一一王通『中説』訳注稿(五) 中説卷第五問易篇(一)劉炫⑴問易。子曰、聖人於易、沒身而已⑵。況吾儕乎⑶。炫曰、吾談之於朝、無我敵者⑷。子不答、退謂門人曰、默而成之、不言而信、存乎德行⑸。
劉炫が『易』について質問した。先生は言った「聖人は『易』に対して一生涯を捧げた。我々ごときが何だと言うのか」。炫が言った「私が朝廷において『易』について語れば、敵う者などおりません」。先生は返事をせず、引き下がって門人たちに言った「黙々と物事を成し遂げ、発言せずとも信義が備わるのは、徳のある行ないにかかっているのだ」。
⑴ 劉炫 周公篇(二一)注⑴、參照。⑵ 聖人至而已 范寧「春秋穀梁傳序」(『春秋穀梁傳注疏』)「故君子之於春秋、沒身而已矣」。⑶ 況吾儕乎
『左
傳』成公二年「夫文王猶用衆、況吾儕乎(杜預注、儕等)」。⑷ 炫曰至敵者 阮逸注「聖人終身立易中、劉炫但熟易之文、而不知易在身也」。 ⑸ 默而至德行 周公篇(三〇)注⑴『周易』繫辭傳上、參照。
(二)魏徵曰、聖人有憂乎。子曰、天下皆憂、吾獨得不憂乎。問疑。子曰、天下皆疑、吾獨得不疑乎。徵退、子謂董常曰、樂天知命⑴、吾何憂。窮理盡性⑵、吾何疑。常曰、非告徵也。子亦二言乎⑶。子曰、徵所問者跡也、吾告汝者心也。心跡之判久矣。吾獨得不二言乎。常曰、心跡固殊乎。子曰、自汝觀之則殊也、而適造者⑷不知其殊也、各云當而已矣⑸、則夫二未違一也。李播⑹聞而歎曰、大哉乎⑺一也。天下皆歸焉、而不覺也。
魏徴が言った「聖人にも憂いがありますか」。先生が言った「天下の誰もが憂える中で、私だけ憂えないことがあろうか」。(徴が)疑念について問うた。先生は言った「天下の誰もが疑念を抱く中で、私だけ疑念を抱かぬことがあろうか」。徴が退き、先生が董常に言った「天の法則に従い楽しみ、天命を知れば、私はどうして憂えよう。天の道理を究明し、人の本性を突き詰めれば、私はどうして疑念を抱こう」。常が言った「魏徴に告げた内容と異なります。先生にも二言があるのですか」。先生は言った「徴が問うたのは外への現れ方であり、私がお前に告げたのは心の在り方だ。心の在り方と外への現れ方が乖離してしまってから久しい。私だって二言があらざるを得ないのだよ」。常が言った「心の在り方と外への現れ方とはまったくの別物ですか」。先生は言った「自
王通 『中説』 訳注稿 (五)
池
田 恭 哉
一二
他を区分する観点からすれば別物だが、常に適意にある者にとっては別物とは捉えずに、それぞれに適したところがあるというのであり、そうであれば二つのことも一つの道に相違ない」。李播がそれを聞いて慨歎して言った「その一つというのは何と偉大なのか。世の人々が挙ってそれに帰順しているのに、そのことに気づいていないのだ」。
⑴ 樂天知命
『周
易』繫辭傳上「樂天知命、故不憂(韓康伯注、順天之化、故曰樂也)」。⑵ 窮理盡性
『周易』
説卦傳「和順於道德、而理於義、窮理盡性、以至於命(命者生之極、窮理則盡其極也)」。⑶ 子亦二言乎
『論語』
陽貨「子貢曰、君子亦有惡乎。子曰、有惡」。⑷ 適造者
『莊子』
大宗師「造適不及笑(郭象注、所造皆適、則忘適矣、故不及笑也。成玄英疏、造、至也。……夫所至皆適、斯亦適也。其常適何及歡笑然後樂哉。郭慶藩集釋所引家世父曰、造適者、以心取適而已、言笑皆忘也)」。⑸ 各云當而已矣
『孟
子』萬章下「孔子嘗爲委吏矣。曰、會計當而已矣」。⑹ 李播 阮逸注「李播、亦門人、未見傳」、張氏注「李播、王績友。舊唐書・王績傳、少與李播・呂才爲莫逆之交」。⑺ 大哉乎 王道篇(二七)注⑴、參照。
(三)程元問叔恬曰、續書之有志有詔、何謂也。叔恬以告文中子、子曰、志以成道、言以宣志。詔其見王者之志乎⑴。其恤人也周、其致用也悉。一言而天下應、一令而不可易⑵。非仁智博達、則天明命、其孰能詔天下乎⑶。叔恬曰、敢問策何謂也⑷。子曰、其言也典、其致也博、憫而不私⑸、勞而不倦⑹、其惟策乎⑺。
程元が叔恬に質問して言った「『続書』に「志」があり「詔」があるのは、どういうことでしょうか」。叔恬がそれを文中子に告げると、先生は 言った「志すことによって道を成し遂げ、言葉によって志すところを宣明する。「詔」というのは王者の志すところを示すものではないか。王者はすべてにわたって人民を労り、細部に至るまでの利益を図る。一度言葉を発すれば世の中がそれに応え、一度命令を下せば改める必要がない。仁や智を備え幅広く物事に通達し、天を範として運命を把捉している存在でなくては、誰が天下に詔を出せようか」。叔恬が言った「ずばり「策」とはどういうことでしょうか」。先生は言った「その言葉は典雅であり、世の中を幅広く利し、不幸な人民を不憫に思うが私情は挟まず、賢者を尊重して飽くことなくその意見に耳を傾ける、それが「策」だろうね」。
⑴ 詔其見王者之志乎 阮逸注「詔行天下、則志可見矣」。『荀子』議兵「孫卿子曰、不然、臣之所道、仁人之兵、王者之志也」。⑵ 其恤至可易 阮逸注「恤人故皆應、悉用故不改」。⑶ 非仁至下乎
『周易』
繫辭傳上「非天下之至精、其孰能與於此。……非天下之至變、其孰能與於此。……非天下之至神、其孰能與於此」。⑷ 敢問策何謂也 阮逸注「續書有策」。⑸ 憫而不私 阮逸注「憫世病、不私諱過」。⑹ 勞而不倦 阮逸注「勞心問賢、不倦聽」。⑺ 其惟策乎 阮逸注「若漢武帝策董仲舒」。
(四)子曰、續書之有命、邃矣。其有君臣經略當其地乎⑴。其有成敗於其間、天下懸之、不得已而臨之乎⑵。進退消息、不失其幾乎⑶。道甚大、物不廢⑷、高逝獨往⑸、中權⑹契化、自作天命乎⑺。
先生が言った「『続書』に「命」が備わるというのは、何と意義深いことか。君となり臣となり、その封地に応じた政治を行なうのだろうかなあ。その政治における成功にしろ失敗にしろ、世のすべてが彼らに期待するのであり、それに正面から取り組まざるを得ないのだろうかなあ。
一三王通『中説』訳注稿(五) あらゆる物事の推移に対し、その機微を捉えるのだろうかなあ。実に遠大な道を弁え、万物が頼って離れず、超俗的に高飛し、時宜に合して変化に応じ、自身で天命を下すのだろうかなあ」。
⑴ 其有君臣經略當其地乎
『左
傳』昭公七年「無宇辭曰、天子經略(杜預注、經營天下、略有四海、故曰經略)、諸侯正封(封疆有定分)、古之制也」。⑵ 不得已而臨之乎
『莊
子』在宥「故君子不得已而臨莅天下、莫若无爲」、『列子』周穆王「月月獻玉衣、旦旦薦玉食。化人猶不舍然、不得已而臨之」。⑶ 不失其幾乎
『周 易』乾「九三、君子終日乾乾、夕惕若、厲无咎(王弼注、居上不驕、在下不憂、因時而惕、不失其幾)、……文言曰、……九三曰、……知至至之、可與幾也。知終終之、可與存義也(正義、既能知是將至、則是識幾知理、可與共論幾事。幾者去无入有、有理而未形之時)。是故居上位而不驕、在下位而不憂。故乾乾、因其時而惕、雖危无咎矣」。⑷ 道甚至不廢
『周易』
