『茨城大学人文社会科学研究科院生論集』第2号 2018年度
2017 年度茨城大学人文社会科学研究科 修士論文要約
本号掲載修士論文要約 文化科学専攻
14LM106T 荻野 修平 「四時の法令」と「礼の執」を淵源とする『斉民要術』の考察
15LM105H 生田目智文 地域との協働を軸としたグローバル授業の展開
―M高校における外国人との地域国際交流授業を事例として―
15LM110H 董 健 四川大地震被災者の語りからみる震災経験者の災害後成長
16LM101S 有薗 舟仁 日本海軍における特務士官の研究
―その制度と生じた不満―
16LM104X 須貝 慎吾 戦国期東国における城下形成と戦国領主
16LM105R 滝口 隆司 スポーツ報道 新時代の使命
―メディアの変革から考察するジャーナリズムの未来―
16LM107A 呑川 泰司 日本鉄道会社「機関方」の意識と行動
16LM111H 呉 佳瑋 中国人留学生と日本人の日常的友人関係構築における困難解決
―学習支援プログラムの設計を通して―
16LM112A 舒 芳 蔡元培の教育思想研究
―民国初期における反儒教運動との関連について―
16LM113T 章 世弋 明治初期の神戸居留地に見る異文化接触
―「英国領事裁判記録」を中心に―
16LM114N 包 新新 大学新入生の刺激欲求と自己成長感
― 1年生前期の追跡調査と学年終了後の振り返りを通して―
社会科学専攻
14LM202L 佐々木 淳 社会関係資本から見た千葉県いすみ鉄道における地域鉄道の変容
15LM201Y 喜田 啓太 差別を原因とする離婚・婚約破棄への民法的アプローチについて
15LM211R 喬 丹 中国における市民農園の存立基盤とその変容
―北京大都市圏を事例として―
16LM201G 石井 秀明 地方中心都市に居住する高齢者における買い物行動と栄養摂取の 関係性
―茨城県水戸市を事例に―
16LM202Y 石川 智博 日本における同性パートナーシップ制度の比較
16LM204L 刁 莉媛 ジェンダーの視点から見た災害復興・防災について
16LM205F 黄 雅婷 トヨタ自動車株式会社における環境情報開示に関する研究
16LM206X 侯 婕 地域おこし協力隊事業における兼業と定住の関連性に関する
研究
16LM210F 唐 治禎 中国自動車産業における中小部品サプライヤーの発展と課題
―上海VWの事例研究―
「四時の法令」と「礼の執」を淵源とする『斉民要術』の考察
荻野 修平
本論文は、北魏末・東魏に著作されたとされる農書『斉民要術』を通して、漢人に内在す る思想の所在とその伝承を考察するものであり、その目的は『斉民要術』の思想的骨格とな る「四時の法令」(暦儀礼)と「礼の執」(通過儀礼)について、具体的な根拠と社会や時代 背景の経緯を通して仮説を立証することにある。
『斉民要術』の目的は、礼教主義に基づく一族共同体の生計維持を図り、朝廷の要請する 勧農政策にこたえるための農業技術百科全書の役割を担う事にあった。著者である賈思勰 は、現山東省黄河東域に相当する三斉地区(斉州、青州、東兗州)で活躍した郡太守であり、
農学者でもあった。出自は恐らく世家中堅漢人豪族であろう。著作からは、漢人としての矜 持を保持しつつ、自らの研究に勤しんだ印象を受ける。この地域は、南朝劉宋の滅亡と北魏 による占領によって全住民が翻弄された場所である。
第一章は、彼の一族が経験したであろう三斉地域の動乱収束後、孝文帝の政策によって経 済回復と政治的安定がもたらされ、著者賈思勰が比較的安定した著作時間と空間を得た歴史 的経緯について考察した。また、崔浩の『崔氏食経』と『斉民要術』との関係について、儀 礼の伝承という観点から考察した。更にその儀礼は『儀礼』や『礼記』内則にまで遡及し得 るものであることを明らかにし、一貫した通過儀礼の過程を踏んで継承されてゆく姿を紹介 した。
