ル ア リ ー ・ ウ ア ・ コ ン ポ ヴ ァ ル と 二 人 の 侵 入 者 た ち
1中世後期アイルランドの政治的変容に関する一考察1
田 中 美 穂
はじめに
アイルランドは︑一二世紀後半に大きな政治的変容を経験する︒いわゆるアイルランドにおける﹁ノルマン征服﹂が
起こったのである︒レンスター王ディアルミド・マク・ムルハダがイングランド王ヘンリー二世の許可を得て︑ペンブ
ルック伯リチャード・フィッツ・ギルバート・ド・クレア(別称﹁ストロングボウ﹂)を娘婿としてアイルランドに招聰
したことがきっかけであった︒以後︑イングランド王の配下にある貴顕たちが次々とアイルランドに到来したばかり
か︑一一七一〜七二年にはヘンリー二世も自らアイルランドの土を踏むこととなった︒レンスター王ディアルミドは︑
一一六六年にコナハト王ルアリー・ウア・コンポヴァルとの戦いに敗れてヘンリーに支援を求めたのであった︒ルアリー
は︑当時の年代記史料で﹁アイルランドの上王(9同α円{昌ー団門0目)﹂﹁アイルランド王(阜卑95)﹂と称される人物であり︑
一一七五年にヘンリー二世とウィンザー条約を締結して︑ミーズとレンスター以外を支配地域として保持することにな
ルアリー・ウア・コンポヴァルと二人の侵入者たち(田中)二二
メトロポリタン史学九号二〇一三年一二月一四
る︒
当時だけではなく︑中世を通じてアイルランドには複数の王がおり︑統一王権は存在しなかった︒アイルランドは︑北
西部のコナハト︑北東部のアルスター︑ダブリンを含む中心部のミーズ︑南東部のレンスター︑南西部のマンスターと
五つの地方に分かれ︑各地方の王がそれぞれ存在した︒各地方の王の配下にも︑より小規模な地域を治める王や有力な
一族の王がいた︒それゆえ各地方の王は︑たとえば﹁コナハト王﹂や﹁コナハトの上王﹂(﹁上王﹂は︑英語では.三αq7家昌σq︑
ないし.︒<9匹コσq︑と記される)というように呼ばれる︒さらに︑各地方の王のなかで︑とくに勢力を誇った王に対して
は︑ルアリーがそうであったように︑﹁アイルランドの上王﹂や﹁アイルランド王﹂の称号も加えられる︒このような称号
を与えられた王は︑一時的であれ︑自分の地方だけではなく他の地方やその地方の王も配下に置くことができた王であ
る︒当時︑ルアリーが︑イングランド王ヘンリー二世も認めるアイルランドを代表する王であり︑権力者であったことは
確かである︒
本稿では︑ルアリー・ウア・コンホヴァルとアイルランドにやって来た貴顕(アイルランド側から見れば﹁侵入者﹂)た
ちとの政治的関わりを彼らの子孫も含めて考察する︒具体的には︑ルアリーと︑﹁アルスターの征服者﹂ジョン・ド・カー
シー︑ヘンリー二世によってミーズに広大な土地を与えられたビュー・ド・レイシーの三人を取り上げる︒ルアリーは当
時もっとも有力であった現地のアイルランド人の王であり︑ジョン・ド・カーシーはイングランド王権に頼らずに﹁アル
スターの征服者﹂となった人物であり︑ビュー・ド・レイシーはイングランド王権を背景にアイルランドの中心部の領主
となった人物である︒アイルランド側から見れば︑彼ら三人はそれぞれ︑当時もつとも有力であった現地の王︑イングラ
ンド王権の意向ではなく単独で侵入した者︑イングランド王権と直接結びついた侵入者として分類できる︒しかし︑後
述するが︑後者二人の侵入者とイングランド王権との関係は次第に変わっていく︒本稿で侵入者の代表として︑ジョン・
ド・カーシーとビュー・ド・レイシーを取り上げる理由は︑彼らが早い段階からアルスターやミーズといった広範囲の
領土を獲得した重要な人物であったからだけではなく︑イングランド王権の庇護を得ていたか否かという点で対照的で
あ っ た か ら で あ る ︒ ま た ︑ そ れ ぞ れ ル ア リ ー と の 接 点 も 認 め ら れ る ︒ 当 時 の 重 要 人 物 三 名 に し ぼ っ て ︑ 彼 ら 三 者 三 様 の 複
雑 な 政 治 的 関 係 を ひ も 解 い て い く こ と で ︑ 中 世 後 期 ア イ ル ラ ン ド に お け る イ ン グ ラ ン ド 勢 力 に よ る 侵 攻 や 支 配 の 実 態 の
一 端 が 明 ら か に な る で あ ろ う ︒
一 ﹁ ア イ ル ラ ン ド の 上 王 ﹂ ル ア リ ー ・ ウ ア ・ コ ン ポ ヴ ァ ル
最初に︑本稿の中軸となる人物ルアリー・ウア・コンポヴァルについて取り上げるとともに︑イングランド王やブリテ
ン島の貴顕たちがアイルランドに侵入する過程にも言及していく︒ルアリーは=一六年頃に生まれ(=二〇年頃の説
もある)︑=九八年に死去した︒当時の王としては異例の長寿であったといえよう︒ルアリーは︑父トルデルヴァハが
=五六年に死去したことによってコナハト王となった︒ルアリーは︑ミーズ︑マンスター︑レンスター︑アルスターと
アイルランド全土に遠征に出かけ︑各地で人質を取ったり︑集会を開いたり︑税(牛)を徴収したりしている︒一一六六
年にはダブリンで﹁アイルランド(上)王﹂として即位する︒同年︑レンスターでディアルミド.マク.ムルハダと戦ってゆ勝利を収めた︒一方のディアルミドは︑亡命を余儀なくされてヘンリー二世に支援を求めることになったのである︒
ディアルミドはヘンリーの滞在地アキテーヌにまで赴いたが︑南ウェールズで兵を募る許可を得ただけでヘンリー自
身の直接的な支援は受けられなかった︒二六七年にディアルミドは︑異国人をともなって帰国した︒さらに=六九年