繫辭傳下「其道甚大、百物不廢、懼以終始、其要无咎、此之謂易之道也(正義、其道甚大、百物不廢者、言易道功用甚大、百種之物賴之、不有休廢也)」。⑸ 高逝獨往
『抱朴子』
刺驕「若夫偉人巨器、量逸韻遠、高蹈獨往、蕭然自得」、顏延之「陶徵士誄」(『文選』卷五七)「賦詩歸來、高蹈獨善」。⑹ 中權 周公篇(三四)注⑶、參照。⑺ 自作天命乎
『書』
呂刑「惟克天德、自作元命、配享在下」。
(五)文中子曰、事者⑴、其取諸仁義而有謀乎。雖天子必有師、然亦何常師之有⑵。唯道所存。以天下之身⑶、受天下之訓⑷、得天下之道⑸、成天下之務⑹、民不知其由也。其惟明主乎⑺。
文中子が言った「(『続書』の)「事」とは、仁義に学んだ上で、それを 練り上げたものであろうか。天子にも師の存在が必要だが、しかし常なる師などいるはずがない。ただ道のあるところに従うのだ。この世を担う立場として、この世の人々に教え導かれ、この世の大いなる道を把捉し、この世の政務を為し遂げるのだが、人民たちはそうあることに気がつかない。それは聡明なる君主のみであろうかね」。
⑴ 事者 阮逸注「續書有事」。⑵ 何常師之有 周公篇(一三)注⑵、參照。⑶ 以天下之身
『列子』
楊朱「有其物、有其身、是横私天下之身、橫私天下之物。不横私天下之身、不橫私天下之物者、其唯聖人乎。公天下之身、公天下之物、其唯至人矣。此之謂至至者也」。⑷ 受天下之訓 阮逸注「言不惟師也、天下之人有善、皆可從」。⑸ 得天下之道 『周易』
繫辭傳上「子曰、夫易何爲者也。夫易、開物成務、冒天下之道、如斯而已者也(韓康伯注、冒、覆也。言易通萬物之志、成天下之務、其道可以覆冒天下也)」。⑹ 成天下之務
『周易』
繫辭傳上「夫易、聖人之所以極深而研幾也。唯深也、故能通天下之志、唯幾也、故能成天下之務(極未形之理、則曰深、適動微之會、則曰幾)」。⑺ 以天至主乎 阮逸注「民間之事、君皆行焉。民亦不知其君得善之由」。
(六)文中子曰、廣仁益智、莫善於問⑴。乘事演道、莫善於對⑵。非明君孰能廣問。非達臣孰能專對⑶乎。其因宜取類、無不經乎。洋洋乎、晁・董・公孫之對⑷。
文中子が言った「仁を押し広め智を増幅させるには、(『続書』の)「問」よりよい手立てはない。事柄に合わせて道を展開していくには、(『続書』の)「対」よりよい手立てはない。聡明なる君主でなければ、誰が幅広い人々に意見を求められようか。明達の臣下でなければ、誰が自己の
一四
判断に立脚して応対できようか。正しき原則に従って類似の例にも及ぶとは、何と手本とすべきやり方ではないか。充実しているなあ、晁厝・董仲舒・公孫弘の対策は」。
⑴ 廣仁至於問 阮逸注「續書有問」。『論語』子張「子夏曰、博學而篤志(何晏集解、孔曰、廣學而厚識之)、切問而近思(切問者、切問於己所學未悟之事。近思者、思己所未能及之事。汎問所未學、遠思所未達、則於所習者不精、所思者不解)、仁在其中矣」、『説苑』建本「夫問訊之士、日夜興起、厲中益知、以別分理、是故處身則全、立身不殆」。⑵ 乘事至於對 阮逸注「續書有對」。⑶ 專對
『論 語』子路「子曰、誦詩三百、授之以政、不達、使於四方、不能專對、雖多亦、奚以爲(專猶獨也)」。⑷ 洋洋至之對 阮逸注「晁厝對策云、三王臣主倶賢、合謀相輔、莫不本於人情也。董仲舒對策曰、春秋王道之端、傳之於正。正次王、王次春。春者、天之所爲也。正者、王之所爲也。公孫弘對策云、致利除害、兼愛無私、謂之仁。明是非、立可否、謂之義。治之大用也。此三對、皆洋洋然、得王道大綱」。
(七)文中子曰、有美不揚⑴、天下何觀⑵。君子之於君、贊其美而匡其失也⑶、所以進善不暇、天下有不安哉。
文中子が言った「美点があってそれを称揚せずにいては、世の人々は何を確たる頼みとしたらよいのか。君子は君主に対して、美点を称賛して失点を矯正するものであり、そうすれば休みなく善へと突き進み、この世が安寧を迎えないはずはあるまい」。
⑴ 有美不揚
『穀梁傳』
隱公元年「孝子揚父之美、不揚父之惡」。⑵ 何觀
『禮記』
檀弓上「孔子之喪、有自燕來觀者、舎於子夏氏。子夏 曰、聖人之葬人、與人之葬聖人也。子何觀焉」、『左傳』莊公二十三年「諸侯有王、王有巡守、以大習之、非是君不擧矣。君擧必書、書而不法、後嗣何觀」。⑶ 贊其美而匡其失也 阮逸注「續書有讚」。『孝經』事君「子曰、君子之事上也(唐玄宗御注、上謂君也)、進思盡忠(進見於君、則思盡忠節)、退思補過(君有過失、則思補益)、將順其美(將、行也。君有美善、則順而行之)、匡救其惡(匡、正也。救、止也。君有過惡、則正而止之)」。
(八)文中子曰、議、其盡天下之心乎⑴。昔黃帝有合宮之聽、堯有衢室之問、舜有緫章之訪⑵、皆議之謂也。大哉乎。併天下之謀⑶、兼天下之智⑷、而理得矣。我何爲哉。恭己南面而已⑸。
文中子が言った「「議」とはこの世すべてに心を砕くことなのかなあ。昔黄帝が合宮にて賢者の意見に耳を傾け、堯帝は衢室にて民衆に問いかけ、舜帝は総章に善事の報告を受け入れたが、すべては「議」のことを言っているのだ。偉大なことだ。世の謀りごとをすべて集約し、世の智慧のすべてを兼ね備え、そうして治理が示される。君主たる者は何をするのか。自らを恭しくして南面するのみである」。
⑴ 議其至心乎 阮逸注「續書有議」。『書』康誥「往盡乃心、無康好逸豫、乃其乂民(孔安國傳、往當盡汝心爲政、無自安好逸豫寛身、其乃治民)」。⑵ 昔黃至之訪
『管子』
桓公問「黃帝立明臺之議者、上觀於賢也。堯有衢室之問者、下聽於人也。舜有告善之旌、而主不蔽也」、『太平御覽』卷五三三・明堂「尸子曰、黃帝合宮、有虞氏曰總章、殷人曰陽館、周人曰明堂。此皆所以名休其善也」。⑶ 併天下之謀
『大戴禮記』
朝事「春朝諸侯而圖天下之事、秋覲以比邦國之功、夏宗以陳天下之謀、冬遇以協諸侯之慮」。
一五王通『中説』訳注稿(五) ⑷ 兼天下之智 『漢書』
梅福傳「合天下之知、并天下之威、是以擧秦如鴻毛、取楚若拾遺。此高祖所以亡敵於天下也」。⑸ 恭己南面而已
『論語』
衞靈公「子曰、無爲而治者、其舜也與。夫何爲哉。恭己正南面而已矣(何晏集解、言任官得其人、故無爲而治)」。
(九)子曰、人心惟危、道心惟微⑴、言道之難進也。故君子思過而預防之⑵。所以有誡也⑶。切而不指、勤而不怨⑷、曲而不諂、直而有禮、其惟誡乎。
先生が言った「人の理というものは不安定であり、道の理というものは明らかにし難い、とあるが、道を展開することの難しさを言っているのだ。そこで君子は過誤について思い巡らしてそれに対策を立てる。だから(『続書』に)「誡」があるのだ。切実であるが指弾するわけでなく、あれこれ心砕いても怨嗟の声なく、事細かくはあってもそこに埋没せず、率直でありながら礼を弁えているのが、「誡」というものであるのかなあ」。
⑴ 人心至惟微
『書』
大禹謨「人心惟危、道心惟微。惟精惟一、允執厥中(孔安國傳、危則難安、微則難明。故戒以精一、信執其中)」。⑵ 君子思過而預防之
