二枚 の 絵 札
――
伊勢物
語かるたをめぐって
――
藤島綾
要旨
伊勢物語かるたは、伊勢物語の和歌二〇九首を上句と下句に分けて、それぞれをかるた札に書いたものである。本稿では、
そのなかから一番歌と五番歌の札に認められる装飾や図様に注目し、場面イメージや和歌の評価との関連を検討する。あわ
せて、図様と伊勢物語絵入り板本との関係についても考察する。
伊勢物語かるたができるまで
一 条 天皇 の後 宮 で、定 子が 古 今 集の 草 子 を 見 な が ら和 歌 の 上句 を詠 み あ げ て 女 房 達 に 下句 を問 う た と こ ろ、 女 房 達
は思うように答えられ ず悔 しがっ た とい う ( 『 枕 草子』 「 清涼 殿 の 丑 寅 の 隅 の 」 )。 歌 句 の記 憶の 正確さと 早さ を競 う 遊
びが平安 時代からあった こ とを伝え るが 、 こ れ に 似た 遊 び は歴史の な か でたびたび繰り返さ れ てきた こ とだろ う 。
江戸時 代 に 、 そ の遊びは歌がる た の 形をとるように な る 。 こ の 頃の歌がるたは 、 現在と 違 っ て 上句と下句を 分けて
そ れ ぞ れ の札 に書くの が一般的 で あ る 。 さらに、札に書かれた 内容 に応じ て 、
①上句札・ 下 句札ともに 文 字だけのも の
②一 方の札 に 絵と文字、もう一 方 に文字 を 持つもの
③上句札・ 下 句札ともに絵と文字を 持 つ もの
に分けるこ と が で き る 。 本 稿は伊勢 物語 のか るた のなかで も② を 考 察対象と する もの で あ る。
かる た誕生の契 機 となったのは、ポ ルトガ ル から 伝 来 し た プレイン グカ ード で あ っ た と言 われる 。 カー ドは日本国
内 で も 遊 戯用 カル タと し て 生産され 、や がて 賭博 にも 用 い られ るよ うになり 、流 行と禁 令 を繰 り返す。 一方で 、 和 歌
とも結び ついて 、 我々 が知 ると ころ の歌 がるたが 生まれたとい う。
歌がるたが現在のよ う な 長 方形の 形 状をとるまで の経緯に つい て は 不 明 な点 も多く、 説が分か れる が、 江戸 時 代 初
期にその 形状 が定着したと いう 点はとく に問題とさ れ て いない ようで ある 。 当時を語るも のと し て よく 知 ら れて い る
言説に次の二 つがある。 ひ と つ は山口 吉 郎 兵 衛 『 うんすんかるた』 (リ ーチ、 一 九 六 一年 ) が紹介 する 『歓遊桑話 』 ( 桑
林軒著、宝暦 頃か )の 記事で あ る。
抑本朝にて 其 始、源氏絵会貝
(ママ)合せ 初り、其 後中院道村
(ママ)公、 小倉色 紙 歌 合せ加 留 多 、中立 売 麩屋何某に 命 じ て 作 ら
せ、次第追て 今専業を 所為 、其職の 渡 世 と す。
中院 通村( 一 五八八― 一六 五三 )が 小 倉 色紙歌合 か る たを 麩屋 何某 に命じ て 作ら せたとい う内 容だが、 山口 氏は 通
村には元 和二 年にか る たを 作らせた とい う事跡が 伝わ る こ とか ら ( 宮武外骨 『賭 博史 』 )
(1)
、 ま んざら見当 違 い でもあ る
まいとし て 、 歌がる た 創始 に関 わ る 一 説 とし た。
そ の 後、 細川 三 斎 (忠興) の 身 辺に いた詳 細 不明 の「し う かく 院」と い う女 性が 古 今 集の かる た を 考案し た と いう
記事 が 『 当 家 雑記』 (九州 大 学 附属 図 書 館 細 川文 庫) に あ る こ と を 中村 幸彦 氏が紹介し た 。
(2)
長文のた め 掲 出は控える が 、
こ の 記事 は歌 がるた に 関す る興味深 い話を 複 数伝 え て いる。概 要を まとめる と、
・世間 で は歌が る たが流 行 し て いるが 、 こ れ は「しう か く 院様 」 が 考 案 し た古今集 の 札に由 来 す る と思 わ れ る。
・以前は、紙に古今集歌 の は じ めの五 文 字を書い て 、 貝覆の「ぢ 」 と 「 だし 」 の よ う にし て 取 って 遊ん で い た が 、 そ
れに 飽 き てき た「しうかく院様 」は 、 紙 を厚く 貼 り重ね てかるたほ ど の大 き さ と し て 、 色を二 色 に分 けて 、そ れ ぞ
れに 上句と 下 句 を 書い て、貝 覆 の 方 法 で 遊 ん だ 。
・ 以 前 の かる たの 札 は 現在 のも の よ り大 きかっ た 。
・紙製の大き な札だけ で は な く 、小さ な 板 に も書いた。
・
「 しうか
く院 様 」 が 作 っ た札 を 京 の 「 御ま ん 様 」 へ 贈 っ たのち 、 京 で は和歌を 書 い て い ない 紙の 札が売ら れて い る の
を見た。 そ の 後、し ば らく し て から 歌 を 書い た札 が売り出 さ れ た。
となる。 中 村 氏は、 「 し う か く 院 」 が かるた を 「御 ま ん 様 」 へ贈っ た 時 期 を慶長五年 ( 一六 〇〇) 頃 と推定し、 当 時 一
三歳だった 中 院通村より早 く歌がるたを 考案したこ と になると され た。 『当家雑記 』 の 記 事が 紹介 され ると 、 こ の 説 は
歌がるた の発 生に関して し ば し ば言及され る よう にな っ た。
(3)
さ て 、 「 しうかく院」 とは、 三斎の側 室 で あ っ た 秀岳院 ( 一五七 七 ? ― 一六三 五 ) を 指すと 考えて よいだろ う。 細 川
家の『系図 ( 寛永マ デ ) 』( 九 州大 学附属図 書館 細川文庫)によれば 、 明 智 次右 衛門の娘 で 名 を小也也 と言い、 三斎と
の間に 千 丸と お 万 を産 ん で いる 。天 正五 年に生まれ 、 寛永一 二 年に 肥後八代で 五 九歳 で 病 死したといい 、法名は周岳
院雪心 宗 広 と いう 。 『 系図』 記 事は、 行 年を五 八 歳とし て 法 名 を 周 岳院雪 山 宗 広 とする 細 川家家史 『 綿 考輯録』
(4)
との 間
に若干の 違い があるも のの 、 お そらく同 一人物 で あ ろ う。 一方 、 娘 のお万 ( 一 五 九八―一六六 五) は、 『綿 考 輯録 』 に
