中国青海省チベット族村社会の変遷過程 ーチュル マ(曲馬爾)村とシュンポンシ(双朋西)村の事例 からー
著者 ? 藏杰
著者別表示 Ga zanje
雑誌名 博士論文本文Full
学位授与番号 13301甲第4216号
学位名 博士(社会環境学)
学位授与年月日 2015‑03‑23
URL http://hdl.handle.net/2297/42323
Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja
博士論文
中国青海省チベット族村社会の変遷過程
-チュルマ(曲馬爾)村とシュンポンシ(双朋西)村の事例からー
金沢大学大学院人間社会環境研究科
人間文化環境論 専攻
学 生 番 号:1221072001
氏 名:尕藏杰(ガザンジェ)
主任指導教員名:鏡味治也
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中国青海省チベット族村社会の変遷過程
―チュルマ(曲馬爾)村とシュンポンシ(双朋西)村の事例からー 論文目次
序 問題意識………3
第一章 調査地域とその歴史……….8
第一節 調査地域の概要……….8
第二節 調査地の概況………11
第二章 中華人民共和国の政策とチベット族村社会の変化……….15
第一節 旧社会における村社会の政治及び自治組織………….………15
第二節 「解放」から民主改革まで(1949-1958)………...22
第三節 漢民族対象の改革と地域叛乱……….24
第四節 人民公社・大躍進(1958-1962)………...26
第五節 文化大革命(1966-1976)………...30
第六節 生産責任制(1982―)………35
第七節 自治組織回復の意義と背景……….36
第三章 生業の変遷………41
第一節 牧畜業………41
第二節 農業………49
第三節 出稼ぎ………59
第四節 村の各戸の収入源……….61
第四章 村の人口動態と家族・親族関係……….63
第一節 人口の変遷………....63
第二節 計画生育の政策………....67
第三節 父系親族集団ツォワの変遷……….71
第四節 家族構成の変化………....80
第五節 財産継承と扶養形態の変遷……….89
第六節 家屋の変化……….91
第五章 寺院と村の関係および宗教儀礼……….97
第一節 調査村の寺院と僧侶の生活……….98
第二節 寺院と村の関係………...101
第三節 村の宗教組織………...104
第四節 寺院と村の宗教儀礼………...105
第五節 村人の神(仏と山神)に対する認識……….110
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第六節 村人の通過儀礼………...112
第六章 葬送儀礼………...117
第一節 葬式概要………...117
第二節 チュルマ村の土葬と火葬………118
第三節 シュンポンシ村の鳥葬及び鳥葬に対する認識……….122
第四節 代表的な鳥葬場の鳥葬………126
終章………...137
参考文献………139
3 序 問題意識
チベット高原の先住民であるチベット系民族は、7 世紀ソンツェン・ガムポ王がチベッ ト高原統一以後、吐蕃王朝によるチベット仏教に彩られた独特の文化を育ててきた。
しかし、19世紀に入り、ヨーロッパ帝国主義の地球制覇により、チベット系民族の運命 や文化は転機を迎えた。19世紀イギリス・インド帝国の軍事的圧力でブータンがラサ政府 から独立し、ヒマラヤ南麓のシッキム、北部のラダック・ラホール・スピティ・キンノー ル、さらにはブータン東方のアルナチャルヒマラヤ(インドがいうNEFA)など、ヒマラ ヤ・カラコルムのチベット仏教圏はイギリス・インド帝国が統治することになった。さら にシェルパ人地域はイギリス従属下のネパールが支配した。チベット高原のチベット族は 1951年に中華人民共和国により解放した。
チベット系の民族の居住する地域は、国家の領域でいえば行政的に現在の中国・インド の辺境、ブータン、ネパールの高地、パキスタン北部辺境、シッキムなどに属する。それ は一口に言えば、人口の大部分を占める中国領内のチベット族と、インド、ブータン、ネ パールなどのヒマラヤ山中のチベット系の民族という二つに分けられる(以下チベット系 民族とは中国領外も含めた全てのチベット族のことを指すものとする。また中国では少数 民族名を公式には「蔵族」と表記するが本論では「チベット族」とする)。
1950 年代からチベット族やチベット系民族などが所属する国家の主要民族文化の影響 を強く受けるようになり、伝統的なチベット文化世界はいずれの地域も統治国家の文化の 影響が強くなり、急速な変貌を遂げている。
例えば、インド政府がラダック地域の経済開発の方向を観光地化に決めたことによって、
ラダックの人々の生業と価値観は外来文化の影響をうけ、インドあるいは欧米文化が浸透 しつつある(ホッジ 2002)。ネパールでもヒマラヤ登山者や観光客が多数訪れるように なるとともに、チベット系民族のシェルパ人もネパール文化・或いは欧米文化の影響を強 くうけつつある(鹿野 2001)。
中国のチベット族も中華人民共和国の開放以来、中央政府の政治運動や経済政策によっ て、チベット族の文化や社会、経済などは急速に変容し始めた。
変貌の第一波は、1958年〜59年のいわゆる地域叛乱以後、中国政府が実施した民主改 革政策である。これによって伝統的なチベット社会の部族政権、或いは千戸・土司などの 封建的な地域自治制度は廃止されて中国共産党(以下中共と略記する)の直接統治となっ た。
第二波は1958年からの人民公社政策による、生産の集団化である。青海省は少数民族 地域も内地(平原・漢人地域)同様に人民公社化され、村人は生産隊の社員となり共同労 働をし、分配を受けた。一時は家庭での炊事は禁止され共同食堂で一緒に食事することも あったが、しだいに食糧不足になった。
第三波は、1966年に発動された文化大革命運動である。主には「廃旧立新」の方針によ って、チベット人地域も漢民族地域同様、伝統文化や宗教の破壊を受けた。文化大革命は 1976年江青らの逮捕によって終息した。
第四波は、1979年鄧小平の改革開放政策である。社会主義市場経済の導入によって中国 経済は発展の転機を迎えた。以来30 余年の間に中国経済は急速な発展を遂げた。チベッ
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ト族村社会でも家畜や耕地を各家族に請負わせる「家庭聯産承包責任制」を実施し、事実 上の自営農民が生まれ、農牧業の生産は順調に発展し、村人の生活が豊かになり始めた。
とくに、2000年から中央政府が西部大開発政策を実施した。これは幹線道路・発電施設な ど基礎的施設及び青蔵鉄道などの建設によってチベット人地域にも経済的発展をもたらし た。
以上、中共中央主導による四つの波は、チベット人地域の伝統的な村社会の組織、習慣、
価値観ばどを変貌させたのである。
さて、チベット系民族の近代化の民族誌的研究については、日本の人類学者川喜田二郎 や中根千枝などの業績に見るように、インドのラダックやラホール地域、ネパールのシェ ルパ民族、ブータンなどに関しては、枚挙にいとまがないほど多いが、中国領土内のチベ ット民族の現代の変貌に関する民族誌はかなり限られている。それは、1949年の中国革命 以来改革開放政策に至る 30 数年間、中国がチベット人地域への外国人の立ち入りを厳し く制限したことに起因する。現在でも比較的自由に民族誌的研究のできるのはアメリカ人 ゴールドシュタインなどごくわずかな人である。
1950年代から現在までの外国(中国以外)でのチベット研究の状況や問題については、
日本のチベット研究者大川謙作が「現代チベット研究と代替民族誌の問題」(大川 2010)
という論文で明確に指摘しているとおりである。
「1950年代から外国人が中央チベットで現地調査を行うことが難しくなったと共に、外 国の人類学者はネルーパのシェルパ人やインドのラダック地方などヒマラヤのチベット系 の民族を研究し、それをチベットの民族誌として書き表している。」
思うに現在、ラダックやシェルパなどチベット系民族の民族誌研究をもって中国領土内 のチベット族の民族誌研究を代替することは到底不可能である。
なぜなら、チベット高原のチベット民族は、19世紀までチベット仏教を中心とする共通 の文化を持っていたことは確かであるが、近代国家の論理が貫徹するようになってからは、
インドやネパール、ブータン、中国など、それぞれが属する国家の民族政策や主要民族の 文化の影響によって、今日までにかなり大きく変貌し、それぞれ独特な近代化の渦中にあ るからである。
本論文は、中国青海省在住のチベット族を研究対象として、1949年解放から今日まで中 国在住のチベット族の村社会の全体的な民族誌を記述し、チベット民族誌の未開拓部分を 補い、その欠けた環をつなぐことを目的とするものである。
(1)先行研究概要
チベット文化、特にチベット仏教を研究する学者は昔から世界中に数多いが、中国在住 のチベット人村社会の組織、生活、社会変遷などに関する研究は少ない。
それは、ごく一部のアメリカ人(ゴールドシュタインなど)を除いて中国領域のチベッ トでは研究者の現地調査が長い間不可能だったのが主な原因である。そのため多くの外国 人研究者によるチベット研究は、中国以外の地域在住のチベット人を対象に行うという趨 勢が続いている(大川 2010)。
いっぽう中国の国内では、改革開放後の1980 年代にチベット文化や宗教、習慣などが
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回復すると共に、主としてチベット族や漢族の学者によるチベット文化の研究が始まった.