『周 易』既濟「君子以思患而豫防之(王弼注、存不忘亡、既濟不忘未濟也)」、『論語』衞靈公「子曰、人無遠慮、必有近憂(何晏集解、王曰、君子當患、而預防之)」。⑶ 所以有誡也 阮逸注「續書有誡」。⑷ 勤而不怨
『左傳』
襄公二十九年「吴公子札來聘……請觀於周樂。使工爲之歌周南・召南。曰、美哉。始基之矣。猶未也。然勤而不怨矣(杜預注、未能安樂、然其音不怨怒)」、『詩』召南・江有汜序「江有汜。美媵也。勤而無怨、嫡能悔過也。文王之時、江沱之間、有嫡不以其媵備數。媵遇勞而無怨、嫡亦自悔也」。 (一〇)子曰、改過不恡⑴、無咎者、善補過也⑵。古之明王⑶、詎能無過。從諫而已矣⑷。故忠臣之事君也⑸、盡忠補過⑹。君失於上、則臣補於下、臣諫於下、則君從於上。此王道所以不跌也。取泰於否、易昏以明、非諫孰能臻乎。 先生が言った「過失を改めることに労を惜しまず、災禍に遭わない者は、うまく過失を繕っているのである。古の賢明な君王とて、過失がないわけなかろう。諫めの言に従順だっただけだ。だから忠義なる臣下は君主に奉仕するにあたり、忠義を尽くして過失を繕うのだ。君主が上で失態を演じれば、臣下が下でそれを繕い、臣下が下で諫めれば、君主は上でそれを受け入れる。これが王道のつまづかない方法である。否なる状態から泰なる状態にし、暗い状態を明るい状態に変えられるのは、「諫」でなくて何だと言うのか」。
⑴ 改過不恡
『書』
「改過不吝(孔安國傳、有過則改、無所吝惜)」。⑵ 無咎至過也
『周易』
繫辭傳上「吉凶者、言乎其失得也。悔吝者、言乎其小疵也。无咎者、善補過也」。⑶ 古之明王
『國
語』周語中「古之明王、不失此三德者、故能光有天下」。⑷ 從諫而已矣 阮逸注「續書有諫」。⑸ 忠臣之事君也
『漢書』
賈山傳「臣聞忠臣之事君也、言切直則不用而身危、不切直則不可以明道。故切直之言、明主所欲急聞、忠臣之所以蒙死而竭知也」。⑹ 盡忠補過 問易篇(七)注⑶、參照。
(一一)文中子曰、晉而下、何其紛紛多主也⑴。吾視惠・懷傷之⑵。捨三國、將安取志乎⑶。三國何其孜孜多虞乎⑷。吾視桓・靈傷之⑸。捨兩漢、將安取制乎⑹。
文中子が言った「晋の時代以降、何とごちゃごちゃ君主がたくさんい
一六
たことか。私は(西晋の)恵帝・懐帝のことを考えると心を痛める。三国という時代を打ち捨てて、何の「志」があったというのか。三国時代は何と止むことのない危惧ばかりだったことか。私は(後漢の)桓帝・霊帝のことを考えると心を痛める。両漢を打ち捨てて、何の「制」があったというのか」。
⑴ 晉而至主也 阮逸注「紛不一姓」。⑵ 吾視惠懷傷之 阮逸注「惠帝政由賈后、爲趙王倫所簒。懷帝蒙塵於平陽、爲劉聰所害」。⑶ 捨三至志乎 阮逸注「三國各有平天下之志。此又明續書有志」。⑷ 三國何其孜孜多虞乎 阮逸注「雖有志而無制」。⑸ 吾視桓靈傷之 阮逸注「漢桓帝諱志、梁冀執政、權傾天下。靈帝諱宏、黃巾賊起、董卓作亂」。⑹ 捨兩至制乎 阮逸注「七制之主、可以垂法。此又明續書有制也」。王道篇(三二)注⑴、參照。
(一二)子謂、太和之政近雅矣⑴。一明⑵中國之有法⑶。惜也、不得行穆公之道⑷。
先生はこう評した「(北魏の)太和年間の政治は「雅」であったと言ってもよい。ひたすらに中国の文化の規範を明示した。残念だったのは、穆公の道を展開させられなかったことだ」。
⑴ 太和之政近雅矣 阮逸注「太和、後魏孝文帝年號也。都洛陽、文物始備。故曰近雅」。⑵ 一明
『穀梁傳』
僖公九年「讀書加于牲上、壹明天子之禁(范寧集解、壹猶專也)」。⑶ 一明中國之有法 阮逸注「中國久無定主。孝文立二十餘年、造明堂、祀圓丘、置職制、定律令。擧兵百萬伐江南。其後宣武・孝明、皆能 修太和之政。是中國之法也」。⑷ 惜也至之道 阮逸注「穆公虬、子之祖。自江南來奔、太和八年始仕焉。虬薦王肅及關朗、未幾孝文崩、虬亦卒。惜其道未及行也」、『中説』附錄「錄關子明事」、參照。
(一三)程元曰、三教何如⑴。子曰、政惡多門久矣⑵。曰、廢之何如。子曰、非爾所及也⑶。真君・建德之事、適足推波助瀾⑷、縱風止燎爾⑸。
程元が言った「(儒・仏・道の)三教はどうでしょうか」。先生が言った「政治において多様な教えがあるのを嫌うようになって随分になる」。(元が)言った「それらをなくしては如何でしょうか」。先生は言った「お前が今どうこうできることではないよ。(北魏)真君年間・(北周)建徳年間の出来事も、水の流れを後押しして大波にしたり、風をほしいままに吹かせて火災を止めたりするようなことは十分に可能だ」。
⑴ 三教何如 阮逸注「儒・老・釋」。⑵ 政惡多門久矣 阮逸注「教不一則政多門」、張氏注「多門、謂政令不一。左傳・成公十六年、晉政多門、不可從也」。⑶ 非爾所及也 阮逸注「聖賢出則異端自去、非遽能廢也」。事君篇(一)注⑺、參照。⑷ 推波助瀾 鮑照「觀漏賦」(『鮑參軍集注』卷一)「既河源之莫壅、又吹波而助瀾」。⑸ 真君至燎爾 阮逸注「真君、後魏太武年號也。時崇道教、毀佛法。建德、後周武帝年號也。毀釋老二教。隋公輔政、特更興之、是暫廢而愈盛、若波瀾風燎爾」。
(一四)子讀洪範讜議⑴、曰、三教於是乎可一矣⑵。程元・魏徵進曰、何謂也。子曰、使民不倦⑶。
先生が(祖父・王一の)『皇極(洪範)讜議』を読んで言った「三教がこ
一七王通『中説』訳注稿(五) こに至って一つとなることができる」。程元と魏徴が進み出て言った「どういうことでしょうか」。先生は言った「民衆に倦怠を感じさせないのだ」。
⑴ 洪範讜議 阮逸注「安康獻公撰皇極讜議」、王道篇(一)、參照。⑵ 三教於是乎可一矣 阮逸注「洪範五皇極者、義貴中道爾。致中和、天地位焉、萬物育焉。人者、天地萬物中和之物也。教雖三而人則一矣」。⑶ 使民不倦
『周易』
繫辭傳下「神農氏沒、黃帝・堯・舜氏作。通其變、使民不倦(韓康伯注、通物之變、故樂其器用、不解倦也)」。
(一五)賈瓊習書⑴、至郅惲之事⑵、問於子曰、敢問事・命・志・制之別⑶。子曰、制・命、吾著其道焉⑷。志・事、吾著其節焉。賈瓊以告叔恬、叔恬曰、書其無遺乎。書曰、惟精惟一、允執厥中⑸、其道之謂乎。詩曰、採葑採菲、無以下體⑹、其節之謂乎。子聞之曰、凝其知書矣。
賈瓊が『続書』を研習しており、(後漢の)郅惲のことについての記述に至って、先生に質問して言った「ずばり「事」「命」「志」「制」の区別について質問します」。先生は言った「「制」「命」だが、私はその道を打ち立てた。「志」「事」だが、私はその節を打ち立てた」。賈瓊がそれを叔恬に告げると、叔恬は言った「『続書』には遺漏がないのだなあ。『書』に「精緻であり専一であり、実にその中道に則れ」とあるが、これは道のことを言っているのかなあ。『詩』に「葑(アオナ)をとり菲(オオネ)をとるに、根っこの方で判断してはならぬ」とあるが、これは節のことを言っているのかなあ」。先生がこのことを聞いて言った「凝は『続書』のことがわかっているね」。
