NDC 402.105
日本における『格疑問笥の復刻とオランダの 出版元での『格致問答』の自己評価
幸 田 正 孝
(平成2年8月31日受付)
(1)
蘭学の代表的な入門書は,『解体新書』の出版(1774年)
かいていから/4年後に刊行された『蘭学階梯』(1783年成稿,1788 年刊)だ,といわれています。この書は,杉田玄白(すぎ た・げんばく,1733−1817)と前野良沢(まえの・りょう たく,1723−1803)の共通の弟子である大槻玄沢(おおつ き・げんたく,1757−1827)が27歳で書きあげて,32歳で 出版したものです。『(日本思想大系64)洋学(上)』(岩波
書店・1967年)に入っているので,それでみると,上下2
巻からなるこの書は,56ページ分(317−372ぺ)をしめて います。上巻(330−41ぺの12ぺ分)は,日吉関係の歴史・蘭学の効用と発達をのべ,下巻(342−72ぺの31日分)は,
オランダの文字(活字体の大文字・小文字,筆記体)・ロー マ数字・ローマ字による五十音図・学習方法など初歩のオ ランダ語文法をのべたもので,上下巻をあわせて,文字通 り,西洋学への手引き(階梯)となるものでした。
その書を書くうえで,大槻玄沢が参考にした本の1つに,
師の前野良沢があらわした『蘭訳笙(らんやくせん)』が あります。〈笙〉とは,「竹をあんでつくった筒状のカゴの ことで,水中に沈めて魚をとる道具」だそうですから,
『蘭訳笙』とは,「オランダ語を日本語に翻訳する道具」
という書名になります。もともと,『解体新書』の原本(い わゆるタ「ヘル・アナトミア)を読みとくための手引き書
として,.1771年に作成されたものでした。それを増補・修 正し編成がえをして,1785年に『和蘭(オランダ)引目』
が作られたのです。しかし,この書も,前野良沢の他の著 書と同じく刊行されることなく,写本で流布しました。
この『和蘭訳笙』も『(日本思想大系64)洋学(上)』に
入っており,それでみると38ページ分(89−126ぺ)をし
めています。翻訳の仕方という点からみると,より実際的 ではあっても,入門書としては『蘭学階梯』の方がずっと 整っているので,入門者はまず後者から入った,といわれ ています。でも,40ページていどで書かれた英語やドイツ語の入門
書があると考えてみて下さい。『蘭学階梯』などがヨーロッ パのコトバをはじめて学ぼうとする島々への親切な手引き書だとしても,語学の文法書としては全く不十分だったの
です。
安永三(1774)年といえば,『解体新書』が刊行された つう 年のことです。その年,長崎にいたオランダ語の通訳(通
じ
詞)・本木良永(もとき・りょうえい,1735−94)が同僚
の協力をえて『天地二球用法』4巻 天球儀iと地球儀の使い方 の翻訳をおえています。地動説を紹介した早い
時期の文献だ,といいます。かれの教えをうけて天文学を なかのりゆうほ 発展させたのが,志筑忠雄(しっき・ただ.お,中野柳圃ともいう,1760−1806)です。イギリス人の天文学者が書い
たニュートンの『プリンキピア』の注解書のオランダ語訳 本を,『暦象新書』3編(6冊)として翻訳しています。
(成立年代は,上編が1798年,中編が1799年,下編が1802 年)。かれはオランダ語の学習についても,これまでは,
分かっている数少ない単語などを手がかりに原文にとりか かっていたのにたいして,なによりも文法の必要さを強調
ていこつした,といわれています。大槻玄沢も『蘭訳梯航』 杉田玄白の『蘭学事始』ができた翌文化十三(1816)年に成
M
で,その学〔蘭学〕の詳密に至りしというは,天明の初
年〔1781年〕,長崎において,中野柳圃という人よりしてその正法〔せうほう,正しい方法〕起これり。こ
の人,もと訳司〔通詞〕なりしが,多病にしてその職
を辞し,ひとり隠れて病を養い,その自ら好む所の和蘭書にふけり,専らその学を研究し,その中,かの文 科〔文法〕の書を読んで,よくその法を了解・教諭せ
しに始まれり。従来の訳家の本務とする所は,右にい えるごとくなれば,絶えてこの事に及ばざるなり。〈今,う 東西の学者〔学問をする人〕は,この遺教を承けて,
かの書を解する事なれば,その所説の正(ただしき)
を失わず,意義の全きをうる〉と聞ゆるなりω。
103 一
と,「崎陽〔長崎〕の柳圃,その修学の正式を起こせし」
理由をのべています。それにつづく文章で,柳圃の弟子で オランダ語の通訳である吉雄権之助(よしお・ごんのすけ,
1785−1831)や馬場佐十郎(ばば・さじゅうろう,名は貞
こく り
由,号は柏里,1787−1822)にふれています。とくに馬場 ばんしょわは江戸によばれ,文化八(1811)年に幕府天文台に蕃書和
げ ひよう
解御用が開局されると,和解(翻訳)の中心となりました。
大槻玄沢も加わって,フランス人ショメール(1633−1712)
が作った『家庭百科事典』のオランダ語版の翻訳(『厚生 新編』)をしたのです。そのかたわら,天文台の役宅で江
戸の蘭学者にオランダ語の文法を教えたりしていまし
た(2)。
大槻玄沢の『蘭漸漸航』にみえる述懐には,『蘭学階梯』
いらいの30年余りの時間がこめられているのです。
こうした長崎の通訳の系譜をひく人々の手になるオラン ダ語の文法書も作られ,写本で広がっていきました。
しかし,蘭書への要求が強まった1820−30年代になると,
オランダで作られた文法書そのものが,活用されることに なります。
たとえば,坪井信道(つぼい・しんどう,1795−1848)
はその塾・安懐堂(のち日習堂)で,シーボルト(1796−
1866)が持ってきたというウェイランド(1754−1842)の
『小文典』(3)を1829(文政十二)年から使いはじめました。
オランダ語の綴りの規則や文法書の作成に力を入れたのが ウェイランドだったので,かれの辞書や文法書が利用され て,学習者の力を一段とつけたようです。