その中でも本論に関わる先行研究としては、中国の学者達による伝統的なチベットの部族 制度や習慣法の研究が主である。部族制度の研究については陳瑋の『青海蔵族遊牧部族社 会研究』がチベット部族制度の由来と変遷、部族社会の経済、宗教、軍事武装制度、習慣 法、婚姻制度などを記録している。長老会の部族社会の役割や習慣法の関係に関しては少 し触れているが、解放から現在までの村社会、或いは部族社会での長老会など自治組織や 政治組織の変遷などについては全く記録がない。
青海省の地方政府が編纂した『同仁県誌』と『黄南蔵族自治州概況』は、本稿筆者の調 査地域が属する同仁県の解放前、すなわち旧社会時代村社会の長老会など自治組織の役割 や、千万戸など封建統治階級の歴史、政治制度などを記録している。しかし、民主改革や 文化大革命、改革開放など政治政策や政治運動に伴う長老会など自治組織、政治組織及び 村社会などの変遷は記録してない。
習慣法の研究については元青海省人民検察院の検察長であった張済民を主編者として編 集した『青海蔵区部落習慣法資料集』とシリーズになった『蔵族部落習慣法研究叢書』(一、
二、三)がある。『青海蔵区部落習慣法資料集』を編集するために、張は1988年から、青 海省チベット地域で習慣法による事件処理について現地調査を行った。張は各部落の法律 制度および青海省の各蔵族自治州の事例収集の調査を行った。この本では当時、青海省チ ベット地域の各部族の習慣法によって処理した事例を記録しているが、習慣法を実施する 長老会、及び習慣法と長老会の関係にあまり触れてない。
その他、チベット人研究者である甘措の『蔵族法律文化研究』やソナムツェランの『古代 蔵族的政治・法律』という著書でも吐蕃王朝時代の法律、及び法律の歴史を主として書いて いるが、中共支配直前まで続くチベットの習慣法や長老会に関する内容は少ない。
先行研究の問題は外国研究者がチベット系の民族誌を中心とするチベット族の代替民族 誌研究や、中国国内における学者がチベット自治区だけを中心としてチベット研究をして いることである。
それに対して筆者は、中国のチベット人地域であるチベット自治区や青海省、甘粛省、
四川省、雲南省などに在住するチベット族の民族誌はそれぞれ研究する必要があると考え る。チベット地域は広く、長い期間、各地域が部族や宗派の割拠政権状態であったため、
言語(方言)や習慣などが地域によってかなり異なる。特に、解放前のチベット自治区や 青海省、四川省、甘粛省などの政冶状態や制度は異なり、それによって今日まで中央政府 による各地域のチベット族に対する政策も異なるからである。例えば、解放前、チベット 自治区には当時地方のダライ・ラマ政権があり、青海省には馬歩芳軍閥政権や各部族の千 万戸政権の連合的な勢力が統治する状態であった。また四川省や甘粛省などのチベット地 域では、国民党の政権やチベット族の各部族の千万戸政権の連合的な勢力が統治する状態 であった。こうした事情から、チベット自治区や青海省、四川省などのチベット地域は、
過去の歴史を背景として、それぞれを研究するべきだと考えられる。
このように青海省チベット族の過去の文献資料や先行研究が限られるため、筆者は主に 調査村の年長者、特に、民主改革や人民公社化、文化大革命、「生産責任制」など時期に村 の生産隊長、会計など役人を務めた村人を中心として、当時村でどんな政策やどんな出来 事を起きたことを聞き取りした。本論文では、彼らが保存している当時の村の生産量や家
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畜の数など資料に基づいて、青海省チベット地域の1949 年解放から現在までの村社会の 自治組織や政冶組織、そして農牧業の生産体制の変遷を記録する。
(2)調査方法
本研究のもとになる現地調査は、五回に分けて行った。第一回目は2011年1月21日か ら4月5日までほぼ2か月半を掛けて、中国青海省黄南蔵族自治州同仁県シュンポンシ(双 朋西)郷チュルマ村やシュンポンシ村の生業、人口、家族構成などを調査し、調査村の全 体的な状況を把握した。本論で取り上げたチュルマ村やシュンポンシ村の各家族の人口、
家畜数、畑の畝数などは筆者が当時、一軒一軒を訪ねて収集した資料である。
第二回目は、2011年8月14日から9月14日まで一カ月間を掛けて、青海省のチヤラ ン寺やチベット自治区のパオンカ寺、デイクン寺、セラ寺などの鳥葬を調査した。
第三回目は、2012年7月15日から10月30日までほぼ3カ月半を掛けて、調査村の年 長者を対象に、解放前後や民主改革、人民公社、文化大革命、生産請負制などの政治変革 による村社会の変遷、及び村社会の出来事などを聞き取りした。また政府機関を通して調 査村が行政的に属する同仁県や黄南蔵族自治州の歴史の文献を収集した。
第四回目は、2013年1月25日から3月21日までほぼ2カ月間を掛けて、調査村の年 長者を対象に、旧社会の長老会など自治組織について詳細な聞き取りをした。人民公社化 や文化大革命、生産請負制などを実施する時、村の生産隊長や出納係などを務めた村人に、
当時の生産状態、村社会の組織変遷などの聞き取りを行った。本論で取り上げているチュ ルマ村の各年代の農業収穫や家畜数、現金収入に関する表などは、当時チュルマ生産隊の 出納係を務めた村人のFが保存している当時の資料から引用したものである。
第五回目は、2013年7月11日から8月11日まで一カ月間を掛けて、調査村の氏族や 親族の関係を主として、90年代から青海省チベット地域に対して実施した計画生育政策に おける調査村の人口の変遷や家族構成の変遷などを調査した。
(3)本論文の構成
本論の構成は以下のとおりである。
第1章では、中国のチベット族の人口、分布、歴史などの概要を紹介している。調査地 域である青海省や同仁県などの地理的な位置、人口、歴史ななどを紹介し、調査対象村の 世帯数、家畜数、耕地の面積などを表で示した。
第2章では、近代チベット歴史の分水嶺である中華人民共和国によるチベットへの人民 解放軍の進出「解放」(青海省は1949年解放し、チベット自治区は1951年解放した)、そ して解放後の民主改革・人民公社化、文化大革命、生産責任制など政策を概観する。また、
解放(1949年)、民主改革、文化大革命など政策や政治運動によって、チベット村社会の 政冶組織などがどんな変化を経験したかを記述するとともに、一度途絶えた村の自治組織 が、改革開放政策とともに復活する背景を探ることで、チベット族社会の特質を考察する。
第3章では、旧社会と民主改革・人民公社、生産請負制などによる農牧業、出稼ぎの変 遷、及び村人の家畜や耕地の所有形態の変遷過程を考察する。
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第4章では、村の人口動態と父系集団であるツォワの役割とその変遷を記述する。
第5章では、調査村の村社会における寺院の教育制度、僧侶の生活、宗教儀礼及び村の 宗教組織や年間宗教儀礼などを記述することにより、寺院が村社会に於いてどんな役割を 果たしているかを記述する。
