立銀行濫設期につづいてこの時期には新設銀行 が増加し, 2 6 年以降を濫 i 設期として明治3 4 年全国の普通銀行行数は 1 , 867 行 に及び,そのピークに達している。加えて「特殊銀行法」による相つぐ貯蓄銀行,

農工銀行の誕生があり,明治初年以来の金融機関整備の過程は一応の結者が つけられる。ちなみにわが国の金本位制度の確立は明治3 0 年のことであった

O

長崎県の場合も,いくつかの間題点を有しつつも乙のような全国的状況に 一応歩調を合わせていたといえる

D

そこで明治 3 1 年起こしの『長崎県銀行台 帳 j (長崎県立図書館蔵)によって当時の県下の銀行を一覧すると表 l の如

くである

県外 l 乙本庄を有する支居銀行 5 行を除くと台 I l l R 記載の銀行は32 行(明治3 1 年末で28 行)であり,このうち第百二銀行は明治3 0 年末で既に解散しているか

ら,これを除きそれらを設立年代で分けると,明治 1 0 年代 7 ,20 年代1 5 ,30  年代( 3 3 年迄) 9 行となっていて, 24~26年の 5 年間に設立されたものが 10行 を数えるなど明治2 0 年代を長崎県での銀行設立ラッシュ期とみるのは妥当と いえよう

D

しかし,これらの銀行も資本金1 0 万円以上の銀行は,資本金百万円の株式

会社十八銀行を筆頭とし, 1 1 行にすぎずしかも特殊銀行たる良工銀行を除い

て1 0 行のうち 9 行までが明治2 4 年以前に設立されている o また支庖銀行を含

めた所在地別では,長崎市 7 ,京彼1 0 ,西彼 4 ,北高 3 ,南高 7 ,北松 5 行

であり,これに県内本居銀行支居及び出張屈を加えると,ほぼ県下全域にわ

たって庖舗が網羅されている。

(3)

表 l 明治 31 年長崎県銀行一覧表 名 称 l  資(払本込済千金)円 I 設(立開免業許年年月月日)日 I 設資立本金 時の 文 居 そ の イ也 長崎市築町 紛三井銀行長崎支居 5 , 000  9.  7.  1  2 , 000  (設立時名称)三井銀行長崎出張居 (  9. 

〆/λf 

制 十 J¥  を良 イ了 1 , 000  10.  6.16  160  (設立時名弥〉第四国立銀行(支居)大阪市,Jitt原,佐世保 (  11  )  00.12.20)  釜山,仁川,元山津,福江,武生水,尚 32 年 200 万円に増資

1/ 

M  3t 1  コ 百 一 ~N イ丁 1 1.  6.18  50  (設立時名称)第 102 閏立銀行,般原を本屈とした。 一 02.11.28)  30 年 12 月 21 日限り解散 北松平戸町 紛九十九銀行 200  12.  1. 18  50  (設立時名称)知的国立銀行(支居)佐世保 (1 55)  2.15)  東彼大村町 11  玖 島 2 良 イ丁 180  14.12.22  90  (設立時名称)玖白銀行 (1 43)  05.  1. 16)  南高湊町 M 数寄屋銀行 120  15.11.16  30  75)  06.  1. 15)  京彼大村町 11  大 村 iIi R  行 100  16.  8.14  50  (79)  ( 

// // 

)  北高諌早町

ノノ

諌 早 金貝 イ丁 120  17.  5.31  80  (//  7.  1)  北松山口村

ノ/

相 主日 5 良 行 100  18.  6.22  35  63)  (11  7.  1)  長崎市西浜町 庁第 72 国立銀行長崎支居 150  1 1.  9.20  (支居 22.10. 3)  西彼喜々津村 吾其株式会社 60  24.  1.  22  30  (40)  (  11  11  )  束彼早岐村 t 劫 早 岐 銀 イ丁 150  24.  2.28  60  ((支万 居)佐世保尚 32 年 20 万円に増資,貯蓄部を確立。 (113)  4.  1)  3 円) 11 

1/ ノ/

殖 産 f 良 イ丁 60  24.  5.19  30  尚 32 年 2 月全額払込済 (44)  (11  5.23)  南高淡町 11  島 原 }N  イ丁 150  24.  3.11  50  尚 32 年 3 月全額払込済 (70)  (  11  7.  1) 

(4)

西彼矢上村 紛矢上教育銀行 50  24.  8.13  30 

( 11 ) 

(11  1 1.  1)  北高諌早町

〆ノ

干王 明 2 貝 行 30  25.  1. 21  30  (11)  (  11  1.  22)  11 

ノノ

が諌早白人銀行 90  25.  9.13  30  (支居)湯江,尚 32.10. 払込済 77 千円となる。 (57)  (11  9.15)  長崎市築町 M 長崎貯蓄銀行 30  26.  1.  9  30  (支庖〉戸町村 (1 5)  (1/  6. 1)  南高浜町 タヰ 金 立史 行 9.51  26.  7  9.5  東彼大村町 紀 内 5 良 行 10  26.12  10  南高渓町 山 本 5 艮 行 9  27.  2  9  尚 34. 1. 2 1.業主死亡のため廃業 西彼瓶戸村 。均 ~Jl 戸 銀 行 30  27.  7.14  10  (設立時名称)瀬戸同志銀行 (11  10.3)  南高島原町 島原貯金銀行 30  29.  3.31  30  (支居)西有家,多比良,口ノ津 (1 5)  (11  4.21)  北松佐世保村 M 有国銀行佐世保支居 支居 29. 9.23  南高淡町 1/  西

れF

手‑ 銀 イ丁 200  29.12.  3  50  A 尚 3 社 4.4( 払金込銭済貸 8 付 8 千業)円と

P

なる払。;入 (設立時名称〉千綿株式 (50)  (  11  1.  4)  五 尚 32.Hk~ と済 48 千円となる 束彼千綿村

ノノ

千 f 品 ま克 行 60  29.12.18  10  (40)  (30.  1. 25)  M 竹松村 11  福 竹 銀 行 25  30.  9.20  10  (設立時付名称ノ ‑1)1 工福業 竹株式会社(肥料販売貸金業〉 (1 2)  (11  10.20)  3 1.  7.2 銀行 認可 北松佐々村

佐 々 銀 行 20  30.12.23  20  尚 32.3 50 千円に増資(払込 29 千円〉 (3 1.  3.15)  長崎市西浜町

H

長崎良工銀行 400  31  3.24  (400)  (11  5.15)  が本下町 日本商業銀行長崎支居 2 , 000  (支居 3 1. 11. 4) 

(5)

名 初: │ 

伊に

1 ム平今円 I 設(立開業時年月月日)日 I 設資立本金 時の J

ー平〈一二‑

日 そ の イ也 {義 を貝 行 20  (3 1.  9.10)  南高東有家山 田 ~R 行 10  (3 1.  2.  )  尚 35.3.25 営業主死亡に付廃業 京彼川棚 新谷合資会社 5  3 1. 11.28  (32.  1.  4)  北松平戸町 紛平戸商業銀行 50  32.  3.22  (11  5.11)  東彼大村町 11  同 朋 主艮 行 15  32.  3.23  尚 33.3 現在日千円払込済 (11  4.  9)  西彼面高村

11 

面 品 全良 ノイ丁

ーー

20  32.10.  1  長崎市下浦町 庁横浜正金長崎支居 32.  7.  拠 r 長崎県銀行台帳』明治 31 年起し 注)これは明 31 年 3 月付の長崎県銀行台帳に記載されている全てであるが,ここでは 31 年 3 月以降 34 年頃まで変更,新設の害加 えがなされている。資本金については 31 年末現在でかかげておいた。もっとも 32 年以降は 4 行が記載されているにすぎぬので, 便宜上かかげておく。

(6)

反面先述した如くその大部分は資本金1 0 万円未満の小銀行であり,長崎市,

北松平戸町,東彼大村町および早岐村,北高諌早町,南高島原浜町所在の比 較的資本金規模の大きい諸銀行をのぞいて,これらほとんどの小銀行が,個 人径営の貸金業に近い存在であった。近代的銀行業の本質は,貨幣取扱資本 と貸付資本の組織的一体性にあり,貨幣流通の社会的結節点たりえない乙れ ら各地域に分散所在する小銀行は,近代的銀行組織の一環をなすものとは云 い難く,そのことはまた本県産業経済の地域的分断性と未組織の状況を反映 したものであったともいえよう。明治 3 1 年段階の全国普通銀行(貯蓄銀行を 含む)払込資本金平均額は,一行当り 1 3 万円余りであり,これに対して,長 崎県の平均額は 8 万円余にすぎず,この点からみても長崎県の金融組織は,

全国的水準に対し一定のたちおくれを示していたといわねばならない。

2 .   地場産業と銀行業の確立過程

さて前項でみたように,明治前期の長崎県下の主要な銀行はほとんどすべ て,いわゆる全国的に預金銀行濫設期と呼ばれる明治 2 6 " " 3 4 年の期間以前に 設立されている O しかもこの聞に設立された銀行のなかには,相当有力な銀 行でありながら濫設期以前に既に消滅してしまったものもある D ここでは,

