中井正一論文の運動学的省察 一運動の「感じ」の記述に向けて一
三 浦 忠 雄*
(1998年10月6日受理)
An Examination for the Works of Masakazu Nakai concerning Problems of the Movement Theory of Sports
一An Attempt to Describe the Sense of Sports Movement一
Tadao MIURA*
(Received October 6,1998)
はじめに
実践に結びつくことを第一義とする運動研究にとって重要なことは,運動を行う側(すなわち人 間の側)から運動を捉える,ということである。さまざまな指摘にあるように,自然科学的分析を 主力としてきたスポーツの運動研究では,人間の運動を冷ややかな対象として眺めてしまうことに
なる。運動は記録された事実として観察の対象にもなるが,行うという視点からみれば,運動は時々刻々形成し,推移していくものなのであるD。自然科学的分析的研究においては,運動は成されたも
の,時間的空間的に痕跡として観察されるが,成されつつあるものは,分析の対象になりずらく,感 覚的なもの,経験的なものとして研究対象からはずされてきた2)。スポーツの世界では,運動は実践の対象でありながら,研究面においては記録された,結果とし
ての対象として扱われてきた。しかしそれは「記録されたもの」としての解釈・説明であって,生々流転の生(なま)の記述・把握ではない。運動は状況の関係系の中で行為として発生,形成されて いくものであり,しかもまた状況そのものも時々刻々変化していく。そしてまた状況に対応して運
動が成されていく3)。佐々木によれば,動きによって現れる情報によって動きが調整される。すなわち運動とは動きによって現れている情報と常に循環しつつ発達的に更新しているシステムなのであ
る4)。記録された運動は,この状況から切り出されたものであり,運動の発生,形成のひとつの断面 を表しているにすぎない。またスポーツや体育においては,運動は何かのためにあるもの,すなわち健康や体力増進に役立 つもの,スポーツマンシップなどの精神の酒養がはかられるものとしての存在だった。しかしその
*茨城大学教育学部保健体育講座体育方法学研究室(〒310−8512水戸市文京2−1−1)
ような役割としての存在から,運動は「それ自体」の存在が意味あるものとして考えられるように
なってきた5}。我々にとってスポーツとは何なのか。その為にはスポーツの根底をなす運動それ自体,あるいは運動を行うこと自体を把握することが必要なのであるが,しかし運動それ自体(あるいは スポーツが持っているもの)を現実のまま記述することは困難を伴うものであり,それを実現して
いる文献も極めて少ないと言えるだろう6)。「委員会の論理」や「美学入門」で知られる中井正一(1900〜1952)は,1930年代に俗に「スポー ツ三部作」といわれる論文7)を発表しているが,中井はスポーツを実際にプレーする実践者の体験に
ついての分析という視点から,スポーツをする時の「あの感じ」とは,何だろうかを追求した,と
一 一
セわれている。言い換えれば「運動を遂行する時の感じ」を通じて「スポーツ運動それ自体」を,そ
れも実践する人間の側から記述しようとしたものと考えられる。中井の論文はこの意味において重
要な示唆を与えてくれるものであると言える。本論は,哲学的・美学的な検証はその役を他に譲り8),中井によるスポーツ運動自体の具体的な記 述をとりあげ,その運動学的意味9)を考え,スポーツの存在的意味とも言うべき運動の遂行中に抱く
感じ(中井の言う美感)について考察するものである。野口三千三等に参考資料を求めながら,運
動学的には例えばK,マイネルが指摘する「運動覚」Bewegungssinn(あるいは運動の自己知覚)1°)やF,フェッツ等の言う「運動感」BewegungsgefUh111)との関連性についても検討しようとするもの である。
中井正一について(スポーツとの関わりにおいて)
中井は1922(大正ll)年4月,京都帝国大学文学部哲学科(美学専攻)に入学,深田康算の門下生
になると同時にボート部に入り,コックスをつとめた。高等学校(三高文科甲類)後半と大学時代 に熱中したスポーツの世界での経験は,中井の美学の思索の中に生かされ,その成果としていわゆ
るスポーツ三部作がまとめられた12)。中井はとりわけボートとアイススケートを得意としたそうで,久野は回想録の中で,中井はスポーツを余技的健康法として楽しむだけでなく,スポーツ的経験の 美的意味を深く掘りおこし,美学の一ジャンルにまでたかめようとする冒険において,まことに異
色の美学者であった,と述べている13)。しかしスポーツ体験の反照を深く味わえる美学者がほとんどいない当時の状態では,スポーツ美 学の地平も開きようがないというのが,偽りのない状況であった。この意味において中井の存在が
貴重なのである。中井はrいきの構造』の九鬼周造教授から十分学びながら14),気分の美学を力動的,集団的,実践的美学にまで転回させようと試み,最初の計画を集団スポーツの生み出す躍動的 気
分 の抽出と分析として実現したのである15)。真下の思い出によると,中井は,昭和の初め頃栄えたダンス・ホールへも積極的に出かけ,背の低い中井がすらっとしたダンサーとワルツを踊ったこと
を思い出すとしている16)。中井の動くことへの意欲が感じられて興味深い。一方で当時のボート部のレギュラーの回想によると,中井はコックスで実地ではなにもやれなかったらしく,だからむしろ
コックスとして「未来のオルガナイザーとしての資質」を発揮したのだという解釈を紹介している。梯明秀は中井の活動を含めて,京大のボート部の活躍ぶりを報じながら,中井の活動を仲間として
見てきた一人として,正確な漕法も知らずしてコーチ役を果たし,「スポーツ気分」を論ずる中井を 冷静に観察し興味深い17)。
中井は,新しい芸術の方向を,スポーツから学んでさえいたのである。中井正一は,美学を専攻 する学徒として勉学にいそしみ,その一方でたまたまスポーツが非常に好きであり,そうした日常 的な嗜好を自分の専門分野にも反映させた。その点では希有な,趣味を専門分野に生かした研究者
であった,とはよくこれまで言われてきた評である。しかし,先に引用した言説などをよく読むと,中井正一の根底には,現代の芸術への深い絶望があって,新しい芸術[形式]の誕生を待ちのぞん
で,それをスポーツに求め,スポーツの実践に身を入れた,といえるかもしれない18)。中井のスポーツへの関心の大きな特徴は,集団スポーツとしてその組織性がつねに大きな課題と
なるラグビーに強い興味を寄せたことである19)。中井美学を築いている今一つの柱は,アリストテレスからくる技術とフランツ・コルマンの「技術美」の柱であり,さらに今一つのは,コルビュジェ
