長崎の近代都市形成と道路網の整備
岡 林 隆 敏 * ・ 林 田 幸 誠 * *
D e v e l o p m e n t o f a Modern C i t y a n d R e a r r a n g e m e n t o f Road N e t w o r k s a t N a g a s a k i C i t y
by
T a k a t o s h i OKABAYASHI a n d K o s e i HAYASHIDA
This paper concern to the deve10pment process of a modern city and the rearragement of road net‑ works at Nagasaki City from the 1ast of Edo Era to early Showa Era. We study the main access route to Nagasaki City
,
such as Nagasaki Kaido,
Tokitsu Kaido,
Mogi Kaido and Nomo Kaido,
and road networks in the down town. The rearrangement of road networks at Nagasaki City related with the 1and reclama‑ tions re1ated to harbor construction works and the construction of street car systems. The modern deve1op‑ ment of road networks are divided in four phases,
those are early Meiji Era,
midd1e Meiji Era,
Taisho Era and early Showa Era.1
はじめに
近代都市の形成史を記述するためには,都市の骨格 である道路網の形成過程を明らかにする必要がある。
我が国の道路建設の歴史を見ると,明治初期における 近世から近代への移行期,明治中期から後期にかけて の充実期と,自動車交通を考えた,近代から現代への 移行期である大正期と昭和期に大きく分けることがで きる。我が国の道路建設の歴史については,記述的な 文献(1)
(21 (31はあるが,近代における道路建設の歴 史を示したものはない。
地方都市の近代都市形成史の研究においても,道路 網建設の個別的な記述
(41 (5)がされているとしても,
その変遷が明らかにされていない場合が多い。長崎市 においては,長崎市役所が
1959年(昭和
34年)に火災 になっており,近代道路建設に関する重要な資料が焼 失した可能性が強い。本研究は,長崎市の都市形成史 の一環として,明治期から昭和初期にかけての長崎市 の主要な道路網の整備の経過を明らかにしたものであ る 。
平成
6年
9月
30日受理
*社会開発工学科
(Departmentof Civi1 Engineering)江戸時代,西洋との唯一の貿易港であった長崎は幕 府にとって重要な都市であったため,長崎と江戸を結 ぶ街道は整備されていた。しかし明治期になり,道 路の近代化において,三方を山に固まれた長崎は市街 地から郊外へ出るには,いずれの道路においても峠の 開削が必要であった。明治期から昭和初期にかけて,
長崎は西日本の主要都市として発展してきた。それに 伴い,近代的な道路建設も始まった。 1877年~1896年 (明治
10年代 明治
20年代)にかけて長崎市にアクセ スする主要幹線道路の建設・整備がなされた。さらに,
1926
年(大正
15年),長崎街道の中で最も難所であっ た目見峠に日見トンネルが開通した。その後,
1933年 (昭和8 年),野母街道に戸町トンネルが完成した。昭 和期になると,これら
2つのトンネル開通と平行して,
本格的な自動車交通を考えた道路の整備が行われ始め
Tご 。
他方,市街地の道路の整備は, 1882年 ~1893年(明
治
15年 明治
26年)の長崎港第 l次港湾改修工事,
1897年~1904年(明治 30年~明治 37年)の長崎港第 2
**大学院修士課程土木工学専攻
(GraduateStudent,
Department of Civi1 Engineering)44
長崎の近代都市形成と道路網の整備
次港湾、改修工事,さらに
1915年(大正4 年)に開通し た路面電車が大きな役割を果たしている。
現存する明治期の長崎の地図の精度,さらに大正以 降長崎市は軍事要塞都市となったため,長崎市の地 図情報が不足しており,そのため,近代における長崎 市の道路網の建設と整備の状況は明らかにされてい ない。本研究では,地図,新聞
161,議会資料
(7),市 史
(4) (5),古写真
(8)などを参考にして,長崎市にア クセスする幹線道路の建設と整備,長崎市街地の道路 網の建設と整備の復元を試みた。また,近世から近代,
