アメリカ産業革命期における運河建設について
その他のタイトル The Canal Building in Industrial Revolution in America
著者 加勢田 博
雑誌名 關西大學經済論集
巻 21
号 4
ページ 393‑415
発行年 1971‑12‑20
URL http://hdl.handle.net/10112/15036
論 文
アメリカ産業革命期 1) における 運河建設について
393
加 勢 田 博
目 次
I
第2
次対英戦争とアメリカ運河時代の幕開けI I
アメリカの運河プームと主要運河の建設 皿 アメリカ運河建設の特質IV結 語
I
第2
次 対 英 戦 争 と ア メ リ カ 運 河 時 代 の 幕 開 け我々が1
9
世紀のアメリカ史について何かを語ろうとする際まず思い浮かぶの は,アメリカの民主的個人主義に機会と刺激を与えたフロンティアであり,ま たその役割を強調したいわゆる「ターナー理論」であろう。 しかし, 「ターナ ー理論」は,周知のように,これまでの多くの批判を通じて,かつてみられた ほどの支持を得ていないのであって,今日では「1 9
世紀のアメリカ経済の拡大 は,新しい地域への地理的拡大と新しい領域への製造工業と生産の技術的拡大 との両方を意味するように説明されなければならない」という1
つの結論に達 している2)
。本稿ではこうした研究成果に基づいて,1 9
世紀,とりわけ南北戦 1)アメリカ産業革命の時期区分は論者によってかなり異なるが,筆者は,第 2次対英戦 争( 1 8 1 21 8 1 4 )
から南北戦争( 1 8 6 11865)
に至る時期とするのが妥当であると考え る。詳しくは拙稿「アメリカ産業革命の始期について一‑近代的工場制度の起源との関 連において一」(関西大学『経済論集」第2 0
巻第2
号,1 9 7 0
年,所載)参照。2) M. F i s h e r , Workshops i n t h e W i l d e r n e s s (New Y o r k , 1 9 6 7 ) , p p . 7‑9.
なお.最近,「クーナー理論」 とその批判に関する文献を示したものとしては, 中村勝己「ア
1
394
闊西大學「継清論集」第2 1
巻第4
号争
( C i v i lWar)
以前のアメリカ経済発展の特質を,東部の工業の発展と西部 への地理的拡大つまり西漸運動(WestwardMovement)
とを結びつけたと ころのこの時代の中心的な交通・輸送手段の建設,つまり運河建設の考察を通 じて概観したい。我々は輸送システムの発展過程を理解することが,多くの重 要な手懸りとなると考えるからにほかならない。さて,
1 9
世紀初頭のアメリカは,すでに前世紀の独立革命によって政治的に は独立を達成していたとはいえ,経済的にはなお多くをイギリスに依存してい たのである。アメリカがその製造工業の基礎を構築したのは,1 9
世紀の最初 の¼世紀つまり「出港禁止令」 (EmbargoA c t ) ,
「通商禁止令」( N o n ‑ i n t e r ‑ course Act)
と第2
次対英戦争とを中心とした時期であった3)
。 それゆえ,アメリカが「経済的独立」を勝ち取ったのは第
2
次対英戦争によってであった と考えられる。ところで,
1 8 0 7
年の「出港禁止令」から第2
次対英戦争を経て18 1 5
年に至る までの貿易制限の時代には,貿易・商業活動は衰退した反面,ボストン商人を 工業投資に引き入れることになって,「ボストン製造会社」(BostonManu‑
f a c t u r i n g Company)
の設立にはじまる「ウォルサム型」(WalthamType)
綿工業の発展がもたらされた4)
。この事実に典型的に示されているように,この時代には海上・貿易資本が内陸・工業に新しい投資先を求めてその運動を活 発に展開することになったのである。別言すれば,この戦争は,英軍による海
メリカ酉漸運動」(『三田学会雑誌」第
6 3
号,1 9 7 0
年,所載)がある。3)この時期のアメリカ製造工業とイギリスを中心とするヨーロッパ経済との関係につい ては,
V .S . C l a r k , H i s t o r y of M a n u f a c t u r e s i n t h e U n i t e d S t a t e s , 3 V o l s (New Y o r k , 1 9 2 9 e d . ) , V o l . I , p p . 2 3 32 6 2
参照。4)
豊原治郎『アメリカ産業革命史序説」(未来社,1 9 6 2
年),1719
ペ ー ジ ; 小 原 敬 士『アメリカ資本主義の形成』(時潮社,
1 9 4 8
年),1 1 41 1 5
ページ;平出宜道『近代資本 主義成立史論』(日本評論新社,1 9 5 8
年),3 2 13 2 2
ページ;中村勝巳『アメリカ資本 主義の成立』(日本評論社,1 9 6 6
年),1 6 51 6 6
ページ;W i l l i a n C . K e s s e l e r , ' l n c o r ‑ p o r a t i o n i n New E n g l a n d : A S t a t i s t i c a l S t u d y , 1 8 0 01 8 7 5 ' , J o u r n a l of E c o n o ‑ m i c H i s t o r y , V o l .
圃,1 9 4 8 ,
等参照。2
アメリカ産業革命期における運河建設について(加勢田)
395
上封鎖を通じて,また西部におけるインディアンとの戦いを通じて,アメリカ の商人・製造工業家に国内市場の重要性を,政治家・軍人に内陸交通手段整備 の重要性を改めて認識させる結果となった。「戦争が西部の非常な重要性を暴 露した」のであり,「コミュニケーションのための既存の設備の不充分なことを はっきりと見せしめた」のである
5)
。こうした事情が,戦争後の西漸運動の拡 大と相互に作用し合いながら,この国の経済活動を海洋から内陸に,外国貿易 から国内商業・製造業に転換せしめることとなった。要するに,アメリカはこ の戦争によって,イギリスの「経済的勢力」と自らの「ジェファーソン主義」とを粉砕し, 「産業革命を基軸とする国内経済近代化」の過程を急速に展開し ていくことになったのである
e)
。つまりこの戦争は「アメリカにおける商業資 本の時代から産業資本の時代への発展を画する画期的な出来事であった」7)
と いえよう。さて,ナポレオン戦争後のヨーロッパ経済の発展は,アメリカ産業の市場と してのヨーロッパを失わしめ,反対にアメリカ産業を脅かすに至った。アメリ 力における
1816
年の関税法はこうしたヨーロッパの経済攻勢から戦争中に成長した自国産業を保護するためのものであった。他方,ヨーロッパの安価な生産 物から合衆国の農業と製造工業とを保護するためには,このような保護関税と 同時に自国の生産物を低コストで安全かつ敏速に国内市場に送達する方法と手 段の改良が必要であった。さらにいえば,ヨーロッパの人口増加の
4
倍の早さ で増え続けるアメリカの人口は,やがてその生産能力をヨーロッバの消費能力5) C a r o l i n e F . M a c G i l l and O t h e r s , H i s t o r y of T r a n s p o r t a t i o n i n t h e U n i t e d
S t a t e s b e f o r e 1860 ( W a s h i n g t o n , 1 9 1 7 ) , p . 1 3 7 .