第6章では、チベットの葬送形式とその歴史を概観したうえで、調査村で行われてきた 土葬、火葬、鳥葬などの過程と意味、そしてそれを行う村人の動機などを検討する。また、
チベットの代表的な鳥葬場における鳥葬を記述し、若干の考察を試みる。
終章では、論文全体のまとめを紹介する。
8 第一章 調査地域とその歴史
第一節 調査地域の概要
(1) 中国在住のチベット族の人口や分布、及び歴史
中国のチベット族の人口は628万人(2010年人口調査)で、現在、中国のチベット自 治区、青海省、甘粛省、四川省、雲南省に分布している。チベット人は、この中国領域の チベット人地域をチベット語の方言によって、①ウ・ツァン(前蔵・後蔵)、②カム(康)
③アムド(安多)の三つにわけている。図1は中国国内でチベット人が主に居住する地域 を示したものであり、このうち紫色で示した地域がウ・ツァン地区、薄緑色がカム地区、
赤色がアムド地区を示している(ウ・ツァンとカムの間の赤い部分は、行政的に西蔵自治 区と青海省の間にある帰属未定地域である)。
図1-1 中国チベット人分布域(中国チベット地域地図ホームページより)
具体的には、ウ・ツァン地域の範囲を現在行政区の地域で言えば、ウ(前蔵)は現在の ラサ市、山南地区、さらに林芝地区西部の林芝県・工布江達県・米林県・朗県など4県で ある。ツァン(後蔵)はシガツェ(日喀則)地区、チャンタン地区、阿里地区である。
カム(康)地域は、現在チベット自治区の昌都地区、那曲地区、林芝地区東部の察偶・
波密・墨脱など三県、青海省玉樹蔵族自治州、四川省甘孜蔵族自治州、雲南省徳欽蔵族自 治州である。
アムド(安多)地域は、現在の青海省の海南・海北・海西・果洛・黄南など蔵族自治州、
西寧市や同市所轄の大通県、海東地区の化隆・循化・楽都など3県、甘粛省甘南蔵族自治 州、四川省阿覇蔵族自治州などである。(陳慶英 2003)
中国在住のチベット人は自称でボウ1「bod」2と呼び、現在中国語で「蔵族」と呼んでい る。史書に現れるのは「吐蕃 thu bhod 」や「蔵族 bod」である。チベット族に対する
1 本論のチベット語のカタカナ表記は調査現地の言語、及び青海省アムドの言葉を基づくものである。
2本論のチベット語のローマ字表記は、Wylie(1959)によるチベット文字の転写方式に基づくものである。
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呼び方は時代の変動と共に変わって来たと考えられる。ボウ「bod」というチベット人自 称については主として以下の二説がある。ゲンドンチュンペー『白史』によれば、
「チベットの原始宗教はポン教である。当時、チベット地域やチベット人をポン域、ポ ン(bon)と呼んでいた。時代変化と共にポン(bon)がボウ(bod)に変わったと推定され る」(更登群培1988:38)。
もう一つは、ハァウ・ツェラウチャンワ(dpa’ bo gtsugs lag phring ba)『智者喜宴』に
「原始時代にボウカニャジュゥ( bod kha nya drug)という部族があり、この部族は以後 の吐蕃王朝を形成するに支柱的な部族になったため、チベット全地域をボウという名前を 付けることになった」とある(ハァウ・ツェラウチャンワ 2006:82)。
いずれにせよボウという言葉は昔からチベット人の自称であると判断できよう。
チベットの古い伝承では、チベット人はセ、ム、ドン、トン四大部族からなっていると 考えられていた。それが次第に十数個以上の大部族になり、チベット高原にそれぞれ広が って十二小邦、四十小邦が成立した。
伝説上は紀元前9世紀と思われる時期にチベットの最初のツェンポ(王様)ニャティ・
ツェンポが登場した。ヤルルン川流域に起きたヤルルン王家に第三十二代ソンツェン・ガ ムポ王が即位し、地域を拡張してチベットを統一し、国家の政権中心地がラサに移動した。
行政区域がこの時期に定められ、チベット全土で軍事化管理を実施した。
ソンツェン・ガムポ王(617-650)がチベット全地域を政治的に統一してチベット文字 を創造し、仏教の導入などによって、文化的にも行政的にもチベット族という民族を形成 し始めた。9世紀ダルマ・ウィドゥムテン王(808-844)は仏教弾圧に転じたので、ポン 教徒と仏教の間に紛争が起き、ダルマ・ウィドゥムテン王の暗殺に及んで、吐蕃王朝は滅 亡し仏教も衰亡した。
13 世紀サキャ政権は元朝の支援によって再びチベット全地域を統一し、「政教合一」的 な政治制度を形成した。以後のパクモドゥ政権やダライ・ラマ政権も「政教合一」制度を 継承し、中華人民共和国時期まで維持されてきた。
チベット族の歴史時代を概観して見ると、紀元前 9 世紀以前の十二邦や四十邦の時代、
吐蕃王朝の時代(紀元前825年―紀元923年)、部族割拠政権時代(923年―1270年)、 サキャ政権時期(1270年―1354年)、パクモドゥ政権(1354年―1642年)、ダライ・ラ マ政権(1642年世紀―1951年)、中華人民共和国時期(1951年―現在)などに分けられ る(得栄・澤仁鄧珠2001年により筆者作製)。
中国共産党のチベット解放直前、ラサ政権の支配地域と、中華民国の行政下にある地域 とでは政治状態や政権形式が異なっていた。それゆえ、中華人民共和国は各地域の政治状 態によって、異なる政策を実行した。以下に調査地域が属する青海省の歴史を概観する。
(2)青海省のチベット人の人口と歴史
青海省のチベット人地域のうち玉樹蔵族自治州がカム方言を話すほかは、みなアムド方 言を話しているので、青海省はおおまかにはアムドに属し、チベットの伝統的な農業と牧 業を生業としているところとされる。
青海省のチベット族の人口は138万人である(2010年人口調査)。これは、全省人口の
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24.4%を占める。主として玉樹・果洛・黄南・海南・海北の蔵族自治州及び海西モンゴル 族蔵族自治州に分布し、西寧市や同市所轄の大通県、海東地区などにも居住している。青 海省では元来蔵族が最大であったが、1949 年の革命以後に漢族が急増し最大となった。
2010年現在漢族(298万人、53.03%)、回族、土族、モンゴル族、サラ族などの民族が住 んでいる。
図1-2、青海省(中華地図ホームページより)
青海省は黄河の最上流に位置し、チベット族の祖先といわれる羌族がこの地域で生活し ていた。歴史によれば、紀元634年吐蕃王朝のソンツェン・ガンポ王が当時青海省の吐谷 渾政権を消滅させ、チベット高原を統一したことは青海チベット族形成の端緒となった。
『青海省民族誌』によれば「吐蕃王朝の軍隊、それと共に移住した羊同、蘇毗,タングー ト部族などの後裔は青海省チベット族の重要な部分となった。さらに当時吐谷渾や、原住 民であった羌族系の民族も時間の経過とともに同化し現在の青海省チベット族を形成した」
(青海省地方誌編纂委員会 2008:120)。