備中国足守(あしもり,いまは岡山市内)の緒方洪庵(お がた・こうあん,1810−63)は,22歳になった天保二(1831)
年二月に江戸の坪井塾に入り,本格的に蘭学の修業をはじ めました。緒方富雄さんは,
洪庵は,自序に,「このころ原書を数十巻読んだ結果,
どうやら顔にかかった膜がとれて,かゆいところへ爪
がとどくような気がするようになった」とのべている。よほど学力がついたのであろう。……そればかりでな く,洪庵はこの時期に,かなり多くの翻訳・編述をし ている。そのうちいくつかは,のちのちまで,ひろく 読まれた(4)。
と,日習堂の塾頭になった洪庵をえがいておられます。
シーボルトの弟子である伊東玄朴(いとう・げんぼく.,
1800−71)は,〈マートシカッペイ(社会福祉協会)の文典〉
『ガラマチカ』Grammatica和蘭文典前編(文法編)
と『センタキス』Syntaxis和蘭文典後編(文章編) を,
1833(天保四)年にひらいた学塾・象自暴で使っています。
これらの文法書は,「簡にして要をえた」ものであり,需 要の多いものでした。
そこで,江戸の白山草堂にいた熊坂蘭斎健)(くまさか・
らんさい,1799−1875,1852年に松前藩の藩医となる(5))
が,『ガラマチカ』に書名だけ日本語で『和蘭文典(前編)』
といれて,1840(天保十一)年に翻刻したのです。筆記体
で板にほらせた1冊本です。2年後の1842年には,箕作院
甫(みつくり・げんぼ,1799−1863)が「作州箕作氏蔵板」として刊行しました。さらに玩甫は,1846(嘉永元)年に なると,『センタキス』も題名だけ日本語で『和蘭文典後編』
とつけて翻刻し出版したのです。
× × ×
こうした語学書とならんで,1823−29年にかけて在日し たシーボルトの影響をうけて輸入されたとされるものが,
標題にあげた『逆送問答』Natuurkundig Schoolboekです。
〈送致(かくち)〉とは,格物致知の省略で,儒教の経 典である『大学』から出た格言のようです。「致レ息出レ 格レ物」(知を致〈いた〉すは,物に格〈いた〉るにあり),
つまり,〈知力を十分に働かすのは,物事の道理を究める 点にある〉,〈物事に本来そなわっている理を究めて,自分 の知を拡充する〉などの意味のようです。原本の「自然科
学(究理学)教科書」という書名と,先生と2人の生徒と
の対話という叙述のスタイルから,「格致問答」という訳 名がつけられたようです。この書が輸入されたことが特定できるのは,1832年のこ とで,同じ著者であるボイス(1764−1838)の『民間格致
問答』Volks−Natuurkundeなどと一緒に入ってきていま
す⑥。(『民間格致問答』にたいして,『格致問答』のことを『学校格致問答』とよんだこともあります。)
しかし,1832年よりも前に日本国内で活用されていたこ とがわかる記録があります。
おおよそ1820年から29年まで,長崎出島のオランダ商館 で荷倉役などをつとめた人物にJ.フィッセル(1800−48)
がいます(7)。1828年の台風で座礁し,シーボルト事件の 発端をつくったコルネリス・ハウトマン号にのって,かれ
はその翌年に日本をさっています。帰国してから,1833年 にアムステルダムで『日本風俗備考』を出版しました。こ の書はヨーロッパで大層好評をはくし,幕末の日本でも注 目されていました。その中で,
」,ボイス氏の『自然科学教科書〔格致問答〕』も日 本人の手によって全部または一部が日本語に翻訳され ている(8)。
とのべています。(同時代人のボイス氏は,1830年〈66歳〉
からオランダ学士院の会員となっており,1834年にはナイ トの勲章をうけることになります。)
ここにみえる日本人が誰なのかは,すぐには特定できな いようです。しかし,日本学士院編『(明治前)日本物理 科学史』(日本学術振興会・1964年)によって歴史をさぐっ てみると,わかるかもしれません。
日本における『格致問答』の復刻とオランダの出版元での『格致問答』の自己評価 幸 田
江戸に出て杉田玄白に学び,1822(文政五)年に幕府の
天文方蕃書和解御用の巾員に起用された人物に青地林口
(あおち・りんそう,1775−1833)がいます。かれは『格 物綜凡』(所在不明)をつくっているのですが,のちにそ の一部を使って,『気海狂瀾(きかいかんらん)』1冊(1825 年成稿)を1827年目出版しました。青地先生・述のこの漢 文の書が,印刷刊行された日本で最初の物理書だ,という
ことです。
〈気海〉とは,〈地球の周囲にある大気・生物が遊泳す る空気の海のこと〉だけではなく,天体がうかぶ宇宙空間 をもさしているようで,〈気海観瀾〉とは,〈「気の海」が 波立っている様子(瀾)を考えてみる(観)〉,つまり,分 子運動から天体の動きまでを考察する,とでもいう意味に なります。『格物綜凡』にしても『気海観瀾』にしても,
参考文献があったのですが,知ることはできません。この
『気海観瀾』を,20年後に娘婿の川本幸民(かわもと・こ
うみん,1810−71)が増補し,15巻5冊からなる『気海観
瀾広義』として翻訳し出版しています(1851−58年に刊行)。その第2冊の「凡例」で,ようやく原典がなんであったの
かが分かります。原書は文政十一年和蘭人ボイス氏著わす所の『アル ゲメーネ・ナチュールキュンヂク・スコールブーク』
(格物綜凡)と題せるものにして,初学に理科の大意 を知らしめんが為にするところなり(g)。
とのべられています。『気海観瀾』の原本は『格致問答』だっ たのです。そして,川本幸民が増補するさいに使ったのが,
文政十一(1828)年の第5版だった,ということでしょう。
この書は1800年目出てから版を重ねているので,そのどれ かを青地林宗が使っていたのです。
帆足万里(ほあし・ばんり,1778−1852)には,8巻の