よると、元和元年 (一六一 五)に父に伴われて上 洛し、一 一月 一九 日に烏丸 光 賢 に一八歳で 入 輿 し て い る。 その 後 、
寛文五年 に京で 六 八歳で 卒 し た とい う ( 『 系 図』 )。 『綿考 輯 録』 には秀岳院を 「御万 様 御妾母 也 」 と 記し て い て 、 『当家
雑記』が伝え る 「 しうかく院様 」と「御まん様 」 と のやりとりは、 この母 娘 のものと考え る こ とが で き る 。
(5)
秀岳 院 は
才 気 煥発 な人で あ っ た らしく、 『当家雑記 』 は そ の利 発さを示す逸話を 複数書き 留めて い て 、 その ひ と つが こ の歌 が る
た考案に 関す るもの で ある。記事には、歌がる た を考 案し た 秀岳院 が京に暮らす お 万 に 贈 っ た とするが 、お万の上 洛
はさきほ ど述 べた よう に元 和元 年 で あるこ と から 、彼 女のもと へ歌 がるたが 届け られたの も元 和以降と いうこ と に な
る。 中村 氏の 推 定と一 五年の開き が ある という こ とに なる。元 和元 年に通村 は二 八歳。 翌 元 和 二 年には 通村 が京 で か
るたを制 作さ せた記録 が残 っ て いる とい う宮武外 骨 の 指 摘が知ら れ る
(6)
(南蛮カ ルタを模し た も のを作らせ た ら し い ) 。
その場合 、お万が京 で 秀 岳 院から歌 がるたを受け 取った時期と 通村がかる た を作らせた時期に 大差ない。歌 がる た の
始まりと 関連深 い 二つの説 が指す時 期はほぼ同じで あ り、前後を つ ける こ と は難 しくなる。今 の段階 で は通村の日 記
を 未 見 で も あ り
、 こ
れ 以 上 の 追 求 は 難 し い
。 と
は い え
、 元
和 期 の 京 に お い て
、 か
る た 札 や 歌 が る た が ひ ろ ま り つ つ あ っ
た状況に ついて 、後 世 の著 述 で はあ るが 、異なる二つの資料が同時 期 を 指し て い る こ とは 、 ひ とつの目 安と なるだろ
う。
歌 学 の第一人 者 で あっ た細 川 幽 斎(一五 三四―一 六一 〇) はす で に 亡 い 。 し か し 、 通 村とお万とい う幽 斎の 二人の
孫が かるたの制作 や京 での流布に関 わ っ たという記事内容 は興味 深 い も の で ある。永 青文庫には、 三斎筆と伝え られ
る 百人一首の扇面 かるたも残さ れ て お り 、近 世初期 の 細川家のかるたと の関 わりをう かがわ せる 。
(7)
さ て 、 『 当家 雑記』 の記事 によるか ぎり 、 京 に 広 まり始め た頃 の歌 がる たは 、 当 初は何も 書か ない札 で あり 、 や がて
文字 を書 いた 札が発売 され たという。 そ う で ある とすれば 、歌 がるたに 絵を 描く ようになるの は、 元和以降 というこ
とになる。 現 存 す る最古 の 絵 入 り歌が る た は 、 道 勝 法親 王 ( 一 五七六 ― 一六二〇 ) 筆 と伝わ る 百人 一首 かるた で ある。
ポ ル トガル か ら 渡来 し たカー ド や国内 で 生 産 さ れ る よ う に なっ たカルタ は 図 様 を 伴 っ ていたし 、 百 人 一 首に つい ては、
歌仙絵制 作との関 わ り から 粉本が存 在した可能性 は十 分考えられ る 。 こ の道勝法親 王 筆か る た は元和寛 永期 に刊行さ
れたと推 定され るい わ ゆる素庵本『 百人 一首』と 挿絵 や 本文に 共 通点が指 摘 さ れ て おり、
(8)
図像を 形 成 す るうえで も 何
らかの影 響関係にあった こ とが考えられ るという。
これらを ふま え る と、 本稿 で考 察対 象と す る 伊勢物語 の 絵 入り かる たが 制作 さ れ る よ うに なっ た の は、 百人 一 首の
絵 入 りか るた より 後のこ と だ ったので は な いかと 考 え る 。 当時 の 歌 が るたの 遊 び 手 で あ った 知 識 階級 に と って 、古 今
集や百人一 首 、 伊勢物語の修得は必須だっ た こ とから 、 文字だけのかる た は 比 較的早 く 制 作 されたかも し れ ない 。 し
かし 、 絵 入 り かる たとな る と、 い くら 伊 勢物 語 の 絵画化 に 平安時代からの長い 歴 史があったとはい え、和 歌 二〇九首
にに一図ず つ の新たな 図様を 付 与して い く作業は 、百 人一 首の そ れ と比較して 、 多くの労力と 手間を要 し た に違い な
い 。 実際に 、現時 点 で 私が 制作 年 代 を確 認できた最も 古い 伊勢物語 絵 入 り か るたは十 八 世 紀 初 めに 制作 されたも の で 、
千種 有 敬 (一六八七― 一 七 三八) が享保二年 (一七一七) から享保七年 (一七二二) の間に和歌 を 書いた個 人蔵 のか
るたで あ る。
ここで 、 か る たの遊び方 に 触 れ て お き た い 。 江 戸 時 代 のかるたの 遊 び方は多様で ある 。 た だ し 、 江 戸 時代の初め頃
に は 、 『 当 家 雑記』 が 述べるよ う に 貝覆と同じ遊 び 方 を し てい たらしい 。 具 体 的 には、 上句札 か下句 札 の 一 方を床 に 並
べ、 中央に隙地を空け 、 そ の隙地に もう 一方の句 札 を 置 き ( 一 枚 ず つ置くか、 複 数枚を積ん で 置くかは判然としない。
い ず れにし て も一 枚 の 札 の 表 だ け を 見 ら れる よ う に 置 く ) 、 囲 座 の 人々 は 隙 地の 札を 見 た後、 その周 囲 の札 を見 て、 上
下句一首 にな るように札を 取っ て 数 を競 っ た とい う 。 こ の 遊 び 方ならば 、囲 座の 人々がみ な、隙地の札を目 にするこ
とになる。隙 地の札が絵札で あ れば 、参 加者は皆 絵札 の絵 と文字 を 見る こ と になる 。 現代とは 異なり、和歌を読み上
げる こ と はし なかっ た よう だが、その後元禄期には読 み手が登 場したと いう 。
(9)
元禄 期 の 印 刷 技術の発達 で かるたが 大