それらをも含めて確立過程における県下金融機関を地場産業との関連で概観 し,その歴史的な特質を確認しておきたい。

( 1 )   三つの国立銀行と三井銀行出張庖

明治 9 年 8 月の国立銀行条例改正は全国的な国立銀行設立ブームを惹起し た。その主たる要因は,秩禄処分その他による大豆の公債の存在と免投銀行 券発行準備金規定の緩和(金準備規定の紙幣準備規定への転投)にあった。

それは地租改正とともに,一面で政府紙幣流通の円滑化をはかり,かつ中央

政府財政を私的資本苔那とそれを基底とする私的信用に依拠せしめ,中央集

権的財政基盤の確立をはかりながら,同時に分権的旧支配階級である武士集

団を救済し,中央政府権力の階級的支配の基盤をっくり出す,まさに一石二鳥

の効果をもっ制[史的条件づくりの主要な一環をなすものであった。その怠味

(7)

では,資本主義的制度の装いをもった旧搾取機構の温存という,上からの資 本主義化の途にふさわしい制度であったといえるし,したがってそこに生れ た銀行制度も近代的装いをもってあらわれたとはいえ,その経営実態におい て有効に働きえない危険を有していた。

しかし他面,そのもたらした資本の原始的蓄積過程推進の役割と効果も見 逃しえないのであって,地域的産業経済の諸条件の追いを反映しつつ,それぞ れの地域に設立された銀行にさまざまな地域的特質‑を付与することになった。

改正銀行条例は,銀行券発行の抵当として 4 分利付以上の政府公債をあて,

政府紙幣を見換準備金として資本金の 1 0 分 8 の銀行券発行を認めた。かくし て全国的に主に金禄公債を中心として,銀行資本化する士族銀行が族生した。

しかし,士族銀行といっても,右に述べたように地域的産業経済の諸条件と 結び、ついて,その銀行機能とその有効性にさまざまな追いがあったし,加え て苔積されきたった商業および貸付資本の銀行資本への転化も,これを絞に 生れることとなったのである

O

こうして長崎県においては,三つの国立銀行が生れた。長崎第十八,平戸 第九十九,厳原第百二の各国立銀行がそれである

D

しかもそれらは各々呉な

った特色をもって展開する o

付 ) 長崎第十八国立銀行

長崎第十八国立銀行は長崎の貿易商人の出資による銀行であったわ。明治 1 0 年 1 2 月,立誠会社を改め資本金 1 6 万円をもって創立された同行は, 1 1 年 7 月 25 万円, 2 0 年 6 月 5 万円と増資を主ね,明治 3 0 年 7 月資本金 1 0 0 万円の株 式会社第十八銀行として普通預金銀行に転換するまで若々と発展の歩みをつ づけていった

O

同行預貸金の推移をみても,松方デフレ期に停 ? i ! ? を示すが全体として順調

に伸びている(表 2)

0

預金は諸官公(御用)預金と民間(人民)諸預金か

ら成るが,民間預金の預け主は大部分が商人であり,また貸出しは貿易商人

を主体とする当座貸越による対商人貸出しが過半を占めている

D

また表出の

ように,荷為替取引も松方デフレ期の停滞を別とすれば一応順調に伸びてい

る口このように同行は,まさに貿易商人の銀行としての経営内容を特色とす

(8)

表 2 長崎第十八国立銀行預貸金・ る銀行であったし,長崎港貿易 有価証券保有および荷為替取組推移

という地場産業に結びついた近 (単位:千円)

I J:R~I 叶吋組 代的銀行業を生れながらにして 年 代 預金貸出金証‑咋'.71' 他 向 居 ケ I 本向居 ケ 営みつつ発展していった

D

明治 1 1 年 1 3 5   I  1 7 7   2  しかし同行のこのような貿易 1 3   2 0 3   227  2 7 7  

1 0 3   2 6   商人の銀行としての性格は同時 1 5   245  2 4 3   2 9 3   60  9 9  

1 7   289  1 4 8   417  79  1 1 5   に,貿易港長崎の浮沈にその迩 1 9   3 8 8   1 6 3   4 7 3   5 1 7   3 0 6   命が託されていたことを示して 2 1   3 8 0   4 7 3   4 4 0  

い る 。 明 治 初 期 の 長 崎 港 貿 易 23  264  606  3 6 0  

25  4 1 3   709  309  は,全国的にみてその相対的地 出所)十八銀行『九十年の歩みJl (昭和 4 3 年刊 位を低下させ,松方デフレj 切に

および同行『半季実際考課状』各季,

注1)各年末残高,年間取組 は絶対的停滞を示し,かつ寄港 注 2 ) 貸出金は貸付金,当座 1 3:越,割引手形, 船舶燃料炭の積み込みと上海愉

荷為替手形の合計二

注 3 ) 有価証券は諸公債証書 出ならびに仲継貿易を主体とす る輸出超過型の片‑貿易椛造を示し,さらに居留地貿易形態に甘んずるもので あった 〉。しかもなお長崎港を中心とする産業経済の椛造は,そのような貿 易に依存した型の特産品・{中継商品流通の単線椛造であったから,同行の金 融機抱は,地場経済の再生産の有機的発展に依拠しかっ促進するものとはな りえず,そのいみで,まさに典型的流通金融段能を演ずるものであったし,

かつまた近代的銀行の典型的形式性を備えるものでなければならなかっため。

だがその形式住は,地場資木の現実的苔積を欠くかぎり,その資本主設的

J

径 営の発展に限界をもつこととなり,その銀行資木苔 % u はこの地域のかぎられ た商業利潤のシェアをどれほど確保しうるか,かつまた非資本主義的収容に どれだけ寄生しえたかにかかっていたといわねばならない。これが後述の同 じく貿易商人の銀行でありながら消滅の迎命をみた丸三銀行,また純粋の私 立商業銀行であり,これまた消滅をみることとなる三友銀行との差であった。

この点では,国立第卜八銀行にとり,経営手腕虫かな松田源五郎の存在はき わめて主要であったといわねばなるまい

D

以上の点でまず沼ーに,先述のように順調に{ I j lびた m 金に占める御用預金

(9)

の存在が注目されねばならない。明治 7 年の小野組,島田組の公金預り金抵 当額引上げを契機とする破産は周知のとおりだが,松田源五郎は束京第一国 立銀行の行員であり,かっこの公金]':11りを主たる任務のーっとした小野組長 崎居の名代人、であった O 小野組破産のあと長崎県の官金出納および御用為替 事務は立誠会社がとりあつかってきた。国立第十八銀行設立開業後,租税徴 収事務を含め,長崎県における官金出納事務は,県内各地域の各銀行とのコ

4) ー

ノレレス約定網を形成しつつ ,ニ井銀行長崎出張屈と第十八銀行が分けもち,

十八はそのため明治1 2 年 9 月島原,大村,福江,厳原の 4カ所に出張屈を設 置している D 創業期における同行の官公金預り高は預金総額のほぼ 7 割を占 め,人民預金が官公預り金をしのぐに至ったのはやっと明治十九年前期のこ とであった。

第 2I こ,貿易金融の方向性が注目されねばならない。先きの荷為替取組の 大部分は対朝鮮取引であり,金巾,寒冷紗など洋反物の仲自主輸出と大豆・米 など穀類,牛皮,海産物,金塊砂金などの輸入にかかわるものであった。長 崎貿易の大宗は対中国貿易であったが,それは居留地外商との取引にすぎず,

したがってこの中国貿易についての金融取引は売込邦商への商品仕入れ前貸 および当座貸越など諸担保貸付にかぎられていた。このような商業金融につ いては,石炭については三井・三菱が大炭鉱をにぎっていたから,中小零細 鉱についての仲良い売込問屋金融にかぎられており,海産物や農村工業品に ついてもきわめて前期的金融機能を求めるにすぎなかったとみなければなら ないのである。しかも,対朝鮮取引については,明治十八年ころからにわか に増加を見せるが,その仲継的性格からくる長崎港貿易の相対的な地位の低 下に加えて,国内銀行のなかで朝鮮取引を支配していた第一国立銀行との関 係(たとえば永見・松田は同行の創立株主であり,他方,十八の国立銀行認 可については同行株主の l 人であり,同行総監役の渋沢栄ーに思義をうけた という関係にあった)から 5) 支居設立等にも制限が生じた(このことが「

対馬屋 J =松田という旧来の関係もあったが,釜山浦支居をもっ厳原第百二

と同行との関係を密にし,のち第百二の第十八による実質的吸収という形で

の消滅に結びついた) 0 これらの限界は,具体的には片為替と資金滞流の問

(10)

題を発生せしめるとととなった(十八銀行 r 9 0 年の歩み j ,  5 8 ページ)口し かもなお,明治 2 3 年仁川支庖, 2 7 年元山支居, 3 0 年釜山支庖設置と,朝鮮へ の進出を同行が強めていったことが注目される