本文と付録からなる『窮理通』があり,原稿は1836年ごろ にできています。この書は写本として流布したのですが,かれの死後,.3巻だけが江戸で刊行されています(1860年)。
巻頭の「引用和蘭書目」にはみえないのですが,巻之八「諸 生」篇のはじめの所に,「かつて『心的・顕的の二途問答』
を読む」(10)とあります。『格致問答』は,Jantjen(ヤン・
揚的)とHeintjen(ヘイン・顕的)という男女の児童と先 生との問答で話が展開するので,ここから書名をきめたの でしょう。「ヤンキーヘンキー問答書」(11),とか「ヘンチー・
ヤンチー究理問答」(12),「賢智陽智」(13)などともいわれ ています。また,杉田玄白の孫・杉田成卿(すぎた・せい けい,1817−59)には,『二童問答』と題した天保十四(1843)
年の訳稿があります(14>。シーボルトの門人・日高涼台
(1797−1868)にも,『格物窮理論』という訳本があります。
これらからみると,ブイッセルが指摘した人物は,青地 林宗である可能性が一番高くなります。
『出島問答』の原語版は,坪井信道のあとをうけた信良
(しんりょう,1823−1904)の日習堂,佐藤泰然(さとう・
たいぜん,1804−1872)の順天堂,越前大野藩の洋学館α5),
佐賀藩の蘭学寮,福岡藩の賛生館などでテキストとして使
われていました。(2)
このように需要の多い本を,書きうつす手間や写本する
さいのミスを防ぎ・美しい形で原文のまま復刻したのが,ぎしんさい
箕作秋坪(みつくり・しゅうへい,号は宜信斎,1825−86)
でした。『和蘭文典』と同じように,筆記体のオランダ語 でほらせてあり,題名だけは日本語で「格致問答」とつけ
てあります。そのころ,備中国(今の岡山県)の1部に幕府領があり
ました。幕府領といっても,そのすべてを幕府が直接支配 したわけではなく,近くの大名などに管理をまかせたこと もあり,この地域は美作国(みまさかのくに,作州)津山あずか ち あずか しょ
藩の預り地(預り所)になっていたのです。管理する大名
くちまいは,年貢などは幕府に納めるのですが,農民から口書とよ ばれた付加税をとったり,その労働力を使うこともあった ようです。幕末では30数名の大名が,およそ71万石の預り地を管理していた,といいます。箕作秋坪は津山藩預り地
ユうがくにあった藩の教諭所(民衆教化もかねた郷学)の学監・菊地文理(きくち・ぶんり,士郎,1798−1837)の次男とし て生まれました。19歳でいったん江戸に出,22歳で再び江 戸に出て箕作血温の門に入ったあと,25歳で大坂にあった
てきてききい
緒方洪庵の適々斎塾(適々塾とも適塾ともいう)に入りま した。入門帳である『(適々斎塾)姓名録』をみると(当 時は菊地姓),
同〔嘉永酉年〕四月十七日入門 作州津山
閏月十七日入塾 菊地内訳(16)と出ています(17)。嘉永二(1849)年の四月十七日に入門し,
ちょうど1ヵ月後の翌月(閏四月)十七日から塾での寄宿
生活を始めたことになっています(18)。『姓名録』の「菊地秋湿」という署名の左側に,上から
「為箕作玩甫之義子」(箕作玩甫の義子〔義理の子,つまり,
養子〕となる)と,あとから他人の手で記入されており,
姓が変わったことを示しています。では,いつごろ変わっ たのでしょうか,また,適々塾での修業はいつまで続いた のでしょうか。
かれが塾での寄宿生活をはじめてから,ちょうど3ヵ月 たった(嘉永二年)七月十七日づけの手紙があります。箕
作玩甫から菊地秋坪にあてたものです。そこに,先月末より急御用調べ物これあり。月々天文台出勤。
朝5時ごろ国富。黄昏〔こうこん,たそがれどき〕ま
105一
かり帰り申しそうろう。おいおい訳局〔翻訳局〕も盛 んになりそうろう事と存ぜられそうろう。なにとぞ日 夜御心精,来秋頃までには,御帰府のほど御心掛けな
さるべくそうろう。頑冥〔がんめい,かたくなで物事 の道理にくらいこと〕日を送りそうろう時節にはござ
なくそうろう。折角〔せっかく,十分に気をつけて〕御勉強なさるべくそうろう(ユg)。
とあります。これでみると,〈嘉永三年の秋(七〜九月)
ごろまでには江戸へ帰ってきてほしい〉というのですから,
1年数ヵ月の修業(留学)が予定されていたようです。
ところで,箕作家が藩に提出した勤め書き(奉公書)を まとめた『(津山郷土回報第8集)箕作家勤書』があります。
それによって,秋意の名をさがすと,翌嘉永三(1850)年 八月八日から出てきます(20)。玩甫は,養子の省吾(しょ うご,文政四〈1821>年生まれ)を弘化三年十二月十三日
(1847年1月29日)になくしてから男子がなく,儒者・菊
げラ
地四郎(文理)の二男秋坪に,三女のつね(1829−66)
を配して養子にしたい,と考えていたのですが,その八月 八日に藩主から許しをえた,と『信書』にあります。
それから10日後の八月十八日には,
停(せがれ)並並,大阪表(おもて)木下備中身様
御医師・緒方洪庵と申す者方へ,かねて〔前々から〕寄宿修業まかりありそうろう処(ところ),そのまま 差し置き今1ヵ年なお修業いたさせそうろうにつき,
修業料・金5両これを下さる(21)。
とあります。藩医のあとをつぐ者にたいして,家業の修業
料として先例どおり5両給付されており,〈前から修業中
の息子・秋坪を,ひきつづきもう1年間修業させよ〉となったようです。実はその4日前 養子の件が受理されてか
ら6日後一の八月十四日の玩甫の手紙があります(22)。秋坪にあてたこの手紙では,はじめて「箕作秋坪殿」と箕 作姓が使われており,差し出し人は「同 玩甫」となって います。そこには,
……足下養子の一件,先日内意申しこみ,本月〔八
,月〕五日,願書さし出しそうろう。八日,願いの通り 仰せつけられそうろう。大安心にござそうろう。早々 この旨お知らせ申すべくそうろう処,飛脚便の間につき延引におよびそうろう。なおこの上は御出精,来歳