近代から現代に移り変わる街並み景観と道路景観の変 化を古写真
(8)及び絵葉書より調べた。さらに,道路 網の形成に重要な役割を果たした路面電車の敷設に伴 う道路網の建設・整備を明らかにし路面電車の敷設 前後での街路景観の変遷について考察した。
2.長崎の主要幹線道路の変遷
(1)長崎における主要幹線道路の変遷
幕末から昭和初期に至るまでの長崎における主要幹 線道路は,長崎港の港湾改修工事による市域の拡大と 共に変化してきた。その後,
1926年(大正
15年)の日 見トンネルの開通
(9)110)や1
933年(昭和8 年)の戸町 トンネルの開通
111)により自動車交通を考えた道路の 建設と整備がなされてきた。ここでは,江戸中期から 昭和初期に至る長崎の主要幹線道路の変化を見る。図
‑ 1 に現在の長崎市街地にアクセスする主要幹線道路 を示した。現在の主要幹線道路は,長崎街道(現:国 道3
4号線), .浦上街道(現:国道2
06号線),茂木街道 (現:国道3
24号線),野母街道(現 国道4
99号線) の 4路線である。し、ずれも長崎県庁付近を起点として,
郊外へ延びている。
まず,これらの主要幹線の整備の状況について述べ る。図‑2, 図 ‑3,図 4に,それぞれ江戸中期,
図 1 長崎市にアクセスする主要幹線道路
明治中期及び昭和初期の長崎市街地とその周辺の地図 を示した。これらの地図から,長崎市街地の変遷と,
ここにアクセスする主要幹線道路の変化の概要を見る ことができる。
1 )江戸中期
図
‑2は,江戸中期の長崎市街地とその近郊を示し たものである。出島付近に
1702年(元禄1
5年),中国 人の居留地の荷物を火災から守るために建設された新 地蔵所(約3
500坪)を見ることができる。また,長崎 街道,浦上街道(時津街道)及び茂木街道が示されて いる。特に,長崎湾沿いに浦上街道(時津街道)を見 ることができる。この当時には,既に主要幹線道路の 整備がなされていたことが分かる。この地図では,
1703
年(享保1
5年)に始まる市北部の浦上新田の埋立 がまだなされておらず,このことより,江戸中期の長 崎郊外の様子が分かる地図である。海岸線は現在と比 べると大きく変化しているが,長崎市街地の道路網は,
現在と余り変わっていない。
2 )明治中期
図‑3 は ,
1895年(明治2
8年)頃の地図である。
1882年(明治1
5年)から始まった長崎港第l 次港湾改修工 事が1
893年(明治
26年)に完成し,それに伴い海岸沿 いの道路が整備された。また,この時期には近代的な 道路建設のためのいくつかの道路工事が行われてい る。旧長崎街道が依然として急な峠越しの街道であっ たため,
1881年(明治1
4年)から翌年の
1882年(明治
15年)にかけて長崎街道中の日見峠の切り通しの開 削
1121がなされた。長崎市街地より北部へ通じる浦上 街道(時津街道)が,長崎港第 l 次港湾改修工事で造 成された埋立地上に建設された。さらに長崎市街地か ら東部へ通じる茂木街道が1
885年(明治
18年)から始 まる工事で,幅員4 間程の道路として整備され,
1887年(明治2
0年)
6月2
8自に開通式
1131を行った。近代 国家建設のために,道路を整備することが明治政府の 急務であった。このような背景の下で,長崎市街地か ら郊外へ出る道路は,江戸期の徒歩を主体とした道路 から,人力車や荷馬車が通行可能な道路へと整備がな されていった。
3
)昭和初期
昭和初期の地図を図一
4に示す。
1897年(明治3
0年) から
1904年(明治3
7年)に長崎港第
2次港湾改修工事 が行われ,市北部と出島町に大規模な埋立地が造成さ れた。大波止から浦上に至る市北部が大規模に埋め立 てられ,長崎市から北部に拡張する基盤が造られた。
北部の埋立地には
1904年(明治3
7年)に長崎駅が建設
された。この埋立地に出島町から長崎駅前に至る新し
図‑2 江戸中期の長崎近郊の絵図
図
‑3長崎港精図
(明治中期)
図
‑4長崎市街地図(昭和初期)
い道路が建設されている。大規模な埋め立ての結果 , 海岸線沿いの道路は大きく変化した。その後の
1920年
(大正
9年) から
1924年(大正
13年)の長崎港第
3次港 湾改修工事で ,ほぼ現在の海岸線に近い状態になっ た 。 この時期から現在まで,海岸線沿いの道路で大きく変 化したところはない。また,それまで切り通しであっ た国道の目見峠に延長
640m.幅員
7.3mの目見トンネ
ルが
1926年(大正
15年)
4月t こ開通した。さらに,野 母街道に延長
327.8m.幅員
7mの戸町ト ンネルが
1933年(昭和
8年)
5月に開通した。 その結果,長崎市街 地から郊外へのアクセスが効率的になった。また,こ の頃より本格的な自動車交通を考えた道路の建設がな され始めた。
( 2 )主要幹線道路の変遷に伴う街並み ・ 道路景観の 変化
このような道路の建設に伴って,街並みや道路の景 観が変化する。幕末から昭和初期に至る街並み景観と 道路景観を古写真 山 及び絵葉書から収集した。
1
)長崎街道
写真一
lは.
