長崎大学教養部紀要(人文科学篇) 第37巻 第2号 115‑132 (1996年10月)
行為と知
‑プラトン『プロタゴラス』篇を中心に‑
吉田雅章
Action and Knowledge in Plato's Protagoras Masaaki YOSHIDA
はじめに
『プロタゴラス』篇の349D以下の「勇気と知」との関係をめぐる議論、とりわけ
「勇気は智慧に他ならない」ことを示そうとする議論(1)の過程で登場する、快楽説の提 示といわゆるアクラシア否定の議論は、様々なかたちで論じられてきたが、その際こ れまでは、 『プロタゴラス』篇の全体の構成、あるいは対話篇の全体的な意義や狙い
とは切り離されて論じられ、そしてまたその限りで、それぞれが様々なものをそこに 勝手に持ち込み、手前勝手に解釈した上で、快楽説の提示がソクラテス自身の教説の 提示かそうでないかを論じ、またいわゆるアクラシア否定の証明の成否を論じるとい うことが多かったように思われる。しかし、こうした快楽説の提示やいわゆるアクラ シア否定の議論も、ひとっの対話篇のなかで、一連の対話のなかに埋め込まれている 以上は、それらがどのような議論のコンテキストのなかに置かれ、こうした問題がど のような問題の展開の果てに、どのような問題として論じられているかを、先ずはこ の対話篇の内部で考えてみなければならないのではあるまいか。
確かに、 349D以下の議論は、先ず「勇気と知」の関係をめぐる議論で始まるが、一 見すれば、そこから突然「善き生」をめぐる「快と善」の問題に移り、さらにそこか
ら「行為と知」の関係とその展開としての「多くの人々」の主張するいわゆるアクラ シアの検討へ移行するといったように錯綜し、しかもその議論の運びは巧妙にして、
かっ慎重であると思われる。こうした議論を一貫して読み解いてゆくには、対話篇を めぐる全体的な眺望を得ておかなければならない(2)。したがって小論では、先ず当初 に還って、改めて『プロタゴラス』篇が一体何を問題にしているのか、そしてその問 題がどのような展開を見せるのか、そしてその中で「アレテ‑」や「知」の問題は、
どのような問題連関のもとに、どのような取り扱いを受けているのかを検討して見な ければならない。そうした検討を基礎として、 「行為と知」をめぐる議論とその展開 としてのアクラシア否定の議論の序論的な考察を行うが、これによって目指されてい
るのは、アレテ‑を知との関わりのなかで問うソクラテス・プラトンの基本的な恩索 の筋道のひとつを辿ることにある。
1
1.1先ず、318Alからソクラテスとプロタゴラスのやりとりで始まり、プロタゴラス のミュートスとロゴスによる説明で終わる箇所(328D2)に目を向けよう。この箇所で は、この対話篇での重要な問いの一つが形成されることになる。 「アレテ‑ (徳)は 教えられうるか」 (dtda/tzov icrav主軸E碕)という問い(3)がそれである。ソクラテス は「アレテ‑が教えられうる」ものであることに疑義を差し挟み、彼はプロタゴラス に「アレテ‑が教えられうる」ということを示して欲しいと願い出る。これに応じて、
プロタゴラスがミュートス及びロゴスの両面からの大演説を行うことで、 「アレテー が教えられうる」ことを示して見せようとするのがこの箇所である。
1.2さて、この箇所での「アレテ〜は教えられうるか」という問いの形成をめぐって、
いくつかのことをより詳細に検討してみなければならない。一体この「アレテ‑は教 えられうるか」という問いによって問われているのは、正確には何なのであろうか。
言い換えれば「教えられうるか」と問われたその「アレテ‑」とは何を指してのこと なのか。この点を明らかにすることは、そもそもこの『プロタゴラス』篇においてソ
クラテス・プラトンの恩索が何に関わっていたか、そしてこの対話篇の持っ意義が何 であるのか、さらにこの対話篇の最後の議論で主張される「勇気というアレテ‑は智 慧である」という命題が、一体ソクラテス・プラトン自身のものとして唱道されてい るのか否かといった問題の解明の重要な鍵となるであろう。
ヒッポクラテスの意を受けたソクラテスが「あなたから学ぶものは何か」と問うの に応じて、プロタゴラスは「(私から)学ぶのは、身内の事柄については、自分の家 を如何にして最もよく斉え、また国家公共の事柄に関しては、これを行うにも論ずる にも、如何にして最も凄腕の者となるかを計る計らいの上手(ォ>.βouλla)(4)である」
(318E5‑319A2)と答える。ソクラテスはこれを、あなたは(1) 「国家公共の事柄に関わ る技術知(πoλin所rexvv)」のことを語っているのであって、あなたが約束している のは、 (2) 「人々を善き市民にする(noieiv 'dvdpαS dyaQodゞ 7rOλims)」ということな のだと言い換える(319A3‑5)。こう言い換えておいて、 「何とすばらしい技の工夫 (Kαλ∂v zexvrifiα)を身につけていることか、もし本当に身につけているのなら」
(319A8‑9)と述べ、 「もし本当に身につけているのなら」という条件を付した理由を、
(a) 「というのは、私はそれ(tooto)は教えることのできるものとは恩っていなかっ
行為と知‑プラトン『プロタゴラス』篇を中心に‑
117
たから」 (319AI0‑Bl)として明らかにする。以下、そう考える理由が二つの観点から 述べられるが、今注目しておきたいのは、ソクラテスのこの(α)の言葉である。ここ では未だアレテ‑という言葉は用いられず、 「それ(TOUTO)」という言葉が使用されて
いる(5)。勿論、この代名詞が指し示しているものは、プロタゴラスから学ぶもの、即 ちソクラテスの言い換えに従えば、 (1) 「国家公共の事柄に関わる技術知」のことを指 していると考えられる。ソクラテスによって「教えられうるのか」と直接に問われてと旦のは、プロタゴラスのソフィストとしての「かの営み」であることを、我々は先 ず確認しておく必要があろう。
1.21さらに、ソクラテスの「それは教えられうるのか」という疑念は、 (1)′「国家公 共の事柄に関する専門家の不在」と(2)′ 「有徳者の持っ徳(アレテ‑)の教授不可能」
という二つの理由を通して、 「これらに目を向けるとき、私にはアレテ‑が教えられ うるものとは考えられない」 (320B4‑5)という言葉に締め括られる。それまで「これ」
