『人文コミュニケーション学科論集』18, pp. 139-160. © 2015茨城大学人文学部(人文学部紀要)
−登場人物たちはどのようにつくりあげられたか(Ⅱ)−
青木 研二
2.フィオ
はじめに、マンガ版の筋書きをもう一度確認しておこう。
エンジン不調で、ドナルド・チャックのカーチス機に撃墜された自機を、ポルコはミラノ に運び、フィオの設計により修復完成させる。フィオは、ポルコの飛行艇に無理やり同乗し、
二人でポルコのアジトに戻り、マンマユート団の立ち会いのもとに決闘することになるが、
空中戦では決着がつかず、ドナルド・チャックとの海中での殴りあいで、ポルコが勝利を収 めることになる。マンガ版の設定がアニメ版で踏襲されているところを、次にぬき出してお こう。
(
1
)フィオが、胴体だけ残った機体の再設計をする。(
2
)機体本体の前方に自分が乗る席を勝手にこしらえ、無理やりポルコに同行する。(
3
)ドナルド・チャックはフィオとの結婚、フィオとポルコ側はポルコ艇の再建にか かった費用を、それぞれ賭けの条件に出して、決闘することになる。マンガ版の段階でも読みとれることがらを、さらに二つ指摘しておきたい。まずひとつは、
マンマユート団の空賊たち マンマユートはイタリア語で「ママ怖い」の意味である――
が、マザコンというよりもロリコン的な雰囲気を漂わせていることである。「マンマユート 団は人質に美少女をさらうので知られていた(39)」と吹き出しにあるし、マンマユート団の 飛行艇を撃墜して勝利したポルコの、光によるモールス信号で伝える「きたなくてビンボー でロリコンのマンマユートへ ムスメと金貨の半分をおいてウセロ(40)」というせりふも出 てくる。また、最後のポルコとドナルド・チャックの決闘シーンの前には、マンマユート団 の一味だけでなく他の空賊連合の者たちもフィオの間近にひしめきあって、フィオといっ しょに写真をとるシーンがある。もちろん、ロリコン的資質を見せているのは空賊たちだけ ではない。ポルコにもまた、フィオに対するロリコン的意識が働いている(41)。しかし、ポ ルコの場合、そうした側面は抑制的に描かれており、露骨に表面に出てきてはいない。
もうひとつの指摘は、フィオがポルコの知らない間に同乗席をこしらえて、無理やり同行 したということにかかわる。このエピソードは、マンガのような表現媒体ではよくありがち な筋書きであるとはいえ、かなり強引なもって行き方である。アニメ版が完成したあとのこ とだが、宮崎は、「フィオがポルコについて行くのは商売のためであり、自分が作ったもの に責任があるからです。ポルコが好きだからじゃないですよ。もっとも、嫌いだったら行か
ないでしょうけれどね(笑)(42)。」と発言している。多少腑に落ちないところはあるものの、
宮崎の発言は、ここでは額面どおりに受けとっておくべきであると思う。さらにいえば、フィ オの心の中には少年のような冒険願望がひそんでいて、それを存分に羽ばたかせてみたいと 思っていたからではないか、と推測することもできる。ともあれ、少なくともマンガ版では、
ポルコに対する好意や憧れをいだいていたとしても、ポルコとの間にいわゆる男女同士の愛 情めいたものが存在していると想定するべきではあるまい。やはり、ポルコのフィオに対す るロリコン的なレベルの感情をまじえた交友の物語なのである。
マンガ版からアニメ版への移行に伴って、フィオの人物造型にふくらみが与えられ、ポル コとの交友関係が細やかに描きこまれて行くことになる。もともとマンガ版にあるシーンで も、かなり描写がひき伸ばされているところもあるし、マンガ版にはないシーンでつけ加え られたところもある。アニメ版の特徴として、私がまず第一に指摘しておきたいのは、フィ オがポルコに対し積極的にかかわって行くシーンが多くなっていることである。それらを、
以下にざっととり出しておこう。
(
1
)ピッコロ社のおやじから、孫娘のフィオが飛行艇の設計をやるという話を聞いて、ポルコは依頼するのをやめようとするが、そのときフィオが姿を見せて、「うまく行 かなかったらお金はいらないわ。」と強引に説得し、ポルコが工場内に泊まれるよう あれこれ指図して姿を消す。
(
2
)飛行艇に勝手に同乗席をこしらえ、ポルコに同行することになる(このエピソード はマンガ版にも出てくる)。(
3
)ポルコのアジトに戻ったあと、待ち伏せしていた空賊の一団がポルコに襲いかか り、ポルコの飛行艇を破壊しようとする。フィオは設計者なのでこれに憤激し、ポル コはカーチスと対決するために戻って来たのだといって、空賊たちとあとから現われ たカーチスを納得させ、二人の決闘へとうまくことを運んで行く(ここも、やはりマ ンガ版に出てくる)。(
4
)アジトでの野営の夜、ポルコから第一次世界大戦の思い出話を聞いたあと、フィオ は寝袋から起きあがって、突然ポルコの頬にキスする。(
5
)空中戦のあと、ポルコとカーチスは殴りあいでの決着になる。結果的にポルコが勝 利すると、フィオは海中を駆けよってきてポルコに抱きつく。(
6
)フィオが、勝利の賭け金をマンマユート団のボスから受けとったあと、ポルコはフィ オをジーナの飛行艇に放りこんで、「ジーナ。こいつを、かたぎの世界に戻してやっ てくれ。」という。飛行艇が始動し始めると、フィオは身を乗り出してポルコの口に キスする。そのあと、ポルコは飛行艇の下翼の一撃をくらって、海中に倒れこむ。こうしたフィオのポルコに対する積極性は、ポルコの幼なじみであるジーナをアニメ版で 登場させたことによって、対比的に強調されることになった。少女のフィオは、ためらいの ない積極性を見せるのだが、大人の女性であるジーナは、ポルコと過去の思い出を共有しつ