O

乙の問,国内支屈としては,

2 7 年の大阪, 3 0 年の厳原・佐世保への支居設置をみたにすぎないのである

O

第 31乙,松方デフレ期をとおしての有価証券(公債)の積極的買入れとい う経営政策とそれによる同行利潤源泉の公債利子依存度の高さが注目されね ばならない。すなわち,たとえば明治1 7 年上半季についてみると,この季の 粗利益は,貸付利息9 , 865 円,手数料(荷為替等) 5 , 993 円,割引料 248 円に 対し,公債利息が1 7 , 6 3 4 円と前三者合計1 6 , 0 6 1 円に対して,公債利息の比重 は著しく大きい。また 1 8 年上半季では,前三者合計1 6 , 9 6 9 円対し公債利息が 1 7 , 812 円を占めている(,十八銀行第 1 6 ・ 7 回半季実際考課状 J , W 明治1 8 年会 計課主計係事務待』所収)

0

それは前出の表 2 にみるように,松方デフレ期 における貸出金の停滞と他方有価証券保有の著しい増加によって生じた現象 である o 経済不況のなかで公債を主とする有価証券の積極的な買入れをすす めた乙とがうかがえる

O

乙の点は後述の商人銀行平戸三友銀行の場合には,

明治 1 7 年下半季および 1 8 年上半季では,それぞれ1 7 年総収益32 , 088 円に対し 公債利子2 8 8 円で0.9% ,1 8 年4 1 , 7 8 1 円に対し 2 , 5 4 0 円で6.1% を占めているに すぎないのに対比して著しい特徴をみせている (,平戸三友銀行第 4四半季 実際考課状」・「同第五回 J , r 明治十八年会計課主計係事務 ~H 銀行之部・そ の し 所 収 )

0

もちろん公債保有は,発券抵当として国立銀行にとって義務 づけられ,かっ 1 5 年の日銀設立とともに,銀行券鈎却元入れのため保有を必 要としていたから,国立銀行に共通する特徴だといえるが,十八銀行・のj b j 合 著しく保有額が大きく,それはほぼ資本金額の 2 倍に達しているのであり,

同行の圧倒的貨幣資本の蓄積が,対応せる地場現実資本蓄積の不足の故にか

かる運用となってあらわれたとみるべきである

D

こうして,明治前期とりわ

け1 0 年代後半の銀行資本は,地坊における産業経済の未発達すなわち現実資

本苔杭の遅れに照応しつつ,秩禄,金禄公債など政府公債の積極的取得を通

じて原苔過程を促進し,他方,その収益の大きな部分を国家的収存としての

地租に負っていたといえるのであり,地場長大の商業および貸付資本の w 私 :

(11)

企業としての第十八銀行の経営内容にその点の反映をみなければならなかっ たことを牢記すべきである

O

この点では,十八銀行における貸付貨幣資本の 苔積がこの段階でなお前期的性格のものでしかなかったことを志味してい る

O

それが十八の限界であったし,その脱皮がその後の十八の発展の条件と もなったといえよう

D

( ロ ) 平戸第九十九国立銀行

さて平戸第九十九国立銀行は,明治 1 2 年 2 月資本金 5 万円をもって設立開 業したが,旧平戸藩主松市詮の出資を中心に旧平戸藩士族により設立された いわゆる士族銀行であつため。明治 15 年同行は資本金を 7 万円に増資してい る o i 平戸第九十九国立銀行検査報告書 J (~明治 15"'-'16年会計課主計係事務 待』所収〉によれば, 1 5 年 1 0 月末の預貸金は,官公預金 15 , 000 円,民間預金 8 , 000 円合計 23 , 000 円に対し,定期貸付 55 , 000 円,当座貸付 3 , 000 円合計 58 , 000 円 , 他に発行紙幣 40 , 000 円に対し有価証券 5 6 , 000 があった。それは著しいオーバ ーローンを示しているわ

O

官公預金のウェイトが高いことは十八銀行の場合 と同様だが,民間預金の大部分は士族の預金から成り,対して貸付金は,対士 族 4296 , 商人 3396 , 諸会社 1196 と士商半ばしていた

D

貸付についてさらに 追跡してみると,抵当物件の大部分は地券および家屋で占められていること が注目されるが, なかに捕鯨機械 6 口を見出す点も注意を要する 8) 。また 1 , 000 円以上の貸付者 3 名は士族 2 , 商人 l だが, 乙 の 士 族 の 1 人は炭鉱 業者草刈武八郎であり,かくて,第 99 銀行の場合,北松む i i 地域における海産 物流通や捕鯨業の展開,さらに石炭産業および商業資本による土地収奪等の 展開にその経営基盤をもっていたことがうかがえる

O

明治 25 年下季の同行「

考課状 J ( W 明治 26 年長崎県第三課事務待会社組合之部』所収〉では,定期預り

金 1 5 , 000 円のうち 8 割を商人で占めるに至り, 定期貸, 当座貸において計

68 , 000 円のうち商人および銀行諸会社が 45 , 000 円を占めている

D

送金・荷為

替の取組も一定の拡大を示している O 平戸および北松市地域は後にみるよう

に小規模ながら多くの私立銀行の設立をみるが,それはこの地域の商品流通

の展開と,基本的にはなお原始的蓄積過程にすぎないが,資本の現実的苦積

の展開を受けてのものであり,このような背景において,同行は明治 2 9 年軍部

(12)

佐世保常盤町 l 乙支居を設置,明治3 1 年株式会社第九十九銀行(資本金2 0 万円) へと継承転化していくのである。

付 厳 原 第 百 二 国 立 銀 行

長崎県厳原の士族竜田幹時他 7 名を発起人とし,明治 1 1 年 6 月1 8 日認可,

認可最低限度の資本金 5 万円をもって 1 2 年 1 月2 8 日厳原大手橋町に開業した 乙の国立銀行は純然たる士族=禄券銀行であり,平戸第九十九が株主上位に 数人の平民(商人、)を数えたのに比し徹底していた口表 3 は,開業より 2 年 目の 1 3 年1 0 月の同行総勘定元枯残高一覧表だが,民間(定期〉預金の9 7 9 6 が 士族であり,また貸付金(期限過ぎ貸付を含む)についてもとの9 2 9 6 が対士 族貸付となっている D さらに勘定科目中に諸買入元金および副業入貨の項目 があることが注目されねばならない。十八銀行『九十年の歩み J (昭和43 年 刊)所収の「第百二国立銀行小史」によれば,明治1 2 年 1 0 月,百二銀行は十 八銀行との聞に1"通商ヲ補稗シ商佑ノ便ヲ謀ノレ為メ第百二国立銀行ニ於テ 頁客ノ依頼ニ応ジタノレ物質ノ貝入ヲ第十八国立銀行ニ委シ之ヲ調理ス」との

「物貨買入約定」を結んでおり,物資欠之しがちな厳原への生活必市品の供 給斡旋を依頼したという。先きの諸買入元金,副業入費なる科目の存在は,

産業経済の未発展の対馬厳原に設立された同行が,士族授産と士族救済資金 の供給目的とともに,単なる銀行業務以外に商業的業務をもあわせ行なった 乙とを示している。

ところで厳原落は維新期に多くの諸債をかかえその財政は著しく窮之して いた口また松尾鉄次縞『対馬近代史』は,第百二の哀にほ第十八銀行という かくれた資本主があったと述べている (同書, 1 5 6 ページ以下)

0

同百:はそ のなかで,百二設立に際し公債証言:額面 1 0 0 円を7 0 円で十八銀行に完却し資 本金を準備したと指摘しているが,資本金 5 万円のうち 4 万円については,

政府に預け入れ代りに同額の銀行券発行を許されることになるが,この発行

分の支払準備として通貨 1 万円を必要としたから,その他の銀行設立民用調

達とあわせ,資金確保のため右の事実があったことも推測されるところであ

O

これに政府からの拝借金 1 万円を加えることをもって,同行の営業はよ

うやく可能となったものであろう。このように第百二銀行の設立とその迩営

(13)

表 3 般原第百二国立銀行総勘定元枯差引残高一覧表(明治1 3 年1 0 月25 日 〉 (単位:円)

借 方 貸 方

f 商 要 向 ? 要

政府ヨリ借 12 , 4 2 1   政 府 へ 貸 52 , 9 8 2  

御 用 当 座 預 金 2 , 4 2 1   金 禄 公 債 52 , 9 8 2  

t 王

i

L ι   1 0 , 0 0 0   人 民 へ 貸 25 , 2 7 7  

人民ヨリ借 4 3 , 6 9 8   貸 付 金 1 7 , 3 8 8   発行紙幣受取高 40 , 0 0 0   期 限 過 貸 は 金 2 , 1 9 4   定 期 預 金 2 , 828  当 座 預 金 貸 越 2 , 5 1 4  

当 座 預 金 417  諸 買 入 元 金 3 , 1 8 0  

振 出 方 形 1 5 0   支 居 へ 貸 17 , 7 1 5  

仕 払 銀 行 手 形 朝 鮮 出 張 居 1 7 , 7 1 5  

約 定 預 金 300 他 居 へ 貸 1 , 5 7 8  

他居ョリ借 4 , 8 3 3   第百三十二東閏京立銀支行 居 1 , 5 7 8   第一国立大銀行 阪支居 2 , 9 9 3   銀行所有物 , 1 3 0 1  