紀元7世紀から9世紀中葉まで続いた吐蕃王朝の統治下では、青海省の河谷・盆地は農 業や牧畜業が比較的発達した地域であった。
吐蕃王朝の崩壊によって青海省も一時期各部族の割拠政権の状態になった。11世紀にな ると吐蕃王朝の後裔であったジェスロー(角廝鑼)が青海省のチベット部族を統一して政 権を成立させ、タングートの西夏王朝や中原宋朝との間で文化交流や茶馬交易を行った。
13 世紀モンゴルの興隆におよび、チベット高原はモンゴルの攻略に悩まされた。1239 年モンゴルの王族グデンによって青海ジェスロー政権は滅亡し、元朝フビライ帝がチベッ ト仏教のサキャ派を支持したことによって、チベット高原は再び統一された。サキャ派政 権は政教合一の政治制度を実施し、チベット族の政治的・精神的統合を図った。政治的に 吐蕃王朝から残留された千百戸長制度をチベット全地域に実施した。各地方の部族に属す る家族数によって、百戸長、千戸長、万戸長などの官位を与えた。宗教的にサキャ政権の 中心であったサキャ寺院から高僧の弟子、或いは貴族の子孫をチベット高原の各地方に派 遣し、各地方の宗教・政治の首領を是に従わせ、部族民を統治した。
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モンゴルがチベットで「万戸」の政治組織を実施したことについて、『チベット文化史』
は以下のように記述している
「モンゴル人は、チベットを自分たちの手で統治しょうとは試みなかったが、課税を目 的とした・・・・・・全国を覆う「万戸」制を、おそらくはチベットの古い行政組織に 基づいて確立した」(D・スネルグローヴ/H・リチャードソン 1998:195)。
14 世紀元朝の滅亡によってサキャ政権はチベット全地域を統治する影響力をうしない、
それと共に、ラサを中心とするウ・ツアンではカギュー派の影響力が強くなり、パクモド ゥ政権を樹立した。その後、ゲルク派のダライ・ラマ 5 世がモンゴルの支援によりダライ・
ラマ政権を立ち上げた。青海省や四川省、甘粛省、雲南省などチベット地域はサキャ政権 の影響力の衰滅により、再び各部族の割拠政権状態に戻った。
しかし、元朝にかわった明朝は元朝が実施した各部族の千万戸長の政治制度を維持し、
さらに清朝に至ってもこの制度は維持された。すなわち明・清両朝は青海・四川チベット 各部族の千戸や万戸長の官位を認め、或いは新しい官爵を与えたのであった。
青海省や四川省などのチベット族の各部族の千万戸長の領土や属する軒数、権力などは 歴史の変動によって変化したが、大まかに言えば解放前まで調査地域が属する青海省のチ ベット地域では、各部族の千万戸長やその地方の精神的な領袖である寺院の活仏がその部 落民を統治する、各部族の割拠政権の政教合一状態であった。
第二節 調査地の概況
(1)、同仁県とシュンポンシ(双朋西)郷の概要
調査対象の集落が属する同仁県は、青海省の東南を占める黄南蔵族自治州の東北部に位 置し、東は甘粛省のチベット人地域夏河県と接する。地理的位置は、東経 101.38 度から
102.27度まで、北緯35.1度から35.47度までである。農業を主とし、牧畜を兼業する。
隆務鎮には黄南蔵族自治州と同仁県の政府があり、州と県の政治、経済及び文化の中心で ある。全県面積3275平方キロメートルで、そのうち耕地面積は7566.7ヘクタール、草原 面積は30万ヘクタール、森林面積は1.28万ヘクタールである。同仁県の最高海抜は4767 メートル、最低の海抜は2160メートルである。年間平均気温は5.2度で、年間平均降水
量は425.7ミリメートルである。この地域は一口でいえば高冷乾燥気候といえよう。
全県の行政区画は2鎮、10郷、72行政村、4コミュニティ(「社区」)3に分けられてい る。その中で、農耕地区は4郷であり、純牧畜地区は3郷である。それ以外は半農半牧の 混合農業であり、調査地域のシュンポンシ郷も半農半牧に属する。
シュンポンシ郷は同仁県の東南部にあり、県政府がある隆務鎮とは33キロ離れている。
シュンポンシ郷の最高海抜は3945メートル、最低海抜は2660メートルである。年間平均 気温は3.3度、年間降水量は461.7ミリメートルである。雨季は夏の7月、8月、9月で ある。
3 「社区」とは、一般的には区政府より下にある「街道弁事処」と「居民委員会」が担当している部分を 呼ぶ。主要業務は、住民への各種サービス提供で、住民間の紛争処理、社会治安や安全維持、地域福祉、
生活保護などについて活動している。
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2013年の郷政府の人口統計によると、シュンポンシ郷は642戸あり、人口は3615人、
その全部がチベット人である。シュンポンシ郷の面積は250.97平方キロメートルであり、
そのうち耕地は669.6ヘクタールで総面積の2.6%を占める。耕地(灌漑ができない山地)
はシュンポンシ郷の西北の海抜2,660メートルから3,000メートル間の山地に分布し、主 な農産物は、小麦、裸麦、アブラナ、豌豆である。草地は 24,400 ヘクタールで総面積の
89%を占め、シュンポンシ郷の東南部の海抜3,000メートル以上の地勢が高く寒いところ
に広がっている。主な家畜は、ヤク、牛、羊、ヤギ、馬、ロバ、ラバなどである。
シュンポンシ郷は、シュンポンシ上部族(zho 'ong dpyis la kha)とシュンポンシ下部 族(zho 'ong dpyis)の二つからなり、シュンポンシ上部族は、シェジュウ村、ニンタ村、チ ュルマ村、ガッシュウ村、ホンル村、コッツェ村、ニャンジャ村、サッソマ村など七つの 自然村からなる。調査村のチュルマ村はシュンポンシ上部族の一つの自然村である。シュ ンポンシ下部族はシュンポンシ村だけからなっている。
チュルマ村の海抜は3,200メートルであり、郷政府があるシュンポンシ村とは38キロ 離れ、さらに県政府と州政府がある隆務鎮とは50 キロ離れた山の上の村である。隆務鎮 やシュンポンシ郷から直接行くバスがなく、村人はバイクやトラックでこの間を往復する ことであったが、最近、経済発展で村人の生活は豊かになり、自家用車を持つ家庭もだん だん増えて来ている。
(2)調査村の概要
この二つの村人はチベットの伝統的な半農半牧の生活を送っている。大量の労働力が必 要であるため、家族の労働力とその家庭の家畜数、播種耕作する耕地(ロッマlog ma)の面 積とは緊密な関係を持っていると思われる。以下に二つ村の人口、世帯数、家畜の数及び 耕地の畝数表で示した。
表1-3 チュルマ村の人口、世帯数、世代数、家畜の数及び耕地面積
世帯主 家族の人数 世代数 家畜数 畑面積 実 際に 耕作 する畑面積
① 12人 5世代 牛68頭 羊500頭 35畝 25畝
➁ 15人 4世代 牛50頭 羊300頭 30畝 20畝
➂ 6人 3世代 なし 17畝 12畝
➃ 9人 4世代 羊150頭 26畝 17畝
➄ 3人 3世代 なし 15畝 10畝
➅ 11人 4世代 牛30頭 羊150頭 28畝 20畝
➆ 12人 3世代 なし 32畝 24畝
➇ 10人 3世代 羊300頭 20畝 12畝