つも、三度の結婚と離別という苦い人生経験をへており、フィオのように率直に感情の表現 や行動をする人物としては描かれていない。ポルコとジーナが何らかの形で身体的な接触を する場面が一度も出てこないのは、そのことを端的に物語っているだろう(43)。
もうひとつ例をあげるなら、ポルコにかけられた<魔法>に対する二人の接し方の違いが ある。ジーナは、「どうやったらあなたにかけられた魔法が解けるのかしらね。」というのだ が、一方フィオは、蛙になった王子さまがお姫さまのキスで人間に戻るという話をひき合い に出したあと、突然ポルコの頬にキスするという行動をとる。ジーナが距離を置いてポルコ を見守るという姿勢をとり続けるのに対し、フィオは一線をひいてポルコに接するのではな く、単刀直入にかかわって行く。ここには、二人の女性の言動の対照的な姿が現われている といえるだろう。
アニメ版に描き出されているフィオの造型の特徴について、さらにくわしく見て行くこと にしよう。
その
17
歳という年齢のせいもあって、フィオは、過去に様々な重たい体験をへている屈 折した性格のもち主として描かれてはいない。ポルコやジーナのような<大人>ではなく、やはり<少女>の範疇に属する。そういうイメージであるからこそ、やはりポルコのロリコ ン的な眼ざしの対象となっていることは否めない。
まず、ポルコは撃墜された自艇の胴体だけをミラノのピッコロ社まで運んで行くのだが、
その機体を見て、フィオは「きれいな艇。おじいちゃん、きれいね。いいラインしてる。」と、
その美しさに素直に感動する。しかし他方では、フィオがポルコの飛行艇に同乗して飛び立 ち、ロンバルディア平原の上空を飛行しているとき、フィオは「きれい……世界って本当に きれい……。」というし、またポルコのアジトである離れ小島の砂浜を見たときも、「ワ〜ッ。
きれい。」という。つまりフィオは、飛行艇という人工的につくり出されたものにも美を感 じるし、自然の美にも率直に反応しているのである。ポルコのように、飛行艇への執着によ る自己批判的なわだかまりをいだいておらず、工業製品と自然という二つの領域の美しさが、
フィオにとっては矛盾せずに共存しているのだ。ポルコにはもはやありえないような心もち、
それをもつフィオの姿に、ポルコは何かしら心洗われるものを感じたことであろう。
フィオが、ポルコに対して、距離をとらずに直接的・具体的な行動をとっていることは、
いくつかの例をあげて言及してきたが、宮崎の描くフィオのイメージには、まだほかにも特 徴的なところが認められる。それは、ある種の高びしゃなつっぱりを見せたかと思うと、急 に感情の動揺・不安に襲われるという心理的な変動のありようである。
(
1
)フィオが設計をやるというのを聞いて、ポルコが仕事をまかせられないと思ったと たん、タイミングよく姿を見せたフィオにうまく話を丸めこまれてほぼ同意したこと になってしまうのだが、フィオは、その晩徹夜して設計の仕事に没頭し、朝起きてき たポルコがその図面を見て信頼を寄せてくれる。ここでフィオは、「あのね、ゆうべ 胸がドキドキしちゃって、とても寝ていられなかったの。本当のこというとね、 」といい、さらに「やっぱりこの仕事任せてくれないんじゃないかって心配だったの。
だからうれしい
!!
コーヒー入れるね!!
」と続ける。(
2
)ポルコのアジトでマンマユート団のボスとわたりあい、フィオは、ポルコとカーチ スが決闘するという話に巧みにことを運んで行く。しかし、空賊たちがひきあげたあ と、フィオは急に震えだし、目を潤ませて(44)、「今になって急にムネがドキドキし て苦しくなっちゃったの。本当はとてもこわかったの。困っちゃった。ヒザがガクガ クするんだもん。」といって、急に服を脱ぎ、海中に入って泳ぎ出す(45)。このように、精一杯の行動をしたあと、突然強い心理的なたかぶりにかられるというのは、
<少女>独特のありようであり(46)、宮崎の描く<少年>の人物像の場合はほとんど見られ ないといってよい。こうした少女の描き方には、宮崎の男性目線的なバイアスがかかってい るかもしれないが、それはまた、<少女>に対する宮崎の憧れや情愛の念を示すものでもあ ろう。
フィオという<少女>に対するポルコの側からの反応の様子も、ジーナのような<大人>
の女性に対する距離を置いた接し方の場合とは、大きくかけはなれている(後者については のちほどとりあげる)。ここでまず、序盤で、ポルコがホテル・アドリアーノにやって来た 場面をもう一度思い起こしてみよう。ジーナの歌が終わったあと、ポルコがテーブルの間を 通りぬけて行くとき、女の客から、「ポルコ、お話聞かせて。」と声をかけられる。これに対 しポルコは、「こんど二人切りのときにな。」と軽くあしらった返事をする。いかにも女性の 扱いに慣れた大人の男のような対応ぶりなのだが、これは、フィオに対する対応のしかたと は極めて対照的である。これもくり返しになるが、フィオの言動へのポルコの対応ぶりを示 す二つの代表的なシーンを、次にとりあげておく。
(
1
)フィオはカーチスとの決闘の話をうまくまとめたあと、急に感情がたかぶって、海 中に入り泳ぎ出すのだが、彼女が、「ポルコ、大失敗!」と声をかけると、ポルコは両 手にもった荷物を放り出して、何事かと波打ちぎわに駆けよる。まるで娘の一大事と いわんばかりのふるまいである。大失敗とは、カーチスに対して請求書の水増しをし ておけばよかったという話で、これを聞いてポルコは、「ワッハハハハハ、ちげえねえ。アハハハハ。」と大笑いする。
(
2
)アジトでの野営シーンで、フィオは、ポルコが人間に戻るかもしれないと考えて、「ポルコ、私がキスしてみようか?」というのだが、これに対しポルコは、「バカヤロ!