量生産され る とともに 、遊び 方 も多 様化 し て いったと 考えられ る。
絵札から何をよみとるのか
〔一〕装飾
伊勢物語 かる た の 札は 通 常 は 二 〇九 首、 四一 八枚 で 一 揃 い で あ る 。 何 ら かの 事情 で一 〇〇 首分 二 〇 〇枚 で 販 売 さ れ
る こ とも あった よ うだ が、 その割合 は高 くない。 一般 に絵 入り か る たの場合 、上 句札 に絵 があ る場合 が 多 い が、伊 勢
物語の場 合 、 粉本次第で は 下 句 札 に 絵を 描く場合 も あ る。 また 、木 版か るた の場 合 には、 上 句 ・下 句札 の 両 方に絵 を
持つもの もあ る 。 そして 、 これらの 札を 見 て いく と、上句か下 句の 一方の札 の 摩滅が進んで い る 例があり、実際に そ
れを 使用 し て いたこ と も確 認で き る 。 さ き ほ ど述 べた ように、絵 入 りか るたで 遊 ぶ場合 、 参加 者 達 は絵 を 目 にするこ
とが多か っ た と考えられ る 。かるた に描 かれたさ まざ まな 絵は 、人々の中 で 、そこ に 書かれた 和歌と結 び つ い て い っ
たの で は ない だ ろ う か 。
さ て 、複数の 伊勢物語 絵 入 りかるたを 比 べ て みる と 、 全く 同 じ 図様 を持つ肉 筆かる たは存在しない こ と に気付 く。
もっ と も 、図様そ のものは特 徴 に も と づ い て い く つ か の グ ループに 分 け る こ とができ、複数 の 粉本 の存 在 も 想定 で き
る 。 し か し、かりに 同 じ粉 本に遡り うる同 一 グル ープ のかる た で も 図様は少 し ず つ違っ て い る。どう や ら か る たの絵
というも のは 、粉本 を 使い ながらも 、省筆し たり加筆 し た り、 左右を反転させた りし て 、適宜加減をしながら描い て
いっ たら しい 。
(10)
これ は 伊 勢物語だけ ではなく、 源 氏物 語 の かるたにつ い ても同様 である こ と を 塩出貴 美 子 氏 「 「源 氏 物
語かるた」 考 ―源氏絵 の簡 略化 ・ 抽 象 化 ・ 象徴化―」 ( 『 奈良大学 紀 要 』 四 一号、 二 〇一三 年 三 月 ) が 指摘 す る 。 も ち
ろん、粉 本 を 尊 重 しながら 描いたと 思 わ れ る 札も 存在 する 。粉 本に対する姿 勢はさまざまで あ る こ とに 注意 し て おか
な け ればな ら ない 。伊勢物語 絵入りかるたの場合、図様 の
グループとして 三 つほどを 確認 で き るが 、い ずれのグ ルー
プに も 属 さない か るたも複数あり 、 今後さらにグループが
増える 可 能性 が高 い。 また 、各グ ル ープ の な かで もさ ら に
細分化が 可能で あ り、 図様の分類はやや 複雑 で あ る。
その 一方 で 、 グル ープの 違いにかかわ らず 、 絵札に 共 通
する特徴も存 在する。一番歌「春日野 の 若 紫の 摺 衣しのぶ
の乱 れ 限り知られず 」の札 が、 ほ かの札 と比 べて 華や かな
札に仕上げ ら れ て いる の で ある 。 図 1に掲出した鉄心斎文
庫かる た をはじめ、 図 2の同 志 社大 学 か るたも同様で あ る 。
鉄心斎 文 庫か る た は札の上 方に銀砂子がふんだんに撒かれ
てい る。 描 か れ て いる 人 物 も 景物も数 が多 く 、そ れ を 濃 彩
で彩 色し ている た め、 視 覚 的 に 強い 印 象 を 受 ける 。 ま た 、
同志社 大 学か る た は 、複数 種 の 金砂子が絹地の 札 一面 に撒
かれて い る。こ の よ う な一 番歌を 華 や か に仕立て ると いう
特徴は 、 現在 ま で 確 認 でき た伊勢 物 語絵 入りか る たの 約半
数に認 め られ るもので ある 。 そ れ ら は、
図 1 伊勢物語かるた
(鉄心斎文庫蔵 1)
図 2 伊勢物語かるた
(同志社大学図書館蔵)
① 他 の絵 札よ り 人 数が 多い 。
②景物の数も多い 。
③色 数が 多く、顔 料も濃い 。
④金 銀箔 ・砂子 を 多 め に撒 く た め、 余白が少 ない 。
などの特 徴を 持っ て い る。
じ つは 、 絵 入 りか る た にこ の よ う な特 定の札を 装 飾 す る例が あ るこ とは、 す で に 指 摘 さ れ て い る。た と え ば 、山 口
格太 郎氏は、元禄 期に成立し た 源 氏 かるたについ て 、桐壺 の札が装 飾 豊 か で ある こと を指 摘したう え で 、
かる たの筆頭の札 を師匠 格 の 絵師 が 丹念に 描 くというのは 常套 であっ た らしい 。 「光琳 かるた」 と い わ れる百人 一
首に も、最初の天智天 皇 と 最後 の順徳院の札にだけ、裏面 に「 法 橋 光琳」と署名 さ れ て い るし、 や や時 代は下が
るが 、谷 文晁 筆の百 人 一首 にし て も 、柿 本人麿の 札 だ けを 文晁 が描 き 、 他の 札は 実 子 の 文 二や 、弟子で あり 女婿
で あっ た 文一以下に描かせて い る 。こ の 「貝源 氏 絵入り歌かるた」 もその例外 で はなさそう で ある 。
( 『
源 氏 歌 か る た
』 、
徳 間 書 店
、 一 九 七 四 年
)
と述べる。また、 百人一 首 の場合、近 世 中後 期 か ら明治時代にかけての木 版 彩色かる た( とく に 廉 価 版 ) で は、 二 番
歌の持統天皇の姿が多 色刷 り で 模様も丁 寧 で あるこ と を 吉 海直 人氏 が指 摘 し て い る( 『百 人 一 首 か るた の 世 界』 、新 典
社、 二 〇 〇 八 年 )。 吉海 氏 によ る と 、 こ れ は 、 か るた やの 営業方針によ る も の で 、 男 性ゆ えに 地味に な り が ち な 一 番歌
の 天 智 天 皇 札 では な く 、 女 性 で あ る ことか ら 衣 装 な ど に 豊 かな彩 色 が 可 能 と な る 持 統 天皇 札 を 百 人 一 首の一番 上 に 置
き、 客 の 購 買 意 欲 を 刺 激 する た め の 措 置 であ っ た ろうと の こと である 。 あ わ せ て 吉 海 氏 は、 明 治 時 代 に な る と 天 智天