という代名詞でいわば唆味に言われていたことが、明確に「アレテ‑」に置き換えら れるのは、この(2)′の理由が述べられる箇所である。即ち、 「国家公共の事柄がそうで あるのみならず、個人的にも、我々の市民の中で最も智慧があり最もすぐれた人々が 自分の持っているそのアレテ〜を他の人々に授けることができない」 (319D7‑E3)とか、
「彼(ペリクレス)自身がその点で智慧ある者である、その点について彼自身が彼の 子どもたちを教育していないし、 ・ ・ ・ペリクレスの子どもたちは何処かでひとりで にアレテ一に行き当たりはしないかと自分たちだけで歩き回り、 ・ ・ ・」 (319E3‑320 A3)とか「そのような人々は彼ら自身がすぐれた人物でありながら、他の人をよりす ぐれた人にしなかった」 (320B2‑3)とかこういう言い方を経て、ペリクレスを代表と するアテナイの「智慧があり、すぐれている人々」が、まさにその点で「智慧ある者」
とか「すぐれた人物」と呼ばれるそれが、アレテ‑として取り出されてくる。
だが、その場合のアレテ‑とは、実質上何であるかと言えば、プロタゴラスが言う ような「国家公共の事柄を行い語る能力」であろう。ソクラテスの(1)′の理由で述べ られるように、国事の処理を審議するにあたっては、誰であろうと、同様に審議に参 加するにしても、しかしペリクレスのような人物がまさに「智慧ある者、すぐれた人 物」とされるのは、そうした国事の処理に当たって他の人を凌駕する、大いなる能力 を発揮するからに他ならない。それによって名声を博した「この国事の処理に関する 能力」、それが今ここでアレテ‑と看倣され、そのアレテーについて「教えられうる
か」ということが問われているのである。
1.22以上のように見てくると、次の点に関して十分な注意が払われるべきことが分
かる。先ず第1は、プロタゴラスが「教えるというもの」とペリクレスが「智慧ある 人物、すぐれた人物といわれる所以のもの(アレテ‑)」とが重なり合うということ である。そしてそれが重なり合うということは、プロタゴラスのアレチ‑の理解と、
ペリクレス自身を始め彼を「最もすぐれた智慧ある人物」と呼ぶ多くの人々のそれと が重なり合っていることを示している。ペリクレスという人物の名をソクラテスがわ ざわざここで持ち出しているのも、それを示すためのものである。第2に、以上のよ うな理解の下にあるアレテ‑とは、 「国家公共の事柄に関わる技術知」とソクラテス が言い換えたものであり、それがまた「計らいの上手」と呼ばれ、 「智慧」と呼ばれ るものでもあった。確かにここでは未だ、アレテーとしての「智慧(goφla)」という 言葉そのものは登場していないが、ペリクレスのような「すぐれて智慧ある人物」が、
まさにすぐれて智慧あると呼ばれる所以のものとしてのアレテ‑は、当然「智慧」と いうアレテ‑であろう。
とすれば、ここでソクラテスが「アレテ‑は教えられうるか」という問いを形成し ていく過程では、上記のようなアレテ‑理解の上で熱心かつ無批判にソフィストの活 動・営みを迎え入れる多くの人々のあり方とそうした多くの人々のアレテ‑理解を前 提にした上で、自らの活動・営みを称揚するソフィストのあり方が相呼応するその場 面にぴたりと照準が合わせられてゆくのが分かる。そうしたアレテ‑‑それは疑う
べくもなく既にそこにあり、むしろ問題となるのは、それをどのように手に入れるか
であると「多くの人々」に思われていた‑は、一体教えられうるのか、 「技術知」と言われ「智慧」と呼ばれてはいるものの、一体「知」と呼ぶに価するのか、それは 何なのか、そこにソクラテスは先ず対話による吟味の杭を打ち込み、そして対話の内
に繋ぎ留めようとする。そしてそれがこの『プロタゴラス』篇の最も底流を形作って いるテーマなのだと考えられる(6)。
そうであればまた、先に我々が差し当たり(1)と(2)に分けた、この二っのもの(ソク ラテスの疑義の申し立ての理由もこの(1)と(2)に応じていると見える)の関係は決して、
(1)では「国家公共の事柄に関わる市民としてのアレテ‑」が考えられおり、 (2)では
「人間の人間としてのアレテ‑」が考えられているということにはならないであろう(7)。
ソクラテスの言い換えは、 「あなたが教えると言っているのは、国家公共の事柄に関 わる技術のことであり、それを人々に教えることによって、人をすぐれた市民にする
と約束しているのか」ということであり、問題になっているのは、これまで見てきた 意味でのアレテ‑ (しかも、技術知と呼ばれ、智慧と看倣されているもの)とその教 授である。それ以上のことは、少なくともこの箇所にはない。我々はアレテ‑という 言葉に、それぞれの勝手な思い込みを持ち込まぬように注意しなければならない。
行為と知‑プラトン『プロタゴラス』篇を中心に、
119
1.3さてでは、ソクラテスのこの問いにプロタゴラスはどのように答えたのか。プロ タゴラスのミュートスとロゴスの双方による演説はかなり長いものであり、また様々 な事柄を含んでいるので、その演説の意味を全面的に問題とすることはここでは差し 控えねばならないが、しかし上記に述べたこととの関わりで、以下のような点に関し
て指摘をしておきたい。
プロタゴラスは先ず、 「教えられうるか」と問われた「国家公共の事柄に関わる技 術知」を、 「生きるために必要な専門的技術知」と対比させながら、それが「国家が 存続するために不可欠の技術知」として、すべての人々が持たなければならないもの と語る。これは勿論、ソクラテスの(1)の疑義に答えようとの意図からであるが、注意 すべきは、 「国家公共の事柄に関わる技術知(智慧)」と言われていたものは、正義や 節制というアレテーが登場するに至って、技術知或いは智慧という言葉は消され、
「国家公共の事柄に関わるアレテー」と言い換えられることになる点である(8)。そこに
は技術知・智慧という名の下に、正義や節制や敬度というアレテ‑が包括されること が晴々裡のうちに避けられているように見える。そしてそうしたアレチ‑は、すべて の人が持たなければならないと言われる際に、それは国家が成り立っために是非必要 なものと考えられている点である。即ち、プロタゴラスにあっては、アレテーはそれ を有する人をどのような人にするかという観点からではなく、国家存立のためのもの であると見られているのである。