第十八国立銀行 1 , 8 4 0   士 出 所 5 0  

株主ヨリ借 5 4 , 259  家 作 土 蔵 7 4 3  

株 金 5 0 , 000  什 器 5 0 7  

立 金 683  金 銀 有 高

仕払未消割財金 3 , 5 1 9   予 氏 } f 1 J H t c     1 3 , 1 9 7   9 , 289 

前 半 季 繰 越 高 5 6   イ 也 居 紙 幣 287 

(以上合計) 1 1 5 , 212  銅 貨 3 , 6 2 1  

損 益 勘 定 759  副 業 入 責 3 , 455 

5 7 0   (以上合計) 1 1 5 , 5 0 8  

;p~ 85  損 益 勘 定 463 

支 換 打 歩 5 5   給 料 ・ 旅 費 3 7 0  

公 債 売 買 益 4 3   ~ミH

*~:

庫 敷 料 4  雑 費 8 0  

主ペ

W

L エ 、 計 *~~

出所) r 銀行検査報告 J , rr会計課主計桂事務簿~ ,自明治十年至十四年,銀行 之部(長崎図書館蔵)。

注 1 )銭以下切捨

注 2)勘定科目の配列は若干変更した。

注 3) ( )は引用者が補足記入

注 4 )なお原本ば縦書き,借,貸上下となっている。借貸記帳については,原本

に従っている。

(14)

は,きわめて脆弱な基盤の上に行なわれたものであり,預貸金内容および商 業的業務の兼営などからみでも,士族授産を目的とする士族銀行の名にふさ わしい存在であったとみなければならない。

しかし厳原第百二銀行の存在の特質は,同時に朝鮮文居を有しての貿易金 融にあった。先きの第 3 表中,朝鮮出張庖勘定1 7 , 0 0 0 円余の存在が示すよう に,同行はその開設時期は不明だが,設立問もないころより朝鮮釜山市に出 張庖を有していたことは明らかであり,それは対馬落宗氏の財政基盤が対朝 鮮貿易にあったという歴史的背景によってもうなづけるところである。明15 年1 2 月釜山浦支屈が開設されているが,それは右の出張屈が昇格したもので ある

O

同行「第1 2 回半季実際考課状」では,明治 1 7 年下半季の本文厄利益金 を区分し報告している。それは下のとおりであった([1会計課主計掛事務待』

銀行之部,明治1 8 年 ( 1  ' ‑ " " 1 1 月) ,其ノ一所収) 0 

厳原第百二国立銀行明治 1 7 年下半季 (7 月 1日 , ‑ . . . ,1 2 月3 1 日)利益金(銭以 下切り拾て)

厳 原 本 居 粗 収 益4 , 028 円,経賀1 , 8 6 9 円,当半期利益金 2 , 1 5 8 円,外 に前半期繰越 2 1 3 円

釜山浦支庖 粗利益1 , 6 2 0 円,経費706 円,当半期利益金914 円

厳原本居粗収益のなかには,発行銀行券抵当政府預け入れおよび銀行券 消 却 元 入 れ を 主 目 的 と し 保 有 し た 政 府 公 債 6 万有余円に対する利子推計 1 , 8 0 0円以上が含まれている O 役員を合めての本支百行員数は, 各 1 3 . 3 名で

あり,釜山市支屈の存在価値が同行にとってゴl;."ìì~ ~こ大きかった乙とが明かで

ある

O

同行「第 1 3 回半季実際考課状 J ([1同吉~,明治 18年 02月)共ノ二所 収)によると,明治1 8 年 6月末の定期貸付および当座公 i i i l l 残高合計38 , 373 円 の本支居内訳は,本居 1 7 , 045 円に対し笠山浦支屈が1 7 , 328 円と文屈が本活を 凌ほしており,貸付対象者の身分割合では,本屈が士 7 向 3 ' g l J   ~こ対し,文屈 では士1. 6 商8 . 4 割ときわめて対照的である

O

荷為自、取引に至っては, 1 8 年前 半期中本屈にはみるべきものがないが,釜山れ n 文目では仕 f I I Jけ40 , 4 8 0 円(牛 皮,金~鬼,五倍子,陪,海参,大豆,布海苔) ,受込み25 , 1 8 0 円(金 r ! J , ヨ 3

冷沙など)が取り組まれ,その取組先きは長崎第十八を主とし,東京第一国

(15)

立銀行大阪支居がこれに次いでいる O このように釜山浦支屈の主たる機能は

,朝鮮と本邦とりわけ長崎との貿易金融にあり,第百二銀行にとってその存 在価値はきわめて高いものであった。同行は明治 24 年 5 月 5 日,臨時株主総 会で朝鮮国元山津に支庖開設を決議,同月 2 0 日詰願認可をうけ,元山主 j l 日本 居留地に支居を設置した。その趣旨は次のとおりであった。

「妥ニ時勢ノ変移ニ随ヒ我対応全島八日日追テ衰凋ノ惨状ヲ呈シ,物資欠 之銀行営業益々退歩不振ノ兆候ヲ来タシ,迩転金ハ底油シテ流動ノ活椴ヲ得 ズ亦奈何トモスノレ能ハズ兵ニ朝鮮釜山港へ支居ヲ設置シタノレニ,其計回ハ 誤ラズ,同地ノ収益率年々歳々増加ヲ告ゲ,今日マデ本行ノ営業ヲ維持スノレ モノハ同居経営ノ結果ナリト言ハザノレヲ得ズ

D

認ニ至リテ,同国元山1{ t 支居 開設ノ必要ヲ感ジ,株主一同之志見ヲ向ヒ,格段決議ヲ経テ,弥々本行営業 ノ隆盛ヲ諜 j レ所アラントス J c r 元山津支活設置ニ関スノレ詰願吉 : J ,前抱十八 銀行『九十年の歩み~, 226 ページ所収)

ところでこの元山津支屈は r すでに元山津にあった平田直道:庖を百二銀 行支庖に引き直したのであった J C 同『九十年の歩み~, 228 ページ) 0 平田 直達は,百二銀行の取締役であり,実質問居の元山浮出張屈の役割を演じて きたもであったといわれる

D

しかも r 平田直達ハ其,本行(第十八国立銀 行)ノ支居同様ニ進退スノレ事ヲ得モノ」と,第十八の松田源五郎をして述べ させる存在であった。平田直達居は,実質上長崎第十八銀行の業務代行居で あり,明治2 0 年 1 1 月,十八銀行との聞に結ぼれた「事務院託定」に基づき,

十八銀行の業務を代行するため百二銀行が設置したものであった的。前掲

『対応近代史』は,この間の事について「十八銀行は第一銀行と朝鮮には一 切支居を出さぬという協約があったため出したかったが当時出せなかった」

(同書 1 5 6 ページ)と記し,十八銀行が第百二銀行支庖の名で実質上自らの 支庖である性格をもって朝鮮各支居を設置せしめたといっている 10) 。

第一国立銀行は,明治1 0 年前後の主要業務を生糸金融・米穀金融に置いた が,明治 9 年日鮮修好条約が結ばれ,釜山開港後の明治1 0 年下半季に入ると,

清国および朝鮮国との迫商にかかわる為替・荷為替およびJ1 ¥ r i 5f交換など海外

業務に進出の意図を示し,同年 1 2 月釜山浦支庖開設を大蔵省に対して願い出

(16)

し , 1 1 年 3月 5 万円の政府資金貸与を得て同支居を開設し,同年 6 月より開業 している o つづいて明治 1 3 年 5 月,元山津開港とともに直ち ζ l ここに出張所 を置き, 1 6 年 2 月には仁川にも出張所を設けた。それらをもって洋布・寒冷 紗・洋綿糸などの対鮮輸出貿易・穀類・砂金銀・生糸・牛皮・骨海草などの 輸入貿易金融ならびに当地の日本公・領事館の官金出納業務を行ない,明治 17年以後には著しい発展をみたのであった(~第一銀行史』上巻 341'"""-'44 ペー ジ , 4 1 4 ' " ' ‑ ' 1 7 ページ参照)。 このような日本政府と結びついた強大な第一国 立銀行に伍して,百二銀行の朝鮮各出張居が存立しえた背景には,十八銀行 のダミーとしての存在にその根拠があったといわねばならなし」したがって,

一方で明治2 3 年1 0 月,十八銀行が仁川支庖を設け,自ら朝鮮に進出し,他方 明治 25 年ごろには朝鮮国政府の防殺令などによって,朝鮮貿易が一時停滞す るなかで,支屈の業績が悪化すると,第百二銀行の存立基盤は一挙にして 危険に陥り, 1.議原本居をとりまく資本蓄積も,先きにみた士族授産=救済的 性格を脱することができないままに,みるべきものはなく,百二銀行の十八 銀行に対する資金援助の要請を拒否され(明治 2 6 年 8 月) ,般原第百二銀行 は,これより解散の方向に向かうこととなり,長崎第十八銀行がその整理に あたったのである(なお『対馬近代史』では, 朝鮮支居の放恒経営のあっ たことを指摘している)。厳原第百二国立銀行は,このため一旦本屈を長崎 第十八銀行の本居内に移し,もっぱら旧債の回収整理 l こつとめ,株式・役只 などを長崎第十八国立銀行に移行せしめつつ,明治 3 0 年 7月,普辺銀行百二 銀行に転換し,周年 1 2 月任意解散するに手.ったのである。