1882年(明治
15年)に完成した目見峠 の切り通しの写真である。幅員は 4 間
~5 間程度であ る。目見峠は,我が国最初の有料道路であると言われ ている。写真 一
2は.
1926年 (大正
15年) ・に完成した 目見ト ンネルの写真である。 目見ト ンネルは高さ
5.4 m.幅員
7.3m.延長
640mである。また,完成当時,
日本最長の歩行トンネルと言われた。
2
)浦上街道
写真一
3は,長崎市街地から近郊の浦上街道を見た ものである。この道路の幅員は 4間程度であり,路面 はよく整備されている。
3
)茂木街道
茂木は居留外国人のリゾー ト地であ ったので,早く から開けた港町であった。写真一 4は,茂木街道中の 田上峠の写真である。この道路の幅員は 3 問~ 4 間程 度である。また,峠であることもあり茶屋が並んでい る 。
4)野母街道
写真一
5は. 1887年~1896年(明治 20年代)の大浦 海岸通りの写真である。
1870年(明治
3年).出島か ら浪の平に至る居留地を貫く湾岸道路が建設された。
商館や領事館が立ち並び,外国人居留地のよく整備が なされた景観を見ることができる。写真一
6は.
1933年(昭和
8年)に完成した戸町トンネルの写真である。
この戸町ト ンネルは延長
327.8m.幅員
7mであり,
この工事に伴う土砂によって戸町浦の一部が埋め立て られ宅地が造成された。
3.
長崎中心市街地の道路網の変化
次に江戸後期から昭和初期までの長崎中心市街地の 道路網の変化について述べる。
1
)江戸後期
図‑5
は,江戸後期の長崎の中心市街地を示したも
46
長崎の近代都市形成と道路網の整備
写 真 一
l目見峠
砕 flkamlR
,
削 2剤'0'叩 批写 真 一
3時 津 街 道
写真一
5大浦海岸通り
のである。長崎の中心市街地には,既にこの時代 I , こ ほぼ完成された街区が形成されている。幕末から明治 期にかけては,この旧市街地に埋め立てにより造成し た土地を加えることにより,市域を拡大していくこと になる。戦災による火災を免れた長崎では,中心市街 地の街路網の骨格は,ほぼこの時代に形成されている
と見ることができる。
2 )明治中期
図
6は ,
1895年(明治
28年)に作成された「長崎
写真一
2 日見トンネル写 真 一
4田上峠
写 真
‑6戸町 トンネJ レ
I
‑IIMJ TOkNlEl... NI¥4A旬以 ルネ三上R.JH府私碕E
港精図」である。幕末から明治初期にかけて外国人居 留地周辺に幅員5 聞の道路が整備された。長崎港第
l次港湾改修工事に伴い,長崎湾沿いに近代的な浦上街 道(時津街道)が建設された。大浦海岸沿いの道路の 幅員は
5聞であった。しかし,旧市街地の道路は,江 戸後期と余り変わっていなし、。
3
)昭和初期
図
7は,昭和初期の長崎市街地図である。長崎港
第
2次港湾改修工事に伴い,長崎湾の湾奥と出島周辺
図
‑5長崎図(1
801年 事 保元年)
図
‑6長崎港精図 ( 明治中期)
図‑7 長崎市街 地図 ( 昭和初期 )
の埋立がなさ れた。こ の埋立地上に出島周辺の道路と 市北部の幹線道路が整備された。旧居留地,市 中心部 及び市北部に,
1915年 (大正
4年)から路面電車が運 行することにな った。特に,
1920年(大正
9年)
12月 の市中心部の築町・古町聞の路面電車の開通に伴い,
市中心部を貫く道路の建設がなされた。他方,長崎港
第
3次港湾改修工事, 目見ト ンネル ・ 戸町ト ンネルの 開通に伴い,現代的な都市施設の技術革新が実現し始 めた。また ,この頃から ,本格的な自動車交通を考え た道路の整備が始まった。
1934年(昭和
9年)
12月の 路面電車の市東部の新大工から後茶屋への鉱張に連動 して国道
25号線(現:国道
34号線)が
22mの道路とし て,新たに建設された。
4.