以降︑ヘンリー二世の家臣である貴顕たちがディアルミドの招聰によってアイルランドに渡って来るようになった︒そ
のなかの一人︑ペンブルック伯リチャード・フィッツ・ギルバート・ド・クレアは︑ディアルミドの娘婿となることでディ
アルミドの継承者ともなったのである︒海を越えてアイルランドにやって来た貴顕たちは︑ノルマンディーをはじめと
するヨーロッパ大陸やイングランドやウェールズに土地をもつ領主であった︒彼らは︑アイルランドで新たな土地を獲
得すべくやって来たのであった︒
ルアリー・ウア・コンポヴァルと二人の侵入者たち(田中)一一五
メトロポリタン史学九号二〇一三年一二月一六
海 外 出 身 の 貴 顕 た ち と 戦 う こ と に な り ︑ ル ア リ ー ・ ウ ア ・ コ ン ポ ヴ ァ ル は 劣 勢 に 立 た さ れ た ︒ = 七 一 年 に は ︑ 同 年 に
死 去 し た デ ィ ア ル ミ ド の 跡 を 継 い だ ペ ン ブ ル ッ ク 伯 リ チ ャ ー ド に ダ ブ リ ン で の 戦 い で 敗 れ た ︒ 家 臣 で あ る リ チ ャ ー ド が
ア イ ル ラ ン ド で 権 力 を も ち 過 ぎ る こ と を 警 戒 し た ヘ ン リ ー 二 世 も ︑ よ う や く こ こ に 来 て ア イ ル ラ ン ド に 遠 征 す る こ と に
な っ た ︒ ヘ ン リ ー は 半 年 間 の ア イ ル ラ ン ド 滞 在 中 に ︑ ア イ ル ラ ン ド に 侵 入 し た 自 身 の 家 臣 た ち に イ ン グ ラ ン ド 王 の 上 級
支 配 権 を 確 認 さ せ る と と も に ︑ ア イ ル ラ ン ド 人 の 王 た ち に も か た ち だ け で は あ っ た が 忠 誠 を 誓 わ せ ︑ 彼 ら を 家 臣 と し た ︒
ゆしかし︑ルアリーだけはこの時︑ヘンリーに服従しなかった︒
それゆえ︑一一七五年に両者はウィンザー条約を結ぶことになった︒イングランド王ヘンリーの目的は︑ペンブルック
伯リチャード・フィッツ・ギルバート・ド・クレアのようにアイルランドで権力をもつことになった貴顕たちを牽制する
ことにあったので︑彼らが進出したアイルランド東部(ミーズやレンスター)は王自身の支配領域に置いた︒一方︑アイ
ルランドの他の地方は︑ルアリーに任せるかたちとなった︒ルアリーはヘンリー二世を自身の上級領主として認め︑ヘン
リーに貢納することとなったが︑ルアリー自身の本拠地コナハトを含む︑マンスター︑アルスターといった残りの地方で
は他のアイルランド人王たちに対して上王ないし上級領主として君臨することができたのである︒さらに︑ヘンリー二
世︑つまりイングランド王権が︑貴顕たちのアイルランド侵入に対してルアリーを保護するという取り決めまでなされ
た︒以上︑ウィンザー条約の内容から︑ヘンリー二世が︑この時点でコナハト王ルアリーを別格にあつかっていたことが
わかる︒ルアリーは︑他にも多数いるアイルランド各地の現地の王たちに比べて︑明らかに優遇されている︒
ヘンリーは︑自ら南ウェールズの総督に任命したデハイバースのリース・アブ・グリフィズのような役割をルアリー・
ウア・コンポヴァルに期待したようであるが︑アイルランドでのその試みはうまくいかなかった︒つまり︑ヘンリーは︑
ウェールズにおいては北部や辺境地域︑アイルランドにおいては東部になるが︑要地は自身の家臣に統治させ︑他の地
域を現地の有力な王に委ねる戦略をとった︒しかし︑対抗者がいなかったリースと異なり︑ルアリーの支配は安定しなゆかった︒ジョン・ド・カーシーの=七七年のアルスター侵攻を防ぐことができなかったように︑ヘンリー二世に任され
た 地 域 を す べ て 完 全 に 自 身 の 支 配 下 に 置 く こ と は か な わ な か っ た の で あ る ︒ = 七 六 年 に ペ ン ブ ル ッ ク 伯 リ チ ャ ー ド が
死 去 し た こ と も あ り ︑ ヘ ン リ ー は す ぐ に 方 針 を 変 え ︑ = 七 七 年 の オ ッ ク ス フ ォ ー ド で の 集 会 で 末 子 ジ ョ ン を ﹁ ア イ ル ラ
ン ド 領 主 ﹂ に す る こ と を 決 定 し た ︒ 一 一 八 五 年 の ジ ョ ン 王 子 の ア イ ル ラ ン ド 遠 征 は 失 敗 に 終 わ っ た も の の ︑ ウ ィ ン ザ ー 条
ゆ約 で ル ア リ ー の 支 配 下 に 置 か れ た 地 域 に も ヘ ン リ ー 二 世 や ジ ョ ン 王 子 の 家 臣 が 派 遣 さ れ ︑ 定 住 す る よ う に な っ て い く ︒
ル ア リ ー は ︑ 一 一 七 〇 年 代 以 降 ︑ ブ リ テ ン 島 か ら や っ て 来 た 侵 入 者 た ち と 戦 う 必 要 が 生 じ た わ け で あ る が ︑ ア イ ル ラ ン ド
人 の 他 の 地 域 の 王 と の 戦 い や 身 内 同 士 で の 戦 い に も 挑 ま な け れ ば な ら な か っ た ︒ 高 齢 に 達 し た ル ア リ ー は ︑ = 八 三 年
に は 息 子 コ ン ボ ヴ ァ ル ・ マ イ ン マ ゲ に コ ナ ハ ト 王 位 を 譲 っ て コ ン グ 修 道 院 に 隠 居 し た ︒ し か し ︑ 一 一 八 五 年 頃 に 修 道 院 を
