不平等条約の運用と港湾行政︵こ
稲 吉 晃
目次
はじめに 第一章 港則をめぐる混乱
一.初期神奈川県・岩倉使節団の取り組み
二.大蔵省の港湾政策
三.神奈川県と横浜税関
四.条約改正交渉と港則問題 ︵以上本号︶
第二章 横浜築港と開港港則
不平等条約の運用と港湾行政︵一︶ ︵都法四十六ー二︶ 四=ご
四一四
一.大隈外相と横浜築港
二.築港工事の進展と外交交渉
三.開港港則の実施
おわりに
はじめに ︵1︶ ペリー艦隊による開国要求にその起源の一つをもつ明治政府にとって︑江戸幕府の遺産ともいえる不平等条約の改
正は︑最も重要な課題の一つであった︒条約のもつ不平等性は︑明治政府の活動を多くの面で制約した︒そのため︑ ︵2︶ 一八六九︵明治二︶年の東久世通禧外国官判事による改正交渉開始要求に始まり︑九四︵明治二七︶年の陸奥宗光外
務大臣による日英通商航海条約の調印︵法権の回復︶︑一九一一︵明治四四︶年の小村寿太郎外務大臣による新日英
通商航海条約の調印︵関税自主権の確立︶に至るまで︑明治政府はそのほぼ全ての時期において改正交渉に従事して
いた︒したがって︑不平等条約に関する研究もまた多い︒ ︵3︶ 戦前における実証的研究により︑その概略が明らかになった条約改正史研究は︑その後大きく二つの潮流に分かれ ︵4︶ た︒一つは国際環境の分析を加えることによって明治政府の条約改正事業を再評価しようとするものであり︑もう一 ら つは条約改正事業と日本国内の政治が相互に与えた影響を分析するものである︒
その一方で︑条約改正史研究が所与のものとしてきた不平等条約体制の実態や︑不平等条約に対する同時代的認識 ︵6︶ を明らかにしようとする視点に立った実証的研究も進められてきた︒特に近年では︑領事裁判制度の実態と認識につ
︵7︶ いての研究が盛んである︒
これら従来の研究は相互に補完関係にあり︑明治期における日本と列国との関係や明治日本の姿を鮮やかに描き出
してはいるが︑不平等条約の弊害への対処を条約の改正という側面でしか捉えていないという共通した問題点があっ
たように思われる︒
不平等条約は江戸幕府の遺産であるが︑幕府は少なくともその不平等性を各開港場・開市場に封じ込めることには
成功していた︒しかし︑それは同時に居留外国人を日本の管理下におく試みを各開港場・開市場の地方官憲に託すこ
とにもなったのである︒条約上は︑開港場・開市場に設置される外国人居留地の行政権が日本と列国のどちらに属す
るのか︑明確に定められていた訳ではなかった︒日本側は︑居留地行政権が居留地の置かれた府県の長である地方官
に属することを当然のことと考えていたが︑列国側は清国の場合と同様に居留民による自治行政を訴え続けた︒地方
官はあるときは自治を認め︑またあるときは自治要求を拒んだ︒地方官と居留民とは︑緊張と依存の両方を含んだ関
係であった︒
輸出入を監督する税関は︑外国商人とは常に緊張関係にあった︒しかも︑列国側は外国商人が日本の行政規則に服
することを認めなかったために︑その緊張関係は時に紛争にまで発展した︒これも︑条約での曖昧な規定がその要因
であった︒
府県庁や税関などの地方官憲は︑条約を改正する権限を持たなかったが︑各国領事と交渉して規則を設けることは
条約で認められていた︒そのため︑地方官憲は規則制定・実施をめぐる交渉によって列国に対抗したのである︒だ
が︑改正交渉を担当する中央政府と居留外国人への対応を任せられた開港場・開市場の地方官憲との間で︑問題意識
やその解決のための方策が常に一致するとは限らない︒中央政府の目的があくまで国家の独立であり︑関税の増収で
不平等条約の運用と港湾行政︵一︶ ︵都法四十六ー二︶ 四一五
四一六
あったのに対し︑地方官憲の目的は不法外国人を取り締まり︑居留外国人を管理下に置くことであった︒地方官憲独
自の取り組みの影響は現場に留まらず︑条約の改正を目指す中央政府を時に後押しし︑時に困惑させた︒本稿で条約
の﹁改正﹂のみならず︑﹁運用﹂に注目するのは︑そのためである︒
特に︑本稿では港湾行政権に注目する︒その理由は二つある︒第一に︑港湾行政の柱ともいえる港則が︑法権回復
を目前にした一八九八年まで実施されなかったためである︒他の行政規則が︑程度の差はあれ︑実施されていたこと ︵8︶ を考えれば︑港則の不在は異常ともいえる事態であった︒だが︑港則の実施過程を追うことで︑不平等条約下にあっ
たほぼ全ての時期を通して条約実施に向けた取り組みを捉えることが可能になると考えられる︒
第二に︑港湾行政は税関も大きく関わる分野であるからである︒地方官だけでなく︑税関も条約の運用には大きな
役割を果たしていた︒港湾行政を扱うことで︑地方官憲の取り組みを総合的に捉えることが可能になると考えられ
る︒
したがって︑港則の制定・実施をめぐる交渉を通して︑不平等条約がどのように運用され︑そこからどのような経
験が導き出され︑そしてその弊害に明治政府がどのように対処しようとしたのか︑という点を明らかにすることを︑ ︵9︶ 本稿の第一の課題とする︒
さて︑以上のような港湾行政権をめぐる日本と列国との争いは︑当然ながら日本の港湾政策にも大きな影響を及ぼ
した︒港湾は︑多種多様な活動が行われる上に国際的な性質をもつために︑統一した行政が行われにくい空間であ
る︒そのため︑現代においても港湾行政をめぐって様々な議論が交わされている︒
開国による海外との本格的な通商の開始は︑日本の港湾に要請される性質を大きく変化させた︒外洋航海が可能な
巨大船舶はより深い水深と平穏な水面を必要とし︑また国際貿易は税関業務・検疫業務を必要とした︒さらに︑交通
量の増大は灯台・灯船などの航路標識の設置を︑貨物量の増大は物流施設の拡張を要請した︒そして︑税関業務の拡
充や航路標識の設置などは︑条約によって日本側に義務づけられている事項でもあった︒明治政府にとって︑港の整
備は外交的要素も持っていたのである︒これらの課題に明治政府はどのように挑んだのであろうか︒
既存の港湾史研究は︑必ずしもこの問いに対して十分に答えていないように思われる︒既存研究は主として土木
史・経済史の範囲に留まっており︑明治政府がどのような管理体制を模索していたのか︑そしてそのためにどのよう ︵10︶ な政策を行ったのか︑という点については明らかでない︒特に︑開港場のもつ外交的要素については論じられてこな
かった︒港湾行政権をめぐる日本と列国との争いを描くことは︑必然的にこの問題を明らかにすることにもなるであ
ろう︒したがって︑明治政府がどのような港湾管理体制を模索していたのか︑という点を明らかにすることを本稿の
第二の課題とする︒
第一章 港則をめぐる混乱
一.
