初期カントの自然神学について
戸 田 賢
(昭和46年9月30日受理)
Von der natttrlichen Theologie Kants in seinem Jugendalter.
Masaru ToDA
(am 30. September 1971 angenommen)
Diese Abhandlung ist, in eiriem Sinn, eine Untersuchung von Der einzig m6gliche Beweisgrund zu einer Demonstration des Daseins Gottes , der ,unserer Meinung nach, der Endbahnhof der naturlichen Theologie Kants war. Hier teilte $ie sich in einige Zweigbahnen ab, und mit anderen Worten wicke!te sich Kant aus dem wolffschen Einfluss heraus. Aber von seinem Erstlingswerk bis zu diesem Werk versuchte Kant es nur nicht, durch Newton und Crusius das Wolffsche System der naturlichen Theologie zu verbessern, sondern kraft dieser Verbesserung des Wolffschen Syste皿s die natUrlichen Theologie Newtons zu verbessern. Wahrend der sogenannten ersten schweigenden Periode prufte Kant die Schwierigkeit des Verbindiens dieser beiden Verbesserungen, die sich in ccNova Dilucidatio zeigte. Wir finden in dem Beweis in CNova Dilucidatio (1755)
die folgende Worten; Das Pradikat des Dasein$ wird ohne diesen (identischen Grund) nicht sein. und in
tt
cer einzig m6gliche Beweisgrund (1 763) die fo]gende Worten; t Das Dasein ist gar kein Pradikat. Also schwerer zu denken wird der Grund der Wahrheit in der auseinandergehenden naturlichen Theologie.
1
カント哲学の方法の形成という観点にとっては,初期カ ントにおける神の問題の取扱い方がもつ意義の重要さをい くら強調しても強調し過ぎることはないということについ ては,ここで再び多言を弄する必要はない。しかし神の問 題に関するこの期のカントの取扱い方を検討してみて解る ことは,検討の第一歩から,「自然」や「存在」の問題の取 扱い方からそれを切り離しては論じられないということで ある。少なくともカントの哲学においては,神の問題は最:
初から,自然神学の問題ないし存在論の問題として提示さ れている。しかしこのような形そのものは,当時のヴォル フ,バウムガルテンなどの形而上学の流儀であり,カント に限ったものではないとすれば,特にカント哲学にとって 神の問題が重要な意義をもつのは,こうした哲学の形もさ ることながら,その哲学が始まる時には決まっていたカン
ト独自の神のとらえ:方によると言わねばならない。
このことは逆に,「自然」に関するカントの考え方を辿
ってみても確認できる。とは言え,カントが自然の説明に 際して,神の概念に結局ものを言わせるとか,「根拠」の 究明もしないで,怪しげな真理根拠に「道徳的根拠」を忍 び込ませるとかいうことではもちろんなく,むしろその反 対であった。それがいかに当時の入々の敬神と心の満足に
反することであろうと,ともかく「自然認識」の中から「神の直接の手」を排除することに,むしろカントの努力 は集中していると言ってよい。しかしそのためにこそ,却 ってカントにおいて,自然認識の問題と神の問題が深く関 わり合っていなければならず,その関わり合いは独特な形 を帯び,かつ神は真に偉大でなければならない。
ところで自然認識の中から「神の直接の手」を一切排除 するということは,力学的自然観の徹底に他ならないが,
より正確には,かかる認識の対象の「存在」の問題を無視 したそのような徹底には,特に「根拠」の観点から当然聞 誤がある。従ってヵシトにおける力学的自然観の徹底は,
或る意味で,ニュートン的自然科学の拡張であるが,同時 にそれは,自然物の存在根拠の問題をめぐって展開する,
一 233 一
津山高専紀要 第3巻 第2号(1971)
ニュートン的自然神学の修正でもある。 「唯一可能な証明 根拠」の中でカントは,ニュートンについてこう言ってい る,「ここでは〔宇宙発生の問題〕力学的発生(ein me−
chanischer UrsPrun9)が不可能だと,彼が判断するよう なことがなかったとしたら,彼は真弓神の配備の中へ逃げ 込むことはしていなかったであろう」。
(i)
カントは同じ著作の中で,「神の現存を神の働きから認 識する仕方」としての「自然神学一般」に三種類を区別し ている。第一は「奇蹟」すなわち「自然の秩序を中断させ るもの」によるものであり,第二は「自然の偶然的秩序」
によるものであり,第三は「自然の中に認められる必然的 統一と,.完全性の偉大な規則に回った物の本質的秩序,つ まり自然の規則性における必然的なもの」によるものとさ (2)
れている。「自然に関する考察から神の認識に上昇する」
(3)
道はこのうちの後二つであるが,第二の道は,自然物をま だいろいろ他のようでもありえたのに,たまたまこのよう であるものと見,その根拠として「偉大な技巧と力と善」
とを求めるから,かかる技巧の主として「偉大な知恵と力 を備えた一つの意志」に達する。これに対して,第三のあ の「必然性」からの道が達する神とは,「この現存の最高 原理であるのみならず,あらゆる可能性そのものの最高原 理」とされる。
(4)
二・ユートンにこれをあてるならば,力学的説明の確信の 持てる限り,この第一,第二の道を脱しようと努め,遂に その確信の持てぬ領域においては,第二の道を歩んでいる と言える。ニュートン自身はこう言っている,「こうした 天体〔惑星や彗星〕は事実,単なる引力の諸法則によって その軌道上に存続している。しかしそれらの天体は,軌道 の規則正しい位置を,そうした引力の法則から,最初に,
自分で引き出してきたのでは決してない」。かくして彼は (5)
規則正しい運動の「単なる力学的原因」を斥け,かかる天 体の「最美の体系は全知全能の存在の計画と主だけから生