⑴ 習書 張氏注「書、謂續書」。⑵ 郅惲之事 阮逸注「郅惲、王莽時上書曰、漢祚久長、神器有命、不 可虚受。上天垂戒、欲悞陛下、宜即臣位。莽怒、脅惲、令稱病。惲罵曰、所言皆天命也、非狂人造焉。莽終不敢害」、張氏注「郅惲、字君章、汝南西平人。王莽代漢、惲上書勸退。建武時爲上東城門候。後侍講殿中、授太子韓詩。遷長沙太守、坐事左轉芒長、又免歸、避地教授、以病卒。見後漢書・郅惲傳」。⑶ 事命志制之別 阮逸注「事者、謂行事之跡也。命者、謂事應天命者也。志者、謂志藴於心也。制者、謂志行於禮義者也」。⑷ 吾著其道焉
『禮
記』樂記「樂也者、聖人之所樂也。而可以善民心、其感人深、其移風易俗。故先王著其教焉(鄭玄注、著猶立也)」。⑸ 書曰至厥中 問易篇(九)注⑴、參照。⑹ 詩曰至下體
『詩』
邶風・谷風「采葑采菲、無以下體(毛傳、葑、須也、菲、芴也。下體、根莖也。鄭玄箋云、此二菜者、蔓菁與葍之類也。皆上下可食、然而其根有美時、有惡時。采之者、不可以根惡時、并棄其葉。喻夫婦以禮義合、顏色相親、亦不可以顏色衰、棄其相與之禮)」。
(一六)子曰、事之於命也、猶志之有制乎。非仁義發中、不能濟也⑴。
先生が言った「「事」に対する「命」の関係は、ちょうど「志」に対して「制」があるようなものだろうか。仁義が心の中から発出するのでなければ、成し遂げられないのだ」。
⑴ 事之至濟也 阮逸注「事與志發乎中、命與制形於外」。
(一七)子曰、達制・命之道、其知王公之所爲乎。其得變化之心乎⑴。達志・事之道、其知君臣之所難乎。其得仁義之幾乎⑵。
先生が言った「「制」や「命」の道理に通達すれば、王公の成すべきものが理解できようかね。物事の推移の様子が把握できようかね。「志」や「事」の道理に通達すれば、君主と臣下の間の難しい部分が理解できよ
一八
うかね。仁や義の機微が把握できようかね」。
⑴ 達制至心乎 阮逸注「已形於外、則心可知矣」。⑵ 達志至幾乎 阮逸注「發於中、則幾可得矣」。
(一八)子曰、處貧賤而不懾、可以富貴矣⑴。僮僕稱其恩、可以從政矣⑵。交遊稱其信⑶、可以立功矣⑷」。
先生が言った「貧困や卑賤なる境遇にあっても惑うことがなければ、富み栄えることができよう。僮僕たちが自らに恩を感じるようであれば、政治に携わることができよう。人との交わりに信義を称賛されれば、功績を打ち立てることができよう」。
⑴ 處貧至貴矣 阮逸注「無隕穫、必不驕矜」。『禮記』曲禮上「夫禮者、自卑而尊人、雖負販者、必有尊也。而况富貴乎(鄭玄注、負販者、尤輕恌志利、宜若無禮然)。富貴而知好禮、則不驕不淫、貧賤而知好禮、則志不懾(懾猶怯惑)」。⑵ 僮僕至政矣 阮逸注「恩及賤、况良民乎」。⑶ 交遊稱其信
『論語』
學而「曾子曰、吾日三省吾身。爲人謀而不忠乎。與朋友交而不信乎。傳不習乎」。⑷ 交遊至功矣 阮逸注「推而廣於天下」。
(一九)子曰、愛名尚利、小人哉⑴。未見仁者而好名利者也⑵。
先生が言った「名声を大切にし利益を尊重するのは、小人だなあ。仁なる人間にして名声や利益を好む者には会ったことがない」。
⑴ 小人哉 事君篇(一七)注⑴、參照。⑵ 未見仁者而好名利者也
『論語』
里仁「子曰、我未見好仁者、惡不仁者」。 (二〇)賈瓊問君子之道⑴。子曰、反是不思、亦已焉哉⑵。
賈瓊が君子の道について質問した。先生は言った「繰り返し自らの道について問い返すようでなければ、どうにもならないのだなあ」。
⑴ 賈瓊問君子之道 天地篇(一五)注⑴、參照。⑵ 反是至焉哉 阮逸注「詩・氓篇卒章也。言必反復思其所行之道、苟不思則已矣」、『詩』衞風・氓「反是不思、亦已焉哉(鄭玄箋云、已焉哉、謂此不可奈何死生、自決之辭)」。
(二一)子見縗絰⑴而哭不輟者、遂弔之。問喪期、曰、五載矣。子泫然曰、先王之制、不可越也⑵。
先生が重い喪に服して哭泣止まることのない者を目にし、そこでその人を弔問した。服喪の期間を尋ねると、「五年です」と言った。先生は涙を流して言った「先王が制定した礼というのは、度を過ごしてはならないものなのだ」。
⑴ 縗絰 張氏注「縗、麻布喪服。絰、喪服之麻帶」、『左傳』昭公三年「在縗絰之中、是以未敢請」。⑵ 問喪至越也 張氏注「古時喪服有斬縗・齊縗・大功・小功・緦麻五種、其中斬縗最重、服喪三年(二十五月)」。『禮記』檀弓上「子思曰、先王之制禮也、過之者俯而就之、不至焉者跂而及之」。
(二二)楚公⑴問用師之道。子曰、行之以仁義⑵。曰、若之何決勝⑶。子曰、莫如仁義⑷。過此、敗之招也。
楚公(楊素)が軍隊を率いるにあたっての道について質問した。先生は言った「仁義により率いるべきです」。(楊素が)言った「どうやって勝利を収めるのか」。先生が言った「仁義以外にありません。そこを取り違えては、敗戦の到来と相成ります」。
一九王通『中説』訳注稿(五) ⑴ 楚公 張氏注「楚公、當指楊素」。⑵ 行之以仁義 『管
子』山至數「桓公問管子曰、請問爭奪之事、何如。……管子對曰、……聖人理之以徐疾、守之以決塞、奪之以輕重、行之以仁義。故與天壤同數、此王者之大轡也」。⑶ 若之何決勝 阮逸注「言仁義何能勝兵」。⑷ 莫如仁義 張氏注「孟子・梁惠王上、仁者無敵」。
(二三)子見耕者必勞之⑴、見王人必俛之⑵。郷里不騎。雞初鳴、則盥漱具服⑶。銅川夫人⑷有病、子不交睫者三月。人問者送迎之、必泣以拜⑸。
先生は耕作に勤しむ人を見かけると決まって慰労し、官員を見かけると決まって俯いて避けた。故郷にあっては馬に乗らなかった。一番鶏の鳴き声とともに顔を洗い口を漱いで身支度を整えた。(母の)銅川夫人が病気になった際、先生は三ヶ月間、眠ることはなかった。見舞いに来てくれる人があればその人たちを送迎し、決まって涙を流して拝礼した。
⑴ 子見耕者必勞之
『荀
子』大略「禹見耕者耦立而式、過十室之邑必下」。⑵ 見王人必俛之 阮逸注「俛、俯僂避之」。⑶ 雞初至具服
『禮記』
内則「子事父母、雞初鳴、咸盥漱」。⑷ 銅川夫人 張氏注「銅川夫人、王通母裴氏」。⑸ 人問至以拜 阮逸注「喜懼並」。
(二四)子曰、史傳興而經道廢矣⑴。記注興而史道誣矣⑵。是故惡夫異端者⑶。
先生が言った「史書・伝記が登場してきて経書の道が廃れてしまった。注記・注釈が登場してきて史書の道が捻じ曲げられてしまった。このた め正統でないものを忌み嫌うのだ」。
⑴ 史傳興而經道廢矣 阮逸注「若史記先黃老、後六經、是廢也」。⑵ 記注興而史道誣矣 阮逸注「若裴松之注三國志、反毀陳壽、是誣也」。⑶ 是故惡夫異端者
『論
語』爲政「子曰、攻乎異端、斯害也已(何晏集解、攻、治也。善道有統、故殊塗而同歸、異端不同歸也)」。
(二五)薛收曰、何爲命也。子曰、稽之於天、合之於人、謂其有定於此而應於彼⑴、吉凶曲折、無所逃乎⑵。非君子、孰能知而畏之乎⑶。非聖人、孰能至之哉⑷。薛收曰、古人作元命⑸、其能至乎。子曰、至矣。
