近世都市江戸の木材調達・用水整備について(山田) 東京湾を臨む武蔵野台地東端の地が、なぜ江戸幕府の拠点地に選択されたのだろうか。従来、豊臣秀吉によって関東における交通網の分岐点であった、寒村の地江戸が指定されたとされている。関東の地の評価として、近年、網野善彦・森浩一による『この国のすがたを歴史に読む』大巧社(二000)・改題『この国のすがたと歴史』朝日新聞社(二00五)、『日本史への挑戦関東学の創造をめざして』ちくま学芸文庫(二00八)、などによって、開府以前の「江戸」寒村イメージに対する疑義も提出されている。しかし、「江戸」の地が選ばれた後、秀吉没後に江戸の位置づけや都市構想は大きく展開し、徳川秀忠の時代には幕府地としての江戸の狭い海岸沿いの平野部に、諸大名の屋敷地を割り振る事になると、町民層の居住地を確保する課題が生まれた。このように近世都市の基盤整備は、最初から一定の構想があった訳ではなかったが、①大規模な盛土・石垣造成を行ってまでして城をつくり、②水運改造を目指した利根川の付け替えの大規模な運河掘削、③旧市街地に敷設された上下水道網、 はじめにーー近惟都市江戸の空間構想ーー 近世都市江戸の木材調達・用水整備につい て
山田
七七
昌久
④市街地拡大をめざして大規模な埋め立て、などが順次打ち出され、結果的に土木技術を駆使して大規模な空間改造が行われた。江戸や大坂の近世都市空間設計を可能にする大規模土地造成は、十六世紀の戦乱時や安士桃山時代における築城・城下町空間整備にかかる土木技術の発達、また後述するが前挽き鋸による縦挽き製材技術の発達による森林資源生成時間を短縮させる用材構想、があって為し得たものであろう。最盛期には一三0万の人口を有する近世都市江戸は、まず、石神井川を北区飛鳥山付近を開削して隅田川へ流し、日比谷入りやさらに江戸城から浅草島までの地を埋め立てる空間構想があった。そして、埋め立てはさらにその東側に拡大された。初期に計画された水道網構想は、埋立地最前線にまでの給水は考慮されていなかった。江戸城自体、自然地形を選んで武蔵野台地縁辺に構築されたものではなかった。台地から平野に移行するやや低い土地に、谷地形を利用して堀としたり、巨大な胴木を設置し石垣を積み盛土したりして、造成した土地に作られているのは、その時点でも単なる道路網の分岐点という以外の治世・地勢判断にかかわる、初期の空間構想の存在を見ることができる(第1.2図)。近憔都市江戸の地は、城の西側には武蔵野台地が続くが
、そ
の地 メトロポリタン史学十二号二0一六年一―一月
第2図 江戸城外堀の石垣・胴木(千代 田区丸の内1-40遺跡調査会『丸 の内一丁目遺跡』(1998)より)
天守
第1図 江戸城の地盤想定断面固(千代田区教育委員会 『江戸城の考古学』
(2001)より) 七八
近世都市江戸の木材調達・用水整備について(山田) 形は複雑に入り組んだ谷が形成されている。そこでこの空間には、市街地を面的に計画しにくいし、西多摩地域に水源を求めて遠方から導水すると、江戸城や東側の市街地に運び込む前にこの谷を渡す工事が必要になる。また、江戸城に届く以前の西側に谷に限られた台地上に市街地を配すると、居住者の廃水を谷ごとに複雑な経
路処
理を計画する必要が生じる。一方、江戸城東側の土地は狭かったので、大名屋敷を計画すると、海を埋め立てしてしか土地を広げることができない。東への拡大が必要で、江戸東京博物館付近では、埋め立て時の遺構が検出されている(第3図)。関東の地において海に面した場所を選ぶというのであれば、小田原や鎌倉という中世の港湾都市があるが、空間的・地勢的に偏っていたり、規模がたりなかったりと問題がある。また、東京湾内にも六浦・悠西城・千葉城など中世からの港湾や城館が存在する。葛西城以外は水系規模が小さく、資源空間規模がたりない。葛西城は利根川・荒川の水系が利用できるが、水道導水計画が立てにくい。このように考えると、秀吉に指定された江戸の地は、人工的に改造すればそれが後付の構想であっても、江戸城設置とその都市空間計画や資源空間計画は、中世都市とは全く異なる大空間構想に改変しうるものであった。それは、①港湾規模を拡大②東京湾の浅瀬埋め立てによる市街地を拡大③西側の多摩地区を資源(薪炭材・用水・農産物など)調達空間化④秩父の山地を植林地として関東圏経済の用材供給空間化⑤港湾には蔵や木場などを計画した東京湾圏・日本圏経済の物資供給空間化
