研究ノート
北部証券会社の設立と解体 づ
l革新主義運動史上におけるその意義︱ ぐ
牧 野 俊 重
三︑革新主義運動と北部証券会社の起訴
ミネソタ州の起訴 北部証券会社は一九〇一年一一月一二日︑紆余曲折を経て設立されたのであるが︑設立後
間もなく︑ミネソタ州政府及び連邦政府から独占禁止法違反の廉で起訴され︑遂には最高裁判所の判決で解体さ
れねばならなかった︒そしてこれを推進せしめた背後には︑この時期に至って全国的な高まりを見せつつあった
革新主義運動の波があった︒
革新主義運動とは︑アメリカ史上︑世紀の転換期から第一次世界大戦参戦までの期間に展開された改革運動で
あり︑その主眼は実業家と結託したボスが支配する腐敗政治の廓清と︑そして何より横暴な巨大企業の規制と独
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占の弊害を除去することにあった︒周知の如く︑南北戦争以降の急激なインダストリアリゼイションの過程は反
面︑企業合同によるビッグ・ビジネスの異常な簇生と独占化の傾向を齎したが︑既に述べた如く︑一八九七年から
は更に第二の企業集中運動が起っている︒他方︑政界もこの過程で実業界と結託し︑或いはそれに支配されるに
至り︑各レヴェルの政治もその利益を図るものへと堕したのであった︒このようにしてアメリカ経済社会の構造
は一九世紀末に至って大きく変容するに至り︑富と権力とは益々少数の者に集中される状態にあったので札肩︒
革新主義運動とは一九世紀未に至って︑これらに対する不満と憤りを表明した農民︑労働者︑そして就中中産階
級の革新主義者︵progressives︶によって展開された改革運動であったのであり︑中西部を中心に起り︑最初都市
及び州のレヴェルで展開されたものであるが︑遂には連邦政府が改革要求に応えたことによって︑全国的のレヴ
ェルで展開されるに至ったものであった︒
このような革新主義の波を背景に︑先ずミネソタ州のダグラス最高法務官が二九〇二年一月七日︑同州を代表
して連邦最高裁判所に出頭し︑北部証券会社に対する起訴状を提出したのである︒だがこの結合体を解体せしめ
る行動は同年二月二四日︑同裁判所にょって棄却された︒そこで直ちに彼はミネソタ州の独占禁止法︵複数︶に
違反の廉で同社を同州裁判所に起訴したのである︒これらの法律の一つは平行若しくは競合する鉄道の合同を禁
じ︑また如何なる鉄道が平行或いは競合する鉄道を支配若しくは所有することも禁止していた︒また別の法律は
シャーマン法に酷似したものであった︒だが起訴状で同州が︑もし一八九〇年のシャーマン法が違反されている
ならば︑州は荷主である故に損害賠償を受取ることが出来ると主張したことから︑この訴訟事件は連邦裁判所の
管轄下に移されたのである︒
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ミネソタ地区連邦巡回裁判所での訴訟で︑荷主として受けた損害を回復せんとした同州は︑その立場を正当化
する為の凡ゆる利用可能な要素を列挙した︒例えば︑同州が鉄道会社に対して行なった公有地の授与︑及びGN
とNPによって便利となった地域にある売れない千五百万ドルと評価される三百万エーカー以上の公有地を指摘
している︒そしてこの土地の販売性と市場価値が両鉄道間の自由且つ継続的な競争に依存していることを強調し
たのである︒だが︑同州の起訴の核心は︑両鉄道間の競争が消滅して仕舞ったということと︑また共通の所有者
の下にある鉄道にはも早相違がない故に︑この合同が荷主の両鉄道からの選択を奪い去ってしまったということ
にあった︒それを立証する為に︑同州は証人を召集している︒例えば︑師範学校の校長は北部証券会社の設立
後︑も早学生達にそれらの鉄道を利用しての家と学校との往来を勧誘しなくなったと証言した︒また別の証人は
自分の農場から略三分の一マイルの所を走るGNの支線を利用していたが︑両鉄道の合同後この支線は撤去さ
れ︑一万乃至一万五千ブッシェルの小変をNP利用の為にニマイル半も離れた地点まで輸送せねばならなくなっ
たと証言したのである︒
これに対して被告側は︑当社の設立は州隠通高上の競争を抑制せしめるものではなかったと反論した︒即ち両
鉄道が州際輸送に関してその料金をコントロウルし得るのは僅か三%以下に過ぎず︑残りの九七%はミズlリ河
以西の一八社︑以東の一二〇社との間に協宅された料金の下にあると主張したのである︒またその他の抗弁は