炎﨎̲奈川県・岩倉使節団の取り組み
一八六九年五月︵明治二年四月︶︑明治政府は大阪を開市場から開港場へと変更し︑イギリス・アメリカ・オラン ︵11︶ ダ・プロシアの四力国領事と連名で﹁大坂開港規則﹂を布告した︒この﹁大坂開港規則﹂が︑明治政府が布告した最 ︵12︶ 初の港則である︒この規則には入港手続きや貨物の取り扱いについては規定されていたが︑港の境界は﹁追て可取
極﹂こととされており︑また港長による碇泊位置指定の権限も規定されてはいなかった︒総じて︑この規則は条約附
バ 不平等条約の運用と港湾行政︵一︶ ︵都法四十六ー二︶ 四一七
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︵B︶ 属貿易章程の範囲を出るものではなかったと言える︒
しかし︑明治政府はこの﹁大坂開港規則﹂に準じた形で各開港場の港則を統一することを企図した︒外務省は︑同 ︵14︶ 年一一月︵一〇月︶には各国領事と話し合うよう各開港場の長官へ達した︒さらに七〇年九月︵明治三年九月︶には︑ ︵15︶ 民部省により︑統一した規則を制定するために各開港場の地方官を集めた会議も企画された︒
ここで注目されるのは︑当時の神奈川県が明治政府の中で占める特異な位置である︒六九年の外務省達には﹁十月
十五日稿神奈川県﹂と記されており︑外務省達の起草に神奈川県が関わっていたことがわかる︒また︑七〇年の民部
省と外務省との一連のやりとりの中でも︑他の開港場と神奈川県を明確に区別している様子が窺える︒
開港以来︑幕府の神奈川奉行が外交交渉や貿易事務を取り扱っていた経緯もあり︑神奈川奉行の後身である神奈川 ︵16︶ 県には外交担当者が兼任して勤務し︑全国の外国人関係事務をこなしていた︒したがって︑明治初期の神奈川県は地 ︵17︶ 方庁としての性格だけでなく︑中央政府の外交機関としての性格も持っていたのである︒では︑外交機関としての性
格も併せ持つ﹁初期神奈川県﹂は︑港則の制定・実施に向けてどのように行動したのであろうか︒日填条約第三条で
は︑港則の制定について以下のように規定されていた︒
填地利及洪鳴利人民の住すへき場所並に其家屋を建へき場所は︑填地利兼洪鳴利コンシュラル官吏其地に在る相当
の日本官吏と相談の上之を定むへし︒又港則も右同様たるへし︒若し填地利兼洪鳴利コンシュラル官吏及ひ日本官 ︵18︶ 吏此事に付議定し得さる事あらは︑之を填地利兼洪鳴利ヂプロマチックヱゼント及ひ日本政府に申立へし︒
つまり︑まず地方官と各国領事との間で協議し︑まとまらなければ日本政府と各国公使との間で取り決める事に
なっていた︒以下では︑まず初期神奈川県が港則の制定・実施に向けてどのような行動をとったのかを概観した後︑
それに対して各国領事・公使がどのような態度を示したのかを明らかにしたい︒ もりとめ 一八七〇年六月二二日︵明治三年五月二四日︶︑神奈川県権知事井関盛艮はイギリス海軍大佐であったパーヴィス
︵㊥ξ<邑を港長として雇い入れ︑外国領事との協議を開始する準備に取り掛かった︒井関は︑居留民の大半を占め ︵19︶ るイギリス人の意向に配慮することによって︑港則の制定・実施を円滑に進めようとしたものと考えられる︒しか
し︑井関が採ったこの方法は︑イギリス以外の各国の反発を招いた︒
特に強硬な反対姿勢を示したのは︑アメリヵであった︒パーヴィスの就任からおよそ一ヶ月後の七月一日︵六月三
日︶︑駐日アメリカ公使デロング︵︵︸°団゜︼︺O︼いO口oq︶は外務卿沢宣嘉・外務大輔寺島宗則と会談し︑﹁碇泊場之義彼是 ︵20︶ 指図﹂されるのは不都合である︑と抗議に及んだ︒外務省は直ちに神奈川県に問い合わせるが︑神奈川県は︑パーヴィ ︵21︶ スは港則制定のための調査にあたっているだけであり︑﹁碇泊船等の義彼是指図いたし候義は無之﹂と反論した︒し
かし︑その一方で神奈川県は外務省に対して︑﹁直に卿大輔より各公使に御協議御決定相成候方︑岡士其外異論も無 ︵22︶ 之﹂と︑外務卿・大輔と各国公使との間での港則問題の解決を求める︒
神奈川県からの要請を受けた寺島は︑駐日イギリス公使パークス︵匡゜oり゜勺ぼ叶①゜の︶へ港則制定交渉を持ちかけるが︑ ︵23︶ パークスは港則については﹁各国岡士と御相談にて御取極之方可然﹂と︑取り合わなかった︒そのため︑イギリスの
意向を配慮しつつ外務省・公使レベルでの解決をはかった井関の試みは失敗し︑井関は各国領事の説得を強いられる
ことになる︒ ︵24︶ 八月一八日︵七月二二日︶︑井関はパーヴィス起草の﹁横浜港内規則﹂を各国領事に送付し︑回答を求めた︒この
﹁横浜港内規則﹂は全二八条からなっており︑碇泊場所の指定︵第四条・第五条︶や入出港手続き︵第三条・第六
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条︶︑伝染病患者乗り組み船舶への対処︵第八条・第九条︶などにおける港長の権限が明確に定められていた︒また︑
港の境界︵第一条︶や︑港内における廃棄物等の不法投棄の禁止︵第七条︶などが定められ罰則もそれぞれ明記され
るなど︑この規則案は非常に完成度の高いものであった︒
したがって︑各国領事との間の争点も港則の内容ではなく︑大きな権限を持つ港長の選任過程に絞られることにな
︵25︶ る︒同月三一日︵八月五日︶︑アメリカ・ドイツ・オランダなど七力国の領事は連名で神奈川県に回答書を送付した︒ シ 七力国の領事は︑﹁元来港長の任に当り候者は︑右規則毎条之的意に差響候儀も屡々有之候﹂と︑港長の選任方法に
ついても協議の対象とすることを主張し︑﹁右職掌御委任相成候前に︑各国海軍士官等にて相当の人物撰挙﹂するこ
︵26︶ とを提案した︒
各国領事の回答を得た井関は︑﹁当地岡士引会にては纏り兼﹂ねると︑再び外務省・公使レベルでの解決を外務省