などの建築学からみた余剰を切り捨てた機能美とカッシーラーの機能概念の柱であり,これはスポーツの感覚からも裏打ちされていた。しばしば中井が口にした「ラグビー・デンケン論」なども,ラ
グビーのもつ機能を哲学的に解きあかしたものであった。最後の一つの柱は,マルクスの大衆性,集団性からくる集団的主体の確立で,これもスポーツ精神によって支えられていた。この四本柱が中 井の思惟の土俵であり,それを支柱にして,彼の「委員会の論理」は組み立てられたものと見てい
い20)。
現在この論文を目の前にして感ずることは,1930年代の初頭において,いわゆる体育専門家ではな
い哲学者がスポーツについて鮮やかに論究した驚き,また,スポーツ全盛の今日においてもなかな
か扱いにくい,運動を行う時に抱く感覚や気分をとりあげたユニークさ,新鮮さへの驚きである。現在多くの哲学者や学者がスポーツに関する論述を行っているが,その多くが,総合的な立場をとり ながらも身体論的,文化論的地平が主流で,どのように動くか,あるいは動いている時に抱く「感 じ」等の具体的な運動実践につながる論究は少ない。中井論文がこの要求を完全に満たしている訳
ではないのだが,極めて意味深い示唆を与えてくれていることは事実である。確かにVTRやコンピュータは勿論のこと,少し以前まで主役だった8mmシネフィルムもままなら
ない運動記録技術の当時,今日のような形での運動研究があったとは思えないのだが,1930年代は,現在想像する以上にスポーツは盛んで,現在よりも限られているとはいえ,人々のスポーツや運動
への関心も相当進んでいたのではないかと考えられる。そんな中で,中井が「スポーツ」や「運動」を取り上げたことは,彼の哲学的,美学的思索の当然の流れとはいえ,急速に近づいてくる近代技 術革新をにらみながら,スポーツに論題を求めたことには強い関心を寄せざるを得ない。中井は美
学を専阿とする哲学者であるが,長田によると,中井は「気分」「感じ」「情趣」「呼吸」「味わい」「こころもち」といった,容積をもった日常の言葉を特徴的なほどに多用して,いま,ここにある感覚
をこぼさない言葉づかいを大切にした。中井が「存在は,認識の前に気分において会得されている」と言っているのは印象深い21)。
スポーツ三部作の概略について
中井は三論文において,多様な視点からスポーツあるいはスポーツ運動について論究しているが,
概略次の諸点にまとめることができる。
1,スポーツの遊戯論的視点 ・… ○口△
2,スポーツの競争性の美感 ・…○□
3,スポーツの筋肉操作の美感・…○口
(スポーツ気分の肉体的技術的性格)
4,スポーツ気分の空間的性格…・△
5,スポーツ気分の時間的性格…・△
6,近代スポーツの展望… ……・○口
(スポーツの階級性)
それぞれの内容について,取り扱われている論文について明示すると上記のマークのようになる。
(「スポーツの美的要素」○印,「スポーツ美の構造」□印,「スポーツ気分の構造」△印)
3つの論文は内容が重複している部分が多く,三部作といわれる程に共通性が高い。論文の構成内 容からみると,「スポーッの美的要素」(1930年)と「スポーツ美の構造」は基本的に内容の構成は 似ていて,「スポーツ気分の構造」(1933年)が異なった内容が論じられている。このことからして
「スポーツ美の構造」は「スポーツの美的要素」に近い時期に書かれたのでは,ということが想像さ れる。いずれも「美感」「快感」「感じ」等運動時に抱く感覚を根底にして論じているのが特徴的で ある。従来,美的な快感より劣ったものとして思われてきた身体的快感を美感として救い出し,「ス
ポーツ美学」の成立する地平を開くと同時に,この全身体的感覚,快感を,集団,社会というプラ
クシスの現場へ接木していくモメントとして積極的に評価したといわれている22)。中井のスポーツ三部作に現在注目する理由は,この身体感覚がスポーッを語る上で欠くことので
きない,スポーツをする時の「あの感覚」(中井は「気分」と表現する)を概念づける重要な視点となり得るのではないか,と考えられるからである。それはスポーツをなぜやるのかという問いかけ に対する一つの解答でもあり,また運動をするということの人間学的考察をも期待されるものであ る。本論は,このうち3の「スポーツの筋肉操作の美感」を中心に検討していくものである。
筋肉操作の美感と運動の自己知覚について
中井論文で最も特徴的なのが,運動実践に関する直接的,感覚的な記述である。確かに,腕をど のように回し,脚をどのように伸ばすかというような,運動の仕方に関する具体的な記述はないの だが,中井は運動時に抱く「感じ」を,単なる運動遂行に伴う感覚を越えて筋肉操作の美感快感 としてとりあげている。筋肉操作の美感とは戸惑う表現であるが,例えば論文「スポーツの美的要
素」においては(1)技術(「自然の技巧」)としての筋肉操作の有様,(2)フォームの習得の経過における無心の境地(疲労を感ずるまでの筋肉操作の美感)の有様の2つの点から論じている。
スポーツの練習において,迷い,苦しみながらも練習に練習を重ねて,ようやく納得の境地に達
する。その経過の中に中井は独特の「技術美」としての視点を投げかけたのである。
* 筋肉が,筋肉自らの行為をその内面の神経をもって評価し,そこに深い快適性をもって端 的なる反省を促すこと,ここに「自然への技巧」への真に純粋なる直感があるというべきで
あろう。(中略)主観も筋肉であり,客観も筋肉である。自分自らの中にその合理性を直感を もって把握するのである。「スポーツの美的要素」お)
中井は,運動において身体(筋肉)自身の中に,自らの運動を判断する働きを捉えており,独特 の技術美を論考する基盤としている。このことは運動学的に重要な示唆である。マイネルはrわれ われは自分自身の運動を外からだけでなく,体験し,運動覚,筋覚あるいは運動性分析器の助けに
よって,「中から」も知覚する』といい,運動の自己知覚やそれにもとつく自己の運動の判断は,運 動の練習や学習にとって極めて重要であると述べている24)。フェッツの資料によると,運動覚の研究 をレオンチェフが発表したのは1930年であり25),このことからすると,中井の考察の先進性が注目される。ところでこの問題に立ち入る源となる中井の基本的立場に注目したい。中井は,近代美学に おいてカント等が「合法則的であること」をもって規準としたことに対して,ギュヨウ等の「生命
的(人間的,自然的)」であること」をもって規準とすることを支持し,このことは新しい美の感覚に当面する現代の美学にとって,深い課題となるとしている。この合法則的であることと,生命的
であることの関連性を考える時に,「型」(フォーム)と「感じ」あるいは「イキ」との相関の中で,スポーツの美学的考察をすることに深い興味を引かれると中井は述べている26)。