とう三月ごろまではその都〔大坂〕御逗留,それよりはこ の都〔江戸〕にて御療治御修行これあり。来年・来々
年の間にも家督ゆずりそうろうよういたしたき事に存 じそうろう。……
とあります。
養子の件は,「大坂へ行く前からあったのでしょうが,
具体的になってゆくのは,嘉永二(1849)年暮から翌三年
へかけてのよう」(23)です。52歳にもなっていた玩甫の喜びようが,〈飛脚便のもどかしさ〉とく大安心〉というこ
とばにこめられており,1〜2年のうちに家督もつがせた
がっています。嘉永二年四月に始まった大坂での秋坪の修 業も,私費留学から官費留学へとかわり,嘉永四年の三月ごろまで,2年間近く続きそうです。実際,江戸における
津山松平藩邸の公用日記である『江戸日記』(津山藩江戸 詰御用日記)によると,「嘉永四年四月十九日に江戸に帰り,六月四日に院甫の女(つね)と正式に結婚した」(24)ので
した。
『箕作家直書』.によると,嘉永五(1852)年正月二十七
日置長男の奎吾(けいこ,1852−71) 玩甫の5番目の 孫が生まれており,1ヵ月後の二月二十八日に,藩主・
松平斉民(まつだいら・なりたみ,号は確堂,1814−91;
11代将軍徳川家斉の子で津山藩主・松平斉孝の養嗣子)か ら,秋坪は〈御目見え〉を仰せつけられています。
翌嘉永六(1853)年六月にペリー(1794−1858)が来航 すると,藩から「浦賀表までまかり越し,異国船の様子聞 きつくろい申し越すべき旨」を命じられ,詳しい報告書を 提出しています(25)。
養父の箕作院甫は,幕府の命令で天保十一(1839)年六 月いらい,〈蛮社の獄〉で自殺した小関三六(おぜき・さ んえい,1787−1839)の後任として,天文方の山路弥左衛 門(やまじ・やざえもん,譜孝,?一1861)の役所(蕃…書 和解御用)で翻訳に従事していました。ペリー来航のさい には,国書の翻訳を担当し,「アメリカ船より差し出しそ うろう書翰和解等の儀,骨折りにつき,御手当」として銀
15枚をえています。さらに,ロシアの使節プチャーチン
(1803−83)との交渉が長崎で行われることになると,勘 定奉行・兼・海防掛りの川路聖護(かわじ・としあきら,
1801−68)の随員となって出かけています(『西征紀行』)。
幕府では,こうした外交上の必要性もあって,蕃書和解 方の拡充を行っているのですが,それと同時に,軍事上か らも正確な洋書の翻訳や語学の修得にとどまらず,科学技 術(芸事)を摂取することが必要となったのです。当時の
幕府政治の中心人物は,水野忠邦(みずの・ただくに,
1794−1851)が2度目の失脚をした1845(弘化二)年いら
い,備後国福山藩主の阿部正弘(あべ・まさひろ,1819−57)でした。老中首座のかれが,安政元(1854)年五月に
〈幕政改革意見37ヵ条〉をつくり,こうしたこともふくめ て予算の裏づけができるかどうかを勘定奉行(松平近直〈ま つだいら・ちかなお,幕府の軍制改革・外国貿易の中枢に すわったが,生没未詳〉と川路聖護)に諮問しています(26)。
そして,1年後の安政二(1855)年八月に,古賀増(こが・
まさる,通称は謹一郎,1816−84)がく洋学所頭取り〉と なり,洋学所設立の事務をとりあつかうことになりました。
幕府の儒官であったかれの父・伺庵(どうあん,1788一
日本における『格致問答』の復刻とオランダの出版元での『格致問答』の自己評価 幸 田
1847)に学んだ箕作玩甫(1799−1863,津山藩医)が,そ の相談役となったのです。57歳にもなり病気がちであった 箕作院甫は,この年の三月に養子・秋坪に家督をゆずって いたのですが,ひっぱり出されたのです。洋学にたいする 抵抗(27)や十月の安政の大地震などもあって,翌安政三年 に〈蕃書調所(ばんしょしらべしょ)〉という名前になり,
校舎も決まりました。そして,人選が行われ,各藩の了解 をえたうえで,箕作玩甫と杉田成卿(すぎた・せいけい,
杉田玄自の孫で若狭国小浜藩医)の2人が出役〔しゅつや
く,藩からの出向という形〕で教授職〔教頭に相当する〕に任命され,教授手伝いなどの決定も行われたのでした。
(蕃書調所の開所は,翌安政幽く1857>年正月のことです)。
その間,息子の箕作秋坪は,嘉永六(1853)年十,月から
天文方で蕃書和解に従事していたようで,2年後の安政二
(1855)年には31歳で津山藩士箕作氏の家督をうけつぎ,
なみ藩主の侍医(御医師並)となりました。そして,その翌年・
安政三(1856)年からNatuurkundig Schoolboekに題名だ け日本語で『格致問答』とつけて,翻刻・出版をはじめた のです。
『格致問答』の本文は筆記体のオランダ語でほられてい
るのですが,表紙には活字体で〈NATUURKUNDIG
だいせん
SCHOOLBOEK>の題籏があり,その第1巻(冊)である ことを示すように数字の〈1>がその下に入っています。
そして,表紙の見返しにはく格致問答〉という大きな文字 をはさんで,右側に〈安政三年丙辰初秋〔七月〕開離〔ちょ う=彫〕〉,左にく美作宜信斎蔵〉とあります。安政三(1856)
みまさか
年七月遅ほった板木で,美作の宜信斎(秋坪)がそれを所 蔵している,ということです。
この書は,『産前問答』の第1編の1828年版を復刻した
もので,丁づけのほかにページづけもされており,出版元 の社会福祉協会と著者ボイスの序文につづいて,第1話(第 13ページ,第七丁)から第9話までの80ページ(四十丁)が入っています。これが初編第1巻(冊)にあたります。
表紙に〈NATUURKUNDIG SCHOOLBOEK/2>とある『格
致問答(初編二巻附図)』は,〈安政三年丙辰開始〉,〈美作 宜信斎蔵梓〉とな.って.います。〈蔵梓〉というのですから,安政三年に開彫させた板木を国母が所蔵し,上梓〔じょう し,出版〕したというのです。第1巻につづく第10話から 第17話まで,第81ページ(四十一丁オ)からく第1編終り〉