路面電車の敷設に伴う街路の変化 (1)路面電車の延長に伴う道路網の整備
長崎の中心市街地の道路網の変化に欠かせなかった のが,
1915年(大正
4年)に始めて開通した路面電 車(1
4)1 (
5)である。つ まり,路面電車 の開通に伴い道 路の改修工事がなさ れてきた。 表ー l は昭和初期まで の線路新設の一覧である。
1915年(大正
4年)の第
l期線の開通により, 市の北部交通線が完成 した。続く
1916年(大正
5年)から
1917年(大正
6年)の間に開 通した第
2期線の工事により,市の南部交通線が完成 した。この
2つの路線は,出島を中心に蓮結され,南 北両端の交通の利便性が確保された。さらに,
1919年 (大正
9年)から始まった第
3期線の工事により,中 心市街地内の道路網の建設・整備がな された。特に ,
1920年(大正
9年) の古町・桜町聞の路面電車の開通 により,古町に三方分岐交差点が でき,その付近の道 路幅の大幅な拡張がなされた。この上記
3つの工事に より, 中心市街地の周りを包括し た道路網の建設 ・整 備がなされた。また,
1934年 ( 昭和
9年)の馬町 ・ 鐙 茶屋聞の路面電車開通
tこ伴い,中心市街地から市東部 へ道路の建設がなさ れた。これに連動 して ,新 しい国 道
25号線(現:国道
34号線)が作られ,幅員は
22mで あった。このように,路面電車の開通により,長崎の 中心市街地の道路網は,中心市街地の腐りから内部へ 広が ってい ったことが分かる。
表
l路面電車の線路新設一覧 開 通 年 区 間 工事名 大正
4年
11月
16日 病院下 築町 第
1期線 大正
5年
12月
27日 千馬町 大浦 第
2期線 大正
6年
6月
4日 大 浦 出 雲町 ( 大浦線) 大正
8年
12月
25日 長崎駅前 桜町 第
3期線 大正
9年
7月
9日 病院下 下の川
桜町 馬町 大正
9年
12月
25日 築町 古町 大正
10年
4月
30日 西浜町 思案橋
昭和
8年
12月
25日 下の JII~ 大橋 大橋延長
昭和
9年
12月
20日 馬町 蛍茶屋 蛍茶屋延長
48
長崎の近代都市形成と道路網の整備
写真一
7小川町(路面電車敷設前)
写真一
9大井手町 ( 路面電車敷設官i
j)写真一
II銅座町(路面電車敷設後)
( 2
)路面電車敷設前後の街路景観
路面電車の敷設に伴い,街並み・街路景観がどのよ うに変化したかを,長崎電気軌道株式会社に残されて いる写真を用いて考察した。
1 )小川町
写真
7は,路面電車敷設前の小川町である。人や 荷車が通る道路は整備されていない。近世の道路の面 影がかなり残 っている写真である。写真
‑8は,路面 電車敷設後の小川町である。写真 一?と 比べると,路
写真一8 小川町(路面電車敷設後)
写真一1
0大井手町 (路面電車敷設後)
写真一
12新中川町 鐙茶屋間 (路面電車敷設後)
面電車の開通に伴い,電車道のみでな く人や荷車の通 る道も整備がなされ,道幅もかなり広くな っている。
2
)大井手町
写真一
9は,路面電車敷設前の大井手町である。写
真を見てもわかるように,道路脇には側溝がある。長
崎市の中心市街地であるので,人通りもかなり多いよ
うである。また,この写真も近世の通りの風情が偲ば
れる写真であ る。写真 一
10は,路面電車敷設後の大井
手町 である。写真 一
9と比較すると,道路は鉱幅さ
れ,近代的な道路になっている。この写真の奥にある 建物は長崎電気軌道の馬町車庫である。こ の建物は,
煉瓦並びに鉄筋コンクリートの近代的な三階建であっ た 。
3
)銅座町
写真一1
1は,路面電車敷設後の銅座町の写真である。
路面電車の敷設前と比べると,路面電車敷設前はかな り 近世の景観が残っているのに対して,路面電車敷設 後は近代的景観になっている。また,道路幅もかなり 大きくなっており,路面の整備もよくなされている。
4 )新中川町・鐙茶屋間
写真一1
2は,路面電車敷設後の新中川町・蟹茶屋聞 のものである。
1934年(昭和
9年)に始めて こ の区間 に路面電車は開通した。この写真は
1935年(昭和1
0年) のものである。歩道 ・車道・電車道が別れており, 道 路の幅員は22m である。
5.