「1 7 8 9
年と1 8 6 0
年との間の7 0
年間に おいては,フロンティアの西漸運動と地域的及び全国的市場との両方の成長は,経済に 利用できる輸送及び通信手段に決定的にかかっていた。」Frank W. T u t t l e and J o s e p h M. P e r r y , An E c o n o m i c H i s t o r y of t h e U n i t e d S t a t e s ( C i n c i n n a t i , O h i o , 1 9 7 0 ) , p . 1 7 9 .
6)
豊原治郎「1 8 1 2
年戦争の経済史的意義」(神戸商科大学『商大論集」第5 3
号,1 9 6 2
年).1 5
ページ参照。7)
小原敬士,前掲書,1 1 4
ページ。3
396
闊西大學『鰹清論集』第2 1
巻第4
号を越えるまでに高め,輸出しきれない第
1
次産品がこの国に過剰となることは 当然予想された。したがって,このような事態を回避するためには,その生産 能力を自国の製造工業に転換していくことが必要であった。そのためにも自国 産業の保護と同時に輸送手段の改良が必要であった。 こうして, H.クレイに よって「内陸交通改良」( i n t e r n a limprovements)
の問題と保護関税の問題 とが結びつけられることになったs)
。これより先,すでに
18
世紀の終りから諸工業の一層の地方化と部門化の進行 に伴って,より広範囲の地域に及ぶ商取引の方法が要請されており,市場拡大 の努力は,全国的に組織された陸上及び水上交通システムのための運動の1
つ の要因となって,「内陸交通改良」の要求が著しく強まっていた。 こうした情 況にあって,ジェファーソン大統領はアメリカにおける道路と運河の総合シス テムを樹立する必要のあることを説き,1 8 0 7
年の上院の決議に基づいて,1 8 0 8 ,
年には時の財務長官アルバート・ギャラティンの報告書(Report of Albert G a l l a t i n )
が提出されるに至った。彼の報告書は,連邦政府が道路及び運河を直 接建設するか,さもなければその目的のための会社に補助金を与えるべきであ ることを勧告したものであったが,要約して示せば次の4点からなっていた9)
c,.I
ニュー・イングランドと南部とを接合する大西洋岸に沿った大運河。I I
大西洋岸と西部河川との間のアパラチア山脈越えの交通機関。m
大西洋岸とセント ・ローレンス及び五大湖との間の交通機関。IV 内陸の運河及び道路。
しかし,連邦議会が,このギャラティン報告書は一部の州の利益をのみ非常 に大きくするという理由からそこに示された包括的・全国的交通改良の途を辿
8) C . F . M a c G i l l , o p . c i t . , p p . 1 4 1 1 4 2 . H .
クレイの「アメリカ体制」については,楠井敏朗『アメリカ資本主義と産業革命」(弘文堂,
1 9 7 0 ) 415430
ページ参照。なお「アメリカ体制」については宮野啓二『アメリカ国民経済の形成――• 「アメリカ体制」
研究序説ー」(御茶の水書房,
1 9 7 1
年)参照。g) C . F . M a c G i l l , i b i d . , p . 1 3 5 ; C a r t e r G o o d r i c h , G o v e r n m ゅ tP r o m o t
如ofAmerican C a n a l s and R a i l r o a d s , 1800‑1890, (New Y o r k , 1 9 6 0 ) , p p . 3 0 ; . . . . , 3 1 .
4
アメリカ産業革命期における運河建設について(加勢田)
397
らないことがはっきりすると,交通改良を主唱していた人々は一転して州政府 や地方政府の資力に頼ろうとすることになった。
10)
このようにして州政府や地方政府の援助の下に,現実の運河建設の歴史が始 まるのであるが,その中
1817
年4
月にニュー・ヨーク州議会によって建設が認 可されたイリー運河( E r i eCanal)
と,同時に建設準備が開始されたチャン プレイン運河(ChamplainCanal)
とはそれぞれ1825
年と1823
年とに完成さ れ,真にアメリカ運河時代の開幕を告げるものとなった。これら2
つの運河は,それまで西部においてみられたこの種の事業や北部内陸水門運河会社
(Nor‑
them Inland Lock Navigation Company)
の事業と本質的に異なってい た。それは,技術面では,それまでの単なる自然水路の改良に対して独立した 運河建設のプリンシプルを示すものであり,運営面では私的な建設・管理・運 営に対して公的な建設・管理・運営によるものであった11)
。それゆえ, この ィリー運河の建設は世界に類をみないほど「組織された政府による企業精神の デモンストレーション」であったといわれている12)0
ともあれこの完全な政策転換の最大の要因は,このような大事業を私的信用 ではとうてい遂行し得なかったことと,その上,社会がこうした大規模・独占 的できわめて重要な事業を私的経営に任ねることを決して望んではいなかった こととによるであろう
13)
。かくして, アメリカの運河ブームは,イギリスの1 0 )
州に対する連邦政府の貨幣下付については憲法上の問題から反対が強かったが,公有 地下付については政治的困難はほとんどなかった。JohnB e l l R a e , ' F e d e r a l Land G r a n t s i n Aid o f C a n a l s , ' J o u r n a l o f E c o n o m i c H i s t o r y , V o l . I V , 1 9 4 4 , p . 1 6 9 . 1 1 ) C . F . M a c G i l l , i b i d . , p . 1 8 9 .
1 2 ) G e o r g e
R.T a y l o r , The T r a n s p o r t a t i o n R e v o l u t i o n , 1 8 1 5 ‑ 1 8 6 0 ( V o l . I V , o f The E c o n o m i c H i s t o r y of U n i t e d S t a t e s , New Y o r k , 1 9 5 1 ) , p . 1 3 3 .
1 3 ) C . F . M a c G i l l , o p . c i t . , p . 1 8 0 ; L o u i s H a r t z , E c o n o m i c P o l i c y and D e m o c r a t i c
T h o u g h t : P e n n s y l v a n i a , 1 7 7 6 ‑ 1 8 6 6 ( C a m b r i g e : Harvard U n i v e r s i t y P r e s s , 1 9 4 8 ) ,
p p . 140142;
安 武 秀 岳 「 米 国 運 河 建 設 期 に お け る 反 独 占 ・ 州 有 論 ーP e n n s y l v a n i a
幹線運河の場合ーー」(『愛知学芸大学研究報告」第1 5
輯,1 9 6 6
年)47 48
ペ ー ジ 参 照。なお後述するように, 東部の運河が私企業であったのに対して西部のそれが州に 5398
闊西大學『継清論集」第2 1
巻第4
号運河の革新的改良が「根性と愛国心のある貴族」つまりプリッジウォーター公 爵によってもたらされた
14)
のとは対照的に, 内陸商業の覇権を狙うニュー・ヨーク州の手によって火蓋を切られることとなった。そして,イリー運河完成 の年には
100
件にのぼる運河建設計画がみられ,その総延長は6,500
マイルに達 したといわれている。これら多くの運河建設計画の中,1840
年には約3,000
マ イルが完成され.かくてアメリカ運河建設は,¼世紀たらずの「活発な時期」のうちに,イギリスの運河建設の「偉大な半世紀」の間に建設されたマイル数 を相当上回ることになった
15)0
I I
ア メ リ カ の 運 河 プ ー ム と 主 要 運 河 の 建 設イリー運河の建設が開始される時期までに,すでに合衆国においては河川改 修による可航水路の建設と比較的小規模な運河建設が幾つかみられた。しか し,
1816
年には総延長わずか1 0 0
マイル程度の運河が建設されていただけであ って,営業中の2
マイルを越える運河はわずか3
社であった。そのうち最大の ものが,全長2 7 . 2 5
マイルのミドルセックス運河(MiddlesexCa n a l ) 1 )
で,そ よって建設され運営されていたのは, 当時の西部の意見がそのような重要な事業の利 潤を若干の特権を得た個人を富ませるために与えるべきではない, という点にあった ことにもよる。Alvin•F. H a l o w , O l d T o w p a t h s : The S t o r y of t h e A m e r i c a n C a n a l Era (New Y o r k , 1 9 2 6 ) , p . 1 1 1 ; J . B . R a e . o p . c i t . , p . 1 6 9 ; G . S . C a l ‑ l e n d e r , ' T h e ・ E a r l y T r a n s p o r t a t o n and B a n k i n g E n t e r p r i s e o f t h e U n i t e d S t a t e s i n R e l a t i o n t o t h e Growth o f C o r p o r a t i o n ' , Q u a r t e r l y J o u r n a l of E c o n o m i c s , XVII ( N o v e m b e r , 1 9 0 2 ) , p . 1 5 5 .