召QCEnこooF乱器tgt0回という言葉で︑申し立てられた反競合的行動を釈明したものであった︒
然して巡回裁判所の判決は被告たる北部証券会社を有利とするものであった︒即ち当社は鉄道会社ではない︑
従って︑相平行する鉄道の合同に適用される法律の言葉は適合しないと判決を下し︑更に同州はGNとNPが料
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金をコントロウルする為に共謀したということを証明せず︑また同州の独占禁止法が違反されたということが証
明される程の如何なる証拠も提出しなかったと述べたのである︒しかしこの時には既に連邦政府がシャーマン法
に基づいて当社を起訴していた︒
T・口lズヴェルトのトラスト規制 北部証券会社の弁護士は彼等の経験と従来の裁判所での諸判決に鑑み
て︑連邦政府による起訴の可能性はないと考えていた︒}{1唇taSと一八九〇年代に僅か一八件の訴訟がシャ
ーマン法の下に行なわれただけであるということを考慮し︑当社の設立を遂行することに問題はないと考えたの
である︒だが彼等の状況判断は誤りであった︒
マッキンリーの死によって一九〇一年九月一四日︑シーオドア・ローズヴェルトが大統領に就任し︑これによ
って革新主義運動は遂に全国的レヴェルで開始されるに至ったのである︒その際彼の革新的施政の第一弾として
選んだものが北部証券会社に対する起訴であった︒当時︑アメリカにとって最も重要な問題の一つがトラストと
独占の規制であり︑世論はシャーマン法の効果的な施行と州際のビジネスに従事する株式会社に関する附加的な
連邦立法を要求していた︒既に述べた一八九七年以降の企業合同件数の著るしい増加が︑シャーマン法がトラス
トの発達とそれに伴なわれた諸弊を抑制する上で殆んど効果がなかったことの証左であった︒ローズヴェルトの
トラストに対する考え方は︑それを経済発展の産物として容認した上で︑﹁善と悪の両トラスト﹂に区別するも
のであった︒その際前者が自己の経済を消費者に反映させ︑公共の福祉を目的として公正に業務活動を行なうも
のであるのに対し︑後者は﹁巨富を擁する悪人﹂に支配され︑利己的な利益のみを追求し︑公共に関心を持たぬ
トラストであった︒
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彼の施政方針は北部証券会社を起訴した年の八月一九日からのニュー・イングランド及び中西部への遊説旅行
で明確にされたが︑それは全ての国民に対する﹁スクウェア・ディール﹂を宣言したもので︑その中で彼は﹁我
々は株式会社を破壊することを望むものではない︑我々はそれ等を公益に役立たしめることを欲するのである︒﹂
と述べたのである︒そして好ましからぬトラストは︑独占禁止法の厳格な施行により公共の利益に役立つよう
に︑国家の規制に服せしめねばならぬものであった︒
だが彼が大統領に就任した時︑問題は未だ連邦政府が巨大株式会社を統御する方法を云々する段階ではなく︑
政府がそれ等を統御する権力を持っているかどうかにあり︑それは偏に政府の起訴に対して最高裁判所の支持判
決が得られるかどうかにかかっていた︒周知の如く︑シャーマン法は一八九〇年七月成立した最初の連邦独占禁
止法であり︑その主要規定は﹁各州間の︑または諸外国との︑取引乃至通商を抑制する契約︑トラストその他の
形態の結合︑或いは共同謀議は︑すべて本法によって違法と宣せられる︒III・・l ︷∽MC・}・)」と﹁各州間の︑また
ハースノは諸外国との︑取引乃至通商の一部を独占し︑または独占しようとする者︑或いはその為他人と結合または共同
謀議を行なう者は︑すべて軽罪を犯したものとする︒⁝⁝︵Q図C・に・)﹂であった︒だが制定の時期がpre‑expert
eraであった為に︑その用語に若干の疑義があり︑本来の独占企業を抑制せんとする所期の目的は達成せられな
かったのである︒即ちトラスティ方式は禁止されたものの持株会社には無力であり︑また既述の内叱呑taS
での判決の如く巨大企業に対しては空文であら七︒翻って州際販売についての諸条件を支配する中規模会社間の
契約は本法に違反したのであり︑また労働運動にも有効に適用され︑寧ろ本法は﹁トラストの母﹂と称されてい
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このシャlマン法を彼のトラスト規制の棍棒としたローズヴェルトが︑その有効性のテストケイスとして選ん
