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田 斉 の 軍 事 と 外 交

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田斉の軍事と外交

田斉の軍事と外交

――

戦国後期 ――

小 林 伸 二

はじめに

戦国中期の国際社会は、二国間外交を基本とする軍事力にもとづいた実力に左右されながら、第三国を含む巧みな外交戦略が重要であった。斉の軍事と外交は、魏・秦の軍事対立と講和と連動し、さらに秦・楚の動向、趙・燕・中山をも加えた国際社会の枠組みのなかで優位に立つことに他ならなかった。こうして合従連衡は二国間外交を越えた、日和見的な、それでいて徐々に大国主義に収斂される多国間外交の軍事同盟であった。斉の内政にあって孟嘗君を生みだす封君制の構造は、当該時代の王権との関わりのみならず、軍事と外交でも無視できない課題と考えられる。また、燕による事実上の占領とそれにともなう衰退は、斉の以後の国力回復にあって埋めがたい傷跡を残した。戦国期を通した斉の対外政策はここに大きな節目を迎えた 。本小論では、戦国後期の斉の軍事と外交について、秦による滅国に至るまでの経緯に関して考察を加える。統一事業に邁進する秦に対抗した斉の戦略の一端を明らかにするものである

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大正大學研究紀要 第九十九輯

一   戦国後期の田斉の展開

前二七八年、秦は白起が中心となり楚を攻伐、郢を占領し南郡を置き(秦本紀・六国表)、加えて安陸を攻撃した(編年記「(秦昭王)二十九年、攻安陸 」)。さらに、秦が楚先王の墓のある夷陵を焼き(楚世家・六国表・秦策三

18)、

竟陵にまで到達すると(白起伝・春申君伝)、楚頃襄王は逃れて陳城を守った(楚世家・六国表 )。秦の楚攻伐は翌前二七七年までつづき、巫郡・黔中郡を抜いている(楚世家・六国表・秦本紀 )。なお、前二七八年に秦昭襄王と楚頃襄王が襄陵に会しているが(秦本紀)、このとき「荊王献青陽以西」(秦始皇本紀)と、講和がなされたらしい 。斉ではこのころ田単が狄を攻撃して降服させるが、これには苦戦したようで(斉策六6)、狄は山東高青東南、博興の西の邑であることから 、復国後の斉にあっていまだ不安定な情勢が存在した点を示している。また、斉襄王の即位後、孟嘗君がどこにも所属せず諸侯に中立の立場を保ったと伝えられ(孟嘗君伝)、斉の支配体制は盤石ではなかったらしい。斉襄王は孟嘗君と和を結ぶことにより国政の安定を図った模様だが(孟嘗君伝)、孟嘗君の死後、後継をめぐる対立のなか斉・魏が薛を滅ぼし(孟嘗君伝)、ようやく斉の国としての平常化がもたらされたものと思われる。いずれにせよ、斉襄王による国力回復には一定の期間と施策が必要であった点を物語っている。したがって、秦による楚攻伐にはこうした斉の情勢を前提としながら、対楚関係構築によって斉を抱き込もうとするねらいがあったことは確かである(斉策六

で侵攻(秦本紀)、魏と同盟関係にあったと考えられる韓では暴鳶を魏救援に向かわせるが、秦の前に敗退し(秦本 向に乗じて魏を攻撃し、廉頗が幾を占領している(趙世家)。前二七五年に至り秦がこうした魏に攻撃を加え大梁ま た楚の江南にあって、楚頃襄王が東部の兵十万で一五邑を取り返し、郡として秦に対抗した(楚世家)。趙も秦の動 前二七六年、秦は白起に魏を攻伐させ、二城を占領するが(魏世家・六国表・秦本紀)、一方で前年までに占領し て有利な条件であったといえよう。 10)。斉としても亡国の危機の原因の一つであった楚が秦の軍事行使を被ったことは、外交上にあっ

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田斉の軍事と外交 紀・韓世家・六国表)、暴鳶が破られ(秦本紀)、魏は温など三県を献上して秦と講和する(魏世家・六国表・秦本紀)。暴鳶は開封まで敗走したが(韓世家・六国表)、たちまち秦の攻撃にあっている(編年紀「(秦昭王)三十二年、攻啓封」)。趙では魏のこういった情勢に呼応して廉頗を用いて房子を攻撃し、これを抜き城して帰還させ、加えて安陽を攻伐し占領する(趙世家)。前二七四年、秦は対魏戦争を継続し、蔡陽・巻・長社を攻撃、これを占領(秦本紀・編年記「(秦昭王)三十三年、攻蔡・中陽」)、斬首四万の成果をあげている(魏世家・六国表)。他方で趙は斉に対して攻撃を行い、昌城・高唐を占領した(趙世家)。この一連の情勢は、そもそも魏が秦に背き斉に接近したことが関係していたようである(穣侯伝)。斉では復国後、対楚関係にあって秦が一定の成果をあげたため、その影響力を警戒して秦を牽制する意味で対秦問題に苦慮する魏と結ぼうとしたのかもしれない。今回の秦の対魏攻伐に関して斉・趙では魏を救援する動を見せるが、その約に背いたことによって(秦策二

に救援を求めたため、秦が趙・魏を華陽に破っている(韓世家・韓策三 前二七三年に至り趙が魏と韓の華陽を攻伐する(韓世家)。趙は魏を傘下に取り込んだものと思われる。韓では秦 となっていくわけである。 いずれにしても、魏・斉・楚の衰退後、趙が山東諸国にあって勢力を強め、秦の兼併政策はこの趙の国力削減が課題 15)、斉は趙の攻撃を被ったものと考えられる。

15・編年記「

(秦昭王)三十四年、攻華陽 」)。このとき秦は白起率いる軍により魏将の芒卯を敗走させ、三将を得て斬首一五万の成果をあげ(白起伝・秦本紀・六国表)、さらに魏都の大梁まで迫っている(秦策一5)。背後には趙・魏と楚の合従があり、秦はこの関係を打破することが目的であった(秦策一5・韓非子初見秦篇・縦横家書一五章)。そこで、魏は秦に南陽の地を入れて講和を選択した(秦本紀・六国表)。一方、秦による魏攻伐を前に秦・趙は対魏関係で利害を一致させたものと思われ、両国で斉攻伐を画策するが、斉ではこの動向を恐れ、趙に武陽の割譲と公子順子を人質に入れることで回避を図ったらしい(秦策二 ら前二八一年に獲得した陶をつなぐ計画にもとづくものと考えられる 15・穣侯伝)。そもそも秦としては大梁の攻撃には魏を併合する目的があったが、これは秦の領土と斉か

)((

。そうしたなかで、斉は秦に対して斉攻撃が結

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大正大學研究紀要 第九十九輯

局、趙・楚の利益となり、秦の得にはならないとの主張をもって説得したようである(秦策二

利用して、燕の援軍要請を機に斉に打撃を加えようとする思惑があったらしい(縦横家書一九章・秦策三2 たものと考えられる。秦としては穣侯に斉を攻撃させ、封邑の陶を広げ東方進出を推進し、一連の燕・斉間の対立を 前二七〇年の秦による斉の剛・寿攻撃(田世家・秦本紀・六国表・編年記「(秦昭王)三十七年、□寇剛」)に波及し している(秦本紀)。こうしたなか前二七一年、趙は斉を攻伐して平邑に至っているが(趙世家・六国表)、これは翌 との同盟関係を樹立、太子を人質として秦に入れた(楚世家)。秦ではこの状況を踏まえ、連合軍の対燕攻撃を援助 に趙・韓・魏は燕を攻伐する(楚世家・韓世家・燕世家)。楚も三万人を動員して三晋の燕攻撃を支援し、一方で秦 の対外政策は、諸侯の矛先を自ら対立する燕に向けさせることを目論んだものと考えられる。その結果、前二七二年 15・穣侯伝)。この斉