1 4 )
イギリス運河の父,ブリッジウォーター公によるプリッジウォーター運河建設につい ては,小松芳喬「プリッジウォークー運河建設前史」(早稲田『政治経済学雑誌」第2 0 0
号,1 9 6 6
年,所載),同氏「プリッジウォーター運河建設計画の変遷」(同誌,第2 0 8 ・ 2 0 9
合併号,1 9 6 8
年,所載),及び同氏「ブリッジウォーター運河の建設者たち」(同誌 第210・211
合併号,1 9 6 8
年,所載)等がある。1 5 ) C a r t e r G o o d r i c h , e d . , C a n a l s ‑and A m e r i c a n E c o n o m i c D e v e l o p m e n t (New York and L o n d o n , 1 9 6 1 ) , p . 7 .
イギリスの運河については荒井政治『イギリス近代 企業成立史』(東洋経済新報社,1 9 6 3
年),66 73
ページ参照。1) 1
7 9 3
年にマサチューセッツ州からこの運河建設の特許を得て1 8 0 3
年1 2
月に完成した。アメリカ産業革命期における運河建設について(加勢田)
399
れはメリマック河
(MerrimackR i v e r )
を開発してニュー・ハンプシャーの 生産物をボストンに搬出するための運河であった2)
。また,サウス・カロライ ナ の サ ン テ ィ ー ・ ク ー パ ー 運 河(Santeeand Cooper Canal, 1 8 0 2
年完成)はサンティー河
(SanteeRiver)
の商業をチャールストン( C h a r l e s t o n )
の勢 力下に引き入れたし,ディスマール・スワムプ運河(DismalSwamp Canal, 1 8 2 2 )
はノーフォークとアルベマール・サウンド(Albemarle Sound)
との 間の貨物輸送を目的としていた。しかし, この時期には未だ運河プームは始まらなかった。その主たる原因 は,巨額の建設資金調達の問題,アメリカでは未だ未知の科学としての運河建 設技術の問題等にあったと考えられる。その上,既存の運河がかならずしも投 資家を刺激するような業績を上げておらなかったことにもよる。上述のサンテ ィ運河やミドルセックス運河も建設期間中はもとより,
1 8 1 6
年に至っても株主 にとっては決して有利な投資とはなっていなかったのであるs)
。さて,アメリカの運河建設時代を開く重要な端緒となったのはイリー運河の 成功であり,これがまた
2 0
年代・3 0
年代の運河プームをもたらすことになっ た。H.
セーガルC H .S e g a l )
によれば,1 8 1 5
年から1 8 6 0
年までのアメリカにこの時すでに株主は彼等の株式
8 0 0
株に対して5 5 4 , 0 0 0
ドルを支払っていた。C h r i s t o ‑ p h e r R o b e r t s , The M
幽s
幻C a n a l ,1793‑1860 ( V o l . LXI o f Harvard
底a n o m i c S t u d i e s , Cambridge : Harvard U n i v e r s i t y P r e s s , 1 9 3 8 ) , p p . 4244; Edward Chase K i r k l a n d , M,
切,C i t i e sand T r a n s p o r t a t i o n : A S t u d y
切New
邸g l a
叫H i s t o r y , 1820‑1900, 2 v o l s (New Y o r k , 1 9 6 8 ( 1 9 4 8 ) ) , V o l . I , p . 6 2 ;
平出宜道「ア メリカ産業革命開始期における交通・運輸の発展一—ーニュー・イングランドの社会的分 業一市場関係と関連して一ー」(高橋・古島編「近代化の経済的基礎』大塚久雄教授還 暦記念I,
岩波書店,1 9 6 8
年,所載),3 6 93 7 4
ページも参照。2)
このミドルセックス運河とサンティー運河とはアメリカ運河建設の「先駆的事業」で あったといわれている。E .C . K i r k l a n d , i b i d . , p . 6 0 .
また,この2
つの運河によっ てボストンの商人はメリマック渓谷の商業を手中にすることができたし, チャールス トンの同業者はサンティー河一帯の商業を手に入れることができた。C . G o o d r i c h , e d . , o p . c i t . , p . 7 .
3) G .
R.T a y l o r , o p . c i t . , p . 3 2 : C . R o b e r t s , o p . c i t . , p p . 1 8 11 8 3 .
7
4 0 0 闊 西 大 學 『 純 清 論 集 」 第
2 1
巻 第4
号 第I
表C y c l e s o f C a n a l C o n s t r u c t i o n , 1 8 1 5 ‑ 6 0
I n v e s t m e n t P o e r f c T e n o t t a a g l e D u r a t i o n Peak Completed o v i n e m r i l l C i y o c l n e s
( y e a r s ) Year M i l e a g e o ( f d o l l a r s ) I n v e s t m e n t F i r s t C y c l e , 1 8 1 5 ‑ 3 4 1 9 . 5 1 8 2 8 2 , 1 8 8 5 8 . 6 3 1 . 1 S e c o n d C y c l e , 1 8 3 4 ‑ 4 4 1 0 . 0 1 8 4 0 1 , 1 7 2 7 2 . 2 3 8 . 4 T h i r d C y c l e , 1 8 4 4 ‑ 6 0 1 6 . 5 1 8 5 5 8 9 4 5 7 . 4 3 0 . 5 T o t a l f o r a l l c y c l e s 4 6 . 0 4 , 2 5 4 1 8 8 . 2 1 0 0 . 0 (Harvey H . S e g a l , ' C y c l e s o f C a n a l C o n s t r u c t i o n ' , C a r t e r G o o d r i c h , e d . , o p . c i t . , p . 1 7 2 . )
おける運河建設には
3
つの周期がみられるという。(第I
表参照)すなわち,第
1
の周期は1 8 2 8
年をヒ゜ークとする1815 1834
年の期間であり,第2
の周期は1 8 4 0
年をピークとする1834 1844
年の期間であり,さらに第3
の周期は1 8 5 5
年 をビークとする1844 1860
年の期間である。そして,この全期間に建設された 運河の総延長4 , 2 5 4
マイルのうち,約半分は第1
の周期に,%以上が第2
の周 期に建設されたのであって,投資額では第2
の期間が最も大きかった4)
。ところで,イリー運河の成功によって生じた運河熱の時代に建設された運河 には,
G.R. テイラー C G . R . Taylor)
によっても示されているように,次 の3つの主要なタイプが認められる5)
。すなわち, (1)メイン州からヴァージニ ア州に至る大西洋岸諸州の高地(upcountry)
と沿海地域( t i d e w a t e r )
との 間の輸送を改良する目的で計画されたもの。 (2)イリー運河のように大西洋岸諸 州とオハイオ漢谷(OhioRiver Valley)
とを結ぶ目的で計画されたもの。 (3) オハイオーミシシッヒ°水系と五大湖(GreatLakes)
とを結ぶ目的で計画され たもの,とである。そこでまず,第1
のタイプに属する主要な運河を挙げれば4) Harvey H . S e g a l , ' C y c l e s o f C a n a l C o n s t r u c t i o n ' , C a r t e r G o o d r i c h , e d . , o P . c i t . , p p . 1 8 32 0 5 .