そういうものは、一番大事なときにとっとけ。」と感情をむき出しにしてどなり返す。
このあと、ポルコは第一次世界大戦の空中戦の思い出話を聞かせるのだが、話が終わ ると、フィオは寝袋から起き出して、ポルコの頬に突然キスする。するとポルコは呆 然となって、口にくわえていたタバコをとり落とす。
数々の苦い体験をへた大人であり、世界情勢や自分の生き方に屈折した思いをいだくポル コが、フィオに接するときは、まるで純情な少年のようになってしまうわけだが、もう少
し細かくポルコのフィオに対する心理的な対応のしかたを見てみることにしよう。(
1
)、(2
) のシーンでまずわかることは、あたかも父親が娘の身辺に起きるささいなことがらに対して ことさら過剰に受けとめて、娘の身の安全を心配するかのような反応ぶりである。もちろん ポルコとフィオは親子の関係ではなく、多少は男女間の情愛といった雰囲気も漂っていない わけではない。しかし、もっと広い視点にたつならば、父と娘というよりも、保護する者(教 えさとす者)と保護される者というふうにとらえた方が適切であるように見える。そうした 関係性は、次の二つの場面から読みとることができる。(
1
)フィオは、ポルコの飛行艇建造の仕事をこなす能力が十分あることを証明するため に、徹夜で設計の図面を引く。朝起きてきたポルコは、その図面を見て、仕事をまか せることになるのだが、そのとき、「……だがな、おじょうさん、一つだけ条件がある。徹夜はするな。睡眠不足はイイ仕事の敵だ。それに美容にもよくねぇ。」と注文をつ ける。
(
2
)ポルコがフィオを伴ってアジトに戻る途中、ユーゴスラビア側にある小さな漁港 にたち寄って、給油をする。少年が小舟に燃料を積んでやって来て、給油するのだが、フィオは、「ガソリンがイタリアの三倍だって。めちゃくちゃよ。」と不平をもらす。
するとポルコは、「払ってやれよ、フィオ。」といい、「ぼってるんじゃねぇ。もちつ もたれつなんだよ。」となだめさとすようにつけ加える。
フィオに対するポルコの接し方で、もうひとつ特徴的な側面を指摘しておきたい。それは、
フィオの無邪気で素朴な考え方に、ポルコが腹の底から大笑いするということである。この ことは、すでに請求書水増しの件で、ポルコが大笑いする場面で出てきているが、さらに別 な例をとりあげておこう。
ポルコがフェラーリンと映画館で落ちあったあと、偶然フィオの運転するトレーラーに出 くわす。トレーラーがファシストの秘密警察の車につけられているのをすでに感づいていた ポルコは、フィオと運転を入れ替わり、追跡車をうまく壁に激突させてしまうのだが、ポル コの運転中に、フィオは、「……ね! ポルコって本当はスパイなの?」と問いかける。この 問いに、ポルコは呵々大笑し、「スパイなんてものは、もっと勤勉な野郎がやることさ。」と 返事する。フィオの素朴な子供っぽいといってもよい考え方が、ポルコの笑いを誘い出した のである。
このようにポルコは、フィオの無邪気な言動に大きく反応している(アニメだから、むろ ん誇張はあるが)。まるでポルコ自身が無邪気な子供時代につれ戻されたかのように、である。
ここでも、ジーナに対する対応のしかたとの違いはあきらかである。ジーナといっしょの場 面で、ポルコが大笑いするシーンは出てこない。
マンガ版とは違って、ポルコのフィオに対する感情のありようは、単純なロリコンという レベルにとどまるものではなく、もっと微妙なニュアンスがつけ加えられている。フィオは 国家や民族、戦争などがもつ矛盾を痛切に感じとる以前の年齢、人間と工業製品の相容れな
さに思いおよぶことのない年齢にある存在として設定されている。また二人の関係には、父 と娘的な風情もあるし、保護者(年長者)が被保護者(年少者)にやさしく接し、助言を与 えるというふうにも描き出されている。さらには、フィオの無邪気な言動がポルコの心から の笑いをひき出したりもしている。要するに、様々な汚れや矛盾・葛藤をしょいこんだ大人 の男が、まだ矛盾にさらされることなく純粋な生き方を保っている少女の姿に接して、自分 もまるで少年のような気持ちにひき戻され、心を洗われ癒されているということになる。意 地悪い見方をすれば、中年男の一方的な憧れと思い入れがこめられた虚構のお話でしかない ということにもなるだろうが、もともと、アニメとは、そういう絵空事を重要な要素として 成り立っている世界なのだから、その点をあげつらってもしかたあるまい(47)。
何度も述べてきたことだが、本作品の制作と同時期に進行した湾岸戦争からユーゴスラビ ア紛争にいたる世界情勢の動向に、宮崎はボディブローのような衝撃を受けたのだった。し かし、愚行をくり返す人間の性懲りのなさに幻滅する一方で、注目すべきは、「グチャグチャ になりながら、それでも生きて行くほかない(48)」という認識が、宮崎の心中に育って行っ たということである。この点について、宮崎は次のように語っている。
「二十一世紀というのはケリがつかない。全部引きずって、同じばかなことを繰り返しな がら、それで生きて行くしかない。そういう見極めがついたんです(49)。」
「時代と一緒に生きるためには、子どもをいっぱいつくったほうがいい。一緒にアトピー で苦しみ、エイズに脅え、ガンに脅え、いろいろなことに脅えながら、それでも何とか健気 に生きていこうというほうがいいんだと(50)。」
<生きよ>と言うことに関する宮崎の主張は、この『紅の豚』以降の作品でも強く持続し て行くことになるのだが(51)、本作品においてはどこに表われているかをまずここで示して おきたい。それは、例の決闘前夜のポルコとフィオの野営シーンのシークエンスの最後であ る。フィオは、第一次世界大戦の空中戦からひとりだけ生還した話を聞かされたあと、ポル コに、「私、ポルコが生きて帰ってきてくれてうれしい。わたし、ポルコ好きだもの。」とい う。ここで、ポルコは自分が生きていることがフィオにとっては喜びなのだと知らされるわ けであるが、自分の存在が他者によってそのまま受け入れられていること――これがポルコ にとって、<生きよ>という励ましになっているのはあきらかであろう(52)。