︵27︶ に求める︒井関は︑横浜港内規則に対して﹁英葡岡士は異存無之趣申来り候得共︑其他之岡士は悉く異存之趣にて⁝
⁝﹂と︑イギリスとポルトガル以外の各国領事が横浜港内規則の制定に対して反対している現状を説明する︒そし
て︑彼等が反対する理由は﹁港長撰挙之節︑商議を不尽候﹂ことにあると分析し︑彼等と井関との対立点もそこにあ
ると述べる︒だが︑井関は港長の選任について各国領事と協議するつもりはなかった︒井関の解釈では︑港則につい
ては各国領事と協議することが条約によって定められてはいるが︑﹁港長を雇と雇はざるは吾政府の権に有之﹂と︑
港長の任命権は日本側の権利と捉えられるからである︒だが︑列国側の見解は異なった︒
列国による港長選任過程への参加要求の条約上の根拠は︑領事裁判権であった︒彼等の論理では︑各国の水夫は﹁神
奈川海上在留中︑横浜港之陸地在留之同国人と同様なる取扱﹂︑すなわち領事裁判を受ける権利を有しており︑その
﹁権理之一分港長へ譲﹂る以上は︑港長は﹁各国領事官之撰挙﹂によって任命されなければならない︑とするのであ
︵28︶ ︵29︶ る︒また︑その背景にはイギリス人港長パーヴィスへの不信もあったようである︒ ︵30︶ 再び井関の要請を受けた寺島は︑パークスに公使レベルでの交渉を再度要求するが︑パークスの態度は変わらず︑ ︵31︶ やはり断られてしまう︒そこで︑寺島は方針を変更し︑イギリス・・ポルトガル以外の各国公使にそれぞれ自国領事を
説得するよう要請することにした︒しかし︑各国公使は取り合わず︑港則制定交渉は暗礁に乗り上げてしまう︒
以上の経緯から明らかなことは︑初期神奈川県が︑当初から領事レベルでの交渉を回避しようと務めていることで ︵32︶ ある︒井関は︑そのために寺島が実質的に取り仕切る外務省と連係し︑公使レベルでの交渉に持ち込もうとする︒し
かし︑この傾向は港則に限ったことではなかった︒居留地の造成や居留地自治制度をめぐって各国と交渉する際も︑ ︵33︶ 神奈川県は外務省とともに各国公使との交渉にあたり︑問題を解決していた︒そして︑横浜の居留民の側も極力高い
レベルで交渉することを望んでいたように思われる︒一般的には︑大きな裁量をもつ外務省と公使との交渉の方が︑
問題の解決には早道であった︒これも︑神奈川県と外務省との密接な関係があってこそ可能な方法であったと言える
だろう︒ 各国公使は︑港則制定に向けた交渉には応じなかったが︑外務省にょる条約改正に向けた動きには対応しなくては
ならなかった︒したがって︑港則及び港長に対する各国公使の姿勢は︑条約改正問題を通じて観察することができ
る︒外務省が条約の改正準備に取り掛かったのはこの時期であった︒寺島は︑七一年四月二一二日︵明治四年三月四日︶ ︵34︶ に︑条約の改正希望項目を記した覚書をイギリス公使館とフランス公使館に送付している︒そこには︑﹁各港の約書
をはしめ一般の取扱向に付︑一定の原則を設くへき事﹂と︑港則の制定権を回収することも明記されていた︒ ︵35︶ 七一年のこの交渉については優れた先行研究があるので詳細はそちらに譲り︑ここでは港則をめぐる各国公使の態
度に注目したい︒寺島の条約改正希望の通知に対して︑五月一三日︵三月二四日︶各国公使は会議を開き︑対応を協
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︵36︶ ︵37︶ 議したようである︒そこで示された駐日ドイツ公使プラント︵ζ゜<O︼已吊一﹃陣口全⇔︶による覚書には︑港長問題につ︑いて
も記されている︒プラントの提案は以下のようなものであった︒日本の噸税︵登録トン数に応じて船舶に課する税︶
徴収権は認めるが︑徴収された税金と港・灯台の管理は︑全く日本人の手に委ねるか︑あるいはアメリカ人・イギリ
ス人・フランス人・ドイツ人から構成される国際委員会に委ねられる︒そして︑港長はこの国際委員会が任命する︒
プラントのこの提案が︑イギリス人による横浜港の単独管理を阻もうとする意図をもっていたことは明らかであろ
う︒しかし︑このプラント提案に対してデロングやパークスがどのような態度を示したのかは明らかでない︒彼等が
港則問題についてどのような解決案をもっていたのかを知るためには︑同年一二月二三日︵一一月一二日︶に横浜港
を出発した岩倉使節団の交渉を見ていく必要がある︒
周知の通り︑岩倉使節団の当初の目的は使節帰国後の七三年七月一日以降の改正条約調印を要請・通告するもので
あった︒だが︑副使伊藤博文・駐米公使森有礼の進言などもあり︑七二年三月︵明治五年二月︶特命全権大使岩倉具
視は︑ワシントンにおいて改正交渉に着手することを決断したのであった︒
一連の交渉の中でも︑港則及び港長の問題は取り上げられた︒三月一八日︵二月一〇日︶に行われた第四回会談で ︵38︶ は︑新規開港場問題や噸税徴収問題とともに︑港則問題についても話し合われた︒アメリカ国務卿フィッシュ ︵口゜ ︵ママ︶ ︵39︶ コ゜・庁︶は︑当初﹁彼方にて一切之を管轄被度趣なり﹂と発言するなど︑港則問題について執着しない姿勢を示したが︑
同席していたデロングにより諌められると︑フィッシュもプラントの提案と同様︑﹁日本井外国公使会同の管轄に
属﹂すことを要求する︒
フィッシュは︑港湾の共同管理の根拠を日本の内地が開放されていない点と︑居留アメリカ人が税を負担している
点においた︒フィッシュは︑﹁日本にて外国人居留の場所至て少数なるか故に︑其所々にて重税を取られ候ても外に
︵40︶ ︵41︶ 致方無之﹂︑﹁一体税金は外国人よりも差出候に付︑其費法方にも発言致し候権利有之候﹂と主張する︒つまり︑外国
人は税を負担している上に負担の軽い場所を選択して居住することは出来ないのであるから︑列国側に自治の権利︑
少なくとも居留地や港湾の経営に参画する権利があるとするのである︒