)((

)。また、斉に対する軍事行動には、そもそも五国連合攻伐による斉の宋地喪失、さらに復国後の斉の燕への圧迫が関係していた(縦横家書一九章・秦策三2)。なかでも斉は復国後も対燕政策にあっていまだ力を保持し、これが秦・趙にとって黙認できぬ事態となっていたためと考えられる。なお、同年に燕で内乱が発生するが(趙世家)、ここでも斉の関与があった可能性がある

)((

。一方、秦策三9には范雎の秦昭襄王への進言として、大王越韓・魏而攻強斉、非計也、少出師、則不足以傷斉、多之則善於秦、臣意王之計、欲少出師、而悉韓・魏之兵也、則不義矣、……、王不如遠交而近攻、……、韓・魏、中国之処、而天下之枢也、王若欲覇、必親中国而以為天下枢、以威楚・趙、趙強則楚附、楚強則趙附、楚・趙附則斉必懼、懼必卑辞重幣以事秦、斉附而韓・魏可処也、とあり、秦が韓・魏を越えて斉を攻撃することを非とし、遠交近攻策を主張する。秦にとって韓・魏と親しめば楚・趙が思いのままとなり、楚・趙関係にあっては楚が強ければ趙はなびき、反対に趙が強ければ楚がなびき、結局は楚・趙がなびけば斉が恐れてやってくる。これは同時に韓・魏を廃墟にすることにつながり、秦としては魏を攻めることが得策であると見做す。こうして秦は斉と親しくし、魏を攻めることを求めていた(范雎伝)。斉の国力回復にともなう秦の外交策といえるが、斉は依然として当該期の有力国であった点を示していよう。遠交近攻策は秦外交の

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田斉の軍事と外交 基本方針となるが

)((

、斉の軍事と外交に関して重大な影響を与えたものと考えられる。以後、秦は三晋への攻撃に明け暮れるが、それと相対的に斉に対する軍事進攻の減少をもたらし、斉としては安定した国家体制を維持することができた

)((

。前二六九年、秦は韓とともに趙に対して攻撃を加え、閼与を攻めるが占領できず(秦本紀・編年記「(秦昭王)三十八年、閼輿」・趙世家)、さらに幾を攻伐するが、廉頗がこれを救い反対に秦軍を大いに破っている(趙世家・六国表・趙策三4)。この趙・秦の戦いにあって魏は、公子咎に精兵を率いさせ安邑で陣し、秦軍を挟ませていた(趙策三4)。魏は趙側に付いたものと思われる

)((

。前二六八年、秦はこのため魏の懐へ攻撃に出ると(魏世家・六国表・編年記「(秦昭王)三十九年、攻懐」)、斉の鮑侫・趙の趙奢・楚の四将軍の率いる軍が秦を逐うが、成果が得られなかった(趙策二2)。斉は秦との同盟関係を結びながら、秦の敗退に乗じて趙・楚と攻撃を行ったものと考えられる。前二六六年に至っても秦の魏攻撃はつづき、邢丘を攻め(編年記「(秦昭王)四十一年、攻邢丘」)、これを占領している(秦本紀)。魏では秦と盟を結んだようで(秦策三9)、これに対して斉は楚と連合し魏を攻伐するが、秦が魏を助けた(魏世家・魏策四

22)。前二六五年、秦はさらに韓の少曲を攻伐(編年記「

(秦昭王)四十二年、攻少曲」)、高平にも攻撃を加え抜いている(范雎伝)。韓は秦の同盟下に入ったようである。さらに、秦は趙の三城を抜くなど(趙世家・六国表)、積極的な対外進出を企てている。秦の趙攻撃には趙孝成王が即位し、太后(威后)が国事を専権したことが関係し、趙ではこの事態にあって斉に救援を求めるが、斉は長安君を人質とすることを条件に出軍する(趙世家・趙策四

18・縦

横家書一八)。そこで、斉の安平君田単が趙軍を率いて燕の中場、韓の注人を攻伐して抜いている(趙世家

)((

)。しかし、斉・趙の対燕・対韓攻撃からは、斉としては趙との同盟を強固にするより、対燕闘争を有利に進めようとする思惑が認められ、山東地方を中心に主導権の確立を模索していたと見るべきであろう。斉ではこの年、襄王が死去し、建が王となるが、年少のため君王后が政を執り、対秦・対諸侯関係を巧みに処理したようで、以後四十余年、兵難を受けなかったという(斉策六8)。こうした斉の国際的な影響力は前二六四年、田単が趙相となっていることからも窺える(趙

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大正大學研究紀要 第九十九輯

世家)。なお、このとき韓は趙・斉同盟に組み込まれたのかもしれない。秦の武安君白起は韓を攻伐し、汾・陘など九城を抜き、斬首五万の成果をあげている(秦本紀・范雎伝・白起伝)。前二六三年にも秦は韓の南陽・太行を攻撃し(編年記「(秦昭王)四十四年、攻大行、□攻」・六国表・韓世家・秦本紀・白起伝)、韓の本土と上党郡の孔道を絶った

)((

。魏ではこのとき秦の韓攻撃に加わろうとしたが、秦が韓を征圧後、その矛先を魏に向けるとの認識から楚・趙との同盟を選択した模様である。さらに、かりに楚・趙が大敗すれば、燕・斉とも秦を恐れ、秦の臣となるとの視点が見られる(魏世家・魏策三8・縦横家書一六章)。秦の韓攻撃を前に秦・趙の対立が国際間の課題として存在した点を示すものである。楚はこのなか頃襄王の死去にともない、秦に人質となっていた太子を即位させ、春申君を相とする新体制で親秦外交を進めた(春申君伝・楚世家)。前二六二年には楚は夏州を秦に納め和親を成立させる(楚世家

)((

)。秦は前二六二年、韓に対する攻撃を行い、野王などを攻め(編年記「(秦昭王)四十五年、攻大野王」・白起伝)、十城を占領し(秦本紀)、そのなか上党が孤立を余儀なくされ趙への帰属を選択している(白起伝)。趙はこの機会に出兵して上党の土地を奪い、秦と長平で戦うことになる(趙世家・趙策一

合従をあらためて求める意見もあったようである(趙策三 に破り、四十余万を皆殺している(秦本紀)。趙としてはこの戦いのなか秦との講和を模索する一方で、楚・魏との 趙に降ったため今度は趙を攻め、趙も兵を出して反撃し、軍事衝突に発展した。秦では白起が出て大いに趙軍を長平 を推進したらしく、魯を攻伐して徐州を占領する(魯世家)。前二六〇年に秦が韓の上党に攻撃を加えると、上党が に対峙して(六国表)、秦は韓の緱氏・藺を攻め抜いている(白起伝)。なお、この事態に乗じて楚は独自の軍事戦略 11)。前二六一年、趙の廉頗が長平で秦軍 したが、趙の働きかけで実現しなかった(魏策四 12)。魏はこのとき秦と垣雍の返還を条件に同盟しようと たが 10)。さらに、秦が趙を攻めるなか、斉・燕には援軍の動きがあっ

)((

、趙の食糧が尽き斉に求めると、斉王建は応じなかったことから(田世家)、援軍はなされなかったと思われる

)((

。この点に関する周子の発言には当該期の国際社会の力学が如実に示されている。不如聴之以退秦兵、不聴則秦兵不卻、是秦之計中而斉・燕之計過也、且趙之於斉・燕、扞蔽也、猶歯之有脣也、

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田斉の軍事と外交 脣亡則歯寒、今日亡趙、明日患及斉・燕、且救趙之務、宜若奉漏甕沃焦釜也、夫救趙、高義也、卻秦兵、顕名也、義救亡国、威卻強秦之兵、不務為此而務愛粟、為国計者過矣、(田世家

)((

)斉が趙に食糧を送り秦の兵を引き上げさせることを主張するが、趙は斉・燕にとって盾の役を担うもので、もし趙が亡べば斉・燕には危難が迫る。したがって、趙を救うのは最高の信義を守ることで、秦兵を撃退すれば名誉に輝くと見ている(斉策二7)。斉としては秦・趙の対立を利用して国力を誇示する絶好の機会であったわけである。しかし、秦の勢威をもとに趙側に与しない斉王建の判断は、秦の統一への流れを加速させたものといえよう