出 て 息 子 と 一 戦 を 交 え た ︒ 若 き 日 の ル ア リ ー は 父 ト ル デ ル ヴ ァ ハ と 対 立 し て い た が ︑ 老 い て の ち 自 分 の 息 子 と も 対 立 す
る こ と に な っ た の で あ る ︒ 二 八 五 年 か ら 息 子 コ ン ポ ヴ ァ ル ・ マ イ ン マ ゲ が 死 去 す る = 八 九 年 ま で ︑ 父 と 息 子 は 争 い を
㈲く り 返 し た ︒
年 代 記 に よ る と ︑ 最 晩 年 ︑ ル ア リ ー は 再 び コ ン グ で 修 道 生 活 を 送 っ て い た よ う で ︑ = 九 八 年 に 同 修 道 院 で 天 寿 を 全
う し た ︒ 遺 体 は ク ロ ン マ ク ノ イ ズ 修 道 院 に 運 ば れ ︑ そ こ で 埋 葬 さ れ た ︒ 上 述 の よ う に ︑ ル ア リ ー は ︑ 彼 の 死 を 伝 え る 諸 年
代 記 で ﹁ ア イ ル ラ ン ド 王 ﹂ ﹁ ア イ ル ラ ン ド の 上 王 ﹂ と 称 さ れ る の で あ る ︒ 統 一 王 権 が 存 在 し な か っ た ア イ ル ラ ン ド に お い
て ︑ 年 代 記 に 用 い ら れ る 称 号 を 文 字 通 り に 受 け 止 め る こ と は で き な い ︒ し か し ︑ ル ア リ ー は ︑ 年 代 記 の 記 述 や ウ ィ ン ザ ー
条 約 の 内 容 が 証 明 す る よ う に ︑ 確 か に 二 六 六 年 か ら 二 八 三 年 頃 ま で は ア イ ル ラ ン ド 人 で も っ と も 優 勢 な 王 で あ っ た
と い え よ う ︒
二 二 人 の 侵 入 者 ー ジ ョ ン ・ ド ・ カ ー シ ー と ヒ ユ ー ・ ド ・ レ イ シ ー 1
次に︑ジョン・ド・カーシーとビュー・ド・レイシーの人物像をそれぞれ見ていく︒
ルアリー・ウア・コンポヴァルと二人の侵入者たち(田中)一一七
メトロポリタン史学九号二〇=二年一二月一八
ジョン・ド・カーシーは二五五年頃に生まれ︑一二一九年頃に死去した︒彼の一族はノルマンディー西部の出身で︑
一〇六六年のノルマン征服後すぐにイングランドに土地を得てサマセットを拠点としていた︒ド・カーシー自身がアイ
ルランドの年代記に記録されるのは二七七年以降であり︑それまでの彼の経歴については不明な点が多い︒=七七
年︑ド・カーシーはアルスター地方に侵攻してダウンバトリックを占拠し︑アルスター東部を支配下に置いた︒それゆえ
彼は﹁アルスターの征服者﹂と呼ばれる︒彼はマン島の王の娘アフレカと結婚し︑彼ら夫妻はアルスター地方各地に教会
や修道院を建設していく︒ド・カーシー家はノーサンプトンシャーやヨークシャーなどにも土地を所有しており︑夫妻
が創建した修道院がイングランド北部の修道院の娘修道院になるなど︑イングランド北部との強い結びつきが認められ
る︒またド・カーシーはスコットランドのギャロウェーの領主たちとも同盟関係にあった︒ジョン・ド・カーシー夫妻が
創建した修道院のなかにはスコットランドの修道院の娘修道院もあった︒いずれにせよ︑ド・カーシーは︑ブリテン島に
おいてはイングランド北部やスコットランドとの結びつきが強かった人物であったことがうかがえる︒彼がアイルラン
ドで占有したアルスター地方は︑アイリッシュ海を隔ててこれらと隣接する地域であった︒
アルスター東部を占拠する直前の彼は︑ダブリンに駐在するイングランド王ヘンリー二世の軍隊に属しており︑アイ
ルランドでの土地獲得を求めてアルスター侵攻に及んだと考えられる︒彼が︑ヘンリー二世によってアルスター地方の
土地を与えられたとか︑同地方への侵攻を許可されたとかいう証拠はなく︑ド・カーシーはイングランド王権の意向と
は無関係に単独行動でアルスターを征服したと推察される︒彼はさらにアルスター西部の征服も試みるが︑現地の王た
ちも抗戦したので何度も遠征に失敗し︑実現にはいたらなかった︒イングランド王ヘンリー二世と続くリチャード一世
は︑ジョン・ド・カーシーのアルスターでの活動をとくに問題視しなかったようである︒リチャード一世にいたっては︑
彼にアイルランドの監督を任せるなど︑むしろ彼を重用している︒一方︑リチャードの弟ジョン王の時代になると︑彼は
冷遇されるようになった︒ジョン・ド・カーシーとジョン王は対立し︑前者は王の許可なしに︑表に自身の名前を︑裏に
聖バトリックの名前と杖を刻んだ硬貨を鋳造していた︒ジョン王は彼の勢力を弱めるために︑一二〇五年にビュー・ド・
レイシーの同名の息子を最初の﹁アルスタ〜伯﹂とした︒﹁アルスターの征服者﹂となったジョン・ド・カーシーであった
が︑イングランド王権公認の﹁アルスター伯﹂にはなれなかったのである︒彼は前年にこのビューの息子によってアルス
ターを追放されており︑後にジョン王の赦しは得たものの︑ノルマンディーで不遇のうちにこの世を去ったとみられる︒
嫡出子を残すことはなかった︒
ヒュー・ド・レイシーは︑一一四〇年頃に生まれ︑=八六年に死去した︒本稿で主要人物として取り上げる三人のう
ちでもっとも早く︑もっとも若くして亡くなっている︒一族は︑ノルマンディー地方カルヴァドスのヴイール出身で︑曾
祖父ウォルターがウィリアム征服王とともにイングランドに移住した︒ド・レイシー家は︑ブリテン島では︑ヨ〜クシャー
などイングランド北部に土地を得た者たちと︑イングランド南部に土地を得た者たちと二系統に分かれた︒後者に属す
るヒューは︑ウェールズ辺境地域のヘリフォードシャーの土地を所領した︒またビューは︑カルヴァドスにも土地を所有
