日常のコミュニケーションを表現/分析する方法
―ケニアの聾の子供たちのおしゃべりとダンスを事 例に―
著者 吉田 優貴
雑誌名 明治学院大学社会学部付属研究所研究所年報 =
Bulletin of Institute of Sociology and Social Work, Meiji Gakuin University
巻 46
ページ 19‑34
発行年 2016‑01‑06
その他のタイトル A Method of Expressing/ Analyzing Everyday Communication: Deaf Children's Chatting and Dancing in Kenya
URL http://hdl.handle.net/10723/2595
Ⅰ 人に輪郭を与える
物の輪郭を描く。この「輪郭を描く」という ことをどのように習い覚えたのだろうか。個人 的な経験を少し書いてみよう。figure 1の左側 は、幼稚園年少組の頃、自分の氏名が書かれた 画用紙に折り紙をちぎって貼りつけたもの、右 側が年長組のときに担任の先生を描いたもので ある。
ちぎった折り紙片は合計11枚。折り紙の耳の 部分はともかくとして、ちぎった側の境界の不 鮮明さ。加えて、スキャナで画像として取り込 んだものを更にモノクロ印刷することで、特に
淡色の紙片と画用紙の境界が見えづらくなって いる。他方、担任の先生の肖像画は、下書きこ そしていないが色と素材の違いで、水彩絵の具 でベタ塗りした背景とクレヨンで描いた人物の 境界が鮮明になっている。鼻は特に象徴的であ る。人の顔の中で「鼻」と「鼻ではない部分」
との境界は厳密には定められないはずだが、境 界となる線をはっきりと描き入れている。
小学生になった。友達とぬり絵で遊ぶ。色鉛 筆を持って塗り始める。あか、みどり、あお、
ちゃいろ、そしてまた、みどり、あか、くろ…。
できた、みてみて!と言って友達に見せる。「い
日常のコミュニケーションを表現/分析する方法
─ケニアの聾の子供たちのおしゃべりとダンスを事例に─
吉 田 優 貴
2003年〜 2006年、2011年〜 2012年にかけて、合計2年あまり、私はケニアの寄宿制初等聾学校 を拠点にフィールドワークを行った。その間に目撃したさまざまなことの中でとりわけ印象に残っ たことは、聾学校内で複数人の子供たちが踊りだし、踊っていくうちにタイミングが合っていくよ うに見えたことだった。子供たちは、動きのパターンを予め学校の授業(1)などで手取り足取り指導 されていたわけではなかった。
そこで何が起きていたのか。この問いを立ててから、私はずっと子供たちの身体が4 4 4何かをやって いる、という方向で議論を展開しようとしてきた。それ以前に、ケニアの初等聾学校の子供たちと 付き合い始めてからずっと、彼らの身体と向き合おうとしてきた。彼らは声も発するが、彼らの手 は口ほどにものを言った。彼らの足もじっとしていることはなかった。彼らはしゃべったりおどっ たりしていたが、その様子はとても賑々しく、ときに喧しくも感じられた。
そこで何が起きていたのか。自分で発したこの問いをよくよく考えてみると、どうも私が向き合 おうとしていたのは彼らの身体ではなかったようである。そう、私が発したのは「彼ら(の身体)は 何をしていたのか」という問いではなかった。
では、どういう問いか。それは、「何が4 4起きていたのか」である。言い換えれば、個々の人ない しは身体にではなく、展開したコトに照明を当てた問いである。この問いに答えるには、非常に難 しい課題が待ち受けている。「人」ないしは「身体」の個別性を前提とせずに、展開したコトをど のように表現/分析することが可能なのだろうか。
キーワード:コミュニケーション、身体、会話分析(CA)、聾、子供、ケニア
研究所年報 46 号 2016年1月(明治学院大学社会学部付属研究所)
ろがはみでちゃってるじゃん。せんのところを こうしていろえんぴつでなぞれば、もっときれ いにぬれるのに。ふちどり(2)っていうんだよ」。
図工の授業では「輪郭を描く」ということを明 示的に教えられた。何もない紙の上に、鉛筆で 下書きをする。薄くて短い線を重ね、見えたも のの輪郭を描いていく。下書きができあがり、
色を塗る。絵の具の原色のままベッタリ塗った り、黒色の絵の具でくっきりと縁取ったりした 子は、「本当にそんな風に見えているのか?」
と先生に問われていた。淡く色を重ねて質感を 出すことが求められた。figure 2は6年生のと きに「桃」というタイトルで描いた水彩画であ る。桃を載せたのはガラスの器だった。柄の入っ た濃紺の風呂敷の上にガラスの器を載せ、風呂 敷の柄は描くのが面倒だと思い見なかったこと にした。だが、それまで「透明の物」を描いた
ことはなく、風呂敷とガラスの器とをどう描き 分ければよいのか考えあぐねた。よりによって 透明なガラスの器、しかも細かな凹凸が一面に 刻まれた器に桃を載せたことが悔やまれた。風 呂敷を触り、器を触り、三つの桃を触る。別物 である。しかし、いざ描こうとしてじっと見て も、いや、見れば見るほど風呂敷と器の境界が わからなくなる。