* r健康状態に在ってわれわれが自己の奥底の声に耳をすますとき,秘めやかな,甘美な歌 というべきものが聞こえる。生きていることを感ずること,そこにこそ,すべての快感の根
底と同じく,すべての芸術の根底があるのではあるまいか』とギュヨウはのべている。「スポーツの美的要素」27)
* 水になれば水に,雪なれば雪に,土なれば土に,その各々の構成機能に身体構成のフンク チオンが適用して,新しき型(フォーム)を構成するその構成の効果を常に感覚が測定しな
がら遂に極まれる一点にまで導いてゆくその過程,そこにいわゆる「技術美」の特徴がある。「スポーツの美的要素」鋤
中井はrスポーツの技術のような人間がつくりあげた技術は,自然の中にある法則というような ものではなく,自然と適応しながら,自分で創造し,発見し,それを固め,そしてさらに発展させ
ていく法則であり』,こういうようなものを「技術」であるとみた29}。中井には現代の芸術への深い 絶望があり,新しい芸術形式の誕生を待ち望んでいた30)。r新しい芸術論の世界は,何か,陸上競技の走りっこの世界のような,ダイナミックな動いている感じの世界である31)』中井は行動と実践を大 切にしていた32)。この訓練と行動を喜ぶこころは,実は現実の大きな信頼があってこそできるもので,
●
サ実の中に「論理的なもの」「正しいもの」が必ずひそんでいることを信頼しきっている証拠なので
あると考えていた認)。中井は自分の肉体を信じ,自分の行動や感覚を信じるなかに,真実があること,そして美があることを論じたのである。スポーツの中に,新しい美の方向性をみきわめようとする
中井の考えの一端がうかがえる。M,グロッサー等が指摘するように,自己の運動判断による「現在値 一 目標値 一 比較」は
運動の欠点を修正し,習熟させていくうえで必須のことである34}。その為には,自分の身体を信じ,感覚を研ぎ澄ましていくことが大切である。中井の言うように,自分自らの中にその合理性をもっ て把握するのである。近年,競技現場ではメンタル・トレーニングや観察トレーニングが盛んにと
りあげられるようになってきたが,その根底をなす運動表象Bewegungsvorstellungや運動内観の問題 また運動の他者観察やその背景にある運動共感Mitvollziehen der Bewegung等の問題は,運動の実践やトレーニングにとって更に研究されるべき事柄であり,運動学においても重要な課題となること
を改めて認識せざるを得ない。そして中井は,そこに「美感」という視線をからめたのである。フォームについて
中井の運動実践への思いや筋肉操作の美感は,いわゆるフォームの習得に関する思索で特徴的に
表現される。* あらゆるスポーツに於いて各々フォームをもっている。即ち現在まで研究されつくした集 積及び種々なる主張のもとに生成されたる一定の型である。スポーツマンはコーチより先ず
それを学ぶのである。そして最後までそれを学ぶのである。(中略)試み,企て,練習する過程に於いて,フト判るのである。ハハアこれだなと判るのである。そしてこの気分は一念に 於いて発揮されるものであると同時に後の凡てのフォームにその匂いはまつわりついて離れ
ない。「いき」「呼吸」「こつ」のもつものがそれである。 「スポーツ気分の構造」35}中井のフォーム習得の要点は次の二つの文章に読みとることができる。一つが
* 私のこれまで解釈し来たりしものは,スポーツマンが疲労を感ずるまでの筋肉操作の快感 である。どんなフォームであれ清らかな空気の中で胸をふくらませる快さ,湧くがごとき血 液の奔騰「生きることを感ずる」意味で,それはすでに快いであろう。
「スポーツの美的要素」36)
二つが
* よくコーチがどうしてもフォームを修正できない選手をして疲れ切らしめることがある。そ
の疲労の中に,しかもオールを引いている選手に対して「そうだ,その気持ちを忘れないよ うに」ということがある。未だ自らのフォームを自ら意識している中はそのフォームは真の
ものではない。いわば「岸が気にかかっている」 「スポーツの美的要素」37)技術習得の初期段階において,過剰な力の入れ方やひとつひとつの動作を気にかけることは,マ イナスの要因となることは一般的にも考えられるが,だからといって選手を意図的に疲労困憲にさ せて,力も出ない状況の中で何かを指導するとは,方法論的に全面的に支持できないが,中井の言 わんとするところは別にある。中井は主体性を無視した,無自覚な繰り返し練習を強要しているの
ではない。確かに中井は,リップスの言う「忍苦の快感」を認めている。r苦しみを耐え,持続し,抵抗し,さらに打破して耐切るときは,それは能動的なる行為自身の内面の,その中のさらに深い
能動者,すなわち「行為の中の行為」としての忍苦Erleidenにまで至りつくす38)』独特の美感のまなざしである。
* 一つの「行為」とその「忍苦」,そこに存在の一角の暴露がある。引きゆがめられた微笑を
もってそれを親しく嘗めるスポーツの内奥の愉悦は,その秘かな喘ぎ,喘ぎ,喘ぎの喜悦で
ある。一本一本のオールを流さないこと,誤魔化さないこと,それはむしろ,いわるべき言 葉ではなくして筋肉によって味覚されるべきものである。疲れ切った腕がなおも一本一本引
き切ってゆくその重き愉悦は,人生の深き諦視の底の澄透れる無心にも似る。
「スポーツの美的要素」鋤
中井は,この無心性や深い意味での「微笑気分」が技術の訓練における特別の「冴え」をもたら すとしている。あるまま思い切り行為して,しかもあるべき則にはまってゆく快さである。すなわ
ちr「忍苦」はもはやその放棄しかあり得ない極みにおいて何物かに身を依する40)。』運動は明確な意志がなければ為されないが,100%意志の下にあるわけではない。ここにスポーツの達成Leistung
の複雑さがある。意識に関して野口の示唆は興味深い41)。『「意識を捨ててやらねば駄目だ」「無意識でなければでき
ない」というようなことを言う時がある。これではまるで,意識が運動遂行の阻害要因であるかの
ようである。』運動を行おうという中で,意識とはどのようなものと考えればよいのであろうか。野 口によれば,r意識とか意志,理性という「こころ」の主体があって,それが指令を発して他に命令を下すようなものではなく,あくまで非意識の自己の総体が主体であって,その主体が意識を創り だし,それを使い利用するのである。したがって,行動が阻止されて意識意志と呼ばれるような 働きがあらわれるので,意識,意志というようなものがあるのではなく,そのような働きがあるだ けである。そうすると,意識を捨てるとか,無意識でなければとか,ことさら意識するのは馬鹿げ たことで,こころの主体である非意識的自己の総体にまかせることによって,最高最適の意識の在
り方が自然に生まれる』と考えるのである42)。いま野口にも注目するのは,運動について,自分の身体の中におこる(あるいは,おこりつつある)変化として,徹底的に運動者の側から記述しようと