)((

。いずれにせよ、長平の戦いによって従来の同盟関係は崩壊し、斉をはじめ燕・魏が秦・趙のどちらと同盟するかという諸侯の動向が勝利を決する局面を生み出していた。前二五九年に至り長平の戦いに勝利した秦、敗れた趙とも大きな損失を被ったが、とりわけ趙の国力は大幅に削減されたと見られる。このなか両国にはそれぞれ思惑があり、趙は秦へ入朝したが(趙策三

めて講和を成立させようとした(趙策三 12)、秦では趙に六城を求

のとなり、秦の得とはならないという現実があった(秦策三 10)。秦としては趙が滅んでもその北部は燕、東部は斉、南部は楚・魏のも

(趙策三 15)。なお、このとき趙王は一度、秦で抑留されている

12)。趙にあっては異なる二つの意見が存在した。一つは趙が六城を割譲して秦と講和するというもの。もう

一つは六城のうち五城を斉への賄賂として、趙・斉で秦を攻撃しようとするものであった(趙策三

趙の邯鄲攻撃を継続し王齕を送り込み、さらに趙・魏の合従の動きに牽制を加えた模様で、張唐が魏を攻伐するが、 を保有、ついで邯鄲を攻撃することになる(編年記「(秦昭王)四十八年、攻武安」・秦本紀)。秦は前二五八年にも は不調に終わり、韓が垣雍を秦に献じて講和したらしく、秦では趙の武安・皮牢を攻伐して、太原を平定し韓の上党 れば、韓・魏も趙を尊重し、趙・韓・魏の和親が成立するとの憶測も見出せる(虞卿伝)。ただ現実には秦・趙交渉 切り崩して斉と組もうとするように、斉の存在が大きな比重を占めていたことは確かである。一方で趙が秦と講和す 計画では趙の斉・韓・魏三国との同盟が前提として存在していた(虞卿伝)。この趙の対秦強硬策には秦・斉同盟を 10)。後者の対秦

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大正大學研究紀要 第九十九輯

戦果が得られなかった(秦本紀)。いずれにせよ、前二五九年の秦・趙交渉が不調に終わったのは斉が秦側についたことが関係したと見るべきであろう。斉の秦との連衡が本年の秦による邯鄲攻撃を継続させた要因といえる。ただし、秦の邯鄲攻撃をめぐっては各国の立場での対処が求められていた。斉・魏は秦を援けて邯鄲を攻撃し、斉は淄鼠を魏が伊是を占領したが(斉策三

12)、斉・魏には策略があったようである。趙策三

事情が存在したのは確かである の趙・魏・楚らの秦攻撃を黙認したものと考えられる。またそこでは燕が見られないことから、斉には燕との対立の と見える。ただ、実際には斉は一連の秦・趙対立の経緯から秦との同盟を一旦、保留すると見せかけ、翌前二五七年 の立場では秦の帝号称謂は認められず、趙をあくまで援助すべきであり、魏・燕に助けさせ、斉・楚は当然助ける、 とある。魏の立場では斉が弱体化し、邯鄲云々よりも秦が帝を称したがっているので、趙は秦に帝を称させよと。斉 ……、吾将使梁及燕助之、斉・楚則固助之矣、 彼秦者、弃礼義而上首功之国也、権使其土、虜使其民、彼則肆然而為帝、過而遂正於天下、則連有赴東海而死矣、 今斉湣王已益弱、方今唯秦雄天下、此非必貪邯鄲、其意欲求為帝、趙誠発使尊秦昭王為帝、秦必喜、罷兵去、 言として、それぞれ、 13には魏の辛垣衍、斉の魯仲連の発

)((

。後述のように前二五六年、燕は秦に与したらしく趙攻撃を行っているが、斉・燕では対立するなか、ともに秦との遠交政策と近攻が自国存立の外交方針であった点を示している。斉・燕では対秦外交をめぐって同盟関係を構築せず、あくまで連衡を堅持したといえよう。前二五五年、楚が魯を占領するが、これは地域的に斉の秦よりの外交に牽制を加えた行動であったと考えられる。前二五七年、秦の邯鄲攻囲にあって、趙は平原君を楚に派遣して援軍を求め合従を成立させた(平原君伝)。魏の公子無忌もこれに参加し、楚・魏が連合して趙を救援すると、邯鄲の攻囲は解かれた(趙世家・六国表)。合従した趙・魏・楚の軍の夾撃下に秦軍は大敗し、秦将の鄭安平が二万人をもって趙に降るが(范雎伝)、これは秦にとって閼与での大敗につぐものであった

)((

。斉はこのとき寝返って魏に応じ邯鄲を救ったらしく(斉策三

12)、斉の外交動向

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田斉の軍事と外交 が秦の敗戦を決定的にしたと考えられる。ただ、秦の対外戦略は継続され、趙の鄭を抜き汾城に駐屯し、邯鄲攻撃も継続したが抜けず汾城の軍に合流する(秦本紀)。また秦は別に趙に与する魏軍に対して攻撃を加え、斬首六千、流死者二万の成果をあげ、汾城を攻撃し寧新を抜き、はじめて黄河に橋を渡した(秦本紀)。なお、魏はこの事態にあって秦との講和を模索する動きがあったようである(魏策四

16・

世家 攻撃の意思があったようだが、実行されなかった(趙策一8)。別に趙は秦の将軍信梁の軍を攻撃して破っている(趙 め抜いている(趙世家)。前二五九年以来の趙・燕対立が関係していたと見るべきであろう。これに対して趙には燕 盟の道を選択したものと考えられる。燕では韓・魏・楚・西周・趙に対抗して秦側についたと思われ、趙の昌城を攻 にしたが、反撃にあい邑三六、口三万を献じて講和している(秦本紀)。斉はこの合従には参加せず、再び秦との同 魏・楚・趙が同盟するなか、西周も約に背き合従して天下の鋭兵を率いて伊闕で秦を攻め、秦が陽城に通じないよう 斬首四万の成果をあげ、趙を再び攻め二〇余県を占領、斬首九万の勝利を得ている(秦本紀)。こうして秦に対抗し韓・ し、三国が趙の新中を救うと秦軍は一旦引き上げる(六国表)。ところが、秦は一転、韓を攻撃し、陽城・負黍を占領、 17)。前二五六年に至り魏・楚に加え韓が合従に参加

)((

)。前二五五年に至り秦は西周を占領し(六国表)、滅ぼす(秦本紀・韓非子五蠧篇

を占領したわけで ように秦が対魏・対趙に忙殺されるなか勢力拡大を図ったものと考えられる。莒の位置からすれば楚は斉の近隣地域 おり前二六一年以来の魯攻撃にあって占領して、魯君を莒に封じているが(六国表)、「楚復強」(春申君伝)とある 15)。他方、楚では前述のと

)((

、秦と連衡する斉にとっては楚に背後を突かれた形であった

)((

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大正大學研究紀要 第九十九輯

二   戦国後期の田斉の崩壊

前二五四年には天下の諸侯が秦に来朝して服属し(秦本紀)、ここに長平の戦い、邯鄲攻囲の一連の攻防は終結する。秦を中心に山東諸国が同盟した模様で、韓王は入朝するが、魏にあってはこの会合に遅れたため、秦が魏を攻撃して呉城を占領、政令に服させている(秦本紀)。翌前二五三年に至り秦昭襄王は天帝を雍で祀り、天下に王たることを報告している(秦本紀)。前二五一年、秦昭襄王が死去するが、韓王をはじめ諸侯は将相により弔い、喪事に参加させた(秦本紀)。秦の国際社会での立場を象徴する情勢といえよう。ただし、秦王の死去は国際関係の変質を引き起こしたものと考えられる。前二五三年、魏は朝見した衛懐君を殺害し、魏にとって婿にあたる元君を立てた(衛世家)。そもそも衛はかつて魏に陶を攻伐され(韓非子有度篇1