➈ 8人 3世代 牛15頭 羊100頭 24畝 14畝
➉ 5人 3世代 羊70頭 24畝 14畝
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⑪ 6人 3世代 羊100頭 14畝 10畝
⑫ 6人 3世代 なし 15畝 12畝
⑬ 8人 3世代 牛17頭 羊100頭 20畝 15畝
⑭ 4人 2世代 羊17頭 16畝 10畝
⑮ 6人 2世代 なし 30畝 21畝
⑯ 6人 3世代 牛16頭 羊100頭 20畝 15畝
⑰ 8人 4世代 牛20頭 羊100頭 20畝 15畝
⑱ 6人 3世代 羊110匹 20畝 15畝
⑲ 6人 4世代 牛20頭 羊100頭 17畝 10畝
⑳ 8人 3世代 羊50頭 28畝 17畝
㉑ 5人 3世代 羊200頭 15畝 10畝
㉒ 9人 3世代 なし 29.5畝 19.5畝
㉓ 5人 2世代 なし 19畝 10畝
㉔ 4人 3世代 なし 11畝 8畝
㉕ 8人 3世代 なし 19畝 12畝
㉖ 3人 2世代 なし 4畝 4畝
㉗ 9人 3世代 羊200頭 24畝 16畝
㉘ 5人 3世代 なし 15畝 10畝
㉙ 5人 3世代 羊100頭 30畝 20畝
㉚ 5人 3世代 なし 18畝 12畝
㉛ 4人 2世代 なし 12畝 8畝
㉜ 7人 3世代 羊200頭 12畝 8畝
㉝ 4人 2世代 なし 14畝 10畝
㉞ 12人 4世代 牛70頭 羊300頭 30畝 22畝
㉟ 8人 3世代 なし 12畝 8畝
㊱ 3人 2世代 なし 17畝 12畝
㊲ 9人 3世代 羊100頭 30畝 21畝
㊳ 8人 3世代 なし 14畝 10畝
㊴ 4人 3世代 牛20 羊100頭 12畝 9畝
※1表の「牛」には、ヤク即ち、ヤク(Gyag)、ゾー(Mdzo)、ゾーモ(Mdzo mo)が含まれる。
※1畝は6.667アールに相当する。
チュマル村は44軒からなる自然村であり、人口は271人である(2013年シュンポンシ 郷人口統計)。表1-3にはそのうち聞き取りをすることのできた39軒をあげた。耕地総 計62.3ヘクタール、そのうち約10ヘクタールは休閑・輪作を繰返す、4年一巡の輪作農 法である。
それは、チュルマ村は地勢が高く寒いところに位置して他村と比較して水利もあまりよ
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くなく、平地が少なく山ばかりなので、耕地は全部山地である。輪作方式は伝統的なもの で除草と天水による水分補給を目的とする。ヤクと混血牛ゾーモを含む牛が326頭、羊が
3,430頭である。全村に大学生は4人、公務員は13人である。2010年の収入調査によれ
ば、村人の一人当り年間平均収入は3,622元であった。
一方シュンポンシ村は245戸からなり、人口は1,383人(2013年シュンポンシ郷人口 統計)の大きな村である。筆者は全戸を個別に訪問し、調査する時間がなかったため、代 表的な12戸を例として、世代数、家畜の数などを表1-4にあげる。
表1-4 シュンポンシ村の人口、世帯の数、家畜の数及び耕地の畝数
世帯主 家族の人数 世代数 家畜の数 畑の畝数
➀ 6人 3世代 なし 山地15畝 灌水地1.5畝
➁ 6人 3世代 なし 山地6畝 灌水地3畝
➂ 4人 3世代 牛20頭 山地6.5畝 灌水地3.5畝
➃ 10人 4世代 牛20頭 羊100頭
山地11畝 灌水地6畝
➄ 6人 3世代 なし 山地2畝 灌水地3.2畝
➅ 7人 2世代 牛70頭 羊200頭
山地8畝 灌水地4畝
➆ 6人 3世代 羊100頭 山地5畝 灌水地2畝
➇ 9人 4世代 羊50頭 山地6畝 灌水地3畝
➈ 6人 3世代 なし なし
➉ 7人 4世代 牛8頭 羊100頭
山地5畝 灌水地3畝
⑪ 7人 4世代 なし 山地18畝 灌水地6畝
⑫ 4人 2世代 なし 山地1.5畝 灌水地1.5畝 チュルマ村とシュンポンシ村も大都市と離れ、工場もない。村びとは今もチベットの伝 統的な半農半牧生活を送っており、表1-3および1-4で見るとおり村人の生業は、農業、
牧業、出稼ぎが主である。
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第二章 中華人民共和国の政策とチベット族村社会の変化
本章では解放(1949年)、民主改革、文化大革命など中華人民共和国の政策や政治運動 によって、チベット村社会の政冶組織などがどんな変化を経験したかを記述するとともに、
一度途絶えた村の自治組織が、改革開放政策とともに復活する背景を探ることで、チベッ ト族社会の特質を浮き彫りにすることを目的とする。近代チベット歴史の分水嶺である中 華人民共和国による解放(青海省は1949年解放し、チベット自治区は1951年解放した)、 そして解放後の民主改革・人民公社化、文化大革命、生産責任制など、中華人民共和国政 府の政策を受けて、調査地域を含む全チベット人地域は漢民族と同様に人民公社化などの 政策に取り組んだ。それによりチベット族の村社会、とくにその自治的な組織は大きな変 革を被った。本章ではその経緯を文献資料と住民への直接の聞き取りからたどる。
青海省チベット族の村社会には、伝統的にゲッバサンシェ(長老会bskos pa bsam shes)
やジュウワ(spyi ba)、チュウダ('phyug bdag)という自治組織が存在していた。この 組織は村内の紛争、盗難などの調停や解決、村の草原や畑の管理、村の宗教儀礼の主催な どを管轄してきた。ゲッバサンシェは村内の紛争や盗難などの解決を担い、ジュウワは自 然村での宗教面の管理を、チュウダは草原・耕地の管理を担当した。旧社会(1958年以前 の社会を指す)の部族長すなわち千戸など封建統治階級の影響力は、馬一族の軍閥支配や 新たに勃興した牧畜主など新階級の発展などによって弱くなったが、長老会などの自治組 織は相変わらずチベット族の村社会では重要な役割を担っていた。
1958年の中央政府の反右派・地方民族主義批判運動や、それに続く民主改革・人民公社 化の政策によって宗教信仰が禁止され、耕地、家畜、草原などは集団財産にされるととも に、伝統的な自治組織の長老会などはチベット社会から消滅した。その代りに政府の機関 である人民公社長や生産大隊長、生産隊長、すなわち中共の組織が村の出来事の処理や草 原管理の役割を行うようになった。
しかし1983年になって、ようやく鄧小平の農政が普及してくるに従い、調査地域でも 中国内地(漢族地域)の農村一般と同様、耕地や家畜を各世帯が請負う「承包制」が実施 され、また宗教信仰の禁圧が解かれた。それにともなって、村社会の長老会など自治組織 が再び回復し、村内の紛争、耕地や草原の管理、宗教儀礼の主催などの役割を果たすよう になってきている。以下では中華人民共和国政府の政策の変化に応じてチベット社会がど のように変化したかを、その段階ごとに見ていく。
第一節 旧社会における村社会の政治及び自治組織
青海省チベット族の村社会では、1958 年以前を旧社会といい、以後を新社会という。