しているからである。野口の指摘を待つまでもなく,力を抜くということは,力を入れることより はるかに難しい。運動遂行の面からみると,力を抜ける程に,課題の運動習熟が高まっているとい うことが絶対に必要だが,同時に,力を抜いた自分の身体の状態を,自ら知ることである。そのた めには,力を抜く訓練とともに,力を抜いた状態を感ずる訓練が必要である。野口の表現によれば
『解放された(力を抜いた)からだとは,力を抜く,リラックスするというような意識さえなくて,
からだの中に束縛や圧迫や抵抗がなく,全身の細胞のひとつひとつが,あたかも五感をそなえた小 さな自分であって,目ざめ,自由に呼吸し,感じ,考え,お互いが凝固せずに自由なつながりと交
流をもっている,感じのいい,といった状態である』となり,さらに,「力を抜く」ということも,余分な力を「なくす」ことによって,新しい必要な力(ものやこと)を創造する積極的概念である
と,方法上の示唆を与えている43)。* (前略)身は自ら水にアダプトして融合して一如となる。その気分の中にこそ,成長する フォーム,生身(なまみ)の型がある。それはコーチの百千万の警告も只閑葛藤にすぎずし
て,遂に伝え得ない底のものであり(後略) 「スポーツ気分の構造」44)この意味でフォームは自ら産み出ずる図式である45),とする中井の見解は首肯できる。納得の境地
は偶然に遭遇するものではないはずである。苦しんで苦しんで,こうやれば,ああやればと迷いな がらに積んだ練習の果てに到達する境地すなわち,自分の肉体が,一つのあるべき法則,一つの形
式,フォーム,型を探りあてたのである46)。しかもそこには爽快な気分が広がるのである。日本では「フォーム」Formという言葉はよく用いられるが,実際には様々な意味内容で使われて
いる。しかし一般的に,そこにある定められた型あるいは形式,図式的,概念的な運動形態や運動 の仕方,あるいは運動中の一瞬の静止像等「固定的な捉え方」がなされることが多い。このような
運動への固定的な考え方が,運動の学習や指導の固定化やマイネルが警告する鋳型化Stilisierung der Bewegung47)を招くことさえある。これに対して中井は(確かにその言葉の使用について論文においては,概念上の多様性が認められつつも)基本的にフォームとは「自らかたちつくるもの」そして
「成長するモルフェ48)」として捉えているのは重要である。
たとえばよく良い姿勢というが,まっすぐな姿勢だけが良い姿勢ではないはずだ。姿勢というフ オームは,図形的な善し悪しで判断されるべきものではない。動きが無数にあるように,姿勢も無 数にあり,運動と同様に,状況の関係系の中に存在する。野口によれば,良い姿勢とは,ある働き が最高に発動できる身構え(からだの状態)ということである。直立の姿勢は,まっすぐに立つこ とが,ある働きにとって最高であるとき,良い姿勢となり,まっすぐではやりにくい仕事にとって
は悪い姿勢となる49)。伝統芸能の学習法を研究する生田は,わざの習得における「形」と「型」の違いを指摘している。
入門者は師匠をまねる「形」の模倣からはいり,繰り返しの稽古の末「型」が習得される。つまり
「意味を持たぬ感覚」であった「形」の模倣が,「解釈の努力」によって,自分にとって「意味のあ
る感覚」すなわち,自分の主体的な動きに変化を遂げていくのである。言い換えれば,学習者自身
が「形」の意味を発見し,「形」を自らの主体的な動きに,つまり自らの「型」にしていくのである5°)。この自らの型を発見した時,「なるほど,これか」と脇に落ちる,つまり身体が納得したのである。
中井のフォーム論も,形の練習から,型の発見までの身体の知る努力を指摘しているのであろう。尼
ケ崎によれば,このような知は「…できる」知であり,「…に成る」知なのである51)。
* 無駄な力みや見てくれや小理屈を捨て去って,水と人間が,生でぶつかって,微妙な,ゆ るがすことができない,法則にまで,探りあてた時に,肉体は,じかに,小理屈ぬきに,そ の法則性のもつ数学を,一瞬間で計算しつくして,その法則のもつ構成のすばらしさを,筋 肉や血や呼吸でもってはかり,築きあげ,そのもつ調和,ハーモニー,響きあいを,肉体全 体で味わうのである。 r美学入門」52)
* (前略)一ストロークーストロークのねらいが安心のいく域にまでねらわれるにあたって,
そのねらうこころのきわみにリズムの本質をもたらす場合,いわゆるその呼吸,そのイキは すでに数学的解釈を越えて(後略) 「リズムの構造」お)
指導者はむやみやたらに選手に指示を出さない方がよい。今,選手はどのように動こうとしてい るのか,どのような運動表象を投企しようとしているのか,選手からの回答や確認を得てから次の
指示を出すべきである。この意味で運動学習においては,学習者の主体性が尊重されるべきである。意識と行為遂行との関連は,数々の指摘翻にあるようにその把握は難しいが,トレーニングの際選
手にどのような意識,運動表象を持たせるかは,スポーツ・トレーニングの最大の課題であり,指
導者が最も配慮する点である。野口は,「人間はもともと,意識によってひとつひとつの筋肉を動か せるようにはできていない。イメージによるしか動きようのないのが人間ではないのか。」とし,動きにおける諸要素は分析すれば分析できるとしても,実際にはきわめてわずかの意識されている動
きと,それにともなった数多くの総合である,という騙)。選手自らが納得の境地に達する道筋をつけ るのが,指導者の役割である。* 投げ出されたものがそのまま投げ企てられたところのものであったのである。ハハアこれ だな,というこれこそは全く「現」のもつ実存在論的構成に於ける被投的投企Gewo㎡ner
Entwurfそのものを筋肉の中に把え来って明るみにもたらせているのである。「スポーツ気分の構造」お)
運動学では,運動形態(フォームとしてもよい)を実行上のまとまりとして捉え,そこに「運動
ゲシュタルト」Bewegungsgestaltの概念を与えている。我々がスポーツで運動を見るという時には,そのような運動ゲシュタルトを対象にしているのであって,単に物理的,光学的な対象物の移動を
見るのではない571。運動はたしかに形態として,視覚にとらえられるが,そこには単に運動の外的側面というのではなく,運動ゲシュタルトの意味で理解されなければならない。運動は身体行為とし て,小間切れにできない,有意味なものとして,部分の総和以上の全体としての構成体であるから
である甜)。人間の運動は,意味ある情況のうちに行為として形成される。それは時空的に座標として 与えられた,図式的な形態(フォーム)ではなく,何かを成すべく為された「達成」なのである59)。オールをどのように動かすかという点も,オールという道具との関係を,中井は共同相互存在と