「物の輪郭を描く」ということは、(少なくと も現代日本で生まれ育ったなら)ほとんどの人 が経験しているだろう。しかし、輪郭を描くこ とに慣れてしまうと、物にはもともと輪郭が はっきりとあったかのような錯覚を起こす。「輪 郭を描く」ということは、物に元来はっきりと 備わっていた線を写すという作業ではなく、物 と物との間に境界を新しく作り出す作業にほか ならない。
figure 1
絵画技法をめぐる議論を持ち出すとヤケドを しそうだからやめておこう。ここでのポイント は、「写実的」に絵を描くという行為は見えた 物(見たことにした物)に形を与えることに他な らないということである。形を与えるのと同時 に物と物との間に境界=輪郭を創造することに なる。人為的に創造したその輪郭によって、見 えた物は「風呂敷」と「ガラスの器」と「桃A」
「桃B」「桃C」、更には「ガラスの器」の「細か な凹凸の数々」というように、「個々の物」と して分節化される。
では、次のfigure 3についてはどうか。これ は、ケニアの初等聾学校の教室で休み時間に撮 影した動画から切り出した静止画である。
カメラのフレーム内には5人の子供がいる。
彼らの手は喧しく動いている。彼らはおしゃべ りをしているのだ。このおしゃべりを文章に書
き起こすとき、多くの場合、一人一人の子供が 何をやっていたかという視点でのみ記述してし まうだろう。A、B、C、D、Eの子供に分けた うえで、それぞれ互いに何かを話していたとい うように。しかし、figure 3をよく見てほしい。
AがBに何かを話し、CがDに何かを話す、とい うような行儀のよいことは起きていなかった。
彼らは耳がほとんど聞こえず、声を発すること があっても相手にその声は届かない。その代わ り、彼らの手が盛んに動く。だが、彼らは互い の手の動きをきちんと見ていなかったし、相手 が自分の手の動きを見ているかどうかお構いな しに手を動かしていた。
このときの「5人」を、それぞれ輪郭を予め 持った個体の集まりとして捉えることは妥当な のだろうか。「人」に輪郭を与えることに慣れ てしまっていると、そこで起きていたコトを登 場人物一人一人の個別の言動に置き換えて捉え ようとする。「楽しかったね」とか「盛り上がっ たね」とか「うるさかったね」とか「賑やかだっ たね」などと形容されるコトを、その場に居合 わせた一人一人の発言に分ける。まずはそこに 居合わせた「個々の人」それぞれに輪郭を与え、
個々の発言に分け、そうすることにより、起き ていたコトを分析しようとするのである。
Ⅱ おしゃべりを記述する:CA手法の限界 わかりやすい例として、「会話分析(Conversation Analysis, 以下CA)」のトランスクリプション という手法を挙げたい。「会話」という出来事 を具体的に記述するために、そこに居合わせた 個体を識別し、それぞれの個体が何かをしてい たというように記述するのが通例である。たと えば、人類学者菅原和孝が「潜むもの、退くもの、
表立つもの:会話におけるものと身体の関わり」
[菅原 2011]で取り上げた事例(3)では、「美香」、
「晃」、「奈緒」の3人が登場している(figure 4)。
figure 2
figure 3
研究所年報 46 号 2016年1月(明治学院大学社会学部付属研究所)
加えてこの3人の配置が図示されており、一人 一人の輪郭がはっきりと描かれている(figure 5)。
figure 4のように書き起こせるような、発話 が交互に行われる会話も日常生活において確か にあるだろう。そうした、いわば行儀のよい会 話が起きたなら、figure 5のようにそこに居合 わせた人たちをそれぞれはっきりとした輪郭の ある個体として描くこともあるいは可能かもし れない。だが、日常においては、もっとさまざ まな動きが雑多に4 4 4同時かつ連続的に起きてい る。
実は菅原自身も『ことばと身体:「言語の手前」
の人類学』[菅原 2010]の中でCAのトランス
クリプションの手法を用いて会話を分析してみ せ、逆にその手法の限界を述べている。
会話にとって身体は必要か?本章は、この かなりラディカルな設問にとりくむもので ある。…人間が社会的な存在として生きる ということは、現実の相互行為のなかに錨 を降ろしつづけることである。では、身体 のどんな働きが相互行為への投錨を実現 し、維持しているのだろうか。このことを 具体的に分析しようとするとき出発点とな るのは、会話分析が一次資料とする「転写
(トランスクリプション)」と名づけられる テキストの限界を問いなおすことである。
figure 4
菅原 2011: 51-53より転載
会話を文字テキストに蒸留する作業は、相 互行為を脱=身体化することにほかなら ない。…文字テキストだけを読むことか ら、私たちは相互行為について、何をどれ だけわかるのだろうか。…テキストだけか らは「わからない」ことがきちんと同定で きるならば、それこそが身体によって担わ れる意味だということになる[菅原 2010:
102]。
そして、CAのトランスクリプションを提示 し分析したうえで、次のように結論づけている。
テキスト分析の段階で、われわれはあまり
にも多くの「わからなさ」に直面した。だ が、そのかなりの原因が不正確な転写によ るものであった。熟練した会話分析家が作 りあげる精密な転写資料を与えられたなら ば、おそらく、われわれは、その会話にお いて「何が話されているか」をほとんどす べて理解できてしまうであろう。だが、「こ のほとんどすべて」とは「情報」であり「意 味」ではないのである。さらにいえば、「何 が話されているか」を理解することは、「い かに話されているか」を知ることとは異な るし、「何が起きているか」を了解するこ とからはさらに遠く隔たっている[菅原 2010: 136]。
figure 5
菅原 2011: 52より転載研究所年報 46 号 2016年1月(明治学院大学社会学部付属研究所)
菅原は、かねてより身体の所作を予め「記 号」として読み取ろうとしていない[e.g. 菅原 1996]。その一方で、(手法の限界を示すとしな がらも)CAのトランスクリプションを援用する うえで彼は表意文字を無反省に用いている。も ともと彼は、たとえば「言語チャネル」と「身 ぶりや動作のチャネル」[菅原 2011: 51]とい うように「言語」と「身体」を分けているが、
「音声言語」で考えるならば会話の中の言葉は、
(たとえばfigure 4の場合)日本語すなわち言葉 である以前に生まれては消えゆく声である4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4。も し、テキスト分析の限界を超えたいのであれば、
まずは発話を全てひらがなで書き起こす必要が あるのではないか。
figure 3で示したケニアの聾の子供たちのお しゃべりに戻ろう。そこに「5人の子供」が居 合わせたわけだが、彼らのおしゃべり、すなわ ち、そこで起きているコトは輪郭が与えられた 一つ一つの個体の発言に還元することができな い。彼らの手の動きは、単語としてまとまりの ある手話である以前に文字通りその場で消えゆ く動き4 4である。しかも、文字で書き起こすこと が不可能なほど、手の動き以外のさまざまな動 きが同時に起きている。
私たちの日常のおしゃべりについても同様の ことが言えるのではなかろうか。日常のおしゃ べりは、整然と並べられた椅子に聴衆が黙って 座り、前に出た1人が聴衆に向かってひたすら 話し、聴衆は言葉一つ一つに注意しながら熱心 に聞き、時間がくれば文字通りの「質疑−応答」
が始まる…そういうフォーマルな研究会で行わ れるような会話形式では捉えきれない。
参考までに『デジタル大辞泉』によると、「会 話」とは「複数の人が互いに話すこと」で、「互い」
とは「相対する関係にある二者。双方、または、
そのひとつひとつ」である。また、
(5th
edition)では“an informal talk in which people news, feelings, and thoughts”(強調 は引用者)となっている。conversationという 語も、二つ以上の個体が集まって何かを交換し ているという意味を含んだ語である。ニュース なり感情なり思考なりを、いわばキャッチボー ルする、「会話/ conversation」という語には そうした意味が含まれている。
だからこそ、私は「会話」という語を使わない。
そこに居合わせた人たちを個体に分けることが できず、かつ、もっと雑然としているという意 味を込めて「おしゃべり」という語を暫定的に 使用している。たとえば居酒屋の賑わいを思い 起こしてほしい。もちろん、生ぬるくなったビー ルのジョッキを手にした上司が部下に対して 延々と一方的に説教をし、部下は両手を膝に置 いて黙ってそれを拝聴しているような場面を思 い起こしてはいけない。思い起こすなら、酒や ら水の入ったグラスやらボトルやら出されたば かりの料理やら食べ残しやら箸やらがテーブル の上にガチャガチャと置かれ、隣や向こうの席 から聞こえてくる喧噪と威勢のよい店員たちの 声に負けないくらいの大きな声でしゃべり、箸 やコップがひっきりなしに動き、相手が言って いることがよく聞こえなくても話がどんどん弾 んで展開していく場面の方である(4)。
私は居酒屋の賑わいのような状況にケニアで 遭遇した。ある夜、真っ暗な小屋の中で灯油ラ ンプの光だけがわずかに灯っていた。そこでは、
朗らかなしゃべり声や歌声、笑い声がひっきり なしに飛び交い、重なっていた。このときの音 声がfigure 6の上の図である。 この図は、音声 を波長としてヴィジュアル化するソフトウェア WaveSurferに通した結果である(横軸は時間経 過、縦軸は音の周波数)。音声としてこの場で 起きていたことを捉えたなら、「歌」と「話」
にも分けられないし、「話者A」、「話者B」、「話
者C」……「話者n」というようにも分けられ ないことがわかるだろう。「そこで起きていた ことは賑々しかった」としか言いようがない。