じえた」と言う。
(6)
ところで自らは第三の道を選ぶカントは,このようなニ ュー一一トンの自然神学を枇判ずるのであるが,他方またライ プニッツ・ヴォルフの自然神学と認識論にも対処しなけれ ばならない」。唯一可能な証明根拠」では,特に「第三種の 証明根拠の吟味」という一節の中で,ヴォルフ学派の自然 (7)
神学が簡潔に批判されている。いまそれを検討する前に,
種々の神の存在証明に対してなされるカントの分類を見て みる必要がある。それによると,第一種の証明とは「純粋 に可能的なものの悟性概念から」のものであり,第二種の 証明とは「実存するものの経験概念から」のものとされ,
更に第一種の証明は,(1)「根拠としての可能的なものか ら,帰結としての神の現存へ」のものと,(2) 「帰結とし ての可能的なものから,根拠としての神の実存へ」のもの
とに区別され,また第二種の証明は,(1)「その現存が経 験されるところのものから,独立の第一原因を推論するの であるが,かかる原因の神的諸性質への推論は,こうした 第一原因の概念分析による」ものと,(2) 「経験が教える ものから直接に,神の現存とその諸性質が導かれる」もの とに区別されている。
(8)
この区別を,先の自然神学の区分と結びつけるならば,
あそこの第二種の自然神学は,ことの第二種の証明法の(2)
に当る。従ってニュートンの自然神学もここに入る。「事 物の諸現象から神について述べること」は,「比喩」によ らざるをえないとして,静かな道徳的感情をたたえた様々
な叙述を加えながら,「それはたしかに自然神学に属する」と,二=、・ 一トン自身言っている。カントもこの第二種 (9)
の自然神学的証明の(2)は,その(1)とは「全く事情を異に してい」て,「道徳心」に直接訴える「充分な説得力」を もっているものとして,反面「幾何学的厳密性」が欠如し ていることを認めながらなおかつ,これに終生変わらぬ高 い評価を保持し続けている。
これに対して,第二種の(1)の自然神学的証明は,いま の(2)の自然神学的証明から区別するためにも,狭義によ って特に「宇宙論的証明」とよぶとすると,この宇宙論的証 明は,先の三種の自然神学のいずれにもあてはまらない。
というのは,宇宙論的証明は,つきつめればデポステリオリ なものと,アプリオリなものの両方を証明の出発点として 取るもので,アポステリオリな出発点をもつ限り,自然神 学的証明と類似しているが,アプリオ1」な出発点が結局証 明の決め手になる限り,方法論的に見てこれは,ee一一種の 証明(1)のアンセルムス・デカルトの存在論的証明と同種 のものとなってしまうからである。しかし,第一種の存在 論的証明(1)を逆転した証明(2)が,結局理論的厳密さを 認めうる唯一可能な証明根拠を含むものであるとすると,
先の第三種に区分された自然神学は,この第一種の存在論 的証明(2)に依存するか,或いはそれと別のものではない ことになる。この両者がもし一つになるとすると,そうし た形からしても,これはかの宇宙論的証明の逆転に他なら ないからである。
そこでこのヴォルフ学派の宇宙論的証明を,カント自身 の批判と,ヘンリッヒの吟味を手掛りに検討することにす
る。
ヴォルフによる「神の実存と属性の証明」は主としてこ つの方途で行なわれる。すなわち「世界の偶然性から必然 的存在者の現存を推論」するところの「宇宙論」に結びつ いて,かかる存在者が神であることを示し,かつその全本
質規定を「必然的存在者という概念から」引き出している,アポステリオリな道と,「存在論」の哲学的根本原理
に直接基づいて,「最も完全な存在者という概念から」神
一234一の現存を証明しようとする,アプリオリな道である。とこ (10)
ろで「必然的存在者ens necessarium」と最も完全な存在
者ens Perfectissimum」の二つは,存在論的証明の前提概念とされているものである。いま前者を前提とする証明 を「第一の存在論的証明」,後者を前提とするものを「第 二の存在論的証明」とすると,偶然的なものからの「宇宙 論的証明」の中にも,実は必然的存在者の「概念」からす る第一の存在論的証明が含まれている。しかし一方,かか る必然的存在者の「実在性」が証明されねばならないとい (11)
う観点からすると,上述のような性格の「宇宙論的証明の 助けを借りて,第二の存在論的証明が基礎づけられ」ねば (12)
ならないことになる。これが大凡ヴォルフの「宇憲論的証 明と,二つの存在論的証明の間の体系的連関」であった。
(13)
しかしバウムガルテンは,ヴォルフのこの連関を逆転し
て,「宇宙論的必然性の概念を第一の存在論的証明のうち に封じ込め」ようとしたのである。バウムガルテンの証明 (14)
は先ず,(1)「宇宙論」から出発する。そこで示されるこ とは,「現実の有限的存在者の全体としての世界は,その 現存の世界外の根拠すなわち必然的存在者を前提とする」
(15)
ということである。カントは「第二種の証明根拠の吟味」
の中で,「断るものが現存すれば,他のいかなる物にも依 存しない纏るものもまた実存する」という命題までは規則 正しく推論されていることを認めている。しかし「この独 C16)
立な物が絶対必然的に存在する」という命題への移行に
は,その根拠である「充足根拠律」の弱点を示唆して反対 する。このカントの批判に触れるのは,言うまでもなくヴ
(i7)
オルフの第一の存在論的証明の混入である。その点バウム ガルテンは慎重で, 「その反対が自己自身において不可能 なものは,それ自身において必然的である」というような 原理の適用の範囲を超えることはしない。
(18)
(2)次に「神は最も完全な存在者である」と言われる場 合の「完全性」であるが,これはヴォルフにあってもそう であったように,或る存在者の「個別的な積極的規定とし ての実在性」ではなく,「一つの共通な根拠のもとでの種
々な実在性の調和consensusjであるとすると,「最も完全な存在者」とは「最大数の無制限な実在性が,そこにお いては統合されているような存在者」ということになる。
ところが「実存」とても「一つの実在性」であるから,
「最も完全な存在者は実存する」。
(19)
(3)ヴオルフの宇宙論的証明は,この(1)に,そして第 二の存在論的証明はこの(2)に相当するのは言うまでもな いが,(1)(2)両者における「必然的存在者」と「最も完全 な存在者」とは同じものでなければならず,しかも問題は
その「実存」ということであったとすると,次の毅階は「神の現存の必然性」を示すことである。ところで先に挙 げた「その反対が自己自身において不可能であるようなも
のは,それ自身において必然的である」という原理によっ て,「宇宙論」において真に「根拠」のある存在論的規定を得 るには,ほんとうは「必然性」はもちろん「不可能性」も 「反対」も皆,単に「論理的」ではない概念規定を先ず獲
得する必要がある。それまでは,この原理を使ってのいか なる存在論的規定も不充分で,バウムガルテンの「必然的 なものは,そこではその実存の反対がそれ自身において不 可能であるような存在者である」という存在論的規定にし