しての性格を確認し,「道具の附託的性格が資本的構造をもつ場合,肉体は機械に向って,機関的組織に向って,従ってスポーツもこのユニフォーミティに向っての見透しのもとにそれが行わるるを
見るのである」と運動学的に意味深い示唆を与えている60)。尼ケ崎の主客未分の知の考え方に従えば 61),身体という主体が,オールと水という客体を意識しているようではまだまだ未熟で(中井的表現 では「岸が気にかかっている」),習熟が増して,もはや客体として意識する必要がなくなる主体と客体の一致のレベルにまで達することが重要である。ヴァイツゼッカーの言う「形式の同一性」
Identit翫von Formenの実現である62)。
運動遂行に伴う快感について
佐野も言うように,運動者が運動の達成に関して運動者自身がとらえている運動遂行上の「全体
の感じ」というべきものがきわめて重要であるし,運動学習上それを重視したい63)。VTRが手軽に使える今日,授業でも趣味のスポーツにおいても運動の観察にVTRが使われることが多い。運動の 観察には何でもかんでもまずVTRの趣さえある。確かにVTR情報は運動の検証に役立つが,実際に
どのように動いたのか,の自己知覚による運動遂行上の感覚とのすり合わせがきちんと行われない と,効果的な情報提供にならない場合があるし,運動学習の主体性は確保されない。運動者の感受 性のレベルや正確さの問題はあるのだが,自分がどのように動いたのかは自分自身が知っているは
ずである64)。野口が言うように,動きの感覚とは,(からだの中でおこった)からだの中身の差異を 感じとり,その変化,流動,関係を感じとる感覚だからである65)。そして感覚とは,もともと自分で 体験し,味わう他には判りようのないものだからである。特に運動がうまくいったのかどうかは,自 分が感じているのである。* 長い練習のうちに,ある日,何か,水に身をまかしたような,楽に浮いているようなここ
うもちで,力を抜いたこころもちで,泳いでいることに気づくのである。その調子で泳いで
いきながら,だんだん楽な快い,すらっとしたこころもちが湧いてきた時,それが,美しい
こころもち,美感にほかならない。自分の肉体が,一つのあるべき法則,一つの形式,フォー
ム,型を探りあてたのである。自分のあるべきほんとうの姿にめぐりあったのである。この
めぐりあったただ一つの証拠は,それが楽しいということである。 「美学入門」66)例えば艇足の出たボートが,密集を貫いてゴールラインに突込む俊足の出足ののびを見ている時,
何ものかに喰込んでいくごとき,澄める感じをともなう。ボートマンの一部では一般にこれを「ゲ
フユール(感じ)が出た」と呼ぶと中井は言う。「水こころ」とも表現される,何か水の中に融けこんだような,何ともいえぬ美しい瞬間は,それは他の人が見ても,近代的な,美しいフォームにな
っているのである67)。我々は運動中や運動後にさまざまな「感じ」を持つものである。それは運動感Bewegungsgef曲1と
呼ばれるものである。フェッツによると,この感じはいわゆる感情的なものではなく,複合的な体
験Erlebnisと考えられるものであり,達成体験と成功体験が含まれているものである。その反応は,遂行がうまくいっているほど,すなわち運動表象と運動経過の一致がよりよく体験されるほど,強
く,しかも快感としておこる。逆に思うようにいかなかった場合は不快感が生じる68)。フェッツは更に,運動感という複合的体験の中には,快感情と並んで知覚,判断志向というも のも含まれるという。これは運動表象と運動遂行の比較という経過からくるものである。このこと は,一定の,よくマスターされた運動経過には「共通的な(公共的な)運動感」の存在を示してい る。すなわち「この運動は,まだ感じさえつかめていない」などの言いまわしが,実践現場ではな
されることがあることからもうかがえるからである69}。佐野によれば,ある運動を行う際におこる快・不快の感情は,まず「運動の仕方」の是非が感情
的,気分的に取り上げられたものだという。「何となくいい感じがする」というのは,この場合,単 なる気分ではなく,「運動の仕方」の根底を支えている運動感Bewegungsgef曲1なのである。運動者は「これだ」と思えば,その仕方を再現しようとする。運動者は各固有の感覚器官を通して手や脚 はどうなっているのか,勢いはどうであったか,リズムはどうであったかなど自己の運動の成り立
ち具合を受け取るのである70)。先にあげた運動の自己知覚もまず第一に,運動の仕方の是非に関する内観だとしてもよいであろう。優れた体操選手が現れる快感を,自分の運動の正しさないし質の尺 度にしていることはよくみられることである。フェッツによれば,快感あるいは不快感の基礎とな
るのは,単に,外的な,客観的に確認しうる運動ばかりでなく,主体関連性Subjektbezogenheitが重要である。すなわち,同一の運動者による,外形的にはかなり一致している運動経過において,異
なった感情がおこることさえあるのであるという。運動系における進歩や改善は,客観的でも,主
観的でも,常に快感と結びついており,逆に停滞や退歩は一般的に不快感となる71)。「楽に漕げること,無理のないこと,そこに自ら然らしむる底の自然の法爾がある」これは運動実践上,合理的な
状況にあることを示しており,中井によればそれは楽しいことであり,美感なのである72)。運動学的にみると,運動学習に運動者の持つ運動感の視点を加えることは,運動学習の新たな展開に道を開
くものであり,運動する人間の側からの運動研究の契機となるものである。野口によれば,不快感
を伴う感覚は,一般に集中性,局在性があり,明確で強烈なものが多い。これに対して,快感を伴
うものは,実感が漠然としていたり,拡散的であって,とらえどころがない。このことが,集中的
に緊張するより,解放的な脱力の難しさにつながる。このように意識というものは,阻害経験や不
快時に強く発生するから,自己の存在感というものが,不快や緊張時に強く確認されるのはそんな
理由からである。そこで野口は,快・不快の感覚が高度に発達するならば,それによって,自己の
存在感生きがいを確認し,これを基礎とする行動・表現が生まれる可能性を主張している73)。このことは運動実践(体育)の新しい側面の方向を示していて興味深い。
まとめ
中井の諸論文は,どのように動くか,動けばよいのかに関しては,今ひとつ明確な手応えがない。
当時の練習仲間の回想にもあるように,中井の運動への取り組みが,実際にどれほどだったか確認 できないという事実もある。中井の第一義的な関心は美学的思惟であり,体育教師のような運動実 践や運動方法にないことは明白である。ひとつの比較資料として,同じボートに関しての虫明亜呂