していた︒アイルランドでは︑=七一年のヘンリー二世のアイルランド遠征に随行し︑ミーズに領地を与えられた︒ヘ
ンリー二世は︑レンスター王ディアルミド・マク・ムルハダの娘婿となったペンブルック伯リチャードにレンスターを︑
ヒュー・ド・レイシーにミーズをそれぞれ封土として与えたのであった︒この時点でビューは︑ヘンリーによつてダブリ
ンやウェックスフォードといった主要都市の監督も任された︒彼はアイルランドにおいて︑イングランド王権を代表す
る支配者の地位につけられたのである︒レンスター王との個人契約によってレンスターの地を支配したペンブルック伯
や︑のちに単独行為でアルスター地方を征服することになるジョン・ド・カーシーとは異なり︑最初︑ド・レイシーはイ
ングランド王権と強く結びついていた︒
ビュー・ド・レイシーは︑自身がアイルランドで獲得した土地の一部をウェールズのサンソニー・プリマ修道院の所領
とした︒同修道院は︑ヘンリー一世の死後=三六年に起こったウェールズ人の反乱によって破壊されており︑その再建
のためにアイルランドの所領から得られる十分の一税などを利用したのであった︒またド・レイシーは︑サンソニー・プ
リマに従属する小さな修道院や︑ノルマンディーの修道院の娘修道院をそれぞれミーズに創建している︒トリム城をは
ルアリー・ウア・コンポヴァルと二人の侵入者たち(田中)一一九
メトロポリタン史学九号二〇一三年一二月二〇
じめとする城もミーズ各地に建設した︒ヘンリー二世に度々呼び出され︑イングランド王室で過ごすことも多かったド・
レイシーであるが︑アイルランドの中心地ミーズを獲得して︑アイルランド内での自身の支配権を拡大していった︒事実︑
ヘンリー二世の息子ジョン王子が一一八五年にアイルランドを訪問した際︑王子はビューに対して自分の上級支配権を
確立することができず︑この訪問自体が失敗に終わったと当時の史料で断言されているのである︒
しかしながら︑ミーズで王のように振る舞ったであろうド・レイシーに対する現地のアイルランド人の反発が強かっ
たことも当然予想される︒ジョン王子訪問の翌年︑ビュー・ド・レイシーはダロウで現地のアイルランド人によって斧で
暗殺された︒ド・レイシーはヘンリー二世の意向を無視してルアリー・ウア・コンポヴァルの娘と結婚していたので︑ヘ
ンリー二世はド・レイシーの死の知らせを聞いて喜んだと伝えられる︒アイルランドのミーズの地は︑ひとまず二八六
年にヘンリー二世によって没収されたが︑リチャード一世統治下の=九四年に︑ジョン王子の反抗に対して王リチャー
ドを支援した功績により息子ウォルターに与えられた︒また︑すでに述べたように同名の息子ビューはアルスター伯と
㎝なった︒もう一人︑(父親の)ビューとルアリーの娘とのあいだにも息子が誕生している︒
以上︑ジョン・ド・カーシーとヒユi・ド・レイシーの生涯とイングランド王権との関係について簡潔にたどってみた︒
続いて︑彼ら二人の侵入者にルアリー・ウア・コンホヴァルを含めた三者三様の政治的な結びつきについて見ていくこ
ととする︒
三 ル ア リ ー ・ ウ ア ・ コ ン ポ ヴ ァ ル と 二 人 の 侵 入 者 た ち と の 関 係
(一)ルアリー・ウア・コンポヴァルとジョン・ド・カーシー
最初に︑ルアリーとド・カーシーとの関係について検討したい︒まず注目すべきは︑ルアリーの甥トマルタハ・ウア・
コンポヴァルが=八〇年にアーマー大司教に就任したことである︒当時のアーマー大司教区は︑アイルランドの首位
司教座の地位を名実ともに獲得しており︑アーマー大司教という身分は︑アイルランドにおいては最高位の聖職者であ
ることを意味した︒M・T・フラナガンによれば︑コナハト出身のトマルタハはアルスターにおいては部外者であり︑アー
マーとの縁故関係もなかった︒そんなトマルタハのアーマー大司教就任を承認し︑支援したのはジョン・ド.カーシーで
あった︒トマルタハは︑聖職者としてブリテン島出身の侵入者たちとも友好関係を保ち︑ビュー・ド.レイシーやイング
ランドのジョン王子と会うためにダブリンに赴いたりしている︒世俗権力者たちのあいだに入って仲を取りもつ役割を
担っていたようであを︒詳細は別稿に譲るが︑ジョン・ド・カーシーは︑アルスターで影響力をもつために同地域の有力
な聖職者たちとの親交に努めたようである︒多くの教会や修道院を創建したのもその表れであろう︒
ルアリーの甥のトマルタハとは友好関係をきずいたジョン・ド・カーシーであったが︑年代記によると︑=八八年に
ルアリーの二人の息子(一人はコンホヴァル・マインマゲ)をともなってコナハトに遠征したものの失敗に終わってい
急︒最終的にド・カーシーは︑コナハトはおろかアルスター西部にも支配領域を拡大することはなかった︒
以上︑ルアリーとジョン・ド・カーシーとの関係については︑ルアリーの甥はド・カーシーと親交があったものの︑両
者のあいだでは同盟も友好関係も認められない︒一一七五年のウィンザー条約締結の際にルアリーがコナハト︑アルス
ター︑マンスターの支配をヘンリー二世によって認められたにもかかわらず︑ルアリーはド・カーシーの=七七年のア
ルスター侵攻を許してしまった︒また︑ルアリーの二人の息子は︑ルアリーの敵であるド・カーシーに味方をして父親を
裏切っている︒おそらく二人の息子は父親と不仲であったと推測され︑彼らに連れられてド.カーシーがコナハトに遠
征したということは︑ド・カーシーがルアリーを意識した上でコナハト侵略を試みたということになる︒しかし︑このド.
