柿本人麻呂の短歌「ささの葉は一」の解釈
.長
船
省 .五口
萬葉集巻第二相 聞
ささの葉はみ山もさやにさやげども 我は妹思ふ別れ来ぬれば (133)
(一一)
「さやげども].の「ども」は,ささの葉が∫さやぐという確 定条件から普通に起こると予想される結果とは異なる結果炉 起こることを表わす(註1)。
(註1)ども《助詞〉(接続助詞)(1)用言の巳然形につき,
確定¢)条件を示す。「ども」の承ヴる句が下の句に対して前提条
件と甑、し純⑳三三ら穂さ面ことと反対の三三
句にくる場合に用いる。それ〔まそうだが・ だ!tれども。
(広辞苑1566頁)
全山に満ちるささの葉ずれの音を聞く場合に普通に起こる と予想される結果が起こらない。それでは普通の場合にはど んなことが起こるのだろうか。
先ず,音 色などの知覚され得るものと,それを知覚する 人の心の働きとの関係について考えてみよう。知覚され得る ものとしては,時間的に動く音よりも,静止している色の方 が,その構造を把握しやすいので,色を例にとって知覚さ れ得るもめの与えられ方を考察したい (以下主としてE
:Husserl 4)Erfahrung und Ur七eilによる)。
感覚的所与としての色は,我々の経験においては,紬から 分離されでそれ自身単独に与えられているめではない。経験 においては,色は具体的な物の色,即ち空間のうちの一定の 位置において存在する一つの対象の表面の色等として与えら れている。しかし,われわれは,色をその所属する対象から 切り離して,その色だけに注意することができ66例えば,
今わたしの目の前にある一冊の書物の緑色をそめ書物から切 り離して,その緑色だけに注意することができる。こめ抽象 的に取り出ぎれた色は,一定の広がりを有するが,そめ広が
りのうちの異なる位置においては,ニュアンスを異にして二い る。また同じ位置を占めている色も,そこにあたる光の変化 につれて継起的に三ユアンスの変化を示す。かようにして,
わたしめ意識にそれ自身現れている色,即ち感覚的所与とし
ての色1よ同時的にも継起的にもモユァンスを異にしている が,それにもかかわらず同じ色として意識せられるのは何故 であろうか。
先ず最初に,わたしの意識に同時に与えられているとこ.ろ の,互にニュアンスを異にする色が同じ色として意識せられ
る場合について考えてみよ、う。一定の広がりのうちで異なる 位置を占めている色は,そのニュアンスの相違にもかかわら ず,同質的なもの(例えば同じ緑)が異なる井ユアンスにお いて表現せられているものどして,その同質性によって統一・
ぜられる。この同質性によって統一せられでいる一・領域は他 の領域に対しては異質性の関係に立づ。例えば,茶色の机の 上にある書物の表紙の緑色は,同質的なものの広がりとして.
茶色の背景と対照をなし,異質的な茶色の領域とは区別せら れる単一体として浮き出している。さて,同質的な広がりの うちで異なる位置にある緑色は,茶色の背景とは対照をなし ながら,緑色相互の間では互いに合致して一つのものになっ ている。勿論,合致するといっても,同一の位置に流れこん で互いに相重なるのではなくして,それぞれ異なる位置に散 在しながらも,質的に相等しいものあるいは類似したものと.
して総合せられているのである。さらに,.この緑色の広かり と茶色の背景とは,互いに対照をなして区別せられながらも,
他方では多少とも同質的なものとしてまとまって一つの領域 を作る。即ち,この二種の色は,見られるもの,視覚的所与 であるという点では根原的に同質的であり,この同質性によ りまとまって一つになる。かように視覚的所与としては向質 的な一領域に属する緑と茶色とは,他方,.それと異質的なも の,例えば聞えるもの,聴覚的所与とは対照をなし,.それか ち区崩せられる。わたしの目に見える緑と茶色とは,同質的 なものとして,わたしの茸に聞える虫の音とは区別せちれる。
次に,同じ位置を占める色が,継起的に二:ユアンスを異た しながら,向一の色として総合せられる場合を考察しよう。
今書勅の表紙のある一つの場所を占める明るい緑が,光の変 化によって見る見るやや暗い緑に変わるとする。この場合に は暗い緑が感覚的所与として与えちれている,その同じ蒔点
津山高専紀要(第1巻 第4号)
において,さっきの明るい緑の記憶表象が共在しているので はない。明るい緑と暗い緑とは,以前と嵐後との関係におい て連続する二つの時点をそれぞれ別々に満たす二つの感覚的 所与として,継起的に与えられる。二つの感覚的所与が同時 に現われるのではなくして,それらは異なる時点において継 起的に現われる。.継起的に現われながら,ともに感覚的所与 として与えられる。このように異なる時点において継起的に 現われる二つの感覚的所与が,同一の色の,ニュアンスを異
にする表現として,その同質性に基づいて一つの色として総 合せられる。
さきに述べた総合は,異なる空聞的位置を占めている感覚 的所与の同時的な総合であり,後に述べた総合は,同一の空 間的位置を占めている感覚的所与の継起的な総合であ・る。そ のいずれの場合にも,総合の根拠をなすものは感覚的所与の 伺質性である。
さて,感覚的所与の領域において同質的な単一体として総 合せられているものは,他の異質的なものから際立ち浮き出