無74)の記述を参照する。* ブレードに水がはいる。上体のまがりかげんと,手首のかえしに,むつかしさがある。強 い力をこめながら手首の柔らかいかえしは,魔法のように弾力性にとんでいる。そして,全 身のウエイトが,オールにかかりはじめる。水中にいれたブレードの部分,リガーにかかっ た部分をのぞいて,オールが中央のあたりで,しなりにしなって,今にも折れるのではない かと思わせる。逆に言えば,艇の進行にともなって,水の重さをクルーが足と腰で充分に耐 えているのがわかる。手首の柔らかさが,スピードと重量のバランスをたもつ,重要なショ ック・アブソーバーの役割をはたしている。手首の柔らかさで,オールの折れるのを辛うじ てふせいでいるようだ。 「スポーツの誘惑」75)
この文章は,東京オリンピック大会(1964年)のボート競技について,当時のJOC(日本オリンピ ック委員会)が製作した記録映画を観ての虫明の記述である。
* オールに両腕をかけ,ストレッチャー・ボード(蹴り板)を両脚で蹴る。スライディング・
シート(移動座席)が滑車の音を澄んだ川風に響かせながら移動してゆく。広く,深く,力 強く,水との訣別をくりかえすオールの動き,前傾姿勢を徐々におこしながら水にさぐりを
いれ,水の精との出会いをくりかえす。オールが擁う。オールがきしむ。オールを支え,オールを締める金具が,乾いた悲鳴をあ げる。水の量感,水滴のあつまりのように淡く,軽快で,率直な量感がオールをとおして伝 わってくるうちに,怒濤のたくましい手ごたえと変わって,堀川の全身を麻痺させる。と突 如,解放と覚醒の激しい交錯がつづく。若者たちを目の前にして,堀川の体の中に猛々しい
ビートが打ちならされている。
(ランニング・ウオーターか?)
艇は停止している。ボートが理想的な漕法,充分に水に乗り,波を支配し,バランスがと
れた漕法をしているかぎり,艇は停止し,両舷の水だけが清洌に走りさってゆくように映る。その感覚,まさに艇上でオールを握っている者だけの目がとらえる水の動きを,堀川は起立
した若者たちの列から感じとる。(注・堀川は主人公名) 「ペケレットの夏」76)この文章は,東京オリンピック大会の日本代表クルーの監督に就任した堀川宏一郎を主人公とす
る,スポーツ小説の中の記述である。虫明は,この種のジャンルの作者にありがちな,劇的なドラ
マ仕立てや,教訓的な人生ドラマに陥ることなく,「スポーツそのもの」を冷静に描こうとした作家 であったと評価されている77)。当時の日本クルーの最大の欠点は,オールを操作する時の手首のかえ
しの拙劣さにあることに特に注目し,日本クルーの大会までの欠点克服のトレーニングの様子を冷 静に観察し,ストーリー構成を図った。しかしながら,深いところでの虫明のスポーツあるいはス
ポーツに身を委ねる若者の存在への愛情が読みとれ,単なるスポーツ讃歌を越えた,ひとつの美学 を主張している。虫明の記述は美しく,中井に比べて「運動」への表現が豊かであることは確かで
ある。しかし虫明の表現は,あくまで「見ている者の眼」からのそれである。これに対して中井は,自己の生の体験,すなわち実践者による実践者自身の体験を記述しようとする立場をとった。一般
論として,観察者と実践者の記述の違いはある(ただ,運動経験の豊かな観察者の表現については,運動共感の観点から今一つの運動学的な課題が提起されるものだが)が,自身が体験していること を記述することは確かに困難を伴うものであり,主観的なものは科学的研究には馴染まないという
批判にもさらされる。この意味でまず第一の中井の仕事の運動学的な意義を認めるのである。二つは,スポーツの体験を美的な体験と捉え,さらにスポーツという存在を美的な存在として位 置づけようとした点である。中井は,形式としての「秩序」と生命的な「衝動」の二つの概念の間
に芸術論が苦しんでいる状況を踏まえ,近代スポーツのフォームや組織(システム)が持つものは,「衝動を胎む秩序」であるとの認識に立ち,それこそ新しき時代の成長しつつあるモルフェであると
共に新しき社会ならびに芸術の形式であり組織である,と考えた。時代精神の把握の最も近い路と
して,新しき精神形式の最もすぐれたる指示者として私:達はスポーツを持つのだと論じた78)。中井は,すでに芸術とスポーツは分け難き連続点にまで歩みよっている,という認識にも立っているが,木
下の指摘にあるように,確かに,中井はスポーツを美学の一ジャンルに高めようとしたのではなく,美学をしてスポーツを論じうる学問にまで変貌させようとすること,危機に瀕している芸術をスポー ツを学ぶことによって新しく蘇らせようとするところに,中井の試みの大きさをみるべきだろう79)。
おわりに
中井が主にとりあげた水泳とボートは,「水」という存在を介した運動として,ひとつの特異性を
みるべきだろう。自分自身の運動感覚とは別に,水との調和対応が要求されるからである。水はう
まく対応すれば推進力を得られるが,間違えば思わぬ抵抗に会う。そのような水に身を任せながら,主体性を保ちつつ,何とか水と自己の運動の調和を探る,そのような状況は日常性から離れた状況 である。雪面滑走のスキーにも類似したことが言える。このような身体状況が,中井のように,思 惟の対象になったとみるべきだろう。スポーツは多様な様態と内容があり,これだけで,スポーツ
の持つ気分や美感を論ずることはできないが,スポーツ存在論に向けての大きな足がかりに見える。スポーツは楽しいものであるべきだが,「楽しみ」の中身を考えないと,スポーツの楽しみもわから
ないし,結局はスポーツがわからない。またチクセントミハイの言うように,スポーツの楽しさを 獲得するには,楽しみ(フロー)を経験するまでに準備や努力,すなわち運動や身体面の訓練や質
的向上が求められる80)。スポーツは知れば知るほど,熟達すればするほど,楽しみが深まるのである。中井は「競争性の美感」や「美感の空間的特性」,「近代スポーツの組織性」の中で間の気分,方
向の感覚,速度の感覚やチームプレーの構成の感覚等に論究しており,中井のスポーツ美感の全体
像の検討については,今後の課題としたい。注
1)F,J, J, Buytendijk,浜中淑彦訳r人間と動物』(みすず書房,1970)p.46.「身体構造の分析(解剖学)と 身体過程の因果分析(生理学)によってわれわれが知り得るのは,動物や人間が何をなす可能性がある のかということであっても,何をなすのかということではない」
2)佐々木正人,松野孝一郎,三嶋博之rアフォーダンス』(青土社,1997)pp.51−52.「運動そのものなど は研究の対象にできるとは考えられていなかったと思います。運動を運動そのものとして見ようという ときには,その運動しているシステムを動かしたままにしておく必要が絶対にあるわけですが,システ ムを動かしたままでそのダイナミクスをダイナミクス自体として研究することは果たしてできるのかと いうとかなり難しい話になってしまいますし(後略)」
3)F,J, J, Buytendijk,前掲書, pp.71−72.