その「賑々しさ」においては、多くのことがま さに同時に起きているのである。
他方、figure 6の下は、「NHKビジネス英会 話」の音声である。話者は二人だが、はっきり とそれぞれの発話に分かれている。日常のお しゃべりの多くにおいて、個々の発言が必ずし も「NHKビジネス英会話」のように整然と交 替で起きているわけではないし、そもそも「居 合わせた人たち」を一人一人輪郭のはっきりと した発話者として分けることもできない。日常 のおしゃべりは、個々人が発する言葉の集まり である以前に、ひじょうに雑多でしばしば混ざ り合う声や音や身体の動き、そして多くのモノ の集まりである。
このfigure 6は、個々の「人」や「身体」に 焦点化せず、起きているコトすなわち「賑わ い」に注目しそれを表現するという一つの試み である。ビデオカメラのマイクが拾った声や音
(マイクにとっては、「音」だけである)を更に WaveSurferというソフトウェアを通して視覚 的に表現した。さまざまなことがいっぺんに起 き、展開している。好むと好まざるとに関わら ず、居合わせた人たちはそこでの展開に巻き込
まれていく。このコトを文章にするには困難が 付きまとう。多くのコトがこぼれ落ちる。書か れているコトは既に意味の与えられた言葉であ り、その場で消えていったはずの声ではない。
読み手は、声ではなく言葉の意味を拾いながら、
書いてある順に従って読み込むことになる。
もともとCAは、会話の秩序がどのように編 成されているかを明らかにするために、会話の 連続性に着目した手法である(5)。そのため、発 話者の順番交替(turn-taking)のありようを主 題にすることが多い。その点で、言葉に照明を 当て、会話という出来事がどのような連続性を 成していたのかという問いに答えるには、先の figure 4のようなトランスクリプションは理に かなっているかもしれない。しかし、(それが「会 話」かどうかを留保したうえで)「何が起きてい るか」ということを主題にするなら、別の手法 を提案する必要がある。
私も以前、CAのトランスクリプションを 援用しようとしたことがある[古川=吉田 2011a]。恐らくCAの専門家からすればあまり に中途半端な援用の仕方であっただろう。他 方、動画で表現しようとしたこともある。しか し、動画もまた見る者にとっては提示された順 番にしか見ることができず、ある局面で何が同 時に起こっていたのかを知ることはきわめて難
figure 6
古川=吉田 2012より一部改変
研究所年報 46 号 2016年1月(明治学院大学社会学部付属研究所)
しい。そこで、ケニアで撮影した動画から切り 出した静止画(6)を用いることにした[e.g. 古川
=吉田 2012]。静止画の利点は、ある局面で同 時に何が起きていたかを見ることができる点に ある。
さて、先に「居酒屋の賑わい」というように 譬えたコトを静止画でどのように表現できるだ ろうか。紙幅の都合上、冒頭で発した「そこで 何が起きていたか」という問いに具体的かつ詳 細な事例分析で答えることは難しい。そのため、
どういった視点と方法がその問いに答えるため に必要かを試みで提示してみたい。
Ⅲ 賑わいを表現/分析する:ケニアの子供た ちのダンスをめぐって
「子供たちが踊りだした」。この出来事は、私 が2011年12月、ケニア西部丘陵地帯、リフトバ レー州ナンディ県のある農村に滞在していたと きに起きた。figure 7は、その様子を撮ったビ デオから切り出した静止画である。
その場に居合わせた私自身がどのようにこの とき起きていたコトを経験したのか、そしてそ れをどう捉えることが可能なのか。本論文では figure 7を用いて提示したコトにおいて「何が 起きていたか」を議論するために、「何」の部 分を仮に「ダンス」と名付け、それが「どのよ4 4 4
うに4 4起きていたか」を同じくケニアで撮影した 動画から切り出した静止画をいくつか並置し、
比較検討してみたい。
1 訓練されたダンスとの比較
まずは、figure 8である。上は、初等聾学校 の子供たちが「ケニア全国聾学校スポーツ・文 化活動競技会」のダンス部門のために練習をし ている様子、下はその練習の成果を発表した様 子である。
教員の指導の下、子供たちが各自動きのパ ターンを予め学習する。Aという動きの次はB という動きというように、次の動き、そしてま たその次の動きを文字通り身につける。子供た ち一人一人が身につけた動きが表出し、それが 全体の動きとして揃うようリジッドに組織化さ れている。加えて、全体を統括する役割をもつ 子供が他の子供たちの前に立ち、手にしている 棒で動きの切り替えのためのキューを出す。
この競技会向けのダンスはどのように起きて いるのか。このダンスの場合は、ダンスに参加 していた子供一人一人の体の動きに還元して考 えることが可能である。なぜならこのダンスは、
(「指揮者」も含め)各自が予め決められた動き を学習した成果だからである。そのうえで、こ のダンスが展開するにあたっては、言うなれば オーケストラの「指揮者」のような役目の子供 がキューを出すことで子供たちは次の動きに移 る。