して自我を刺激する力あるいは傾向を有する。同質的な単一 体は,自我をそれへ向かって行かせる刺激として一その刺 激に自我が従うと否とにかかわらず一自我に働きかける,
・いわば自我に呼びかける。感性的領域のある一つの感覚的所 与の把握を自我が始める場合には,それは常に,その感覚的 1所与が,他の異質的な所与から際立って浮き出す同質的な単
.一フとして,自我に呼びかけることに基づく。その感覚的所
.与は,その強度あるいは質の点において,多くの刺激するも のの中から浮き出していて,自我に呼びかけ自我に迫る力を 有する。ある物音や色が,程度の差はあれ,感性的領域から 浮き出して自我に迫って来る。その迫力は,その物音や色が 質あるいは強度の点において他の音や色と著しい対照をなし て際立っていることに条件づけられている。例えば,この布 の赤い斑点は白い布地に対して鮮やかに浮き出しており,オ ートバイの爆音は虫の音や松風の音とは強度において遙かに まさっている。
前述の迫力の条件をなす質的なあるいは強度的な非連続 性一質あるいは強度において他の感覚的所与と著しい対照 をなし他の感覚的所与からはっきり自己を切り離すこと一 と,迫力をもって迫って来ることそれ自身とは区別せられな ければならない。ある単一体の迫力の条件をなすものは,他 の単一体のそれに対してより強いあるいはより弱いという程 度の差を有する。それに対して,迫力をもって自我に迫って
=来ることは,自我に比較的近くまで近づきあるいは比較的遠 くに留まるという距離の差を有する。自我に迫って来るもの
は,その迫力の条件をなす程度の相違に対応して,自我によ り近く迫りあるいはより遠くに留まる。
ところで,感覚的所与,例えばある色,音等の刺激に自我 が従う場合には新らしい事態が成立する。自我に迫って来る 志向的対象の刺激は,比較的強いあるいは弱い引力で自我を 対象の方へ引き寄せ,自我はその引く力に従う。かくして自 我が対象の引き寄せる働きに従って対象の方へ引き寄せられ ると,これまで自我から遠く離れて遠景にあった対象が,自 我に近づき自我に相対して立つ。さて,この自我を引き寄せ
る対象は,それがそこから浮き出している一つの領域のうち にあるので,この対象が自我に近づくのに伴い,この対象の 環境をなしている領域全体もまた,自我に対して遠景にある 状態から近景にある状態に変る。今や自我は,この近景のう
ちにおいて際立っている,この特定の対象へ向かって行く。
例えば,虫の音にわたしが耳を傾けると,虫の音がそこから 浮き出している領域,即ち聴覚的な領域全体もはっきりと自 我に意識されて来て,草のそよぐ音も聞えてくる。そうして その草のそよぐ音から際立っている虫の音にわたしは心を集 中する。自我が対象へ向かって行くことは,それ自身で完結 する過程ではなくして,次の過程に移行すべき中間的な過程 である。対象へ自我が向かって行くことは,自我が対象の傍 にあって対象に触れつつ対象を把握することにおいて終局に 達する。ところで,自我が対象の刺激に従うことにより,自 我の新らしい努力の傾向が成立する。即ち,対象の刺激する 力に引かれているという,これまでの受動的な傾向から変っ て,自我はそれ自身の方から対象へ向かって行きその傍にあ って対象を把握しようとするという,能動的な傾向を有する ようになる。従って,これまでに考察した対象と自我との関 係について,われわれは次の三つの傾向を区別しなければな
らない。
(一)自我が知覚され得るものに近づきそれを対象として 定立し,それを能動的に把握しようとする働きを開始するに 先立ち,自我から遠くにある感性的な領域の種々の所与が,
種々の強度をもって自我を刺激するという傾向。この刺激が 強ければ強いほど,自我が対象の把握に専念しようとする傾 向もそれだけ強い。この第一の傾向は,その二つの側面を有
する。
〔a憾覚的所与が自我に迫って来ること。感覚的所与が自我 を引き寄せようとすること。
(b)自我から発するところの,感覚的所与へ向かって行こう とする傾向。自我自身が引かれていること。
(二)遠景にある感覚的所与の刺激が自我を引きつけ,自我
一 214 一
長船省吾 柿本人麻呂の短歌「ささの葉は・一・」の解釈
がそれに引かれているという,前述の傾向を自我が承認する ことにより,自我が対象へ向かって行くこと。換言すれば,感 覚的所与が,遠景にあって自我を刺激している状態から,自 我に近づいて近景の状態に変わり,その感覚的所与のうちの あれこれが現実的にそれ自身に近く自我を引き寄せる。かよ うに感覚的所与が,遠くから自我を刺激する状態から,自我 に近づき自我を引き寄せて自我の近くにある状態に移ること
・により,自我は対象の傍にある状態に移り変る。その結果,
これまで感覚的所与の刺激に引かれていた自我の受動的な傾 洵は,今や自我の方から進んで対象を把握しようとする,能 動的な作用に変る。
自我が対象の引く力に従って引き寄せられることを承認 し,対象の傍にあることにより,自我の有する,対象を知覚 し得る力は,現実に対象を知覚する作用として実現される。
われわれが目覚めているということは,対象を知覚すること