「運動や体姿を中枢神経系の過程と関連した一定数の筋攣縮と考えるのではなく,情況に向かう(アクト)
として,つまり体験された意味と志向された行為の表現として把える場合にはじめて理解されるのであ る」(同書,P.37)
4)佐々木正人,松野孝一郎,三嶋博之,前掲書,pp.78−79,
5)佐伯聰夫「スポーツと体育の現状と体育科教育学の課題」r体育科教育学』(ミネルヴァ書房,1987)p.57。
「スポーツや運動に内在する人間形成の論理やメカニズムを明確にし,その可能性と限界,現実化のた めの方法が求められねばならないであろう。それらを基礎づけるものこそ,運動やスポーツの意味や価 値である。身体から運動やスポーツへと,体育は教科の基礎を転換している。したがって,身体の問題 を含めて,運動やスポーツの哲学的な意味を明らかにすることが新しい教科の基礎を明確にすることで あり,またそこから「文化としての運動やスポーツ」の意味と価値が導かれ,生活のなかの運動の実現 すべきイメージが形成されなければならない」
6)少ないというのは著者自身の資料収集能力が決定的に不足しているのは明らかである。ホイジンガやそ れに続くカイヨワの遊戯論には運動や遊びそれ自体に言及する注目すべき論述が数多くあるし,西村清 和のr遊びの現象学』(勤草書房,1989)も豊かな示唆を与えてくれる。サッカーに関してだが,細川周 平も極めて興味深い論述をしている[「サッカー狂い・時間,球体,ゴール』(哲学書房,1989)】。また いわゆる舞踊論や武道論のなかにも具体的な論述が数多く存在するが,それらを捕捉することは至難な ことである。
7)中井正一が著したスポーッに関する3つの論文。すなわち1930年に京都帝国大学新聞に連載した「ス ポーツの美的要素⊥「思想』1933年5月号に発表した「スポーツ気分の構造⊥そして出典不明の「ス ポーツ美の構造」である。なお木下長宏の資料では「スポーツ美の構造」は〔未発表原稿〕となってい る。〔木下長宏r中井正一・新しい美学の試み』(リブロポート,1995)p。117.〕なお中井は他の論文に おいてもスポーツについて論述しているが,「リズムの構造」(1932年r美・批評』9月号),「美学入門」
(1951年7月,河出市民文庫)等に関連が深い記述が多い。諸論文に登場するスポーツ種目はボート,水 泳ラグビーを中心に,スキー,アイススケート,陸上競技(ランニング)等である。ボートやラグビー は,その集団性,組織性がとりあげられる。
8)スポーツの美学や中井正一論文の哲学的分析については,樋口 聡の優れた著作がある。rスポーツの 美学・スポーツの美の哲学的探究』不昧堂出版,1987年初版とr遊戯する身体・スポーツ美,批評の諸 問題』大学教育出版,1994年初版である。
また中井の思想的遍歴や代表作「委員会の論理」の原構造については,佐藤晋一r中井正一・図書館の 論理学』近代文藝社,1996年増補版の精緻な文献がある。
9)ここで言う「運動学」は,運動の物理,力学的研究や生力学(バイオメカニクス)的研究ではなく,ス ポーッという状況の中で,人間が発生させ,修正,変化,発達,学習していく運動を記述的に考察する もので,K,Meinelの『Bewegunngslehre』(1960)が代表的である。なおBewegunngslehreの構築にあ たっては,F,」,J,Buyten萌kの人間学的運動学の一般論等(例えば,『Allegemine Theorie der menschliche Haltung und Bewegung』1956)が根底にあるとされている。
10)K,Meinel,金子明友訳『マイネル・スポーツ運動学』(大修館書店・1981)P・123・
11)F,Fetz,金子明友,朝岡正雄i共訳『フェッツ体育運動学』(不昧堂出版,1979)p.235.
12)木下長宏『中井正一乳新しい美学の試み』(リブロポート,1995)p.117.
13)久野収編「哲学と美学の接点」r中井正一全集』第一巻(美術出版社,1981)に収録の久野 収「解
題」P.469.
14)中井は思想的に強い影響を受けたハイデッガーの用語の翻訳語は,九鬼に負うたことを付記している
(中井正一「スポーツ気分の構造」『中井正一全集』p.406.)
15)同書,P.470.
16)久野 収編「転換期の美学的課題」r中井正一全集』第二巻(美術出版社,1981)に収録の真下信一「中 井さんの思い出」p5.
17)文献13)に収録の梯 明秀「瀬田川の美学者」p.8.
18)木下長宏,前掲書,p.118.
19)木下長宏,前掲書,p.120.
20)文献15)に収録の藤田貞次「中井美学の周辺2」pp」8−19.
21)長田 弘編『中井正一評論集』(岩波書店,1995)「解説」p.405.
22)「スポーツという単純にして複雑な台地」「談』50号,1995,p.8.
23)r中井正一全集』第一巻,p.415.
24)K,Meinel,前掲書, p.123.
25)F,Fetz,前掲書, p.237.
26)中井正一「スポーツの美的要素」『中井正一全集』第一巻,p.414.
27)『中井正一全集』第一巻,p.413.
28)『中井正一全集』第一巻,p.416.
29)中井正一『美学入門』(朝日新聞社,1975)p.15.
30)木下長宏,前掲書,p.118.
31)中井正一『美学入門』,p.24.
32)佐藤晋一r中井正一・図書館の論理学』(近代文藝社,1996)p.53.「深田が「芸術一般』でとりあげた,
美そのものの規準設定の問題,ないしは深田によって追究されつつあった美学が,中井に大きく作用 していたと考えたい。深田が追究していた美学,それは実践との本質的関連を持つものとして構想さ れた美学ではないか,と私には思われる」
33)中井正一r美学入門』,p.41.