)((

)、秦と連衡し反魏体制を推進していたが(韓非子五蠧編

15)、

魏の秦との連衡にともない内政干渉を被ったわけである

)((

。前二五一年、燕は対趙関係を改善するため講和を求め、趙成王の長寿祝いを行うが、このとき使者により趙が長平の戦い後、国力が疲労しているとの情報がもたらされ、一転して攻撃に出る(燕策三3・趙世家・燕世家)。こうして燕・趙の大規模戦争が始まる

)((

。燕は趙の鄗・代を攻伐するが失敗し(燕策三3・趙世家・燕世家)、前二五〇年には反対に趙により国都を攻囲される(燕世家・趙世家)。翌前二四九年にも趙は武襄君によって燕を攻伐し、国都を攻囲するが(趙世家)、燕が和解を求めたため解除した(楽毅伝)。このころ一方で燕将が斉の聊城を攻撃しているが、讒言により本国との関係が断たれ孤立することになる(斉策六3)。燕による趙への講和要請も実のところ対斉関係を配慮したものであったことは明らかである。このとき斉は聊城を燕から奪還するが、楚に南陽を魏に平陸を攻撃された(斉策六3・韓非子有度篇1)。秦・趙対立における斉の不誠実な外交が、秦との連衡が成立したいま、楚・魏の攻撃を被ったと考えられる。また前二四九年、東周君が諸侯らと秦に対して謀反を企てる事件が発生する。秦は相国呂不韋によって誅し、東周を事実上、滅ぼす(秦始皇本紀・秦本紀)。これに関わったと思われる韓が秦の攻撃にさらさ 一〇

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田斉の軍事と外交 れ、成皋・鞏を割譲して講和、秦はここに国境を大梁まで拡大し三川郡を置く(秦本紀・韓世家)。楚はこうしたなか魯を滅ぼし(魯世家・六国表)、着々と領土の拡大を目指していたが、斉にとって脅威であったことは間違いない。なお、同年、斉では君王后が死去するが(田世家)、前述のとおり君王后は秦との同盟と諸侯に対する信義路線を堅持したと伝えられ(斉策六8)、その治世は斉が東方に位置し、秦が主に三晋・燕・楚への攻撃に終始していたため、秦の直接的な戦禍を受けず、五国の対秦関係画策のなか斉王建の政務も安定していたという(田世家)。しかし、斉の親秦外交は実態として邯鄲攻撃に見られたように合従連衡の巧みな使い分けであって、ときにはそれを両立させながら国力を維持したことが戦禍を最小限に止めた要因といえよう。いずれにしても斉王建の親政は、こうした斉の外交政策に変化をもたらすことになる。前二四八年、趙・燕の対立抗争にあって趙では魏を援け燕攻伐を展開するが(趙世家)、これに乗じて秦は魏の高都・汲を攻撃し陥落させ、趙に対しても楡次・新城・狼孟を攻伐し三七城を占領した(秦本紀)。ここに秦・趙は戦いを再開する。前二五四年から前二五三年の連衡の成立後、しばらく秦は対外戦略を遂行していなかった。山東諸国はこの間、互いに戦闘をくり広げたわけだが、前二四九年の東周君の反、それに関わった韓への秦の攻撃後、本年には再び趙が韓に接近したようで、国際社会の連衡はいっきに崩れたものと見られる。なかでも秦・趙の対立では燕・秦の国交樹立の動きもあって(縦横家書二五章)、趙としても魏の存在は重要と考えていたが、むしろ韓が秦と連衡すれば趙が滅国に至る恐れがあり、韓と合従することが課題となっていた(韓策三

とも滅んでしまうという意見があった(趙策一 ければ三晋としては互いに猜疑心をもち、秦・趙の講和がなれば秦は楚・魏に斉を攻めさせ自ら趙を併合し、斉・趙 21)。また一方で、斉が合従しな ば、秦は斉地を分かち、魏を滅ぼすという見解が存在した(趙策一 地を分かち、斉の強さはそれまでとなる。趙が斉とではなく楚と合従すれば、秦の恨みをかい、趙と秦の連衡がなれ 15)。あるいは斉が合従しなければ趙は秦を助け魏を攻伐し、楚と斉

いたわけである。同年、楚では春申君が保有していた淮北一二県が辺境にあって、斉と接続し政治的処置に急を要す 14)。いずれも斉の動向が国際関係の鍵を握って

一一

(12)

大正大學研究紀要 第九十九輯

るとして、これを郡県としたいと楚王に申し出ている(春申君伝)。楚にとって斉の動向を見据えた措置であったといえよう。斉では王建の親政後、秦の連衡策が展開される国際社会にあって、秦に同調する外交政策を推進したと考えられ、前年の秦の魏攻撃にともない、その傾向は一層強まった模様である。ところが、一方で楚・秦の接近が見られるなか、斉としては親秦体制の再考が求められ、連衡から合従への政策転換が模索されたため、趙と斉の合従を求める世論が生まれたのであろう。そうした点から趙・燕対立に一連する秦の魏・趙攻撃は連衡崩壊への報復措置であり、秦としては斉と同様、このとき燕も遠交策の対象であった可能性が高い。秦では斉・燕の対立を巧みに利用しながら、斉との連衡を進めていたものと考えられる。前二四七年、趙・燕は領土を交換しており(趙世家)、和解したと推察される。実のところこの前提には一転して斉・秦の連衡の強化があったようである。そこで、秦では魏の上党を攻め大原郡を置くが、魏の信陵君が五国の兵を率いて秦軍を攻撃、これに秦の将の蒙驁が応戦するが退けられ、秦軍は解体した(秦本紀・六国表

)((

)。なお、同年、秦荘襄王は死去し、秦王政が立つ(秦本紀)。一方で魏は対秦関係から韓の管を攻伐している(魏策四

1)。前二四六年には秦が反撃に出て、まず趙の晋陽を攻撃して占領する(趙世家・六国表 24・韓非子有度篇

)((

)。これは五国連合が秦軍を退けた機に乗じて、趙が大原の晋陽の奪還を目指したことに対する秦の反撃であった

)((

。秦ではこのとき李斯が客卿として重んじられ、合従国に対して謀略を用い、外交政策を有利に展開していた(李斯伝)。自秦孝公以来、周室卑微、諸侯相兼、関東為六国、秦之乗勝役諸侯、蓋六世矣、今諸侯服秦、日譬郡県、(李斯伝)とあり、秦は六国に対して圧倒的に優勢な状況下にあった。斉ではこの時点で秦との連衡を基本方針していたと思われ、前二四七年以来の五国連合には与せず、三晋と秦の抗争の枠外にあったようである。前二四五年に至り秦が魏の巻を攻伐し、斬首三万の成果をあげる(秦始皇本紀)。また、趙ではこの機会に廉頗が魏の繁陽を攻撃し占領するが、趙孝成王の死去後、悼襄王が即位すると確執が生じ、廉頗は魏に亡命する(趙世家・廉頗伝・燕世家)。魏・趙関係は悪化したものと考えられる。前二四四年、趙では魏に対する防備のため平邑より中牟に至る道を開こうとしたが達 一二

(13)

田斉の軍事と外交 せられず(趙世家)、一方で燕を攻撃し武遂・方城を抜く(廉頗伝)。秦は韓を攻撃して一三城を占領し、魏の氏畼・有詭を攻伐した(秦始皇本紀・韓世家・蒙恬伝)。前二四三年には秦・趙関係は好転した模様で、ともに人質の帰国が実現する(秦始皇本紀

)((

)。この度の秦・趙関係の改善は前年、趙が燕を攻撃したことが関係していたのかもしれない。斉としては秦同盟にあって、趙の燕攻撃に何らかの役割を担った可能性が高い。趙では春申君らが使節として秦に派遣されるが、秦は趙から土地を得る画策を行っている(趙策四

17・趙世家)