・のできる状態にあるということである。今われわれが対象の 引く力に従い,対象へ向かって行きその傍にあることによ り,この可能態にわいてある知覚作用は,現実に働く作用と して,現実態に移行するのである。対象の刺激に引かれて,
存在者としての対象へ自我が向かって行くことによって開始 せられる知覚作用は,その開始点にわいて既に,自我が対象 それ自身の傍にあるという意識である。知覚作用は,今そこ 1にそれ自身で現実に存在する対象の傍にあって,それを把握 するという意識である。しかし,自我から発するところの,
この一続きの努力は,対象へ向かって行く働きを自我が開始 することによって直ちに完結するのではない。
自我が対象へ向かって行き対象の傍にあるこど即ち,対 象への関心(ln七eresse傍にあること)が呼びさまされるのは 対象の刺激によってであるが,この関心は引き続き維持され
る。自我は引き続き対象自身の傍にあり,存在するものとし ての対象を把握する努力を続ける。時間的に連続する単一体 としての,この自我の努力において,対象の各側面はそれ自 身現実に存在するものとして現れ,現れた後では,もはや現 れているのではないが,「さっき現れていた」ものとして意 識のうちに留まる。他方において,自我の努力は,現実にそ こに現れているものを越えて,さらにその彼方の,まだ現れ ていないが「やがて現れるであろう」ものへ向けられてい る。自我の努力は,現実に現れているものを把握し,さっき 現れていたものを保持する努力であるのみならず,把握作用 の前進に伴って現れるであろうところの対象の新らしい側面 の傍にいてそれを把握しようとする努力でもある。知覚作用 という自我の努カー時間的に連続する単一体一のどの時
点を取ってみても,前述の三つの方向への志向性の働いてい ることが認められる。
他方において,自我を刺激する対象の側からみれば,刺激 するものは,先ず細部の区別なき一・一■全体として,自我の心の 目の視線を自己に引きつける。この一全体は直ちに,それを 構成する諸要素に分化する。その諸要素がそれぞれ個別的に 際立って現れ始める。今その一つの要素が心の目の焦点に現 れていると同時に,その同じ対象に所属する他の諸要素は,
対象を把握する自我の努力がやがてそこへ前進するであろう 諸時点において心の目の焦点に現わるべきものとして意識せ られ,そのようなものとして自我を刺激する。即ち,現実に 与えられているものとともに,次に与えられ得るものの系 列,換言すれば,可能なる諸現象の領域が呼び覚される。例 えば,今一つの箱をその前面から見ているとする。それと同 時に,その見えない背面は,やがて見らるべきものの領域に あるものとして意識せられ,そこに近づいて見るように自我 を刺激する。対象を把握しようとする自我の努力は,今や他 の側面から対象に近づくことに注がれる。かくして,見らる べき諸側面が,現実に見えるものとして次第に現れて来て,
すべての側面が順次に感覚的所与として与えられることによ って,対象の把握を目ざす自我の努力は完結する。
このような一・定の方向を与えられている自我の努力ぽ自 我の多様な行動によって遂行される。この努力は,外部知覚 の対象が我々の意識のうちに自己を表わす表現一対象の像 の表現一を,今現実に現れている像の表現から,次々に現 れる他の諸像の表現一それは同じ対象の異なる側面の表現 であるが一へ導くことを目ざしている。この努力は,前述 の,可能なる諸現象の領域(次に与えられ得るものの系列〉
のうちで働く。この努力は,対象がそのあらゆる側面にわい て与えられるように,換言すれば,同一対象に所属する可能 なる諸現象が現れるように働く。その際 この努力は,すべ ての現象において自己を表現する同一の対象に向けられてい る。例えば,一つの箱を順次に前,後,上,下,右,左の側 から見る場合には,次々に異なる像が現れて来るが,その連 続して現れて来る感覚的所与は,同一の対象である箱に所属 する諸側面の現れである。その連続的に変化する諸現象にお いて自己を表現している同一の対象としての箱へ,対象把握 の努力は向けられている。換言すればこの努力は,特定の現 象において表現せられている対象を,他の現象において表現 せられる同一の対象に変えることを目ざしている。この努力 は,同一の対象が絶えず新らたな仕方で現れること一同一 対象を表現する新らしい像を絶えず生産すること一を目ざ
.津山高専紀要.(第1巻 第4号)
している。さて∫同一対象を表現する一つの像から他の像へ の推移の動機の一つをなしているのは自我の行動である。自 我はその対象に視線を向けながら姿勢を変えその周囲を廻る。
この行動は自我から自発的に発出する活動,即ち主体的活動 の連続である。この自我の活動に動機づけられて対象の新ら 七い像が次々に現れて来る。対象の像の出現は一面において 自我の力に依存している。自我は像の出現の系列を中断する ことができる。例えば,.わたしが瞑目すれば像はもはや出.現 しない。しかし,ひとたびわたしが対象の像の出現を助ける ようにわたしの身体器官を動かすと,一つの新らしい像が対 象の側から現れて来る。わたしはその像をその現れる通りに 受け取る外はない。この点においてはわたしは受動的である。
対象の像の出現は,対象と自我との二つの極から発する努 力の協同にようて成立する。.対象は自我を刺激することによ