だものが北部証券会社に対する起訴であった︒その制定からマッキンリーに至る一二年間に︑政府がシャlマン
法に基づいて起した訴訟は一八件︑衡平法訴訟等を含めても僅か三〇数件であったが︑彼は略七年半の在任期間
中に本法に基づいた起訴二五︑衡平法訴訟一八︑没収訴訟一の都合四四件を起しており︑然もその中にはビーフ・
トラスト︑スタンダード石油会社︑アメリカ煙草会社等の第一級の独占体を含んでいたのである︒更に彼の在任
中には︑彼のりlダlシップの下に多くのことが行なわれた︒トラスト規制に関するものは以下の如くである︒
シャlマン法が有効に適用されなかった理由の一つに︑多額の予算と専門的スタッフに裏付けられた法律違反
を調査する機関の欠除があった︒そのことからローズヴェルトは州際事業に従事する凡ゆる巨大企業の徹底的な
︵19︶政府規制を行なう為︑独占禁止法を補う法律の制定を議会に要請している︒その結果一九〇三年二月︑株式会社
局を内部にもつ商務・労働省が設立された︒この株式会社局は五百万ドルの特別基金の下に産業上のトラストと
企業合同に関する調査と資料の蒐集︑編集︑出版等を行ない︑独占禁止法に触れると考えられる場合︑法務省に
勧告を行なうことをその所管事項に含んでおり︑以後︑一九一五年に連邦通商委員会にとって代られるまで︑石
油産業︑煙草産業を含む様々な産業の詳細な調査を行ない︑トラストの起訴と勝訴に大きく貢献したものであっ懸更に同年二月には︑彼の州際通商委員会の権限拡大の要請に応えて︑議会は荷主に対する差別待遇とりベイ
トを禁じる権限を同委員会に与え︑公表された運賃規定を破れば鉄道会社の外︑その役員と荷主にも罰金を料す
ことを規定したエルキンズ法を制定した︒また一九〇六年六月にはヘップバlン法が成立したが︑それは州際通
商委員会の委員を五名から七名に増員させると共に︑その管轄範囲を鉄道以外の運送会社︑パイプライン等へと
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拡張し︑殆んどのフリlパスの授与と運送業者が所有または支配する会社によって製造された一切の生産物︵但
し材木とその製品は除く︶を州際の規模で輸送することを禁止したものであった︒更に一九〇三年二月には裁判促
進法が制定されている︒これはシャーマン法︑州際通商法或いはそれに類似の法律の下に提起された特定の訴訟
については︑それが﹁公共の為に重要である﹂という証明書を出すことの出来る権限を法務総裁に授けたもの
で︑その場合巡回裁判所での審問は他の訴訟に優先して促進されることになり︑その最終判決からの上告は六〇
日以内になされることになった︒これによって従来より短い期間での最高裁判所による最終判決が可能となった
のである︒
連邦政府の起訴 連邦政府の起訴は︑大統領がノックス法務総裁に北部証券会社設立の合法性についての意見
を求めたのに対し︑彼が一九〇二年二月一九日︑﹁最近︑私は︑自分の判断では当社がシャlマン法の条項に違
反しているという意見を提出した︒そこで大統領はそれが裁判で確定されるべく︑訴訟を命令した︒﹂という旨
の発表を行なったことによって開始された︒ローズヴェルトによれば︑彼の知る限りの法律家の中で︑先にカー
ネギl鉄鋼会社の顧問弁護士であったノックスだけが勝訴となると信じた者であった︒斯くて三月一〇日︑連邦
はセント・ポール巡回裁判所で北部証券会社︑GN︑NPの三社に対する訴訟を開始したのである︒
起訴の報せを受けたモルガンとヒルはショックを受けた︒モルガンはローズヴェルトが﹁紳士﹂として振舞わ
なかったことに失望し︑ヒルは﹁写真のポウズをとり︑俸給を取ることを除けば全く何もしない政治的冒険家と
︵26︶生命を諸けて戦うことを余儀なくされることは︑実に不公平のように思われる︒﹂と述べたのである︒またニュ
ーョークも当惑し︑その株式取引所はマッキンリーの死以来の急激なショックを受けた︒しかしローズヴェルト
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政府はこの行動で︑国民特に中小の実業家からの支持を獲得したのであった︒
政府はその起訴に際し︑北部証券会社がその表面に現われた以上のものであると看做した︒そして政府の考え
に対する支持がミネソタ地区のパーディ連邦検事によって為されている︒彼は︑この持株会社は一八九六年の