第2に注目すべきことは、プロタゴラスの「アレテーは教えられうる」という説明 が、結局のところ、人々が現にどのように振舞っているかという事実の提示に終始し ている点である。即ち、欠点を持っ人に対して人々が「怒り、懲らしめ、答めだてを 行う」ということ、また子どもたちに対して乳母や両親が語る「正しい」とか「正し くない」とか「敬度なこと」とか「不敬度なこと」という言葉、これに従わない場合 の脅かしや矯正など。また読み書きやムーシケ‑やギュムナスティケ‑の先生のとこ ろでのいわゆる道徳的な配慮、そしてさらに成長してからの国家の法の要求とこれに 従わぬ者への懲らしめなど、これらを現に教育していることの証拠として掲げる。プ
ロタゴラスにとっては、これだけのことが人々によって行われていることが、アレテ‑
を教育しているということなのであり、それだけの配慮は「アレテ‑が教えられうる はずだ」との考えに基づいていると理解している。確かに、ソクラテスが「アレテ‑
は教えられうるとは考えない」その理由として掲げたのは、二つの事実である。しか し、ソクラテスにとっては、この二つの事実が大切なのではない。ソクラテスが掲げ たその事実を打ち消し、反駁するような事実を彼は求めているのではあるまい。
1.4さて、しかしそうした事実の列挙の中で、こうした話が人々に大いにもてはやさ
れるのは、人々のアレテ一に対する理解とプロタゴラスのそれとが照応しているから である。そのことをソクラテスは「人がこういう事柄について、大衆指導者の誰かと 交わりを結べば、恐らくはこういう(プロタゴラスが語ったのと同様の)話をペリク レスからなり、誰か他の雄弁家なりから聴くことができるでしょう」 (328E6‑329A2) という仕方で言い表している。
プロタゴラスも人々も、先に述べたように「アレテ〜はまさにそこにある」と確信 し、そこにまざまざとアレテ‑を見る思いを抱いている。ではソクラテスはこの演説 をどう受け止めたのか。ソクラテスは「私は以前にはすぐれた人物がまさにそれによっ てすぐれた人物となる、それ(徳)は人間の心がけ(配慮)ではないと考えていたが、
今そうだと納得した」 (328El‑3)と語る。但し、それは無条件ではなく、或るひとっ のことを答えてくれれば、という条件っきである。
ソクラテスの当初の「アレテ‑は教えられうるか」という問いは、プロタゴラスの 演説による事実の荘洋たる広がりの中で、プロタゴラスと多くの人々の持っアレテ‑
の把握へと分け入ることができない。そのため、ソクラテスはこの問いを別の形に移 し変え、もっと絞り込む。それが次に問題になる、アレテーの‑性の問題である。即 ち、ソクラテスはプロタゴラスの演説の中に出てきた「正義と節制と敬度」、そして さらに後にアレテ‑として数え上げられる「智慧と勇気」について、 「アレテーは或 るひとつのものでありながら、他方これらのそれぞれはアレテ‑の部分なのか、それ ともその各々はひとつの同じものの名に過ぎないのか」 (329C6‑Dl)と問う。以後、
「正義と敬度」の関係、 「節制と智慧」の関係、さらに「正義と節制」の関係をめぐっ て、そのそれぞれのアレテ‑の同一性を示唆する議論が続くが、これは最終的に「勇 気」を他の四つのアレテ‑から切り離し、この「勇気」を「智慧」との関係で問題に するという仕方で、事実の荘洋たる広がりの中で結節点を失いかねなくなっている
「アレテーは教えられうるか」という問いを絞り込む作業であった。
2
2.1勇気が智慧(ooφ由)との関係で取り上げられる箇所は、大きく3つの議論に分か たれるが、そのうち第2の議論は、直接「勇気と智慧」の関係をめぐって対話してい るものではなく、第1の議論と第3の議論の、いわば橋渡しを行う役割を担ってい る(9)。ここでは、この第2の橋渡しの議論(351B3‑357E8)、特にその最初の部分を少 し丹念に検討することによって、ソクラテスが知の問題を行為との関係でどのように 主題化しようとしているのかを見ておきたい。
「善き生」をめぐる善と快の関係をめぐって「善と快が同じものであるか否か」が
行為と知‑プラトン『プロタゴラス』篇を中心に‑
121
問題となった直前の箇所(351B3‑Ell)を受けて、この問題を明らかにするために、或 るひとっの方法が取られる。その方法とは「誰かが、人を外見から、健康やその他の 身体の働きについて診断する場合、顔や手の先を見た後で、 (さあそれでは、胸や背
中もあらわにして見せて下さい。もっとはっきりと診断できるように) 」 (352AL6) という、医者の外診に愉えられるものである。この方法が現在の問題の考察にも必要 であるとして、ソクラテスは「善と快に対するあなたの主張がどのようであるかは見 せていただいたわけですが、次のことについてもあなたの考えを包み隠さず見せて下 さい。知識(きmov,触り)に対するあなたの態度はどうなのでしょうか」 (352A6‑B2)と 語る。
言うまでもなく、直前に見た、 (1)プロタゴラスの「善と快に対する態度」は、 「健 康(‑善き生)」に関する顔や手の先の診断に対応し、それは日頃からあらわになっ
ている部分ということにある。これに対して、 (2)日頃は着ている衣服で覆われている が、着ているものを脱いであらわに示す「胸や背中」に対応する部分として、プロタ ゴラスの「知識に対する態度」が問われているのである。
(1)顔や手の先の診断‑快と善に対する態度‑常日頃あらわになっている部分 (2)胸や背中の診断知識に対する態度常日頃覆われている部分
2.2さて、この医者の外診に職えられた方法の核心は一体どこにあるのだろうか。そ してこうしたソクラテスの方法は何をめざしているのか。少なくとも「快と善に対す る態度」は、顔や手の先と同様に、常日頃あらわになっている部分、つまり何か公式 的に外へ向けて公表されていることなのであろう。 「快いものの中には、悪しきもの もある」 (351C3‑4)とか「立派な快を楽しむべきである」 (351C1‑2)といったことは、
常日頃血こされていることなのであろう。しかし他方、 「胸や背中」に比された「知 識に対する態度」は、ソクラテスによってむしろ常日頃は公式にあらわにされていな い事柄と看倣されている。プロタゴラスの「知識に対する態度」が、日頃あらわにさ れていない「胸や背中」に比されたということは、重要な意味を持っているのではあ るまいか。
というのは、既に見てきたように、そもそもこの対話篇で当初問題になったのは、
「プロタゴラスが教えるものが一体何であるか(彼から学ぶのは何なのか)」というこ とだったのであり、現在のこの議論の発端となっているのも、 「勇気と智慧」の関係 である。プロタゴラスはこれまで「国家公共の事柄に関わる技術知を授ける」とか