。こうしたなか前二四二年に趙は魏と魯柯で同盟しているが(六国表)、秦対策が課題であったと考えられる。ここに秦・趙関係は完全に破綻したものといえよう。他方で趙は燕を攻撃し、将軍の劇辛を虜にする(趙世家・燕世家)。趙としては対秦関係悪化のなか、斉との関係構築すなわち斉・秦連衡の阻止を目指すため斉と対立する燕を攻撃したのであろう。こうした動向に関して秦は魏を攻伐し、酸夌・燕慮など二〇城を占領し東郡を設置する(秦始皇本紀・魏世家)。前二四一年に至り楚考烈王が合従の盟主となり、趙将の龐煖が主帥として、趙・魏・楚・燕・韓は連合軍を組織し秦に攻撃を加え、寿陵を占領、蕞を攻めるが陥落できず、秦軍が出軍したため退却した(秦始皇本紀・趙世家・春申君伝

)((

)。このとき五国軍が斉を攻伐し饒安を占領したが(趙世家)、斉は秦との連衡を堅持していたものと考えられる。秦が前年(前二四二年)、魏を攻伐して東郡を置き、国土が斉の国境に接したため

)((

、斉では秦との連衡をより強固にする必要があった

)((

。一方で秦は再び魏に対して攻撃を加え、韓歌を抜いている(魏世家・六国表)。なお同年、秦が衛を野王に遷すが(秦始皇本紀・魏世家・六国表)、これは衛がかつて秦と連衡したため魏に滅ぼされ、附庸となっていたこと(前二五三年)を前提とする政治的処置であって

)((

、衛の旧都濮陽は東郡に組み込まれた(衛世家)。いずれにしても、本年の合従は戦国時代最後の大々的なものといえるが、成果が得られず秦に対する脅威論を一層助長する結果となったと考えられる。なお、このころ楚は五国連合の失敗にともない、秦の脅威から都を寿春に遷している(楚世家・六国表・春申君伝)。秦の魏攻撃は翌前二四〇年にあっても継続され、龍・孤・慶都・汲を攻める(秦始皇本紀)。この動向に対して趙

一三

(14)

大正大學研究紀要 第九十九輯

は将軍傅抵が兵を率いて平邑を、慶舎が東陽にあって黄河南岸の兵を率いて黄河の梁を守った(趙世家)。秦では前二三九年に長安君(成蟜)が趙を攻撃するが、屯留で反する事件を起こし(秦始皇本紀)、趙は投降した長安君に饒の地を与えた(趙世家)。一方で魏では趙に鄴の城を与え(趙世家)、度重なる秦の侵攻に対処するため、嫪毒と呂不韋の対立にあって嫪毒に付くべきとの議論が存在した(魏策四

主張し、秦に行くことができた。趙は秦との関係に配慮を払っていた点が示されている。秦王は使者に燕は無道だ、 者は、秦・趙の一体化のなか天下の諸侯は両国に服しているが、この抑留が秦・趙関係の悪化につながりかねないと 秦は趙に燕を攻撃させようとしたらしく、このため燕では秦へ使者を送るが、その途中、趙で抑留されてしまう。使 兵而救燕、 以不能反勝秦者、国小而無所取、今王使趙北幷燕、燕・趙同力、必不復受於秦矣、臣切為王患之、秦王以為然、起 吾使趙有之、子何賀、使者曰、臣聞全趙之時、南鄰為秦、北下曲陽為燕、趙広三百里、而与秦相距五十余年矣、所 秦、無妨於趙之伐燕也、趙王以為然而遣之、使者見秦王曰、燕王竊聞秦幷趙、燕王使使者賀千金、秦王曰、夫燕無道、 受命於趙者、為秦也、今臣使秦、而趙繋之、是秦・趙有郄、秦・趙有郄、天下必不服、而燕不受命矣、且臣之使之 秦幷趙、北向迎燕、燕王聞之、使人賀秦王、使者過趙、趙王繋之、使者曰、秦・趙為一、而天下服矣、玆之所以 のような状況があった。 鄴・安陽・閼与・橑陽などを攻め落としている(秦始皇本紀・趙世家・六国表)。燕策三4によれば当該期には以下 前二三六年に至り趙・燕両国は戦いを再開する。趙は燕を攻撃し狸・陽城を占領、兵を引き上げないうち、秦が趙の に使節を派遣したことから(秦始皇本紀・田世家・六国表)、秦・趙・斉の同盟の動きがあったことは確かであろう。 のと考えられる。前二三七年、秦では呂不韋の乱が終息し、秦王政の親政が本格化するが、これを祝して斉・趙が秦 年にも秦の魏攻撃がつづき、垣・蒲陽・衍を攻伐したが(秦始皇本紀・魏世家・六国表)、魏は秦同盟に帰属したも の国際情勢にあって、連衡は秦の帝号称謂で、合従は楚が王となるとの見通しが確認できる(秦策四8)。前二三八 26)。さらに、当該期の秦の六国制圧と合従か連衡か 一四

(15)

田斉の軍事と外交 だから趙に燕を握らせるという。秦は燕に対して明確な猜疑心を持っていたと見られる。これに対して使者は、趙が燕を握り両国が協力すれば、秦の国力が機能しなくなると反論する。そこで、秦は燕を救ったのであった。秦では趙・燕の同盟を恐れていたことが窺える。このような秦・趙両国の燕をめぐるかけ引きが、この度の秦・趙の戦いにつながったものと考えられる。ただし、この状況のなか燕の対立国として斉は、前二三七年の秦・趙・斉の同盟の流れが崩れ、秦が燕を救援した事態を受け、秦との連衡路線を修正せざるを得なかったであろう。斉では燕・秦の連衡を承認できなかったわけで、趙よりの外交方針を選択した可能性がある。前二三五年には秦では魏を援助して楚攻撃に着手する(楚世家・六国表)。翌前二三四年に秦は再び趙の平陽を攻伐、武城に攻め込み、趙将の扈輒を殺害し斬首十万の成果をあげた(始皇本紀・趙世家)。このとき秦は雲中郡を設置した(水経注河水

)((

)。前二三三年、秦の趙攻撃は続けられ、趙軍を平陽に攻め宜安を占領し、これを破り将軍を殺害、桓齮が平陽・武城を平定する(始皇本紀・六国表

)((

)。趙では李牧が軍を率いて秦と肥下で戦い、これを撃退し(趙世家)、秦将の桓齮を敗走させた(廉頗伝)。一方で秦は韓攻伐を行っているが、このとき韓では使者として韓非を派遣する(韓世家)。以上の状況にあって、四か国が合従して秦攻撃を画策する動きがあったようである(秦策五8

)((

)。また、当該期では前述のとおり燕が趙に攻伐され(前二三六年)、秦・趙戦争が続くなか、斉の外交政策は対秦関係をめぐって動揺したと考えられる。ただ、後述のように同盟の成立を見なかった模様である。あるいは楚・韓も秦の攻撃を受け(前二三五・前二三三年)、秦と同盟を結び、魏もこの動向に呼応しようとしていたのかもしれない。したがって、実際のところ韓非の秦との外交交渉の背景には合従連衡の思惑が錯綜していたわけである。『韓非子』存韓篇1によれば次のような国際社会の方向性が見出せる。韓叛則魏応之、趙拠斉以為原、如此則以韓・魏資趙仮斉、以固其従、而以与争強、趙之福而秦禍之也、……、今賤臣之愚計、使人使荊、重幣用事之臣、明趙之所以欺秦者、与魏質以安其心、従韓而伐趙、趙雖与斉為一、不足患也、二国事畢、則韓可以移書定也、是我一挙、二国有亡形、則荊・魏又必自服矣、故曰、兵者凶器也、不可不審用

一五

(16)