岩倉はこれに対して︑規則の制定権と港長の任免権は別である︑との認識を示したが︑フィッシュは自国民の財産
を守るためには不適切な港長を認める訳にはいかない︑と譲らなかった︒結局︑協議は平行線を辿ったまま︑岩倉使
節団による対米交渉は終了した︒
その後︑条約改正交渉を断念した使節団一行は︑ヨーロッパ各国では当初の目的通り︑条約改正へ向けた予備交渉
を行うことにした︒同年一一月一五日︵一〇月一五日︶ロンドンでのパークスとの会談で岩倉は︑今回は本交渉には ︵42︶ 臨まないと前置きをした上で︑改正希望項目を挙げている︒そこでは︑岩倉は港則及び港長問題も主要な問題として
挙げていた︒しかし︑一週間後に行われたイギリス外務卿グランヴィル︵OP°○°ρ芦く巨①︶との会談では︑開港場 ︵43︶ における規則制定権については協議されたが︑港則自体には触れられなかった︒ただし︑その際に駐英大弁務使とし
て同席していた寺島が日本と各国公使との間での意見の不一致により規則が制定されない現状に不満を述べたのに対
し︑パークスは現状に何も問題がないことを主張したことは記しておく必要があるだろう︒
岩倉使節団との交渉におけるデロングとパークスとの態度の相違は︑横浜における両者の立場を象徴するもので
あった︒おそらく︑デロングはプラントの提案に同意し︑パークスは同意しなかった︒開港以来︑イギリスは居留地
経営において一貫して主導権を握っていたが︑アメリカをはじめとする各国にはそのようなイギリスに対する反発も
あった︒また︑この時期は南北戦争における南軍支援問題をめぐって英米関係が悪化している時期でもあった︒
このような国際情勢を見誤り︑イギリスの影響力に依存した港湾行政を実施しようとした点で︑井関は判断を誤っ
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たといえよう︒だが︑列国との協同による港長の任命や港湾の管理を認めなかった点で︑井関は日本の行政権を列国
から守ることには成功した︒不平等条約は締結の段階だけでなく︑実行の段階においても主権侵害の恐れを常に秘め
ていた︒しかし︑一方でこのような条約の性質を逆手にとって︑日本の行政権を徐々に拡張していこうとする動きも
日本側には存在した︒その代表的存在とも言える大蔵省及び税関の動きについて︑次節では考察する︒
二.大蔵省の港湾政策
明治政府の発足当初︑税関業務は大蔵省ではなく開港場のある府県の主管であった︒これは︑神奈川奉行などの各
港奉行所が外交とともに関税徴収業務も取り扱っていたことに由来する︒横浜税関の前身である神奈川運上所が県か
ら分離されて大蔵省の管轄になったのは︑一八七一年一一月︵明治四年一〇月︶のことである︒同年一二月︵一一月︶ ︵44︶ には運上所職制が定められ︑検査・税額・収税・翻訳・庶務の五課が置かれる︒さらに︑七二年一二月︵明治五年一
一月︶には海陸監吏課を置いて密輸・脱税取り締まり体制を整え︑また同日には横浜税関を全国の税関を統括する本 ︵45︶ 局とすることも定められた︒
このような大蔵省による税関の体制整備は︑日本よりも先に西洋との貿易を経験している清国の事例を参考にした
ものであった︒七二年二月︵明治五年二月︶︑本野盛亨ら横浜税関の官吏三名が︑上海の税関規則・税関事務取り調 ︵46︶ べのため上海・寧波に派遣された︒随行員であった税関雇イギリス人ワトソンは︑帰国後井上馨大蔵大輔に清国の事 ︵47︶ 例を報告している︒
それによれば︑清国の税関︵海関︶は狭義の税関業務以外に︑港内規則︑水先案内︑水上警備︑灯台及び灯船業務
の四種類の業務も︑﹁租税に関する故に﹂取り扱っていたようである︒海関の組織は︑清国人の海関長と外国人の海
関副長︑その下に数名の清国人と外国人の補佐官とで構成されている︒ただし︑ワトソンは海関副長に脱税その他の
規則違反に対する処分権や︑職員の人事権が与えられていることには注意を与えている︒要するに︑清国の海関は︑ 外国人による実質的な管理の下︑港湾行政全般を取り扱う機関であったと言える︒
それでは︑日本の大蔵省は税関による港湾行政の一元化を目指していたのであろうか︒一八七三年一月︑大蔵省の
伺により﹁港内取魏則﹂が布告されてゾ紗・だが・この規則には︑﹁荷物或は荷足品を揚卸するときは︑波戸場の
順序揚卸の時間等総て其港に定めたる法則を守る可し﹂︵第七条︶とされているが︑港則を誰が定めるのかという点
については明らかでない︒そもそも︑この規則は国内船の船税統一を主目的としたもので︑﹁港内取締﹂を目的とし
たものではなかつ︵烈・あるいは・﹁港内取締﹂まで意図してはいたが︑開港場で実施することが困難であったために︑
断念したのかもしれない︒ともかく︑七三年の時点では税関による港湾行政一元化の意図は確認できない︒
しかし︑行政規則によって外国人を取り締まる必要があったという点では︑税関も地方官と同じ立場にあった︒税
関の活動に必要な規則の制定には︑条約により列国側に介入することが認められていた︒日填貿易章程第一一則には
以下のように規定されている︒
運上所諸取扱向荷物の陸揚船積及ひ船人足小遣等雇方に付︑開港場に於て是迄訴訟の起りし不都合を除かんか爲
に︑各開港場の長官速に外国のコンシュルと談判し双方協議の上︑右不都合決して生せざる様規則を立て︑日本人 む と外国人の交易並に其用向を可成丈都合能相便し且安全ならしむる様︑双方ここに議定せり︒
だが︑この規定ではどの規則が各国領事との協議の対象となるのかが判然としない︒そのため︑規則の制定権をめ
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ぐって列国と大蔵省.税関との間で駆け引きが繰り広げられることになった︒七三年二月デロングは︑各国領事の協