5) G .
R.T a y l o r , o p . c i t . , p . 3 7 .
この3
つ の タ イ プ の 運 河 は 先 に 述 べ た ギ ャ ラ テ ィ ン 報告で示された交通ルートを実現したものであることがわかる。8
アメリカ産業革命期における運河建設について(加勢田)
4 0 I
次のようなものがある。ニュー・イングランドではメイン州のセバゴ・ポンド( S e b a g o P o n d )
からポートランド近くの沿海地域に達するカンバーランド・オックスフォード運河
(Cumberlandand O x f o r d C a n a l , 1 8 2 9 )
をはじめ,マサチューセッツ州のウースクー
( W o r c e s t e r )
からロード・アイランド州の ナラガセット湾( N a r r a g a s e t tB a y )
に至るプラックストン運河( B l a c k s t o n e C a n a l , 1 8 2 8 )
とコネティカット州のニュー・ヘヴンからマサチューセッツ州 のノーサンプトンに至るニュー・ヘヴン・ノーサンプトン運河(NewHaven and Northampton C a n a l , 1 8 3 5 )
とである。 次に, 中部大西洋岸諸州のこ のタイプに属する運河は,いわゆる「無煙炭運河」( a n t h r a c i t ec a n a l )
とよ ばれるもので, 主 と し て こ の 新 し い 燃 料 を フ ィ ラ デ ル フ ィ ア や ニ ュ ー ・ ヨ ー ク の 市 場 に 運 ぶ た め に 建 設 さ れ た も の で あ っ た 。 デ ラ ウ ェ ア ・ ハ ド ソ ン 運 河( D e l a w a r e and Hadson C a n a l , 1 8 2 9 )
をはじめ, リーハイ運河( L e h i g h C a n a l , 1 8 2 9 ) ,
デラウェア・ディヴィジョン運河( D e l a w a r eD i v i s i o n C a n a l , 1 8 3 0 ) ,
モーリス運河( M o r r i sC a n a l , 1 8 3 1 ) ,
デラウェア・ラリクン運河( D e l a w a r e and R a r i t a n C a n a l , 1 8 3 4 ) ,
ユニオン運河( U n i o nC a n a l , 1 8 2 7 ) ,
サスケハナ・クイドウォーター運河
(Susquehannaand T i d e w a t e r C a n a l , 1 8 4 0 )
及 び チ ェ サ ビ ー ク ・ デ ラ ウ ェ ア 運 河( C h e s a p e a k and Delaware C a n a l , 1 8 2 9 )
等がこのタイプの運河である。 これらの運河は,デラウェア・ディヴィジョン運河を除いて,私的経営によるものであり,全体として比較 的繁栄した
6)
。 さらにヴァージニア州ではジェイムズ・リバー・カナワ運河( J a m e s R i v e r and Kanawha C a n a l , 1 8 2 7 )
が,メリーランド州ではチェ サビーク・オハイオ運河( C h e s a p e a kand Ohio C a n a l , 1 8 5 0 )
が建設されて いる。この2
つの運河は当初アパラチア分水嶺を越えてオハイオ河と連結する6) l b
絋,p p . 3 74 2 .
これらの運河のうち, ユニオン運河,サスケハナ・タイドウォー クー運河及びチェサピーク・デラウェア運河は, 厳密にいえば「無煙炭運河」グルー プには入らないが,石炭輸送にとって重要な運河であったことには変りなかった。( l b
絋,p .4 2 )
︐
402
闊西大學『癌清論集」第2 1
巻第4
号目 的 で 計 画 さ れ た の で あ る が , こ の 初 期 の 計 画 は 達 成 さ れ ず こ の 地 方 の 沿 海 地 域に出るルートを提供する運河にとどまった
7)
0次 に , ア パ ラ チ ア 山 脈 を 越 え て 大 西 洋 岸 諸 州 と オ ハ イ オ 河 と を 結 ぶ 第
2
のタ イ プ に 属 す る 運 河 に つ い て で あ る が , ま ず 挙 げ な け れ ば な ら な い の は , い う ま で も な く イ リ ー 運 河 で あ る 。 運 河 史 上 最 も 有 名 な こ の 運 河 は , ハ ド ソ ン 河 か ら アルバニー(Albany)
を経てイリー湖(LakeE r i e )
のバッファロー( B u f f a l o )
に至る3 6 3
マイルの大運河であったs)
。 い ま1
つの重要なこの種の運河は,ィリー運河の完成によって,西部との貿易がニュー・ヨークに奪われてしまうこ と を 恐 れ た フ ィ ラ デ ル フ ィ ア の 商 人 達 が , フ ィ ラ デ ル フ ィ ア か ら オ ハ イ オ 河 の ビッツバーグに至る競争水路として, ペ ン シ ル ヴ ェ ニ ア 州 政 府 を し て 建 設 せ し め た い わ ゆ る ペ ン シ ル ヴ ェ ニ ア ・ メ イ ン ・ ラ イ ン
(PennsylvaniaMaine Line)
であった。 この運河ルートは一部鉄道部分を含んで全長394.54
マ イ ルに達し,
1 8 3 4
年 に 完 成 さ れ た 。 し か し , 鉄 道 部 分 と 慇 し い 数 の 水 門 ( イ リ ー 運 河 の84
ケ 所 に 対 し て1 7 4
ケ 所 ) の た め に 輸 送 時 間 と コ ス ト の 両 面 で イ リ ー 運 河 に劣り,決定的な競争相手とはなり得なかったのである9)
0さらに第
3
のタイプに属する運河,すなわちオハイオーミシシッヒ゜水系と五7) Henry S . T a n n e r , A D e s c r
ゆt i o no f t h e C a n a l s and R a i l r o a d s of t h e U n i t e d S t a t e s (New Y o r k , 1 9 7 0 ( 1 8 4 0 ) ) , p p . 1 5 81 5 9 , 1 6 01 6 2 .