大正大學研究紀要 第九十九輯

也、以秦与趙敵衡、加以斉、今又背韓、而未有以堅荊・魏之心、夫一戦而不勝、則禍搆矣、計者所以定事也、不可不察、……、夫攻伐而使従者間、焉不可悔也、趙は秦の攻撃にさらされ合従を推進したらしく、もし韓が秦に背けば魏がこれに呼応し、趙も斉を根拠地とする。そうすると韓・魏の秦への反逆は趙を援助して斉を力づけることで、諸侯が合従して強固となり秦に対抗できる。秦が韓を滅ぼすことと秦が斉・趙と敵対することは、全く異なる状況を出現させるという。とするならば、秦は楚に使節を派遣して、趙が秦に如何に欺いたかを説明し、魏に人質を提供して秦・韓で趙を攻撃すれば、例え趙が斉と同盟したとしても憂慮する必要はなく、韓も容易に秦に従う。さらに、秦によって斉・趙が亡国の状態に陥れば楚・魏も自然と服属すると考える。趙には確かに秦に匹敵する実力があるが、趙に斉が味方し、韓が秦に背いたならば、秦は楚・魏を完全に服属させられない。したがって、秦が韓を攻めれば、合従の国に付け入る隙を与えることになってしまうのであった。以上は韓非の韓を存続させる立場に立った国際関係の分析であるが、一方、同篇2には李斯の秦の立場からの情勢判断も伝えられ、これもまた当該期の国際関係の動向を見据えている。秦与趙為難、荊蘇使斉、未知何如、以臣観之、則斉・趙之交、未必以荊蘇絶也、若不絶、是悉秦而応二万乗也、夫韓不服秦之義、而服於強也、今専於斉・趙、則韓必為腹心之病而発矣、韓与荊有謀、諸侯応之、則秦必復見崤塞之患、……、今以臣愚議、秦発兵而未名所伐、則韓之用事者、以事秦為計矣、……、因令蒙武発東郡之卒、闚兵於境上、而未名所之、則斉人懼、而従蘇之計、是我兵未出、而勁韓以威擒、強斉以義従矣、聞於諸侯也、趙氏破膽、荊人狐疑、必有忠計、荊人不動、魏不足患也、秦は趙との敵対関係にあって、荊蘇を斉に使わし趙との絶交を交渉していた。しかし、合意には至らず、秦は斉・趙と対立する情勢にあった。韓が楚と共謀してこの諸侯間の流れに同調すれば秦の立場は危うくなる。したがって、秦としてはこの動向を打破するため対象国を明確にせず、とりあえず出兵することが求められる。そうすれば斉は恐れ秦との交渉条件を受け入れ、韓・斉も秦に服属し、趙・楚・魏も秦に奉仕することになると見做す。秦は合従の長で 一六

(17)

田斉の軍事と外交 ある趙と対等となるのである。李斯も結局は韓が秦に背くことが非であるとする見解であった。いずれにせよ当該期の趙の合従の動きを封じ込める意図があったことは確かで、趙は一旦は秦と盟を結んだが、秦が質子を帰国させると盟に背いている(始皇本紀)。斉ではこの時点で趙よりの外交政策を進めていた模様で、斉を含めた諸侯の合従は秦にとって脅威となり得た。秦としても斉を同盟に引き戻し、趙との関係を断絶させる方針が採られたが、成功せず秦は趙・斉との対立を余儀なくされたらしい。この打開策として秦では出兵が求められたが、斉との同盟を第一とする点からは、斉との連衡が最良の目標であった。いずれにしても秦・趙関係にとって、斉の存在は絶大であったわけである。前二三二年、秦は趙の鄴・太原・狼孟・番吾を対象に軍事行動を展開した(始皇本紀・趙世家・六国表)。趙の李牧は秦軍を撃破し、韓・魏を阻むが(趙世家・李牧伝)、秦側に韓・魏が組み込まれていたらしい。趙では戦いで卒数十万を失い、わずかに邯鄲が存在するばかりの状態で、国としての体をなさなくなっていた(斉策一

17)。なお、

同年、秦に人質になっていた燕太子丹が逃げ帰っている(燕世家

)((

)。前二三一年に至り秦は韓から南陽、魏からも地を割譲され(始皇本紀・六国表)、対趙計画を含む外交政策の転換期を迎えたものと思われる。前二三〇年、秦は韓を攻伐し韓王安を獲得、その地を納め穎川郡として韓を滅ぼす(始皇本紀・韓世家・六国表)。韓王安は前二二七年に居を遷されるが(編年記「(秦始皇)二年七月甲寅嫗終、韓王居□山」)、前二二六年には韓の旧都の新鄭で反乱が起きている(始皇本紀)。韓が滅ぼされたことは諸侯に衝撃を与えたと考えられ、国際社会の均衡が完全に崩壊し

)((

、趙・魏・楚は斉を加えた合従を早急に成立させる必要があった。秦と直接国境を接していない斉にとって、秦に対する憂患はそれほどではなかったらしいが、秦が斉を抱き込むか、趙・魏・楚が斉を抱き込むか、斉の存在意義が国際社会にあってより重要さを増していた(斉策三

12)。

前二二九年、前年の大飢饉(趙世家)につけ込む形で秦は趙攻伐を本格化させたようで、王翦が上党の兵を率いて井陘を降し、楊端和が河内の兵を率い、羌瘣と趙を攻撃し、邯鄲城を攻囲している(始皇本紀

)((

)。趙では李牧・司馬

一七

(18)

大正大學研究紀要 第九十九輯

尚が秦軍に反撃に出るが(趙世家)、秦の王翦の諜謀により二人は職を免ぜられ(趙策四

19・趙世家)

、替わった趙怱、斉の将軍の顔聚が秦攻撃を遂行するも、趙怱は敗れ顔聚の軍も逃亡し、趙王遷は秦に降服した(趙世家)。この度の趙軍には斉将の顔聚が加わっているが、斉が趙との合従を選択したことを示していよう。斉は秦との対立の道を推進したわけである。こうしたなか趙では秦に国の半分を与え、諸侯と危機感を共有して合従するという方法もあったが(秦策五7)、すでに諸侯は秦の国力を意識して合従自体が困難な情勢に陥っていた(燕策三5)。前二二八年、秦の王翦・羌瘣が趙を完全に占領し、邯鄲が秦の領土となり(始皇本紀・趙世家

)((

)、事実上、趙は滅ぶが、公子嘉が自立して代王となって、燕と軍を合わせ上谷に構えた(始皇本紀・六国表)。秦はこれに先立ち燕攻伐を進め中山に駐屯している(始皇本紀・燕策三5)。いずれにせよ、趙の滅国は趙と合従を選択していた斉にとっても重大な事態を引き起こすことになっていく。なお、楚では同年、幽王が死去し弟の猶が立って哀王となるが、即位二か月で兄の負芻らに殺され負芻自ら王となる事件が起きている(楚世家)。前二二七年、秦の王翦・辛勝によって燕攻伐がなされ、燕・代連合軍は秦軍を攻撃するが破られる(始皇本紀・燕世家・六国表)。前二二六年には秦が燕の都薊を攻撃し陥落させ、燕王喜は逃れて尞東に移っている(始皇本紀・燕世家・六国表

)((

)。このとき代王嘉の謀略を用いて(燕策三5)、燕は太子丹を殺害し、その首を秦に差し出しているが(始皇本紀・燕世家)、講和を求めたものと考えられる。秦は同年、一方で楚を攻撃し大いに破り、楚の十余城を占領した(始皇本紀・楚世家・六国表)。これは、前二二八年の楚の内乱による政情不安につけ込んだ行動であったようである。前述のとおり本年、韓の旧都の新鄭で反乱が発生するが、秦はすぐに平定した模様で、編年記に「(始皇帝)二十一年、韓王死、昌平君居其処、有死□属」とあり、もと楚公子で秦の封君の昌平君が領有していることから、韓は完全に消滅したといえよう

)((

。前二二五年、秦では王賁に一転して魏を攻撃させ、水攻めで都の大梁を苦しめ、城を崩壊させ、魏王が降服したため、その地を占領して郡県を置く((始皇本紀・六国表・魏世家・編年記「(始皇帝)二十一年、攻魏梁」)。事実上、 一八

(19)

田斉の軍事と外交 魏は秦に滅ぼされたわけである

)((

。さらに、秦は斉を攻伐し、歴下に軍を進めている(田世家)。なお、『水経注』泗水に「(魯)県、即曲阜之地、……、秦始皇二十三年、以為薛郡」とあり、秦は翌前二二四年に引き続き斉地を占領して薛郡を設置した