本作以降の宮崎作品において、こうした<生きよ>というメッセージがときおり顔を覗か せることになるのだが、もちろん作品の舞台や登場人物たちのキャラクターなどの設定のし かたによって、<生きよ>ということばの発信者と受信者の関係は様々だし、このことばの ニュアンスにも様々な意味合いが与えられている。しかし、「グチャグチャになりながら、
それでも生きて行くしかない」という考え方自体は、アニメ制作の重要な理念として、宮崎 の精神の根底に根づくことになった、と私は考えている。
ここまでのしめくくりとして、本作品の結末後、ポルコとフィオの関係はどうなったかに ついて、私の推測を交えつつ考察してみることにしよう。
本作品のラストで、カーチスはポルコと殴りあいでの決着となり、負けてしまうのだが、
「次はカケじゃなくて、正式に申込みに行くぜ。」とフィオに話しかける。するとフィオは、
「いいわ。でも私、もう決めたから……。」といいかけるが、ポルコに抱きあげられて無理や りジーナの飛行艇に投げこまれてしまう。フィオが何を決めたのか気になるところではある。
カーチスが求婚の話をしたあとなので、観客としてはポルコとの結婚を連想してしまうわけ だが、私の考えでは、それは錯覚である。フィオは
17
歳、ポルコは36
歳という設定であり、ポルコの不安定で危険でまともとはいえない賞金稼ぎの暮らしを冷静に考えるなら、いかに フィオが無邪気で冒険好きな女の子であるとはいえ、簡単にポルコとの結婚まで進んで行く とは思えない(そもそも、フィオの本業は飛行機の設計ということであるはずだし)。
「『紅の豚』ストーリー案」の結末(ポルコとフィオの別れのシーン)をここで記しておき たい。
「ポルコの艇には、腕のいい専属整備士が必要よ」
「いい奴がいればな」
「ここにいるじゃない!」
「
25
になっても気が変わらなけりゃ考えてやるよ」「あと
8
年も!!」戦利品のカーチスの方向舵を投げ渡して船首をめぐらすポルコ。
「壊れたらうちの工場にくるのよ。他の工場に行ったら許さないからね」
叫ぶフィオに手で挨拶を送り離水していくポルチェリーノ・ロッソ。今日もアドリアの海 は青いぜ(53)。
アニメ版でのポルコとフィオの交友関係は、マンガ版やこのストーリー案よりもさらに深 まっている。ストーリー案の筋書きの文脈では、専属整備士にするかどうか
8
年待ってから 決めてやるというポルコの受け答えは、それほど不自然さを感じさせないが、アニメ版では やはり不自然すぎる。単に整備士の仕事をひき受ける契約を結ぶかどうかを問題にするだけ では、物足りないのである。かといって、フィオがポルコとともに、不法すれすれで危ない 賞金稼ぎの仕事をやって行くというこれからの姿も、現実離れしている。そもそも、フィオ は設計士であり、ピッコロ社の将来を担って行く有能な人材であるはずだから、軽々しくポ ルコのようなライフスタイルをともにし続けることはできにくいであろう。前述のように、決闘に敗れたカーチスが求婚の話をもち出したために、観客は、フィオがポルコとの結婚 いつになるかははっきりしないにせよ を決意したかのような錯覚にとらわれてしま うのである。つまるところ、作者の宮崎としても、フィオが決めたことの中味に関しては想 像がおよんでおらず、内容は語らないままにしておくしか手がなかったのではあるまいか。
ポルコの側からしても、フィオを恋愛の対象として見ているかどうかについては、何もはっ
きりとは語られていない。フィオをジーナの飛行艇に放りこんだあと、ポルコは、「ジーナ。
こいつをかたぎの世界へ戻してやってくれ。」というのだが、これに対しジーナは、「ずるい 人、いつもそうするのね。」と返事する。ここでとりあえずわかるのは、ジーナに対してと 同じように、ポルコはフィオに対しても、自己の生活・境遇と一線をひいて対応しているこ とである。フィオにしてもジーナにしても、ポルコの不安定で危険な賞金稼ぎの仕事をいっ しょにやったり、あるいはそういう生活を前提として結婚したりすることは考えられない事 態である。また、ポルコが<飛ぶこと>をやめて、ピッコロ社で飛行機づくりにたずさわる というのも、ありえない話である(54)。やはりポルコにとって、フィオとの交友は、ある限 定された時間の中で、癒しやリフレッシュ感を与えてくれる少女と冒険をともにしたという ことであり、彼の人生の輝かしいひとこまであったということではないだろうか。
3.ジーナ
マンガ版にジーナはまったく出てこない。前述のように、絵コンテの執筆が始まる
1991
年5
月以前の4
月に、本作品の「演出覚書 紅の豚メモ 」が発表され、また同時期に ストーリー案も書かれている。前者には登場人物のひとりとして、ホテルのマダム 名前 は出てこない があげられており、後者にはドブロク市のホテルのバー ホテルの名前 は出てこない を舞台として、そこでポルコに対し、ドン・グッチが名乗りをあげるくだ りが記されている。初期ストーリーボードでは、ドブロク市から少し離れた沖合の小島にホテル・アドリアー ノが描かれているものがあり(55)、さらにポルコが、ホテル一階のひとけのないバーに不意 に姿を現わし、ジーナと旧交をあたためあうシークエンスが、
9