「勇気と智慧ははなはだしく異なる」 (349D5‑8)と主張しながら、しかし彼の言うその
「知識(智慧、技術知)」の内実は未だ覆われているとソクラテスは見ているのであり、
少なくとも外診によって、現在は覆われている「知識」を診断してみようというのが、
ソクラテスのこの方法の核心ではないだろうか。そしてその診断は何のために行われ るのかと言えば、外診という限定付きではあるものの、 「知識に対する態度」をあら わにして見せてもらうことで、胸や背中の診断からその健康状態を診断するように、
「善き生」に関して如何にあるかを診断するものだと恩われる。
2.3ソクラテスは、覆われた「胸と背中」に比すべき「知識に対する態度」を診断す るに当たって、彼自身の方からその候補を二つ取り上げる。 「快と善に対する態度」
と同様に、 「知識に対する態度」も多くの人々に思われているようなものであるのか、
それともそれとは別であるかを問う。ソクラテスは先ず、 「知識に対する多くの人々 の態度」を紹介する。
「多くの人々は知識(」mov,触り)について、何か次のようなものと考えている。そ れは強くもなく、 (人を)導く力も支配する力もないのであり、 ・ ・ ・人間の中に知 識がありながら、しばしばその知識はその人を支配せず、何か別のもの(激情、快楽、
苦痛、恋情、恐れ)が人を支配する。何のことはない、知識について、丁度奴隷のよ うに、他のすべてのものによって引き回されると考えている」 (352B2‑C2)というのが、
ソクラテスの紹介する「多くの人々」の知識に対する態度である。そしてソクラテス はこうした見方に対する「知識」の見解をもう一つ、プロタゴラスの選ぶべき選択肢 として提示する。
「知識は立派なものであり、人を支配することのできるものであり、そしていやし くも人が善きことどもと悪しきことどもを見分け知れば(γlγンdaKグ地yaQak.αl za kαKd)、何かによってうち負かされて、知識(tmov,如77)が命じること以外のこ
とを行うことはなく、思慮(如oLj万αゞ)は人を救うに十分である」 (352C2‑7)という のが、ソクラテスの提示するもう一つの選択肢である。
この二つの選択肢を前にして、プロタゴラスは迷わず、後者の選択肢を選び、ソク ラテスに向かって「智慧と知識(ooφtav ftαI kltlOT,如T]V)が人間の関わる事柄すべて の中で、最も優れたものであると主張しないとしたら、余人はいざ知らず、この私に
は恥ずべきことである」 (352C8‑D3)と語る。
2.31以上のやりとりをめぐって、ここで先ず「知(知識)」を指し示すギリシア語の
l
問題に触れておきたい。ここで一般的に「知(知識)」が主題化されてゆくと言う場 合、しかし邦語で、差し当たり「知識」 「見分け知る」 「恩慮」 「智慧」と訳し分けた 四つの「知」を指し示すギリシア語( kmoT,触り, yiyvoxjKziリ, <ppovかis ooφ(a)が用いら れている。これらはすべて「知」ないし「知る働き」を示すものとしてなんら差異な く用いられていると考えるべきか。それともそれらの言葉の間には何らかの差異があ
行為と知‑プラトン『プロタゴラス』篇を中心に‑
123
ると見るべきなのか。従来これらの言葉の差異については無頓着の場合が多く、殆ど 差異があるものとしては取り扱われていない(10)。確かに、このコンテキストの中のみ で、これらの言葉について何か断定的なことが言えるわけではなく、我々もまた他の 対話篇との関係の中で、改めて別の機会に顧みる必要があるが、今はこの時点で言え
ることのみを確認しておきたい。
先ず三つの名詞に関してであるが、ソクラテスは「知識」と「恩慮」を用い、プロ タゴラスはソクラテスのそれを受けて「知識」と「智慧」を用いている。二人が共有 している「知識」は、 「知」を意味する最も普通の言葉であり、この言葉を媒介にし て、両者の対話は成り立っているかに見えるが、しかしソクラテスは何故ここで「思 慮」という言葉をつけ加えたのであろうか。どう見ても、この言葉は少なくともこの コンテキストの中では孤立しており、その役割はプロタゴラスの「智慧」という言葉 を引き出すことしかないように恩われる(ll)。では何故、プロタゴラスにこの言葉を語 らせる必要があったのか。少なくともひとっ言えることは、この第2の議論に先立っ
「勇気と智慧をめぐる第1の議論」で、プロタゴラスは勇気のアレテ‑から智慧を完 全に切り離したが、 「勇気と智慧をめぐる議論」からは一見したところ、まったく異 なる議論が始められたかに見えるところでも、プロタゴラスの言う「智慧」が問題の 焦点であることを密かに示すためのものではなかったか。少なくとも、いわゆるアク ラシア否定の議論の中では、この「智慧」という言葉は、ソクラテスの口からは語ら ず、再度それを復習する箇所で「自分に克っことは智慧に他ならない」 (358C1‑3)と 言われる。 「多くの人々」の言う「快楽に負ける」という事態の考察が何を目指して いるかを語るときも、 「勇気について、それが徳の他の部分とどのような関係にある かを発見することにとって、なにか価値あることと思われる」 (353BL3)と、敢えて
「智慧」という言葉を用いずに、むしろそれを伏せる言い方をしているのである。
さらにもう一つの問題は、 「知識」と「見分け知る」という二つの言葉の関係であ る。引用された文章の「人が善きことどもと悪しきことどもを見分け知れば」という のは、その文意からすると、この「見分け知る」という言葉の前後に2度用いられて いる「知識」という言葉と等価であると考えざるをえないように思われる。つまり、
言い換えれば「人が善きことどもと悪しきことどもを見分け知れば」とは、人が「善 きことどもと悪しきことどもの知識(tπlgT触T]V Tぬv dijaQibv kαl T由L'KαKdLJ )を持て ば」という言い方と等価であると考えざるを得ないのではないか。しかし他方、この 後者の言い方そのものが、知識が複数形を対象とする点で、異様な感じを与えること は事実であるし、また「見分け知る」という言葉が専ら、 「多くの人々」のいわゆる アクラシアによる行為を語る箇所でのみ用いられている点を考えると、この「見分け 知る」と「知識」との間になんらかの差異があるようにも恩われる。 ycTUcoc椛ecuとい