議を経ないで各開港場において税関規則が制定されようとしている点について苦情を申し入れて㌧罷︒また︑外国商
人が誤って関税を払いすぎてしまった場合の払い戻し期限についても︑横浜税関が一方的に布告したために列国側の ぼ 反発を招くことになった︒これら税関規則に関しては︑横浜税関が元イギリス領事ラウダ︵市゜︼いOをαO﹃︶を雇い入れ
て各国領事との協議にあたらせようとしたことも問題を複雑化させ︑この時点では実施することはできなかった︒
また︑税関の体制整備は港湾行政にも大きな関係を有していた︒開港場での密輸・脱税の取り締まりは税関にとっ
て重要な課題であったために︑密輸・脱税の取り締まりをめぐっても列国側との駆け引きが繰り広げられた︒
七三年九月︑神戸港でドイツ商船カッサントラー号︵∩①o力o乃曽目▲﹂﹁①︶が税関の許可を得ずに艀を使用したとして︑神 カ 戸税関によって積荷の陸揚げを差し止められる事件が起こった︒ はじむ ドイツ商社は直ちに領事に訴え出たが︑神戸税関長瓜生寅は領事の抗議及び損害賠償請求には応じず︑この事件
は外交問題に発展した︒
瓜生が強硬な姿勢をとった背景には︑この年八月に艀船規則を定めて税関の許可を得ない限りは港内艀業者に外国
船の貨物運搬を禁じ︑密輸取り締まり体制の強化に乗り出したところであったことが挙げら袈・しかし・この規則
は日本人所有の艀に対する規則であったため︑各国公使の承認を得なければ外国人所有の艀に適用することはできな
かった︒そこで︑瓜生は差し止めの根拠として︑﹁大坂兵庫間引船等ノ規則﹂の第七条﹁大坂或は兵庫に於て免許有
之御船へ荷物積込陸揚の儀は︑日本政府より差図せし波止場或は其爲に日本政府に於て免許有之伝馬船に限るへき
事﹂を持ち出した︒つまり︑大阪から来航する小蒸気船からの積荷陸揚げを取り締まることと︑港内碇泊船からの荷
物を陸揚げする艀を取り締まることは同義だとして・神戸税関の行動を正当化するのでむ鯉︒
ドイッ領事の訴えを受けた駐日ドイッ弁理公使プラントは︑副島種臣外務卿に対して︑﹁其心底更に道理相立不申
覆に論を不待事と髭﹂と・抗議に及ぶ・プラントの主張は︑﹁大坂兵庫間引船等ノ規則﹂を港内の艀に適用する
ことは不当である上に︑そもそも領事との協議を経ずに外国人所有の艀を差し止めた瓜生の行動が貿易章程に違反し
ている︑というものであった︒しかし︑瓜生はひるまず︑同月には同じ理由でイギリス人所有の艀の使用を差し止め ハ る︒そのため︑副島の下にはパークスからの訴えも舞い込むことになった︒
そこで︑副島は大蔵省に事件の経緯について問い合わせる︒これに対して︑大蔵省事務総裁であった大隈重信は︑
以下のように反論して瓜生を擁護する︒
⁝⁝元来同港の景況は海岸広大にして︑平素密商脱荷の義不少︒故に昨年来追々取締の規則を取設︑艀渡世の者共
え税関より船毎に旗章相渡置営業差許来候処︑同港居留外国人の中︑狼りに日本形艀数艘を所持し税関の免許を不
得︑各国諸船艦え貨物搬運或は自己の貨物を致輸送候者有之︒其儘差許候時は港内一般取締不相立︑終に密商脱税
の弊害醸出可致︒畢寛貿易規則第十一条にも掲載の通︑日本吏人各港に於て密商及禁制の品出入を防ぐ爲︑至当の 規律を可設との明文有之︒左すれば港内取締の爲規則を設百素り日本政府の特権にて異議可申立筈無之︑⁝⁝
大隈は︑神戸港において密輸や脱税が横行している現状を述べた上で︑条約には密輸.脱税取り締まりのための規
則の制定権が日本側の権利と規定されていることを指摘し︑外国人所有の艀を差し止めた瓜生の行動を正当化する︒
しかし︑副島に代わって外務卿に就任した寺島は︑この大隈の論理に与しなかった︒寺島は︑﹁日本官吏各港に於
て好曲井密商を防ぐため至適の規律を設くべしと云ヶ条⁝⁝ありと難とも︑唯た好曲密商を防く手便をなす而巳の義
不平等条約の運用と港湾行政︵一︶ ︵都法四十六ー二︶ 四二七
四二八
にて︑全く手船を以て荷物陸揚等不相成様彼の権利に関する規則を可設ヶ条には無髭﹂と・密輸゜脱税取り締まり
のためとはいえ︑外国人の権利に関する規則については︑外国側の了承が必要との認識であった︒
大隈は賠償金の支払いを避けるようにさらに食い下が蕊・寺島は聞き入提・結局翌七四年二月ドイッ商社に賠
償金を支払うことを大隈が受け入れることでご﹂の問題は決着し控・
以上の経緯から︑大蔵省・税関は密輸・脱税の取り締まりを通じて港湾行政への介入を深めていったことがわか
る︒そして︑大蔵省は港湾のインフラ整備にも積極的に関わっていく︒横浜港では開港以来波止場を次々と築造し
て︑増え続ける貿易量への対応を図っていたが︑抜本的な対策が常に迫られていた︒そこで︑七二年六月二日︵明治
五年四月二吉︶井上馨大蔵大輔らは︑波止場増設の伺を正院へ提出蘂・井上は・﹁横浜港塗竿潮の時は遠浅相
成︑大船巨舶運搬自由を得す︒依て来港の船遠方に碇泊致し候に付︑監船吏の者共尋問往復共冗費不少﹂と横浜港の
現状を述べ︑密輸.脱税取り締まり体制強化のために︑およそ一〇万ドルの費用を見込んで埠頭建設を願い出るので
ある︒
さらに︑七四年五月三百には大隈大蔵卿が橿浜港大波戸場新築之儀一元伺Lを太政大臣に提出遼・この伺で
は︑﹁横浜港之儀は海岸干潮時之遠浅相成︑入港之大船巨舶運搬自在を不得遠方に碇泊いたし候に付︑船舶不便は勿
論尋問其他監吏往復等に就き其冗費も不少︑到底損失に属候︒﹂と︑七二年の伺と同様︑密輸・脱税取り締まり体制
の強化も挙げる一方で︑﹁近来同港貿易之景況昔日に異り漸次盛大に趣︑元来同港之儀は全国之首港にして船舶之出
入も他港に数倍す︒此首港にして此設無之ては船舶之不便は今更申迄も無之︑到底貿易不振之一点に帰着可致と存
候︒﹂と︑増大する貿易への対応にも留意している︒
従来は︑これら二つの波止場築造の伺は貿易促進の側面でのみ捉えられてい嘉・当時の大蔵省が直面していた課