(斗三井銀行長崎出張庖

明治 9 年 7 月 1日,私立三井銀行が開業し来京股河町に木屈を椛えると同 時に, 同行は従来からの三井組分居・出張居を引き継ぎ,大阪・西京・ t l l {

浜・神戸など 4 分居と,愛知・下関など全国 2 6 の出張庖を設けた,乙のな

かには 3 等出張居として,九州では小企とともに長的出張屈が合まれていた

(了三井銀行八十年史 J ,昭和32 年刊, 85 ページ) 0 もともと「官金山約等ヲ

劫ムノレ県々ニハ共県下ニ出張庖ヲ白へシ J C f 三井銀行自 u 立証言} J第二条)と

され,出張庖の主要業務は官公金出納取扱にあった。しかしながら,同行が

(17)

創立当時に金銭出納をとりあつかったとされる官署 7 省・ 1 使・ 3 府・ 1 4 県・ 4 税関のうちには,陸・海軍省を除いて長崎および周辺府県関係、のもの

は見当らない(IT'八十年史J], 8 9 ページ) 0 それは大部分が前述のとおり,小 野組の跡をうけ,立誠会社から長崎第十八国立銀行へと引き継がれ,長崎第 十八国立銀行のとりあっかうと乙ろとなったといってよい D

ところで自明治 1 0 年 至 1 4 年,長崎県『会計課主計桂事務待』銀行之部は,

その第 3 号に明治 1 1 年 1 月 1 0 日付をもって,長崎第十八国立銀行の「当県為 換方申しつけ伺いの件」を記し,額面 5 2 , 000 円の新旧公債証書を抵当差入れ の上 1 1 年 3 月 2 3 日為換方を命じているが, 同 4 号にて, 三井銀行に対し

「佐賀支庁為替方向断 J (明治 1 1 年 1 月 2 6 日伺 2 月 1 3 日許)と記し r 本 博多町 552 荏地三井銀行出張居ヲ根拠トナシ J , r 預ケ金ハ 5 万円ヲ以テ限

度トス」旨の右為替方の認可を与えている

D

長崎県庁主管課事務侍中三井銀 行に関する件の記帳は,次に,自明治 1 5 年至 1 6 年『会計課事務簿』のなかに,

明治 1 6 年 8 月 1 日,三井銀行長崎出張居が県庁為替方を命ぜられたことが,

同年 9 月第十八銀行が日本銀行国庫金取扱代理取扱方に任命されたことの記 帳とあわせて出てくるだけである

D

三井銀行は,三井物産会社との協同事業として明治 9 年 1 0 月 1 4 日に許可を うけ,納税資金荷為替取組をはじめ,同日付三重・秋田以下八県において実施 している。そのなかには,九州については福岡・長崎・熊本の 3 県が含まれ ていた(前掲『八十年史J], 9 3 ページ〉。それは,三井物産出張屈と区長・戸 長の代理契約により物産側が現米受領ののち ,lEl民 l 乙約定金額相当の三井銀 行振出手形と渡し,良民はこの振出手形をもって納税の手続きとするもので あり,貸出割合は平均米価の 6 ' " ' ‑ ' 7 剖とされていた。三井の貸付業務はここ に新生面を聞いた。先きの佐賀支庁(当時は長崎県)官金出納はこの納税資 金荷為替取組と組合わされてその怠義を理解すべきであろう

O

ところで一方三井物産会社は,三井銀行と同しく明治 9 年 7 月 1 日創立さ

れたが,周年 7 月 3 1 日,三池炭の一手販売権を政府より獲得し,また元禄以

来 長 1 1 I 奇会所貿易に参入し,宝永 4年(1707) 以来代々手代中野周目 J 名{誌を用

いて長崎外浦に代理屈と常設し,幕末までつづいていたが,明治 9年 8月 3 1

(18)

日長崎支居を全国の他の支庖にさきがけて設置した

O

この後,明治1 0 年1 1 月 上海支居を設置, 1 1 年 5 月には口ノ津出張屈を設置, 1 6 年 8 月島原出張居設 置をみている

O

そして明治2 1 年 8 月,官営三池炭鉱の三井物産会社への落札 移管とつづいている

D

かくして三井国産方を引き継いでの生糸荷為替および 問屋前貸金融という横浜貿易の大宗の支配とともに,長崎県およびその周辺 地域においては,先述の国内流通商品の大宗である米と納税金融を結んだ支 配,さらに三池という大鉱山の産出する石炭の上海市場輸出の支配という かたちで三井銀行長崎出張庖は,三井物産出張居と結合しつつ長崎周辺で のきわめて効率の高い業務分野を独占的に支配したといわなければならな い(三井物産「三井物産小史~, 1119 ページおよび 1 2 3 ページ以下「年表」を 参照)。

( 2 )   銀行類似会社と私立銀行

明治 1 0 年代には,県下各地に多くの私立銀行類似会社が輩出している。明 治1 7 年『会計課主計出事務待』銀行之部はその2 5 号に同年 6月30 日現在で,

次のとおりに記

1:]

長している(印は引用者による付記)

↑住志、商社(明治1 3 年 3 月25 日承認 4 月1 1 日 開 業 ) 南 松 栢 江 村 貸 付 金・預り金(総資本金 1 万 円 羽 入 額 同 )

協 心 会 社 ( 明 治1 3 年 4 月1 2 日承認 6 月 4日 開 業 ) 北 松 平 戸 村 貸 付 金預り金為替 割引両替公債他金銀売買(総資本金 4 万円 現 入 額 同 )

苔 積 銀 行 ( 明 治1 4 年 9 月 9日承認, 1 0 月 2日 開 業 ) 肥 前 国 長 的 区 長 U

l 奇京浜町貯金預貸付金等(総資本金 1 万円 羽 入 額 同 )

〕 九 日 銀 行 ( 明 治 1 4 年1 2 月22 日承認, 1 5 年 l 月1 6 日開業)来彼大村村貸

付金預り金~'-; (総資本金 9 万 円 羽 入 額 同 ) 数寄屋賃銀行(明治1 6 年 1 月開業)南高島原浜町(資本金 3 万円) 早 l 技起業会社(明治1 6 年開業)京彼早 l 皮村(資本金 3 万円)

三 友 銀 行 ( 明 治 1 6 年 2 月1 4 日承認 2 月2 6 日開業)北松平戸村(貸付

金1: 1 1 り金為替資本金総額1 8 万円 割引両替公白地金銀 52R 現

入 額 同 〉

(19)

大 村 銀 行 ( 明 治1 *  6 年 8月開業)束彼大村村(資本金 5 万円〉

諌 早 銀 行 ( 明 治1 7 年 5 月3 1 日承認 7 月 1日開業)北高諒早町(貸付 金 預 り 金 為 替 資 本 金 総 額 8 万円 割引両替公債地金銀売買 羽 入 額 同 〉

以上のほか,明治1 3 年長崎区束浜町に資金1 0 万円をもって丸三銀行が設立 されているが,後述のように1 5 年 5 月大阪に本庖を移している

D

また明治1 6 年 8 月西彼杵郡千L P Y H l 村に士族 2 名によっで 5 立社が, 1 7 年 2 月束彼杵郡千綿 村に士族 5 名により就産開 J 信社が,周年 5 月北松浦郡下寺村に士族など 3 名 によって純豊会社が,それぞれ銀行類似の営業を行なうべく設立願書を出し たが,いずれも資本金 1 万円にに満たず却下されている

D

一方北松山郡では,

右に表示した以外に,平戸に,元来商人出自とみられる士1.ó~ でありかつ呉服 商の岡村定ーと民業経営者 4 名による資本金 15 , 000 円の ~iJ;~会社が明治 17年 1 0 月に,また山口村には,同じく商人出自の士族であり,石炭業を営みかっ 大地主でもある平刈武八郎など酒造米商人を含む 7 名によって資本金3 5 , 000

円の相出勧業会社(明治1 4 年 8 月創業)改め相ノ i r l i 銀行が1 8 年 7 月に設立開 業している (前掲『事務活~)

0

また別の記録によれば, 明治 1 8 年 8 月l , 乙 古賀銀行(資本金 2 万円)が長崎区本下町に設立されたとあり,明治2 7 年 3 3 年の長崎商業会議所議員中に銀行および会社主役古賀祐ーの名がみえてい るが,同人は佐賀第七十二国立銀行(明治 1 1 年設立)の有力株主の l 人であ り(同行「第廿八回半季実際考課状 J , r第三課事務待~),古賀銀行とは,

同行支居(明治 22 年設立)の前身ではないかと思われるが,詳細は不明であ る(長崎商工会議所『長崎商工会議所五十年史 j ,昭和国年刊, 4 1 8 ,  7 2 7 ペ ージ)。以上が明治2 4 , 5 年以降の第 2 の私立銀行設期以前に設立された銀行 類似ないし私立銀行であった。