第3図
七九
江戸東京博物館付 近で発掘された埋 め立て用の柵
関東平野の特徴は、利根川や荒川による一1000m級の山地から供給される土砂が順次氾濫堆積する地であり、氾濫や河道の付け替えが頻繁で、さらに平野の中に沈降地が存在することにある。荒川の氾濫は河道の付け替えを頻繁に起こし、見沼低地の不安定化を生じさせていたし、河口域には江戸前島や浅草外島などの微高地が形成された一方、氾濫堆積した河口域の土砂は沈降したり東京湾に流出したりして、不安定な土地であった。しかし、後には、荒川水運によって秩父地方から、利根川の付け替えと運河形成によって東関東から、東京湾水運によって近くは房総半島から、遠くは海洋を経て日本各地からの資材搬送が計画された。東京湾に面した武蔵野台地の東縁部は、多数の湧水点付近の土が崩落して台地の奥に谷頭が移動した結果、谷が各所に製状に発達し高低差のある土地で、市街地を面的に広げ難い地形であった。下総台地も類似した地形であるが河川規模が小さく、内陸深くを資源空間として計算出来ない土地であった。結局、都市の資源確保を考えると、城の位置として武蔵野台地東端の地は道路網の分岐点というより、資源空間確保の面で
、日
本規模•関東規模の経済圏を編成させ得る理にかなっていた地と考えられる。 る。 を構想したものであった。それを江戸時代の後期的なものとして、南関東の空間構想にシフトしたという見解もあるが、水道計画などを考えると、空間計画の変更を単純に構図化することはできないのであろう。食材・燃料材をふくめた様々な産物の都市移送を考えると、幕府設置時からあまりくだらない時期にも、近隣空間を活用した資材移送と、日本各地からの資材移送があり、保管できる資材はストック基地を確保した経済構想があったと考えられるのである。筆者の今回の話題提供は、遺跡情報をもとに、こうした江戸の資源利用や碁盤整備を示すことを目的とするものであ
地形的特長 メトロポリタン史学十二号_-0一六年―二月八〇
近世都市江戸の木材調達・用水整備について(山田) 必要になったのは市街地空間の確保で、十七祉紀前期の徳川秀忠の時代に始まって徳川家綱の時代にまでかけて進められた東京湾の埋め立ては、河口域に接する浅瀬、浅草外島以東以南に造成地を広げた
。河
口域の護岸も行って有用地化して、市街地・港湾集積地などに利用する都市空間を、拡大する構想があった。その後は南部の海岸線の埋め立てが行われるが、江戸市街地計画は基本的に秀忠の時期に構想されたのであろう(第4図)。日本の都城では、藤原京・平城京の時点で外部に柚地を確保することがすでに構想されていた。木津川の上流伊賀の地や、淀川水系を経由させた甲賀の地にも、地形を大きく読んで柚地が配された。平安京は淀川
・琵
琶湖を利用して内水系と海洋搬送が可能であった。内水系空間量の小さい鎌倉では、和賀江島を築いての資材搬入が必要になった。そして規模の大きな近世都市江戸では、当初は海路を利用した資材搬入が構想され、次には関東圏において、荒川などの内水系利用した秩父山地の柚地化と、東京湾を回漕する房総半島の柚地化も図られた。平安京が内水系に琵琶湖沿岸域を資源空間に算入できたと同様、江戸は東京湾沿岸域の土地をその丘陵地まで含め、資源空間として近隣経済圏に組み込む事ができたのである。
八 第4図
Q
' ,,· ,,, 江戸の埋立ての
憚J事が心 む
···:u
l ,
,、 因,,(2002)立攣現東京都区部のデジタル標高図 (国土地理院)と埋立地拡大変遷図