枚のボードによって示され ている(56)。そこでのジーナは、アニメ版より若々しい容姿に描かれていて、二人の間には 年齢差が存在するし、アニメ版でのような過去を共有する幼なじみという気配も感じられな い。二人の間には何らかの愛情的なつながりがあるようにも見えるが、それはまったく憶測 の域を出ない。このストーリーボードでは、前記の「演出覚書」やストーリー案と比べて、ジーナとホテ ル・アドリアーノのイメージがより具体的に描き出されているので、その制作年代はもっと あとのものであるとみてよい。ともあれ、ジーナという重要な登場人物が、絵コンテ執筆の ごく直前になってから発案されたものであることは確実である。
ジーナとポルコの関係が決定的に変化し、一定のはっきりした形をなして行くのは、絵コ ンテの段階に入ってからであるが、このアニメの発端部分から二人の関係性の問題が早々に とりあげられることになる。何度かひき合いに出しているように、それはホテル・アドリアー ノの片隅での二人の食事シーンにおいてである。飛行艇とともに映っているジーナと四人の
若者の写真が壁に貼られていること、ポルコが魔法をかけられて豚になったとジーナが口に すること ジーナとポルコは飛行艇を通じて、同じ過去を共有する古い仲間であるという 設定が明示され、この設定が、本作品における二人の関係の描かれ方の流れを決めて行くの である(57)。
以上のように、ジーナはポルコと過去の記憶を共有する同世代の女性であるという構想が 固まったことは、とりもなおさず二人の関係が大人と大人の関係であることを意味する。ポ ルコとフィオとの間の大人と少女の関係とは異なった道筋を歩むことになるのである。そも そも、フィオという少女との交友ないしはロリコン意識を含んだ情愛の関係が、マンガ版に おける大もとの構図だったのであり、これをはずしてしまうと作品そのものが成り立たなく なる。いいかえれば、ポルコとジーナとの間にひそかな形ではあれ相思相愛の関係があると すると、ポルコの人物像における恋愛心理的な側面までも矛盾や屈折がおよぶことになり、
物語が立ちゆかなくなってしまう。宮崎もそのあたりのことは当然心得ていて、かなり綿密 な工夫をこらしているということができる。
二人の食事シーンで、ジーナは、飛行艇乗りと三回結婚し、三人目の男が今日連絡があっ て死んだことがわかった、とポルコに話しする。ジーナとポルコがかかわりをもつシーンが その後出てくるたびに(とくにフィオの同乗するポルコの飛行艇がホテル・アドリアーノの 上空を舞うシーン)、ジーナはポルコに思いを寄せているふうなのに、なぜ三度も別の男と 結婚したのかという疑問が当然湧きあがってくるのだが、こうした設定は、ポルコとジーナ の関係が物語全体の流れの中で突出したものになるのを避けるために、宮崎が講じたやむを えない措置であった。宮崎はこう語っている。
「ま、
3
人てのも、一人だとしんどいじゃない。3
人がかりで結婚してると、楽になれるで しょ。豚のほうでも(笑)。だから3
人の方がいいと思ったんです。これがズッーと待ち続け ているお姉さんにしちゃうとやっぱりちょっときついですから。そこが結婚したなんて人だ と気楽に話せていいなと。男がいかほどのものか知っている相手の方がね(笑)(58)。」このように、ジーナとポルコは大人対大人の関係であるだけでなく、ジーナは三回結婚歴 のある女性であるという設定をはさむことによって、さらに両者の間には距離感が生じるよ うな工夫がほどこされているわけである。別ないい方をすれば、ポルコのフィオに対する友 愛・愛情の強度と、ジーナに対するそれとが矛盾をきたさないようにうまく按配されている ということになる。
ジーナの人物造型と置かれている環境について、さらにくわしく見て行くことにしよう。
ジーナは、まずホテル・アドリアーノのオーナーという身分にある。当然、子供のころか ら豊かな暮らしを送ってきたはずで、飛行クラブ このことばはアニメの中では出てこな い の仲間として、飛行艇でポルコが彼女を乗せていっしょに飛ぶシーンが、ジーナの回 想の中に出てくる。そして、その飛行艇にはアドリアーノのマークが入っている(59)。その 回想シーンの中で、少年のポルコが飛行艇を操縦しているのだが、少女のジーナは後方の一
段高いところに座っている。ここには、二人の社会的な階級関係をほのめかすものが含まれ ているのではないだろうか(60)。
さらに、この二人の階級関係と、それに由来する二人のコミュニケーションのありようは、
終盤でジーナが、イタリア空軍の出動を知らせるために自家用の飛行艇で決闘現場へやって 来たシーンに示されていると思われる。ジーナは、ともにグロッキーになって海中に沈んで いるポルコとカーチスを飛行艇から見おろす形で、「あなたもうひとり女の子を、不幸にす る気なの!?」とポルコに声をかける。すると、ポルコはザバッと浮上し、勝利を収めるこ とになる。フィオに賞金の袋が渡されたあと、ポルコがジーナの飛行艇内にフィオを投げ入 れたとき、やはり飛行艇上から、ジーナはポルコに、「ずるい人。いつもそうするのね。」と いい放つ。このジーナのことばには、上から目線的なものがうかがえるだけではない。フィ オのようなストレートな感情表現とは違って、大人であるジーナが大人であるポルコに対し て、もってまわったいい方でしか自己の感情を表に出せないというコミュニケーションの様 態が認められるのである。
こうしたジーナの上位的な立場は、空賊たちとの関係にも表われている。ジーナが、富裕 階級に属しているのに対し、ポルコも含めて空賊たちは、ヨーロッパ各地からやって来た流 れ者的な人々で構成されており、それほど金回りがよいとは思えない(61)。彼らは、ジーナ をアイドル的な眼ざしで見つめており、頭があがらない様子である。序盤におけるジーナの 店のシークエンスで、彼女は空賊連合のボスたちと次のような会話のやりとりをする。
ジーナ なあに、今夜は偉い人ばかり集まって。また悪だくみしているの?