第二章では、食事宴席の中にある儀礼としての作法を具体的な例をもって示した。厳かな 礼作法が非日常的演出を醸し、漢人のアイデンティティを覚醒させる分離儀礼をもって一族 に衝撃を与える。礼の執行中はその異空間に隔離され、覚醒が高揚へ移行(移行儀礼)する。
終わればその状態は解除され、日常へと復帰する。その状態は可視化され、体験化される。
やがて儀礼は統合化され一般化されていく。その様子を料理宴席に重ねて示した。
第三章では、『斉民要術』における「暦儀礼」の取扱いについて考察した。鄒衍の陰陽五 行に始まる暦の解釈がやがて皇帝の詔勅に値する法となり、四時歳時の秩序を確保するよう になる。これはやがて「暦儀礼」の性格を帯び、社会に敷衍していった。
結論は、『斉民要術』は、その骨格に於いて、暦儀礼と通過儀礼の両輪によって支えられ、
礼の執行によって漢人の身体に慣習化されていくこと、また、それがふさわしいと感じる矜 持と恍惚によって着実に身体化され、一族に共同体としての結束を促すものであった、とい うことに帰着する。
問題の所在の一つは、著者賈思勰の人物像が全く分からないという点である。著作と著者 を取り巻くいくつかの疑問や、裏に隠された思想に関して、その蓋然性を客観的事実、必然
性、状況証拠によって精度を高めていく必要がある。本文に政治的な文言意図は全く記録さ れていない。強い思想を感じる部分はなく、強いて言えば『管子』「倉廩満ちて栄辱を知る」
の引用程度である。むしろ非政治性、非思想性により現在まで存続したのかもしれない。ま た、全体を通して見られる儀礼の順守と執行は、思想とアイデンティティの身体化、一般化 である。もう一つの問題の所在は、「礼の執」つまり儀礼の作業を通して彼は漢人たる矜持 を伝承する必要性があったのか、という点である。彼にとってそれは確実に一族共同体へ浸 透させ、身体化する必要があるものであった。それは行政を担当する士大夫の意識であり、
教養であると思う。そのため必然的に「礼の執」(礼の反復学習)を以って浸透させようと したのではないだろうか。無論、彼が意識していたかどうかはわからない。
崔浩は『魏書』崔浩伝『崔氏食経』序の中にその意識をしたため、賈思勰は『斉民要術』
の中にそれを引用した。代々伝わる作法や所作は無意識のうちに反復学習することで意識に 刻み込まれる。この一連の構造が、中堅漢人豪族であった賈思勰の意識無意識にかかわらず 意図するところであり、著作を支える精神的、思想的根拠であった。
地域との協働を軸としたグローバル授業の展開
―
M高校における外国人との地域国際交流授業を事例として ―
生田目 智文
本論文は、高校生と地域に在住する外国人との国際交流授業がグローバル人材育成の一助 となる可能性を論じたものである。内閣府のグローバル人材育成推進会議が2012年に策定 したグローバル人材育成推進戦略の指針の下、全国の高等学校で海外留学を中心としたグ ローバル人材育成のための教育が進展している。近年、国内の各地域に在住する外国人の数 は増加の一途にあり、日本人住民と外国人との多文化共生策が図られている。このような状 況のもと、筆者は高校生と地域在住の外国人が参加して地域の抱える問題について考える協 働の国際交流授業が多文化共生につながるグローバル教育の一つになると考えた。そこで、
本研究では、国際交流授業をデザインおよび実施し、アクションリサーチを用いて、(1)高 校生と地域在住の外国人との交流を通して、グローバル人材育成のどの要素において効果が 認められたか、(2)高校生は地域在住の外国人との交流を通して、地域の抱える問題にどの ように関われるようになったか、(3)高校生と地域在住外国人との交流には、多文化共生に つながるどのような契機が認められるか、の3点から授業の有効性を確認していく。さらに、