カーシーの試みはコナハトの軍勢によって阻止されたのであった︒
(二)ルアリー・ウア・コンポヴァルとヒユー・ド.レイシー
三人のなかでもっとも関係が深いのは︑コナハト王ルアリーとミーズの領主ド・レイシーであった︒=七一年には︑ ルアリー・ウア・コンホヴァルと二人の侵入者たち(田中)一二一
メトロポリタン史学九号二〇一三年一二月一二二
ダブリン包囲に失敗し︑ペンブルック伯リチャードに敗れたルアリーであったが︑その後もアイルランド各地で積極的
に軍事活動を展開している︒同年の=七一年にコナハトに接するマンスター北部のトモンドを侵略し︑翌年には︑自身
の拠点であるコナハトのテユアムで聖俗の集会を開催している︒=七三年にはペンブルック伯リチャードがヘンリー
二世によってノルマンディーでの戦いに従軍させられているあいだに︑トモンド王ドヴナル・ウア・ブリアンがペンブ
ルック伯リチャードの領地キルケニーを攻撃するが︑その際︑ドヴナルはルアリーの息子コンポヴァルとともに戦って
いる︒ドヴナルもディアルミド・マク・ムルハダの娘(リチャードの妻となったイーフェとは別の娘)と結婚しており︑
ドヴナルは︑=七一年のヘンリー二世のアイルランド訪問時にも真っ先に王に服従を示したと伝えられる︒しかし︑
数年後にはドヴナル・ウア・ブリアンはルアリーの息子と協力関係をもつようになったようである︒
二七四年には︑ペンブルック伯リチャードがマンスターに侵攻した際︑異国人からマンスターを防御するためにル
アリーも大軍を率いて同地に進軍した︒両者はサールズ(マンスター地方ティペラリー州)で一戦を交えたが︑ルアリー
側の勝利に終わった︒アイルランド側の史料によると︑異国人はペンブルック伯ら少数のみが生存し︑彼らはウォーター
フォードに退却させられた︒異国人一七〇〇人がこの戦いで命を落としたという︒このときビュー・ド・レイシーは不在
で︑ルアリーはさらにミーズに入り︑ダブリンにも侵攻した︒しかし︑今度はレイモンド・﹁ル・グロ﹂・フィッツ・ウィリ
アムらイングランド側の勢力に阻まれ︑ルアリーらがコナハトに退散することになった︒とりわけイングランド側の史
料︑韻文﹃アイルランドにおけるイングランド人の武勲﹄では︑﹁傲慢な王﹂としてルアリーとこのミーズ遠征について
詳述する︒ルアリーがド・レイシーの拠点トリム城を攻撃する際にルアリーに同行したアイルランド人同盟者のリスト
まで掲載している︒以上︑ミーズやダブリンを異国人から奪還することはかなわなかったものの︑ルアリーは︑アイルラ
ンドでのさらなる異国人の侵入は防ぎ︑アイルランド勢力の代表として︑かなり優勢な状態でウィンザー条約締結に臨
んだことが理解できる︒
アイルランドに戻ったビュー・ド・レイシーは︑=七八年にクロンマクノイズを略奪するために大軍を率いてコナハ
トに侵攻した︒しかし︑ド・レイシーの軍隊はルアリーが支配するコナハトの軍勢によって撃退される︒互いに互いの支
配領域に侵攻したルアリーとド・レイシーであったが︑どちらも失敗に終わった︒その後︑一一八〇年頃に両者は同盟を
結ぶことになった︒イングランド側の史料が︑ド・レイシーがヘンリー二世の命令に背いてルアリーの娘と結婚したこと
を伝える︒彼女はビュー・ド・レイシーの再婚相手となり︑二人のあいだにはウィリアム・﹁ゴルム﹂.ド.レイシーが誕
生 す 翻 ・ こ の 展 開 は ・ レ ン ス タ 圭 デ ィ ア ル ミ ド と ペ ン ブ ル ッ ク 伯 リ チ ャ ー ド と の 関 係 を 想 起 さ せ る ・ 現 地 の 王 の 娘 と
侵 入 者 で あ る 異 国 人 と の 結 婚 が も た ら す 同 盟 関 係 で あ る ︒ ル ア リ ー と ド ・ レ イ シ ー の 場 合 は ︑ 対 立 関 係 か ら 同 盟 関 係 へ
と 転 換 さ れ た の で あ っ て ︑ ヘ ン リ ー 二 世 が こ の ド ・ レ イ シ ー の 結 婚 を 背 信 行 為 と 見 な し ︑ ア イ ル ラ ン ド の 監 督 者 か ら ダ
ブ リ ン の 監 督 者 へ と ド ・ レ イ シ ー の 役 割 を 制 限 し だ と し て も ︑ ま た ド ・ レ イ シ ー が = 八 六 年 に 死 去 し た 際 に ヘ ン リ ー が
喜 ん だ と し て も 不 思 議 で は な い ︒ さ ら に ア イ ル ラ ン ド に お け る ド ・ レ イ シ ー の 領 地 ミ ー ズ は ︑ 前 述 の よ う に = 九 四 年 ま
で イ ン グ ラ ン ド 王 権 側 に 取 り 上 げ ら れ る こ と に も な っ た の で あ っ た ︒
ル ア リ ー と ド ・ レ イ シ ー は ︑ 互 い に 相 手 の 実 力 を 認 め 合 い ︑ 対 立 す る よ り も 同 盟 し た 方 が 双 方 に と っ て 有 利 で あ る
と わ か っ て 同 盟 関 係 を 結 ん だ の で あ ろ う か ︒ ド ・ レ イ シ ー は イ ン グ ラ ン ド 王 ヘ ン リ ー の 不 興 を 買 う こ と に な っ た が ︑
一 一 八 五 年 の ジ ョ ン 王 子 の ア イ ル ラ ン ド 訪 問 の 際 も ジ ョ ン 王 子 に 従 順 で は な か っ た こ と か ら ︑ 二 八 〇 年 の 時 点 で ︑ イ ン