( イ ) 士族授産銀行と農民金融

ところで,福江の惟志(有亥舎改め, 17 年 8 月1 8 , 000 円に減資) ,大村の

玖島(設立時資本金 6 万円),諌早の諒早銀行などの各社は,栢江落・大村落

および佐賀藩諌早領の旧士族をその株主の圧倒的部分とし,士放の相互援助

を目的とした銀行で,とくに後 2 社は旧藩主大村純照諒早ー学が総林の約半

(20)

額をうけもち,玖島銀行の場合,大村家出資に対する配当は旧家臣救済のた め積立てることが定款上約定されていた。したがって,その資金迩用は,士 族授産ないし良業を中心とする産業金融の方向をたどり,資金の相対的長期 固定化と増資の要請を生むとともに,このためにせばめられる商業金融の領 域について,別個の金融版関が要求されることとなった。これがのちに大村

・諌早などに新たな商業銀行を生むこととなったと考られる D この点での典 型例は諌早銀行であり,同行の場合,帰良士放を中心とした農民金融の銀行 として機能した点に特質が見出される

D

すなわち明治1 7 年下半季の貸付金の 6 却は地券担保の対民民貸付で占められていた。これは 20 年代に入って筏生 する南高来一円の高利貸的銀行などとともに,その当初の芯図はともかくと して,実際上は金約課税に対応しての良民金融関関として,土地兼併・ 3 生 地主制生成の産婆役として│辺能することとなった(前掲『会計課事務的』明 治 17 年く全〉および明治18 年く12 月中〉そのこ参照、)

一方,北松浦地区の諸銀行は,第九十九国立銀行にみたように,ある程度 諸産業および商業の展開に結びつき,ひいては商人の地主化とともに地主銀 行に転化する側面を有していた。しかし,その場合にも平戸第九十九回立銀 行は,商業金融の拡大にその将来の発展の展望をつなぎつつ,七 i l i . ' : 京 会 社 や j 白 券担保の民業その他の産業金融に,相 1 i l i は石炭産業に結び、つくといった形で やはり産業金融に主点をおいた。その芯味で一程の特定の産業および企業群 と給付いた閉鎖的性格が強く,のちJ1I治佐世保の誕生により周辺の消質的流 通中心地となるまではきわめて地域分散的か・つ閉鎖的な存在に終らざるをえ なかったと思われる。

補注一一以下若干の火料を j ' l u っておく。

自明治1 0 年至 1 4 年『会計課ゴ工務 1 Z G U 2 1 号 , r 市応力 I W l i 福江村松尼籾母外三名前社設立

m f ノ件 J (明治 13午 3 月 24 日交)に,従米為 Jà 1't企業を日'む有~舎を惟志向社と改称し,

代金および日用の物品等向栄を白むよう当業変更の目 1 いが山されている。資本金 2 万円 は,士族山口八郎 i 有門ほか 6 6 名引受けの有限立任fl;1jであった。

同 22号に,北松平戸村早田容三郎ほか 3 名により,諸公位証主:・古企~R31~ 只・ 1ミJ:i1.

九 J 見両出などを業務とし,資本金 l 万 1 , 0 0 0 円の t s 心会社設立阪がでている(明治1 3 年

(21)

4 月 9 日受)。

同6 0 号に, m I 午郡大村 5 0 8 番,士族岩永広街他 5 名の連名で私立玖品銀行設立Dmが 出されている(明治1 4 年1 2 月6日交)。添付同行定款第3 6 条は次の如く定められていた。

すなわち「当銀行株金ノ内大村家ノ株金ハ本来当銀行株主及旧大村落士族ヲ初助スノレカ 為加入シタノレモノナノレニヨリ毎季之ニ対シ配当スヘキ利益金ノ全額又ハ設分ヲ杭立以テ 別段積立トナスヘシ」。

明治1 7 年『会計課事務?引は,その 1 号に,私立玖白銀行の 3 万円出 1 資,計 9 万円と 日けを記している(明治1 6 年1 1 月2 9 日)。

同1 4 号は,山口新一・野口久四郎など 4 名連名で諒早銀行開業を届出(明治1 7 年 6 月

7日〉。同2 7 号「私立諌早銀行設立身元財産調仕訳者」で,諒早一学ほか発起人財産を

調べているが,発起人 6 名全て士族であり,旧領主諌早一学が資本金 8 万円のうち 3 万 円を引き受けた乙とが記されている。なお乙のほか 1 , 0 0 0円以上の大株主は3 5 名でうち

6 名が平氏である。

明治 18年『会計課ポ 'Lj 待』その 1 ・ 20号は,平戸協心会社郊 10 回(明治 17年 10月 ~18

年 3 月)半季考課状を J 己 1 ) 長,定期預金残高 2 , 0 6 0円のうち向人よりのま口り日8 2 . 7 9 6 ,ま た公債買入れ持ち高額面 l 万3 8 5 円,貸付金残高は 3 万 5 千3 2 5 円で利子歩合最高年2 0 9 6 平均 1 4 . 8 9 6 と比校的日く,借主は 4 0 . 7 9 6 を商人 ( 8 0 口), 5 0 . 9   %を士族(1 8 9 口)で占 め,一定の商業金融機能を認めうるが,全体として自己資金による高利貸付機関の色が 浪い。また同2 1 号には,北松山口村の私立相?rt i 銀行開業届けが記故され(明治1 8 年 6 月 2 2 日承認) ,明治1 4年 8月承認の相補勧業会社改めのものとされ,頭取苧刈武八郎身元 について良業兼石炭業とある。武八郎は草刈太一左衛門の子供。その他の発起人 6 名は,

良栄 3 ,商業 2 ,酒造兼商業 1 名であり,地主銀行の色が出い。株式7 0 0 株,株主は 1 0 2 名におよんでいる。

明治1 8 年『会計課主務待』その22 号では,諒早銀行 t r n 回明治1 7 年下半季(1 7 年 7 月

1 日 ~12月 31 日)実際寄課状を収録している。資本金 8 万円のうち払い込み済 5 万 6 千

円,したがって諒早一学が払い込み分の5 0 9 6 以上を引き受けているわけである。 1 7 年 7

月長崎第十八銀行と同年1 1 月三井銀行長崎支居とのコルレス約定を締結。期末勘定残高

は,人民定期 l 万千5 5 円(うち士族2 1 口 6 7 . 8 タム向人 9 口2 1 . 5%),御用当座 5 , 4 7 9

円,人民当座rü り 2 万 4 千418 円(うち士族49 口 88.396 ,白人13 口 11.7 タ~) ,無利息預

り 1 , 5 9 0 円,対して貸付金 9 万6 4 7 円 ( 9 1 7 口,うち士族 2 4 . 7 タム良民59% ,商業1 6 . 3 5 ち

で抵当品の 8 剖は地所となっている) , 当座貸越4 , 0 3 7 円である。一方御用送金手形取

(22)

組ば,三井長崎支居に対し6 , 5 9 7 円,受込みは,長│崎第十八銀行より 4 , 2 1 5 円,三井支居

より 7 , 309 円となっている。人民送金手形については,取組み長IÙ~J 第十八銀行に1, 015 円,

三井支居に 7円受込みは長崎第十八銀行が1 5 0 円,三井支屈が1 9 6 円であり,ほかに三井 長崎出張居よりの2 5 0 円の割引手形受込みがある。以上地券担保の農業金融と,先きに 本文で触れた三井との納税荷為替関係の存在を推測させる点がととでの特徴であろう。

同3 3 号諌早銀行第 2 回考課状においても,対士・良貸付が圧倒的で,対商人貸付は,

わずか5 . 6 9 6 にすぎず,右の特徴点が依然有効である。

( ロ ) 長崎丸三銀行と平戸三友銀行

以上のような閉鎖的かっ士族授産を含みつつ農業など産業金融面に椴能す ることの多かった私立銀行に対して,ある意味で第十八銀行や三井銀行出張 居に対抗し,比較的広域の商業金融に機能し,県下の商業流通を促進する役 割をになった私立銀行が長崎丸三銀行と平戸銀行であり,しかも両行とも明 治初期の段階で消滅する運命を担っていたところに,明治初期から中 j 切にか けての長崎県の地場産業および現実資本の蓄積の低迷が象徴されている O

丸三銀行は,明治 13 年長崎区東浜2 1 番地に資本金 10 万円をもって設立され,

14 年 2 月 16 万円に増資,当時支配人は小林剛三,頭取版本克三で,株主の大 部分は o 物等の貿易商人および諸問屋営業者であった。しかもその椛成員所 在地は長崎以外に福岡・大阪におよび,この点から貿易港長崎とその取引地 との結びつきのなかに生れた銀行であったことが推測される 12) 。丸三銀行 は当初より大阪府東区に分庖を有し,長崎と大阪の間での荷為替業務ならび に対貿易商人貸付を主としていたと推察される。ちなみに丸三銀行の長崎所 在役員および株主と主復する株主将 3 成がみられ,丸三銀行の姉妹庖と推測さ れる長崎蓄積銀行は,貯蓄預り貸付を業とし,その資金は丸三銀行ないしそ の取引先に流れることとなったと思われるが,明治14 年 6 月 4日のその創立 願い,および関述しての身元財産調べによれば,述名せる創立発起人14 人は 次のとおりである(前掲,明治10 年 , ‑ . . . . ,14 年『事務At[J!48 号・ 5 5 号一一*印は 丸三銀行役員関係者)