ても,同様である。それでも少なくともバウムガルテンは,上の論理的な原理を,(1)の宇宙論的証明に忍び込ま せて, 「絶対必然的実存」の概念を得ておいて,そこへ
(2)の第二の存在論的証明を繋ぐことによって, 「完全 性」と「実在性」を含むものの「絶対必然的実存」を推論 するということはやっていない。二様に解される「絶対的 必然性」がただ「論理的必然性」としてしか解されずに,
反対が矛盾なることを楯に,「完全性ないし実在性を含む もの」の「絶対的現存」を推論するのは,「ものの現存を 述語の同一或いは矛盾の中で発見できる」と考える点で,
結局「デカルト的証明」と同じであると,カントが声高
に非難するのもまさにこの点なのである。バウムガルテン (20)
はこの誤りを避けて,「必然的実存という概念の意味を,
存在論的な議論そのものによって規定しようとする」。バ (2])
ウムガルテンによれば,「万物の実在を嘉し経う存在者で ある神は,もしそれに実存も属していないとすると,彼自 身でなくなってしまう」。従って「神的実存の反対はそれ 自身において不可能」と言いうるから,これを「必然性の
標識」として,「神は必然的実存を有する」と証明され(22)
る。
ところで(1)の必然的存在者と,(2)の最も完全な必然的 存在者とが一つであるか,すなわち「あらゆる完全性の根 拠としての神はまた,創造神でもあil ,世界の根拠である か」という問題が残ってくる。しかしこの問題は,ヘンリ ッヒも指摘するように, 「必然性についてのこうした存在 神学的な概念を,宇宙論的なそれと同一視」してよいかど
うかという問題であり,「第一の存在論的証明を誤った推 論だと考える人は,必然的存在の語るものに本来なお何が 思惟されるべきか自問しなければならない」わけであるσ (23)
こうした必然性の単に論理的でない概念規定の問題,これ こそ先のカントの分類における第一種の証明(2)の問題で あった。
2
我々は第一種の証明(2)の問題は後に論ずることにし
て,先に残してきた第三種の自然神学の方から問題に入る
ことにする。カントがその自然神学の宇宙論的(すなわち 自然哲学的)部分において,ニュートンの力学的自然観の
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徹底を図っており,そのことがまた同時にニュートン自然 科学の裏面をなすニュートン自然神学の修正ともなってい ることについては先に触れたところであるが,そのことが 実際に遂行されるのは,「天界自然史」においてである。
ところでカントの自然神学の形成において,一方ヴォルフ の自然神学の果たす役割については,先に大凡見ておいた ことであるが,その宇宙論的部分がこうしてニュートンの 自然観によって修正され,かくして,ライプニッツ・ヴォ ルフの自然神学は徹底的な批判を受けるに至る。しかしヴ ォルフの自然神学の批判の焦点は,また宇宙論とデカルト 流の存在論の接点にあったとすると,この面の批判の源泉 は他に求めなければならない。
しかし「ヴォルフに対するピェティストの敵対者達はま た,物理的影響説を主張した」とヴントも言っているよう (24)
に,ニュートン主義とピェティズムは協力してヴォルフを 攻撃している時代であった。ニュートンの自然神学に漂っ ていた理る道徳的,宗教的な感情と共通した感情をカント が抱いていなかったとは言えない。カント個人の幼時の母 親からの,或いはフリードリッヒ学院のピェティズムから の屈折した影響は有名であるが,例えばウェルナー,シュ
ルツのいわゆる「被造物感情KreaturgefUhl」は,初期の(25)
「天界自然史」,「新論」にすでに露わであり,それが有 限者の意識と無関係でないとすれば,処女作にも覗えない
ことはない。シュマーレンバッハが指摘する,前批判期カ ントの「本質的に汎神論的感情」,「宇宙の無限性への陶 酔的な献身」に対して,シュルツは特に「天界自然史」な (26)
ど初期における,「創造神と被造物人間との旧約的な対 立」の宗教的感情を指摘している。こうした「被造物感
(27)
情」の描く神が,超越的創造神であるとすれば,初期カン トの行なっていることは徹底的に考える限り,すでに自己 矛盾を含んでいるとも言えるのである。神学的な問題に関 するカントの批判の源泉がかかる感情であったことは否め ない。
さてカントの自然哲学の形成にとって,ライプニッツ・
ヴォルフとデカルトと二=一トンは,すでに原理的にも三 つ巴の重要な役割を果たすべきなのであるが,カントが学
界に登場する時期のヨーnッパ思想界全体が,まさにこの三巨人のなす学派の三つ巴の論争の渦の中にあったのであ
る。こうした論争を,主に自然神学的な問題を中心に紹介
している.
買戟[ショゥァーも,こうした論争が異常に複雑で後づけが困難な理由の一つとして,「論点を他の神学的 な問題や,形而上学的な問題から切り離すことがむずかし い」という事情を挙げている。それにも拘らず,カントが
(28)
その「調停法」によって,こうして数学,自然科学,形而 上学,神学などの領域にまたがる三つ巴の論争に,独特の 調停策を見出して行く過程において,我々はカントの自然
神学の最初の形成を見ることができる。しかし処女作「活 力考」における問題は,ともかく表面上は間違いなく,ラ イプニッツ・ヴォルフとニュートンとのではなくて,デカ ルトとの調停となっている。
ところで先のヴレーショゥァーも,三つ巴の論争を紹介 した後,結局すべての論争の源として,ニュートンの「プ リンチピア」とライプニッツ・ヴォルフの形而上学の対立 を挙げるに至っているように,思想界としてもカントとし (29)
ても,結局この二者の対立がより重大な問題であった。カ ッシラーが「活力考」をライプニッツとニュートンの調停
という流れの中で見ようと努めるのもそれ故である。MV を測定法とするデカルト派の死力説と,MV2を測定法とするライプニッツ派の活力説とに対してカントが行なった調 停は,「あらゆる根本概念の一義的定義,あらゆる関係の 厳密な可測性を要求する」ところの現代力学からすればも (so)
ちうん,当時のオイラーやダランベールの調停法に比べて も,「純粋自然科学の観点よりすれば疑いもなく不充分で ある」と言うカッシラーは,この著作の「内容」よりはむ しろ「基調」を強調する。両種の力の区別は「物理学的と いうよりはるかに形而上学である」とされ,この著作の随 所に支配的な努力は,「特殊的なもの,現実的なものの単 なる記述から,思惟の最普遍的な諸可能性の直観に高まろ うとする」ものであるとされる。従って「物質や運動を単 (31)
なる延長の変容」としか考えない,デカルトの幾何学的理 解との対立はそこで捨てられ,もう一方の敵「ニュートン 力学」との対立が重視されるのは当然である。カッシラー にとってニュートン力学とは,「カー般の本質に関するあ らゆる決定を却け,現象の記述と説明とに経験科学の唯一 の課題を認める」ところのものである。結局カッシラーは (32)