う言葉は、見たり聴いたり経験したりして、個々のものをそれと分かるということが その基本的な意味であると思われるので、それは或る普遍性を対象とする「知識」と はやはり区別せざるをえないとも恩われる。しかしもし、後に触れられるように、快 楽主義の立場の上で、我々の生を救済するものとしては、快苦の計量術しかないのな ら、ここでの「知識」のソクラテス・プラトン的意味は換骨奪胎して、この文章全体 は快楽主義のコンテキストの下で解読可能なものとなるとも恩われるのである。
2.32この箇所をめぐって、次に検討しておくべきことは、ここで語られた「人、行 為、知識、それから激情・快苦・恋情・恐れ」の四つのものの関係である。この関係 を語る動詞、及び動詞的な働きを持っ形容詞の用法は様々であるが、分類すれば大き く次の①〜(9に分類できよう(12)。
①知識が人(或いは人の行為)を支配する。
②快苦(激情、恋情、恐れその他のもの)が人(或いは人の行為)を支配する。
③知識が人のなかに存在する。
④知識が、快苦その他によって引き回される。
⑤人が快苦などによってうち負かされる。
このように見るとき、先ず大筋は(彰「知識が人(或いは人の行為)を支配する」か、
それとも② 「快苦が人(或いは人の行為)を支配する」かというかたちで、人(の行 為)と知識、ならびに快苦の関係が考えられているが、 ④では知識が人の中にありな がら、その知識が人を支配しない場合、それは知識が快苦その他のものによって引き 回されるからであるというかたちで、ここでは知識は快苦その他のものとの隷属関係 として語られている。この場合は勿論、快苦その他によって隷属状態に置かれるのは、
知識であるが、 ⑤では快苦によって隷属状態に置かれるのは人であり、快苦によって 隷属状態に置かれることによって、その人の中にある知識に反する行為を選択するこ
とになる。また「多くの人々」のいわゆるアクラシアの言葉をも考慮に入れれば、
「快楽にうち負かされて」と言われる場合、 「うち負かされて(i]TTCOfl牀VOVS)」という分 詞の受動態の主語は明らかに「人々」である。
以上の点は今後の考察の中で、重要なポイントとなろう。今見た④の一回を除いて は、 「快楽に負ける」という事態は、人が決楽によってうち負かされるという事態と して考えられている。したがってここでは、 「快楽が人を支配するのか、それとも知 識が人を支配するのか」という問いの立て方であり、快楽と知識の直接的な(ちから) 関係とは異なるであろう。このことは、後のソクラテスによる、いわゆるアクラシア 否定の議論が何を意味しているかを考える際に重要となる。
行為と知‑プラトン『プロタゴラス』篇を中心に‑
125
3
3.1さて以上のようなかたちで、 「行為と知」の関わりの問題を設定した上で、ソク ラテスはプロタゴラスとともに、いわゆるアクラシアを主張し、行為に対する知識の
(ちから)を否定する多くの人々の誤りを質し、説得しようとする。その中で周知の ように、多くの人々がいわゆるアクラシアと呼んでいるその情態が、 「快にうち負か される」のではなく、 「無知による」ものであることが示されて行く。
さてソクラテスは、先ず「呑んだり食べたり、愛欲に浸るのが快くて、それらにう ち負かされて、悪いとは分かっているものの、そうしたことを行う」 (353C5‑8)とい
う、 ‑事例を取り出して、分析を行うが、その分析は、先ず或る行為(Ⅹ)を「快いが、
悪い」と表現する、その表現の持っ意味に向けられている。そして或る行為(Ⅹ)は快 いが、 「悪い」と言う場合、その「悪い」とはどういう意味で語られているのかを問 題とする。
勿論、この分析の最終的な狙いは、 「快と善」をめぐる多くの人々とプロタゴラス の、 「快いものにも善いものと悪いものがあり、苦痛にも善いものと悪いものがある」
という見解が何を意味しているかを明示しようとするところにあると見なければなら ないだろう。この見解にあっては、或る行為(Ⅹ)を「快い/苦痛である」と言うこと 以外に、それを「善い/悪い」と評価するその規準が別にあるかに見えるのである。
したがって、ソクラテスの吟味は、 「快いが、悪い」とされる行為について、それが
「悪い(πovripa, k,αKd)」と言われるその理由(6n, 5iou)を、 (1) 「それらの各々がそ の瞬間において快を提供するから」 (353Dl‑2)か、それとも(2) 「後になって病気や貧 乏やその他そうした多くのことを提供するから」 (353D2‑4)かという二つの選択肢を 示し、 「多くの人々」の答えとしては、 (2)しかないことを確認する。さらに、 「その貧 乏や病気を作り出すというのは、苦痛を作り出すことである」 (353E3‑4)ことを確認 して、この分析を「それらが悪い(za∂Ta Kαkol tfvza)のは、それらが苦痛へと結果し、
また他の快楽が奪われるから以外ではない」 (353E6‑354Al)と締め括る。逆の「善い が、苦痛である」という場合も同様の分析が行われる。
3.2以上の点を確認した上で、ソクラテスはこの分析から、
LA] : 「すると(otiitouv)、あなた方は(快楽)香(善)として追い求め (dccbfcere)、 (普)を(忠)として忌避する(φEbγeze)のか」(354C3‑5) という問いを発し、プロタゴラスの同意を得た上で、さらに、
[B] : 「してみれば(dpα)、あなた方は(普)を(悪)と考え看倣し(カyeiQe)、
(快)を(善)と看倣しているわけだ」 (354C5‑6)と畳み掛ける。
さてこの場合、この[A]と[B]とは、それぞれ何を語り、またどのような関係 にあるのだろうか。
一体この[A]の「追い求める、忌避する」というのは、 [B]の「考える、看倣 す」というのが「把握や判断」に関わる言葉であるのに対して、一般的には「望み」
に関わる言葉であると言えよう。或いは、行為一般に関して、行為を選択する場合の 一般的な傾きを意味する言葉と考えられよう。そして勿論、この「追い求める、忌避 する」は、個々の行為について語られているわけではなく、 「多くの人々」の行為に 際する、或る一般的な原則を語るものであると理解されよう。しかし、それは正確な ところ一体どのような原則を語っているものなのであろうか。この[A]が、先行す る分析の中から導き出せるものであり、かっ今述べたようにそれが「望み」や行為の 一般的な傾きを意味すると考えようとすると、この[A]が何を語るものかというこ とは何か理解し難いものとなる。というのは、先に見たように、この箇所での分析の 中心に置かれているのは、何か或る行為を「快いが、悪い」 「善いが、苦痛である」