長 Úlな苔 ~it 銀行創立発起人調べ(明治 14年 6 月 16 日〉

菊 池 伴 吉 丸 三 舎 長 株 主 身 代 概 ソ 8 千円未満

(23)

田 浦 佐 吉 区 f 物 商 卸 商 身 代 5 千 円 未 満 家 地 所 ハ 自 産

徳 島 政 太 郎 官 物 屋 2 0 0 以 上 の 卸 売 身 代 3 万 円 未 満 家 地 所 ハ 自 産 主 枝 喜 一 郎 金 物 屋 身 代 8 千円未満

広 瀬 吾 大 郎 唐 物 卸 小 売 兼 業 身 代 l 万 5 千円 家ハ自産地所ノ¥他産 橋 本 克 蔵 丸 三 舎 員 株 主 身 代 7 千円

大 鶴 菩 十 郎 庇 物 屋 身 代 l 万 5 千円未満

森 源 兵 衛 官 物 屋 身 代 1 万 5 千円多クハ金巾ヲ梓地ニ送ノレ 小 田 喜 次 郎 唐 物 屋 身 代 5 千 円 未 満 金 巾 類 ヲ i 民地へ送ノレ 的 野 市 二 諸 問 屋 身 代 3 万円

中 川 儀 平 諸 問 屋 精 米 小 売 兼 業 身 代 8 千円未満 増 水 慎 平 質 屋 身 代 2 万 円 未 満 日 物 支 庖 ヲ 開 ク 林 一 郎 次 大 阪 小 間 物 仕 入 問 屋 身 代 l 万円未満 石 橋 宇 吉 福 岡 県 三 郡 榎 津 町 ( 長 崎 区 寄 留 ) 紙 居

ところで,明治1 5 年 5 月丸三銀行は大阪府下京区北久太郎町 3 丁目に本屈 を移し,長崎は大阪丸三銀行分居と改め, 1 6 年 3 月支配人小林剛三は神戸港 に設立された某社々長に選ばれ長崎を去り,長崎の貿易商人的野市太郎が分 庖支配人となる o そして 1 7 年 1 2 月 2 7 日,丸三長崎分屈の閉居届が出される O

同年には不況と金融通迫のなかで,会社銀行の倒産が続発,京都の竹原銀行 などとともに大阪丸三銀行も閉居している(岡崎次郎ほか『日本資本主義発 達史年表 J 49 ページ)口したがってこの閉居そのものは松方デフレ政策の所 産ともいえるが, 1 5 年の大阪移屈は,長崎港貿易の相対的地位低下と無関係 ではなかったであろう

O

とくに明治前期における長崎港輸入貿易の相対的低 下は著しく,輸出はもっぱら穀物・海産物および仲継商品を主としていたか ら,長崎大阪を結ぶ丸三銀行のノレートは衰退せざるを得なかったものとみら れる

O

ちなみに蓄積銀行もまた不良貸のため, 1 8 年 5 月廃業した。

明治 1 6 年設立の平戸三友銀行は,同じく平戸に設立され,かつ先きにみたよ うに商業金融機能を一定程度営んでいた平戸協心会社とならんで,商人を中 心に設立された銀行であった。同行の特色は,平戸商人を中心とし,長崎・

佐賀など各地の商人を株主としつつ,かっ文庖網を長崎県内・佐賀県下およ

(24)

び大阪にっくりあげたことであり,三友社(明治1 4 年設立)と称した当時,

1 5 年 5 月に壱岐武生水村に支居を設けたのをはじめ,同年1 1 月伊万里支屈を 設置し,同社を改め明治 1 6 年 2 月資本金を1 5 万円に増額のうえ (3 月さらに 景況著しく,株式応募者多く 1 8 万円に増資) ,平戸三友銀行の設立をみた際

には,長崎・佐賀両支庖,島原出張屈を加えるに至った 13) 。

このような支居網をもってする同行営業状況を,第 4 回・第 5 回 の 同 行

「半季実際考課状」によって, 17 年下半季と 1 8 年上半季についてみるとおよ そ次のとおりであっ t : : . . o 資本の回転率 出 金 は,半季平均3 0 回で,

ー 資本金十積立金

これは第十八銀行の 1 8 年上季1 6 回(第九十九銀行・第百二銀行はおよそ 4 " " "

5 回)をはるかに上まわっている D 預金は 17 年末残高が,定期・約定・当座 あわせて 1 4 万 4 千円であり,定期と当座の約 6 割を長崎支庖で,約定(通 知)預金の 7 割を佐賀支居と大阪分庄で占めている o 他方貸付は,定期貸付 残高 1 3 万 7 千円 ( 5 2 4 口),約定貸付残高 5 万 9 千円(1 6 9 口),当座貸越残高 5 万 7 千円 ( 2 7 7 口),計 2 5 万 2 千円と若しいオーバーローンであり,資本金 の資金に占める比重は比校的なお高いことを示しているが,先の資本回転率 とあわせみてその商業金融機能が当時としてきわめて高かったことを認めう る。また支庖網の多岐にわたったことを反映して,送金手形取組額はこの下

半季で合計 40万円と若しく大きく,さらに尚a 業金融段能を端的に示す ~51J 引荷

為換取引は2 0 万円で,そのうち約 9 万円すなわち半額近くを佐賀若干 t I 出張所 にて取組み,次いて長崎・島原・大阪がそれぞれ 2 万 2 千円・ l 万 8 千円・

1 万 8 千円の取組額を示している。他方その振向け先は,大阪分屈が 9 万 8 千円すなわち 5096 ,長崎支居 4 万 9 千円すなわち 2 5 9 6 , 干 l j l 戸出張居 2 万 3 千 円となっていて,米を中心とする商品の集荷流通との密技な関述を示してい る口このほか,この割引荷為投と対応しでの送金関係、を示すとみられる,佐 賀支庖 1 0 万円の支払を及大とする計 1 7 万円の逆為投取引があった。そして,

明治1 8 年上半季についても全く同殺の傾向がみられる(明治1 8 年『会計課主

計係事務筏』そのこ, 1 3 号・ 1 4 号) 0 このほか同行の荷為替取引は,その後

佐賀・島原・長崎に加えて熊本・鹿児島におよび,同行の向栄金融が西南地

域の米・茶など j 見産物の長 I I I なおよび大阪を結ぶ流通面に機能するものであっ

(25)

たことを物語っている

O

ところが,それにもかかわらず,明治 17 ・ 8 年段階 での同行の営業収益につい℃みると,実は平戸本居で 5 割以上を計上し,長 崎支屈のごときは,不況過程の影響をけ,明治 1 8 年上季には欠損をすら出す という奇妙な現象が生まれている。この場合本支居 m 益勘定が厳密な独立区 分をもっていたかどうかは若干問題があるが,定期貸付を中心に貸付金勘定 については,平戸本庄の比重が高く,しかもその貸出身分別で土・商相半ば していたことが注目されよう

O

当時の景気状況を考応するとしても,県下お よび長崎周辺地域から長崎へという集中ノレートおよびそこから大阪へと向か て中央集中の流通過程での金融述営が,他銀行との競争のなかで利幅を諒く

し,したがって利益面で芳しレ成績を挙げ難かったのではないかと推測され るのである。しかしその経営業務基盤が右にみたようなものであったかぎ り,明治1 8 年 7月,三友銀行が本社を長崎市本石灰町に移したこともうなずけ ることであった。しかも,次の不況期を経過するなかで,明治 26 年 2 月,同行 は遂に閉鎖の止むなきに至るのである 14)  O なおこの点については,当時の 主たる全国流通商品であった米について,すでにみたように三井がその荷為 替貸付けを支配し,それとの競合関係が作用していたとも推察されるがこの 点なお検討を要する

D

さて, 2 4 年以降すでに表 1に概 f ( 耳したように県下に私立銀行設立ブームが 起るが,いずれも中小規模でしかなししかも早岐・島原など局地的市場を 背景とするもので,そこに新たな商品流通領域の形成をみたことを反映して いるとしても,丸三・三友の例にみた事態一明治前期長崎県下商品流通の未 展開と政行性ーは,なお大きな変化をみせるに至っていない。残された迫は 一つは大陸貿易の発展に結び、ついての,すでにみた長崎十八のたどった道で あり,イ也は封鎖的局地市場での小企業の機関銀行及び地主金融の道にすぎな かった。

注 1 ) 第卜八銀行における永見・松田両家の持株比率は,創立時 5 0 9 6 ,1 1 年 7 月の増 資時で 42% を占めた。また明治 5 5 年の株主枯成比率は,本行役員 30% ,賀商 2 5

%,貿易商11% ,その他の商人19% であった(伊丹正博「第十八国立銀行の歴史

的一考察 J , W 経済論究』第五号所収)。

(26)

2 )   とのととについては,拙稿「日本資本主義の確立・発展過程における長崎港貿 易の展開とその構造 J ([f'経営と経済』第 53 巻第 3 号所収〉を参照されたい。