武蔵野台地の西部から多摩丘陵にかけての空間は、江戸の資源空間として、農産物のほかに薪炭と水源地として考えられた。江戸時代の武蔵野の雑木林は短年数間隔で伐採された結果、数メートル程度の樹高の森であったことは、多くの指摘がなされている。江戸時代の多摩地区は、武蔵野の雑木林、武甲山地に近い羽村を水源とする玉川上水、上水設置後に着手された小川村から田無村にかけての新田開発など、十七世紀の半ば頃までに、単なる集落で消費する資源空間としての耕地や里山ではなく、都市資源空間としての役割が考えられ始めた。十八世紀には小川村・貫井村などでの新田開発が拡大した。「田」は水田・畑の総称であるから、多摩地区は、都市住民のための農産物生産地となったのである。小川村の新田開発者である小川家は、その資財を背景に後年、中部山地での木材調達業務を請け負い、江戸で利用する木材調達にも関係する事になる。一方、秩父山地では飯能などでスギ植林が始まる。荒川を利用した木材の川流しは、流域沿いの漁民との軋礫も生む事になったが、この地は江戸の資源調達空間に組み込まれる水系にあり、多摩川とは別水系の山地に植林地が計画されたと見ることができる。利根川付け替え水運を加えると、江戸は海運以外にも複数水系利用の搬人路経済が構想できる 多摩・秩父地域の都市資源空間構想 メトロポリタン史学十二号二0一六年――一月
スギ植林が反映した溜池遺跡の花粉ダイアグ三土」
|
溜,悶芸9 孟雰?はこ匹; i ぢ;�盆:塁孟ぷ喜悶:加 I
第5図 花粉ダイアグラムに見る江戸時代層内のスギ花粉 八
近世都市江戸の木材調達・用水整備について(山田)
用材量の縮減・資源生成時間の縮減•江戸近隣(地回り)経済の登場
八
こうした動向は、地方の文書から知ることが出来
、各
地の市史研究などによって掘り起こされているが、遺跡情報は
それとは別の情報を多く持っている。遺跡調査に伴って分析された地層内花粉の時期別埋蔵最
からは、江戸時代のスギ花粉検出量の増加が見て取れる。風媒花粉であるスギ花粉は数十キロメートル離れた山地からも飛来して、江戸の遺跡の地層内に堆積していた(第5図)。
江戸時代の木材利用は、階層や時期によって違いがあり、たとえば尾張藩上屋敷の遺跡では、溝板までヒノキが使用されていたことが分かっていたり、
十八世紀の下駄材などに江戸で製材された針葉樹材を使用した流通規格品が顕在化 したりしていた(山田i―九九0)。北野信彦(二00五)も、出土漆器用材には階層差があることや、江戸時代初期の遺 物では多様であったのに対し後半期には用材が絞り込まれるようになっていたことを指摘した。
この二論文は、江戸時代の木材利用は初期には差異が大きく、その後流通材が利用されるというのは、江戸の木材経済が、流通規格材利用に変化したことを示している。木場では、都市で使用される木材が規格製材されたが、これも中世後半期の技術革新がなければ実現不可能であって、近世都市である江戸でこそ可能な木工であった。遺跡出土木材からは、弥生時代から活発化した、大槌で木箭を打ち込 み木材を分割する「打ち割り製材」が、十六世紀から大鋸や縦挽鋸による「挽き切り製材」に切り替わっていることが分 かっている(第6図)。大径木の節の無い部分の利用が必要な「打ち割り製材(節は不規則割れの原因となる)」から、節のある小中径木も無駄なく利用
できる「挽き切り製材」への移行によって、以下のような変化が生じた。
土地に仕上げられたのであった。
①搬送材の無駄材を縮減できるようになった。②規格材を容易に大量に生産できるようになった。③利用木径の減少化、つまり数十年生の植林木使用の用材経済を生み出した。④森林資源の生成時間を縮減して生産経済に組み込むことにつながった。植林して森林資源を生産経済に移行させることが叶能になったのは、この製材技術の改変によって、大径木ではなく五\六0年生の中径木を節の影響受けずに用材化することができるようになったことで、可能になったのである。しかし、それは節部分も木材の なかに
含まれる用材法でもあった。材密度の変異部位がある木材の使用は、それを補う技術が必要になる。桶樽のような突っつき接ぎで水漏れを回避するような密着集成が必要な場合、節の切断面が水分量の変化があると変形し、接合部に隙間ができる。江戸遺跡出土の結物の接合面には、節があった場合その部分に傷を付けて、密着性を維持する技術が確認できる(山田[-九九六)。現在の木工用語や木取りの用語は、この技術の時 メトロポリタン史学十二号二0一六年―二月
第6図 打ち割り製材(左)と挽き切り製材(右) 八四