題を考慮すれば︑密輸・脱税取り締まり体制強化という側面も強調する必要があるだろう︒神戸での一件からも窺え
るように︑密輸・脱税取り締まりのために艀を税関の管理下に置くことは非常に困難なことであった︒そして︑税関
が艀の管理に固執したのは︑大船が接岸できるような埠頭がなかったためであった︒接岸埠頭︵大波戸場︶が完成す
れば︑直接外洋船舶への貨物の積み卸しが出来るために艀の必要性は大幅に減少する︒大波戸場の築造は︑物流の利
便性を高めると同時に税関の監視能力を大幅に強化する効果を持つために︑大蔵省にとっては重要な問題となったの
である︒ 大蔵省による二つの大波戸場築造の伺は︑七二年は工部省︑七四年は内務省と︑それぞれ土木事業を所管する省へ と廻され︑設計案などの調査を受けたが︑いずれも巨額の費用が問題になり︑実行には移されなかった︒
このように港湾行政への関与を次第に強めていった大蔵省であったが︑港則それ自体への関与は慎んでいた︒それ
を示すものとして︑一八七四年の﹁兵庫港港則並二海関規則案﹂への大蔵省の対応が挙げられる︒神戸港では︑横浜
港とは異なり港則案と税関規則案とを兵庫県が作成し︑各国領事と合意に達していた︒一八七四年三月九日︑兵庫県 令神田孝平は寺島外務卿に港則案を送り︑その施行を願い出ている︒この規則案には︑港則部分が一七条︑附録とし
て海関規則六条が規定されており︑港の境界︵第一則︶︑碇泊位置に関する港長の権限︵第三則・第八則︶︑不法投棄
の禁止︵第四則︶︑伝染病患者乗り組み船舶への対処︵第一二則︶などが定められている点では︑先の﹁横浜港内規
則﹂と同様であった︒両者が大きく異なる点は︑入出港手続を海関が行う点︵第二則・第一〇則︶と︑港長の選任方
法が明確に定められている点︵第一四則︶であった︒すなわち︑﹁港長と称するは﹇此規則等を執行するため﹈条約
既済国駐剤の官吏等同意にて兵庫県令より其職任を受けし人と心得へし﹂と︑定められてあったのである︒
そもそも︑神戸港では七一年四月︵明治四年二月︶の時点で︑イギリス人港長マーシャル︵旨家9ぎ芭を各国領
不平等条約の運用と港湾行政︵一︶ ︵都法四十六ー二︶ 四二九
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︵70︶ 事合意の下︑雇い入れることに成功している︒同年三月末︑各国領事は港則については協議を尽くす必要があること ︵71︶ を強調しつつも︑マーシャルの雇い入れには応じたのであった︒
兵庫県からの上申を受けた外務省は各国公使との調整に入るが︑附録部分で海関規則を定めていたために︑大蔵省
は規則案を取り調べることを求めることになる︒三月二〇日︑大隈大蔵卿は兵庫港則には﹁税関に関係せし事務数件 び 有之﹂ため︑各国公使との協議は待ってほしい︑との要望を外務省に対して行う︒結局内務省も協議に加わり︑六月
七日には三省が協議した結果︑神戸港則案が完成する︒
大蔵省はまず︑海関規則は貿易章程と関係するため︑条約改正の期日も近いので改正の際に定めるべきだとし︑附
︵73︶ 録を外した︒そして︑入出港届けは﹁海関に出されても不都合﹂として︑地方官が受理することを提案している︒そ
の一方で︑第一〇則の出港手続きに関して︑大蔵省は﹁出港免状を請けたる後と難も︑海関の免しを得れは荷積荷卸
は成るなり︒又船中の事は都て其船長の責任なれは︑何ぞ此事のみ督責を船長に帰すると謂ん︒且此の条港内規則に
関する事件にも非されは︑除て可ならんか﹂と︑港湾行政において地方官の所管事項と税関の所管事項を厳密に区別
することを求めている︒
以上のことから︑七〇年代前半を通じて大蔵省は︑密輸・脱税取り締まり体制整備をめぐって列国側に対して強硬
姿勢をとる一方で︑密輸・脱税取り締まりに必要な範囲内で港湾行政にも積極的に取り組んでいた︑といえる︒そし
て︑大蔵省は︑港湾行政に関しては地方官が所管する港則事務と税関事務との区別を明確にし︑港則事務への介入は ︵74︶ 慎んでいたのである︒
さて︑三省協議の結果まとめられた神戸港則は︑その後各国公使により協議されたようであるが︑結局は実施には ︵75︶ 至らなかった︒港則の実施は︑結局は外務省による外交交渉に委ねられる︒したがって︑港則実施過程を追うために
は外務省の動きを追う必要があるのだが︑その前に港則・港長の不在がどのような状況を生み出したのか︑横浜港の
様子を追っていくことにしたい︒
三.神奈川県と横浜税関
明治政府の外交機関としての性格も持ち合わせていた神奈川県の機構が︑他の府県同様に県治条例に従った形に ︵76︶ なったのは︑一八七二年のことである︒しかし︑日本最大の国際貿易港を持ち︑また外国公館が多く存在するという
性格上︑神奈川県は純然たる地方庁にはなり得なかった︒居留民や外国商人との紛争が持ち込まれるのは地方庁であ
り︑その意味で神奈川県は日本外交の最前線に位置していた︒神奈川県をはじめとして︑各開港場のある府県の地方
官や税関官吏は︑そのような自負に溢れていた︒彼等は外国人との間の紛争を恐れず︑時に行き過ぎとも思える行動
をとった︒
七二年七月に神奈川県権令に就任した大江卓もその一人である︒大江は︑港則の制定交渉が一向に進まないのを見 ︵77︶ て︑独自に日本船向けの港則を制定することを企図する︒大江の狙いは︑横浜港内での内外国船の碇泊位置を区別
し︑日本船を管理下に置くことであった︒ところが︑この日本船向け規則の制定も円滑に進んだ訳ではなかった︒
日本船と外国船との碇泊場所を区別するためには︑日本波止場を拡張・整備しなくてはならなかったのだが︑その ︵78︶ 波止場工事に対してフランス公使館が抗議するのである︒当時︑横浜では外国人居留地と日本人街が分離されていた
のだが︑開港当初はそのような区分けができておらず︑その名残でフランスの公使館をはじめ︑オランダ・ドイツの