その上でグローバル教育に向けた新しい授業をデザインしていくことを目的とする。
授業Ⅰはパイロットケースとしてデザイン、実施された(全8回)。参加者は近隣の大学
に在籍する外国人留学生12名と筆者の勤務する高校の高校生12名および教員8名である。
この授業では、外国人留学生、高校生、教員の混成で4つの小グループを構成し、地域の観 光を振興させるための提案を日本語で話し合う協働学習の形態をとった。しかし、2回目以 降外国人留学生の参加者が激減したことで、協働学習が成立しなくなったグループがでて きた。授業終了後に高校生、教員、外国人を対象に実施したインタビュー調査では、「日本 人の話す速さについていけず疎外感を抱いた」「1回限りの国際交流授業だと思い参加した」
「テーマに関心を示さなかった」ことが、留学生が激減した理由として挙げられた。さらに、
授業Ⅰの改善点として、(1)明確な目標の明示、(2)事前指導の実施、(3)多様なテーマの 設定、(4)時間的余裕をもった日程の設定、(5)交流プロセスの重要性、が浮かび上がって きた。
授業Ⅱは授業Ⅰを踏まえた上で、筆者の勤務する高校に新設されたグローバルコースで行 う正規の授業の一つとして実施された(全7回)。参加者は高校生46名、教員10名、地域 在住の外国人10 名である。授業Ⅰから変更した点として、第一に協働学習に参加する外国 人を地域に3年以上在住している者に限定し謝金を支払うことにしたこと、第二に心構えを 含めた事前指導を参加者全員に対し行ったこと、第三に各小グループで話し合うテーマを地 域観光の振興だけでなく環境、行政サービス、食文化にまで広げ、選択肢を増やしたこと、
第四に授業日程に余裕を持たせたこと、第五に生徒にパソコンを貸与したことが挙げられ る。授業Ⅱでは、高校生、教員、外国人混成で10の小グループを構成し、提示されたテー マに関して話し合いを行い、最終回には各グループの企画案を発表した。授業Ⅱでは授業Ⅰ での反省が活かされ、外国人の離脱者・欠席者は皆無であった。
授業終了後に高校生、教員、外国人にインタビュー調査を実施した結果、高校生と外国人 は授業Ⅱを通して、共生への意識を高めたことがわかった。高校生は地域社会の抱える問題 点に関心を持ち、在住する外国人とコミュニケーションをとりながら共生していくことが大 切であるとの意識を得ている。また、調査結果からは、グローバル人材を構成する要素の「コ ミュニケーション能力」「異文化に対する理解」「問題発見・解決能力」における効果が覗え た。一方、外国人にとって授業Ⅱは、同じ出身国のコミュニティーだけでなく地域社会の問 題にも積極的に関わっていこうとする契機となった。このことから、高校生、外国人ともに、
授業Ⅱは多文化共生に互恵的な意義があったと考えられる。また、一回限りの交流ではなく、
継続的に協働活動を行うことによりコミュニケーション能力、信頼関係が構築されることも 本研究の結果から確認できた。以上のことから、本研究における国際交流授業は高校生を対 象としたグローバル教育としてだけではなく、グローバル化する地域社会での日本人と地域 在住外国人との多文化共生の推進にも重要な役割を果たしたと言えるだろう。
四川大地震被災者の語りからみる震災経験者の災害後成長
董 健
死は誰もが避けられないことである。世界では、戦争、テロリズム、交通事故、自然災害、
自殺事件、伝染病などがある。たとえば、イラク戦争、IS(イスラム国)テロ事件、東日本 大震災、熊本地震などでの突然死のシーンは、マスメディアを通して、それを見た多くの人々 にショックを与えた。2008年5月12日に四川大地震が発生し、甚大な被害を受けた四川省 の災害後の復旧・復興活動は中国国内でも国際社会でも大きな関心を集めた。震災時に筆者 は震央から1148キロ離れている故郷の高校にいたにもかかわらず、机の上の物が落ちたり する程度の揺れがはっきりと感じられた。人生初の地震体験でもあり、死ぬことに対するか つてない恐怖心を抱くようになった。