「活力考」の背景のニュートンを,大きく引き出して解釈 しようとしているわけであるが,例えばカントが,自分が 反論しているのは,「事柄そのものではなくて,認識方法
modus cognoscendi」なのだと言う際,カントが描いて
(33)
いる真の認識方法を,ニュートンの「記述」の方法と結び つけることに性急であっては,「活力考」の意味が充分評 価されたことにならない。
これに対して,ヴレーショウァーは,同じく方法を重視 し,「デカルト学派と同様,方法の優越を強調する」とこ ろのニュートツ学派の方法を大きく評価するが,しかしそ の方法に「記述より以上のもの」を認め,、次のように言 (34)
う。「原因による説明は,デカルトの過大な数学主義を拒
みながら,一方事象の数学的概念の中に真理の要素を保存
するものである」。こうしてデカルトの静的な機械論とニ
ュートンの力学的な機械論の区別をつけた上で,彼はライ
ブ=ッツの活力説の方法と,デカルトの数学主義の方法と
のカントの調停に目を移す。そしてカントの目的は,「こ
一236一うした二人の思想家の真の認識方法を求める」ことにあ
り,それを通じて,「細心の区別がなされる科学の領域か ら出発するによりふさわしい方法」を発見することにあっ (35)
たと言う。
彼によると,当時「君臨していた形而上学」に対してカ ントは,それは「大哲学であろうという願いから,同時に 根本的であることを蔑ろにする」という不満を抱いていた (36) 一
ということは,確かにかかる新しい方法へのカントの傾き を示すものであろう。「人間の認識を拡大することを求め る入々の支配的傾向に,一番この責任がある。彼らは好ん で大哲学を立てようとするのだが,しかし徹底的哲学でも あるということこそ望まるべきことである」と確かにカン トは言っている。ヴレーショウァーの言う「君臨する形而 上学」とは,ヴォルフのそれであり,新しい方法への傾向 C37)
とは,ニュートン力学のそれであることは言うまでもな
い。
我々は彼らよりもう少し立ち入ってこの処女作を検討し てみる必要がある。この著作の中でカントは,ニュートン に四度言及している。最初は,冒頭の一節の中で,ここで (3S)
はニュートンの名はライプニッツの名と並べられて,この 両土入に弱冠カントが「悟性」をもって立ち向う意気込み が,そのまま述べられているが,これには諸家の指摘する 思想界の状況とカントの最大の関心事を裏付けるものがあ る。最後は,物体の遠隔作用に関するもので,これは後の (39)
「天界自然史」の問題に直ちに繋がっていく。第三のもの (40)
は,ニュートンの運動の第一法則に普遍性を認めず,最低
速度の規定を付帯条件として要求しているものである。第二のものは,ニュートンの自然神学に関するものであ
(41)
る。従って我々はこの第二の箇所から入って行くことにす
る。
そこではこう言われている,「ニュートン氏が想像した ように,神がその御業に与えた運動を絶えずま.た更新せざ るをえないなどということは,神の力と知恵にふさわしく ないとライプニッツは信じ,こうした理由に駆られてライ プニッツはこの難点を救いうる法則を探究した」。カント はニュートンに対するこの考えについてはもちろんライプ
ニッツと同感で,「神は世界機械に不都合を来さなければ,その働きをできる限り節約するものであり,そのかわ
り自然をできる限り能動的,活動的たらしめるものである」と考える。カントが後に使う例で言うならば,入間で
(42)
さえ,予め時計仕掛けの巧妙な発射装置を設けた大砲なの に,わざわざ手を下して発射するような無駄はしない。も (43)
ちうん神は人間の比ではないのである。 「最初の運動」も
「直接神の力によってひき起こされたものではない」とカ (44)
ントは考える。
このように自然神学の問題において,機械論を遂行する
ためにカントは,デカルトの機械論を採用する必要があっ た。もちろんデカルト派は活力を拒否する。これについて カントは,活力そのものには数学は当てはまらないという 点では賛成する。しかしいかなる意味においても活力を否 定したという点で,カントはこれに反対し,活力の存在を 主張するライプニッツ派に味方する。「延長の前にたしか に延長に先立って罵るものが存在する」というライプニツ (45)
ツの言葉は,確かにカントのこの論文のみならず,全哲学 の跳躍台である。しかし活力そのものに数学的測定法を当 てたことに,カントは反対する。「活力はその擁護者自身 が使用したやり方では,すなわち数学的理解によっては,
どこにも存在しえない」。
(46)
ところで,もしそうだとすると「それだけでも神の力と 知恵はすでに救われることになる」とカントは言う。しか
しこれはまだ,神の弁護としては消極的な意味しかもたな い。重要なことは,「一物体が静止している物質の作用に よってもまた,現実運動を保持できるか」ということであ (47)
る。もしこれができるならば,「この世界構造の一番最初 の運動は,動かされる物質の力によって産み出される」と (48)
いう,ライプニッツの活力説は最初の運動でないものを最 初の運動と見なすことになって却けられる。そして「運動 がそれ自体は死んだ不動の物質の力によって,先ず最初に この世界に持ち込まれたとすれば,運動はかかる物質によ って保持されるであろうし,またそれが失われても回復さ れるであろう」という言葉は,ニュートンの自然神学への 反論をも念頭に置いて言われていることは確かであろう。
ところでこうした「それ自体は死んだ不動の物質の力」
による運動の発生という考えは,神の存在の保証がかかっ ている重要なものであるが,これはデカルトの自然学の果 る修正によってなされる。しかしこの修正は,更に根本的 な,自然学そのものについての見方の変革に基づくもので あって,反対のライプニッツの活力説もこれによって修正 を受けることになる。すなわち自然学の誤った原則とは,
「自らも現実運動を行なっている物質によらない限り,自 然のうちには,いかなる運動も生じない」という原則であ (49)
って,これがデカルトもライプニッツもニュートンも惑わ したのである。それ故この原則の修正いかんによっては,
デカルトもライプニッツも,カントの自然神学の形成に対
して大きな貢献をなすことになる。鍵は「現実運動diewirkliche Bewegung」 という概念にひそんでいる。「現 実運動という言葉こそ,デカルト学派からの〔ライプニッ ツ学派の〕離反の原因となったものであるが,しかし恐ら く,現実運動というものが再び両者を統合する原因となり うるのである」。
(50)
こうした現実運動や活力への見方を変えることによって
は,「自然のうちには確かに,速度の自乗をその測度とす
一237一津山高専紀要第3巻第2号(1971)
る力が現実に見出される」ことになる。但し「数学的考察 (51)
に対しては永久に姿を現わさぬ」から,「何らかの形而上 学的考究ないし特別な仕方の経験」を必要とする。ここで 諸家に注目されていたあの言葉が出て来るのである。「我
々が反論しているのは,元来事柄そのものなのではなくて,認識方法なのである」。むしろカントの自然神学の真 只中にあって,.この言葉が述べられていることに我々は注 目したい。