薛收が言った「命とは如何なるものなのでしょうか」。先生が言った「天時に則り、人事に符合し、人事を定めるところがあって、しかも天時と対応し、どんな吉凶の巡りも回避できないものだろうかね。君子でなければ、誰が命を把握しつつ畏敬の念を持って対せようか。聖人でなければ、誰が命というものに到達し得ようか」。薛收が言った「古の人が自ら天命を行なったというのは、命に到達し得たのでしょうか」。先生が言った「到達したのだ」。
⑴ 稽之至於彼 阮逸注「天時人事、稽合曰命。此、人事也。彼、天時也。知人而不知天、與知天而不知人、皆非知命也。故君子修性、以合天理、所以定命矣。易云、窮理盡性、以至於命」。⑵ 吉凶至逃乎 阮逸注「事有不虞之譽、是時與之吉也。事有求全之毀、是時與之凶也。蓋事與時、並非人力獨能致之。故委曲折旋、無以逃其吉凶矣」。⑶ 非君至之乎 阮逸注「知天命、畏天命、惟君子」、『論語』季氏「孔子曰、君子有三畏。畏天命(何晏集解、順吉逆凶、天之命也)。畏大人(大人即聖人、與天地合其德)。畏聖人之言(深遠不可易知測、聖
二〇
人之言也)。小人不知天命而不畏也(恢疏、故不知畏)、狎大人(直而不肆、故狎之)、侮聖人之言(不可小知、故侮之)」。⑷ 非聖至之哉
『周易』
説卦「和順於道德、而理於義、窮理盡性、以至於命(韓康伯注、命者生之極、窮理則盡其極也)」。⑸ 古人作元命 張氏注「元命、大命、天命。尚書・呂刑、惟克天德、自作元命、配享在下」。
(二六)賈瓊曰、書⑴無制而有命、何也⑵。子曰、天下其無主而有臣乎⑶。曰、兩漢有制・志、何也。子曰、制其盡美⑷於䘏人⑸乎。志其慙德⑹於備物⑺乎。
賈瓊が言った「(三国魏以下で)『続書』に「制」がなく「命」があるのは、何故なのでしょうか」。先生は言った「この世に君主が不在で臣下のみいるということがあろうか」。(賈瓊が)言った「両漢については「制」も「志」もあるのは、何故なのでしょうか」。先生は言った「「制」とはすべてを民衆を憂えることに傾注したことだろうかね。「志」とは恩徳が万物には及ばなかったことへの反省だろうかね」。
⑴ 書 張氏注「書、謂續書」。⑵ 書無至何也 阮逸注「魏而下、續書無制而有命」。⑶ 天下其無主而有臣乎 阮逸注「漢制以亡、獨臣尚能禀命爾」。⑷ 盡美
『論語』
八佾「子謂韶、盡美矣、又盡善也。謂武、盡美矣、未盡善也」。⑸ 䘏人
『左傳』
襄公二十六年「古之治民者、勸賞而畏刑、恤民不倦」。⑹ 慙德
『書
』仲虺之誥「成湯放桀于南巢、惟有慙德(孔安國傳、有慙德、慙德不及古)」。⑺ 備物
『周
易』繫辭傳上「備物致用、立成器以爲天下利、莫大乎聖人」。 (二七)薛收曰、帝制其出王道乎⑴。子曰、不能出也。後之帝者、非昔之帝也⑵。其雜百王之道⑶、而取帝名乎。其心正、其跡譎⑷。其乘秦之弊、不得已而稱之乎⑸。政則苟簡⑹、豈若唐・虞・三代之純懿⑺乎。是以富人則可、典禮則未。薛收曰、純懿遂亡乎⑻。子曰、人能弘道⑼、焉知來者之不如昔也⑽。
薛收が言った「漢代の帝王たちによる制度から三王の政道は出来したでしょうか」。先生は言った「出来し得なかった。後世の帝とは、かつての帝ではないのだ。様々な時代の王による政道を合して、それで帝を名乗ることができようか。その心意気は正しきものだが、その現れは心意気に合致していない。漢は秦が帝を称した弊害に合わせる形で、仕方なしに帝を称したのであろうか。秦の政治はいい加減で簡略なもので、どうして堯や舜や夏・殷・周三代の高尚で優れたもののようであり得ようか。そのため(漢代は)民衆を豊かにした点は評価できるが、礼楽の施行という点では至らぬところがある」。薛收が言った「高尚で優れた政道はそのまま衰滅と相成るのでしょうか」。先生は言った「人間が政道を拡充するのであって、後生の者たちが過去の人たちに及ばないとはどうして言えようぞ」。
⑴ 帝制其出王道乎 阮逸注「問漢制出三王之道否乎」。帝制、王道篇(三二)注⑴、參照。⑵ 後之至帝也 阮逸注「昔之帝者以道、若三王是也。後之帝者以名、若秦始兼帝而稱是也」。⑶ 百王之道
『荀子』
不苟「天地始者、今日是也。百王之道、後王是也(楊倞注、後王、當今之王。言後王之道、與百王不殊、行堯舜、則亦是堯舜)」。⑷ 其心至跡譎 阮逸注「䘏人之心則正、雜霸之跡則譎」。心跡、問易篇(二)、參照。⑸ 其乘至之乎 阮逸注「天下已熟秦稱皇帝之名、故漢因之、不得已而
二一王通『中説』訳注稿(五) 亦稱帝也」。⑹ 政則苟簡 『漢書』
董仲舒傳「秦繼其後、獨不能改、又益甚之、重禁文學、不得挾書。棄捐禮誼、而惡聞之。其心欲盡滅先王之道、而顓爲自恣苟簡之治(蘇林曰、苟爲簡易之治也)。故立爲天子十四歳而國破亡矣」。⑺ 純懿 張衡「東京賦」(『文選』卷三)「今捨純懿而論爽德(李善注、爾雅曰、純大、懿美也)、以春秋所諱而爲美談」。⑻ 純懿遂亡乎 阮逸注「疑二帝三王之道不可復」。⑼ 人能弘道 『論
語』衞靈公「子曰、人能弘道、非道弘人(何晏集解、王曰、才大者、道隨大。才小者、道隨小。故不能弘人)」。⑽ 焉知來者之不如昔也
『論語』
子罕「子曰、後生可畏、焉知來者之不如今也(後生謂年少)」。
(二八)子謂李靖智勝仁、程元仁勝智⑴。子謂董常幾於道⑵、可使變理⑶。
先生が李靖を智慧が仁を凌いでいると、程元を仁が智慧を凌いでいると、それぞれ評した。先生が董常は聖人の道に近い存在であり、物事の変化の理に随っていけると評した。
⑴ 子謂至勝智 阮逸注「五行之秀有偏、故五常之性有勝。若木性多、水性少、則仁勝智、推此皆然」。『論語』雍也「子曰、質勝文則野、文勝質則史。文質彬彬、然後君子」。⑵ 子謂至於道
『論
語』先進「子曰、回也其庶乎。屢空(何晏集解、言回庶幾聖道、雖數空匱、而樂在其中)」。⑶ 可使變理 阮逸注「五常具、則庶幾乎聖道。通變之謂道、故曰變理」。
(二九)賈瓊問、何以息謗。子曰、無辯⑴。曰、何以止怨。曰、無爭⑵。
賈瓊が「どうしたら誹謗をなくせるでしょうか」と質問した。先生は 言った「小人どもと議論を戦わせないことだ」。(賈瓊が)言った「どうしたら怨恨をなくせるでしょうか」。(先生は)言った「小人どもと道理を争わないことだ」。
⑴ 無辯 阮逸注「勿與小人辯明」。⑵ 無爭 阮逸注「勿與小人爭理」。『論語』衞靈公「子曰、君子矜而不爭、羣而不黨」。本條、參觀『資治通鑑』卷一七九・隋紀三・文帝仁壽三年。
(三〇)子謂諸葛・王猛、功近而德遠矣⑴。
先生が諸葛亮と王猛を評するには、「功績は当時に打ち立てられ、恩徳は後世にまで及んだ」。
⑴ 子謂至遠矣 阮逸注「一時霸其國、爲功雖近、然謀及身後、爲德蓋遠」。
(三一)子在蒲⑴、聞遼東之敗⑵。謂薛收曰、城復於隍矣⑶。賦兔爰之卒章⑷。歸而善六經之本、曰、以俟能者⑸。
先生が蒲の地におり、遼東での戦役の敗退を耳にした。薛收に対して言った「城壁がお濠に逆戻りだな」。『詩』王風・兔爰の最終章を詠じた。家に帰って『続六経』の主旨を嘉しつつ言った「将来の優れた人に期待しようか」。
⑴ 蒲 阮逸注「蒲、古中都之地、隋爲河中郡」。⑵ 遼東之敗 張氏注「遼東之敗、大業十年、隋煬帝東征高麗失敗」。⑶ 城復於隍矣
『周易』