り対象の像を自我に与えようとする。.自我は自己を刺激し自 己に呼び.かける対象に向かって自分の身体器官を動かすこと により,対象の像が感覚的所与として出現するのを助ける。
自我は対象の像の出現を助けはす.るが,、しかし像そのものを 創造するのでない。像それ自身は対象の側から・自我に与え.ら れるのである。例えば,白つの箱の,今見えていない背面の 像は,わたしがその背面に目を向けることにより,感覚的所 与として出現する機会を与えられるのであるが,その像をわ たしが創造するのではない。すでに知覚され得る状態にあっ た像が,わたしの目の運動に助けられて,現実に知覚される 像として出現するのである。それ故,対象の現象は,一面に
.おいては,対象が自身を自我の意識のうちに表現する像であ るとい.う意味で対象に関係するとともに,.他面においては,
自我が自分の主体的活動によって自分の意識のう.ちに出現さ せる対象の像であるという意味で自我に関係する.6.箱がわた
しに見えるのであると.同時に,わたしが箱を見るのである。
ところで.,自我が対象を知覚することに専念している場合 には,.自我の意識の前面に現れているのは対象の知覚像で.あ り,その像の出現することに協力している自我の働ぎ(例え ば知覚作用).は,この作用に伴1う根原的な意識によって漠然
「と知られているに過ぎない。この根原的な意識は,.それめ随 伴する心的作用を共に構成する一要素として,その作用に必 然的に伴っているが,しかしその随伴する作用から分離しそ の作用を対象として志向すると.ころの,.独立しk作用ではな い。それ故 この随伴する意識によって..今知覚作用ゐ濁き っっあることは知られて.いるが,その知覚作用の内容の細部 に室るまで明確に知られているのではないe 知覚作用はよく 知られないで匿名的に働い七いる。この知覚作用をそあ主体
である自我がはづきり知るのは,後にな.っでこの作用に反省 の目を向けることによってである。(vgl. E. Stein=Endliches und Ewigles Sein, S. 396)
知覚され得るものが知覚する人の心を刺.激する場合に普通.
.に起こる結果は大体前述の通りである。心は対象の引.く力に 従って対象に向かっ.て行き,対象の傍にあって対象の与える 印象を受け取ることに専念し,その間働き.つつある自己の作 用を.ほとんど意識しないほどである。.このような状態をワみ
.ズワースの水仙の歌によって具体的に説明してみ.よ.う。.
The 1鉱ffodi工s...W. Wordswor七h.
弄脚岬lone1平、開acloud
.,.,
@T4tt.t. iloabs op hieh o er vales f nd hills,
Wh・耳叫・七・n・e.1・aW,& cr・wd・
A host, of golden daffodils;
Besides七he lake,.benea七h七he七rees,
FluSSering and dancing in the breeze.
Con奮ihous as 七he s七ars 七ha七 shine And twinkle on the milky way;
T.hey
唐狽窒?狽モ??п@in pgyer−epqlng line
Along khe margi−n of =@baY;
Ten thousand s aVv i at a glanee,
Tossing七heir heads in sprighもly dance.
The wavesわeside七hem danced;buももhey Outdid the spark1ing waves in glee:
A poet could not bub be gay,
In subh a joeund coMPany:
I gazed一三血d gazed−bUt li七七1e 七h6ughb .
.Whh七寅eai七h七he崩6競tげ ine had.brot{ghも」:.
For oft, when ori my cotich 1 lie in・…n七.61 i・p・n・i・6⑳・d・
T h ey flash tipon that inward eye Which is・the bli ss iof solitude;・
A nd then ・my hea・rt 一with pleasure fills,
And dan ees with the daffodils.
第論スタ・シザではfC工saw,)、第ニスタンザでは。 saw I a七a
gl・賦錦三ズタシザ禰ζc1.・・2融勾う・.・19(卑る
:こと)力竃191a・66(見るこ・ど)..を経て,..9・・e(見づめ.るご と)に移り行く過程たついt考え℃みまう。.
(第_スタンザ).迫遙しそvS 6わたし.に突如としそ永価ゐ
一216;
長船省吾 柿本人麻呂の短歌.「ささの葉は……」の解釈
群が見えた(all a七〇nce I saw……)。わたしが水仙を見よう
.としてそめ方へ視線を向けた結果水仙が見えたのではない。
.わたしは受動的に水仙を与えられたのである(註2)。
(ft 2) See is the result of voluneiry or involuntary looking.