皇だけを 派手 に彩色した絵 札も存在するこ と を指 摘し て いる 。 こ の 点について は 、 単 純に 一番歌を装飾 し た という だ
け で なく 、 同 時に明 治 天 皇という男性天 皇 の権威 が 強 化 さ れ る 中 で 行 われた 可 能 性 も検討でき よ う 。か る た の札の 細
やかな 描 写や 装飾が、絵師の立 場や 商人の販売戦 略に よっ て 左 右され る の で あ れ ば、時代や社会を反映 し て い た 可能
性も十分 にあ りうるので は ないだ ろ うか 。同じよ うに 特定 の札を華やかに仕 立 て た絵 入り かるたは、右の源氏や百 人
一首のか るた だけで な く 、 古今集や 自讃 歌のか る た な ど に も確 認で き る 。
こ の よ う な絵札の特徴は 遊 びも影 響したと考えられ る 。時 代は 下る が、 明治 三三年 ( 一九 〇〇) に 博文 館か ら出版
さ れ た安 藤謙 吉『福引集』 「 う たかるた必勝談 」 には、かる たの 並 べ 方 と関連 し て 、 次 の よ う な記述があ る 。
極め て 初 心の 人は札の 汚損 したのだ とか 、或 は書 体の 呵笑なの だと かを記憶点と するや う だが 、家を 異 にす ると
共に其の 札も 亦異なるの で あるから 、謂 はゞ労して効 な き並べ 方 で ある 。
ごく初心者にとっ て 、 札に見ら れる汚損や和 歌の書 体 な ど の特徴は 、札の内 容と位置を記 憶す る際の重要な目印と
なっ た。 視覚に 働 きか けるこれらの 特徴 は、記憶に き わ め て 有 効だ っ たの で ある。同様に 、さき に ふ れ た百 人一 首の
持統天 皇 札も 、源氏か るた の桐 壺札 も 、 古今 和歌 集 一 番歌札も 、伊 勢 物 語 一 番歌 札も 、華 やか に仕立 て られ た札は い
ずれ も記 憶に残りや す か っ たこ と で あろ う。
さて 、 伊 勢 物 語 の 絵 入 り か るた の 装 飾 に は 別 の 特 徴 も 見 ら れ る。 装 飾が 複 数 の 絵 札 に わ た るこ と が 多 い と い う点 で
ある 。 こ の こ とについ ても 考え て お く必要があるだ ろ う 。装飾さ れ た札(以下本稿 で は 装 飾 札 と仮に 呼ぶ)の内訳 は
次の よう にな る。
①一 番歌 のみ なし
②一 番歌 と二番 歌 五例
③一 番歌 と五 番 歌 八例
④一 番歌 から五 番 歌ま で 一例
さき ほ ど 、 装 飾 札 が 購 入 の 際 の見 本の 働き を し た と す る 吉海 氏の 説を 紹介 した が 、 こ れ ら に も同 じ 理 由を 検討す る
必要があ るだろ う 。 こ れ ま で 触 れて こ な か っ たが 、 絵 札が装飾され る場合 、 その 対となる 文字札もまた 装飾され る。
二 〇 九首 四 一 八枚の札 を 箱 に納める 場合 は 、 上 句 二 包 、下 句二 包の 合 計 四 包 に 分 け る こ と が多 い。絵 札 、文 字札を 二
つず つに 分け 、それ ぞ れ の 一番上 に 一枚ず つ装 飾 札を のせて 客 に見 せれば 、 それ は華や か な 一 揃 いのか る た に 見 え た
に違いな い 。 これ につ い て は、 伊勢 物語 だけ で な くさ まざ まなかるたを対象に 同 じ視点から調査し て い く こ と で 明ら
かになると思われる 。 現段階 で の有力な仮 説 とし て指 摘し て お きた い 。
理由は と も あ れ 、 二 枚 の 絵 札を装 飾 札 と し て 用 いる場合 、 冒 頭 か ら の二枚を それ にあ て る の は 、さほ ど 不思議なこ
と で はない 。 とくに 伊 勢物語の場合 、 最終 歌は男の臨終 の詠 歌で あり、 目立つ 札 に これを避ける のは当然 で あ る 。 ②
のように冒頭から二枚を装 飾 札にする の は、 札順通 り の穏当な措 置 と言えよう 。 そ れ と比べ て 注 目 さ れ る の は ③の 例
であ る 。
そ も そも伊 勢 物 語 には か る たと 深 い 関わり を 持つ和歌がある。 たとえ ば 、 歌 が る た の 異 名 を 「 ついまつ」 と いうが 、
これ は物語六 九段、伊 勢斎 宮との短 い逢 瀬の際に 、女から 「かち 人 の渡れ ど ぬれ ぬえにし あ れ ば」と盃 の皿 に書いて
よ こ し た のに対し、男がついまつ ( 灯芯の燃えか す) で「 また 逢坂 の 関は越 え なむ 」 と継 いだこ と に由 来す るとされ
て い た( 寛延 二 年 『貝合の 記』 )。 また 、百人一首 の 業 平 歌「ち は や ぶ る神代も聞かず竜田 川 か ら くれ な ゐ に 水 くく る
とは」 は 、 物 語 一 〇六段の有 名 な和歌で あ る 。 か るたに ゆ かりの深 いこれらの 和 歌 が あるにも関わらず、 「 月や あら ぬ
春 や 昔 の 春ならぬ我 が 身 ひ とつはも との身にし て 」と去っ た女を思慕する四 段 の 和歌 を装 飾 札 とし て 仕 立 て て い るの
には何ら かの 理由があ るので は なかろ う か。
そ こ で 、 江 戸 時 代のこ の 和 歌 に 対 す る 理 解を みて い く と 、 細 川 幽 斎 『闕 疑 抄 』 に 次の よ う な 記 事が あ る 。
月や あら ぬ 春 や 昔 の は るな らぬ 我身ひ と つはも と の身 に し て
於
て二業平
の歌
に一言語道 断 の秀逸也 。… 〈 中 略〉 … 俊 成卿 は、 歌の 事 を いへるには、 かの、 月 やあらぬ、 結 手 の
雫にに ご る、 是 等 を歌の手 本に云り。 (寛 永一九年刊本)
(11)
業平 詠の なかで も とりわ け 優 れ た 秀 歌 で あると称 えるこ の記述 は、じつは幽斎の 祖父清原宣賢の『惟清 抄』 にも 見
られ るも ので ある。 し か し ながら 、 『闕 疑 抄 』 は 江 戸 時 代 に数回 に わ た っ て 刊 行さ れて お り 、 それ によってこ の 和歌 へ