このような手続きを経て成り立っているダン スならば、先ほどのCAを援用し分析すること が可能であろう。まず、そこに参加している子 供たちを個別の身体を持つものとして捉える。
そのうえで、CAにおける「発話」を「体の動き」
に置き換え、その順番交替(turn-taking)に着 目すれば、そのダンスが「どのように起きてい るか」という問いにかなりの程度答えられるか
figure 7
もしれない。
では、figure 7で示したダンスはどうだろう か。整然と書き起こせるようなことが実際に 起きているのだろうか。figure 8で示した競技 会のダンスとfigure 7で示したダンスの連続 画を並置してみると違いがはっきりとわかる
(figure 9)。競技会のダンスは既に述べたよう に、ある動きから別の動きへ、「指揮者」が出 したキューで他の子供たちの動きが転換する。
他方、村で起きたダンスは、確かにまとまりは あるように見えるが、そのまとまりは学習ある いは誰かの指揮によって成り立っているわけで はない。動きの変化のきっかけをある個人/個 体に求めることはできない。コトが展開してい くうちにさらなる展開が起きており、すべての 動きが引き出され合っている(そこに主語はな い)、というよりほかはない。
2 インタビューと日常のおしゃべりとの比較 日常のおしゃべりについても同様である。
figure 10の左は初等聾学校の子供たちを3人
一組で自室に呼んで行ったインタビュー、右 はfigure 3の出来事すなわち同校の休み時間中 に教室内で起こったおしゃべりである。インタ ビューは、figure 5と比較してみると菅原が分 析した事例と類似しているように見える。私の 質問に対し1人が答え、その間、そこに居合わ せた(私も含む)3人は話し手をおとなしく見て いる。そこに賑わいは、ない。他方、教室内の おしゃべりは一人ひとりの発言に分けることが 難しいほど雑然としているが、雑然としている からこそ賑わいがそこにはある。
3 ダンスとおしゃべりを同じような出来事と して捉える
ここで重要なことは、「ダンス」や「おしゃ べり」がどのように4 4 4 4 4起きていたかという点に着 目した場合、「ダンス」と「おしゃべり」を別 個の事象として考える必要がなくなるというこ とである。figure 9とfigure 10で示した四つの 出来事を並置してみよう(figure 11)。figure 7 及びfigure 9の右側の「ダンス」は、確かにダ
figure 8
研究所年報 46 号 2016年1月(明治学院大学社会学部付属研究所)
ンスをしているように見えるが「これから『ダ ンス』を始めます」という号令のもとに始まっ たわけではない。言うなれば偶発的に始まり、
終息していった。さまざまなことが、雑多に同 時かつ連続的に展開していたのである。これは、
日常のおしゃべりと何ら変わらない。コトが始 まりコトが終わる。何者か、あるいは何物かが 号令をかけ、統制をとり、型に従ってコトが進
むのではない。コトが何となく始まり、コトの 展開がさらなる展開を呼び、コトは何となく終 わっていく。そのようにコトが起きているとき、
そこに居合わせた人たち一人一人に、あるいは それぞれ一つ一つの身体に予めはっきりとした 輪郭は備わっていない。
では、「人」あるいは「身体」は、どこにも 存在しえないのか。先の菅原論文における課題
figure 9
は、議論自体ではなく事例提示の方法であった。
菅原は「身体」に関して、次のようにはっきり と述べている。
さらに厳密にいえば、私の4身体、あなたの4 身体、等々ということばづかいは誤りであ る。「私」が独立して存在し、その私が身 体を所有しているわけではない。私=身体、
あなた=身体であり、私たちはそれ以外の 存在形態をもたない[菅原 2010: 3、傍点 強調は原文]。
菅原もまた、議論の上では「身体」を個別的 なモノとしては捉えていない。課題とすべきは、
「人」あるいは「身体」や、「物」が、どういっ た局面で個体として分節化されるのか、その過
figure 10
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程を議論の内容に合致した方法で4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4明らかにする ことである。その場合、それらがもともと独立 した個体として境界づけられた状態で存在して いるかのような記述を回避せねばならない。
本論文では、CAのトランスクリプションの 手法を採用せず、ケニアで撮影した動画から静 止画を切り出し、それを配置するという方法を 採用した。この方法が妥当だったかどうか、議 論と合致しているかどうか、それは読者に委ね るしかない。そして、本論文での試みを出発点 に、今後、事例提示の方法を開拓していきたい。