グ ラ ン ド 王 権 か ら 距 離 を 置 く こ と を 決 め て い た の か も し れ な い ︒ い ず れ に せ よ ︑ イ ン グ ラ ン ド 王 の 名 の も と に ア イ ル ラ
ン ド の 監 督 を 任 さ れ ︑ ア イ ル ラ ン ド の 中 心 ミ ー ズ に 領 地 を 与 え ら れ た ビ ュ ー ・ ド ・ レ イ シ ー が ︑ 結 果 的 に 王 ヘ ン リ ー を 裏
切 る こ と に な っ た の で あ る ︒ そ し て ︑ 現 地 の 王 ル ア リ ー と 侵 入 者 ド ・ レ イ シ ー の 関 係 は ︑ 敵 対 者 同 士 か ら 義 父 と 娘 婿 の 同
盟 関 係 へ と 大 き く 変 化 し た の で あ っ た ︒
(三)ジョン・ド・カーシーとド・レイシー一族
アルスター地方を征服したド・カーシーとミーズの領主ド・レイシー︑両者のあいだには直接対決はない︒ド.レイシー
ルアリー・ウア・コンポヴァルと二人の侵入者たち(田中)一二三
メトロポリタン史学九号二〇=二年一二月一二四
が=八六年という早い段階で死去したために︑ド・カーシーは彼の息子たちと同盟したり︑戦ったりすることになる
のである︒アイルランドの年代記では︑まず=九五年にジョン・ド・カーシーとビュー・ド・レイシーの息子がともに
レンスターとマンスターのイングランド人を征服するために進軍したことを伝える︒当時︑二八五年のジョン王子ア
イルランド訪問の際に随行してマンスター地方のリムリックに土地を与えられ︑既述のトモンド王ドヴナル・ウア・ブ
リアンの娘と結婚したウィリアム・ド・バーグが︑アイルランドに侵入した貴顕のなかで勢力を伸ばしていた︒ド・バー
グを牽制するためにド・カーシーとド・レイシー兄弟が同盟を結んだものと推察される︒マンスターで領主となったド・
バーグは︑コナハトへの進出も目指していた︒一一九九年や一二〇一年の記録では︑ド・カーシーとド・レイシーがコナ
ハトでの権力争いに介入したことも伝えられる︒この時はすでにルアリーは死去しており︑ルアリーの息子や孫たち
の代に変わっている︒このように一時期︑ド・カーシーとド・レイシーはともに共通の敵と戦っていたのである︒結局︑
一二二〇年代以降︑ウィリアム・ド・バーグの息子リチャードの代になって︑コナハトはド・バーグ家によって支配され㈱るようになる︒
ド・カーシーとド・レイシーの同盟は長くは続かなかった︒前述のように︑リチャード一世の時代にド・レイシー家は
イングランド王権と和解し︑ビュー・ド・レイシーの息子ウォルターがミーズの領地を回復した︒さらに同名の息子でウォ
ルターの兄弟のビュー・ド・レイシーが一二〇五年にアルスター伯となるのである︒その前後︑アイルランドの年代記史
料は︑ド・レイシーとド・カーシーの対立を伝える︒ジョン・ド・カーシーは︑イングランド王権と再び結びついたド・レ
イシーによって追い詰められ︑ダウンバトリックでの戦いにも敗れ︑アルスター西部のアイルランド人の王が支配する㈱ティール・ネオガンに追放されるのであった︒最終的にはド・カーシーはノルマンディーで没した︒同名の息子ビュー・ド・
レイシーとてその地位は安泰ではなかった︒彼は︑一二一〇年に再度アイルランドに遠征したジョン王によって︑一時的
ではあれ︑兄弟のウォルター・ド・レイシーともども各自がもつミーズとアルスターの領地を没収され︑アイルランドか㈱
ら も 追 放 さ れ た の で あ っ た ︒
おわりに
本稿では︑イングランド勢力侵入後のアイルランドの政治的変容について︑ルアリー・ウア・コンポヴァル︑ジョン・ド.
カーシー︑ヒユー・ド・レイシー︑以上の三人を取り上げて︑それぞれの政治的動向や結びつきについて検討した︒一二
世紀後半のアイルランド中心部のミーズ︑北東部のアルスター︑北西部コナハトの勢力図の変化を中心にあつかったが︑
しばしば言及したアイルランド南部のレンスターやマンスターも状況は大きく変わらない︒したがって︑本稿で得られ
た結論は︑この時期のアイルランド全体の政治的変化についての一般論として述べることができるだろう︒結論として︑
以下の三点を挙げる︒
第一に︑ルアリー・ウア・コンポヴァルの例を見ればわかるように︑当時も現地のアイルランド人の王たちは︑相変わ
らず勢力争いをくり返していた︒複数の王たちが互いに対立関係にあるだけではなく︑父と子など身内同士の争いも絶
えなかった︒ヴァイキングの時代もそうであったが︑異国人が侵入してきた際も︑自分たちの利害に応じて︑異国人と同
盟したり︑戦ったりしている︒一一六六年頃︑コナハト王ルアリー・ウア・コンポヴァルは︑ヴァイキング時代のマンスター
王ブリアン・ボールヴァのように︑アイルランドの大半を支配する強力な王になり得たかに見えたが︑レンスター王ディ
アルミド・マク・ムルハダが異国人の貴顕たちと同盟し︑彼らをアイルランドに移住させたことによって︑状況が大きく
変わってしまった︒
第二に︑アイルランドにやって来たイングランド王の支配下にあった貴顕たちは︑自身の行動によって︑あるいはイン
グランド王によって︑アイルランドに領地を獲得してアイルランドで勢力をもつようになるが︑やはり彼らはイングラ