近世都市江戸の木材調達·用水整備について(山田
八五
期の概念である。柾目・板目、芯持ち・芯去り、などの用語は、打ち割り製材の時期には単純には遡らせ得ないことが、考古学分野では古くから指摘されている(佐原真・山田昌久ほか[-九八六)。また、遺跡調査によって検出された柱の痕跡から
、長
屋建築材に従来の四寸角材を四分割した一一寸角材の使用があったことが判明した。これらは都市における用材量の縮減や当時の破壊消防や地震時の倒壊圧減少といった、現在とはまったく異なる構想であったとすることに通じさせられるであろう。
その後
、江戸時代の
遺跡出 上材から木材利用について
研究を重ねて
いる
、
鈴木
伸也氏の仕
事(鈴木ほか
i二00四、二00六、二00八)によって、江戸時代の建築士木材や棺桶材の樹種変化や用材法の実体や、東回り航路の実現によるヒバ材利用の始まり、そして関東圏の近隣材を活用する地回り経済に関連する情報が明らかにされつつある。(鈴木ほかニ―00四)では、従来からの用材(アスナロ
・ヒ
ノキ
・サ
ワラ)を利用した棺桶材に、厚みを減らした省略利用あったことが再確認された。しかし、(鈴木ほかニ―00六)では、江戸の一般住民の木棺材が、それまで使用されていた木材スギから、マツ・モミなどの木材に変化していて、一般都市住民の棺桶材生産が、建築材とは異なる木材入手経路が有った可能性が指摘された。マツ材は、農村では曲げ強度が高いために梁桁などに使用されることが多いが、脂があり通直性がやや劣ることから、都市の規格流通建築材には向かず、土木材での使用が多かった。モミ材はやや材質が劣るため、やはり建築材にはあまり使用されてこなかった。鈴木は、新宿区の二遺跡の一般住民用の棺桶材生産が、都市建築用材とは別の流通経路によるものになった可能性があることを示した。また時期的には、江戸時代の前期では木曽川
・天
竜川の流域から搬入された材が棺桶生産にも使用されていたのが、十八祉紀中葉以降には江戸近郊の材を利用する「地回り」経済木材モミ・マツ・スギの使用に切り替わったとした。将軍家や大名家の木棺製作者とは異なり、都市内に住み都市住民用の棺桶を製作する集団用に、別ルートの材供給が誕生したことを窺わせる結果である。都市建築材として海洋利用する搬入材を使用した場合では、棺桶材は厚
近世 都市江戸の初期・前半期の木材流通は、高地県
魚梁
瀬の
スギ利用や長野県
岐阜県
の木曽山地
から川
流しして
愛知の 白鳥奉
行所
を介
した搬
送利用があっ
た。しかし、江戸後
期に
なると、
度重
なる
火災復興の 大量需要から、秩父や房総、
そして多摩山地の植林木 や従来の非利用木(モミ
属材
など)を利用することが本格
化し
た。木材利用の搬
入ルートを、
用途
別に
成する必要があったのであろう。 再編 図)。
四
みを
減ら して省略利用
が目指され
てい
たの
に対し、新たに生まれた近隣
材を
使用した場合では、
棺桶材は厚みを減ずることが無かったことが 指摘さ
れた(第7
江戸 の水 道敷 設限 界地 の木
材
集積地 利用
森林 資源 搬人 経 路の 多系統化
の動
き
江戸
の旧市
街地
には
、遠
く羽
村に
取水
口を設けて 導水した水が、
船大工を投入して水漏れを防
ぐ詰 め物組みによって、木造水道管や分水枡が作られ、上下水道が敷設された。
谷部
は水道橋によって上位を導水
メ ト ロ ポ リ タ ン 史
学
十 二 号
二0一 六年
―二月
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Fig. 8 Thkkocss of coffin boa<ds of ho,-ヽhap,d coffins " th, Sogcn-j, and Shok,o-j; sites, Sym如Is, mean, hm, one mndatd do,; 面on
旧 流通材利用の棺材厚と地回 り 材利用の棺材厚の時期別比較 (鈴木 ・ 能城 : 2006 よ り )
“ 21 頃 旧 ぼ 9 9 3
(EE)2島
第7図
1 9, 使璽
八六
近祉都市江
戸の
木材瀾達
·用
水整備
につ いて