8) Henry S . T a n n e r , i b i d . , p p . 5 25 4 . 1 8 2 5
年の完成時におけるこの運河の規模は最 大幅員4 0
フィート (最小2 0
フィート), 水深4
フィートで8 4
の水門を有するものであ り,建設費は7 0 0
万ドルに達した。イリー運河建設に至る詳しい事情についてはC a r t e r G o o d r i c h , e d . . o p . c i t . , p p . 1566; C . F . M a c G i l l , o p . c i t . , p p . 162170
参照。9) G .
R.T a y l o r , o p . c i t . , p . 1 4 4 ; Henry S . T a n n e r , i b i d . , p . 9 8 ; C . F . M a c G i l l , o p . c i t . , p p . 2 3 42 4 8 .
これは,こうした技術上の問題の外に西部における東部大都市 商人間の激烈な競争の中で.フィラデルフィア商人がどのような地位におかれていった かという問題とも関連している。イリー運河とペンシルヴェニア・メイン・ラインとの 経済的インパクトについては,RogerL
. Ra n s o n , ' I n t e r r e g i o n a l C a n a l s and E c o ‑ nomic S p e c i a l i z a t i o n i n t h e A n t e b e l l u m U n i t e d S t a t e s ' , E x p l o r a t i o n i n En‑
t r e p r e n e u r i a l H i s t o r y , 2nd S e r i e s , V o l . 5 , N o . 1 , 1 9 6 7
に詳しい。なお,ペンシル ヴェニア州有運河についての政治史的側面からの研究は安武秀岳,前掲論文,参照。(Carter Goodrich, e d . , o p . c i t . , pp. 1 8 4 , . . . , 1 8 5 . )
アメリカ産業革命期における運河建設について(加勢田)
403
大 湖 と を 結 ぶ 西 部 の 運 河 に つ い て で あ る が , こ の 種 の 運 河 は イ リ ー 運 河 の 完 成 に よ る 中 西 部 へ の 移 民 の 急 増 に 伴 っ て そ の 必 要 性 が 急 速 に 増 大 し た も の で , 比 較 的 遅 い 時 期
( 1 8 3 0
年 代 以 降 ) に 建 設 さ れ た も の が 多 い 。 こ の う ち 最 初 に 建 設 さ れ た の が イ リ ー 湖 の ク リ ー プ ラ ン ド か ら オ ハ イ オ 河 の ポ ー ツ マ ス に 至 る オ ハ イ オ 州 の オ ハ イ オ ・ イ リ ー 運 河( O h i o and E r i e C a n a l , 1 8 3 3 )
であった。1845
年 に は ト レ ド( T o l e d o )
か ら シ ン シ ナ チ に 達 す る マ イ ア ミ ・ オ ハ イ オ 運 河(Miami and Ohio C a n a l )
が 建 設 さ れ た 。 さ ら に イ ン デ ィ ア ナ 州 も 連 邦 政 府 より公有地の下付を受けて,1853
年 に ト レ ド か ら エ ヴ ァ ン ス ヴ ィ ル(Evans‑
v i l l e )
に 至 る ウ ォ ー バ ッ シ ュ ・ イ リ ー 運 河CW abash and E r i e C a n a l )
を 完 成している10)
。 こ の 外 , ィ リ ノ イ 州 で は1848
年 に シ カ ゴ で ミ シ ガ ン 湖(Lake M i c h i g a n )
と イ リ ノ イ 河( I l l i n o i sR i v e r )
と を 接 続 す る イ リ ノ イ ・ ミ シ ガ ン 運 河( I l l i n o i sand Michigan C a n a l )
が建設された11)
。以 上 挙 げ た よ う な ア メ リ カ の 主 要 運 河 は , 多 く の 支 線 運 河 に よ っ て 補 足 さ れ て い た こ と は い う ま で も な い が , こ れ ら の 運 河 に 達 す る 多 く の 有 料 道 路(turn‑
p i k e r o a d )
に よ っ て も 補 足 さ れ , 南 北 戦 争 以 前 の ア メ リ カ 最 大 の 輸 送 体 系 を 構成していたのである。12)
1 0 ) 1 8 4 1
年のインディアナ州の負債は1 , 3 0 0
万ドル以上に達しており,このうち90 0
万ドル 以上が内陸交通改良のために生じたものであったという。( T a y l o r ,i b i d . , p . 4 7 )
因に 言えば, ウォーバシュ・イリー運河は北部インディアナを開発したが,財政的には最大 の失敗運河であったといわれ,その総支出額は8 0 0
万ドルを上回ったのに対して,総収 入額は約5 5 0
万ドルにすぎなかった。その上,この収入の半分以上が連邦政府から下付された公有地の売却代金であったという。
( I b i d . , p . 4 8 )
1 1 )
この運河は上述した西部の他の運河に比べて最も多くの利益をあげ,下付された土地 を最も有効に利用した運河であったといわれている。J o h n B . R a e , o p . c i t . , p . 1 7 2 . 1 2 )
因に,1 9
世紀初頭のターンパイク会社の認可数を示せば, ペンシルヴェニア州では17931812
年の間に55
社, ニュー・ヨーク州で17761805
年の間に5 7
社, マサチュー セッツ州では17971812年の間に10 5
社であった。G .S . C a l l e n d e r , o p . c i t . , p . 1 3 2 ,
n o t e .
1 1
404
隅西大學『継清論集」第2 1
巻第4
号皿 ア メ リ カ 運 河 建 設 の 特 質
アメリカの運河とイギリスのそれとの最も相違せる点は,イギリスの場合が 株式会社
( j o i n ts t o c k company)
形態による純粋な私的経営であったのに対し て,アメリカの場合は,特許( c h a r t e r )
を得て,i n c o r p o r a t e dcompany
を中 心に進められたとはいえ,公的な援助に頼る場合が多く,特に西部の運河の場 合,政府(州,地方)の公共事業として建設されたものがほとんどであったこと である。他面からみれば,イギリスの運河の場合は,ハル,ロンドン,プリストJ
, リバプールといったすでに発展している都市によって囲まれた比較的狭いレ 地域を結ぶ運河であって,その性格は開発を目的としたもの"developmental"
ではなく,もっぱら利潤追求的なもの
" e x p l o i t a t i v e "
であったのに対して,ァ メリカのそれは,内陸開発を目的とした荒野を通る"developmental"
なもの が非常に多かったのである。したがって,こうした類型をアメリカの運河に適 用して類別すれば,アパラチア山脈を越える運河や西部の五大湖とオハイオー ミシシッビ河水路とを結ぶ運河にみられたような「開発運河」(developmental c a n a l )
と東部大西洋岸の沿海運河( t i d e w a t e rc a n a l )
ーたとえば既述のい わゆる無煙炭運河ーに代表されるような「利潤追求運河」( e x p l o i t a t i v ec a n a l )
とに分類できるのである
1)
。 さらに言えば, 「利潤追求運河」は既存の経済的 機会や確立された商業径路の利益を獲得するために建設されたものである。し たがって,公的援助に期待することなく私企業として成立ったのである。しか るに, 「開発運河」は, 期待される収益のほとんどをこれらの輸送手段の建設 それ自身が推進する植民や経済活動に依存していた。しかし,その点から予想 されるように,建設された運河ルート沿の植民や経済活動の発展は急には進ま ないからして,十分な早期利益は期待出来ないのが普通であった。したがって1)
H . J e r o m e C r a n m e r , ' C a n a l I n v e s t m e n t , 1 8 1 5 ‑ 1 8 6 0 , ' T r e
叫s
切t h eA
加r i c a n E c o n o m y i n t h e N i n e t e e
叫C 砒 叩 ( S t u d i e si n I n c o m e a
叫W e a l t h ,X X I V , P r i n c e t o n , 1 9 6 0 ) , p . 5 5 7 .