1958 年以前は青海省チベット族地域では部族長或いは千戸など封建統治階級が統治して いた。元代から部族長に千戸(ホンポ)や万戸(ナンソ)4の官位を与え、1958 年民主改
4千戸(ホンボ)や万戸(ナンソ)は、モンゴルの元朝が吐蕃王朝の官吏制度を基づいて実施した制度であ る。5、60戸属する部族長に百戸長や、2、300戸を属する部族長に千戸長(ホンポ)、2、3000戸属する
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革まで中央政権の直接統治を受けない割拠状態を保った。いわゆる「封建農奴社会」であ った。1958年民主改革以後を新社会というのは、伝統的な制度を廃止し、中共の指導下で 新しい社会制度が始まったという意味である。
解放前、青海省は馬氏ムスリム(回族)軍閥の封建政権が支配した。これは千百戸、宗 教上層などを目下の同盟者として青海省のチベット族を統治する政治連盟であった。当時、
チベット族地域における各部族の千百戸政権については、「血縁的な氏族の連合や地縁関係 がある部族聯盟政権であり、・・・各部族内部で踏襲してきた千百戸は中央王朝から授与さ れた世襲官位である。当時の各部族政権は割拠状態であり、部族政権は独自に部族内の属 する部族民を管理、或いは統治していた」(『当代中国的青海』1991:28)
馬氏族の軍閥政権は民国初期から成立し、中共が1949 年青海省へ人民解放軍を進出さ せるまで約 40 年間青海省を統治した。馬氏政権が青海省を統治した時期、チベット人地 域に対して家畜の税や農業の税、牛や羊の皮税、更に仔羊の皮5の税など種々雑多な税を徴 収した。チベット人は雑税を拒否して馬氏族の政権に抵抗したが、馬氏政権は抵抗するチ ベット人地域を武力で残酷に弾圧した。当時の状況を『青海通史』によって概略記述すれ ば、以下のとおりである。
「馬氏族はその軍閥政権の成立以来、武力で少数民族を征服し、種々雑多な税を納税さ せて残虐的に統治した。抵抗する人々に対して殺戮や家畜など財産を略奪することなど残 酷に弾圧した。例えば、1932年6月から1941年5月まで青海省の果洛チベット地域の各 部落に対し6回にわたって残虐に弾圧し、何千人も殺害し、家畜6万頭程を奪略し、白玉 寺など寺院5座を破壊した。
1937年から1942年まで馬氏政権は玉樹チベット地域で各部落の住民を百人単位で殺し、
家畜約4万頭を奪略した。いくつかの寺院の財産を奪略したほか、100人ほどの僧侶を殺 害した。
1937年馬氏族の軍閥政権が同仁県長牙昂部落を弾圧して 600人ほど殺害し、家畜約1 万頭を略奪した。1942年同仁県和日乃亥部落の100人ほどを殺害した。その他1937年同 仁県和日只桑部落の弾圧や同徳県蔵寺の弾圧などがある」(崔永紅 2010:545-551)。 調査村であるシュンポンシ村の村人A(75歳2013年2月調査時期)によれば、旧社会 の馬氏族の軍閥政権時代には、村人が毎年人頭税や、家畜の数によって家畜税、耕地の面 積によって農業税、牛や羊の皮の税、羊毛の税、仔羊の皮の税、更にロープの税など種々 雑多な税を払わなければならなかった。当時、農牧民は馬政権以外に部族の首領にもバタ ー、裸麦などの税を払う義務があった。部族のホンポ(千戸)や万戸が馬政権の命令によ って属する部落民から税を徴収したが、もし、税を滞納すれば、馬氏族の軍隊が村に入り 込んで村人の家畜や財産を奪略することがよくあった。筆者の聞き取りによれば、ある老 人は「当時、村人が羊や牛の皮の税を滞納すれば、馬氏族の軍隊が草原で牛や羊を殺して 皮を剥いで持ち帰ること、更に仔羊も殺して皮を剥ぐことがよくあったと語った(2013 部族長に万戸(ナンソ)の官位を与えた。
5 仔羊の毛は暖かく、皮は柔らかいので寒冷である青海省の人々にとって冬服を作るには とてもよい材料である。
17 年2月25日聞き取り)。
当時の統治階級の状態を『馬歩芳家族的輿哀』では以下のとおり記述している。「馬氏族 の封建軍事専制的な統治下で、チベット地域の農民や遊牧民が悲惨な境遇にあった。彼ら は官僚や土豪劣紳、千百戸、土司、宗教寺院など封建特権に圧迫され搾取された。毎年収
入の 70%から全部を統治階級が掠奪した。・・・馬氏族の軍隊は彼らを勝手に威圧し殺害
し、部族のホンポや万戸、宗教上層階級も野蛮で残酷な刑罰を実施した」(楊効平2011:
215)。
同書は当時の馬氏族軍閥政権とチベット族やモンゴル族の部族の千百戸や土司、王公な ど統治階級の関係を以下のとおりに記述している。
「馬歩芳は各民族を有効に統治するため、歴代踏襲してきた地方の領主勢力及び土司、王 公や千百戸など封建領主統治と新しい行政組織を連合して作り、独自の軍事封建専制的な 政権を建てた。・・・モンゴル族やチベット族の各部族首領がモンゴル族やチベット地域で は依然として絶対的な権威を持っていた。馬歩芳はその地域を統治するため、王公や土司、
千百戸などを利用して政策の実施や税金の収納、地域の管理などをすることにした。モン ゴル族の王公やチベット族の千百戸、土司などは自己の官位や権力を世襲するため、馬氏 族の勢力に頼らなければならかった。……それゆえ、王公、千百戸、土司などが馬氏族軍 閥政権と連合し、彼らが馬氏族軍閥政権の代わりにモンゴル族とチベット地域の一切の行 政事務を実施することになった。」(楊効平2011:185)
上述したように、元朝が作り上げた千百戸や土司制度は、明や清の朝廷がラサ政権以外 のチベット地域を効率よく統治し安定させるために、させたものである。1911年の辛亥革 命以後、民国政権もその制度を踏襲し、馬氏軍閥政権も民国政権の権威の傘のもとで、青 海省のチベット地域の各部族の首領である千百戸や万戸などを利用して、彼の統治権力を 強化した。更に1949年中華人民解放軍が青海省チベット人地域を解放した時も、権力が 安定するまでは、ナンソや千百戸の影響力を利用し、彼らを人民政府の県長や副県長に繰 込んだ。この政治状態は1958年民主改革まで維持された(今日でも、ナンソや千百戸の 子孫は調査地域では民衆に尊敬され、ある程度の影響力を持っているので、県政府や州政 府が彼らに政冶協商会の委員を務めさせている)。
解放前の同仁県の社会状況について『同仁県誌』は以下のとおりに記述している。
「同仁県は元々(元朝)二つのナンソ府(ロンウナンソ府とアッヴェナンソ府)が統治 したものであったが、アッヴェナンソが衰退したことにより、ロンウ寺のシャルツァン・
リンポチェ(夏日倉活仏)とロンウナンソが執政することになった。民国時期から夏日倉 活仏が指導者のロンウ寺大臣やロンウナンソ府、ロンウ十二族の総千戸であるジャウホン ポ(千戸 後述)と連合的に執政する統治集団を形成していた」(同仁県誌編纂委員会 2001:925)。
このように書いているが、同仁県ではロンウ(隆務万戸)ナンソとアッヴェ(瓜什則万 戸)ナンソの二つの部落政権があり、ロンウナンソ府が同仁県の十二族を統治し、アッヴ ェナンソが五族を統治した。解放前まで、アッヴェナンソ府は衰退しながらも、アッヴェ 五族に対して一定の影響力が存在した。