と言う場合の、その「悪い」 「善い」がどのような意味で言われているかその規準を 明らかにすることである。そしてその分析の結果が、そこへ目を向けて、それらの行 為を「善い/悪い」と呼ぶ、そのテロス(窮極)は、結局「快/苦」でしかあり得な
いことが承認されたのである。ここでは未だ、 「快楽に打ち負かされて」ということ も、現在の快/苦と将来の快/苦との比較考量も分析の対象になっていないことに注 意しておかなければならない(13)。すると、ここから直接導出できるのは、むしろ[B]
の「してみれば、あなた方は(普)を(忠)と考え看倣し、 (快)を(善)と看倣し ている」の命題ではあっても、 [A]ではないと思われる。
とすれば、もう一つ考えられる可能性として残るのは、次のような理解であろう。
即ち、この[A]は、先行するそれまでの分析に依拠するものではなく、それとは別 に、先の「そこへ目を向けて、それらの行為を(善い/悪い)と呼ぶ、そのテロスは、
結局(快/普)でしかあり得ないこと」という承認を受けて、 「その快というのを善 として追い求め、その苦というのを悪として忌避するのか」ということが新たに問わ れ、そしてプロタゴラスによってそれが承認されているのだと理解することは可能で あろう。こう理解するならば、この言葉は、 351B3に始まった「善き生」をめぐる
「快と善」との関係をめぐる議論のなかで語られる「快くその生を生き、一生を終え る場合、そうして過ごし終えた一生は善き生であった」、或いは「快く生きることは 善いこと、不快に生きることは悪いこと」ということがプロタゴラスの、そして「多
くの人々」の立場であることを裏付け、支えるものとなるし、また現在の分析を締め 括る最後の「あなた方が苦痛なしに楽しく生を過ごし終えることに満足し、そして他 に何一つ(快/普)に結果しないものを(善/悪)として主張することができないの
行為と知‑プラトン『プロタゴラスj篇を中心に‑
127
なら、 ・・・」という言葉に、 [A]と[B]は正確に対応していることになる。そ して無論、この[A]と[B]は合して、快楽主義の立場を示すことになるであろ
う(14)。
だがこの[A]の理解について、今何か断定的なことを述べるのは差し控えた方が よいようにも思われる。というのはこの[A]は、一旦「多くの人々」との仮想の対 話を終え、同席するヒッピアスとプロディコスの二人のソフィストも交えた上で、こ れまでの議論を復習する際に語られる、 「もし快が善なら、誰も今行うこと以外によ
り善いことがあると知っているのに、或いはそう思っているのに、もとの行為を行う 者はいない」 (358B6‑C1)、或いは「誰も悪を悪と知りながら、或いは悪と思いながら、
その悪‑向かってゆく者はいない」 (358C6‑D4)という言葉と呼応しているように患わ れるからである。これらの言葉は、それが何を意味するものであるのかについて、様々 な論争を呼んでいるものであるので、我々もまた慎重かつ細心の検討を必要とするで あろう。我々と一応、 [A]に関しては、先の理解を採用しておくこととして、この
『プロタゴラス』篇を読み解いて行く全体的視野のなかで、さらなる検討が必要であ ることを念豆削こおいておきたい。
3.3以上がアクラシアと呼ばれる事態が何であるかを説明してゆくための、前段(予 備的段階)ということになる。これに続く354E3‑355B3の箇所は、 「快楽に打ち負かさ れて」という事態が無知に他ならず、 「生の救済」のために快苦の計量術の必要が説 かれる後段と前段の間奏曲である。 「もし満足して、 ・ ・ ・言うことができないのな ら、この後のことを聴きたまえ」という言葉は、いわゆるアクラシアと呼ばれる事態 の何であるかを説明してゆく中で、前段と後段がはっきり分かれていることを示して いる。
以下、この後段に関する事柄を若干検討し、ソクラテスが何故このような仕方で
「知」を主題化したのかということを考えておきたい。この後段の箇所では、ソクラ テスは先ず、いわゆるアクラシアという事態において、人々が行為を過つ場合、何故 過ったのかを説明するその説明自身を問題にする。即ち、その行為を「快楽にうち負 かされて」と説明する、行為の説明方法は、その説明そのものが実は快楽主義の立場 からすれば、奇妙で滑稽なもの(γE'λoiov)となると主張する。というのは、それは行 為の説明としての体を成さないからである。何故か。それは次のような手順で語られ ていく3.2で示されたように、 「多くの人々」は、 「快を善と看倣し、苦を悪と看倣し ている」から、 「人はしばしば悪しきことをそれと分かりながらも、それを行う。快 楽にうち負かされて」という主張の内、 「快/苦」ないし「善/悪」のどちらかの言 葉のみを用いるなら、
C1 : 「人はしばしば悪しきことをそれと分かりながらも、それを行う。善にう ち負かされて」 (355Dl‑3)
C2 : 「人はしばしば苦しいことをそれと分かりながらも、それを行う。快楽に うち負かされて」 (355E6‑356Al)
となるが、 C1、 C2いずれの場合にも、これは行為の説明としては受け入れてもら えないであろう。或いはこれでは過った行為の説明にはならないし、説明としてばか げている。例えばC1で、悪しきことと分かっていながら、その悪しきことを行った 人は、その行為を行うべきではなかったと思っている(15)が、行うべきでなかった行為 を一体何故行ったかの説明として、 「善にうち負かされて」と言う場合、この説明の 中に含まれる「うち負かされて」とは、自分の非を認め、自分を責める言い方であろ
うから、それが「善」に結びつけられるとき、それはまさしく説明としては何か奇妙 であり、滑稽なのである(16)。
そこでソクラテスは、行為の説明としては体を成さない「うち負かされて」という 言い方を捨てて、説明として納得可能な途をっけようとする。即ち、これを「より少 ない快楽(善)を取るその代償として、より大きな苦(忠)を取ること」として説明
しようとするのである(17)。勿論、快楽主義の原則からすれば、こうした行為はその原 則を逸脱、或いは放棄していることになる。ソクラテスは、こうしたことが生じるの は、彼らが「快/苦」の計量術を持たないが故に、現象のもっ(ちから)に惑わされ て、快苦の量に関して判断を誤るからだと説明する。即ち、快楽主義を取りながら、