1 2
アメリカ産業革命期における運河建設について(加勢田)
405
公的企業として行なわれるか,あるいは私企業として行なわれる場合にはそれ に対する公的援助が必要であったのである。かくして,アメリカでは一般的に いって,東部の運河が私企業であったのに対して,西部の運河は州政府によっ て建設され運営されていたのである
2)
。要するに,未だ植民されておらない地域や他から隔離されている地域の経済 活動を刺激することに主目的を有する運河建設にあっては,実質的な交通は,
そのような刺激の結果が生まれるまでは,期待できないのが常であった。した がって,投資家を満足させるような利益を短期間にあげることは期待できず,
またしたがって私的・個人的資本から運河建設の巨額の資本を調達することは きわめて困難であった。のみならず,この時代のアメリカにおいては,外国貿 易,国内商業,製造工業,農業等あらゆる方面から得られた利潤によっても,
「1860年以前に開さくされた運河建設に資金を調達するには十分でなかった」
のである
a)
。それ故,こうした性格の運河建設には公的援助がしばしば求めら れ,また実際に,多くの運河建設に対して多大の援助が連邦政府をはじめ州・地方政府によってなされたのであった。
ところで,一方西部においてみられたように,完全な公共事業として建設さ
2)
これをクランマーの推計した数字によって示せば次の表の通りである。これによれ ば,沿海運河の場合は9 4
彩までが私的投資によるものである。I n v e s t m e n t i n C a n a l s ( 1 8 1 71 8 6 0 ) S e a b o a r d
T o t a l P r i v a t e S t a t e
5 8 7
函碑
3︱$
T r a n s ‑ A l l e g h e n y
$ 1 3 1 . 7 1 4 . 1
1 1 7 . 6 ( m i l l i o n s o f d o l l a r s ) ( H . J . Cranmer, i b i d . , p . 5 6 0
より作成)3) Frank W. T u t t l e and J o s e p h M. P e r r y , o p . c i t . , p . 1 9 2 .
もっとも, 制度上の問 題からアメリカに蓄積されている資本を十分活用できなかったことも大きな原因の1
つ である。G .S . C a l l e n d e r , o p . c i t . , p . 1 5 1 .
この時代のアメリカの運河株主は大商人,金融業者,製造工業家,土地投機家等であった。
1 3
い
ob 闊西大學「継清論集』第21
巻第4
号れ た 運 河 の 例 も 決 し て 少 な く な い が
4),
最 も 多 く み ら れ た 援 助 の 方 法 は , 私 的 資 本 と 連 邦 ・ 州 ・ 地 方 政 府 当 局 と の パ ー ト ナ ー シ ッ プ に よ る 混 合 企 業(mixed e n t e r p r i s e )
を 設 立 す る と い う 方 法 で あ っ て , 政 府 資 金 を 私 企 業 に 投 入 す る こと に よ っ て こ れ を 援 助 ・ 奨 励 し た の で あ っ た
5)
。 し か し な が ら , 政 府 の 援 助 と 責 任 の 全 国 的 な 一 定 の パ タ ー ン は 存 在 し な か っ た 。 そ れ ど こ ろ か , こ う し た 南 北 戦 争 以 前 の 研 究 の 最 も 興 味 あ る 側 面 の1
つ は , こ れ ま で 「 歴 史 家 の 商 売 道 具 で あ っ た す べ て の ド グ マ テ ィ ッ ク な 一 般 化 」 が , 合 衆 国 に お け る 政 府 と 私 企 業 と の 間 の 関 係 を 述 べ る 際 に は 完 全 に 打 破 さ れ て し ま う こ と で あ る , と い わ れ て い る ほ ど で あ る6)。たとえば,「ヴァージニア方式」
( V i r g i n i aSystem)
と し て 知 ら れ て い る ヴ ァ ー ジ ニ ア 州 の 場 合 は , 知 事( G o v e r n o r ,
知事が職務上総裁となった),出納 局 長( T r e a s u r e r ) ,
法 務 長 官(AttorneyGeneral)
と 州 内 各 地 か ら 選 ら ば れ4)西部の運河以外では,イリー運河,チャムプレイン運河,ペンシルヴェニア・メイン
・ライン等が州有運河であった。
5)混合企業政策には次の 3
つの動機があったと考えられている。 (1)公的利洞を獲得する という動機から。(高利潤をあげていた銀行業等に投資した。) (2)交通改良のような私 的投資分野としてはリスクが大きすぎて私企業では遂行しえないような事業に対して,地域間(州間,都市間)の競争から自州の利益を確保するために,こうした事業を奨励 した。 (3)州政府による
c o r p o r a t ep o l i c y
の部分的指導を目的とした。( L o u i sH a r t z ,
ゅ.c i t . , p p . 89103.)
なお私企業と混合企業の明確な区分は存在しなかったが,政府と民間とのパートナーシップによる企業を混合企業と考えるべきであろう。したがっ て,私企業が若干の援助を受けていたとしてもそれは混合企業とは考えられない。主な 混合企業(運河)はチェサヒ°ーク・デラウェア運河,ディスマール・スワンプ運河,チ ェサヒ°ーク・オハイオ運河,ジェイムス・リバー・カナワ運河等であった。
6) J . R . T . Hughes and Nathan R o s e n b e r g , ' T h e U n i t e d S t a t e s B u s i n e s s C y c l e b e f o r e 1 8 6 0 : some P r o b l e m s o f I n t e r p r e t a t i o n ' , J o u r n a l of E c o n o m i c H i s t o r y , V o l . XXIV, 1 9 6 4 , p . 4 8 3 , n o t e 2 .