(山田 前述のようにそのような集積構造の
一元化
は、近 下に導水管を通した(第8図)。したし、川は橋
説明
してき
た江戸の埋立地市街地拡大構想
では
、
地下
水に塩分が含まれる埋め立て地が多くなる。しかし、深川など埋立地東部
まで
には、水道が行き届
かなかった
ようで
、「水
売り
」で
の供給が図られた。近世都市江戸の埋立地東部は、木場(回漕木を貯
木・
管理する地)として利用するなど、
非居
住地空間
が計画されたが、
それ
は水道網が届かなかった地の活用でもあったと考えることができるのである。
私は
以前、江戸遺跡群からの出土材が、十七戦紀前半には多数経路の用材利用が
顕著
で、
十八
世紀以
降で
は器種ごとに流通
材(
製品
)利
用に変形していたことを示したことがある(山田[-九
九0
)が
、深
川に木場が整備されて、江戸の木材がそこを基点とする都市流通でまかなわれた結果が
反映
しているた
めで
、火災復興
による大都市の木材需要の増大にも
対処
でき
る、国内各地からの回漕を
受け止
め、資材置き場とする基地が必要だったことに
呼応
した空間計画による都市経済構想でもあった(
第9
図)。
八七 第8図 江戸の水道 (上 : 羽村取水口と導水路、 中 : 上水本管と分水管、 下 : 谷 や川 での水道管架橋)
山田 昌久編
(-九九六)
『週刊朝
日百
科植物の憔界 江戸遣跡調査の蓄積は、江戸城
や近世
都市江戸市街
地、
そして経済活動に関する情報を飛
躍的に蓄
積し、現在も進行中である。考古学者のみに拠らない研究活動も始まっている。従来の分野別研究を、
江戸学
とし
て再編
成する時期に至っているのであろう。
【引用 文献】
佐原真•山田
昌久
ほか
(-九八六)『弥生人
の四季
』六興出版
山田昌久
二九
九 一)「日本における木材利用史」
『植生史研究』第八号
山田昌久
(-九
九一―-)
「日本
列島における木
質遺物 文献集成
ー用材か
ら見た
人間植物
関係史」
『植生史研究』特別
一号 ニ四 二頁
おわ りに
隣に柚林地を計画
して
別系統の
森林
資源利用
を加えた
複合経済
を必要とする
よう
になる
。た
びたひの火
災の復興が必要になると、建築資材の需要最と供給量のハ
ラン
スを確保
できなくな
り、
新たな搬入者として新田開発層への
依存 や、
近隣山地
での植林生産という新たな集積経路の開発が必要になった。また棺桶材などの用材を
旧来 の建築用集積
材や付加され
た建築用集石
材とは別に、
建築用
材とは別の木材調達へと
切り
替えがなされた。森林資源の多系統化が必要になったのである。 メトロポ
リタ ン史 学 十二号
二0 一六年
―-―月
ニニ 0頁
―――\―二
頁
木でつくる』
一〇八号
朝日 新聞社
四八頁
第 9 図
\ 、
ー、 J
J
近世都市江戸の木材調達
・用
水整備について(山
田)
松葉礼子(-九九九)「溜池遺跡・汐留遺跡・墨
田区一 二遺
跡から出土した木製品の樹種から類推される近世江戸城周辺の木材消費」『植生
史研
究』
第七巻
二号
五九\
七0頁 鈴木伸也
・能城修一(二00
四)
「東京都中央区八丁
堀三丁
目遺跡より出土した江戸時代の木棺の形態
と樹種
」『植生
史研究
』第
一―一巻
二号 七五
\八六頁北野信
彦(
二00五)『近世出土漆器の研究』吉川弘文館鈴木伸也・能城修
一(二0
0六)「東京都新宿区崇源寺・正見寺跡から出土した江戸時代の木棺の形態と樹種」『植生史研究』
第 一四巻
二号
六
一\七
二頁
鈴木伸也・能城修
一(二
00八)「東京都中
央区日本橋
の変遷とその背景」『植生 一丁且遺跡出土木材からみた江戸の町屋における土木・建築用材 史研
究』
一六巻
二号
五七\七
二頁
網野善彦・森浩
一(二
00)『この国のすがたを0
歴史
に読む』
大巧社
(改題して(二00五)『この国のすがたと歴史』朝
日新
聞社とし
て再刊
)網野善彦・森浩
一(二0
0八)
『日
本史への挑
戦関
東学の創造をめざして』ちくま
学芸文庫
伊東隆夫・
山田昌久編
(二 0
―二)『木の
考古学』
海青社
四四九頁
八九