調査村であるチュルマ村とシュンポンシ村は、アッヴェナンソ五族の一部分であったの で、以下でロンウナンソ府とアッヴェナンソ府の歴史を概観する。
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ロンウナンソは、元朝の皇帝テムル(成帝1295-1307年在位)がロンウのサッキャ族 系のランチェブン族長にナンソの官位を与え、同仁県の十二族を中心として現在の黄南チ ベット自治州の大部分を統治させたことに由来する。この政権の領土は徐々に縮小し、
1950年代は同仁県十二族だけのナンソになっており。1958年民主改革でナンソ制度を廃 棄するまで55世代続いた(ジャヤンジュバ 2010:15)。
同仁県の十二族のナンソ政権には、法廷、監獄があり、寺院の宗教首領と合力して属民 を統治し、刑事事件はもちろん一切の民事訴訟をナンソ府が裁判し、各部族は納税義務が あった。1928年当時の国民政府が同仁県政府を設立したが、政令はナンソ府を通さず実施 することはできなかった(同仁県誌編纂委員会 2001:571)。
歴史によると、一方のアッヴェナンソも元朝の時代、フビライ(忽必烈1260-1294在 位)がアッヴェの族長にナンソの官位や、現在の甘粛省甘南蔵族自治州の大部分の領土を 与えた。ナンソの官位は21代続いたものの、前述のように衰弱した1958年には同仁県五 族しかアッヴェナンソに属しない状態であった。
当時のナンソ政府は政教合一的な特徴を持っていた。それはナンソや部族長が寺院の重 要な施主であるため、地方の精神的な首領である活仏はナンソ府の統治を擁護し、更に相 互に協力したからである。寺院の精神的な領袖である活仏はたてまえでは最高位の修行者 であるが、転生概念が取り入れられるようになってからは、地方の政治的な領袖、部族長 などの親族であることが多く、双方互いに補って地方政権を形成する場合も多かった。
チュルマ村はシュンポンシ上部族の自然村の一つであり、かつて政権的にシュンポンシ 上部族6のシュンポンシ・ホンポ(千戸)に属していた。シュンポンシ上部族は血縁的な部 族聯盟である。『熱貢双朋歴史宝典』によれば、12 世紀頃シュンポンシ部族はチベット自 治区最西北部ガリ(阿里)地方から現在の青海省同仁県に移住した。今日、地形の高低差 によってシュンポンシ上部族とシュンポンシ下部族という二つに分けられている。シュン ポンシ上部族はチュルマ村など七つの自然村を形成し、シュンポンシ下部族はシュンポン シ村ひとつであった。
シュンポンシ部族が同仁県へ移住した時代は、吐蕃王朝が崩壊し、各地域の貴族や将軍、
部族長などが草原と村落を争って長い間抗争を続けていた時代であった。各地域の部落民 は血縁的、地域的に部族聯盟を形成して草原や家畜を保護する割拠政権の状態になってい た。13世紀のサキャ派政権が元朝の支援により再びチベット地域を統一し、各部族の戸数 によってその族長に万戸、千戸、百戸の官位を与えた。基本的に万戸の下役には千戸、百 戸を設置しているが、千戸百戸ともにそれぞれ高度な自治権をもっている部族政権であっ た。村人は千戸を「ホンポ」と呼ぶが、チベット語の意味は首領である。万戸はナンソ或 いは「土司」と呼び、地域の王様、漢語でいう「土皇帝」という意味である。
13世紀シュンポンシ上部族の族長にもサキャ政権が千戸の官位を与えて1958年までホ ンポが28世代続いた。今日残るコンジュウジャシ・ホンポは第30代目である。シュンポ ンシ上部族のホンポも高度な自治権を持っていた部族政権であった。ホンポ家には法廷や
6ここにいう部族とはチベット語でシュウカという。出自を同じくする自然村の連合である。いくつかの自 然村すなわち部落からなっている。千戸百戸は血縁的や地域的に形成した部族聯盟であるが、部族長或い はホンポ(千戸)とその下部機構が支配する部族政権でもある。
19 監獄があり、ホンポの官位と権力は世襲であった。
ホンポは部族内にシゴン(西寺)とゲィセィワ(新寺)という二つ寺院を建て、宗教的 な首領である活仏と協力して政教合一的権力を形成し、それによりシュンポンシ上部族の 七つの自然村を統治していた。その一方で政治や宗教の重要な案件については、部族内の 長老会が主として部落民の意見を求める傾向もあった。
ホンポはとくに意見のないときには長老会の意向によって、部族内の紛争や刑事事件な どを習慣法に基づいて罰金(多くは家畜による支払)或いは投獄などに処した。
部落民は毎年農業の小麦やハダカムギ、牧業の羊など家畜或いはその生産物である羊毛、
バターなどの税金を納める義務があった。また、紛争や事件、離婚などを解決する場合は、
当事者がホンポに一定の料金を払うことになっていた。
旧社会、シュンポンシ上部族の社会ではホンポ以外には長老会など自治組織が存在した。
長老会はチュルマ村など七つの村の各村2人ずつ14人からなる。長老会の会員は民主的 に選挙で選ばれる。年齢各層にまたがっており、村人が尊敬する人や紛争を解決する 時に公平な人、知恵に富んだ人が選ばれる。毎年村人は新しい長老会を選ぶが、長老 の任期はなく何回選ばれてもかまわない。
当時、ホンポはシュンポンシ上部族の納税や草原紛争、年間宗教儀礼、草原の管理など は長老会と相談して決めた。チュウダやジュウワは長老会の下部組織で、長老会が決めた 政令を実施した。長老会は彼らの仕事を監督する義務があった。
以下、長老会など自治組織の重要性から考えて、これが当時の村社会の日常的な生活の 中でどんな役割を果たしていたかを概観したい。聞取りによれば、旧社会のチュルマ村に は 24 戸しかなく、農牧業両方を行う世帯が5戸であり、それ以外はほとんど農業だけを 行う世帯であった。このうちおもな生産力の担い手である農牧兼業の世帯は、大量の家畜 や耕地を持っていたので、中共の階級区分では、いわゆる村の牧畜主階級(漢民族地域の 地主にあたる)であるとみなされた。
例えば、A家は、当時家畜は羊500頭、ヤク100頭、耕地は約2.67ヘクタール(山地 すなわち灌漑のできない耕地)があって、チュルマ村の唯一の大牧畜主であった。二人の 村人を「長工(後述)」として農業の放牧に雇用した。A自身は二人の妻を持っていたので、
当時調査村の唯一の一夫多妻婚であった。他の農牧兼業を行う4戸の牧畜主とされた世帯 も羊が200から300頭、ヤクが70から80頭、耕地は1.33から2ヘクタール(山地の非 灌漑耕地)を持っていた。
純農業世帯のうち、十数軒は山地の耕地を1.33ヘクタールから2ヘクタールを持って いたので、家族の食糧を自給できた。他の6戸は耕地も家畜もあまり持っていなかったた め、牧畜主に雇用されたり、端境期7には食糧を借りてようやく家族の生活を成り立たせて いた。
牧畜主に雇用されるときは、ほとんど放牧や春秋の穀物の播種と収穫であった。雇用期 間によって、漢語で「長工」と「短工」という二種類がある。「長工」とは、毎年牧畜主と 年間放牧の契約をし、牧畜主の家畜を通年放牧する者であった。契約を継続するかどうか