震災などによる身近な人との死別を経験した人は、それ以前には死をあまり考えたことが ない人が多く、それにもかかわらず、震災直後、突然の死に直面しなければならなかった。
四川大地震の被災者たちの多くは、経済的、精神的な喪失を複数経験した。数十年間たった 後も、その悲しさが完全に癒されることはないと思われる。どのような考え方をするのがよ いのか、どのようにしてその悲しさからよりうまく回復でき、さらに成長できるのかを私た ちは工夫する必要があると考えられる。
衝撃的な出来事で傷ついた人にその後肯定的な変化や成長が見られることは、「心的外傷 後成長(PTG)」と呼ばれている。本研究は、震災後の心的回復過程、さらに自己意識の肯 定的変化、心的成長につながる要因の検討を行うことを目的とする。本研究では、四川省綿 陽市平武県で2回のフィールドワークを実施した。震災による様々な喪失経験、特に大切な 人を失った悲しみを乗り越えて、物事に対する考え方を変容させ、生活を再建した11名の 四川大地震被災者にインタビューを行った。その中で、身近な人との死別を経験した7名の 被災者を中心に調査を実施した。また、日本の新潟県中越地震(2004年10月23日)の事 例も含めて、生活習慣、政治体制、支援政策や震災経験が異なっている被災地へのフィール ドワークの結果を通して、中国と日本両国の被災者の意識変容を比較した。調査結果として、
「人間としての強さ」、「人生に対する感謝」はもっともみられる成長カテゴリーである。具 体的には、「物事の結末を、よりうまく受け入れられるようになった」、「自分の命の大切さ を痛感した」という変化は中国と日本で共通であった。震災後、消費態度の変化および娯楽 活動の変化もよくある。ただし、国家による復旧期以降の救済政策は自助が中心であり、「人 を頼りにできる」という変化は少なかった。PTGは多因子(性別、年齢、性格特徴や被害程度、
復旧状況、収入状況)に影響されていると考えられる。年代の違いにより、震災経験から回復、
さらに成長する能力に差異があり、年長者たちはストレス経験から比較的にうまく回復でき
ると思われる。人的被害があまり発生しなかった山古志村の村民たちへのインタビューを通 して、被害程度が小さければ、震災後の変化も少ないことが分かった。同時に、震災で甚大 な喪失を経験した死別経験者の中で、震災から8年を経て、明らかに成長がみられる人がい る一方、ずっと落ち込んでいる人もいる。被害程度とPTGとは関連があると考えられる。
日本海軍における特務士官の研究
―その制度と生じた不満―
有薗 舟仁
本論文は日本海軍に存在した特務士官の人事取扱いやその制度について検証することによ り、日本海軍の性質に迫ることを目的とした研究である。
第一章第一節、第二節においては、特務士官制度が生まれる背景となった大正期の日本海 軍についての整理を行い、世界的な軍縮の流れと、熟練した下士官兵を温存したい海軍の意 思などから特務士官制度が確立していくまでを論じた。第三節においては、特務士官を教育 した系統別(講習、選修学生課程)に二つの運用方法を見出し、それぞれの教育とそれが特 務士官をどう運用することを意図したかについての検証を行い、それが後々に与えた影響、
正規の士官(兵科将校)などから特務士官らがどのように見えていたかという点を検証した。
第二章第一節では、特務士官を取り巻く制度を詳しく見ることにより、彼らに対し正規の 士官とどのような取扱い上の差異が見られたのかについて、海軍武官任用令や考課表規則な どの事務処理規定などから、それぞれ検証を行った。第二節では、そうした差異を踏まえて、