の第174ページ(八十七丁ウ)まで入っていて,巻末に4
枚の天文図がおりこまれています。安政三年に開彫されたこれら初編の2巻(冊)は,いつ
ごろ出版されたのでしょうか。その間の事情は,緒方富雄編『緒方洪庵のてがみ(その 1)』(菜根出版・1980年)によってうかがうことができま す。この本は,手紙の原物の写真版・その解読,それに現
代語の訳文と解説をつけたとても親切なものです。この本 の大部分は,箕作倉主にあてた洪庵の安政元(1854)年十 二月から文久三(1863)年五月にかけのてがみ71通で,そ
れが年代順にならべられています。その17番目のものは,安政四(1857)年閏五月十二日づけで,先月〔五月〕二十 八日づけの秋雨の手紙にたいする返事となっています。そ
こに,
過日は『格致問答』一部御恵投下され,多謝したて
はうまつりそうろう。能きもの御出板,大いに広益にあ いなり申すべくと存じられそうろう。売り本の分,1
く 部2朱(28)と仰せ越され(2g)そうらえども,当地〔大坂〕
もんめ (分)
書林にて,24〜25匁位に売りそうろうよし。1部2朱,
当時27匁ばかりにあいなりそうろう故,書生どもみな
ご わ書林にて求めそうろうよし也。いかがいたし申すべ
きや,御伺い申しあげられそうろう(30)。とあります。秋坪が先生である緒方洪庵に贈呈した〈『格 致問答』の1部〉とは,安政三年に開彫させた初編の第1
巻と第2巻の2冊のことをさす,と思われます。とすると,安政四年の五月までには出版されていたことになります。
それにしても,秋坪が販売方をたのんだ「売り本の分,
1分2朱」とは,今の値段になおすとどれくらいになるの
でしょうか。安政六(1859)年に「安政小判」にかわるまで使われて
いた「天保小判」の地金の値段で換算してみることにしま す。この小判1枚の重さは11.2gで,金が6.4g,銀が4.8g ふくまれています。現在(1983年10月)の金銀の価格を,板倉聖宣『原子とつきあう本』(仮説社・1985年・65べ)
によって調べて換算してみると,天保小判1枚(1両)は 1.97〜1.98万円,つまり,およそ2万円となります。1両
は4分,1分は4朱に当たります。〈1分2朱〉で売ってほしいというのですから,(おそらく初編の2冊 174 ページ(八十七丁)と折りこみ図4枚 で)7500円とい
うことになります。翌安政五年一月十日づけの洪庵の手紙
フ し
によると,『働口経験遺訓』の初秩(第1・2・3巻)
七十六丁 の売価は9匁(2朱),つまり,2500円
となっています。これとくらべると,『格致問答』の初編 2冊で7500円は,ずい分高価な本だということになります。江戸は金本位,大坂は銀本位ということもあって,大坂 の書店の売価の方が秋坪に頼まれた売り値よりも1部あた り2〜3匁(およそ1割)安いので,洪庵が「どうずれば よいのか」とたずねています。この返事に直接対応した手 紙はわかりませんが,4ヵ月後の洪庵の手紙(第26番)に
その手がかりがあります。九月二日づけの秋坪の手紙に対
して,九月二十一日に出した洪庵の返書です。貴著『格致問答』も同様の事,なにとぞ然るべく御
算用御引き取り下さるべく願いたてまつりそうろう。一 107
もっとも,貴著の方は過日御懸け合い申しあげそうろ う通り,書林の方,価(あた)いも廉なると申しそう く
ろうこと故,1部二朱より二百文引き売り申しそう
ろう。さよう御承引下さるべくそうろう(31)。洪庵があずかった『格致問答』の代金の清算方法をのべ ており,それでみると200文引き・つまり・12%引きの
6600円で塾生に売ったことになります。『格致問答』の初編が完成すると,早速それを寄贈する とともに売りさばきを依頼し,舟便などで届けた(32)と思 われますので,『格致問答』の初編2冊は,安政三(1856)
年に開板されたが,その出版は安政四(1857)年五月ごろ だ,と考えてよさそうです(33)。
秋坪は,安政四(1857)年の七月には外国奉行員となり,
フ し
江戸にいて緒方洪庵先生の『扶氏経験遺訓』の出版許可を とりつけるなど,その出版に協力してきました。扶氏とは,
ドイツの医学者フーフェランド(1762−1836)先生のこと で,その主著の蘭訳本(1838年)を洪庵が翻訳し(1842年 に稿成る),安政四年の年末にその初編(初鉄)がようや くできあがったのです(そこには洪庵の師でもあった箕作
院甫の序文がつけられています。また,全30巻の刊行が終
わるのは,1861年のことです)。翌安政五(1858)年の六月には,神奈川で日米修好通商
条約が結ばれます。この年の二月に,福岡藩の武谷裕之(たけや・ゆうし,
のち椋亭,1820−94)にあてた秋坪の手紙があります。武
谷は,筑前国鞍手郡高野村(いまの福岡県鞍手郡若宮町大
字高野)の出身で,父親の元立(げんりゅう,1785−1852)はシーボルトに学んだく筑前蘭方医の先唱者〉です。かれ は,天保十四年(1843)年に緒方洪庵の適々斎塾に〈筑前 若宮・武谷裕之〉として入門し,四年間修業したというこ
とです。秋坪より5歳年上で,適々斎塾の先輩にあたりま
す。
秋坪の安政五年二月七日づけの手紙には,
旧縢〔きゅうろう,去年の十二月〕念三日〔二十三 日〕の御細書,頃日〔けいじつ,先日〕拝見つかまつ
りそうろう。御紙上の趣,一々拝承たてまつりそうろう。スコールブーク次郎,この節上梓〔出版〕取りか
かりおりそうろう間,出来次第,早々御送り申すべく そうろう(34)。とあります。この「スコールブーク次編」とは,『格致問 答二編』のことでしょうから,二月上旬にその出版に取り かかっていることになります。
ところで,1ヵ月後の三月九日に秋坪が緒方洪庵あてに
出した手紙にたいして,洪庵が三月二十八日に書いた返事 があります(洪庵のてがみの第37番)。そこには,一、「スコールブック」の事,新渡の新本,御差し