7端境期をとは、収穫物を食いつくしたのにその年の収穫時期が至らず食料が足りなくなる時期である。漢 語ではしばしば「青黄不接」という。
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は両方の自由であるため、当時、一年後他の牧畜主と契約するひともいた。そのいっぽう で、一生に1戸の牧畜主と契約を継続して放牧に従事した人もいた。給料は人の放牧能力 によって違ったが、一般的に一年間の給料が10から15銀元(当時、ヤク1頭が8銀元で あったという)であった。契約期間の食糧や衣服などは牧畜主から提供することになって いた。
調査村のある男性(2011年 85歳)によると、彼は14歳から21歳まで牧畜主の家畜 を放牧した。そのとき牧畜主は彼を家族の一員としてあつかい、食糧や衣服を提供してく れた。彼だけでなく当時は、牧畜主階級と貧農の関係は友好的であった。それは、以下の
「短工」の待遇からも推察することができる。
「短工」とは、貧農が夏の6月羊毛刈、春秋時期播種や収穫の時期に短期間雇われるも のをいう。10日間から20日間程度の仕事をする。それによって「短工」は、牧畜主から 正月に肉やバターなど牧畜業の生産物を少し受け取ることができた。また、夏の羊毛刈の 時、チベット衣服を作る材料の羊毛を少しもらえた。又秋の終りには肉やバターを受取っ た。これによって、春秋の収穫など仕事を手伝う義務感が生まれた。その際に「短工」は 基本的に報酬を求めることはなかった。
葬式などのときには寺院の僧侶に金銭や食糧で布施を行わなければならない。そのとき
「短工」をやるような貧困世帯は牧畜主に食糧などを借りなければならない。借りる時、
シュンポンシ上部族の長老会の成員である村の長老が、当事者のかわりに牧畜主に頼むこ とになっていた。借りる条件として借手の氏族あるいは村全体は長老の指示により、牧畜 主の仕事の手伝いをしたのである。また、借金の保証人は長老だから、貸手は借金の返済 を長老に求める。また、長老は当事者の願いにより牧畜主に頼んで返済期間を延長するこ とができる。長年にわたり返済しない場合は、牧畜主の要求によって長老が借手に代わっ て支払った。このとき借手のロバなど役畜や畑などに値段を付けて担保とした。また借手 の氏族及び村全体が長老の指示により、当事者に経済的な支援をして負債を返す方法があ った。村人によれば、当時基本的に後者の方法を取ったようである。
村内で紛争や離婚、刑事事件などが起きた場合は、当事者の依頼によって長老会やホン ポが習慣法に基づいて調停や解決をした。公平に賠償などを裁判した後は、当事者同士は これを守らなければならない。もし、守らない家があれば、懲罰として長老会やホンポが その家に入って、滞在し続けることにより強制的に守らせることになる。長老会やホンポ が家に住み込んだら、その家が毎日肉やバターなど贅沢な食糧を提供しなければならない。
一般の家庭にとってそれは重い負担であったし、長老会の解決も基本的に公平であったた め、長老会の判決を守らない家はほとんどなかったということであった。これは複数の人 の証言による。
長老会やホンポが紛争を解決したときは、長老会やホンポに当事者の双方から食糧(ツ ァンパ8、バターなど)を提供する義務があった。紛争によっては、それは加重されて家畜 あるいは金銭を支払うことがあった。
上述したように、当時シュンポンシ上部族の部落民はホンポに対して年末に、各世帯が 所有する家畜の数や畑の面積によって家畜、バター、小麦などの納税する義務があった。
8 ツァンパは、チベット人の主食である。ハダカムギを乾して鉄鍋で炒って、粉にした食品である。
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長老会はホンポの代わりに部落民から納税物を集めることになっていた。このほか長老会 は、ホンポと相談し決めた政令を部落民に伝達すること、及び部落民の意見をホンポに伝 えることなどの重要な役割を担っていた。
部落民はホンポに税を納める以外に、部族の女性が部族内、或いは外部族に嫁に行く場 合にはホンポに羊1頭を支払う習慣もあった。旧社会のシュンポンシ上部族には「ホンポ は部族の首領なので、部族から何でももらえる」という諺があった。当時、ホンポはシュ ンポンシ上部族の首領であったが、自治組織である長老会は部族の牧畜主と貧農の融和を はかり、村内の紛争解決及び収税などの重要な役割を果たしてきた。
長老会は、外部族との草原の紛争が起きた場合も重要な役割を果たした。旧社会では青 海省チベット地域の各部族の間で草原の紛争がしばしば起きた。たとえばシュンポンシ上 部族は隣接するガッツェ部族と(現在の循化県の)ガンザ部族の間で長年にわたって草原 の境界を争った。草原の紛争が起きた場合、ホンポの指示により長老会が部族の 15 歳か ら 60 歳までの男性を武装させ、これを組織して相手の部族を攻撃し、自分が主張する領 土の草原に入ってきた家畜を奪取する。
紛争を平和に解決しようとする場合はホンポや長老会は部族の代表として相手と談判す る。紛争で両方の負傷者や死者が出た場合、人数によって互いにチベットの習慣法に則り トン9(賠償)を払う。もし、自分側の負傷者や死者が多ければ、長老会は相手の部族に賠 償を求める。長老会の指示によって部族内でも家畜や小麦、金銭などを集めて、紛争で亡 くなったものの家族に弔慰金として贈る。このように長老会は部族外との交渉や対決の場 面で重要な役割を果たしていた。
当時の長老会の役割について書いた『同仁県誌』(2001:925)の記述は、上記の聞取り の結果とおおむね一致している。また『青海蔵族遊牧部族社会研究』(陳瑋1998: 63)の 記述も同様である。
ここで、ホンポと長老会が部族と自然村に対してどんな役割を果たしていたかをよく理 解するため、調査地域の部族と自然村の関係或、またその定義を明らかにしなければなら ない。
調査地域の自然村はいくつかの氏族(ツォワ)から成り、元来は血族によって形成した 集落である。基本的に30〜40戸からなっている。例えば、チュルマ村はヴッズ(bu rdzi )、
メイジュウ(med 'jigs )、ゲイワ(sgar ba)などの氏族からなっている。シュンポンシ村はゲ ンボ(rgan pao)、ラゲイ(ra skaed)、シュンポン・ラマ(zhao 'ong bla ma)、ゲイワ(sgar ba)、
トゥンサ(mthongs sa)、ニャンワ(myang ba)などの氏族からなっている(第四章で詳述す る)。
自然村の氏族は同じ祖先であっても、いくつかの氏族に分かれた場合もあり、草原や財 産を守るため、いくつかの氏族が連盟した場合もある。例えば、チュルマ村のヴッズ氏族、
メイジュウ氏族、ゲイワ氏族は同じ祖先の三人兄弟から分かれたという歴史がある。シュ ンポンシ村のニャンワ氏族は、昔、今のシュンポンシ村から5、6キロ離れた山奥にあり、
隣の村と草原の紛争が頻発したため、シュンポンシ村の氏族と連盟し、シュンポンシ村に
9トンとは、チベットの習慣法で殺害された側に金銭や家畜で賠償すること、すなわち漢語でいうところの
「命価」である。