Ⅳ 個々の身体=モノ研究から、コト研究へ 「人」あるいは「身体」には、はっきりとし た輪郭がもともと存在しているのではなく、輪 郭は後から作り出されるものである。この考 え方を出発点に、「人」あるいは「身体」では なくコトに着目した事例提示と議論を試みてき た。なぜ、コトに着目する必要があるのか。そ れは、「賑わい」を「人」や「身体」に言及せ ずに議論したかったからだけではない。もう一
つ重要な意義がある。本論文を締めくくるにあ たって、最後に一つエピソードを紹介しよう。
日本のある通所型障害者施設の日帰り旅行に 随行したときのことだった。利用者1人に対し 職員1人とボランティア1人で一組、ないしは 利用者1人とボランティア1人で一組となって 行動を共にした。一緒に観光施設をまわり、帰 りには利用者が土産物を選ぶのを手伝うことに なっていた。基本的に自由行動で、それぞれ組 んだ相手と共に行動した。私が組んだ女性は言 葉を発することがなく、私は彼女のいくらか調 子の異なる発声と視線、表情などを手がかりに やりとりするしかなかった。彼女は車椅子を利 用していて、両手はほとんどあがらなかった。
食事介助のときが私にとっては最も「わかりや すい」ときで、口を固く結び顔をそむけること が「食べたくない」ことを、口を大きく開ける ことが「食べたい」ことを知るための手がかり となった。
私は朝から夕方まで彼女とほぼ2人だけで一 緒に過ごしたが、そこで私たちは何をしていた
figure 11
のだろうか。私は彼女が「言葉を発しない」か らといって黙っていたわけではなく、「次、ど こに行きますか」「あっちに行ってみましょう か」「○○さんがいますよ、行ってみましょうか」
「お土産どれがいいですかね?」などと、今思 えば言葉を発する人と一緒にいるときにはあま り言及しないようなことまでも言葉にして発し た。もちろん言葉で話しかけるだけでなく、話 しかけながら顔を覗き込んだり、しゃがみこん で相手の視線の先に手を伸ばしたり、土産物を 手に取って見せたり、それを彼女の膝に乗せて みたり、黙って顔を見たり、さまざまなことを やっていた。今、こうして言葉で分節化してい るが、「私がやったこと」「彼女がやったこと」
というようには分節化できないことを私たちは たくさんやっていたに違いない。
私たちに4 4 4 4何が起きていたのか。「私と(言葉を 発しない)彼女は何をしていたのか」でも「私 たちは何をしていたのか」でもない。問うべき は、私たちに何が起きていたのか、である。こ の問いは、日常生活において人と話をしている ときに、意味のあるものとして分節化された 声のまとまり、すなわち言葉を伝え合っている ことを当たり前としている/そうであると信じ て疑わなければ見過ごされてしまうだろう。言 語は、多くの場合「洗練された」「ロジカルな」
コミュニケーション・ツールとして捉えられ、
人のコミュニケーションにおいて不可欠なもの として考えられる(7)。このとき、言語を用いて
「正確」に「意思疎通」できない者は、言語を 話す者の周縁に追いやられてしまう。
他方、この問いを見過ごさないなら、話し言 葉(verbal)とそれ以外の身体所作とを分け、後 者を「非言語」(non-verbal)の行為として捉え ることになる。しかし、この捉え方も、身体所 作を「ロジカルな」言語の世界に取り込もうと しているに過ぎない。「非言語」として身体の
所作を捉えてきた諸研究における身体の所作を めぐる理論は、先の菅原が『コミュニケーショ ンとしての身体』で指摘した通り「記号論の体 系に多くを負ってきた」[菅原 1996: 25]。そう した理論に対し菅原は「厳密なコードの体系に したがった『意味するもの(シニフィアン)』と しての身体の手前に、他者と外界に向かって開 かれ、相互に疎通しあう『前=交通』としての 身体を認めなければならない」[菅原 1996: 28]
と主張する。
いまいちど、競技会のダンスを思い出してみ よう。競技会のダンスは、予め決められた動き を各自が身につけ、全体で揃うように訓練され た結果としてある。それゆえ、全体の動きは決 められた通り整然としていなければならず、そ の意味でそこに居合わせた身体は「外界」に向 かって開かれずダンスをしているメンバー内で 自己完結的に閉じることになる。そのため、と きにエラーが生じる。figure 12は、全国大会 で優勝したチームだが、途中1人だけ他の子供 たちとは異なる動きをしてしまった場面であ る。エラーとなったのは、手前の右から2番目 の子供である。
このときの「エラー」は、生じたというより も作られた4 4 4 4と言った方がより正確であろう。ダ ンスの参加者が予め動きを身につけ、全体が揃 うように訓練されているという前提に基づいて いるため、身につけたはずの動きと異なる動き をした子供はエラーを犯した者として区切り出 される。他の子供たちが足並みを揃えて踊って いた中で、「彼は4失敗してしまった」、と捉えら れてしまうのである。