)((

。斉は本格的に秦の領域拡大の対象になり、斉・秦関係は修復不能となったようである。前二二四年、一方で秦は楚を攻撃し、李信が平與を陥落させ鄢郢を攻め、蒙武が寝を攻伐し大いに楚軍を破る。ところが、李信・蒙武の軍が城父に会した隙を衝き、楚軍は李信軍を大破し、二つの壁に侵入、七都尉を殺害、秦軍を走らせた(王翦伝)。これに対して秦では王翦に楚を攻撃させ、陳以南、平與に至る地域を占領(始皇本紀)、楚将の項燕は昌平君を立てて楚王とし淮南で反した(始皇本紀

)((

)。さらに王翦・蒙武が楚軍を蔪で破り、項燕を殺害する(楚世家・六国表)。つづいて前二二三年に至り秦は王翦・蒙武によって楚王負芻を虜にして滅国し楚郡とした(楚世家・六国表

)((

)。翌前二二二年に楚の江南の地は平定され、百越の君が降服し、会稽郡が置かれる(始皇本紀)。このほか前二二三年に九江郡・長沙郡が設置された(水経注淮水・湘水)。前二二二年、秦の王賁は燕の遼東を攻め燕王喜を獲得、代を攻め代王嘉を虜にし、燕・代両国を滅ぼしている(始皇本紀・燕世家・趙世家・六国表)。こうして代郡(水経注㶟水)・遼東郡(水経注大遼水)が設置される

)((

。韓・魏・楚・燕・趙がおよそ一〇年間に相次いで秦に滅ぼされ、斉は全く孤立した状況に陥ったわけである。前二二一年、斉王建と相の后勝は軍を発して西界を守り、秦軍の通行を妨害し秦との闘争に備えたが、秦では王賁の軍を燕より南下させ斉を攻撃し王建を捕らえ、斉を滅ぼす(始皇本紀・六国表)。秦は斉の地に斉郡(水経注淄水)を設置した。

おわりに

秦の攻撃に対して斉では王建・后勝とも戦わず降服し、王建は虜にされ共に遷される(田世家)。斉にあっては前

一九

(20)

大正大學研究紀要 第九十九輯

述のように君王后の親秦政策、諸侯との信義外交が長く堅持されたが

)((

、それはそもそも斉が秦から遠い辺鄙に位置し、加えて秦が三晋・燕・楚攻撃を展開するなか、直接的な戦禍を免れていた実情があった。しかし、君王后の死後、后勝が相となると秦の諜謀に惑わされ、秦王への朝見によって防備を固めず、さらに五国を助けて秦を攻撃しないことを基本方針としたらしく、斉は秦の全国統一を加速させる一因を担ったところがあろう。これは斉王建が五国と合従して秦を攻撃しなかったことが、そもそも滅国につながったとの批判となるわけである(田世家)。斉は国力としては方数千里、精鋭数万を有し、もし三晋大夫の対秦不満分子と楚大夫の秦のために働くことを望まない勢力を味方につければ、その勢威は奮い秦に対抗できたとの見解もあった(斉策六9

)((

)。しかし、こうした斉の外交に対する理解は、前述した諸点からやや従えない部分がある。斉は親秦と信義にもとづく諸侯外交に終始したのではなく、基本的に秦との連衡を主軸としながら、ときに山東諸国とくに趙との合従をちらつかせながら、巧みな戦略を駆使していたと考えられる。確かに斉は秦から遠い位置にあり、秦の三晋攻撃にあって直接戦禍を受けることはなかった点は事実の一端を示している。だが、斉は常に秦との関係を堅持しつづけたわけではない。さらに、斉は楚との外交にあって、対秦対抗をともに展開する余地はあったかもしれないが、一方で燕との対立抗争が課題として存在した。秦によって最後に滅国されたのが斉である点は、斉の対秦外交が関係していたと見るべきであろう。ときに趙が燕と協同して斉を脅かし、燕が趙と対立すると今度は燕の背後に秦がつくといった情勢にあって

)((

、斉の立場からすれば対秦関係を巧みに利用しながら、燕と敵対していたことが自ずと外交政策を制約させたと考えられる。以上、田斉の軍事と外交について素描を試みたが、斉の存立にとっては合従連衡という枠組みのなか、二国間外交を如何に展開するかが課題であった。周王を頂点とする社会秩序、帝号称謂による大国の支配体制ではすでに機能しない国際社会にあって、国として自立した軍事と外交の政策決定が存亡に直結していた。勿論、官僚制を根幹とする統治機構の成熟といった国内体制の整備がそれに呼応する必要があったが

)((

、大国斉の滅国は隣国と強国に挟まれた対外政策失敗の典型的事例といえよう。斉にとって燕との外交交渉は、むしろ対秦関係以上に慎重を要する懸案だった 二〇

(21)

田斉の軍事と外交 わけである。したがって、戦国後期は、強国化した秦をめぐり、本質的な二国間外交の成果が緊急に求められた時期であった。いずれにしても、天下は秦が最後に斉を滅ぼして統一され、秦王政が新たな政策を打ち出し統治を行うことになる。

方学論集』所収、汲古書院、二〇一三年))参照。 (1)  戦国中期の斉の動向については、拙稿「田斉の軍事と外交――戦国中期――」(『川勝守・賢亮博士古稀記念東

している。 朋友書店、一九九三年)。本小論では戦国後期を斉の復興期から秦による滅国までの前二七八年~前二二一年と 二八四~前二二一)秦の東方進出から天下統一までとする(佐藤武敏監修『馬王堆帛書・戦国縦横家書』所収、 咸陽遷都と商鞅変法まで、戦国中期(前三五〇~前二八四)合縦連衡の時代から斉臨湽の陥落まで、戦国後期(前 (2)戦国時代の時代区分については、藤田勝久「戦国略年表」では、戦国前期(前四五三、四〇三~前三五〇)秦の 置の経緯は稲葉一郎「南郡の建設と戦国秦の貨幣制度」(『史林』九〇―二、二〇〇七年)参照。 当該期の地名比定は、譚其驤主編『中国歴史地図集』第一冊(地図出版社、一九八二年)による。なお、南郡設 物出版社、一九七八年)、縦横家書は『馬王堆漢墓帛書・戦国縦横家書』(文物出版社、一九七六年)にもとづく。 の史料は『史記』本紀、世家等は名称のみを示し、基本的に編年記は睡虎地秦墓竹簡整理小組『睡虎地秦墓竹簡』(文 (3)戦国紀年については、楊寛『戦国史料編年輯証』(上海人民出版社、二〇〇一年)に準拠している。以下、引用

(4)楚は陳に移る以前に成陽に流亡していた(楚策四4)。

(5)平㔟隆郎『中国の歴史

02(都市国家から中華へ)

』(講談社、二〇〇五年)では、前二七八年、秦が楚の本拠地である湖北・湖南の地を征服した後、秦の支配領域は天下の半ばを占めることになり、合従連衡の必要性が生じた

二一

(22)

大正大學研究紀要 第九十九輯

点を指摘する。『韓非子』五蠧篇

13には合従連衡の理念が語られている。

(6)張正明『秦与楚』(華中師範大学出版社、二〇〇七年)参照。

(7)註

(3)楊寛氏前掲書参照。

(8)楊寛『戦国史』(上海古籍出版、一九八〇年)参照。

(9)華陽の戦いの年代については、註

(2)『馬王堆帛書・戦国縦横家書』一五章注(1)参照。

(10)王閣森・唐到卿主編『斉国史』(山東人民出版社、一九九二年)参照。

(『東方学』七一輯、一九八六年、のち同氏『史記戦国列伝の研究』所収、汲古書院、二〇一一年)参照。(11)陶と東方進出については、藤田勝久「『史記』穰侯列伝の一考察――馬王堆帛書『戦国縦横家』を手がかりとして」

阻止するかが国の方針であったとし、燕の長城築城が示すように専ら燕側の防戦を指摘する。 燕・斉関係には対立・友好と相反する面があるが、戦国時代後期の一時期を除くと、燕は如何にして斉の侵入を(12)  相原俊二「戦国期における燕の外交政策(燕国考その一)」(『中国古代史研究第二号』所収、一九六五年)では、