さてカント自らの方法についての告白によれば,「ライ プニッツ氏が測定を行なう時の諸条件を普遍的に考量した ことが,我々の考察に全く新たな飛躍を与えてくれる」と いうことがなければ,活力説のどの証明も「幾何学的な証 明」のように思って,最後まで誤りに気づかなかったであ ろうと言われる。ところがこうした「普遍的考量」によっ て得たのは,「運動の現実性」なるものが,一方「この活 力の測度の条件」であるのだが,他方「運動体の力を,運 動への動向をもつだけの物体の力とは同じように測れなく する原因」ともなっているということであった。だから見 方を変えれば,「この条件は,死力の条件と同一種のもの とみなしうるのであり,前者を後者からただ量によっての み相違する」と考えることができる。こうした普遍化と量 (52)
化の操作を経て,「幾何学的確実性に全く劣らぬ確実性」
を自負しつつ,カントは「現実運動」の見方を転換する。
すなわち「有限時間」の概念を導入することによって,カ ントは新たな現実性概念を開こうとしているのであり,こ うしてカントは,活力と死力を両極限とする「活力化」の 概念によって,工種の力の対立を統合的に調停する。「活 力化」は有限な時間と速度を得て運動状態に入るが,そう すると,物体の力は速度の自乗で測られるようになる。こ
れに対してそれが,速度の一乗で測られねばならないのは,「運動が無限小の時間,継続したに過ぎない場合,す なわち運動へのただの動向状態にある場合」とされる。
(53)
しかしこのような条件の普遍化と量化による新たな認識 方法が,ニュ・ 一トンのそれと結局どの程度異なるかは,先 に述べた第三の箇所で要求されている,あの付帯条件に端 的に現われている。すなわちカントによる活力と死力の普 遍化と量化が,ニュートンの運動と静止の慣性法則におけ る普遍化と量化と相違している分だけ,両者の自然科学と 自然神学の考え方が異なっていると言えよう。それはとも かく,カントの新たな現実運動に関して,力の新たな測定 法と条件が提出されるに至る。
「一物体が自由運動において,その速度を無限にかつ不 減衰に保持する際は、その物体は活力,すなわち速度の自 乗を測度とするような力を有する。付帯条件は(1),物体 は抵抗することのない空間の中で,その運動を一様に自由 かつ永続的に保持する根拠を自分のうちに含んでいねばな
らない。(2),物体はこの力を自分を運動に置く外部的な原 因から得ているのではなく,外部的刺激に従って,物体そ のものの内部自然力から,この力は発生するのである。
(3),この力は物体内に,有限時間内に生産される」。
(5り
3
さて我々は「活力考」の中の幾つかの手掛りから,この 著作の背景をなす方法論のみならず,自然神学を探り出そ うとした。カントの自然研究やその方法論が,この時点で ニュートンやヴォルフに対して占める位置も,これでいく らかは明らかになる。また初期カントの自然神学は,次の
「天界自然史」において顕わになるが,「活力考」におけ るカントの自然神学も,これと本質的に変わりがないので ある。そこで得られた力の新たな測定法と条件は,「運動 は不動の物質の力によって最初にこの世界に持ち込まれ,
かかる物質によって保持され,又回復されるのであるか」
という問題に対する確答とも.なっている。世界最初の運動 は「直接神の力によって」も,また「運動物質の力によっ て」も生じたのではないという機械論の徹底にも拘らず,
「神の力と知恵」が保証されるには,「一物体が静止して いる物質の作用によっても現実運動を保持しうる」という
ことが,証明される必要があったわけである。そのような 神とは,「世界機械に不都合を来さなければ,その働きを
できる限り節約し」そのかわり「自然をできる限り能動的,活動的たらしめる」神であった。かかる神が「活力」
との深い関連において考えられていることは,すでに明白 であろう。 「新測定法と条件」は,いわば活力化の現象か ら活力の存在を証明していると言えよう。r一一一・lha体が,そ の運動の原因を充分かっ完全に (hinlanglich und voll_
standig)自己のうちに根拠づけ(grttnden)ていて,かくし てその力の性質からして,かかる力がその物体の中で,不 変かつ自由に永続して保持されることから,理解されるよ うならば,その物体の力は活力である」と言われる。活力 (55)
化の中間段階にある時には,物体は「その力と速度ないし 運動を自己のうちに,充分まだ根拠づけていない」。それに も拘らず,「その物体が自分に与えられた速度を,自由か つ一様に保持し,継続することができるのは一体何による のか」と問うことによって,カントは豊饒な「内部的自然
(se)
力」の存在を証明する。 「世界には自由運動があり,何ら 外部の抵抗がなければ,この運動は永久かつ不減衰に保持 される。それ故自然には確実に活力が存在する」。
(57)
ところで「外部の抵抗がなければ永久不減衰な運動」と いう活力化現象の,経験に現われる実例の典型は,「惑星 の自由な永久運動」であろう。これは確かに活力の存在の 証明にとって有力な証拠である。ところが「活力考」で=
ユーー gンへの言及の最後のものは,その遠隔作用説であっ
一238一た。これはもし,ニュートンの主張するような完全な真空
を通してのものとすれば,カントの新しい活力説にとって,まことに不都合な考え方と言わねばならない。ニュー
トンー派は,「物体は他物体とまだ接触しないのに,それに 作用する」と言うのであるが,もともとデカルトの運動論 (58)
と,ライプニッツの活力説の統合の上に成り立つカントの 新活力説において,物体間の相互作用は何らかの接触を前 提とする。というのは,「新測定法と条件」の特に(2)に 示されていることは,実は活力説の背景をなすライプニッ ツの単子論に許されていない単子間の「物理的影響」を介 しての相互作用を主張しようとするものであるが,かかる 作用はデカルトの運動論と同様,何らかの接触を必要とす
る。すなわち「条件」(2)では運動体に関して,「運動の 原因」から「力の原因」が区別されているが,前者は外部 的原因であるのに対して,後者は内部的自然力(d量einnere
Naturkraft)であるとされながら,しかも「外部的刺激(Anreizung)」が必要とされている。そこで先に無限小の時 闇を媒介とする有限時間の概念によって,死力が活力と一 義的に考えられたように,今度は無限小の空聞ないし抵抗 を媒介とする「有限量の抵抗」によって,遠隔作用が接触 作用と結びつけられようとする。「自然における障碍は,
或る力に対して,接触点において直ちに有限度の抵抗を示 すのではなく,まず無限小の抵抗を,また次に同様にとい う風に,その運動力が無限小の空間を通過して後始めて,
その力の遭遇する抵抗は有限量になる」とカントは言う。
(59)
ニュートンの遠隔作用説に関連して,我々はここに再び
ニュートンとカントの機械論すなわち普遍化と量化の相違 に直面するのであるが,この問題は直ちに「天界自然史」
の根本問題なのである。というのは,もし「活力考」が,