泰「上六、城復于隍。勿用師。自邑告命、貞吝(王弼注、居泰上極、各反所應。泰道將滅、上下不交、卑不上承、尊不下施。是故城復于隍、卑道崩也。勿用師、不煩攻也。自邑告命、貞吝、否道已成、命不行也)」。
二二
⑷ 賦兔爰之卒章
『詩
』王風・兔爰序「兔爰、閔周也。桓王失信、諸侯背叛、構怨連禍、王師傷敗。君子不樂其生焉」、卒章「有兔爰爰、雉離于罿。我生之初、尚無庸。我生之後、逢此百凶、尚寐無聰」。⑸ 以俟能者
『左
傳』僖公十五年「箕子曰、其後必大、晉其庸可冀乎。姑樹德焉、以待能者」。
(三二)子曰、好動者多難⑴、小不忍致大災⑵。
先生が言った「やたらと行動する人間には災難が多く、小さなことに我慢できずにいては大変な災禍が降りかかる」。
⑴ 好動者多難 阮逸注「煬帝如此」。⑵ 小不忍致大災 阮逸注「隋文如此」。『論語』衞靈公「子曰、巧言亂德、小不忍、則亂大謀(何晏集解、孔曰、巧言利口、則亂德義。小不忍、則亂大謀)」、『詩』鄭風・將仲子序「將仲子、刺莊公也。不勝其母以害其弟、弟叔失道而公弗制、祭仲諫而公弗聽。小不忍、以致大亂焉」。
(三三)子曰、易聖人之動也、於是乎用以乘時矣⑴。故夫卦者、智之郷也、動之序也⑵。
先生が言った「『易』とは聖人がそれ故に動くものであり、そのため時の推移に随うのである。だから『易』の卦というのは、智慧の故郷であり、行動の秩序なのである」。
⑴ 易聖至時矣 阮逸注「易、變易也。功業見乎變、吉凶生乎動。變動者、聖人適時之用也。無變則功不可大、故因貮以濟。無動則吉不先見、故惟幾成務。存時效動、易可知焉」。⑵ 故夫至序也 阮逸注「爻在卦、如人居郷。逐位而動、是其次序」。 (三四)薛生⑴曰、智可獨行乎⑵。子曰、仁以守之⑶。不能仁則智息矣、安所行乎哉。 薛収が言った「智慧はそれのみで展開できますでしょうか」。先生は言った「仁によって守るものである。仁でなくては智慧は発揮されなくなってしまい、どこに展開させようというのか」。
⑴ 薛生 張氏注「薛生、薛收」。⑵ 智可獨行乎 阮逸注「言卦爲智郷、則謂智可獨行」。⑶ 仁以守之 張氏注「論語・衞靈公、知及之、仁不能守之、雖得之、必失之」。
(三五)子曰、元亨利貞⑴、運行不匱者、智之功也。
先生が言った「物事が発生から完成までスムースに巡り行くのは、智慧の功績である」。
⑴ 元亨利貞
『周易』
乾「元者、善之長也。亨者、嘉之會也。利者、義之和也。貞者、事之幹也」。
(三六)子曰、佞以承上⑴、殘以御下⑵、誘之以義、不動也⑶。
先生が言った「阿ることでお上の意向に服従し、残忍な態度で下々を支配するような人間は、義によって導こうにも、付いては来ない」。
⑴ 佞以承上
『論語』
衞靈公「顔淵問爲邦。子曰、行夏之時、乘殷之輅、服周之冕。樂則韶舞、放鄭聲、遠佞人。鄭聲淫、佞人殆(何晏集解、孔曰、鄭聲佞人、亦俱能惑人心、與雅樂賢人同、而使人淫亂危殆、故當放遠之)」。⑵ 殘以御下
『論語』
子路「子曰、善人爲邦百年、亦可以勝殘去殺矣(王曰、勝殘、殘暴之人、使不爲惡也。去殺、不用刑殺也)。誠哉是言
二三王通『中説』訳注稿(五) 也」。⑶ 子曰至動也 阮逸注「凡佞人殘人、不可以義誘」。
(三七)董常死、子哭之、終日不絕⑴。門人曰、何悲之深也。曰、吾悲夫天之不相道也⑵。之子歿、吾亦將逝矣。明王雖興、無以定禮樂矣⑶。
董常が亡くなり、先生はそれに対して哭泣し、一日中止むことがなかった。門人が言った「どうしてそこまで深くお悲しみなのですか」。(先生は)言った「私は天が周孔の道に手を貸してくれなくなったことを悲しんでいるのだ。あの者が没し、私ももうこの世を去らなくてはならなくなった。賢明なる君王が勃興しようとも、礼楽を制定する手立てがなくなってしまった」。
⑴ 董常至不絕
『論語』
先進「顔淵死。子曰、噫(何晏集解、包曰、噫、痛傷之聲)。天喪予、天喪予(天喪予者、若喪己也。再言之者、痛惜之甚)」、同「顔淵死。子哭之慟(馬曰、慟、哀過也)。從者曰、子慟矣。曰、有慟乎(孔曰、不自知己之悲哀過)。非夫人之爲慟而誰爲」。⑵ 吾悲夫天之不相道也 阮逸注「董常弱冠而死。門人亞聖者也。死後無人助行周孔之道」。⑶ 明王至樂矣 阮逸注「後唐太宗議禮樂、房・魏自言不備」。
(三八)子讚易⑴、至序卦、曰、大哉、時之相生也。達者可與幾矣⑵。至雜卦、曰、旁行而不流⑶。守者可與存義矣⑷。
先生が『易』を闡明し、序卦にまで至ったときに言った「偉大だなあ、時というものが巡り行くことは。その意義に通達した者は、共に物事を成し遂げることができよう」。雑卦にまで至ったときに言った「あらゆる変化に対応して道を外れない。その原則に従う者は、ともに道義を存立させられるであろう」。 ⑴ 子讚易 孔安國「尚書序」(『文選』卷四十五)「先君孔子、生於周末、覩史籍之煩文、懼覽之者不一、遂乃定禮樂、明舊章、删詩爲三百篇、約史記而修春秋、讚易道、以黜八索、述職方、以除九丘」。⑵ 可與幾矣 問易篇(四)注⑶、參照。⑶ 旁行而不流
『周
易』繫辭傳上「旁行而不流(韓康伯注、應變考通、不流淫也)」。⑷ 可與存義矣 問易篇(四)注⑶、參照。
(三九)子曰、名實相生、利用相成、是非相明、去就相安也⑴。
先生が言った「名称と実態とが互いを表象し、利便と効用とが互いに織り成し、よいことと悪いこととが互いを発明し、退き離れることと進み従うこととが互いに安寧へと導くのである」。
⑴ 子曰至安也 阮逸注「名由實生、實由名顯、此謂相生。利在有用、用則成利、此謂相成。是未果是、有非然後明、此謂相明。去不安則就、就不安則去、此謂相安。已上皆因贊易而言也」。張氏注「老子・二章、有無相生、難易相成、長短相形、高下相盈、音聲相和、前後相隨」。
(四〇)賈瓊問、太平可致乎。子曰、五常之典⑴、三王之誥、兩漢之制、粲然可見矣⑵。
賈瓊が質問した「太平の世は成し遂げられるでしょうか」。先生は言った「五経の典籍、三王(禹・湯・周文王)の制誥、両漢の制度、これらが輝かしくも存しているではないか」。
⑴ 五常之典 張氏注「五常之典、儒家五經。白虎通・五經・五經象五常、經所以有五何。經、常也。有五常之道、故曰五經」。
二四
⑵ 粲然可見矣 蕭統「文選序」(『文選』)「故風雅之道、粲然可觀」。
(四一)文中子曰、王澤竭⑴而諸侯仗義矣⑵、帝制衰而天下言利矣⑶。
文中子が言った「周の諸王による恩沢が尽きてしまって諸侯たちは仁義を捧持するようになり、漢代の帝王たちによる制度が衰微して世の中が利益を語るようになった」。
⑴ 王澤竭 事君篇(二八)注⑴、參照。⑵ 王澤竭而諸侯仗義矣 阮逸注「續詩所以明此變也」。⑶ 帝制衰而天下言利矣 阮逸注「續書所以救此失也」。『論語』子罕「子罕言利與命與仁(何晏集解、罕者希也。利者義之和也。命者天之命也。仁者行之盛也。寡能及之、故希言也)」。
(四二)文中子曰、強國戰兵⑴、霸國戰智⑵、王國戰義⑶、帝國戰德⑷、皇國戰無爲⑸。天子而戰兵、則王霸之道不抗矣⑹。又焉取帝名乎⑺。故帝制沒而名實散矣⑻。