(……)
ジーナ 来てくれてうれしいわ。でも戦争ゴッコはだめよ。
ボスD わかってるよ、ジーナ。この店の
50
キロ以内じゃ仕事はしねえさ。ボスF 豚とだって仲良くやってるぞ。なぁ。
ボスE ああっ。
ジーナ フフフ、みんな良い子ね。
空賊のボスたちはジーナの前では神妙になり、ジーナに軽くあしらわれている風情である。
こうしたジーナの立ち位置をはっきり示しているのが、前述のイタリア空軍の出動を知らせ にジーナが飛行艇でやって来る、終わり近くのシーンである。ポルコが勝利を収めたあと、
飛行艇上のジーナは、手をパンパンとたたいて、「サァお祭りは終わり。イタリア空軍がこ こへ向かってるわ。みんな早く逃げてちょうだい。そのかわり私のお店に来て! うんとサー ビスするから。」という。このジーナの言動は、何やら幼い子供たちを前にした先生の姿を 連想させてしまう。もともと、マンマユート団のボスを始めとして、空賊たちは、<子供の ままの大人>的なふるまいを見せていたわけで、あまり違和感は受けないのだが。
これまで述べてきたように、ジーナとポルコの関係は、一定の距離を置いた大人同士の冷 静な関係として描かれている。序盤のジーナの店の片隅で二人がことばを交わすところで、
そうした雰囲気がまず感じられる。次に、カーチスに自機を撃墜されたあと、気をもんで出 かけようとしていたジーナに、ポルコが電話をかけてくるシーン(ここでポルコは、「ほど よくやせたぜ、二日ほど無人島にいたからな。」とカッコウをつけたせりふを口にする)や、
ミラノでの飛行艇再建のあと、ジーナのホテルの上空をアクロバット飛行で飛びまわり、ポ ルコがフィオに、「古い馴染みに挨拶したんだ。」というシーンなど、すべて距離を置いた描 写で二人の関係が表現されている。
そして、こうした距離の存在を前提としつつも、ジーナは、ポルコの身辺で起きる不測の 出来事に対し、控え目な形ではあれつねに気をまわしている。今しがたひき合いに出したポ ルコが撃墜され遭難した件で、何か対策を講じるために出かけようとするーンがその一例で あるし、ラストで、ポルコとカーチスのお祭り的な決闘のとき、イタリア空軍の出動を知ら せに現場に向かったのもその表われである。
こうしたジーナのポルコへの接し方は、フィオの存在との対比を通じて、より鮮明化した 形で描き出されることになった。フィオは、豚になったポルコがもとの人間に戻るかもしれ ないと思って、突然ポルコの頬にキスをする行動に出るのだが、ジーナの方は、「どうやっ たらあなたにかけられた魔法が解けるのかしらね。」と、ポルコの境遇に気づかいを見せつ つも、フィオのような直接的行動に思いおよぶ気配は感じられない。このように、ポルコの 身辺を気にかけ支援するふるまいを見せつつも、肝心の愛情表現に関しては受け身的で、自 分から積極的な行動には出ないジーナの態度が、ポルコ艇がやって来る前に裏庭に忍びこん できたカーチスに対し、「私がこの庭にいる時、その人が訪ねて来たら、今度こそ愛そうっ てカケしてるの。」ということばの示すものと一致していることは、もはやいうまでもない だろう。
さらにもうひとつ、ジーナとフィオのポルコに対する接し方がくっきりとした対照を示す 点を指摘しておきたい。すでにとりあげたように、アジトでの野営シーンで、ポルコの語る 第一次世界大戦中の激しい空中戦から生きのびて戻って来た話を聞いて、フィオは、「私、
ポルコが生きて帰って来てくれてうれしい。わたしポルコ好きだもの。」と、ストレートに 自己の思いを述べる。これが、ポルコになにがしかの<生きよ>という根拠を与えることに なるわけだが、実はジーナもまた、同じようなニュアンスを含んだせりふをポルコに対して 口にしているのである。それは、ポルコ機がカーチスに撃墜されたあと、ジーナが探索に出 かけようとしたところに、ポルコの方から電話がかかってきたシーンである。ジーナは、危 険で非合法的な賞金稼ぎの仕事を続けているポルコが、今に死んでしまうのではないかと懸 念しており、「マルコ。今にローストポークになっちゃうから……。私イヤよ、そんなお葬 式。」と皮肉混じりにいう。ジーナは真剣にポルコの身を案じているのだが、フィオのよう に素直に心情を表に出すことはできず、ひとひねりしたいい方をせざるをえない。ジーナも
ポルコも、それぞれに重たい過去を積みかさねてきているがゆえに、もってまわった含みの あるいい方でことばを交わすことになる。今とりあげた電話のやりとりで、ジーナは最後に、
「バカ!!」というのだが、これは、叱責や非難の意味合いを含みつつも、やはりポルコにずっ と<生きていてほしい>という願望がそこにこめられていることも確かなのである。
フィオは
17
歳であり、まだ世界情勢や人生のもつ矛盾・やりきれなさにとらわれること なく、純粋さを保って生きているといえる。だから、無条件な前提ぬきの癒し たとえそ れがかりそめのものであるとしても を、ポルコに与えることができるのである。ジーナ の方は、ポルコとある種の支えや慰め こちらは相互的な をわかちあうことができて いるのだが、それは、ポルコとフィオの交友のような純粋さの領域にあるものではない。最後に、いささか蛇足的なことがらをつけ加えておく。ジーナは、先に述べたポルコと電 話のやりとりをしたシーンで、「いくら心配したって、あんた達飛行艇乗りは女を桟橋の金 具ぐらいにしか考えていないんでしょう。」といって、ポルコをなじるのだが、二人の距離 のある関係性のありようを念頭に置くならば、このせりふは、あながち無根拠で一方的な非 難であるということはできない、と私は考えている(62)。
4.宮崎アニメにおける『紅の豚』の位置づけ
これまで、ポルコ、フィオ、ジーナという三人の主要人物をとりあげて本作品について検 討してきたが、ここで作品全体をふり返って、登場人物だけに限定することなく、言及し残 した側面に目を配りつつ、宮崎が本作品の制作前後にいだいていた問題意識のありよう、そ れがどのような推移をたどったかについて、補足的に考察することにしたい。
まず指摘しておきたいのは、宮崎アニメにおいては、<木>ないしは<木でつくられたも の>の存在が大きくクローズアップされて描き出されているということである。とりあえず、
『となりのトトロ』以降の作品に限定してふり返ってみるならば、『となりのトトロ』ではな んといっても神社の境内にある大クスノキが最初に思い浮かぶであろうし、また木ではない が、様々な草花類の細密な描写なども印象に残るものであろう。『魔女の宅急便』の場合は、
絵描きのウルスラの住む奥深い森のイメージが一番先に思い浮かぶかもしれない。しかし、