ンド王権の意向によって左右される存在であった︒=八五年のジョン王子訪問時に︑ジョンがビュー・ド・レイシーに
対して上級支配権を確立することができなかったように︑一時的には︑アイルランドにおいて貴顕たちがイングランド
ルアリー・ウア・コンポヴァルと二人の侵入者たち(田中)一二五
メトロポリタン史学九号二〇一三年一二月一二六
王権を凌駕することもあったが︑ペンブルック伯リチャードもジョン・ド・カーシーも︑ビュー・ド・レイシーとその息
子たちも︑イングランド王権によって︑アイルランドにおける支配権や領地を奪われたり︑制限されたりしている︒ペン
ブルック伯リチャード・フィッツ・ギルバート・ド・クレアは︑ヘンリー二世によってその支配領域をレンスターに制限
された︒ジョン・ド・カーシーは︑ジョン王によって﹁アルスター伯﹂の称号とともにアルスターでの支配権をビュー・ド・
レイシーの息子によって奪われることとなった︒ビュー・ド・レイシーの死後︑彼の息子たちはヘンリー二世の意向によっ
て︑のちにはジョン王によって︑ミーズやアルスターの支配権を奪われた︒彼らは︑結局のところ︑イングランド王権の
その時々の戦略によって翻弄される存在であったのだ︒
第三に︑イングランド王権は︑イングランド王の家臣たちがアイルランドで﹁王﹂のような勢力をもち出すと︑彼らの
勢力をそぐべくアイルランドに介入したが︑その対策は行き当たりばったりで︑当時のイングランド王権がアイルラン
ドにあまり強い関心を抱いていなかったことがうかがえる︒ヨーロッパ大陸やウェールズやスコットランドでの軍事活
動も展開しなければならなかったゆえに︑アイルランドのことは後回しになっていたようである︒家臣たちが︑アイル
ランドにおいてもイングランド王の上級支配権に従うことや︑イングランド王の威光を尊重することだけで満足してい
たのではないかと考えられる︒結局︑当時のイングランド王権の力では︑現地のアイルランド人の王たちも︑アイルラン
ドに侵入した家臣たちも︑完全に押さえつけることはできなかったのである︒
(1)注
②
田中美穂=二世紀後半アイルランドへのノルマン到来ーディアルミド・マク・ムルハダによるストロングボウ招聰1﹂(﹃エール﹄第二五号︑二〇〇五年)︑一三五〜一五〇頁︒
この時代のアイルランド側の主要な史料は年代記となる︒妻ζ'=080︒︒︒︒kき自ロロ・ζ80畳ξ(¢e鼠§§駄§︑飛轟<o﹁
(︼)¢げ嵩昌"︼∪煽σ=昌︻コOo自一̀一〇8﹃﹀ユく僧昌OOαQり一9ユ陣0ロリゆ一◎Q◎◎刈ー一〇〇一)申棄○︒8冨︒︒(9・)堕.目げo>ヨ巴︒︒oh目σqoヨ僧畠︑Ψ肉ミミ9ミミ◎一︒︒(一︒︒O刈)も℃・
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③ ④
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ミ雪(︼)呂ぎ O⊆窪巳コ︒︒ユ言88﹃﹀ユくき8α︒︒ε巳β這ミソ順に︑嵐9鼠8垂匿卜Ω匡≧尽鼠Ω§と省略する︒一一六六〜九八年
のあいだ︑ルアリーに対する上記の称号は複数の年代記でくり返し記される︒コナハトについて詳しいのは鼠﹃(﹃ティゲルナハ
年代記﹄)であるが︑=七八年までで記録が途切れている︒鼠q(﹃アルスター年代記﹄)は文字通りアルスター中心︑ミ(﹃イニ
スファレン年代記﹄)はマンスター中心の記録となっている︒匿トら(﹃ロホ・ゲー年代記﹄)もコナハトを中心に記録しているが︑二三九〜六九年の記録が欠落している︒鼠ミ(﹃アイルランドの王国の年代記﹄)は︑一七世紀前半にアイルランド北西部ドニ
ゴール州で編纂されたものであり︑過去の主要な年代記の寄せ集めのようになっているが︑内容が詳細である︒嵐ら(﹃クロンマ
クノイズ年代記﹄)は︑一七世紀の英訳版しか残っていない︒§(﹃種々のアイルランドの年代記﹄)は系統が不明である︒以上︑
最後の三つの年代記は同時代性がやや薄く︑年代などの誤りも見られるので︑使用する際に注意が必要である︒各年代記史料の
特徴については︑田中︑前掲論文︑=二九頁も参照︒
統一王権が不在であった中世(後期)アイルランドの政治状況については︑閃旨b口kヨPミ忠映ミ題§犠ミ窓︽ミ題(r︒巴8"
じd9︒︒8﹃9一〇お田器≦o含●90⊆三旦聞2﹃∩o⊆誘零oψ︒︒ΨPOO一γPいひ山い凶まO山刈分u⇔●㌶︒︒貫肉ミ骨守︑きさミ題隷蛍§職助ミ亀題︑ミ(∪=三一巨
聞O霞OO葺し・零①︒︒︒︒bOOO)"一ωゆ占おbP刈山P︒︒旧田中美穂﹁中世アイルランドにおける﹃ネイション﹄意識﹂法政大学比較経済研究所
/後藤浩子編﹃アイルランドの経験i植民・ナショナリズム・国際統合﹄(法政大学出版局︑二〇〇九年)︑三〜二七頁︒田中
﹁アイルランドとヴァイキング﹂東北学院大学オープン・リサーチ・センター﹃ヨーロピアン・グローバリゼーションと諸文化圏
の変容研究プロジェクト報告書皿﹄(二〇一〇年)︑一〇四〜一〇八頁︒B・ハーヴェー編/鶴島博和・日本語版監修/吉武憲
司・監訳﹃オックスフォードブリテン諸島の歴史第四巻一二二三世紀一〇六六年‑一二八〇年頃﹄(慶鷹義塾大学出版
会︑二〇一二年)︑第二章(D・ベイツ著)を参照(筆者は同巻第四章の翻訳と索引等のアイルランド関連の執筆に携わった)︒他︑