ライプニッツの活力の運動論と,デカルトの死力の運動
論との統合であるとすると「天界自然史」は,遠隔作用説 と接触作用説を統合する見地の上に成立するからである。
端的な遠隔作用を主張するのは言うまでもなくニュートン であり,端的な接触作用を主張するのはデカル1・である。
そこで,力に関して否定的なデカルトの運動論を,死力の 運動論とみなし,時間概念を介して,活力化の現実運動に 結びつけることによって,やはり修正されたライプニッツ の活力の運動論と統合したように,カントはニュeトンの 遠隔作用説を,無限小の空間(抵抗)概念を媒介にして,
接触に基づく現実的相互作用の中に統合する。
(60)
ところで活力化に基づく現実運動の実例は「惑星の永久 運動」であるとしても,接触に基づく現実運動の実例とし ては,それは問題を含む。むしろニュートンー派の観測に
も現われるように,「彗星の尾は遊星の軌道を横切っても,少しもゆらぐことなしに運動を続ける」のであり,こ (61)
の事実は,「諸遊星を捲き込むような渦巻きなどは,.ある
べきでもないし,全くのところ天空でそういうものは見つ
かりもしない」ことを,明らかにするニュートンー派の「渦動説否定」の証明根拠として,「確実かつ説得的」で ある。 「唯一可能な証明根拠」の中で,「天界自然史」を 要約再録した箇所で,カントは反省的に事態を整理しなが
ら,ニュートンの「確実にして説得的な証明根拠」にも拘 らず,これに賛成できない理由をこう説明している。
「ニュートンのこの考えから,確実に推論されること は,天空の空間は現在,空虚であるか,無限に空虚に近
い,従って諸惑星に円軌道をつける力学的原因は,全く見 出されえないということである。しかしだからといって,
すぐさますべての力学的法則を無視し,大胆な仮説によっ て,諸惑星を直接神の手に委せて,諸惑星がその重さに応 じて,それぞれの円軌道を運動せねばならないようにした のは,あまりにも行き過ぎであり,哲学の範囲を彼は逸脱
してしまっている」。
(62)
カントとニュートンの食違いが,これほどはっきり出て いるところは恐らく他にないであろう。確かにニュートン は,この問題で哲学の範囲を越えて,自然神学の領域に入 り込んでしまうが,それによって却って確実にして明証的 な,力学を確保し,一方ニュートンの神学の領域に当ると ころにおいてまで,力学的方法を守ろうとしたカントは,
その哲学の厳密性を失うことになる。しかもこの厳密性を 失うことについては,すでに「天界自然史」の時から,カ ントは自覚していた。「幾何学的な最大の厳密性や数学的 無謬性は,この種の論文については決して望みえない」。
(63)
カントは敢て厳密性を犠牲にしてまで,天体構造を力学的 に説明しうる,もう一つの道を選んだのである。それは,
「諸惑星機構の空間は,現在は空虚であっても,以前は充 実していた」と考える道である。「天界自然史」は,再録 (64)
された時のような反省と整理を経ていないが,異様な力
で,このもう一つの道を突走るのである。敢て「危険な旅
(65)
行1を試みることをカントは宣言している。それは,カン
(66)
トの新しい活力説と自然神学の存在に関わる問題がそこに あった,ということと無関係ではないであろう。
従って「活力考」の場合とは反対に,「天界自然史」に おいては,ニュートンの名が完全に前面に出て,デカルト とライプニッツの名は殆ど完全に背面に退いている。ニュ ートンの名が前面に出るのは,殆ど反論されるべきものと してであり,ただ引力説を代表するものとしては,渦動説 の代表者,斥力説の代表者と対等に,カントの新しい活力 説ないし渦動説の中に統合される。引力説は遠隔作用説に 基づき,渦動説は死力の運動論に基づき,斥力説は目的論 的活力説に基づくとすれば,引力説,渦動説,斥力説の統 合は,前述の「活力考」における空間,時間を媒介とする 現実運動への原理的統合を既に前提にしているとも言えよ
一 239 一
津山高専紀要 第3巻 第2号(1971)
う。
「渦動説」では,古来のデモクリトス,エピクロス等の ものと,新しいデカルトのものとが有名である。いま,デ カルトの機械論的な「渦動説」の中に,ニュ一掬トンの「引 力説」と,ライプニッツの「斥力説」を加えたものと比較
してみると,古代の「渦動説」の諸特徴が浮び上ってく
る。「私は自然の最初の状態を,あの哲学者たちと同様,
すべての天体の根源素材.(Urstoff)すなわち彼らのいわ ゆる原子が遍ねく分散していたものと考える」と言って,
(67)
カントは古代渦動説の諸特徴を,自らの構想するそれと対 比させる。すなわちエピクロスが仮定した「元素的粒子を 落下させる重さ」を,ニュートンの引力に当て,「その落 下の際の直線運動からの或る偏碕(Abweichung)」を,
「我々が粒子の斥力から導出しようとしている直線的沈下 の際の変化」から考えようとする。すると「原子の混乱し (6S)
た運動から生じた渦巻」という彼らの古代渦動説を採用し た場合,一方デカルトとは違った形ながら,機械的自然法 則に反せぬ渦動説を確保して,これをニューートンの抹殺の 手から守りえた上,しかも他方,古代渦動論者らの「無神 論」を避けうるということになる。
かかる「新渦動説」によって,かって「活力考」の際
に,おぼろげながら描かれた,カントの自然神学の姿が全 貌を現わしてくる。遍在する粒子と,引力によるその落下 と,斥力による偏筒との着想を得れば,これによる天体と その円軌道の発生の説明は容易である。すなわち,遍在す る粒子のうちの一つが他より大きければ,それを中心とす る他の諸粒子の落下が始まり,いち早くそこが物体となる から,いよいよ遠方の諸粒子を引き寄せることになるが,
その引き寄せる速度の方向が,そのように引き寄せられる
「諸粒子の相互に妨げ合う弱い斥力」のために,側方に曲げ (69)
られ,側方運動となり,最初の中心物体を遠心力によって 一つの円に包むようになり,巨大な渦巻となり,やがて天 体の円軌道ができ上っていくという。
ところで,無神論的渦動説に対するカントの反論の核心 は,彼らが,この偏平現象を全くの無根拠,偶然性に帰し た点である。 「エピクUスは厚顔にも,原子が相互に出合 うことができるために,原子が何の原因もなしに直線運動 から逸れることを要求した」とカントは言う。これに対し (70)
てカントは,「任意な虚構の助けは借りず,既定の運動諸 法則に導かれて,一つの秩序整然たる全体が生み出される のを見ることに満足を覚える」と告白する。 「天界自然 (71)
史」では珍らしく,デカルトに言及して,「デカルトが天 体の形成を単に機械的な法則から説明することを敢行した 時,公正な裁判富のもとで常に彼が受けていたのと同じ権 利を,私は奪われぬであろう」と言うカントは,こうした (72)
デカルト流の機械論と,エピクロス流の偶然論の対立に対
して,完全性の概念を持ち出す。有機体の調和と統一を例 としてカントは,エピクロスの徒に対して,彼らは「あら ゆる生物体の起源をも,こうした盲目的な衝突に帰し,理 性を現実に,非理性から導出した」と非難するのである。
(73)