しかしその快苦の量を計ることにかけて無知であるからこそ、過った行為を行うので あり、そしてこのプロタゴラスは、まさにその無知を治療する者(dpαOlaカIieyto叩,
如UpojTaγ6pα9 tide如OLV LOLTpds eluαi, 357E2‑3)だとされる。
4
4.1これまでの検討の中でも、我々はまだ多くの問題を残してきているが、しかし少 なくとも、これまでの検討から一体どれほどのことが言えるであろうか。それを本節 では考えておきたい。ここで何よりも先ず確認しておきたいのは次のことである。プ ロタゴラスが人間に関わる事柄の中で最もすぐれたものと語る「智慧(ooφ(a)」は桔 局、快楽主義の立場での「快/苦」の計量術(〟ezprjn所rexvrj)として明らかにされ
たということである。通常、アクラシア否定の議論と呼ばれているこの箇所の意味は、
実のところ、我々が見てきたように、対話篇の当初に、人々が熱心にそれを求め、プ ロタゴラスもそれに応じて、自らが教えると言って称揚する、あの「智慧」というア レテ‑が一体何であるのかを暴くためのものではなかったかと患われる(18)。
行為と知‑プラトン『プロタゴラス』篇を中心に‑
129
4.2しかしでは、その問題が何故「行為と知」の問題として問われたのか。即ち、行 為を導く知の問題として展開されたのだろうか。それを明らかにするためには、知が 主題化される最初の議論をもう一度見てみる必要があると思われる。 「善き生」をど う考えるのかということが問題であった。即ち「快い生」が「善き生」であるのかど うかが問題であった。そしてこの善き生をめぐって「善」と「快」の関係が問題にな るとき、ソクラテスはさらにプロタゴラスの「知」に対する態度を問題にする。そし てこの「知」を主題化してゆく中で、ソクラテスは再び「快と善」の関係をめぐって、
「多くの人々」 (そしてプロタゴラス)の立場が、日頃あらわにされ公式に表明される 立場としては、 「善」と「快」をあたかも区別しているかのように見えるが、しかし 日頃は覆われている「知」に対する態度の外診からすれば、彼らが実は「快」を「善」
とする快楽主義の立場を取っていることが判明する。
するとその場合、この快楽主義の立場では、プロタゴラスが人間の関わる事柄の中 で最も大切なものとして称揚する「智慧」が認められる場所は一体どこにあるのか。
「快を善と考えて、それを追い求め、苦を悪と考えて、それを忌避する」という快楽 主義の立場(この立場は、即ち「快い生」が「善き生」であるとする立場である)に おいて、知が認められうる場面は唯一、 「快としての善」を如何にして手に入れ、 「苦 としての悪」を如何にして回避するかということに関わる「知」以外にはないであろ う。ソクラテスは、そのことを「うまくやってゆく、幸福である(edizpavceiv)」こ とが長いものを選んで行い、短いものを避けて行わないことにあるとすれば、我々の
「生の救済」は計量の術にあるという仕方で語る(356C8‑E4)。この比職的な言い方の ポイントは、この比職によって、そこでの「快/苦」の計量術もまた存在することが 承認されねばならないというのではなく、却って逆に、我々の「善き生」に関わる知 が、あたかもこの「長さ」に関する計量術のように理解されているという点にあると 患われる。
というのは、次のような事情に目を向けるからである。プロタゴラスはしばしば、
自らの教える「智慧」を、しばしば専門的技術知と対比させながら、それとは異なる ものとして位置づけていた。しかし専門的技術知と対比的には語られているものの、
その「智慧」はどのように考えられているのか。それは、プロタゴラスにとって、丁 度諸々の技術知がそのめざすところが定まった上で、それを如何に達成するかの知で あるのと類比的に、或いはそれをいわばモデルとして考えられている。そして「快/
苦」の計量術も、 「善き生が何であるか」を我々が既に了解済みのものとして前提し た上で、その善き生を如何にして達成するかの「知」なのである。
ソクラテスが「行為と知」を問題にした場面はこのような場面であった。行為を導
く知、行為を支配する知として、ソクラテスがこの箇所で主題化したのは、諸々の専 門的技術を基に、丁度それと同じ仕方で考えられている「善き生」に関わる「知」で あったと言わなければならない。しかし、ではそれがソクラテスの唱道する「アレテー は知である」という場合の「知」であるのか。我々は断然、否と答えるであろう。こ こで語られている知は、繰り返せば、 「善き生」とは何かを固定化した上で、それに 到達するには如何にすればよいかに関わる知‑そういう知が成立しうるとして‑
なのであり、それはソクラテスがアレチ‑を知との関わりにおいて、つねに問題にし ていたとき、求めていた知ではないことは明確である。
4.3ソクラテスは最後に議論を締め括るに当たって、 「アレテ‑は教えられうるか」
をめぐるソクラテスとプロタゴラスの立場が、当初とはまったく逆になっている事実 を指摘した上で、 「こういう議論を経た後に、我々は(アレテ‑の何であるか)にも 向かってゆくことができればとわたしは願うのですが」 (361C4‑5)と語る。この言葉 の語るところは正確に理解されねばならないだろう。即ち、 『プロタゴラス』篇の議 論は、 「アレテ‑とは何か」ということを問う、その途を切り拓いてゆくその過程に 他ならない。 「アレテ‑が何であるか」が既に了解されている場面では、 「アレテーと は何か」との問いは生じようもない。アレテ‑が我々の「善き生」に関わって、まさ に前提できるものではなく、問われるべきものであることは、こうした対話(自らの 生と行為の吟味検討)を経て始めてあらわにされる。ソクラテスの、こうした対話を 経た後に「アレテ‑が何であるか」に向かっていかなければならないという言葉は、
まさにそのことを指し示していると恩われるのである。
[註]
(1) 「勇気は智慧に他ならない」ことを示そうとするこの議論は、通常ソクラテスの「アレテー は智慧である」という主張であると看倣されることが多い。しかしここでの「勇気は智慧 に他ならない」という証明がソクラテス自身のものであるか否かについては、なお検討を 要する問題が数多いと思う。小論の目的の一つは、ソクラテスが「アレテー」と「知」を 主題化する過程を検討することで、この証明がソクラテスその人の主張であるか否かを考