Pearsallv.Tr(j.N.R.co・の訴訟で連邦最高裁判所が無効としたGNとNPの結合を達成する為の新しい工
夫であると主張し︑更にヒル︑モルガン及び他の者は両ノーザン鉄道の実質的合併を成し遂げる為︑﹁共謀とし
ての非合法の結合﹂を構成したと述べたのである︒またこの結合の目的について彼は︑両鉄道間で行なわれてい
た州際及び国際通高上の全ての競争に制限を設けることにあったと述べ︑北部証券会社は不信によって設立され
たものであり︑それは北西部の鉄道の独占を目論んだ両鉄道の株式をプlルする為に組織されたものであると主
張した︒従って彼は裁判所に︑当社がGNとNPの株式を購入︑保有︑取得することと︑株主として投票権を行
使することを禁止する永久的な差止命令の発動を要求したのである︒
またノックス法務総裁がシャーマン法についての政府の見解を︑裁判所に提出した別の摘要書で説明した︒そ
こで彼は︑本法は一般市場で企業を競争させる為に制定されたものであると述べ︑鉄道業における結合はこれを
妨げたとし︑﹁競争を消滅若しくは制限する﹂ことは通商を抑制することであり︑故に本法違反であると主張し
たのである︒また彼によれば︑北部証券会社が事実上競争を消滅せしめたということを証明するには及ばず︑も
し当社が通商を独占し︑競争を抑制する権力を所持しているならば︑当社は本法に違反するのであった︒従って
政府の主張によれば︑北部証券会社の単なる存在がシャーマン法に違反するのであった︒
これに対して被告・弁護団の主張は︑政府がこの結合は通商の抑制を企図したものであると主張することによ
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って︑全国民の利益を増進させるこの体系を有罪にしようとする時は︑政府は申し立てた違法的趣旨の存在を納
得のいくように立証しなければならないという点に︑その核心があった︒またCB&Qの購入に関し︑この結合
は望ましい安定を助長するものであり︑政府が攻撃したものの全てが﹁州際及び国際通高上の問題に永続的な解
決を齎さんとしてなされたものである﹂と述べ︑この北西部の鉄道会社の結合はその地域だけでなく全国的の運
輸に安定性と確実性を与え︑公益を増進させたと主張したのである︒更に︑この持株会社が性格上︑守勢的なも
のであること︑即ちUP集団のNP急襲に鑑みて︑北部証券会社が将来起り得る急襲の成功を阻止する為に設立
されたものであることを強調したのである︒
更に彼等は︑北部証券会社は単なる投資会社に過ぎないのに︑それによって単に株主がその鉄道株を持株会社
株に交換したに過ぎない全体系を︑何故政府は非とするのであろうかと主張した︒加えてこの布置は僅かな者に
利益を限定するものではなかった︒実際︑訴訟が開始されて以来︑株主数は千三百人から千八百人に増加してい
る︒明らかに被告側からすれば︑シャーマン法は﹁或る州法下に設立された株式会社の株式の発行︑売買︑所有
を規制したり︑或いは法人設立者やその株式の売手や買手を取調べたりする﹂権限を連邦議会に与えていると解
一エ33−
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四︑連邦最高裁判所の判決とその結果
最高裁判所の判決 一九〇二年に北部証券会社に対する連邦の起訴がなされて以来︑訴訟は下級裁判所から連
邦最高裁判所へと移され︑略二年後の一九〇四年三月一四日︑最終的判決が最高裁判所で辛うじて五対四で下さ
れた︒
多数派を表明して︑ハーラン判事は連邦起訴に対する下級裁判所の判決を支持し︑ミネソタ州起訴に対する巡
回裁判所判決を破棄した︒連邦の起訴の要旨を容認した彼にょれば︑北部証券会社の主たる目的はGNとNPの
所有を統一することにあり︑かかる結合は曾て両鉄道間に存在していた競争の停止を齎すものであった︒そして
連邦議会はシャーマン法で﹁州際及び国際通商を抑制する全ての結合或いは共謀は違法であると布告することに
よって︑自由競争の原則を承認している﹂のであった︒従ってハーラン判事は︑GNとNPが北部証券会社に対
して利益配当金を支払うことと投票権行使を承認することを禁止する差止命令を発動したのである︒政府は株式
所有を規制し得るとは主張しなかったが︑正に自由競争を破壊することにょって通商を抑制した結合体を告発し
得たのである︒斯くて北部証券会社は︑当社が所有している両鉄道の株式を元の所有者に引渡すことを命じられ