領事館も日本波止場前におかれていたのである︒七二年八月︵明治五年七月︶︑神奈川県による波止場拡張工事に対 ︵79︶ して︑フランス公使館書記官デュブスヶ︵﹀°ひ﹂︶已u︒︒5唱旦が眺望を妨げるとして︑外務省に抗議する︒
不平等条約の運用と港湾行政︵一︶ ︵都法四十六−二︶ 四一一二
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四三二
外務省は神奈川県に問い合わせるが︑これに対して大江は﹁今般当港之規則取極候に付ては御国船は右規則を循守
難致差支筋有之︑彼我之船舶を分割し互に支吾不致様︑既に造築に取懸居候⁝⁝﹂と︑今回の波止場造成が日本船向
け港則の制定のために必要な措置であることを強調する︒そして︑フランス公使館からの眺望﹁を以て当地一般之港
則相立候を今更替換仕候儀は難致候⁝⁝﹂と︑工事中止要請を拒絶することを上申する︒外務省がどのようにしてフ
ランス公使を説得したのかは明らかでないが︑居留地の地方官憲が常に列国の干渉にあっていたことの一つの事例と む いえよう︒同年一二月五日︵一一月五日︶には﹁横浜港日本船碇泊規則﹂が太政官より布告された︒
この碇泊規則は全一一条からなるもので︑一八七〇年の﹁横浜港内規則﹂と比べると非常に簡素なものであった︒
入出港手続き︵第二条・第三条︶や積荷の揚げ卸し時間の制限︵第四条︶︑塵芥の不法投棄の禁止︵第六条︶などは
規定されていたが︑港長の指揮権や伝染病患者乗り組み船舶への対処などは規定されていなかった︒この規則の実施 ハび を申請した大蔵省伺には︑﹁尤此規則は追々整理に至候様取調方も可有之候へとも先以試験労同県伺の通御准允相成
候様致度﹂と述べられていることから・この規則は試験的な意味合いが強いものであったξ︒うことがで羅・とも
あれ︑内外船を分離することによって︑神奈川県は日本船をその管理下に置き︑また外国船と日本船との紛争を避け
ることが可能になった︒
七四年一月に横浜税関長に就任した星亨も︑外国人に対して強硬な姿勢で臨んだ地方官憲の一人であった︒当時︑
横浜港には三つの波止場があったが︑外国人にその使用が認められていたのは︑東波止場と西波止場の二つであっ
た︒この二つの波止場以外の場所からの貨物の積み卸しは︑密輸・脱税取り締まりのためには不都合であり︑七〇年
四月二五日︵明治三年三月二五日︶の神奈川県布告により禁止されていた︒この布告には︑﹁海岸に階子を掛有之処
より小荷物携へ乗船致し候者有之︒階子掛置候ては不取締に付︑今廿五日より一週間之間階子取払可申︒若右日限相
︵84︶ 過候ても不取払候は・取上け可申⁝⁝﹂と︑岸壁に梯子をかけることを禁止していた︒
しかし︑実際には居留外国人たちは自らの都合のよい場所に梯子をかけて自由に船舶と陸地とを行き来していたよ
うである︒横浜税関も密輸・脱税取り締まりには力を入れており︑七四年四月二五日︑アメリカ太平洋郵船乗組員が
波止場以外の場所から上陸しようとして捕らえられる︒また同月二九日︑イギリス人デール︵百二≦°OβΦ︶が同様に
乗船しようとして税関監吏に差し止められた︒さらに︑正確な日時は不明であるが︑ロシア人某も同様に上陸を差し
止められる事件が発生した︒これらの事件はいずれも税関監吏の制止を外国人側が振り切ろうとしたために︑暴行事 ︵85︶ 件へと発展した︒
これを受けて︑外国領事側も横浜税関に対する反発姿勢を見せる︒五月一日イギリス領事ロベルトソン︵戸
力oげ6旨8︶は︑七〇年の布告は貨物の積み卸しを禁じたものであり︑荷物を持っていないデールが税関に差し止め ︵86︶ られたのは不当である︑と抗議に及ぶ︒ロシア領事は五月八日︑横浜居留自国民に対して︑明治三年の神奈川県布告 ︵87︶ は﹁外国領事の承諾を経すして発したるものに付︑魯国人民に於て右を践守するに及はす﹂との布告を出す︒アメリ
カ領事は反発姿勢を示さなかったが︑英露両国領事の強硬姿勢に星は対応を迫られる︒
同月二日︑星は監吏に向けて﹁⁝⁝言語を以て差留め︑強て通過するものは其名札を請求すへく︑是又有せさるも ︵88︶ のは其儘に差置都度景況を届出候様可致﹂と通達して︑波止場以外の場所から上陸する外国人を無理に取り押さえる
ことはやめ︑各国との紛争が続発することを避ける一方で︑同月六日ロベルトソンに対して︑七〇年の段階では各国 ︵89︶ 領事からの異論がなかったことを指摘して税関監吏の正当性を主張した︒
しかし︑ロベルトソンは星の回答には納得せず︑パークスへ訴え出る︒パークスは寺島に対して抗議に及ぶが︑星
も負けていなかった︒星は租税権頭松方正義に宛てて上申し︑各国公使に屈しないよう訴えた︒さらに︑同月一九日
不平等条約の運用と港湾行政︵一︶ ︵都法四十六⊥一︶ 四三三
四三四
︵90︶ にも星は寺島に直接書簡を送り︑各国公使に屈しないよう訴えている︒しかし︑このような星の働きかけにも拘わら
ず︑寺島が各国公使との交渉に乗り出すことはなかった︒それどころか︑翌二〇日には三条実美太政大臣より大蔵内 ︵91︶ 務両省に対して達が出され︑手荷物を持っていなければ波止場以外の場所からの上陸が認められることになった︒
しかし︑税関のみならず大蔵省もこの件に関しては不服であったようである︒大久保利通内務卿は即日中島信行神
奈川県令に達したが︑大隈大蔵卿はそうではなかった︒翌日︑中島からの連絡を受けた星が︑松方に対して﹁未た本
︵92︶ 寮の御達無之﹂と︑その真偽を尋ねている︒星は続けて︑なおも波止場以外の場所からの上下船を認めることに抗議
する一方で︑妥協案として荷物を持っていない者専用の上陸場︑﹁波止場外上陸場﹂を東西両波止場の間に設置する
ことを提案する︒これは︑先に述べた大蔵省による波止場築造の動きに呼応したものと考えられるが︑実現には至っ
ていない︒
こうして︑星をはじめとする横浜税関の密輸・脱税取り締まりへの強硬姿勢は実を結ぶことはなく︑結局は元の姿