3 )   第十八銀行の近代的性格については,開業初年直ちに東京,大阪,横浜,京 部,神戸の各主要都市および上海の三井物産出張所,釜山の第一国立銀行文居と の聞にコノレレス約定を結んだ乙と,明治 1 1 年 7 月同行荷為替品についての海上保 険業務の兼営,明治 1 3 年 10 月同行主唱による九州銀行同盟会の発足と聯帯為換制 度の形成など,第十八銀行の貿易・商業銀行としての出発にかかわりをもっとこ ろが大きい(十八銀行『九十年の歩み~ .昭和 43 年刊. 4 2 " " ' ‑ ' 4 6 ページ参照〉。

4 )   平戸第 9 9 ・厳原 102 など国立銀行も,それぞれの地域の郡役所その他の官公金 為替方を願い出,官金出納を行なったが,その条件として第四との問のコノレレ ス約定締結をその認可条件としていた(自明治 1 0 年至 14 年『会計課主計係事務

待~ .銀行之部 1 0 号参照)。

5 )   束京第一国立銀行(明治 6 年 6 月 1 1 日創立〉は,三井小野組合銀行の発展した ものだが,同行創立株主総数 71 人のうち,各 7 , 000 株 (70 万円〉の三井八郎右衛 門,小野菩助を空頭株主とするその第 1 4 " " ' ‑ ' 1 6 審株主には,長崎の永見伝三郎 200 株 2 万円,永見寛二 150 株 l 万 5000 円,松田勝五郎 1 5 0 株 1 万 5000 円が名を辺ねて い る ([f'第一行史』上巻,昭和 32 年千 I J . 9 6 ページ)。なお渋沢の周旋については 後註(1 0 )参照。

6 )   平戸第 9 9 国立銀行の創立主要株主ば左記のとおりである( [f'会計課主計係事務 待~ .明治 1 5 " " ' ‑ ' 1 6 年銀行之部記載増資者名簿より〉。

松浦 詮(東京府軍族 60 株 3 , 000 円 松浦徳之助(長崎県土族 60 株 3 , 000 円 小関 手(長崎県士族) 40 株 2 , 000 円 牟 田 部 佃 ( 長 崎 県 士 族 ) 40 株 2 , 000 円 園田助三郎(長崎県士族) 40 株 2 , 000 円

高橋菩右 f~'ir門(長lli:'j 県平民) 40 株 2 , 000 円 久田紫右衛門(長!昨日士族) 40 株 2 , 000 円

7 )   この点は第十八国立銀行と対照的である。それは一面で十八銀行の経営の堅実

↑:1:を示すものであったといえるが,他国で長崎の相対的貨幣資本志引過多,平戸

・北松地区の相対的不足,資金日要の旺盛さを物語っている。

8)  明治 15 年 1 1 月の銀行役日営業調べ(前掲[f':' J l 務釘』所収〉によると,卸九十九

(27)

国立銀行役員については次のとおりである。

頭 取 小 関 享 養蚕ヲ営ミ又自1i鯨会社役員タリ

取締役 牟 田

UF

問 山 円

良業及ビ相H(~示会社役只タリ

同 困田勘三 製茶ヲ栄トス

同 浅山純一 養蚕及ビ主 i i 鯨会社役員タリ

同 成田辰雄 営業ナシ

9 )   平田直達屈が代行した十八銀行の業務の内容は,次のとおりであった,(1)長 崎元山間及ピ大阪元山間ニ於ケル荷為替取組 ( 2 )無利息詰J:l1金 ( 3 )送企手形 請払,割引手形,代金取立手形 ( 4 )物品買付為替 ( 5 )地金銀買入 ( 6 )有抵

当貸付金(前向十八銀行 W90年の歩み~ 227 ページ)。

1 0 )   第一銀行と第十八銀行との閃係についてはすでに似れたが, r 青淵先生 6 0 年 史」第 l迭によれば,後退国立銀行の指導という点に閃し,第一銀行 l こ範をとり

「最も直接の伝習と周旋とにより成立せるもの」として,全国で 1 5 行をあげ,そ のなかで長崎第十八の名を記している( W 第一銀行史』上之さ, 3 4 0 ページ)。

l l )   第百二銀行の業債が向上を示すのは,対朝鮮貿易の i 自加をみる明治1 8 , 9 年ころ からであり,明治25 年をピークに停滞を示す。明治 2 5 年 1 2 月末のコノレレス約定 先は,本支居合わせて 3 9 カ所で,九州各地を中心に中国・四国各地におよんだ

(  r 第2 8 回半季実際考課状 J , WUS3 課事務待J 会社組合之部,明治 24~26年所 収)。また同行株主は,明治 1 7 年末では,合計1 9 1 名のうち平民はわずか四名,

他は僧自若干を合む士族( r 第1 2 四半季実際考課状 J )であったのが明治1 9 年に 至ると若干変動を生じ,株主は 1 7 6 名に減じ,うち平民が 1 0 名に増加し商人の参 加をみるようになる( r 第1 5 回半季実際考課状 J )。そして,明治2 5 年末には,

最上位株主 2 名を長崎の永見六三郎・松田精ーの 2 名が占めるに至っている(同

「第2 8 回考課状 J ) 。

1 2 )   丸三銀行の創立の史料は不明である。しかし,前向自明治 10 年至 14年 W~]T-務 待~ 4 4 号に,同行の株金1 0 万円の1 6 万円への増資阪が記哉され,そこでの噌資者 は,長崎区 5 名(計 2 万 5 0 0 0 円) ,福岡県三泊郡 2 名(計 1 万円),大阪 2 名 ( 計 l 万円) ,その他長崎県佐賀(当時〉の 3 名(計 1 万5000 円〉と,長崎を中 心に九州・大阪と長崎・大阪を結ぶ商品流通経路沿いに分布しているととが特徴 的である。また明治 15---16年『事務待~ 3 4 号では,苔杭・丸三は貿易南京業者多

しとある。

(28)

1 3 )   r 北松浦郡平戸村宮副吉兵衛外 2 名会社営業願ノ件 J (明治 1 4 年 1 月 1 9R , 前 tt)明治1O~14年『事務待~ 3 3 号所収)では, r 同盟会社ヲ結ビ三友社ト称シ,諸 公債証書旧金銀売買貸預為換両者、等ヲ重トシ資本金 2 万 5 千円ヲ以テ営業」とあ る。次いで前掲明治 15~16 年『事務停~ 3 0 号に, r 私立三友銀行設置願ノ件」

(明治 1 5 年 1 0 月 1 8 日)とあり, r 三友社(資本金 5 万円,銀行類似営業ノ株金ヲ 増加シ会社ヲ袈百シテ都合 1 5 万円ノ資本トナシ三友銀行ト称シ私立銀行トシタ ク……」とあり,さらに同47号記哉の開業届けでは,発起人総代長崎区船大工町 黒川勘四郎の名がみえ,主要株主平戸 5 , 長 崎 し 佐 賀 2 名および 5 分支屈を見

出す乙とができる。

1 4 )   r 三友銀行廃業届ノ件」明治 2 6 年 2 月 1 0 日。長崎市引地町 4 1 荏戸,三友銀行取 締役兼支配人鮎川邦三郎・同中尼安三郎,同宮副吉兵衛,頭取江越吉太郎,政務 委員(残務所)森珪之亙,以下 3名(略), r 本月 6日本行株主臨時総会ヲ閃ラ キ皮処,休業ノ・…・・解散スル事ニ議決仕 f 民間…・・・ J (長崎県『第 3 諒~fÏ;)待』会 社組合之部,実際考諒状,自民治 2 4 年至 2 6 年〉。

(付記 本稿は『長崎県史』第 4 巻近代編〔昭和 5 1 年春刊行予定〉の分担執竺の過程

で生まれたものである乙とをおことわりしておく。)

表 2 長崎第十八国立銀行預貸金・ る銀行であったし,長崎港貿易 有価証券保有および荷為替取組推移 という地場産業に結びついた近 (単位:千円) I J:R~I 叶吋組 代的銀行業を生れながらにして 年 代 預金貸出金証‑咋'.71' 他 向 居 ケ I 本向居 ケ 営みつつ発展していった D 明治 1 1 年 1 3 5  I  1 7 7  2  しかし同行のこのような貿易 1 3  2 0 3  227  2 7 7  1  1 0 3  2 6  商人の銀行としての性格は同時 1 5  245  2
表 3 般原第百二国立銀行総勘定元枯差引残高一覧表(明治1 3 年1 0 月25 日 〉 (単位:円) 借 方 貸 方 f 商 要 向 ? 要 政府ヨリ借 12 , 4 2 1  政 府 へ 貸 52 , 9 8 2  御 用 当 座 預 金 2 , 4 2 1  金 禄 公 債 52 , 9 8 2  t 王 i 人 Lι  1 0 , 0 0 0  人 民 へ 貸 25 , 2 7 7  人民ヨリ借 4 3 , 6 9 8  貸 付 金 1 7 , 3 8 8  発行紙幣受取高 40 , 0 0 0 

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