政府と経済(企業) との間の関係については,これまでマサチューセッツ, ペンシルヴェニア, ミズリー, ジョージーア等の各州の 場合の研究がある。詳しくは
C a r t e r Goodrich• R e c e n t C o n t r i b u t i o n s t o E c o ‑ nomic H i s t o r y : The U n i t e d S t a t e s , 1 7 8 9 ‑ 1 8 6 0 ' , J o u r n a l of E c o n o m i c H i s t o r y , M a r c h , 1 9 5 9 , p p . 25 30参照。また,「政府と企業」については,『経営史学」(第 6
巻第1
号,第6
回大会特集号)の諸論文参照。1 4
アメリカ産業革命期における運河建設について(加勢田)
407
た1
0
人の市民とから成る公共事業局(Board of Public Works)
によって資 金が管理されていた。そして,州議会で認可されたプロジェクトの発起人は必 要資本の%を私的応募者から調達せねばならないことになっており,したがっ て局は残り%の資本を引き受け,それに比例した数の重役を受け入れることを 定めていた。( 1 8 4 0
年代末には州が%までを引受けるようになっていたo)
しか し,その際,州投資に対する配当は私的応募者が6
彩の配当を受けるようにな るまで延期された7)
。こうした混合企業設立の方法は,企業にイニシアティプ を残すことによって,州当局はしばしば相対立する州内諸地域間利害に直接決 定を下す必要を免がれることができたのであって,最も効果的な結果を得るた めには州がいかに貢献すればよいかについての調整の問題を解決するのに有効 な方法でもあった。次に,公的援助がどの程度に達していたかという問題であるが,第
I I
表A
に 示されたクランマーC H , J . C r a n m e r )
の計算によれば,1817 1860
年の間の 運河投資のうち州投資額は1
億2 , 1 1 0
万ドルに達し,その全投資額(1
億9 , 4 6 0
万ドル)に占める割合は約62
彩であったs)
。さらにこれを北東部,南部,西部の三地域に分類して示せば,旧い州を中心とした北東部及び南部では私的投資 が相当な割合を占め,特に棉作プランテーションで繁栄していた南部では一一 自然の水路に恵まれて運河建設が比較的少なかったが一一約87彩を占めてい る
9)
。(第I I
表B
参照)これと対照的に,いわゆる「開発運河」を中心とした 西部においては,その運河の性格上から,また東部の諸州のように,海上貿易7) C a r t e r G o o d r i c h , ' T h e V i r g i n i a System o f Mixed E n t e r p r i s e ' , P o l i t i c a l S c i e n c e
Q u a r t e r l y , V o l . LXIV, 1 9 4 9 , p p . 3 6 03 6 5 .
8) H . J . C r a n m e r , o p . c i t . , p p . 5 5 55 5 6 .
なお先のセーガル( H .H . S e g a l )
の計算 によれば,連邦・州・地方政府の運河会社への援助2 , 2 2 2
万ドルを含めて運河建設への 公的投資は,1 8 1 51 8 6 0
年の間に1
億3 , 6 5 0
万ドルに達し,全投資額(1
億8 , 8 2 . 0
万ドル)に対する割合は
73%
であった。H .H . S e g a l , o p . c i t . , p p . 2 1 42 1 5 .
9)
運河建設に対して政府はその資金調達のために運河会社に銀行特許を与えたり,富く じを売ることを認める等の便宜を与えたりした。因みに言えば,ニュー・ジャージ州は 運河建設に直接援助しなかったことで有名である。1 5
408
隅西大學「継清論集」第2 1
巻第4
号 第I I
表A Annual I n v e s t m e n t i n C a n a l s , 18171860
( m i l l i o n s o f d o l l a r s ) Year UNITED STATES
Year UNITED STATES T o t a l S t a t e P r i v a t e T o t a l S t a t e P r i v a t e 1 8 1 7 0 . 2 0 . 1 1 8 4 0 1 4 . 3 1 1 . 3 3 . 0 1 8 1 8 0 . 7 0 . 6 0 . 1 1 8 4 1 1 1 . 7 9 . 8 1 . 9 1 8 1 9 0 . 8 0 . 6 0 . 2 1 8 4 2 3 . 1 2 . 6 0 . 6 1 8 2 0 1 . 1 0 . 8 0 . 2 1 8 4 3 1 . 0 0 . 7 0 . 3 1 8 2 1 1 . 6 1 . 3 0 . 2 1 8 4 4 1 . 0 0 . 7 0 . 3 1 8 2 2 2 . 7 2 . 3 0 . 3 1 8 4 5 2 . 0 1 . 1 0 . 9 1 8 2 3 2 . 8 2 . 2 0 . 7 1 8 4 6 1 . 8 0 . 8 1 . 0 1 8 2 4 2 . 5 1 . 8 0 . 7 1 8 4 7 4 . 7 1 . 1 3 . 6 1 8 2 5 2 . 5 1 . 5 1 . 2 1 8 4 8 4 . 5 1 . 5 3 . 0 1 8 2 6 4 . 0 1 . 5 2 . 5 1 8 4 9 3 . 4 1 . 9 1 . 6 1 8 2 7 5 . 6 2 . 3 3 . 3 1 8 5 0 4 . 9 2 . 3 2 . 5 1 8 2 8 7 . 8 4 . 0 3 . 7 1 8 5 1 4 . 7 2 . 0 2 . 8 1 8 2 9 7 . 0 3 . 7 3 . 2 1 8 5 2 3 . 4 1 . 9 1 . 5 1 8 3 0 7 . 5 5 . 1 2 . 4 1 8 5 3 3 . 8 2 . 4 1 . 4 1 8 3 1 3 . 7 2 . 2 1 . 5 1 8 5 4 4 . 7 3 . 8 0 . 9 1 8 3 2 4 . 6 2 . 9 1 . 7 1 8 5 5 5 . 3 4 . 2 1 . 1 1 8 3 3 5 . 3 2 . 7 2 . 6 1 8 5 6 4 . 2 3 . 2 1 . 0 1 8 3 4 4 . 4 2 . 8 1 . 6 1 8 5 7 3 . 5 2 . 9 0 . 7 1 8 3 5 3 . 5 2 . 0 1 . 5 1 8 5 8 2 . 8 1 . 6 1 . 1 1 8 3 6 4 . 4 1 . 8 2 . 6 1 8 5 9 1 . 9 1 . 4 0 . 5 1 8 3 7 8 . 2 3 . 9 4 . 3 1 8 6 0 1 . 2 0 . 1 0 . 1 1 8 3 8 1 2 . 3 7 . 2 5 . 1
1 8 3 9 1 3 . 6 9 . 5 4 . 1 1 9 4 . 6 1 2 1 . 1 7 3 . 5
B T o t a l I n v e s t m e n t s by S o u r c e and A r e a , 18171860
( m i l l i o n s o f d o l l a r s ) S o u r c e N o r t h e a s t S o u t h West T o t a l S t a t e $ 8 8 . 8 $ 2 . 5 $ 2 9 . 8 $ 1 2 1 . 1 P r i v a t e 5 2 . 5 1 7 . 2 3 . 8 7 3 . 5 TOTALS $ 1 4 1 . 3 $ 1 9 . 7 $ 3 3 . 5 $ 1 9 4 . 6
出所:H . J . Cranmer, o p . c i t . , p p . 5 5 55 5 6 .