この競技会のダンスを、先の輪郭の話と結び つけて考えてみよう。まず、各個人が定められ た同一の体の動きのパターンを学習する。あ る動きから別の動きへの変化も、変化のタイミ ングも、一人一人が文字通り「自分のもの」に
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しなければならない。このとき、各個人の身体 にはそれぞれ明確な輪郭を与えることが可能で ある。それぞれ独立した個体であるという前提 があるからこそ、全体が揃うよう更に訓練を積 まねばならない。「全体が揃うように訓練する」
ということはすなわち、体の動きを身につけた 各人の間にあった輪郭を今度は消すという作業 になる。こうして一糸乱れぬ動きができあがる。
しかし、figure 12のような事態が起こると途 端に、消し去ったはずの輪郭が再び明確に浮き 彫りになってしまう。訓練を重ねることで一つ になっていた身体の一部分が分離してしまうの である。
日常のおしゃべりの多くは、この競技会のダ ンスのような背景や展開を持たない。もっと無 目的で雑多で、そして賑々しい。その賑々しい コトが展開しているとき、そこに居合わせた人 たちの間の輪郭はぼんやりとしている。確かに、
そのとき居合わせた人たちは各々何かを行って いる。しかし、必ずしもCAでの表現に見られ るような一人からもう一人へ、また別の人へと いう形で整然と交替交替に発話を行っているわ けではない。
ケニアの聾の子供たちと多くの時間を過ごし た中で、私は彼らがどのように生活をしている のかということを知ることになっただけではな
かった。聾の子供たちも含め、人々が賑々しく 過ごしていること。そして、聾の子供たちの賑々 しさを私は目で感知していたはずだが、彼らが 時折声をあげることがあってもなくてもあま りに賑やかに感じられたこと。聾の子供たちの 賑々しさは、figure 6で表現した状況、すなわ ち耳の聞こえる大人たちが一緒に歌ったりしゃ べったり笑ったりした場に身を置いていたとき の経験と変わりはなかった。体の動きも声もそ こにある雑多な物もその賑々しさに一役買って いるが、だからといってそれらの間に──「風 呂敷」と「ガラスの器」と「桃A」「桃B」「桃C」、
更には「ガラスの器」の「細かな凹凸の数々」
というように──確固たる境界線を引くことは できない。それらが一緒くたになった状態を私 は経験した。この経験から、通常我々が「コミュ ニケーション」と呼ぶところの事象がどのよう に起きているのか改めて考えさせられることと なったのである。
ケニアの聾の子供たちは、学校開校期間中も 学校の敷地を出て(学校の使いとして)小売店に 商品を求めに行くこともあった。学校の長期休 暇に入ると子供たちは帰省先に戻ったが、親 きょうだいだけでなく、近所の人たちともよく 接していた。市場で売り手と値段交渉をするこ ともあり、また帰省先から再び学校に行く途中 に乗合バスの車掌と接することもあったが、彼 らはいずれも子供たちとは初対面だった。さま ざまな場面に私も居合わせたが、多くの場合そ こには賑々しさがあった。人々は「聾の子供」
と接するために、手話を「手話」として学ぶこ とはほとんどない。それにも拘らず、コトは賑々 しく展開する。
競技会のダンスとは対照的な、figure 7で提 示した子供たちの偶発的なダンスの事例は、コ トの賑々しさを議論するうえでいくつかのこと を示唆している。予め動きのパターンをそれぞ
figure 12
れの身体が学習し、その学習の成果が表出して いるのではなく、展開しているコトに居合わせ た「人」なり「身体」が文字通りその身を委ね ている。そこにはまた、様々な「物」もある。「人」
や「身体」、あるいは「物」が個々に独立した 状態で存在し、それらが何事かを成し遂げてい るのではなく、コトが始まりコトが終息してい く。その点で、(競技会のダンスやインタビュー とは異なる)偶発的な「ダンス」と「おしゃべり」
は同一のコトとして捉える必要がある。
繰り返しになるが、この「ダンス」と「おしゃ べり」すなわち「賑わい」において、「人」あ るいは「身体」は個々のモノとして輪郭を与え られるような存在ではない。それらは、菅原も ハイデッガーを引きながら指摘している通り元 来とけあっている[菅原 2011: 49]。今後の課 題は、そうしてとけあっている「人」あるいは「身 体」や「物」が、コトが展開していく中でどう いった局面でどのような分節化を見せるのか分 析することである。
この課題に取り組むために、分析者自身が無 反省に作り与えてしまいがちな輪郭をまずは捨 てようではないか。コミュニケーション論にお いて、言語から身体へ焦点を移行するのではな く、言語というモノからもまた身体というモノ からも離れて、そろそろ起きているコトに焦点 を合わせかつそれを表現/分析するときが来て いる。
このことは単にコミュニケーションの表現/
分析の方法を追究するということにとどまらな い。いわゆる西洋個人主義的発想を捨てたうえ で、人はいかにして存在しているのかというこ とを探究することにほかならないのである。
【注】