ごばカラ
出し下されたき旨,御尤もに存じたてまつりそうろう。
しかしながら,〈ヤンチーヘンチーと申すもの〉甚だ ひろく世間の耳目に慣れそうろうこと故,まず已前の 本,御差し出しなされ,続(つい)で,新説御差し出 しなされそうろう方,売れ方なども便利ならんか,と あい考えそうろう。如何(いかん)(35>。
とあります。オランダでは,『スコールブック(止血問答)』
の新版(後述の『自然を知る手引き(教科書)』)が1851年
に・その第2改訂版が1856年に(36)出ています。安政五
(1858)年の手紙ですから,秋坪が手にしたのがどちらの 版かはきめられません。でも,『格致問答』は,前にみた ように,「ヤンキーヘンキー問答書」とか「ヘンチー・ヤ ンチー窮理問答」などともいわれて,洪庵の.いうように「甚 だひろく世間の耳目に慣れ」られており,秋坪とすれば,
〈その新版を世間に提供することの方がもっと意義があ
る〉と考えたのでしょう。しかし,そのことを知ら1された 師の洪庵は,〈まず出しかけの『格致問答』を出版しおえ てからの方が,販売面や資金面からみてもいいのではない か〉と助言しているわけです。ですから,三月の時点では,『格致問答二編』はまだ出版されていないようです。
では,〈いつごろ出版されたのか〉というと,安政六(1859)
年一月十七日づけの洪庵の手紙(第50番)一一月四日
づけの素案の手紙にたいする返事 に,手がかりがあります。
……『格致問答』二編御卒業のよし,祝いたてまつ りそうろう。仰せ下されそうろう条々,承知つかまつ りそうろう。着きそうらわば,それぞれ取りはからい 申すべくそうろう(37)。
これでみると,「『格致問答』二編」.の開板がおわっただ けではなく,おそらく販売の依頼などをしており(「仰せ 下されそうろう条々」),洪庵が本の到着を待ちうけている ことがわかります。そこで,表紙に〈NATUURKUNDIG
SCHOOLBOEK/TWEEDE・DEEL 1>とあり,表紙の見返し
に,大きく<格致問答二編〉,その右に〈安政五年戊午開彫〉,
左にく美作 宜信斎蔵梓〉とあるこの書は,どうやら年末 には発行されたといえそうです。(協会の幹事ラフェッケ スの〈前書き〉につづいて,第1話〈1ページ,第二丁オ〉
から第11話の終り〈101ページ,五十二丁オ〉まで入り,
巻末には2葉の広告があり,裏見返しにく三都書物発行〉
とあって三都の書店名が入っています。)もっとも,1年
半後の万延元(1860)二七.月越日づけの洪庵のてがみ(第62番)一六月十七日づけの手紙への返書一コ追申には,
『格致問答』の事,御申しこしの旨,あい心得申し そうろう。望む人もこれありそうらわば,早々申し上 ぐべくそうろう(38)。
とあります。初編の場合と同じように,この時点で,改め
日本における『格致問答』の復刻とオランダの出版元での「三三問答』の自己評価 幸 田
て本の販売を依頼し価格のやりとりがあったのかもしれま せん。〈希望者があれば,早速連絡しますよ。〉というので すから,値段の交渉があったように思えます。
ところで,この書の巻末には販売書店(「三都書物」)の 広告があります。その中に,この書の広告も入っています。
窮理 格致問答 箕作先生校正 初編二冊既刻・二編 入学
ノ上一冊併図一帖既 刻・二編ノ中二欝欝 刻・二業ノ下綴織
らんしょ とぼし たまたまき ちん
原書は乏くて且つ価貴し。偶々奇書珍本ありと錐も,
容易に机上に置きがたし。此を以て,先生為にこの書 しょせい
を翻訳せしめ,生徒をして学びやすからしむ。この書 じもんじとう うえず えが や,窮理の入学にして自問自答に説き,その上図を描
ていねい
き丁寧反復のこす処なし。実に儒門の大学と謂うべし。
殊に文法も正しければ,「和蘭文典」と共に必読すべ き書は,これに勝るるはなし。
(大庭雪斎〈おおば・せっさい,1805−73>には,「和 蘭文典」の翻訳書として『訳和蘭文語s全5冊があります。
この書は,1856−57年にかけて刊行された,とされていま す。その最終巻にも酷きほどの広告文と全く同じ文章が,
「訳和蘭文語』の宣伝文とならんで入っています。「蘭学 入門必読書」であるというこの全5冊が完結しているのに,
宣伝では「初編2冊既刻」のままになっています。『格調 問答』も『訳和蘭文語』も販売書店が同じなので,同じ版 木をそのまま使ったのでしょう。)
この宣伝文にみえる「二心ノ上一冊既刻」にあたるもの が,やや部厚いのですが,いまみてきた『格致問答二目』
でしょう。
ところで,荒木幸太郎編『(文化移入に関する)古書展 覧会目録』(蟹行社・1925年)には『格致問答』として初
編の2冊が,東京科学博物館編『江戸時代の科学」(1934年,
いま・名著刊行会・1980年)には初編2冊のほかに2編1
冊と「格致問答二霜露」があがっています。日蘭学会編『洋 学史辞典』(雄松堂出版・1984年)も後者をうけついでいます。
『格致問答二編綴 完』は折り本で,左から12枚の図版
(竹口貞斎・刻)をのせたものです。宣伝にみえる「図一 帖既刻」とあるものでしょう(3g)。
ところが,「格致問答』の2編には,先にみた第1冊に つつく第2冊があります。大きさは第1冊と同じで,表紙 の中央上部に題籏があって,これまでと同じく活字体で くNATUURKUNDIG SCHOOLBOEK>とあり,その下に数 字の<2>が入っているのですが,<TWEEDE DEEL>が
欠けています。表紙の見返しは,黄色の紙が使われているのがちがうだけで,第1編の第1冊と全く同じになってい
ます。安政三年に,初編の第1冊と同時に開彫したとは考 えられないので,板木を流用したように思えます。ただ,