. ・1・To see a七hing is七〇take cognizance of it,・soもhat.who have
their eyes open eannot help seeing. (Smith:Synonym Discrim一
.inated, Pd 160) .
わたし.は思わず立ち止まる。(all a七〇nce.という・ことばは,
わたしが不意.の出会いに驚いて思わず立.ち止まったこ.とを暗 示する e)水仙の群は,同.じ視覚的領域にある他の異質的な
.感覚的所与,即ち,.湖水や木木から浮き出してわたしに迫っ て来る。水仙の群という同質的な一全体が,.他の感覚的所与 と著しい対照をなし,それらから自己を切り離して浮き出 し,わたしの心を引き寄せようとしてわたしに呼びかける。
わたしの心は水仙の群に引かれている。
(第ニスタンザ).わたしは水仙の癖の引く力に応じて,わ 丁たしの方から能動的に水仙の群に目を向ける(sawIaガa
91ance) (註3)
(註3)glan・e・= a b・i・f・r hurri・d 1・・k(0。 E D,)Aglance e xpresses both the sudden shooting of a bright object 6r ray of light before the eyes, and血pid cas七ing of vision itself upon a Objece. (Smith. Synonym Diseriminated, P.160)
.つまりglanceは特殊な100kである。
Iook=to direct one s eye upon some objeet or towards some
portion of spa・ce. (O.一E. D.)
従って,第ニスタンザの{Csaw I a七aglanqe は,見ようと思っ て能動的に対象に目を向けた結果,対象が見えたことを表わす。
わたし.は第でスタンザの受動的なliseg カ}ら,能動的なcelook に変わる。
わたしの心は7..水仙の群の引きよせホ.5とする力に従っ て,自分の方から能動的に水仙の群に向かって行き,その傍 にあらてそれを見ることに集中しようとする。・他方,わたし の心が水仙の群に引き寄せられると,それに対応して,これ まで遠景にあった水仙の群はわだしの心に近づきわたしの心 に面して立づ。従.って,第一スタンザにおいて細部の区別な き一全体(acrowd, a hOS七)としで窺れていた水仙の,より 具体的な形態がはっきりと見えて来る。一群の水伽b一一っ一 つが微風匠頭を振っそ踊るさままでも見えて来る。
・(第三スタンザ)わたしが水仙をみつめることにより,水 仙の群がわたゆ心に近でく卿こ伴?て・水仙曙がそこか ち浮き串レている背景もまた・わたしのノ暖く近づい℃その 細部までが鮮明に現れてくる。即ち,水仙の群の傍で日の光
に照り映えて踊る湖の波もはっきり見えてくる。しかし水仙 の踊りの美しさは波の踊りにまさり,わたしの心をしっかり
.捉えて離さない。わたしは我を忘れていつまでも水仙の群の 踊りをみつめる(lgazed−and gazed一)。(註4)
(註4)gazeニto Iook fixedly, intently, or delibera協y at
solnethingi. (O. E. D..)
.We gaze when.一the attention is rgused and fixed by the eurious,
もh・ipt・・e・㌻i・帥h・b・autif・1…七4・ ・ffecti・g・(Smithl・Syn・nym Discriminated, P.452)
水仙の群に対するわたしの関心が,水仙の群を見つめる働 きを:支配しているので、.この凝視は持続するのである。この 関心の成立の動機は,水仙の群の楽しい踊り炉「詩人」に与 える快楽である(Apoet could not but bθgay, In such a jocund company)。(註5)
(註5)「一体われわれがわれわれの感官から受けとる印象と知 覚との大部分は,生命の保存に必須な諸器官の中では何らの役割 を演じない。……各瞬間においてわれわれを包囲する無数の感覚 的興奮の中で,ただ著しく微弱な,いわば無限に小なるし部努の みが,われわれの純粋に進運的な生存にとって必要である,惑い は利用し得るものであるということは容易に確認される。犬の眼 は天体を見る。だが動物の存在は,この眺めを何ら取り上げるこ となく,直ちにこれを廃棄してしまう。この犬の耳は一つの音響 を知覚し,それが犬を起たせ,不安にする。だが犬の存在はその 音響からただ,直接的な,全く限定された一行動をこれに置換す るに必要なもののみしか,摂取しない。知覚に長く留まることは ない。かくの如く,われわれの感覚の大部分というものは,われ われの本質的機能に奉仕するものとして無用であり,われわれに とって何ものかに役立つ感覚は,純粋に転移的で,最も速かに表 象とか,決心とか,行為とかに交換されてしまうのである。」(ヴ ァレリー「芸術の一般概念」(佐藤正彰訳)6頁)