私が目を向けたいのは、木製品 グーチョキパン店で店主がパンの生地を載せている板や、
店のパンの陳列棚など の描写である。この他にも、キキが生活用品を買いに訪れるスー パーの棚や、お客の荷物を運んであがる屋内階段の手すりが木でできていることなどにも目 をとめることができる。『紅の豚』では、<木>へのこだわりがより鮮明に現われている。
何よりもまず、ポルコの愛機は、ほぼすべてが木でできている(これに反し、カーチスの機 体は金属製である)。マンガ版において、ポルコは、「金属のヒコーキに乗る位なら死んだ方 がましだ」と、非常にかたくななところを見せていた。もうひとつとりあげておきたいのは、
ポルコがフィオと交代して運転するトレーラーが、ファシストの秘密警察に尾行されるシー ンである。運転席の室内の側面や背面が板張りになっており、さらには背後の荷物台(かな り細長い形である)も木製であることがわかる。次作の『もののけ姫』においては、たとえ ば二人の負傷したタタラ場の男たちとともに、アシタカがシシ神の森を通りぬける場面でそ の森林の様相の細密な描写に大変な情熱と労力が注がれていることは、誰の目にもあきらか であろう。
資源の大量消費を伴う工業文明が、自然の環境破壊をおし進めるのはいうまでもないこと だが、宮崎は、『もののけ姫』において、中世という時代背景のもとにタタラ場とシシ神の 森の対立という形で、真正面からこの問題をとりあげている。しかしその一方、宮崎本人は、
戦闘機や戦車などへの断ち切りがたい愛着心を自らのうちにかかえこんでいる。それゆえ、
すでに指摘したように、ピッコロ社のおやじの「罪深い私どもをお許し下さい」というせり ふに、そうした宮崎の意識の一端が影を落としている、と私は考えているわけである(当時、
鉱工業による環境破壊などという発想はまったくなかったにしても)。
こうした消去不可能な自己矛盾を前にして、宮崎が『紅の豚』を制作後に、とりあえず強 く意識したのは、<木>のすばらしさを讃え、<木>を植えるのを奨励するということだっ た。彼は、次のように発言している。
「だから今、環境を告発するような映画を作りたいとは全然思わない。もし作るんだった ら『“木”っていうのはどれほど素晴らしいか』とか、そういう映画を作りたい、それが本当 にできるなら。それができたらどんなにいいんだろうっていつも思ってるんだけど。“木”
というものを通してね、光合成の秘密からバクテリアの秘密から、風景の中での木、季節の 中の木っていうあらゆるものを含めて、大袈裟に言えば宇宙の運行まで含めた中で、その真 ん中にいる木っていう感じのね? そういうのを描けたらどんなにいいだろうと思うんだけ ど(63)。」
宮崎は、<木>のすばらしさを賛美するだけにとどまらず、<木>を植える運動を進める べきであると語っているのだが(64)、『紅の豚』においては、森林のイメージを大きくとり あげて描いたシーンは存在しない。それは、現実問題として、ヨーロッパの各地 ユーゴ スラビア、イタリア半島、リベリア半島、プロヴァンス地方など で、緑の植生が人間の 手によってとり払われてしまったという理由があるからだろうが(65)、<木>に対するこだ わりはこの作品の中にも伏在して保持されており、ポルコの乗る飛行艇が木製機であるのは、
工業のつくり出した機械的な部分と自然の産物である<木>との微妙な融合を意味している。
これは、とりもなおさず宮崎自身の矛盾とそこから導き出された融合の意識ということにな るであろう。
宮崎は、あらかじめあらすじを綿密に構想し、結末までしっかりと考えた上で絵コンテを 切り、せりふをつけて行くという制作手法をとっているわけではない。しかしながら、天性 の才能というか、物語の流れの中で、結果的にはみごとな映像的効果が生み出されている場
面が少なからず見受けられる。私はここでとくに、<帽子>のイメージの反復によってつく り出される味わい深い効果についてふれておきたい。<帽子>の出てくる主要なシーンは、
次の三つである。
(
1
)マンマユート団の飛行艇ダボハゼが、ポルコによって撃墜され海上に不時着する。人質の子供たちは、機内から外に出て、翼の上に乗り移り、次々と海中に飛びこむ。
彼女たちのかぶっていた帽子が、海面に漂う。
(
2
)ミラノから戻ってきたポルコの飛行艇が、挨拶がわりにホテル・アドリアーノの上 空を飛ぶシークエンス。ジーナはツバの広い大きな帽子をかぶっていて、それを手で おさえながらポルコの飛行艇を見あげる。ここではジーナの顔がクローズアップされ ており、その顔とともに帽子も強く印象づけられるショットになっている。このあと、ジーナの回想の中で、少年のポルコが、少女のジーナを乗せてアドリアーノのマーク の入った旧式飛行艇を操縦するシーンが出てくる(66)。そこでも、ジーナは帽子をか ぶっている。
(
3
)ポルコがカーチスとの殴りあいに勝利したあと、ジーナの飛行艇にフィオを投げ入 れる。飛行艇が始動したとき、突然フィオは身を乗り出して、ポルコにキスする。飛 行艇は遠ざかり、海面にフィオの帽子が飛ばされる。ポルコはそれを拾いあげて頭に かぶり、飛行艇が上昇して行くのをカーチスとともに見送る。この三つのシークエンスは微妙に交錯しあっている。まず、(
1
)と(3
)の対比においては、女の子たちの帽子とフィオのそれとがほぼ同じ形であり、帽子はいってみれば、あどけなさ・
純真さのシンボル的な意味をおびている。そのシンボル性が、女の子たちとフィオの両方に 共有されているものであることはいうまでもあるまい。(
1
)においては、複数の帽子が海上 に漂っていたものが、(3
)のシーンでは、フィオの帽子ひとつが海面に漂い、それをポルコ が拾いあげ、自分の頭にかぶってフィオを見送るという対比になっているが、ここではその ことを指摘するだけにとどめる。今度は、(
2
)と(3
)の対照について見てみよう。(2
)において、ジーナの帽子は飛んで 行かない。しかし、情景的には類似性が認められる。つまり(2
)では、ポルコとフィオが 乗って旋回する飛行艇をジーナとカーチスが見ているのに対し、(3
)では、ジーナとフィオ の乗った飛行艇を、浅瀬の海中でポルコとカーチスが見送るという構図になっている。そし て(2
)ではジーナの心理表現に比重がかけられ、(3
)ではポルコの心理表現に比重がかけ られるというふうに描き出されている。以上のように、序盤、中盤、終盤に帽子にかかわる印象的な映像が配置され、それらの中 に登場人物たちの微妙に重なりあう心理的なニュアンスが盛りこまれている。くり返しにな るが、宮崎はあらかじめ物語全体の筋書きを厳密に考えた上で、絵コンテを切って行くわけ ではない。やはりこうした作品構成の妙は、宮崎の本能的ともいえるすぐれた作家的資質に よるところが大きいと思われる。