〈格致問答〉という書名の右下・,[:壷垂]と枠でか こった朱印があります。帳(ちつ)とは「書巻の編次」の ことでもあるので,それからすると,広告にいう「二編ノ 中二冊既刻」とする中巻のうちの第1冊目にあたることに なりそうです。内容とページづけ・丁づけは第1冊(「二 面ノ上一冊」)につづいていて,第12話(第102ページ,五 十二丁オ)から第15話の終り(170ページ,八十六下戸)
までとなっています。この巻の丁づけは85のつぎに,八十 六上そして八十六下となっていて,これにつづく予定の「二 編ノ中」の第2冊目の丁づけとの関係からか,〈八十六〉
が上下と2葉になっています。(八十六下のウラは白紙,
ウラ見返しも白紙となっています)。
「二編ノ中」の第2冊目も出版された可能性はあります。
年雨承論調蘭離
嚢翠差三密蕪難
麹欝蝶、, 鎌.撫 魯、
左が初編第1冊の見返し・右が二編第2冊の見返しと本文(西京高校蔵)
一 109 一
明治7年から明治10年にかけての短期間存在した山口県の
華浦医学校の旧蔵書目録(40)に「格致問答(図共) 六冊」とでていて,それが11組もあるというのです。長州藩の藩 校の蔵書も引きついでいるということです。
箕作秋坪より1歳年上で,3年早く適々塾に入った人物
が,大村益次郎(おおむら・ますじろう,もと村田蔵六,1824−69)です。かれは26歳で塾頭になり,その年に入門 した秋坪とは1年近く一緒にくらしたことになります。安 政三(1856)年に,宇和島・伊達藩の蘭学や兵学の担当者
として江戸へ出て6年ぶりに秋坪と再会し,交流も盛んで
あったようです(41)。大村(当時は村田)は,安政三年十 一月に蕃書調所の教授手伝い用役となってから,ユ年後に は開設された講武所へ出役替え〔配置がえ〕となっていま す。長州藩士になるのは,万延元(1860)年のことです。かれの蔵所目録(42)には,秋坪の『格致問答』も入っており,
長州藩でも藩校のテキストとして使われたのでしょう。
(「二編ノ中」の第2冊目の調査,「二編ノ下近刻」とあ る「二編ノ下」の存在,また,原本の1828年版と 『喜泣問 答』の比較などについては,残された課題とします。)
(3)
さきにみた『格致問答二編』の巻末にあった宣伝文には,
〈この書は科学の入門書としてだけではなく,オランダ語 に習熟するためにも利用すべき必読書だ〉とありました。
利用する人があり,出版してもなんとかやっていけるとい
う予想がたって翻刻したのでしょうから,まんざら宣伝文 句とばかりはいえないようです。実は,ペリーやプチャーチンが嘉永六(1853)年にあい
ついで来航し,対外情勢が緊迫してくると,洋書の印刷と 販売を幕府が計画することになるのです。日米和親条約をむすんだ二ヵ月後の安政元(1854)年五
月に,老中首座・阿部正弘(1819−57)は, 洋学所(蕃 書調所)の設立の所でみたように 〈幕政改革意見37ヵ 条〉を起草しました。それをうけて勘定奉行が翌月にだし た答申(「海防建議」)には,蘭書の儀については,下直〔げじき,安価〕に手に 入りそうろう含みこれあり。当時〔目下〕,長崎奉行
に懸け合い中にござそうろう(43)。とあります。
当時の長崎奉行は,荒尾成充(あらお・しげまさ,?一
1861)でした。かれは,嘉永六(1853)年八月にくロシア使節応接掛り〉としてプチャーチンと会談し,翌安政元年
に阿部正弘に抜てきされてその職についたばかりでした。
これまで,幕府には儒学をおもに教える学校(昌平坂学問
所)はあったのですが,それに相当する軍学校はありませ
んでした(44)。そこでこのころ,江戸では洋式砲兵学校に もあたる講武所の準備をすすめており,長崎では安政二年 からオランダ人の士官による海軍伝習が始まったのです。
長崎奉行は,その海軍伝習方丈取締り・永井尚志(ながい・
なおむね,1816−91)とも相談のうえで閣老・阿部伊勢守 正弘に伺い書を出したのです。安政二(1855)年六月に提 オランダ
出した「阿蘭陀活字板蘭書摺立〔すりたて,印刷〕の儀に つき,伺いたてまつりそうろう書付」がその上申書で,八 月には採用されることになりました。この結果,長崎奉行 所のうち,出島の真向いにあった西役所に,〈活字板摺立所〉
が設立されることになり.ます。(安政四年十二月には江戸
町五ヶ所宿老会所に移転し,海軍伝習の第2次の教官団と
いっしょに来日した「早業活版師」インデルマウルから指 導をうけています。翌安政五年には出島に移転し,奉行所 の役人もそこへ出勤したようです)。この〈活字板摺立所〉で使われた印刷機と活字や工具の
類は,川田久長さんの推定によると(45),嘉永元(1848)年の七月にオランダ船が遥遥(わきに。商館員や船員が個 人的にもちこんだ商品のことで,取り引きの責任者は商館 長)として持ちこんだようです。
〈近代活版印刷のはじまりは1800年にある〉そうです。
.イギリスのスタンホープ(スタナップ)伯爵の3代目チャー
ルズ・スタナップ(1753−1816)一アメリカのイギリス
からの独立やフランス革命に共感した人物だそうです が,総鉄製の印刷機を考案設計しました。そして,1800年 にロンドンで製作して売り出されました。このスタンホー プ印刷機は,とても巧みなテコを使っていて,わずかの力 でハンドルをひくと大きな力でラセン棒が回転し,圧盤が 下がって印刷面に強い圧力が加わり,しかも,圧盤を上げ るにも労力をむだにしない仕組みになっている,というこ とです。プレス遅く圧盤)の寸法は,19×24インチ(48×61cm)のものと,20.5×26インチ(52×66cm)のものと,
2種類ありました。
当時も大新聞であったロンドン・タイムズ(1785年創刊)
のその頃の紙面は,巾20インチ・たて33インチ(51×84cm)
でした。毎日9000部を発行していたこの新聞は,夜中の12
時に原稿がしめ切られてから翌朝の6時までの間,毎日5
.時間,12台の印刷機をフルに働かせて印刷したのです。各 館に2人つつの職工がつき20分交代で操作した(46),とい
います。こうした手刷りでは,印刷機1台につき1時間で