日常生活において生きるための実用的な仕事に専念する人にと っては,感覚印象の大部分は,生きるための行為にとっては無用 のものであり,それらは無関心に看過される。ところが,この世 界にあるものが,その無用な印象を人間に与えようとして追り来 ttり呼びかけるのに応じて,それに近づきその傍にあって,印象を 享受することにこよなき喜びを感じる人がある。これが詩人であ る。踊る水仙の群の招きに応りた詩人にとっては,水仙の踊りの 刻々の美しさに,心をおどらせながらみとれる楽しさこそ,こよ なき生の充実である二このような富の享受が,水仙への関心の成 立する動機である。こO関心に支配されて,.水仙に向けられた視 線は対象に密着して持続する,それが見つめるこ≧(gaze)であ
る。この朱われること尽き富は,それを心のうちでくりかえして 享受することができる。第四のス、タンザは,こ②ような詩人の至 福をうたう。
津山高専紀要(第1巻第4号)
以上の考察の後で人麻呂の歌に立ち雑えろう。
全山に満ちる笹の葉ずれの音は,山路を行く詩人の心に迫 りそれを引き寄せようとする。普通の場合ならば,彼の心は その引く力に従って)ささの葉の音の方へ向かって行き,そ の傍にあって葉ずれの音が感覚的所与として判然と現れるこ とに協力し,今自分が聞いていることさえほとんど気づかな いはずである。そうしてその場合には,彼の心を引き寄せて 自分の像を与える笹の葉ずれの音が,彼の意識の前面に現れ て,それに向かって行った彼の心の作用は匿名的に働いて笹 の葉ずれの音の像の背後に潜んでいる。従って,例えば,
「十一月の日かげさむけき午后の風さやさやあひつぐ笹の 葉の鳴り」 (木下利玄)
といった歌が生まれるだろう。
しかるに,山路を行く人麻呂の耳にささの葉ずれの音は聞 えるけれども,彼の心はそれを聞くことを主題として,みず から進んでその方へ向かって行こうとはしない。笹の葉音の 引き寄せようとする力に抵抗し,それを振り切って別の方へ
む む
向かって行く。(「ささの葉は……我は……」の二つの助詞
「は」は,笹の葉の引く力に彼め心が抵抗しそれに対立して いることを示す。)今彼の求めているのは自然の与える富の 享受ではない。全山に満ちる笹の葉ずれの音の引く力にまさ
って彼の心を引きつけるのは別れた妻である。
(二)
妻との別離は長歌の主題である。長歌は妻の住む角の里の 回想から始まる。美しい浦も潟も無い海辺に吹き寄せられて 波のまにまに揺れる海藻のイメジから「より歯し妹」のイメ ジが輝き出して来る。それは,この荒凍たる角の里の生活を 明るくした幸福の源泉である。抱擁の幾夜が知らず知らずの うちに織りなした絆によって結ばれた妻との別離を公用に強 いられて,人麻呂は上京の途につくd(註1)
む
(註1)「置てし来れば」の助詞「し」は,愛情の絆の引く力に 抵抗して出発するにはいかに強い意志を要したかを示す。「寄り 寝し妹を」の助動詞「し」は,この出発によって,妻を抱擁する 幸福は過去となり時間的に遠く隔たってしま6たことを表わす。
この長歌では,人麻呂の妻への愛情の中核は性愛である。とこ ろでPhilip Lerschによれば,愛は一般的にいって個人として存 在することの限界を踏み越えることであるが,性愛においては,
それは,生がその本来の自己自身に担えること,即ち,生が個別 的な存在を創造する際に放棄したところの,生本来の直接性と無 差別性に還帰することである。性愛において個別的存在を突き抜 けてその限界を破壊するものは,人間や動物の子を産む働きにお いて発現する生の創造力である。性愛は,個人に先立つ無名の生
の根原に浸ることにタって満たされ・それによって個人性の限界 は消滅する。性愛は生の衝動の発現である。性愛に欠けているも ρは「汝」5の方向である。性愛の目標は,かけがえのない個人 としての「汝」という他者ではなくして,我も汝も存在しないと ころの,個入の存在に先立つ無名の生の大きな流れに浸ることで ある。 (Philip Lersch, Aufbau der Person, S,148)
性愛においては我は汝を所有すると同時に汝によって所有され ようとして抱擁することにより、・我も汝も溶けてしまい,その気 息は緩急を同じくし,心臓は律動をともにしながら,爽快な生の 流れにおし流されて行く。従って汝に対立する我を意識し,われ ひとりの思いに耽ける余地はない。「我思う」は成立しない。愛 する汝との別離が初めて「我思う」を成立させる。その経過をう たうことがこの長歌の主題である。
足は都へ向かうけれども,目は後に向く。門辺で見送る妻 の表情は次第に見わけがたくなり,全身の輪郭だけになり,