えてみるところにある。
(2)私はすでに、快楽説の提示および多くの人々の主張するアクラシアの否定を取り囲んでい る「勇気と知」の関係をめぐる議論については、 「勇気への問い‑プラトン『プロタゴラス』
篇の問題」 (『長崎大学教養部創立30周年記念論集』、 1995、 pp. 341‑366)で論じ、これら を取り囲んでいるコンテキストを明らかにすることに努めた。
(3)この問いが或るかたちで、 『プロタゴラス』篇の全体を貫いている問いであることは、対話
行為と知‑プラトン『プロタゴラス』篇を中心に‑
131
篇を締め括るソクラテスの言葉(361A‑C)のうちにはっきりと示されている。
(4)この「計らいの上手(牀l)Oouλla)」という言葉は、この箇所の他、 『アルキビアデス』篇 (125E6, 9, 126A2)、 『国家』篇(348D2, 428B2)に見られる。いずれの場合にも、 「国家 (人々)を支配する知」という意味で用いられている。
(5)初出の箇所は、 319AIOであるが、 319B2でも「それ(αdrd)」と言われ、 319D6‑7では「人々 は教えられうるものとは考えていないことは明らかだ」とソクラテスが言うとき、その主 語は省略され明示されていない。
(6)この点に関しては、註の(3)を参照のこと。
(7) Taylor {Plato Protagoras, revised edition, Oxford Clarendon Press, 1991, pp.71‑2, 75, 82‑3)は、この二つのアレテ‑I‑ll)の「国家公共の事柄に関わる市民としてのアレテー」
と(2)の「人間の人間としてのアレテー」‑が、プロタゴラスとソクラテスの両者によっ て同じものと考えられていたと見ているが、これはこの箇所のソクラテスの「アレテーは 教えられうるか」という問いの形成に関して、重大な過誤を生じる。 Taylorのこうした見 解に対する適切な批判は、神崎繁氏のこの書に対する書評(『西洋古典学研究』 XXXI, 1983, pp. 132‑135)に見られる。
(8)ミュートスでの「戒め」と「慎み」が、323Alにおいて「正義」と「節制」と言い換えら れるに応じて、 「国家公共の事柄に関わるアレテ‑」という言い方が登場する。
(9) 「勇気と智慧」の関係をめぐる議論の持っ意味に関しては、前掲の拙稿を参照されたい。
(10)この点は重要な点であるように患われる。これまでの議論の多くがこの点を無視してきた。
そのことが、ソクラテスがここで何をしようとしているのかを見失わせる原因の一つになっ ているのではあるまいか。ひとしなみに「知」が問題化されていると捉えることによって、
ソクラテスが自らの主張として、 「勇気というアレテ‑は智慧である」という命題を証明し ようとしているという見方も生み出されてくるように思われる。
(ll)この「思慮」 (海30V寿αS・)という言葉が「人間を手助けするに十分なもの」という、何かニュー トラルな言葉とともに用いられている点にも、胡散臭さを感じさせる一因がある。この
「人間を手助けするに十分なもの」という言葉が、後の「生の救済」という言葉と同義的な らば、後に述べるように、この「思慮」 (<ppoレわlg)という言葉は、ソクラテス・プラトン 的意味を換骨奪胎して、 「快/苦」の計量術の文脈に置かれうることになる。
(12)ギリシア語の原語としては、次のようなものである。 Ioxupov,わγ牀/J.OVLKOV, &pxI/COV, 」レOUO7)S
dレOpdπ? tπoTTJUT]冒, Ob珂レどπlOTf][l叩レhpieルdλλ'dλλo n,璃g tπtornum ‑‑‑ πepieXno‑
! !
pE'レ乃S uno..., /j.カ払KPα叩鋤レαi bn0..., 」mor,短刀KEλEbヮ・
(13)この点はしばしば誤解され、ここで既に現在の「快/苦」と将来の「快/苦」の比較考量 による行為の選択が問題になっているかのように解釈されている。 T. Irwin, Plato's Moral Theory. Oxford Claredon Press, 1977, p. 104もその一人である。
M. Dyson (Knowledge and Hedonism in Plato's Protagoras. Journal of Hellenic Studies, 94, 1976, p.33)が、この[A]のポイントは、人々が快を超える価値の規準を 持たないということ、つまりそれは実際上の彼らの倫理の描写であり、心理的快楽主義を 示すものではないと語る点については、容認できないように思われる。というのは、
Dysonが言うのはむしろ[B]には該当するが、 [A]には該当しないと思われるからであ る。
(15)っまりこのような人の場合、 「後悔する(yeza/ieλeiv, 356D6)」ということがあるというこ とである。
(16)この点は、前掲のDysonの論文に学んだ。何処にこの言葉のγE'λOLODがあるかに関する Dysonの指摘は正しいと考える。
(17)ソクラテスはアクラシアの行為の説明を問題にする箇所(355C3‑D3)で、 「善にうち負かさ れて」という言い方を、二つに段階的に分けて分析している。先ず、過った行為について、
「何故そうしたのか」と問う問いに対して、 「うち負かされて」と答え、さらに「何によっ て」という問いに対して、 「快によって」と答えることは最早できず、 「善によって」と言 うしかないというように、行為を説明する「うち負かされて」を「何(善)によって」か ら切り離し、独立に取り扱えるかたちで問題にしている。そしてこのことが、 「価する (bt&oov)」という価値評価を意味する言葉の導入とともに、 「うち負かされて(桓軸euos ̄)」
という何か力関係を意味する言葉から、 「取る(λα〃βdレetv)」という言葉への移行を可能に しているように思われる。
(18)これまで述べてきたような『プロタゴラス』篇の理解は、その大筋においてR. Weiss, Hedonism in the Protagoras and the Sophist s Guarantee. Ancient Philosophy, 10, 1990, pp.17‑39にも見られるものである。
(1996年7月31日受理)