の高 い評 価は 、堂上 だ けで なく 、地 下 に もひ ろ が っ て いった と 考え られ る。
一方、 そ れ と はべ つ に 、こ の和歌 が謡 曲 の詞章 に しば し ば 引用されてきたこ と も 見逃せ ない。 とりわ け 「 雲 林院 」
や 「小塩 」で は業平が 後シテと し て 登場 する際にこ の 和歌が謡われ る。 あた かも 登場 した 後シテが業平で あ る こ と を
示すかの ようで ある。こ の 場合の 五 番歌 はい わば 記号 とし て 機 能 し て いるよ うに思 わ れ る 。 そ こ に 業平 と こ の和歌 と
の強固な結び つ き を読 み取 る こ とができ るだ ろ う 。
こ れ らを 考え 合 わ せる と、 五 番 歌は 人々 が 和 歌を 学ぶ べ き 物 語 中 の 秀 歌 で あ り、 業 平 との 強い 結 び つ き を持 っ た 特
別 な 和歌 だ っ た と いうこ と がで き よ う。 そのた め 、華 や か に装 飾さ れ 、 人々 の 注 目を集 め た の で は ない か と 考え る。
〔二〕図様
さ て 、 こ れま では 二枚 の華 や か な 絵 札の 存 在 を指 摘し 、 そ の装 飾 の 背 景 につ い て 考 え てき たが 、 こ れら の持 つ 図 様
の こ とも 考えて お く必要が あるだ ろ う 。 装飾札の 図様は、 ほか の札 とくらべて 遊 び 手 達に強い 印象 を残 し た と思 わ れ
る 。 そし て 、 そ の こ と が、人 々 の中に 形 成さ れる伊勢 物 語 の場 面イメー ジに 一定の影響 を 与えたと想定さ れ る た め で
ある。
一 番 歌の 絵札 を 見 て み よう 。物 語の冒頭 、 男 が初 冠 をし て 奈良 の京 春 日 の里 へ出 かけ、そ こで美し い女 はら か ら を
垣間見て 詠みかける和 歌 で ある。 複 数の か る たを 比較 すると、こ の 一番歌の 図様 は構成要 素が 安定し て いるこ と がわ
かる。 描 かれ る の は 「男」 と 「 女 」 と 「 柴垣」 で ある (図1 ・ 2) 。 現 在 ま で 確 認 し た一 番歌札二五例 の な かで二三例
が こ の要 素を 含 む 形 で 描かれて いる。 こ の三要素 は場 面の象徴で あ るというこ と が で き る だろ う 。
(12)
しか し、 それ ら は
江戸時代の伊 勢物語絵 に多 大な影響を与 えた慶長 一 三 年 ( 一六〇八 )刊嵯峨 本 伊 勢物語と は違いが見られ 、 嵯峨本の
挿絵で は 屋敷 の 塀 が「 網 代 塀」 にな っ て いる。 とこ ろ が、 延宝 七年(一 六七 九)に 江 戸 で 刊行さ れた菱川師宣画『伊
勢物 語頭書抄絵入読 曲 』 で 、 柴垣から垣 間 見る男の姿が 描か れ る と ( 図3) 、 貞 享 二年 (一 六八 五) に出 版された吉 田
定吉画『伊勢 物 語 絵入読 曲 』 など、柴垣の描 写を 持 つ絵入 り 板本 が増 え て いく 。かる た の一 番歌 の図 様に は こ のよう
な絵 入 り 板本との交 流を 読 み取るこ とが 可能で は ない
かと思われ る 。柴垣 が 描かれ る の は 、 光 源 氏 が 若 紫を
小柴垣か ら垣 間見る源氏物語 ( 若紫 )の 影 響だ ろ うか。
か る た の 図様 が先か 、 絵 入 り 板本の挿絵 が先か は 慎重
に判断 し なければならないが、いずれ に し て も 両 者の
この 場面 での描 写 には 共通の 型 が成立 し てい たと い う
こと が 言え るだ ろ う 。 そ し て 、 この こ と は、 当 時 の人々
がこ の 垣 間見 の 場 面 に 対 し て 抱 く イ メ ー ジ に 少 な か ら
ぬ影響 を 与えた で あろ う 。
(13)
さて 一 方 、 五 番歌 の 絵 札 に つ い て は 不 思 議 な 図 様 が
認め られる 。 図 4 の よ う に 男 性 二 人 を描い た ものが複
数存在 す るので あ る。こ の 場 面 に 男性二 人を描 い た描
写は、今のところ 、絵入り 板本には確認でき ない 。板
本のこ の 場 面 には 、 物 語 本 文に基 づ い て 「 板敷」 、「 一
人 の 男
」 、 「
月
」 、 「
梅
」 を 描 く 挿 絵 が 付 さ れ る の で あ る
(図5 )。 調 査対象 を 絵 本 や 色 紙、 掛 軸 な ど へ ひ ろげ て
みて も 、 「 板 敷 」 「 一 人 の 男 」 「 月 」 「 梅」で 構 成 さ れ て
いる 。 そ れら が こ の 場 面の 描写の 定 型 で あっ た と いえ
図 3 伊勢物語頭書抄絵入読曲
(東京都立中央図書館特別文庫室蔵)
図 4 伊勢物語かるた
(鉄心斎文庫蔵 1)
よう 。 事 実、伊勢物語 かるたの中に も、 この要素 で
構成された図 様も少 な くな い。 しかし、 そ れ と は 別
に、月 夜 に満開の梅の前に対座す る 二人の男と い う
物語 本 文とは か け は な れ た 図様を 持 つか るたも また 、
一定数存 在して い るので あ る。
なぜ 、 こ の よ う な 描写 が と られ るのか 。 通常 の伊
勢物 語絵には見いだせない この図様につい て 、典拠
を見い だ す こ とは難 し い 。 先行 絵 画 とい う点 で は 、
宗達色紙の一枚が こ の場面 に 二人の人物を描く が、
そ れ は 狩 衣姿 の男性 と 小 狩 衣姿の 童 で あ っ て 、二人
の男が対 座す るかるた の描写 と は趣 が異 なる。
一 方 で 、 かる た の ほか の札に 目 を向ける と 、 似た図様 が 存 在す る 。 一 四 五番 歌「 世 の 中に 絶え て桜 のな かり せ ば 春
の 心 はの どけ からまし」の もの で あ る。 花の前 で 対座 する二 人 の男 という構 図は 、花の 種 類が 異なるも のの 非常 に よ
く似て い る( 図6) 。
また 、 謡 曲 との 関 わ りも 注 意しな け れ ば なら な い だろ う。 さき ほ ど 謡曲 に お いて 五番歌 が 業 平 という 人 物 と 強く 結