本稿で対象とする一二世紀後半のアイルランドの政治状況について論じた代表的な研究として︑ζ・日閏一9︒§σqgPミ忠象亀Q蛍
嵐嵩αq︑♀き§§忠ミミ鈎這鳶Qミミさ嵩題隷蛍ミ討ミミ§ヒ嵩ぎ︑§栽討ミQトミQ鳶ミ9ミミq(○×8葺○×まa¢巳くo邑々零oψ・︒=O︒︒沖﹃︒℃・
○×∂a Ω碧o巳o嵩零︒︒︒︒・"一〇〇︒︒)が挙げられる︒
睡q=ひひ.O鼠﹃一まひ・だ=ひひ﹄ωミこ一ひひ.8一まひ・O螢≧こまひ・一伊一まひ・一ひ・ルアリー・ウア・コンポヴァルについてのまとまった研
究はない︒事典類では︑コ㊤§α︒9P.⊂曽08909算刃§凶ユ鼠︑﹂ロ露OO︒ζ讐器≦きユじu・=鎚剛︒︒8(︒自︒・●)曽9§ミb︑ミ︑o毫q勲き︑ご嵩ミ
切ご鷺§ミ㌦ミ蕩旨亀ミ㍉§ミ㍉ミ︑薄専ミ窓鼠§魯ミと臨6ミミ偽鴨ミ︑〜題こ§題︑oミ偽ヒ§︑NOOO(○×8a⁝○×8a⊂巳く︒邑蔓℃﹃o︒︒︒・るOO鼻)(以
下Obき町と略す)Ψ<o一・いい曽︒︒ωひ‑︒︒い抑団・○︑bd図≡ρ・閃⊆鉱ユユ⊂曽60コ90げ緯︑﹂口Q︒●U⊆摩(︒e曽ミ町ミQ蓉︑ミN§導§§q亀§鴨ミ亀2︒≦
ルアリi・ウア・コンポヴァルと二人の侵入者たち(田中)一二七
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(12)
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O巳昌コ(oαの●)鴇b︑ミご嵩亀謎鼠守︑寒盟o鷺ミ︾ミ︑昔ミミ偽§︑︑︑題こ︑ミ題︑oミQ鳩§︑NOON曾嵩譜︑ミQ窺ミ竜鳶題駄ミ恥肉ミミ守凡簿鼠§§豊
(Ω巨9骨ρO馨9自σ︒︒¢昌圃くo邑蔓国①︒・︒︒b80)(以下bおと略す)鴇く鼻P竃b︒白刈Φがある︒≦ずo黒5鋳斜."§蔦{¢900⇒90審搾一器
一婁三讐パぎσq︒臨巨き血.曽きQミ罫︑謹象︒︑ミ誉ミミ︑書§㌔ミへ(旨⊆コOPO一一)もやωOム恥は︑年代記史料をもとにルアリーの生涯を簡潔に論じたもの︒
田中﹁=一世紀後半アイルランドへのノルマン到来﹂︑=二六〜一四三頁︒﹃ブリテン諸島の歴史第四巻﹄︑三八〜三九︑五二頁(第
一章R・フレイム著)︒
嵐q一ミ一﹂O叫匡﹃=Σ・P一一コ﹂押延ト一ミ一畳い申匡卜O一一刈P一旧匡ミ=コ﹂◎QΨ一ミ一●PO田O騨巴傷鋸︒︒099ヨσ﹃o昌︒︒圃︒︒Ψ彗ミ凶嵩ミご霞ミ箋ミ鳥輿ミ偽
8嵩心ミ象ミ,等偽貯嵩鼻﹀.bu●Qo8韓き住国×﹂≦僧三謬(①住︒知一円P口Qり.)(Ugσ=目菊o図⇔一嵐︒︒=>89ヨざ一ヨ︒︒)︾ひ◎︒ムP刈○︒‑刈P◎︒N‑o︒い旧"oαQo円oh
匡o≦αoPO亀ミ謁轟跨さミ㌧竃忠§嵩ミbq§偽ミミ凡鼠ぴぴミ芦薫Qりεげげ︒︒(9.)(P<9︒︒Ψ菊o一房Qooユ①︒︒いピo旨匹oP一◎◎ひ刈)二bい心ひ.
ウィンザー条約のテクストは︑菊oσQo﹃ohエo≦傷oPOQ晦欝一﹂OP‑一8二αoヨ←Q・・きミ§肉o題ミ譜きミSミΨ︒︒εげげ︒︒(o血.)(轟<o一︒︒."即o房
ψoユ8Ψいo昌傷oP一〇◎ひ○◎も一)二腔◎◎轟‑○︒い申国き薗αQgP守賊簿象亀偽蓑ω一甲ω一ωい団.Òa︒︒9昌α客しd﹂≦oOo≦o=(a●)"寄凧客§︑o識§︑booミミ§貴
謡認へ℃認(︼UOコ畠O昌⁝ζO件ゴ⊆0昌Ψ一〇轟ω)bド冒に収録されている︒なお︑ルアリー自身はウインザーに行かず︑使者を派遣した︒条約
締結に関しては︑蜀一き曽¢q貸ミき吻8耐爵bPゆ占刈P朗爵冨り.即轟剛αユ¢㊤O象909貯.﹄ご盛節子﹁ノルマン侵攻とアイルランド王権
の対応=六六ー=七七﹂(﹃エール﹄第二九号︑二〇〇九年)︑一八一〜一八三頁︒﹃ブリテン諸島の歴史第四巻﹄︑七四〜
七五頁(第一章)︑二七七頁(第六章H・サマーソン著)を参照︒なお︑ウィンザー条約の内容について詳しく伝えているのは
イングランド側の史料だけであり︑アイルランド側の史料では︑年代記の記録さえほとんどない状態で︑この条約がいかにルア
リーや他のアイルランド人の王たちに影響を与えたのかについて一切伝えられていない︒
男︒Qo'じd980﹃.Ω凶g冨oコ冨﹀謬oqo<ぎ穴ぎαQ"寄遂碧O把聲ユ創き自菊§陣震{d㊤Oo昌90げ巴門ooヨ弓舘巴︑Ψぎ囚﹂碧界巳笑§色≦9δo良昌σq
(oα︒︒.)"富貯嵩気亀嵩翫ぎN題︑嵩ミQミ糞Q匿恥題(Ò窪ぎ⁝団o霞Oo=冨︒︒℃δ︒︒︒︒りPOO刈)い℃やPPO山轟い・
閃ooQ90h工o≦傷o戸O題ミL﹄ひや一ひい叫O隷ミミ偽鼻Fご甲一ω◎
ルアリーと父との対立については︑﹂﹃=ωひ・P一三ω●い鼠≧こ一ωひ.Pωし一お﹂P=食・︒︒甲﹂O=ωP一軍ρルアリーと息子との対立につ
いては︑﹂q=︒︒い︒︒︒Ψ=︒︒ひ.い藁一︒︒ひ'︒︒鼠トら=︒︒ひ.U猿hミ一一︒︒い︒刈曽=︒︒ひ.轟・なおルアリーは︑コンポヴァル・マインマゲ以外の息子とも
対立をくり返した︒
ミ=O︒︒.P鼠卜O=O︒︒b鼠肉ミ=O︒︒・N§払一〇︒︒﹄・死の直後︑コングに埋葬されたのか︑クロンマクノイズに埋葬されたのかは定かでないが︑一二〇七年にはクロンマクノイズで改葬されたという記録がある(匡ミ一PO刈・い)︒
鼠q=刈刈﹄導一ミSい唄匡↓=刈Sω旧睡卜6一ミSご﹂ミ=刈刈'ω甲O貯巴α昌︒︒∩9ヨσお口︒︒勝曽書ミミご二ひ◎◎ムひPミ鉢‑一〇◎ご閃o¢qgoh=o≦ユo戸O題ミF