34)M,Grosser, A,Neumaier,朝岡正雄佐野淳,渡辺良夫訳rスポーツ技術のトレーニング』(大修館
書店,1995)P.66.
35)『中井正一全集』第一巻,pp.400−401.
36)「中井正一全集』第一巻,p.417.
37)r中井正一全集』第一巻,p.419.
38)中井正一「スポーツの美的要素」p.417 39)『中井正一全集』第一巻,p.418.
40)中井正一「スポーツの美的要素」p.419.
41)野口三千三『原初生命体としての人間・野口体操の理論』(岩波書店,1996)p.49.
42)同書,p.46.「私にとって,意識によってひとつひとつの筋肉を働かせるという感覚は,いまだにはっ きりつかめていない。しかし,それでは駄目だ,とは思っていない。ひとつひとつの筋肉を意識的に
動かせることが,人間にとって大切なことだと思っていないからである。その動きにとって適切なイメー ジによって動くのである。ひとつひとつの筋肉を動かそうとするのではなく,からだの中身の関係に おいて動くのである。今までの分析的な生理,解剖,心理などの知識で動くのではなく,豊かな新鮮 な明確iなイメージによって動くのである。これは,あくまでも実際に動いてみての実感からなのであ る。(後略)動きにおける諸要素は分析すれば分析できるとしても,実際にはきわめてわずかの意識さ れている動きと,それにともなった数多くの総合である。もし,すべての要素としての動きを意識し,
意識によって指令しなければならないのだとすればどういうことになるであろうか。あまりにも煩雑 で収拾がつかなくなるだけでなく,疲労困億して生きていることが不可能になってしまうであろう。意
識と呼ぶ働きは,そのように粗雑に使うべきものではないはずだと思うのである」(同書,pp.242−243.)「したがって,意識的にやるとうまくいかない,ということは当然のことで『人間はもともと意識で思
うように制御(コントロール)できるようには出来ていないのだ』ということであり,『どのような状 態を準備すれば,好ましい適切な自動制御能力が発揮されるのか』というところに,問題の鍵がひそ んでいるのである」(同書,pp。244−245.)
43)野口三千三,前掲書,p.258.
44)『中井正一全集』第一巻,p.403.
45)中井正一「スポーツ気分の構造」r中井正一全集』第一巻,p.403.
46)中井正一『美学入門』p.13。
47)K,MeineL前掲書, pp。25−26。運動の仕方や運動中のからだの姿勢や手足の保ち方を,直線的,幾何 学的形態の中に押し込めてしまおうとする考え方。シュピースの体操体系への批判に取り上げられる。
今日においてもいわゆるラジオ体操を実施している我が国では,顧慮しなければならない点もある。
48)中井正一「スポーツ気分の構造」p.403.
49)野口三千三,前掲書,p.269.
50)生田久美子「わざから知る」r認知科学選書』14(東京大学出版会,1987)pp.30−36.
51)尼ケ崎彬『ことばと身体』(勤草書房,1990)p.189.
52)中井正一『美学入門』p.14.
53)『中井正一全集』第二巻,p.39.
54)例えばV,v, Weizacker,木村敏大原貢訳r病因論研究』(講談社,1994)pp.118−121.養老孟司 r唯脳論』(青土社,1989)pp.229−233.などが指摘している。
55)野口三千三,前掲書,p.243。
56)『中井正一全集』第一巻,p.401.
57)金子明友「運動観察のモルフォロギー」『筑波大学体育科学系紀要』第10巻(1987)p。118.
58)K,Meinel,前掲書, p.75. ,
59)K,Meine1,前掲書, p.92.
60)中井正一「スポーツ気分の構造」p.400.
61)尼ケ崎 彬,前掲書,p.176.
62)V,v, Weizacker,木村敏浜中淑彦訳rゲシュタルトクライス』(みすず書房,1975)p.212.
63)佐野 淳「モルフォロギー的見地からみた運動の仕方の直感的内容について」『スポーツ運動学研究』
8(1995)P.19.
64)K,MeineL前掲書, p.267.マイネルは優秀な選手が保有する,発達した「運動感」について,「正確 にいえば,この高い能力は練習やトレーニングを通じて高度に発達させられた運動分析器の成果と感 覚運動系の成果と,またスポーツ行為に内在する実践的知能としての運動知能の成果がいっしょにな っているのである」と説明する。マイネルによれば,運動課題を解決しようとするところでは,実践 的思考と理解される思考形式が存在し,そこでは感覚,知覚,思考の統一が成立し,そこに以前の運 動経験や運動認識がいっしょに入ってくるのである(同書,p.267.)。
65)野口三千三,前掲書,p.80.
66)中井正一『美学入門』p.13.
67)中井正一『美学入門』p.14.
68)F,Fetz,前掲書, pp.234−235.
69)F,Fetz,前掲書, pp.236−237。
70)佐野 淳,前掲書,p.20.
71)F,Fetz,前掲書, p.241.
72)中井正一「スポーツ美の構造」p.445.
73)野口三千三,前掲書,pp.250−251.
74)r虫明亜昌無の本2・野を駈ける光』1991年5月,r虫明亜呂無の本3・時さえ忘れて』1991年6月, r虫 明亜呂無の本1・肉体への憎しみ』1991年7月,いずれも筑摩書房より刊行。
虫明亜呂無(1923〜1991)はスポーツを,人間が創造した文化の一領域としてとらえるスポーツ論を核 に,肉体と精神の微妙な関係を,研ぎ澄まされた文章で描いた。1996年,玉木正之の編集により,r野 を駈ける光』『時さえ忘れて』『肉体への憎しみ』として,改訂刊行された。
75)虫明亜呂無『時さえ忘れて』(筑摩書房,1996)p.76.
76)虫明亜呂無『肉体への憎しみ』(筑摩書房,1996)pp.125−126.
77)玉木正之「スポーツとは何か」r時さえ忘れて』あとがき(筑摩書房,1996)pp、282−284.
78)中井は,水泳のクロールやボートのローリング技術の中に,美的な感覚を呼び起こすまでに先進的な 技術性,ラグビーのチームプレーの中に,個人プレーを凌駕する組織力の重要さを見届けており,近 代スポーツの技術性,組織性に重ね合わせて,近代社会の到来に期待し,将来,スポーツの階級性の 問題が呈出されるであろうとしている。
79)木下長宏,前掲書,p.120.
80)M,Csikszentmihalyi,今村浩明訳rフローの体験・喜びの現象学』(世界思想社,1996)pp.119−121.