(13)註

(10)王閣森・唐到卿氏前掲書参照。西周策

13・周本紀には秦とともに斉の国力が当該期に意識されていた点が見

られる。(14)註

(10)王閣森・唐到卿氏前掲書参照。註

近して斉を牽制しようとしたとする。 年以後、本格化し、それは斉の勢力を上回る力を秦が持ち、領土の拡大を考える一方、外交政策にあって燕と接(12)相原俊二氏前掲論文では、秦の遠交近攻策は范雎が相となった前二六六

(15)註

(8)楊寛氏前掲書では、このたびの敗戦を秦の兼併戦争中、いまだ遭遇したことのない惨敗とする。註

唐到卿氏前掲書は、趙の勢力を示すもので、秦の兼併政策の挫折と見る。(10)王閣森・

斉に与え、斉の安平君(田単)を将軍として対燕攻撃に出た。その結果、成果が得られず、燕・趙両軍の持久戦(16)燕が先に趙を攻撃するが、趙王は済水以東の三城邑を割き、さらに廬・高唐・平原の地・城・邑・市など五七を 二二

(23)

田斉の軍事と外交 となり、帰国することになった(趙策四7)。なお、こうした斉の外交政策を秦軍の敗退(前二六九年)にともなう、山東各国との共同利益にもとづくものとする指摘も見られる(註

(10)王閣森・唐到卿氏前掲書)。

(17)註

(3)楊寛氏前掲書、註

(8)楊寛氏前掲書、註

(10)王閣森・唐到卿氏前掲書参照。

(18)註

(3)楊寛氏前掲書。註

(6)張正明氏前掲書では、名分上からは楚は秦の与国となったと見做す。

(19)田世家は「燕」を「楚」に作るが、『史記索隠』・斉策二7に従い「燕」とする。註

(3)楊寛氏前掲書参照。

(20)註

(3)楊寛氏前掲書参照。

(21)註

(19)参照。

(22)註

(10)王閣森・唐到卿氏前掲書参照。

ている。 学東洋史研究報告』第一九号、一九九五年)は、諸国の存在を前提として秦が君臨する「統一」の視点を提出し 統一帝国にむけての諸政策が準備されたとする。大櫛敦弘「統一前夜――戦国後期の国際秩序――」(『名古屋大 立五十周年記念東方学論集』(東方学会、一九九七年)は、秦では前二五八年、帝号を採用することが決定され、 ている(趙世家)。なお、工藤元男「皇帝号出現の背景――戦国時代の称帝問題をめぐって――」(『東方学会創(23)前二五九年に秦の邯鄲攻囲に関連して、武垣の令の俌豹と王容・蘇射とが燕人を率いて燕の国内で反乱を起こし

国がおこったとする指摘がある(註(24)この秦の敗北にともない山東各国は相互交戦が生じ、前二五六年の楚による魯占領、前二五四年の魏による衛滅

(3)楊寛氏前掲書註、

(10)王閣森・唐到卿氏前掲書)。

(25)周赧王がこの年、死去するが(周本紀)、名義上、周天子は存在しなくなる(註

(3)楊寛氏前掲書)。

(26)註

(3)楊寛氏前掲書参照。

通の歴史社会学的研究』所収、中国書店、一九九三年)は、このころ(前二五七年)山東の瑯琊にあって、斉に(27)平㔟隆郎「戦国時代徐州の争奪――滅宋・滅越問題を中心として――」(川勝守編『東アジアにおける生産と流

二三

(24)

大正大學研究紀要 第九十九輯

後押しされていた越が楚に滅ぼされたと考える。註

の滅国時期については、註 すれば、楚の脅威が確実に斉に迫っていたことになり、斉は対楚関係をやはり配慮する必要があった。なお、越 (5)平勢隆郎氏前掲書にも同様な理解が見える。もしそうだと

している。また、註 (8)楊寛氏前掲書、何浩『楚滅国研究』(武漢出版社、一九八九年)では別の見解を示

前二五五年のころのこととする。背景に斉・楚の対立があったと考える。 (3)楊寛氏前掲書では、孟子荀卿列伝「斉人或讒荀卿、荀卿乃適楚、而春申君以為陵令」を、

(28)註

対する圧力を軽減したと見る。 (8)楊寛氏前掲書では、魏が信陵君により趙を救い、秦を破った後、形勢に重大な変化が生じ、秦は山東六国に

(29)註

(3)楊寛氏前掲書参照。

(30)註

(8)楊寛氏前掲書参照。

んで、斉・韓に疑惑を抱かせたほうがよいという意見が見える。(31)五国に関しては『史記正義』に「卒燕・趙・韓・楚・魏之兵撃秦也」とある。魏世家にはこの機会に秦は魏と結

準備を一歩進めたことになり、趙としては西方の拠点を失ったと指摘している。(32)沈長雲等『趙国史稿』(中華書局、二〇〇〇年)では、晋陽は重要な戦略意義のあるところで、秦が趙を滅ぼす

(33)註

(3)楊寛氏前掲書参照。

点を提供している。 では、相邦建信君の兵器を趙悼襄王期の燕への攻撃にあって、連衡の姿勢をみせる建信君の活動と関連付ける視 州大学東洋史論集』三五、二〇〇七年、のち同氏『中国古代国家の形成と青銅兵器』所収、汲古書院、二〇〇八年)(34)下田誠「相邦・守相監造青銅兵器の編年をめぐって――戦国後期趙の政治過程・国際関係の解明のために――」(『九

(35)註

(3)楊寛氏前掲書、註

楚・魏・燕」とある。楊寛氏は梁玉縄『史記志疑』の説を引き、衛の参加を否定する。註 (8)楊寛氏前掲書参照。連合国については秦本紀に「韓・魏・趙・衛・楚」、趙世家には「趙・

(6)張正明氏前掲書では、 二四

(25)

田斉の軍事と外交 前二四二年に燕が趙に攻撃され、趙の対斉政策の一環として取り込まれたと考え、燕の参加を否定し、衛は魏の附庸であり、実際の合従は楚・趙・魏・韓の四国と見做す。なお、臨武君(趙策四

10)を龐煖とする説は、銭穆

『先秦諸子繋年』一五七(中華書局、一九五六年)参照。

(36)註

(8)楊寛氏前掲書参照。

なり、秦の統一に向けた戦略的意図が見出せる(註(37)後述の衛の旧都の東郡編入により、秦と斉は堺を接するが、韓・魏両国にとっては秦に三面を包囲されたことに

(10)王閣森・唐到卿氏前掲書)。

(38)註

(3)楊寛氏前掲書参照。

(39)註

(3)楊寛氏前掲書では、『水経注』河水により同時に雁門郡を設置したとする。

(40)宜安とともに赤麗を攻伐したとする(趙世家)。

(41)註

は未詳としている。 (3)楊寛氏前掲書では、この四国を燕・趙・魏・楚とする。常石茂訳『戦国策1』(東洋文庫、平凡社、一九六六年)

(42)註

燕協定を秦が破ったためと見る。(12)相原俊二氏前掲論文では、秦・燕間に何らかの協定があったとし、前二二七年の荊軻の暗殺未遂事件は秦・

二〇〇五年、のち註(43)下田誠「戦国韓国の地方鋳造兵器をめぐって――戦国後期韓国の領域と権力構造――」(『学習院史学』第四三号、

暁烈「戦国時期韓国疆域変遷考」『中国史研究』二〇〇一―三)参照。 維持していた点を指摘しているが、韓の軍事外交を考える上で重要と考えられる。韓の支配領域に関しては、李(34)同氏前掲書所収)は、韓が滅亡直前期に後の穎川郡・南部・汝南郡にあたる地方の一部を

二二九年)のことと考えられ、趙王は邯鄲から東陽に逃れていた(註(44)始皇本紀十九年(前二二八年)には王翦・羌瘣が趙の東陽を占領し、趙王を獲得したとあるが、これは十八年(前

趙と燕・斉の通道を断ったものと考えられる(註 (3)楊寛氏前掲書)。対趙戦争によって秦は

(6)張正明氏前掲書)。

二五

参照

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