そしてカント自らは,「物質を一定の必然的法則に拘束さ れたものとして見出す」とし,他方「物質の全体的な分解 と分散の申において,一つの美しい秩序ある全体が,そこ から自然に展開するのが見られる」と言う。その際,「必 然性」概念と「完全性」概念が考えられているのは明らか であろう。
「既定の運勤諸法則」と,未定のものを含む全体を前に してカントは,天体の生成論の場合と有機体の研究の場合 とを比較しようとする。有機体の場合は「内部的性状」に ついての無知から,たとえ「毛虫」一匹に対してでも我々 は行き詰る仕末であるから,これが「機械論的根拠から」
判明かつ完全に知られる遙か以前に,天体生成の起源論の 方のけりがっくであろうことは容易に予想がつく。してみ (r4)
れば,かかる有機体にして有している統一と秩序であるか ら,天体生成の問題においても,「既成の運動諸法則」を 拡張していく力学的方法によって,「最も単純な力学的原 因」に到達することが望めぬわけがない。かくしてカント (75)
は,「ごく卑近な物に関してさえ愚かしい入間悟性」に,
敢て次のように言わしめる。「私に物質を与えよ。私はそ れから世界を建造しよう」と。その意味は,「私に物質を 与えよ。私は世界がいかにしてそれから生じねばならない かを,諸君に示そう」ということだとされる。
(76)
ところで愚かな人間悟性によっても,かくしてゆくゆく 必然的な既成法則に帰せられる天体のみならず,その入山 で人間悟性が停等している有機体も含めて,「他の独立の 本性の物が,一個の秩序整然とした全体をなすように相互 に,自ら規定されている」としたら,それは「最高悟性」
(77)
によるのでなければならない。いまや古代渦動説が偶然性 と解した「偏碕」現象が,生かされてこの必然性と完全性 の間に取り入れられる。カントによって偏平現象は,斥力 による自由と解される。これは無神論者の偶然性でないば かりでなく,有神論者の「神の直接の手」による偶然性と も区別されなければならない。そのような偶然性は,カン トによれば却って神にふさわしくないのである。「神が直 接に惑星を推進させ,軌道に乗せたのだとしたら,それら 惑星は不完全性や偏平を示すことはないであろう」と言わ
れる。いずれの偶然性にも帰せられない斥力による自由(78)
は,必然性には縛られないが,完全性の計画をはずれるこ とのない自由である。「あらゆる物の根源素材である物質 は,或る法則に拘束されており,それらの法則に物質が自 由に委ねられることにより,必然的に美わしい結合を生じ なくてはならない。しかし「完全性の計画から偏筒する自
一 240 一一
由は,.決して物質は有していない」のである。
(79)
かくして,「エピクロスをキリスト教のただ中に蘇生さ せた」カントの神の自然神学的証明ができ上る。「物質は
(so)
最高に賢明な意図のもとに置かれているのであるか.ら,物 質を支配する第一原因によって,必然的にこうして一致調 和する関係のうちに置かれていなければならず,そして自 然は渾沌のうちにあってさえ.も,規則的にかつ秩序正しく 運ぶ以外は不可能なのであるから,まさにそういう理由で 神は存在する」。
(Sl)
4
さて「唯一可能な証明根拠」によれば,通常の「自然神 学」の方法はこうである。「まずすべての完全性と規則性 は,偶然性によって帰属するものと考えられ,ついでこれ らの中におけるあらゆる目的.に適つた関係から,技巧的な 秩序が証明され,そこから一つの賢明で善良なる意志が推 論され,その後とも言えるがむしろそれと同時に,業蹟の 偉大さに加えられる考察によって創造者の計り知れない力 の概念がそれと合一される」。こうした自然神学の方法の (S2)
短所として,カントは三点をあげる。 (1)下完全性,調 和,美を偶然的なものでありしかも知恵の配備であると考 える」という点である。つまり知恵ある創造者の証明のた めに,自然の完全性が偶然的であることがどうしても必要 とみなされる。 (2)神の悟性をこうしてむしろ意志とみ なすことにより,入間悟性の得る法則性とは無関係に,
完全性を偶然性に帰するのであるが,これはいたずらに,
無神論的偶然性を恐れて,これを神的偶然性たらしめよう とするものに他ならず,これは入間悟性の進歩を減退させ る。 (3)証明される神が,「世界の技巧的な組み合わせ
(83)
め創造者」,「形相の神」として結局「世界組立工」に過 ぎなく,「質料そのものの創造者,宇宙の構成要素そのも
のの神」つまり真の「世界創造者」とは程遠いものとなり,「洗練された無神論」を呼び込む恐れがある。
(S4)
しかしこうしたカントによる自然神学批判が,主にその 理論的な面にのみ向けられていることは,その長所として 挙げられているものが,実践的であるのと対照的である。
すなわちこの方法は,直観的で,自然的で,.容易で,しか も,確信を与え,つまり道徳的に効果的であ.るとされる。
「この証明方法は哲学者に関.してすら.,他のいかなる方法 より効果的(praktisch)である」と言われる。何故なら,
この方法の与える「確実性は,数学的でなく,道徳的であ
り,従って数々の証明根拠のどれもが大きな感銘によって,哲学者の心を奪ってしまう」,そして「思弁の方は,
すでに心を占めている確信を信じて,安んじてその後をつ いて行く」と言われる。神の証明の問題における,理論的 (85)
正当性と道徳的有効性の違いについての,カ.ントの次の言 葉ほど決定的なものはないであろう。「誰でも自分の全幸 福を形而上学的な証明の越権な正当性に委ねて.しまうの は,ためらうものである」.。
従って「唯一可能な証明根拠」はこの点で微妙な均衡を
うちにたたえていると言える。一方は数学的確実性,或い は前の第一種の存在論的証明(2)の確実性,.と他方は道徳 的確実性である。前に,第三の自然神学的証明.と言われて いたものは,「自然の中に認められる必然的統一と,完全 性の偉大な規則に揮った物の本質的秩序,つまり自然の規 則性における必然的なものが,この現存のみならず,あ..ら ゆる可能性の最高原理に導く」ような証明であった。ぞ.し (S6)
て特にこの方法に対しては,哲学が要求され,それも極め て高度の哲学のみが「真理の偉大さにふさわしい明晰と確 信とでもって,かの対象に到達できる」と言われているe
この「明晰さと確信」と言われるものは,先の二種の確実
性を指すかどうかは問わないとしても,先に「天界自然史」に提出されていた証明はどこに位置づけられるであろ
う.か。これは「通常の自然神学」,或いは前の区別では
「第二種の自然神学」の,特に理論面の修正として第三種 の自然神学に含められるべきである。.「天界自然史」の要 約が,「唯一可能な証明根拠」に再録されているのはその ためでなくてはならない。しかし,通常の自然神学の理論 的欠点を全部,理論的に修正したとしても,それは実践的
にはむしろどちらでもよいことなのである。それ故カンFは,「秩序と,多くの有用な一致とは,事物のこうした関 係が必然的か或いは偶然的かについて,我々が思惟するも っと前に,一般に悟性的な創造者を指示している」と言っ (87)