彼らがどのような不満を生じさせたのか、そしてそれは何を原因として発生したのかについ て、元特務士官らの自叙伝、回想録などから分析を図ると共に、元兵科将校の側から、彼ら の取り扱いについてどのように把握していたのか、戦後の「海軍反省会」などの証言から考 察し、それを論じた。
第三章第一節では、アジア・太平洋戦争の開戦に伴い、動員の拡大と海軍には元来予備員 が少なかったという要因から、人事上の問題が拡大したこと、それにより軍令承行令問題が 拡大していったこと、それにより機関科将校らの不満が拡大していったことを論じた。続く 第二章において、それら機関科将校の問題を解決するべく検討された「高田私案」の経緯と、
それを元に行われた昭和十七年の改正によって、特務士官問題もまた待遇改善が図られたこ と、及びその意図について海軍大臣の訓示などを用いて分析し、待遇改善の意思と、士気振 興の狙いがあることを論じた。第三節では、昭和十九年に改正された軍令承行令を中心に、
終戦間際までの海軍の制度改正を追って、特務士官の取扱いの何が改善され、何が改善され
なかったのか、そして、海軍は特務士官を最終的にどのように扱うつもりだったのかを、海 軍次官申進などを用いて論じた。
第四章においては、海軍が終戦を迎えた後の、恩給取扱いについて、元特務士官の回想を 足がかりとして恩給制度と給与制度、その特務士官と兵科将校の取り扱いの差を分析し、恩 給の支給額に関して、兵科将校の優遇が確かに存在していること、そしてそれは特務士官に 対する残された不遇であると結論づけた。
特務士官という制度が問題を生じたのはなぜなのか、という問題について、機関科将校問 題と類似する点を持ち、指揮権によって兵科将校と身分が分離し、それが固定化したために 起きた、半分は差別の意図を持ち、半分は事故的な要素を持った問題だったのではないかと いう視点から総括を図った。
戦国期東国における城下形成と戦国領主
須貝 慎吾
本論文では、東国の戦国期城下の形成過程を、戦国大名間のみではなく戦国領主を中心に 考える。対象とする年代は東国において、城下を示す文言が登場する十六世紀後半、永禄年 間から天正年間(一五五八〜九三)に至る戦国後期とし、城下おける武士居住区と市宿の問 題を主に扱っていく。
戦国期城下の研究は、城下の凝集域と散在地による主従制と非主従制という二元論の否定 を中心に始まり、東国の戦国期城下では、家臣団・市町などが雑居的に存在した多元性が特 徴であるとの市村氏の指摘があったものの、その後の形成過程は充分に検討されずに来た。
その理由として、後の豊臣政権下では城下の求心性が全国で見られるようになることから、
その後の進展は豊臣型の城下として一括して説明されてきたことがあげられる。本稿ではそ うした織豊政権下に至る間の、東国独自の城下形成過程を、戦国期城下で論じられてきた市 宿との関係と家臣集住性に注目しながら検討したい。
第一章では、東国に見られる根小屋は、永正期から戦国末期にかけ長く確認できるが、そ の中で根小屋は前期・後期に分けられることが明らかとなった。前期根小屋には兵商分離が 見られず、根小屋内で身分的二面性を持つ上層特権商人の独立性が見られた。後期にはそれ を克服し否定したものが見られた。武州・松山城の市宿に対し領主は、商業振興に対する諸 政策を積極的に展開し、城下の商業地に武士が介入することを否定し、武士居住区を根小屋 空間に限定した。そうした実態から、後期根小屋における兵商分離の兆しが確認できた。
第二章では、戦国期城下における「宿」と「惣構」の問題を検討した。戦国期城下の宿内