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たのである︒
これに対して少数派のホワイト判事は︑北部証券会社はそのニュl・ジャlジl州の認可状が当社に権限を授
けたところのことを行なったに過きないと主張し︑合衆国憲法︵第一条第八節三項︶の下に議会が州際通商を規制
する権限を持っていることは認めたが︑一州で設立された鉄道会社の株式の所有が州際通商の範囲に入るかどう
かは疑問であるとしたのである︒そして彼は一八二四年のGibbonsv.Ogdencaseに依拠して︑﹁一州法法人
の株式の所有はどの点から言っても数州間の交通或いは通商であるとは言うことが出来ない﹂と結論を下し︑も
し議会がかかる所有を規制し得るとすれば︑それは憲法修正第一〇条即ち﹁憲法によって合衆国に委任せられ
ず︑また州に対して禁止されざりし権限は︑夫々各州或いは人民に留保せらる︒﹂の規定を無効としてしまうも
のであると主張したのである︒更に彼は﹁もし共謀と結合が存在し︑それが違法であるとすれば︑共謀がなされ
ているとそれを非難する個人の手中に︑何故それがその十分な力と影響を生ぜしめるべく放置されているのかと
いうことを私は理解出来ない︒﹂と述べたのである︒
またローズヴェルトは大統領在任中︑最高裁判所判事を任命する機会を三回得ており︵一九〇二年︑三年︑六
年︶︑一九〇二年にはオリヴァー・W・ホームズを任命したが︑彼はロしスヴェルトの期待に反し少数派であっ
た︒即ち︑鉄道は全てがその性質上少なくとも僅かな地域を独占するものであるが︑にも拘わらずシャーマン法
が﹁一連の人々が株式会社を設立し︑州際鉄道を建設すること﹂を禁止しているとは誰も言わないであろうと述
べ︑もし本法がそのように解釈されるとしたら︑それは﹁社会の一人一人への分解︑即ち各人が他の全ての人々
と争っている状態への分解﹂を企てるに等しいと︑彼は主張したのである︒
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尚︑シャーマン法は特に本法に違反し︑有罪が確認された者には裁判所の裁量により︑﹁五千ドル以下の罰金︑
或いは一年以下の禁錮刑︑若しくはこれが併科せられる﹂と規定しており︑この事件ではモルガン︑ヒルがそれ
に含まれるものであったが︑最高裁判所はこの点については︑この訴訟は民事訴訟であり刑事訴訟ではないと判
決を下したのであった︒
判決の結果 この五対日の判決で政府の勝訴となり︑北部証券会社はシャーマン法違反とされ解体されるに至
った︒判決の八日後︑ヒルはその解散と株式交換の複雑な計画を告げる書状を発送している︒
判決が北部証券会社資産の按分ベイスでの整理を命じたことによって︑当社株の過半数を支配していたヒル=
モルガンのグループは︑資産の株式所有者への比例した分割を行ない︑それによって彼等を有利ならしめる分配
プランを決議した︒即ちそれはNP株の過半数を彼等の掌中に齎そうとするものであった︒だがハリマンのグル
lプも一九〇一年に支配することに失敗したNPの支配を獲得しようとしており︑このプランでは返却される株
式が曾て彼等が所有していたNP株と異なる為︑彼等はこれに反対し︑以前所有していたNP株の返却を要求し
たのである︒斯くてハリマンのグループは一九〇四年四月︑このプランによる分配が行なわれることを制止すべ
く︑差止命令の発動を巡回裁判所に訴えた︒だがこの問題は︑請願が一九〇五年一月巡回裁判所によって否定さ
れ︑三月に最高裁判所が下級裁判所の判決を確認したことによって解決された︒
判決の結果︑北部証券会社は解体された︒しかし︑NP株とGN株の所有関係には殆んど変化がなく︑両鉄道
の支配権は依然モルガンとヒルの手中に保持されることとなった︒また両鉄道間の協力関係も︑CB&Qの所有
と運営とにおいて継続されることになったのである︒そしてこの判決の結果をヒルは端的に次の如く述べたので
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あった︒﹁今や一つの代りに二つの株式が発行される︒それらは異なった色で印刷されており︑そしてそれが主
たる相違である︒﹂と︒
む す び
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以上︑北部証券会社が如何なる過程を辿って設立されたか︑そして何故解体を余儀なくされたのかということ