1 6
アメリカ産業革命期における運河建設について(加勢田)
409
•製造工業の発展による資本蓄積も商業金融の発達もみられなかったこともあ って,もっばら州政府を中心とした公的信用の動員によって開発が進められた ことを示している。
それでは州政府はかかる巨額の資金をいかなる方法で調達したかというと,
ほとんどすべて公債の発行によってこれを調達したのであった。それ故州債務 はそのほとんどが運河を中心とした内陸交通改良に融資するために生じたもの であり,その額は
18201830
年には2 , 6 0 0
万ドル(その中半分以上はニュー・ヨーク州とペンシルヴェニア州が調達)にのぼった。さらに
18301838
年には1
億5 , 0 0 0
万ドルが追加され1 8 3 8
年の未決済債務額は1 7 0 , 8 0 6 , 1 8 7
ドルに達し た。合衆国の第1 0
回センサスによれば,これは次のような目的の投資から生じ たものであった10)
。Banking , . . . . . . . . . . . , . . . . . . . . . . . . . . . . . $ 5 2 , 6 4 0 , 0 0 0 C a n a l s . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 6 0 , 2 0 1 , 5 5 1 R a i l r o a d s . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 4 2 , 8 7 1 , 0 8 4 Turnpikes . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 6 , 6 1 8 , 8 6 8 M i s c e l l a n e o u s ・ . . … … … … … . . . 8 , 4 7 4 , 6 8 4 T o t a l $170,806,187
ところで,かかる巨額の公債(運河債)がどこで消化されたかと言えば,大 部分は銀行及びその他の金融機関においてであった。このこのことはイリー運 河の成功後, 運河資金はそれまでの個人的小投資家への依存から機関投資家
( i n s t i t u t i o n a l i n v e s t o r s )
への依存に移るようになったことを示している。また,銀行を設立してそれに歳入や州債の発行で得た資金を投資することに よって,銀行業から得られる巨額の利潤を公共のために政府が獲得すると同時 に,銀行を通じて内陸交通改良のための資金を創出することができたわけであ
1 0 ) T e n t h C e n s u s o f t h e U n i t e d S t a t e s : V a l u a t i o n , T a x a t i o n , and P u b l i c I n ‑ d e b t e d n e s s , V I I , 5 2 6 ; G .
R.T a y l o r , o p . c i t . , p . 3 7 4 .
1 7
410
闊西大學「継清論集」第2 1
巻第4
号る1
1 )
0一方,連邦債の急激な買上げによってその額は1820
年代初頭の9,000
万ド ルから1834
年の500
万ドルに激減しているが,これが市中の金融資金に余裕をも たらしたとも考えられるm
。さらに重要なのは,「アメリカ商会」(American houses)13)等を通じてロンドン金融市場で売捌かれた公債額であるが,ミラ
‑ (Nathan M i l l e r )
の推計によれば1 8 2 9
年にはニュー・ヨーク運河債の半分 以上が,また1832
年にはペンシルヴェニア州債の半分が外国人投資家によって 保有されるに至ったという14)
。 さらにセーガル( H . H . S e g a l )
も各州の債 券のうち1832
年には総額1,500
万ドルが海外で保有されており,この額は大ま かにいって運河投資に関する公的資金の¼, 総投資資金の¼以上であったと述 べている15)
。このように,アメリカの運河建設において決定的に重要な役割を果したのは 州政府であったのであるが,連邦政府もまた公有地の下付によって運河建設を 奨励した。連邦政府は
450
万エーカーにのぼる公有地を州政府を通じて主とし て西部の運河会社に与えたのである。もちろんこの面積は鉄道に与えられた1
億3,000
万エーカーに比べれば問題にならない規模であるが, しかし単に面積 だけから運河への公有地下付の重要性を判断してはならないであろう。公有地 下付は実際の水路建設に非常に効果的に貢献したのであって,それが中西部の 発展におよぼした影響は今日一般に評価されているよりはるかに大きい,とい えよう16)
。例えば, オハイオ州の運河は, ィリー運河がニュー・ヨークi i 1 1 )
この時期の銀行からの借入は5 6%
の利子で行なわれたが,銀行会社は7 9%
の配当を行なっていた。
G .S . C a l l e n d e r , o p . c i t . , p p . 1 5 91 6 2 .
1 2 ) H i s t o r i c a l S t a t i s t i c s of t h e U n i t e d S t a t e s , 1789 1945 ( W a s h i n g t o n , 1 9 4 9 ) , p . 1 3 1 ;
H. H. Se g a l , o p . c i t . , p . 1 8 7 .
1 3 )
「アメリカ商会」については荒井政治「イギリスにおけるマーチャント・バンカーの 成立過程‑ベアリング兄弟商会を中心に一」(関西大学『経済論集」第20巻第5•
6
合併号,1 9 7 1
年,所載),14 25
ページ参照。1 4 )
H. H.S e g a l , o p . c i t . , p . 1 8 8 ; C a r t e r G o o d r i c h , G o v e r n m e n t P r o m o t i o n of Ame‑
r i c a n C a n a l s and R a i l r o a d s , p . 5 4 . 1 5 )
H. H.S e g a l , i b i d . , p . 1 8 8 . 1 6 ) J . B . R a e , o p . c i t . , p . 1 6 7 .
1 8
アメリカ産業革命期における運河建設について(加勢田)
'
の発展に与えたのと同程度の刺激をオハイオ州の発展に与えたといわれ
17),
イリノイ・ミシガン運河はそれまでの荒野を植民された繁栄せる社会に開拓し たのみならず,シカゴをミシシッヒ゜漢谷
( M i s s i s s i p p iV a l l e y )
のメトロポリ スに発展させた,といわれている1 8 ¥
ところで,合衆国における運河建設のための公有地下付には
2
つの性格を異 にする系列があった19)
。まず第1
の系列は1820
年代及び1830
年代にオハイオ,イリノイ,ウィスコンシンの各州でみられた。これは公有地下付について鉄道 の場合の真の先駆となったもので,これらの運河は後に交通の大動脈になるよ うに意図されたものであった。なお,その際の土地の下付方法は,運河計画ル ートに沿って両側に幅 5マイルの四角の土地を交互に与えるという標準型の下 付の仕方,つまり
" a l t e r n a t e ‑ s e c t i o np r i n c i p l e "
であった。これに対して第2
の系列は,1850
年代及び1860
年代にミシガン州やウィスコンシン州で五大湖 への補助的水路を改良するために行なわれたものであった。この公有地下付は 連邦土地補助政策の例外を示すものであるが, この場合2
マイルを越える運 河がなかったために, 標準的な土地下付の方法は実際的ではなく, したがっ て計画ルートの附近に空地がみつかった所はどこでも居住を推進するように" f l o a t s "
の形態をとることになった。因に言えば, このような第1
の系列の 土地下付の方法が標準的なものとして採用されたのは,この方法によればルー ト両側に交互に残された公有地が,運河建設による地価の高騰によって,運河 会社に下付した土地の分まで償うであろうと考えたからにほかならない20)
。 つまり,この方法によれば運河会社に土地を下付することが連邦政府にとって1 7 ) A l v i n F . H a l o w , o p . c i t . , p . 2 6 2 ; J . B . R a e , i b i d . , p . 1 6 7 .
1 8 ) James W. P u t n a m , The I l l i n o i s and M i c h i g a n C a n a l ( C h i c a g o , 1 9 1 8 ) , p . 1 5 5 : J . B . R a e , i b i d . , p . 1 6 7 .
1 9 ) J . B . R a e , i b i d . , p . 1 6 8 .
2 0 )
ミドルセックス運河の場合,運河の両岸6
マイル以内の地価は%値上りし,メリマッ ク河側のニュー・ハムプシャーの森林地の地価は1
エーカー当り2
ドルから6
ドル,8
ドル,