文中子が言った「強国は兵力を武器とし、覇国は智慧を武器とし、王国は仁義を武器とし、帝国は道徳を武器とし、皇国は無為を武器とする。天子が兵力を武器とすれば、王国や覇国の政道も掲げられない。はたまた帝の名号など採用できようか。こうして漢代の帝王たちによる制度が没落して名称と実物の対応がバラバラになってしまったのだ」。
⑴ 強國戰兵 阮逸注「惟恃力爾」。⑵ 霸國戰智 阮逸注「不戰而屈人之兵在智」。⑶ 王國戰義 阮逸注「禁民爲非、不獨在智」。⑷ 帝國戰德 阮逸注「仁者無敵於天下、德可知矣」。⑸ 皇國戰無爲 阮逸注「神武而不殺、安見其有爲」。無爲、問易篇(八)注⑸、參照。 ⑹ 天子至抗矣 阮逸注「戰不以智與義、則道不能擧」。⑺ 又焉取帝名乎 阮逸注「道不抗、雖名存何取」。又焉、『論語』堯曰「欲仁而得仁、又焉貪」、『孝經』諫諍章「故當不義、則爭之、從父之令、又焉得爲孝乎」。⑻ 故帝制沒而名實散矣 阮逸注「此言名實散、則元經必爲行其法也」。
(四三)子曰、多言⑴、德之賊也⑵。多事、生之讎也。薛方士⑶曰、逢惡斥之、遇邪正之、何如。子曰、其有不得其死乎⑷。必也言之無罪、聞之以誡⑸。
先生が言った「言葉数の多いことは、道徳を乱すことだ。無駄な行動の多いことは、生きる上での邪魔だ」。薛方士が言った「悪しき行動に出くわせばそれを押し退け、正しくない振る舞いに遭遇すればそれを矯正するというのは、どうでしょうか」。先生が言った「そんなことでは寿命を全うできないのではないか。必ずや進言する側は罪せられないように、聞き入れる側は戒めとなるようにしなくてはならない」。
⑴ 多言
『詩』
鄭風・將仲子「豈敢愛之、畏人之多言、仲可懷也、人之多言、亦可畏也」。⑵ 德之賊也
『論語』
陽貨「子曰、郷原、德之賊也」。⑶ 薛方士 阮逸注「未見傳」。⑷ 其有不得其死乎
『論語』
先進「閔子侍側、誾誾如也。子路、行行如也。冉有・子貢、侃侃如也。子樂。若由也、不得其死然(何晏集解、孔曰、不得以壽終)」、同憲問「南宮适問於孔子曰、羿善射、奡盪舟(何晏集解、孔曰、羿、有窮國之君、簒夏后相之位。其臣寒浞殺之、因其室而生奡。奡多力、能陸地行舟。爲夏后少康所殺)、俱不得其死然(孔曰、此二子者、皆不得以壽終)」。⑸ 必也至以誡 阮逸注「言逢惡遇邪、當譎諫喻之。孔子曰、諫有五、吾從其諷」、『孔子家語』辯政「孔子曰、忠臣之諫君、有五義焉。一
二五王通『中説』訳注稿(五) 曰譎諫、二曰戅諫、三曰降諫、四曰直諫、五曰風諫。唯度主而行之、吾從其諷諫乎」。
(四四)或問韋孝寬⑴。子曰、幹矣⑵。問楊愔⑶。子曰、輔矣⑷。
ある人が韋孝寬について質問した。先生は言った「事を成せる」。楊愔について質問した。先生は言った「輔佐できる」。
⑴ 問韋孝寬 阮逸注「韋叔裕、字孝寛、後周武帝臣也」、張氏注「韋孝寬、韋叔裕、字孝寬、京兆杜陵人、歷任西魏・北周驃騎大將軍・尚書右僕射・大司空等職。大統十二年、高歡來犯、孝寬堅守玉璧、敗之。周武帝志在平齊、孝寬上疏陳三策、爾後定山東、卒如其策。大象元年卒、年七十二。史稱其奇材異度、緯武經文、居要害之地、受干城之託。見周書・韋孝寬傳、北史・韋孝寬傳」。⑵ 幹矣 阮逸注「北齊攻雍州、孝寛守之不下、齊祖歸、憤而崩。此幹事而已」。⑶ 問楊愔 阮逸注「楊愔、字遵彦、北齊文宣帝之臣也」。⑷ 輔矣 阮逸注「愔以朝章國令爲務、不幹小事而已、故可稱輔相之器」。
(四五)宇文化及⑴問天道人事⑵如何。子曰、順陰陽仁義⑶、如斯而已⑷。
宇文化及が天の道と人間社会の事柄とについて、どうしたらよいか質問した。先生は言った「陰陽と仁義とに順応する、ただそれだけです」。
⑴ 宇文化及 阮逸注「化及、隋右將軍述之子也。煬帝幸江都、化及弑逆」、張氏注「宇文化及、代郡武川人、隋左衞大將軍宇文述之子、煬帝時爲右屯衞將軍。大業十四年、弑帝於江都宮中、又害朝臣不同己者及諸外戚、立秦王楊浩爲帝、自爲大丞相。後敗走魏縣、乃鴆殺浩、自立爲帝、國號許、建元天壽。次年走聊城、爲竇建德擒殺。見 隋書・宇文化及傳」。⑵ 天道人事
『論衡』
初稟「天道人事、有相命使之義」。⑶ 順陰陽仁義 張氏注「易・説卦、昔者聖人之作易也、將以順性命之理、是以立天之道曰陰與陽、立地之道曰柔與剛、立人之道曰仁與義」。⑷ 如斯而已
『論語』
憲問「子路問君子。子曰、脩己以敬。曰、如斯而已乎。曰、脩己以安人。曰、如斯而已乎。曰、脩己以安百姓、脩己以安百姓。堯舜其猶病諸」、『周易』繫辭傳上「子曰、夫易何爲者也。夫易開物成務、冒天下之道、如斯而已者也」。
(四六)賈瓊爲吏、以事楚公⑴。將行、子餞之。瓊曰、願聞事人⑵之道。子曰、遠而無介⑶、就而無諂⑷。汎乎利而諷之、無鬭其捷⑸。瓊曰、終身誦之⑹。子曰、終身行之可也⑺。
賈瓊が官吏となって、楚公(楊玄感)に仕えることとなった。出発に際し、先生がこれを見送った。瓊は言った「どうか人に仕えることの道をお聞かせください」。先生は言った「敬して遠ざけるも孤高であるわけでなく、親密になるも媚び諂うわけでない。広範に利益となることを申し述べるも、それで一本取ろうとなどしない」。瓊は言った「死ぬまでそれを戒めとして口にします」。先生は言った「死ぬまで実行さえできればそれでよいよ」。
⑴ 楚公 張氏注「楚公、楊玄感」。⑵ 事人
『論語』
先進「季路問事鬼神。子曰、未能事人、焉能事鬼」。⑶ 遠而無介 阮逸注「恭而遠之無傷介」。『論語』雍也「樊遲問知。子曰、務民之義、敬鬼神而遠之、可謂知矣(何晏集解、包曰、敬鬼神而不黷)」。⑷ 就而無諂 阮逸注「泄就其身、不苟言貌」。⑸ 汎乎至其捷 阮逸注「汎汎因所利而諷之、勿辯捷自取禍」。
二六
⑹ 終身誦之
『論
語』子罕「子曰、衣敝縕袍與衣狐貉者、立而不恥者、其由也與。不忮不求、何用不臧。子路終身誦之。子曰、是道也、何足以臧」。⑺ 終身行之可也
『論語』
衞靈公「子貢問曰、有一言而可以終身行之者乎。子曰、其恕乎。己所不欲、勿施於人」。
(四七)子曰、元經其正名乎⑴。皇始之帝、徵天以授之也⑵。晉・宋之王、近於正體⑶、於是乎未忘中國⑷、穆公之志也⑸。齊・梁・陳之德、斥之於四夷也、以明中國之有代、太和之力也⑹。
先生が言った「『元経』とは帝の名称を正しきものとする作品と言えようか。(北魏)皇始年間の帝号は、天を根拠として授けられたものである。東晋から劉宋までの君王たちは、正統なる君主に近い存在であり、そのため中原の奪還の志を失ったことはなく、それが(四世の祖)穆公(王虬)の志でもあった。(南朝)斉・梁・陳の僭称について、これを地方の夷狄として退け、それによって中原に正統王朝が存在していることを宣明できたのは、太和年間(孝文帝)の功績による」。