を考察してきた︒従って以下︑当社の解体が如何なる意義を有しているかを述べることによって締め括りとした
い︒
北部証券会社は最高裁判所判決によって解体された︒しかしその判決は殆んど実質的には重要性を持たなかっ
た︒即ちグレイト・ノーザン鉄道︑ノーザン・パシフィック鉄道及びシカゴ・バーリントン&クウィンシー鉄道
の支配が︑両ノーザン鉄道株の大きな所有によって︑依然モルガン=ヒルのグループに残されたからである︒そ
して以前の利益共同体︵community0{Ftaag}が再確立されたことによって︑判決の明確な目的であった両鉄
道間の競争の回復は遂に達成されず︑寧ろ北部証券会社が設立される以前よりも一層緊密な提携関係が齎された
のである︒
だが︑この訴訟事件はビッグ・ビジネス史上︑一つの画期的な事件であった︒それは政府の勝利を齎し︑シャ
ーマン法を有効に生き返えらせたのである︒即ちこの判決によってKnightcaseでの判決が覆えされ︑本法本
来の目的が実現されるに至ったのであり︑州際通商を抑制する為に違法な結合を行なわんとする株式の売買も本
法の適用範囲内に置かしめることになったのである︒またロlズヴェルト大統領が何より欲した政府が実業界を
統御する権力︑即ち独占を抑制し企業結合を規制する権限も︑この判決によって政府に回復されたのである︒こ
のようにシャーマン法解釈に一大躍進が見られたこと︑そして政府によるビジネスの規制が可能となったこと
に︑この訴訟事件の意義が見出せるであろう︒
また︑この会社の起訴を命じたのはローズヴェルトであり︑これが彼の着手した最初の行動であったが︑先の
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解体の意義と︑また革新主義運動の現実的な指導者として最初に連邦のレヴェルで改革を推進したことを考慮す
れば︑彼の功績は高く評価しなければならない︒先例をつくり世論を具体的にすることにおいて︑また後のタフ
トやウィルスンが大統領在任中にょり一層高潮した革新的施政とトラスト規制政策の先駆として︑彼は大きな役
割を果したのである︒そして彼のトラスト政策は︑同様に革新主義者であったウィルスン大統領がそれを破壊
し︑一九世紀の旧い自由競争の復活を唱道したのと異なり︑それを経済発展の産物として認め︑公益に奉仕せし
める為に連邦政府の規制に服せしめようとした点に︑その特色があったと言えるであろう︒
当社の解体はJ・P・モルガンの強力な金融資本に対して加えられた最初の強烈な打撃であった︒この訴訟事
件と共に新しい独占禁止活動の時代が始まったのである︒そして一九〇七年に︑モルガンの別会社であるU・S
・スティールがTennesseecoal。IronandRailroadco'を買収する前に︑大統領の承認を求めた如く︑今
や実業家は企業合併を企てる前に︑政府の態度を考慮せぬばならなくなったのである︒更にこの判決は︑生産業
の分野における株式会社がその形態を持株会社から統合された組織︑即ちマージャー︵E晨a︶へ変形させ始め
たことに多くの影響を及ぼしたのである︒これで復活したシャーマン法はやがて︵一九一一年︶︑スタンダード石
油会社︵ニュー・ジャージー︶からその三三の子会社を奪うのである︒
尚︑アメリカの鉄道業は︑革新主義運動の終焉期と略同じ二九一六年を境として︑以後衰退へと向った︒そし
て今度は鉄道の統合問題が現われたのである︒即ち一九二〇年の運輸法の規定に基づいて鉄道の完全な統合案を
作成する為に︑州際通商委員会はハーヴァード大学のウィリアム・Z・リプリー教授にそれを委嘱している︒そ
の結果彼が提案し︑同委員会が発表した試案は︑全国の鉄道を一九の系統に統括しようとするものであり︑その
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中にはノーザン・パシフィック鉄道︑バーリントン鉄道及びその他の政道を一つの系統に︑またグレイト・ノー
ザン鉄道︑セント・ポール鉄道及びその他をもう一つの系統に統括することが含められていた︒だが両ノーザン
鉄道はこれに反対し︑両鉄道︑パーリントン鉄道及びコロラド&サザン鉄道を一つの系統にすることを提案し
た︒そして一九二七年七月には︑株式の交換によって両鉄道の支配を新しいグレイト・ノーザン・パシラィック
会社に統一する為の権限を正式に申請したのであった︒
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