びつ い て い た 可 能 性につ い て触 れた。 「 雲林 院 」 で は 、 芦 屋 に 住 む 公 光 が 雲 林 院 へ 赴 き、 満 開 の桜のな か、 夜、 夢に 現
れた業平 と対 面し、 伊 勢物語の秘事を明かさ れ る。 ここで は、 眠り に 落 ち た 公 光 の 枕元に 、 業平の霊が 「 月やあ ら ぬ 」
歌を 謡い なが ら現れ 、 二 人 が対面す る。
図 5 伊勢物語頭書抄絵入読曲
(東京都立中央図書館特別文庫室蔵)
ワキ ・ ワ キツレ いざ さ ら ば 、 木陰 の 月 に臥 し て 見む 、
木陰 の 月 に臥 し て 見む 、暮れ な ば な げの 花 衣 、袖 を 片
敷き 臥 し にけ り。
後シテ 月や あらぬ 、 春や 昔の 春 な らぬ 、 我 身ひ と つ
は、もとの身 にし て。
ワキ カヽ ル 不思議 や な 雲 の上 人 匂 や か に、花 に 映
ろひ あら はれ 給ふ は 、 いか なる人にて ま しますぞ 。
シテ 今は 何 を か つ つ む べ き 、 昔 男 の いし に へ を、 語
らん為に 来 り たり。
( 『
謡 曲 百 番
』
(
14)
)
雲林 院 で 咲 き 誇る のは桜 で あ り、一方、かる たの 図様は梅 で あ ると いう違いはあ るが、満開の花のもとで の 男性二
人のやり とり という 点 には共通するもの があり、 五番歌の 図様と こ の「雲林院 」 と の関 係も気 に なる と ころで ある。
た だ 、「 雲林院 」 が上 演され る 際には 、 公 光 は裃姿で あ っ たら しく( 図 7) 、こ の点 がかるた の図 様とは一致 し ない。
以上のよ うに 、 こ の二 人の 男性を描 く五番歌札の 図様の典拠は なか なか見い だせ ない。か るた の図様は 何に 基 づ い
て 形 成された のか、その場 合の場面 理解 はどのよ うなもの なだ っ た のか、可能性のある資料につい て な お検討し て い
くほか な いの だろ う。
対 座 す る 二人 の 男 性 を 描 く こ の 図 様 は 、 割 合 と し ては そ れ ほ ど 高い わ け では な く 、 現 在 ま で確 認 し た五 番 歌 絵 札 の
三 割 ほ ど で あ る 。 し か し 、 割 合 は 高 く な く と も 、 こ の 図 様 は 一 つ の 型 と して 存 在 して い た ら し い 。 以 前 、 稿 者 は 大 藪
図 6 千種有敬筆伊勢物語かるた
(個人蔵)
貞雅著 『 伊勢 物語男 百 首 』 『 伊 勢物
語女百 首 』と いう 絵 入 り板 本 を 紹
介し たこ とが ある 。
(15)
一面を 区 切っ
て 、右 半 分に 和歌の 題 と上 句、左
半分に絵と下 句 を 収 め た こ の小型
横長本は、板木 を 転用し て かる た
を作 る こ と も できるとい う 合理 的
な作りで ある。実際 に こ の 板木 を
使っ て 摺 り、 彩色したかるたも四
点確認 し て い る ( お茶の水図書館
成簀 堂文庫、 鉄心 斎文庫、 東海大 学 附属図 書館 桃 園文庫二 点) 。 た だ、 前稿 では、 目 録 (奥付 ) に 記さ れた 「京 哥か
る た 司清 詠堂」が解明 でき な か っ た 。そ うし たところ 、吉海直 人氏 より清詠堂と は寛保期(一七四一― 一七 四三) に
京で 営 業 し て いた 書肆 、児 玉勘十郎で あ ると 御教 示を いた だ い た。
(16)
児玉 勘十 郎は す で に享保五 ( 一 七二〇)年に は 京
の五 条通に店舗 を 構 え ていたら し い 。
(17)
これらを 総合すると、 『男 百首』 『 女百首』は一八 世 紀前半 の 京 で 出 版 さ れ た と
推定 でき 、そ こ に 記載さ れ た図様 の 流布につい て も こ の時期 を 一応の目安と でき よう 。 『 男 百 首 』 『女 百首』につい て
は、奥付を持たないも のや 、記事の 配列 に異 同の 多い伝 本 が複 数あり、何度も刊 行さ れた と推 定さ れ る 。需 要が大き
かっ たの であ ろう 。
この本の刊 行 は、その後のかる た制作に も影響を与えたよ うだ 。さ きほどの木版手 彩 色かるた の ほ かに 、図 様 や 本
図 7 演能図屏風(雲林院)
(国立能楽堂蔵)
文に影 響 が認 められ る 肉筆 か る たを さら に六点 確 認で きて いる(久 保惣記念美術 館、鉄心斎文庫二点、同志社大 学 、
前 田 土佐守家 資 料館、 三 池 カ ル タ ・ 歴史 資 料館) 。 こ れ らは 絹 地 と 紙地、 絵が 上 句札にあるか 、 下 句 札にあるか、 和 歌
の題を か るた に書 くか 、 書 か な いか 、 札 の 大 き さ な ど の 違 い が あ る が 、 図 様 の 共 通 性 は 指 摘で き る ( 図 8 ・ 9 ・
10 ・
11 ) 。
さ ら に
、
図 8 伊勢物語男百首
(鉄心斎文庫蔵)
図 9 伊勢物語かるた
(大牟田市立三池カルタ・歴史資料館蔵)
・久保惣記 念 美 術館 か るた、同志社大学か る た、 三 池 カル
タ・ 歴 史 資 料 館か る た ―― 絹地
・ 鉄 心斎 文 庫 か るた 、同 志社 大学 か る た 、 三 池 カル タ・ 歴
史資 料館 か る た ―― 札に霞引きあり
・久保惣 記念 美術館 かるた、 東 海大 学付属図書館 かるた ( 二
点) 、 前 田土佐 守家資料館かる た 、 三池 カ ル タ ・ 歴 史 資 料
館か る た ―― 一番 歌と 二番 歌の彩色 が濃 か っ たり、
金砂 子の 量が 多 い
などの 共 通点 も 備 えて おり 、制 作 環 境の 近さを う かがわ せ
る。 い ずれ に して も 、 『 男百首 』 『 女百 首 』の 刊 行に よ っ て 、
そ れ らを粉本とし 、そ れぞ れの条件 (たと え ば 料 金 な ど)
に応 じ て さまざまな か る た が 制 作 さ れ て い た と 思 わ れ る 。
本の版元で あ る児 玉勘 十郎も また 、 その ようなか るたを 発 売
した ので あろ う。
とこ ろ で 、こ の よ う に 同 一 粉 本 に 由 来 す るか るた を 見て
いくなかで 、 同志社 大 学か るたは 、 ほか とは異 なる特 徴を