ている。しかしこの修正が理論や思弁にとって重要なこと は言うまでもない。更にカントは「悟性に対する説得力」
ということを言い,これは秩序を「必然的」と見ることの 方がはるかに説得的だと見る。
かくして広汎な範囲を含む第三種の自然神学の規則が多
数列挙される。最も関係の深い重要なものは,第4項,「根拠としての創造者の知恵(die Weisheit eines.Urhe−
bers)に到達する出発点には,知れ亘った技巧的秩序を利 用せよ,.しかし根拠としての知恵ある存在者(ein wβispr
Wesen)への出発点には,自然法則における本質的で必然的な統一を利用せよ,但しその存在者の知恵を介レてでは なく,その存在者の内部の知恵.と調和するものによって推 論するために」。第5項,「世界の偶然的な結合からは一i 宇宙を組立てる創造者を推論せよ。しかし必然的統一一・X)).ら は,質料すなわち自然物の根本素材の創造者としての存在 者を推論せよ。しかし宇宙を組立てる創造者と根本素材の 創造者とは,まさに同一の存在者である」。
(88)
さてカントの自然神学は以上の.ようにして「形相の創造
一 Q41 一
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者」と同一なる「質料の創造者」の存在を証明したのであ るが,かかる存在者の存在の絶対必然性の証明が未だ残っ
ている。すなわち第一種の存在論的証明(2)が成功すれば,第三種の自然神学的証明は完成すると言える。しかし 注意しなければならないのは,「唯一可能な証明根拠」末 尾の一節にある次の言葉である。「合や残っているのは,
神の存在の厳密な証明は全く不可能であるか,或いは我々 が上に提示したあの証明根拠に基づかねばならぬか,のい ずれかである。.ところで問題になっているのは,証明がい かにして可能かということであるから,ee一一の場合を主張 はできず,結局我々が提案したあの根拠に落着く」。そして (89)
他方,かかる根拠が発見できないと思う人には,第二種の 自然神学に含まれた別の道を指示する。「この前人未踏の 小径よりも,人間理性の大通りの方を歩いた方がよい。あ くまで必要なのは,神の現存を確信することなのである。
それを証してみせることはそんなに必要なことではない」。
(90)
ところでカント自ら認めているように,「神の存在の証 明はいかにして可能か」を問う時はすでに,神の存在の証 明が不可能でないことを前提している。すなわち我々が,
いま神の存在の絶対必然性を証明しようとするとき,「絶 対必然性の概念は規定されるべきである」という原理の上 に立っていることになる。しかし,重要なことは,そのこ とをカント自身明言しているという点であろう。そのこと の意義をよく理解するために,我々は,「新論」における 存在論的証明の逆転から始め,「唯一可能な証明根拠」に おける,その逆転のやり直しを見定めるという道をとるこ
とにする。
前に見たように,ヴォルフの自然神学には,完全性の概 念による存在論的証明が,実在性を得るために宇宙論的証 明の助けを借りながら,実はその宇宙論的証明の方は,必 然性の概念からする別の存在論的証明を輸入しているとい う問題点があった。それ故にバウムガルテンやクルジウス など,その点を批判しているわけである。これをカントの
挙げる自然神学の規則第4項に照して見るならば,次のように言えよう。宇宙論的に偶然的なものから出発し,周知 の完全性の概念を使って第一原因としての創造者の知恵に 達する,というところまではよい。 「しかし根拠としての 知恵ある存在者への出発点には,自然法則における本質的 で必然的な統一を利用せよ,但しその存在者の知恵を介し てではなく,その存在者の中の知恵と調和するものによっ て推論するために」という規則の後半には違反する。最初 に触れておいたように,カントは「第二種の証明批判」の 中で,宇宙論的に到達する第一根拠が,「絶対必然的」で あるという命題へ進む過程を問題にし,「相変らず攻撃の 的になっている充足根拠律」によって,それが進行してい ること,そしてこの絶対必然性に二つの意味があるうち,
「論理的必然性」の意味に解されて証明を台無しにしてい ることを非難していた。
(91)
神の存在を証明しようとする時は,規則で言われている ように,「自然法則における本質的,必然的統一」を利用 するのはよいが,「神の知恵」を介してこれを行なえば,
「絶対必然性」の概念からの証明になってしまう。カント
の規則はこれを禁じて,「神のうちの知恵と調和するもの」を介して,ないしは「内部的可能性」によってこれを 行なうよう指示していると解されよう。ヴォルフの自然神 学的証明が,デカルトの存在論的証明に依存しているとす れば,カントはヴォルフ批判の終局としてデカルトの存在 論的証明の批判を行なわなければならない。
それには言われているように「充足根拠律」の批判が伴 わなければならない。「充足根拠律」は「矛盾律」や「同 一律」に比すれば,実質的根拠と言えないことはないが,
ヴォルフになると特に目立って,これを「矛盾律」に還元 しようとする傾向が強まり,そのことが先の難点の核心を なしているのである。そこでカントは,「新論」(1755年)
において,これを「矛盾律」「同一律」から切り離しただ
けでなく,確実さの為に,クルジウスと共に「決定根拠 律」と呼びかえた上で,そこに「認識根拠」と「存在根拠」の二つの観点を入れるのである。
「存在根拠」ないし「生成根拠」は,「先行的決定根拠」
とも呼ばれているように,カントはこれに「原因」ないし
「第一原因」を当てて考えるのであるが,このうちの「第
一原因」の絶対必然性が,先ず(命題6)原因概念そのものから否定される。その根拠は「原因概念は,その原因に よって生じたものの概念より本性的に先である」というこ (92)
とにあるとされる。「従って絶対必然的に現存すると言わ れるものが,現存するのは,何らかの根拠のためにではな く,その反対が全く思惟不可能であることによる。こうし た反対の不可能性は現存の認識根拠にすぎないが,しかし 先行的決定根拠は全く存在しない。それは実存する。それ についてはこのことが言われ理解されれば,それで充分な のである」 (命題6,系)Q
(93)
宇宙論に必然的な第一原因は,あくまで「先行的仮説
(hypothetica antecedentis)」なのであって,その「独立 (94)
性」は「内部的必然性」ということとは異なり,「その現 存は世界のために(umwillen)のみ必然的である」に過ぎ (95)
ない。それにも拘らずこれの「絶対必然性」を証明に使用 することを禁じ,絶対必然性の証明を何らか「存在根拠」
からでなく,不可能性を介して「認識根拠」から行なおう としている。従ってこの証明の構造だけは一先ず逆転に成 功していると言えるであろう。しかし宇宙論の側から仮説 的に成立つ「第一原因」の絶対必然性の否定が,上述のよ うに原因の概念そのものからなされており,存在論の側で
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