次にとりあげたいのは、本作品の結末をどのようにつけているかについてである。あらか じめいっておくならば、その結末のつけ方には、宮崎のアニメづくりの特徴がよく表われて いる。
宮崎自ら、『紅の豚』について、「自分の趣味の映画だ」といい、「この豚は全部、ぼくの 一部なんです」といっているように、主人公のポルコは、宮崎が強く感情移入してつくりあ げられた人物であることはあきらかであり、彼の分身といってもよいほどである。別ないい 方をすれば、『紅の豚』は、他にも登場人物は出てくるけれども、ポルコの視点 というか、
より正確には作者宮崎の視点 を中心として制作された作品である。フィオおよびジーナ の人物造型にもまた、作者の視点が大きくもちこまれていると思われるのだが、主人公はや はりポルコであり、ポルコの内面心理の描写、つまり彼のモノローグ的な特性が色濃くにじ み出ているといってよい。
ところが結末では、それががらっと変わってしまう。ポルコとカーチスの決闘のあと、ジー ナの飛行艇がフィオを乗せて去って行くシーンから、フィオがナレーターとして語り始める。
いわば、ポルコのモノローグ的な物語の記述からフィオのモノローグ的な物語の記述へと入 れ替わってしまうのである。
エンドのシークエンスを追ってみよう。フィオはその後、毎年夏のバカンスをホテル・ア ドリアーノで過ごす習慣となった話を語り、ピッコロ社のマークの入った小型ジェット機が 画面に現われ、下方にホテル・アドリアーノの全景が俯瞰的に映し出され、ホテルの裏側の 桟橋に停まっている小さな赤い飛行艇が一瞬だけ姿を見せる。次には、こざっぱりした身な りでホテルに集まってくる年老いた空賊のボスたちが登場し、さらにカーチス主演の西部劇 のポスターが出てくる。そしてこのシークエンスは、フィオの「ジーナさんのカケがどうなっ たかは、私達だけの秘密……。」というせりふでしめくくられる。物語の話者的な人物が入 れ替わることを通じて、視点に空間的なズームおよび時代的なズームがほどこされているわ けだが、物語を収束させるこの結末の運びには、どこかいい加減なところがあると感じざる をえない。
まずとりあげたいのは、ピッコロ社のマークの入った小型ジェット機である。イタリアは、
第二次世界大戦の敗戦国であり、航空機産業が戦後すぐに復活することはなかった。イタリ アが国産のジェット機を開発し、運行を始めたのは、
1960
年前後になってからのことであ る(67)。1960
年の時点で、ポルコはすでに67
歳になっていたはずだから、ホテルの後ろ側に 停まっている飛行艇がポルコの乗り続けているものであるという可能性は、現実的にはない であろう。さらに、ポルコと張りあっていた空賊たちにそれほど稼ぎがあったとは考えられ ないし、うまく資産をたくわえて安定した老後をそろって送っているというのも、およそあ りえない話である。カーチスの俳優としての成功は別に置くとしても、フィオの語る後日談 が、ポルコを主人公とした物語よりも、さらにリアリティを欠いた虚構性のレベルの高いも のになっていることはあきらかである(68)。多額の制作費用がかかるアニメ作品は、収益をあげなければならないという前提がある以 上、観客にとって、後味が悪かったり欲求不満が残ったりして終わってはならず、それなり にほのぼのと収束させる必要がある。いってみれば、フィオのナレーションによる最後のエ ピソードは、考えうる結末の諸バージョンのうちのひとつなのであり、集客力という側面を 考慮に入れた上で、より虚構性の高いものになってしまっているのだ。本作品に限らず、『と なりのトトロ』の結末(たとえば、母親のヤス子の帰宅)も、『魔女の宅急便』の結末(た とえば、キキとともに人力飛行機で空を飛ぶトンボ)も、観客が見たあとにいだく印象に気 を配りつつ、ありうべき結末のバージョンのひとつを選びとったものである、と私は考えて いる。
フィオのナレーションのあとに、タイトルクレジットが出てくるが、それは画面の右側に 配置され、左側では、宮崎自身の手になる
22
枚のイラストが次々と映し出される。そして そこに、加藤登紀子の歌う『時には昔の話を』がかぶせられている。イラストの方についていえば、そこでは、旧式の飛行艇(複葉、単葉のものがあり、飛行 艇ではなく車輪のついた機体もある)が登場する。飛行機はすべて軍用機というわけではな く、輸送機とおぼしいものも見受けられる。さらに注目したいのは、パイロットのみならず、
飛行機の開発・製造に携わったり飛行機の発進を手助けしたりする人たちが、すべて豚の顔 で描かれていることである。彼らは飛行機に対し、無償の情熱 かくとしたとした根拠が あるわけではない を注ぎこんでいるかのようである(少なくとも現在時の私たちから見 れば)。むろん彼らには、多大な化石燃料を消費し、やがてはモンスターになりかねない乗 り物だとか、自然の破壊に向かう工業文明といった発想が浮かんでいるはずはない。しかし 少なくとも、作者である宮崎はそうしたことがらを念頭に置いており、それゆえに、うち消 しがたい飛行機への愛着を自ら意識し、そのことを<呪われた>状態であると見なして、豚 の顔をもつ人々をここでも描くことになったのではあるまいか。豚の<呪い>は、単にポル コが戦争に参加し、敵を殺したり傷つけたりして、多くの仲間が死んだのに自分だけは生き 残った罪の意識とか、ファシズムが高まりつつある欧州の情勢に対する嫌悪感・忌避感とか だけに起因すると考えるべきではないであろう。
次に、加藤登紀子の『時には昔の話を』についてふれておきたい。この歌の内容は、自分 も含めた若者たち とりわけ大学生たち が、時の政治情勢に対して激しい抗議運動を 展開した
1960
年代をふり返って、彼らの生き方やその感性のありようを回顧的に歌ったも のである(69)。一方、『紅の豚』における主人公のポルコは、賞金稼ぎとして行き当たりばっ たりな冒険と波乱にみちた生活を送っているわけだが、とくに時代的な混沌の中で生きてい るという思いをかかえた人物というふうに描かれてはいない。しかし、作者である宮崎のい だく感慨は、もっと違った視点に立っている。<飛ぶこと>に向けられた根拠のない情熱、現在時からふり返ってみればばかげているとさえも見える情熱、そういうとらえ方にもとづ いて、時代的な距離をとった上での懐かしさや哀惜を交えた眼ざしが、そこにはそそがれて