(1) 音楽の授業は一応カリキュラムの中に入って いるが私が初等聾学校に滞在中、音楽の授業 はほとんど行われなかった。一度だけ見かけ
たのは「楽典」の授業で、黒板に四分音符や 八分音符を教員が書き、生徒が教員の指示に 従ってペンで机を叩くことで音符がどのくら いの長さを示す記号なのかを学ぶというもの だった。
(2) 当時、サクラクレパスより「ふちどりマーカー」
が新製品として発売され、私のいたクラスで 流行していた。「ふちどり」という言葉も何か とふちどりをすることも私たちの間で流行り、
教科書の図や写真の中の人物などの輪郭を鉛 筆でなぞったりもしたものだ。
(3) 菅原は同論文内でこの事例を用いて「身体が もの(引用者註:figure 4の事例では指輪)に 潜在していたアフォーダンスを新たに抽出す ることと連動して、言語レベルでのものの主 題化が起きる過程」[菅原 2011: 51]の分析を 試みている。
(4) その点で、「人の声」や「人の手の動き」にの み着目しても、その場の賑わいを表現しきれ ないだろう。菅原[2011]でも指摘されてい る通りおしゃべりが起きている場には雑多な モノがあり、いつでも人のおしゃべりに参与 できる状態で待ち構えているのだ。
(5) CAの創始者であるサックスらは、その原初的 論文「会話のための順番交替の組織:最も単 純な体系的記述」[Sacks et al. 1974]で「話 すための順番交替の組織化は、他の発話交換 システムと同様に会話の根源である」[Sacks et al. 1974: 1]と述べている。「交替(turn-take)」
や「交換(exchange)」という語で表されてい るように、少なくともサックスらは、人間の 存在がそれぞれ個別的なものであるというこ とを暗黙の前提とし、その個別的な存在が集 まって行われるものとして会話(conversation)
を捉えている。
(6) 本稿で「写真」ではなく「静止画」という語 を用いるのは、そこで起きたコトの生き写し ではないことを大前提にしているからである。
尤も、「静止画」も文字通り「静止」している わけではない。見る者は静止しているモノか らさまざまな動きを見て取る可能性がある。
これについては古川=吉田[2011b]で、フロ イトの「ミケランジェロのモーゼ像」[フロイ ト 1969]における分析手法を取り上げながら 論じた。
(7) 日欧米では、言語が「コミュニケーション・
研究所年報 46 号 2016年1月(明治学院大学社会学部付属研究所)
ツール」としてのみならず、人々を集団化さ せる象徴としても捉えられてきた[古川=吉 田 2007]。言語は為政者によってしばしばコ ントロールされ、集団間の軋轢を生んできた。
ケニアを含む英国植民地期の東アフリカでも、
キリスト教宣教活動における聖書の「現地語 訳」の作成と深く関わりながら言語が創出さ れていき、それまでのゆるやかな共同体が「部 族」としてまとめられ英国植民地行政府によっ てコントロールされることとなった[e.g. 稗田 2002]。
【参照文献】
フロイト、ジークムント
1969「ミケランジェロのモーゼ像」『フロイト著 作集3』高橋義孝訳、pp. 292-313、人文書院。
古川=吉田優貴
2007「『一言語・一共同体』を超えて:ケニア Kプライマリ聾学校の生徒によるコミュニ ケーションの諸相」、『くにたち人類学研究』2:
1-20。
2011a「“まざる”ことば、“うごく”からだ:ケニ ア初等聾学校の子供と周囲の人々の日常の やりとりを事例に」『聴覚障害者情報保障 論:コミュニケーションを巡る技術・制度・
思想の課題』、生存学研究センター報告16、
pp. 56-102、立命館大学生存学研究センター。
2011b「映像の肉感学」『映像にやどる宗教、宗 教をうつす映像』新井一寛・岩谷彩子・葛 西賢太(編)、pp. 167-185、せりか書房。
2012 「うねる、とけあう:ケニア初等聾学校の 子供の体の動きを事例とした“共在”をめぐる 人類学的研究」、一橋大学大学院社会学研究 科提出博士学位論文。
稗田乃
2002 「創られた『言語』、東アフリカ(ケニア、
エチオピア)の場合」『現代アフリカの社会 変動:ことばと文化の動態観察』宮本正興・
松田素二(編)、pp. 220-235、人文書院。
Sacks, H., E. A. Schegloff, and G. Jefferson
1974 “A Simplest Systematics for the Organiza- tion of Turn-Taking for Conversation.”
. 50(4): 696-735.
菅原和孝
1996「序論 コミュニケーションとしての身体」
『コミュニケーションとしての身体』菅原和 孝・野村雅一(編)、pp. 8-38、大修館書店。
2010『ことばと身体:「言語の手前」の人類学』
講談社。
2011「潜むもの、退くもの、表立つもの:会話 におけるものと身体の関わり」『ものの人 類学』床呂郁哉・河合香吏(編)、pp. 47-68、
京都大学学術出版会。