点になる。ついに山は二人を隔ててしまう。肉眼に見えなく なった妻は,彼の心の目におもかげとなって現れる一さっ きまで見えた門辺で別れを惜しむ姿勢に続く,おもかげの夫 をあまりみつめてうつけたような現在の表情において。(「思 む
ひしなえて偲ふらむ」の助動詞「らむ」は,妻のおもかげが 今戸の心に現れていることを表わす。それと同時にこの句 は,今妻もまた彼を偲ぶこと,即ち彼のおもかげも彼女の心 に抱かれていると彼の信じていることを表わす。)別離が抱 擁相見を妨げることによって初めて,「思うこと」が成立
したのである。(註2)
ただ
(註2)「み熊野の浦の濱木綿百重なす心は思へど直に逢はぬか も」(柿本人麻呂,巻四,496)によれば,「直に逢ふ」ことと 「心に思ふ」こととが区別されている。「直に逢ふ」とは恋しい 人とあい見ること,恋しい入を抱擁することであろう。抱擁は,
触覚を通じて空間的距離無く直接に相手に接することであり,あ い見るとは,視覚を通じて空間的距離を置いて直接に相手に出会 うことである。私が汝を見る場合に,私は汝の体を残る隈なく見 通すことはできない。例えば,顔と胸とは見えるが,それらに蔽 い隠された背面は見えない。その都度見える部分は汝の体のいく つかの相であるが,しかしその相を越えて全体としての汝の体が 現実に存在することを私は知っている。汝の表情は私の見通して しまうことのできない汝の内面的なものを示す。汝はこの体と心 とが一つになったものとして,それ自体においてと同時に私に対 して現実に存在する。即ち,汝は私に対してその都度現われる汝 の相を通して「それ自体において」現実に存在している。私に見 える汝の相は,私の心のうちにだけある主観的な表象ではなくし て,汝自身に属しており,その相を通して,現実に存在する汝自 身が直接に私に出会うのである。(宜.Plessner・Die.Stufen des
一218 一
長船省吾 柿本人麻呂の短歌「ささの葉は……」の解釈
Organischen und der Mensch, S.83。箪. Merleau一?onty;The
Struc七ure of ]3ehavior, P.185)
要するに,抱擁,相見は,いずれも身体器官の媒介によってし かも直接に相手を所有し相手に所有されることである。愛する二 人が直接に出会うことである。この抱擁相見が「直に逢ふ」こと の領域である。愛する人がこの領域の外に出ると,「心に思ふ」
ことが始まる。汝のおもかげは私の心のうちにだけある。おもか げの相は,現実にそれ自体において存在する汝に直接属するので はなく,従って私の心に浮かぶ汝のおもかげの相において汝自身 が直接に私に出会うのではない。私はおもかげを通して,今ここ にそれ自身において現実に存在するのではない汝を志向するので ある。汝を思うことは汝の不在を知ることである。
ここでこの長歌全体の時心的構造について考えてみよう。「患 ひしなえて偲ふらむ妹が門鑑むなびけこの山」を現在とすると,
「いや遠に里は放りぬ,いや高に山も越え来ぬ」は,この現在に 先立って完了した動作を表わし,「依り暫し妹を」は,さらにそ の完了の時点から遡った過去を表わす。さて,「放りぬ」「越え来 ぬ」の助動詞「ぬ」を,助動詞「つ」と比較すると,「つ」が意 志的動作の完了を表わす場合があるのに対して,「ぬ」は無意志 的な動作の完了したことを表わし,場合によっては,あることが 意志に反して行われてしまったことを表わす(この点について は,拙稿「助動詞「つ」と「ぬ」,国語国文28巻12号を参照され たい。)ここでは,妻の住む里から遠ざかり山を越えて来て,「直 に逢ふ」領域の外に出ししまったことは,公用のために彼の意志 に反して実現してしまったことを表わしている。
心ならずも妻と別れて,「直に逢ふ」領域の中心点(抱擁)か ら遠ざかり,相見の範囲を通り過ぎ,最後に山に隔てられて「直 に逢ふ」領域の外に遠く投げ出されてしまって,「心に思ふ」こ り む
とが始まる(夏草の思いしなえて偲ふらむ妹が門見む……)。愛 ただ
惰は「直:に逢ふ」ことによって充実する。この領域の外に出て,
心に現れるおもかげを通して相手を偲ぶ場合には,愛する汝の不 在が痛感せられ,再び「直に逢ふ」領.域に,少くとも「直に見 る」圏内に,立ち窺えり,失われた愛情の充実感をとりもどした いという願いが沸き立つ。「妹が門畏むなびけこの山」の句は,
この願いの表現である。
要するに,思いしなえて偲ぶ妻のおもかげが心に現れている現 在の時点に立って見れば,この現在は,彼が自分の意志に反して
「直に逢ふ」領域の外に投げ出された過去を含んでおり,この過 去の結果として,愛する人を,抱擁相見により直接に所有するか わりに,おもかげを通して間接に所有する現在,即ち「我思う」
現在が成立したのである。しかるに,闇接的所有は,直接的所有 の場合の愛の充実感の欠如を痛感させるので,「我思う」現在は,
その充実感を回復しようとする願い(将来)をも含んでいる。