⑴ 元經其正名乎 阮逸注「正帝名」。『論語』子路「子路曰、衞君待子而爲政、子將奚先。子曰、必也正名乎(何晏集解、馬曰、正百事之名)。子路曰、有是哉、子之迂也、奚其正。子曰、野哉由也。君子於其所不知、蓋闕如也。名不正、則言不順。言不順、則事不成。事不成、則禮樂不興。禮樂不興、則刑罰不中。刑罰不中、則民無所錯手足。故君子名之必可言也、言之必可行也。君子於其言、無所苟而已矣」。⑵ 皇始至之也 阮逸注「皇始、後魏・道武年號也。始有中原、建天子旌旗、得正統、此天授之也」、張氏注「皇始二年、拓跋珪滅後燕、統一黃河以北地區」。⑶ 晉宋至正體 阮逸注「東晉至劉宋、中國無真主、則江南以爲正體、 故曰近」。⑷ 於是乎未忘中國 阮逸注「晉・宋皆擧兵中原、有復一之志」。⑸ 穆公之志也 阮逸注「晉陽穆公作政大論、言帝王之道。元經所以帝元魏、而斥齊・梁、蓋其志也」、王道篇(一)、參照。⑹ 齊梁至力也 阮逸注「後魏・孝文太和元年、宋蒼梧王元徽五年也、時江南衰替、中國始尊」。
(四八)子曰、改元立號、非古也⑴。其於彼、心自作之乎⑵。
先生が言った「年号を改めて打ち立てるのは、古くからあることではない。漢の文帝が在位中に年号を改めて打ち立てたのは、自らの心に思うところがあってしたものだろうかね」。
⑴ 改元至古也 阮逸注「漢文帝始改中元・後元年號」、『漢書』文帝紀「(十六年)秋九月、得玉杯、刻曰、人主延壽。令天下大酺、明年改元」。⑵ 其於至之乎 阮逸注「彼漢以心自改之可也、非古也」。
(四九)或問、志意修、驕富貴、道義重、輕王侯⑴、如何。子曰、彼有以自守也⑵。
ある人が質問した「志向・意志の修練を積めば、金持ちや富貴な人にも堂々と渡り合え、道徳・正義の観念がしっかりすれば、天子や諸侯にも気後れがしないというのは、どうでしょうか」。先生は言った「それは自説の中にこもっている」。
⑴ 志意至王侯
『荀子』
修身「志意修則驕富貴、道義重則輕王公、内省而外物輕矣。傳曰、君子役物、小人役於物、此之謂矣」。⑵ 彼有以自守也 阮逸注「處士横議、非天下公言、自守此説而已。凡聖人之道、無所驕、無所輕」、揚雄「解嘲」(『文選』卷四五)「哀帝時、
二七王通『中説』訳注稿(五) 丁傅董賢用事、諸附離之者、起家至二千石。時雄方草創太玄、有以自守、泊如也」。
(五〇)薛生曰、和・殤之後、帝制絕矣、元經何以不興乎⑴。子曰、君子之於帝制⑵、併心一氣以待也⑶。傾耳以聽、拭目而視⑷。故假之以歳時⑸。桓・靈之際、帝制遂亡矣⑹。文・明之際、魏制其未成乎⑺。太康之始、書同文、車同軌⑻、君子曰帝制可作矣、而不克振⑼。故永熙之後、君子息心焉、曰、謂之何哉⑽。元經於是不得已而作也⑾。
薛生が言った「(後漢)和帝・殤帝より後、帝王の制度が断絶してしまいましたが、『元経』のような書物がなぜそこで誕生しなかったのでしょうか」。先生は言った「君子は帝王の制度に対し、精神・意気を一つに集中させて復活を待つものだ。耳をそばだててしっかり聞き、目を擦ってよく見るのだ。そのためにある一定の時間が必要なのである。桓帝・霊帝の時代、帝王の制度はそのまま衰亡してしまった。(魏)文帝・明帝の時代にも、魏の帝王の制度というものは完成しなかったのであろうよ。(西晋)太康年間の最初、文字が統一され、車幅が統一され、君子たちは「帝王の制度が振興されるであろう」と思ったが、しかしそれはかなわなかった。そこで永熙年間より後、君子たちは期待の念を捨て、「これをどうしろと言うのか」と思った。『元経』とはこうした状況で已むに已まれず著されたものなのだ」。
⑴ 和殤至興乎 阮逸注「和帝在位十歳、竇憲不軌。殤帝二歳、鄧后臨朝。且此時漢制已絕。何爲於此不續元經以振王法乎」、張氏注「和、漢和帝劉肇。殤、漢殤帝劉隆、和帝少子、嗣位時年方百日、越年而崩。安帝繼位、外戚鄧氏專權、史稱始失根統、歸成陵敝」。見後漢書・孝和孝殤帝紀、孝安帝紀」。『中説』立命篇「子曰、太熈之後、天子所存者號爾。烏乎、索化列之以政、則蕃君化之矣。元經何不興乎」。 ⑵ 君子之於帝制
『論語』
里仁「子曰、君子之於天下也、無適也、無莫也、義之與比」。⑶ 君子至待也 阮逸注「以待其復興也」。⑷ 傾耳至而視
『禮 記』孔子間居「是故正明目而視之、不可得而見也。傾耳而聽之、不可得而聞也」。⑸ 故假之以歳時 阮逸注「自和・殤緜緜至桓・靈、假歳時而終不復興」。⑹ 桓靈至亡矣 阮逸注「曹操擧兵、吳・蜀繼作。孝獻禪魏、漢制乃絕」。⑺ 文明至成乎 阮逸注「魏文帝・明帝、未能平吳・蜀、一制天下」。⑻ 太康至同軌 阮逸注「晉武太康元年平吳、天下同」、張氏注「太康、晉武帝・司馬炎年號。司馬炎立次子衷爲太子、史稱中朝之亂、實始於斯矣。見晉書・武帝紀」。『史記』秦始皇本紀「一法度衡石丈尺、車同軌、書同文字」。⑼ 君子至克振 阮逸注「太康三年、劉毅比帝爲桓・靈、蓋帝制尋大壞矣」。⑽ 永熙至何哉 阮逸注「太康十一年、武帝崩、楊駿矯詔輔政、改元永熈、賈后殺駿、天下大亂」、張氏注「永煕、晉惠帝・司馬衷年號。惠帝昏庸、八王・五胡作亂、自是中原板蕩」。謂之何哉、周公篇(三二)注⑶、參照。⑾ 元經於是不得已而作也
『孟子』
滕文公上「公都子曰、外人皆稱、夫子好辯。敢問何也。孟子曰、予豈好辯哉。予不得已也(趙岐注、曰我不得已耳、欲救正道、懼爲邪説所亂、故辯之也)」、事君篇(一八)注⑵、參照。
(五一)文中子曰、春秋作而典誥絕矣⑴、元經興而帝制亡矣⑵。
文中子が言った「『春秋』が出現したことで、制誥は失われてしまい、『元経』が登場したことで、帝王の制度は衰亡してしまった」。
⑴ 春秋作而典誥絕矣
『孟子』
離婁下「孟子曰、王者之迹熄而詩亡、詩
二八
亡然後春秋作(趙岐注、王者謂聖王也。大平道衰、王迹止熄、頌聲不作、故詩亡、春秋撥亂、作於衰世也)」。張氏注「典誥、帝王政令、如尚書之堯典・湯誥」。⑵ 元經興而帝制亡矣 阮逸注「元經作於續書・續詩之後」。
(五二)文中子曰、諸侯不貢詩⑴、天子不採風⑵、樂官不達雅⑶、國史不明變⑷。嗚呼、斯則久矣⑸。詩可以不續乎⑹。
文中子が言った「諸侯が自らの封地の詩を献納せず、天子が各地のうたを採取せず、音楽を掌る官が典雅を解さず、国家の歴史書が世の変遷を明示できない。ああ、このようになってしまってから随分になるなあ。『続詩』を編纂しないわけにはいかないだろう」。
⑴ 諸侯不貢詩 阮逸注「古者列國歌頌、皆貢于王。若魯季孫行父請命于周、是也」、張氏注「國語・周語下、故天子聽政、使公卿至於列士獻詩、瞽獻曲、史獻書、師箴、瞍賦、矇誦、百工諫、庶人傳語、近臣盡規、親戚補察、瞽史教誨、耆艾修之、而後王斟酌焉、是以事行而不悖」。⑵ 天子不採風 阮逸注「古有採詩之官」、張氏注「禮記・王制、命大師陳詩以觀民風」。⑶ 樂官不達雅 阮逸注「古爲詩樂爲歌、以合雅道」。⑷ 國史不明變 阮逸注「國史明乎得失之跡」。⑸ 斯則久矣 阮逸注「自仲尼殁、詩有空文、而其實廢矣」。⑹ 詩可以不續乎 阮逸注「漢而下、風化不傳於詩、故君子不可不續」。 本稿は、筆者が香川大学教育学部在職中に着手し、これまで『香川大学教育学部研究報告 第Ⅰ部』に連載してきた「王通『中説』訳注稿」(一)~(四)に継続する研究成果である。