備え て い る。 数枚の絵札 で 『男百 首 』 や 『女百 首 』と は図
図 10 伊勢物語かるた
(久保惣記念美術館蔵)
図 11 伊勢物語かるた
(鉄心斎文庫蔵 2)
様 が 異 な る の であ る 。 そ の 一 つ が 五 番 歌 であ る 。 『 男 百首 』
と の 関係の 深 い か るた では「梅 」と 「月」が 描か れる こと
が多 い( 図 9 ・
11 ) 。
し か し
、 同 志 社 大 学 か る た は 対 座 す
る 二 人 の 「 男 」 と 「 梅 」 と 「 月 」 と 「 雲 」 、 そ れ か ら 「 流 水 」
らし きものを描く(図
12 ) 。
こ の 場 合
、 も と も と は
「 梅
」
と 「 月」だった図様を、 札 制作 の 段 階 か あるいはそ れ 以前
の粉本制作 の 段階 で 、 わざわざ男二人 の 図様に変更した こ
とが想 定 され る。 こ の よう に見 て く ると 、さき に 触れ た対
座する二 人の 男を描 く 構図 が、場 面 の描写 と して 意外 に根
強い もの で あ っ た こ と がうかがえ る 。また、 こ れらとはべ
つに、 五 番歌 に屋内で 二人の男が向かい合 っ て 座 る描写を
持つかるたが あるが
( 図
13
) 、こ ち ら に つ い て は
、 二
人 の 男
を対座させ て 描く図様 と、 この場合の定型表 現で ある「板
敷
」 「
男
」 「
月
」 「
梅
」 の
図 様 が 一 体 化 し た 可 能 性 を 指 摘 で き
よう。
これ ま で 見てきた ように 五 番 歌 の図様は多様 で あ る。と
ころが 、 一つだけすべ ての札に 共 通 する構成要素がある 。
それ は 「 梅 」 で あ る。 物語で は 、「 梅 の 花 ざ か り 」 に 女 と の
図 12 伊勢物語かるた
(同志社大学図書館蔵)
図 13 伊勢物語かるた
(鉄心斎文庫蔵 3)
思い出 の 屋 敷 に出 向いた男が、 去 年 と は違う 屋 敷 の 様 子 に、
涙しつ つ 「板敷」 で 「 月のかたぶ く ま で 」臥し て 「月やあ
らぬ」 歌 を 詠 む 。 こ の場合 、地の 文にも 和歌 に も 月へ の言
及があ り 、こ の場面と強 く 結びつい て い た のは月 で あった。
と こ ろ が 、 か る たには数 は 多くない が、月 の ない 図 様 が 存
在する。 図
10 の久保惣記念美術 館かる た に月 は描かれ ない。
また 、 図
14 に掲出し た鉄 心 斎 文 庫 かるたは 、 大 和 絵 風の 非
常 に 丁寧 な描写 が 特徴 だが、 「 月」 が描か れ ない一方で 「 梅」
は描く 。 和歌 本文を 「 月や あらむ 」 とす るのは 、月が 描か
れ な い こ とと 関係があ るの だ ろ うか 。伊 勢物語の 本文とし て は 異例で あ る。
中 世 以降の伊勢物 語絵の描 写 で は、 こ の 場面には 「月 」 「梅 」 「男 」 「板 敷 」 が 描か れる。 嵯峨本 もそ れ は 同 じ で あ る
し、伊勢 物語 の絵 入り 板本の多くも ほぼ 同 様 で あ る。 一方、月を描 か な いも のと し て は宝 暦 五 年( 一七 五五 )刊『伊
勢物語』があり、明和二年(一七六 五)刊鳥飼酔雅『女学 則』の「 古今 秀 哥 十首」の当該 歌の 絵も「月」を 描かな い
(図
15 )。 こ れ ら は どち らも月岡丹下が絵を描 いた とされ る もの だが、五番歌と「月」の結び つ き は 、 こ こで は 失 わ
れて しま っ て いる。
このように見 て く ると、 さきに 述べた五番歌のか る た の図様 の 変容の理由の 一端をう かがえるの で はないだろ う か。
五 番 歌には次第に 「花 」 の 描写 こ そ が不可欠になっ て いっ たのだ ろ う。 そ れ とと もに、 「 花」 以外の構成 要 素につ い て
は、柔軟にな っ て いったので はない だ ろ う か 。五番歌 と「花」 との強い 結び つ き がどのような経緯 で 生 じた かについ
図 14 伊勢物語かるた
(鉄心斎文庫蔵 4)
て は 、先にあげ た 「雲林 院 」などとの関 わり も見 逃せな い だ ろ う 。 演 能 に 際 し
て は 、 図 7に あげた よ うに 、作り 物 に 桜 の 枝 を 使 う。 また 、延 享 四 年( 一七 四
七) 刊『 花王伊勢物語』 の 頭 注 には 「 雲 林 院 」の 公 光 が 業 平と二条后に 平 伏 す
る姿が描 かれ るが、立ち 姿 の 男女二 人 の 背 後には 満開 の 桜が描 かれ て い る。
おわりに
伊 勢物 語 かる た は さ ま ざま な 図 様 を 持っ ている 。 本 稿 では 華 や かに 仕 立 てら
れた二枚の絵 札につい て 、 図様 の特徴を指 摘し、 そ の 背景 につい て 考えてきた。
かる たの図様は、それに 興ずる人々の物語 場面への理解に 影響を与え たと考え
ら れ る。江戸 時代、歌がるたは、和歌の 修得に使 われ たり、大名 や 富裕 層の嫁
入 り道具の一つ で あ っ たり 、ま た 遊 女が翫んだりするなど、 さま ざ まな 場 面で
人 々 の身近 に あっ た。人 々 は か るたの 札 の ど のよ う な 図 様 を目に し、 そ こにい
かなる物 語 を 読み 取 っ て い たのだろう か 。研究資 料と し て のか る た の 扱 いには
いくつ か の難 しい点が ある。実際に 使 用 し た 札は破損もあ り、制作 年代 の推 定 を 困 難 にす る 。 ま た 、 伝 来 が 必 ず しも
明らかで ない場合も多 く、 慎重な判 断が 求められ る。 そも そ も 、一体伊勢物語のかる たはどのく らい作ら れ 、 現在ど
のくらい伝 来 し て いるのか さえ わか っ て いない。 かるたに示された 伊勢物語 の世 界 を 明 ら かに するための伝 本の調 査
と整 理が 必要で あ ろ う 。
図 15 古今秀哥十首(『女学則』より)
伊勢物語が平安時代 に 成 立 し て 以降、 人 々はそ れ を絵 画化し、 本文 を 書 写 し 、 本 歌と し、 注釈 し、 芸能化し て き た 。