別離により「直に逢ふ」領域の外に出て「心に思ふ」こと が成立し,その慕情が「直に逢ふ」領域に復帰したいという 願いにおいてクライマックスに達する一その長い過程を長 歌は表現している。それに対して,「笹の葉」の反歌は,そ の長い過程のうちで慕情の最も鮮明に現れている一刻の横断 面を表現しようとする。そのために山越えの一場面が選び出 される。長歌においては「直に逢ふ」領域から外に出て来た 過去の過程の表現に多くの詩句が費されているが,短歌で は,それは「別れ来ぬれば」という一句に圧縮せられる。こ の簡潔な一句により,「我は妹思ふ」現在の成立する条件と なった過去が表現される。「直に逢ふ」領域から出て「心に 思ふ」領域に入っている現在の一刻において,全山に満ちる 笹の葉ずれの音と心に現れる妻のおもかげとが,彼の心を自 分の方へ引き寄せようと争う。知覚的印象としての笹の葉ず れの音はその鮮明さに基づく迫力においては,回想表象とし ての妻のおもかげに遙かにまさる。しかるに,強い迫力をも って迫り来る知覚的印象にうち勝って,おもかげが自分の方 へ彼の心を引きつけてしまう。それはおもかげの妻に結ばれ ている愛情の絆の強さに基づく。「ささの葉はみ山もさやに さやげども」という上の句の表現する,あいつぐ葉ずれの音 の,その環境から浮き出して山路を行く詩人の心に近く迫り 来り,それを引き寄せようとする力が強烈であればあるほど
(上の句の音律の表現効果については(三)を参照された し。),その引く力にうち勝って男の心を引き寄せ自己に集中 させてしまったおもかげの愛の絆の強靱さが,力学的に表現 されるのである。
さて,妻のおもかげに引き寄せられてそれに集中した男の 心の前面には,幸福な日々の回想表象が現れて,笹の葉ずれ の音を背景に押しやる。しかし,おもかげを通して,遠く山 のかなたに離れてしまった妻を志向すると,「直に逢った」
日々の肌の暖かさの失われてしまったことが笹山をひとり歩 む身にしみて感じられる。そこから投げ出された領域に復帰 し,喪失した幸福を取りかえしたいという願いが沸き立つ。
この願いを中心核として千々に乱れる思いが「我は物思ふ」
である。
(三)
この短歌の音律の表現効果について,斎藤茂吉は次のよう
に言つ。
「第三句ミダレドモは古弊ミダルトモであったのを守防は ミダレドモと訓んだ。それを賀茂真淵はサワゲドモと訓み,
橘守部はサヤゲドモと訓み,近時この訓は有力となったし,
む む コ む くシ くう
「ササの葉はみ山もサヤにサヤげども」とサ音で調子を取っ
津山高専紀要(第1巻 第4号)
oo ◎9てるるのだと解釈してみるが,これは寧ろ,『ササの葉はミヤ
◎ o o ◎◎◎
マもサヤにミダレども』のやうにサ音とミ音と両方で調子を 取ってみるのだと解釈する方が精しいのである。サヤゲドモ
ではサの音が多過ぎて軽くなり過ぎる。」(斎藤茂吉「萬葉秀 歌」上巻91頁)
私の解釈によれば,この短歌の上の句は,他の感覚的印象 のなかから次第にはっきり浮き出して山路を行く人の心に迫
り来り,それを自己に引き寄せようとする笹の葉音の迫力を
む む む む くシ む
表現しているのである。「ササの葉はみ山もサヤにサヤげど も」において,間を置いて現れる「ササ,サヤ,サヤ」は,
あいつぐ笹の葉ずれの音が次第に浮き出して鮮明になって来 るさまに対応している。次にこの上の句は,,
ササノ(3) ハハ(2)
ミヤマモ(4) サヤニ(3)
サヤゲ(3) ドモ(2)
と読めば,長短格となる。長短格は短長格に比して,速度の 早さ,運動の軽快さを感じさせる。従って,これはあいつぐ 笹の葉ずれの音が人の心に近く迫って来る速度を表現してい る。それゆえ,「サヤげども」.と読む方がささの葉音の迫力
を表現する上の句にふさわしい調律であるということができ る。「ミヤマも……ミダレども」という異種の調律が混入す ると,上の句の有する前述の迫力は失われてしまう。斎藤氏 の,サ音とミ音とによる調律説は,それがいかなる表現効果 のための調律であるかを明らかにしない限り無意味である。
下の句は,
ワレハ(3) イモモフ(4)またはイモオモフ(5)
ワカレ(3) キヌレバ(4)
と読めば,短長格となる。ゆるやかな重々しい調子で,運動 の緩慢さが感じられる。妻のおもかげに集中した思いは,お もかげのまわりを巡り巡って少しも進展しない。何故なら ば,前述したように,思うことの中心核は,「直に逢ふ」領 域から投げ出されることにより喪失した幸福を,取りかえし たいという願いであるが,それは,「直に逢ふ」領域から刻 刻遠ざかりつつある現在においては満たされることのないも のだから。堂々巡りして進展しない物思いにつれて,由路を 歩む足どりもおのずから重くはかどらない。この重々しい足
どりに下の句の調律はふさわしいのである。
(昭和41年4月23日)
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