に戻ってしまった︒さらに悪いことに︑このような姿勢は外国側の反発を招くだけでなく︑日本政府にも忌避される ︵93︶ ところとなった︒星は︑その強硬姿勢に対する外国側の反発により︑同年七月にはその職を追われることになる︒ま ︵94︶ た︑七五年六月には税関の所管であった港内艀の監督権は︑地方庁へと移されてしまう︒以後︑横浜港内の艀に関す
る取締規則は神奈川県が布告することとなったが︑その改正の度に税関と協議したため︑実際にはその後も変わるこ ︵95︶ となく税関による取り締まりが続いたようである︒
しかし︑このような不透明な管理体制は両者の対立関係を引き起こす︒その兆候を示す事件の一つが︑一八七六年
六月に起きたイルマ号︵胃日①︶事件であった︒
イルマ号事件とは︑輸出米積み込みのために横浜より品川へと回航していたドイツ商船イルマ号が横浜へ再入港し
たにも拘わらず税関へ届け出ず︑さらに出港届けを出すこともなく︑品川への回航免状とドイツ領事が発行した出港
免状のみを携えて出港してしまった事件である︒貿易章程では︑外国船舶は各開港場に入出港する際に税関に届けを ︵96︶ 出すことが定められていた︒しかし︑ドイツ領事は横浜港の境界が画定されていないことを楯にとってイルマ号は入 ︵97︶ 港していないと主張したために︑港の境界画定問題が浮上する︒
七〇年の﹁横浜港内規則﹂では︑港の境界については﹁八王子岬より北東の東寄に向ひ灯明船迄直線を引き︑又右
灯明船より鶴見川口迄直線を引て之を港の界限﹂と定められていた︒そして︑大隈大蔵卿によれば︑この境界は内外 ︵98︶ 国人ともに認めるところであり︑慣例化していたようである︒ところが︑このときドイツ領事は八王子岬から鶴見川
口までの直線を港の境界として主張したため︑港則が不在であることの弊害が顕在化したのであった︒
横浜税関にとって︑この問題は見過ごすことのできない重要な問題であった︒なぜなら︑各国領事がこのように
各々で港の境界を主張すれば︑税関での入出港手続きが有名無実のものとなり︑密輸・脱税取り締まりのために大き ︵99︶ な障害となるからである︒六月二四日︑横浜税関長柳谷謙太郎は大蔵省に上申を送る︒柳谷は︑品川回航の免状とド
イツ領事が発行した出港免状のみをもって出港したイルマ号︑及び税関の証書を得ずに出港免状を発行したドイツ領
事を強く非難する︒そして︑大蔵省に対して港の境界を画定することを求めると同時に︑陸地と交通できる位置にあ
る全船舶を税関の所管とするよう求めている︒訴えを受けた大蔵省は︑同月三〇日外務省にドイッ公使との交渉を要
望した︒ 柳谷の主張は︑港内船舶の監督権を主張してこなかったこれまでの大蔵省・税関の姿勢から大きく踏み出したもの
であった︒港内船舶の監督は︑これまで地方庁が取り扱ってきた問題であり︑少なくとも日本船に関しては神奈川県 ︵㎜︶ の管理下に置かれていた︒また︑港内艀の監督権も地方庁へ移されている︒したがって︑﹁港内一般の取締事務﹂は
不平等条約の運用と港湾行政︵一︶ ︵都法四十六⊥一︶ 四三五
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四三六
神奈川県に属していたといえる︒柳谷の主張は︑このような従来の港湾管理体制を大きく変える可能性を有してい
た︒ では︑神奈川県はこの事件に対してどのような反応を示したのであろうか︒同年一二月︑事件を受けて神奈川県権 ︵皿︶ 令野村靖は内務卿大久保利通に港内の現状を報告している︒それによれば︑﹁港内外区分の義は︑従前仮定する径界
の通相定め変換不致とも可然見込みに候﹂と︑港の境界及び内外船碇泊所区分は慣習として守られていたようであ
︵201︶
る︒これに加えて︑野村は﹁他日於御省規則御設立相成候は・御確定已前一応御訊議被下度⁝⁝﹂と述べ︑内務省に
よる港則設立の際には参加させるよう求めている︒したがって︑神奈川県も﹁港内一般の取締事務﹂には意欲を示し
ていたといえる︒
報告を受けた大久保は︑港長の件はしばらく置き︑列国の抵抗が少ない港の境界だけでも画定したい︑と寺島外務
︵皿︶ 卿に要望する︒しかし︑寺島は大蔵省及び内務省の要望に応じて各国公使と交渉することはなかった︒したがって︑
不透明な管理体制が存続することとなり︑両者の対立は避けられなかった︒
もっとも︑県庁と税関は常に対立していたわけではない︒先にも述べたように︑艀に関する規則の制定・改正にあ ︵伽︶ たっては︑両者の間で協議して決めていた︒八一年に改定された﹁運送船客船並船夫取締規則﹂には︑港内水域を県
庁と税関とで共同管理することが規定されている︒また︑港内での廃棄物の不法投棄の取り締まりに関しては︑県庁 ︵鵬︶ は殆ど税関に依存していたと言ってよい︒しかし︑八〇年代半ば以降神奈川県の港内取締り体制が整備されていくに
つれて︑﹁港内一般の取締﹂と密輸取り締まりとが次第に抵触するようになり︑その整理が求められるようになる︒
特に争点になったのは︑回航手続きの問題と艀の碇泊位置許認可の問題であった︒
当時︑横浜港内には船舶を修理するための施設はなく︑横浜港に碇泊している船舶が修理を行うには横須賀か東京
石川島へ回航する必要があった︒しかし︑横須賀も石川島も不開港場であるので︑外国船が回航するためには日本側
の許可を得なければならない︒横須賀へ回航する場合には︑その船舶の所属国領事が神奈川県庁へ届け出て県庁が免
許を発行することになっていたが︑石川島へ回航する場合は七七年二月の大蔵省布達により横浜税関へ届け出ること
になっていた︒これは︑東京築地が開市場であり貿易が行われていたために︑築地と目と鼻の先にある石川島へ回航
する船舶を税関が管理下に置こうとしたものと考えられる︒このことに県庁が気付いたのは︑八四年一二月のことで
︵601︶