長崎市における道路網の形成
明治中期,大正期,及び昭和初期の長崎市における 道路網の整備状況を図
8から図ー
101こ 示 した。こ の図は各時代の主要な道路 と 街路を現在の地図 に復元
したものである。
( 1 )明治中期の地図
この図は,
1895年 ( 明治2
8年) に作成 された「長崎 港精図」と
1907年(明治4
0年)に作成された「長崎港 全体図」に基づいて, 長崎港第l 次港湾改修工事が終 了した
1829年(明治2
5年)頃の長崎市街地周辺の道路 網を復元したものである。中島川の交流と海岸線の埋 立による拡張に より , 出島を起点とした市北部の浦上 街道(時津街道)の建設がなされている。
1877年(明 治1
0年)頃の長崎市街地から北部へ延びる浦上街道(時 津街道)海岸部の道路工事に関する資料が長崎県立図 書館に所蔵されている。 旧市街地と南部の外国人居留 地については,幕末から大きな変化は認められない。
(2
)大正期の道路網
この図は,
1907年 ( 明治4
0年) に作成さ れた「長崎 港全体図」と長崎市役所都市計画課が所蔵している
1921年 ( 大正
10年)頃に作成された「市道認定図
J1こ 基づいて復元したものである。この時代までに,
1897年(明治3
0年)から
1904年(明治3
7年) にかけての長 崎港第2 次港湾改修工事が終わり,長崎の地形は大き く 変化した。この港湾改修工事で造成された出島前面 の埋立地には新 し い市街地が形成さ れた。また, 北部 の埋立地には九州鉄道の「長崎駅」が1
905年(明治3
8図
‑8明治中期の道路網
図
‑9大正邦
lの道路網
50
長崎の近代都市形成と 道路網の整備
図ー
10昭和初期の 道路網
年)に建設
され,市北部へ通じる幹線道路が形成され た。埋立地には,新しい住宅地が建設された。この大
規模な埋立により海岸部は大きく変化した。一方 , 市中心部においても道路の整備・改良が行わ れている。これにより ,近世の道路網から近代の道路
網への変化を見ることができる。また,市中心部では
路面電車が1915年(大正
4年)から
1921年(大正
10年) にかけて相次いで開通し,これに伴 って市街地中心部
の道路の整備が実施された。( 3
)昭和初期の道路網
この図は,
1926年(大正15年)に作成された「長崎 都市計画図」と1934年(昭和9年)に作成された「長 崎市案内地図Jに基づいて復元したものである。 1926年(大正
15年)に長崎市に都市計画法が施行された 。 長崎港第
3次港湾改修工事により,目 撃連絡船に関係
した施設が建設された。 1926
年 ( 大正
15年)に目見ト ンネルが,続く
1933年(昭和8 年)に戸町トンネルが 相次いで開通した。 このように長崎市の道路網は市域
の拡大に伴って,自動車交通に対応したものに変化を
遂げる。鉄道,電車,中華連絡船が運行 し,市街地か ら郊外へ向 かうための道路トンネルが建設され,多様 な交通手段の利用が可能になったのもこの頃であ る 。
一方,市中心部に目を向ける と ,
I日長崎街道を改良
した国道25号線は,狭 くなり交通の支障を来 し始めた ので,
1934年(昭和
9年)の路面電車の東部拡張に連 動 して,新大工から蛍茶屋にかけての市東部
tこ
22mの 新しい国道が建設 された 。
6.
まとめ
本研究は,長崎市街地とその周辺の道路網の変遷を 近世,近代及び現代に至る時代の変化の視点 から考察 を加えた ものである。古地図,古写真,長崎市 史,道 路工事に関連した資料及び新聞等から,主に幕末から 昭和初期 における長崎市とその周辺の道路の建設 ・ 整 備の状況を明らかにした。さらに,各時代時代の道路 網の復元地図を作成した。
〔 参 考 文 献 〕
1
)明治工業 史,土木編・日本工学会,昭和
6年
2)日本土木史概説 : 小川博三,共立出版株式会社,昭
和
50年
12月
3
)ネオ・ パロックの灯 ー四谷見附橋物語
四谷見附橋研究会,技報堂出版株式会社,
1988年3 月
4
)
長崎市政50年史長崎市役所, 昭和
14年
11月
5)長崎市政65年史・長崎市役所,昭和
34年2月 6)鎮西日報:長崎県立図書館所蔵,明治
15年
明治25年
7)長崎市議会史,資料編 第一巻ー長崎市議会,平成2
年1
1月
8
)長崎大学古写真コレクショ ン・長崎大学附属図書館 所蔵
9 )日見隆道工事機要
長崎県,大正
15年4月 10)長崎新聞長崎県立図書館所蔵,大正
15年
4月
4日 1 1)長崎新聞 ・ 長崎県立図書館所蔵,昭和8 年5月4 日
12)土木課土工掛事務簿, 修築之部( 目見新道関商
IJ一件)
長崎県,長崎県立図書館所蔵,明治13年
13)