新聞150部がやっとだったことになります。それにしても,当時としては画期的であったようで,オランダのアムステ ルダムにもこれを製造する工場があったようです。川田さ んは,「長崎所伝の印刷機も多分アムステルダム製のスタ ンホーープ=プレスであったろう」と想定しています(47)。
長崎奉行の上申書がいれられた翌安政三(1856)年には,
日本における『格致問答』の復刻とオランダの出版元での『格致問答』の自己評価 幸 田
もう本が出はじめています。オランダ語の文法2種類(社
会福祉協会の『シンタキシス〔和蘭文典後編〕』とウェイ ランドの『スプラァキュスト〔バタビア共和国版・オラン ダ語文法〕』)・各1冊(部数はそれぞれ500部余り),つぎに,オランダ語の歩兵調練書全3巻が刊行されました。そ こで,本によっては従来の市価の25分の1の値段で手に入
ることになりました(48)。それだけではなく,安政四(1857)年十二月には,これらの本の値段をさらに2〜4割も引き
下げる予定が長崎奉行にあったのです。印刷のでき具合を知るために,安政五(1858)年に出島 で復刻されたボイスの『Vo隻ks−Natuurkunde〔民間亡命問 答〕』と,安政三年に同じ本の第2版を平野俊平(ひらの・
しゅんべい,1828−95)が江戸で書名だけ日本語でつけて 復刻した『理学訓蒙初編』(筆記体の木板)とをくらべて
みましょう(鋤。出島で印刷されたものは,活字が上がっ
たり下がったりして横1列にきれいには並ばず,また,1
つの活字の一部分の印刷が不鮮明な場合もあって,全体としては「筆記体の木板」にくらべると,とても読みづらい 印象をうけます。いい仕上がりだとはいえません。
安政三(1856)年の十二月,長崎奉行から老中・堀田正 心(ほった・まさよし,1810−64,阿部正弘の推挙で老中 首座となっていた)に,これから印刷する予定の書名をの せた報告書が提出されました。そこには,オランダ語英語 の対訳字書(蘭英辞典)1冊,オランダ語の工芸辞典1冊,
それに,ボイスの『格致問答』があがっていたのです。そ の書面の「覚」をみると,
ボイス(人名) 著述
一、『ナチュールキュンデイグ・スコールブック』初 巻一冊
右は学校にて教諭のため相用いそうろう究理書に
て,修学の者,必用の書にござそうろう。とあり,安政五年までには出版の予定になっていまし
た(50)。もっとも,古賀十二郎さんによると,「ボイスの書 と工芸辞典とは復刻されたかどうかは不明である」とのこ とです。『洋学史事典』のく出島版〉にもみあたりません。あるいは,箕作秋毫による復刻本が安政四年五月から刊行 されたためかもしれません。(なお,秋坪は,安政六〈1859>
年になると,蕃書調所教授手伝いに出役しており,勤務期 間中は10人扶持と年8両を支給されています。文久元
〈ユ861>年に勘定奉行・兼・外国奉行の竹内保徳〈たけの うち・やすのり,1807−67>が,江戸・大坂の松島と兵庫・
新潟の開港の約束を実行することが困難であったので,そ の延期をはかるために,幕末最初の遺命使節となって出発 やといほんやく
しました。この一行に,秋坪が傭反訳兼医師〔臨時の翻 訳係り・兼・医師〕として加わり,贈り物として2冊の本
をたずさえていきました。森島中良くもりしま・ちゅうりょ
う,桂川甫斎,1754−18ユ0>が著わし,箕作玩甫が増補し ばんこせん
た『改正増補・蛮語箋』と,薄紙に刷りあがったばかりの
『扶氏経験遺訓』秩入り全3冊〈822丁ヵ〉です。そして,
パリに一行を出迎えたライデン大学・日本学教授のホフマ ン〈1796−1877>に前者を,訪問先のオランダで同大学の 総長に後者を,1862年に贈っています。)
× × ×
『格致問答』は各地の蕃校でも使われ,幕府もその復刻
を考えたほど必要な本でした。そのために,その中に出てくるオランダ語を解読するための専用の辞書(『格致問答 字書』前編1冊)が作られたほどだったのです(51)。当時 の日本人の評価の高さをしのぶことができます。
(4)
『格致問答』は,幕末の1820年代から50年代にかけて,
〈蘭学を学ぼう・科学を知ろう〉とする日本人に,大いに 頼りにされた本でした。
では,オランダではこの本の評価はどうだったのでしょ うか,また,この本がどうして作られたのでしょうか。
オランダが1つの国家として歴史に登場してくるのは,
16世紀の末にスペインから一応独立してから後のことで
す。当時スペインは,ドイツや南イタリアをはじめ,アフリカ・アジア・新大陸(西インド)にまたがる世界の大帝
国をきついており,V一マ教会(カトリック・旧教)の守
護者として任じていました。この大帝国が今のオランダ・ベルギーなどネーデルラント〔低地〕とよばれる地方も支 配していたのです。そのため,スペインから独立する運動 のにない手はプロテスタント(新教徒)が中心となりまし た。そして,オランダの〈黄金時代〉ともいわれる繁栄の
力で独立することができたのです。そのプロテスタントの一宗派に,メノー・シモンズ(1496
頃一1561)にはじまる派がありました。この派も,17世紀 の前半のく黄金時代〉には,全人口の1割以上の人々を信
者にしていた,といいます。(1700年では,人口200万人のうち16−20万人が信者だったようです。)
しかし,1650年ごろから1810年ごろまで150年余りの間,
オランダの人口は200万人でふえもへりもしませんでした。
社会が停滞してしまったのです。それにつれて,メノナイ
トの数もへったようです。(1820年には3万人一コ口の
およそ1% となっています(52)。現在〈1980年〉では信者はおよそ6万人一%では1820年の半分足らず と
なっています(53)。)
オランダの社会が停滞したのは,イギリスなどにおいあ
げられたことも原因なのですが,生産よりも流通(金融)に力点をうつしたからだ,ともいいます。社会に活力がな
一lll一