千年 以 上 前に できた文学テキ ス トは、 こ れらの長い 営 み に よっ て、 「古典 」 とし て の 地位 を固め て きたとい えよ う 。 受
容の歴史 を 明 らか にす る こ とは、す なわ ち 文 学 テ キス トが「古 典」 と し て 定 着す る過 程を 明ら か に するこ とで あ る と
考える。 かるた に は不 明な点も多い。 し か し 、そのか るたの絵 札にもまた 、 伊勢 物語の古 典化の 一端 を 確実 に見 い だ
すこ と が で き る ので あ る。
〔注〕
(
1) 『 賭博史 』 ( 一九二 三 年 ) 一 八頁に 「 中院 通村 の自 筆 本 『塵 芥 略 記 』 中、 元 和 二 年 二 月 の条 に 「 十四日 、 召経 師
藤蔵 〔カ ル タ 、 石川主殿 頭 所令新刊 也、 南蛮ノアソビ 物也〕 令 摺之 」 と あるのを 見ると、 元 和 頃にハヤ 版行 カ
ルタのあつ た こ と が確実 で ある、 筆 写 のカ ルタは慶長 の 頃から 行 はれたら しい」とある( 『 宮武外骨著作集 』
四巻、河 出書 房新社、 一九 八五年) 。
(
2)
初 出 「 雅 俗 漫筆 (一) 歌 が る たの始 め 」 ( 『 冬 野』 三〇巻四号、 一九七一年) 。 後 に 「 物 の はじまり」 と 改題 し
て 『 中村幸彦著述集 』第一三巻( 中央公論社 、一九八四 年)に再録。 『角川古語大辞典』第一巻(角川書 店、
一 九 八 二 年 )「う た が る た 」 項 目 に 古例 とし て こ の記 事へ の 言 及が ある 。 現 在 、 『 当 家 雑 記 』 に つ い ては 、 九 州
大学附属 図書 館ホーム ページと国文学研 究資料館 「所 蔵和古書 ・ マ イクロ/ デジ タル目録 デー タベース 」 で デ
ジタル画像 を 閲覧 でき る 。
(
3)山
口格太郎 「日本 の かる た 」 ( 『 古美術』 六九 、 一 九 八 四年 ) 、 村井省 三 「日本の かるたの 流 れ 」 ( 『百人一 首』 、
学習研究社、一九九六年) 、江橋崇「歌留多になっ た小倉 百人一 首 」 ( 『 百 人一 首万華鏡』 、 思文 閣 出 版、 二〇
〇五 年 ) 、 吉 海直 人 『 百人 一首 かる たの 世界 』( 新典 社、二 〇 〇 八 年 )な ど 。
(
4) 『 綿 考輯録 』第三巻 ( 汲 古書院、 一九 八九年)
(
5)た
だし、 『 綿考 輯録』の著者で あ る小野武 次郎景湛が寛政八年に細川家の廟所へ詣 で た と こ ろ 、 お万の母とし
て 天 沢院 梅渓円清とい う人 物 の名を 記した石碑が あり 、理解に 苦しんだ旨が記されて いる。
(
6)注
(
1)
参 照。なお 、 日 下 幸 男 「 通村日 記 人名索引 の試 み」 (『柴の いほり 』 三〇 号 、 二 〇〇三 年 ) に元 和 二
年二 月の 通村 日記の 謄 写 本 が書 陵 部 に所 蔵され る と い う。
(
7)細川
氏 と歌がる たの 結びつきについ て は、注 (
3)江
橋 稿 に指 摘 が あ る。
(
8)注
(
3)
江橋稿 、吉海稿。
(
9)上野英
子 「 文芸資 料研究 所所蔵 『 源 氏 カルタ』 につい て ―源 氏 物 語 に お け る 〈 一帖一 首 一図〉 資 料との 関 係 を
中心に―」 ( 実 践 女子大学 文芸資料研究所 『 年報 』二七号 、二〇〇八 年)にか る たの歴史 と遊び 方 につい て 述
べられて いる。また、吉海直人『百人一首かるたの世界』 (新典 社 、二〇〇八年)に読み手 の 登場につい て 指
摘がある。
(
10 )時折 、 一 揃 いの札 の中に 、 同 じ和 歌の札が重 複 し て いる こと があ る。 制作時に 紛れ込 ん だと 推 測 さ れ るに も 関
わら ず、 図様の細部に違 い を持つ 場 合がある 。 愛 媛大 学図 書館鈴 鹿 文 庫蔵 の伊勢 物 語 絵 入り か る たも二〇四番
歌の絵札 が重 複するが 、 描 かれた 男 の烏 帽子の形 が異 なる。 な お、 こ の かるた は 愛 媛大学図書館 ホームペ ー ジ
でデ ジタル画像 を 閲 覧 でき る 。
(
11 ) 『
伊 勢 物 語 古 注 釈 大 成
』 第 五
巻( 笠間 書院 、二 〇 一 〇 年 )
(
12 ) 伊井春 樹「源 氏 物 語 絵詞― 場面 の象 徴化 」 ( 『 国 文学』五 三巻一 号 、 二 〇〇八年)に、事物 で 場面 を象 徴 す る
こと へ の指摘が あ る 。
(
13 )奈良絵 本 に は嵯 峨 本 の 影 響が色 濃 く認 められ 、 屋敷 の周 囲に塀が 描 か れ る 例が 多い よう で あ る 。
(
14 ) 『 新日本 古 典文 学大系 』 五 七 (岩波 書 店、一 九 九 八 年 )
(
15 )「 伊 勢 物語 歌 が るた 小 考 」 ( 山 本 登 朗 編 『 伊 勢 物 語 享 受 の展開 』 、 竹 林舎 、 二 〇 一 〇 年 )。 伝 本 に つ いて も 紹 介 し
た。 『女 百首』 につい て は 、 吉 田幸一 『 伊 勢 物語藤 原藤房筆 本 』 ( 古典 文 庫 六二 四、 一九九八 年) に影印が 掲 載
さ れ る。 また 、 吉 海直人 ・ 飯 塚 ひろ み ・ 家木桃子 ・ 黒 川悦子 「 『 伊 勢 物 語女百 首 』 の 紹介と 翻 刻」 ( 『 同志社女
子大 学日 本 語 日本文 学 』 二 一 号 、 二 〇〇 九年)が 備 わ る 。
(
16 ) か る た の発 売 元 につ い て は 、 吉 海 直人 「 「 かる た」 資 料 とし ての出 版 目 録 」 ( 『同 志 社 女子大学大 学 院文 学研 究
科紀要』 六号 、二〇〇 六年 )が有益で あ る。
(
17 ) 『人 間 一生誌』 ( 中 村幸彦 文 庫 ・ 国文 学 研究資料 館 蔵マイクロ フ ィ ル ムによ る) の刊記に 「享 保五歳 〈 子〉 正月
吉日/京 寺町 五条上ル 町/ 児玉勘十郎」 とある 。 また、 『 京都 書 林 仲 間 記録』 ( ゆ ま に 書房、 一九七七年) の寛
保三 年にも「 歌か るた 児玉勘十郎 大 和屋 庄兵衛 出 入之 事」との 記載 がある。
[付記]