も、根小屋同様に前期・後期に分けられ、根小屋で兵商分離が城下の宿内とンクする実態を 示した。まず東国では中世前期から、在地領主が本拠とする城郭には「宿」がセットで存在 し、それが戦国期まで系譜的に続くことがわかった。鎌倉期以降は領主と「宿」住民との結 合から「宿」の町場が維持されてきた。その流れが戦国期段階では、家臣が武士と商人の身 分的二面性を持ち、城下で大きな影響力を持つ構造を創出することになった。
戦国期のそうした状況は、「洞」による権力構造下でも見られ、宿内では家臣団・市町な どが雑居的に存在していた。家臣も城下へは集住せずに、付近の在所で独自に商業活動を行 うような形態であり、城下に対し領主権力が及びにくい構造であった。こうした未分離な東 国の城下を本稿では、前期戦国期城下と区別した。
対して、小山氏の祇園城下では「内宿」、「外宿」により武士と商工人の分離が城下で想定 された。「内宿」には家臣団の屋敷地が存在したことから、家臣の城下集住性が考えられ、
戦国期の小山氏は天正期にかけて、当主専制的な支配体制になり、家臣団編成の転換期を迎 えたことが明らかとなった。その結果として、家臣の城下集住へと繋がり、兵商分離に反映 された経緯を提示した。
東国に見られる「宿城」は惣構的機能を持つ東国独自の構造であり、戦時的緊張状態の下 で惣構に囲まれるようになったものである。つまり東国の戦国領主にとっては「宿中の者」
も利用価値の高い要素であり保護すべき対象であった。惣構化は下からの要求も十分考えら れ、城内に市宿も包摂することで領主による「宿中の者」の保護を具現化した。こうした要 因も兵商分離を促進させていったと考えられることを示した。
第三章では、東国の戦国期城下をより具体的に示してゆくことを目的とし、佐竹氏家臣で ある戸村氏を事例に前期戦国期城下から後期戦国期城下に進展する形成過程を追ってその内 部を検討した。
まず城下の曲輪構成の復元から、「宿城」であることから惣構的機能を持つ城であること がわかった。次に近世史料である『水戸旧臣記』の分析によって、戦国期段階の戸村城内に は重臣クラスを中心に家臣が集住し、また散在地に居住する家臣も併せて存在していたこと も明らかとなった。対して町場は「下宿」、「中宿」の曲輪に分けられ、戦国期戦国領主の城 下に伴う宿の実態は、疎塊村的な街道宿を構成していることが明らかとなった。こうした戸 村氏の城下は、惣構的機能を持ち、少なからず兵商分離が行われた後期戦国期城下と想定さ れた。さらにその内部には「洞」の原理が働き、城内でも独立性の強さが窺われる家臣居住 地の姿があり、先進的な後期城下に移行してもなお前期的な「洞」の原理は受け継いでいく 実態という構造を明らかにすることができた。
以上、前期から後期に至る戦国期城下の形成過程について、領主権力による家臣団編成と 経済的発展の両面から兵商分離に至る過程を、戦国領主の城下構造から導き出してきた。そ の形成過程は根小屋ともリンクして位置づけていくことの重要性も併せて提示した。
また東国における社会情勢と照らして考えていくと、戦国期における東国は後北条氏に
よる北関東侵攻の激化や上杉氏と後北条氏間の長期にわたる抗争があった。更に佐竹家臣戸 村氏の場合でも付近での戦闘が数多く見られ、戦国期東国の戦国領主は常に戦闘と隣り合わ せにあったと考えられる。この戦時的緊張状態の下で、各地の戦国領主は家臣団編成の転換、
城下の市宿の保護に迫られた。そうした背景から「宿城」化(惣構化)に伴い兵商分離に繋 がる兆しが東国の戦国期城下にみられ、城下形成が促されていったことが考えられるだろう。
スポーツ報道 新時代の使命
― メディアの変革から考察するジャーナリズムの未来 ―
滝口 隆司
日本のスポーツ・ジャーナリズムは、メディア環境の激変の中で混迷している。筆者は新 聞社の運動部記者として20年以上の経験を重ねてきた。社会人大学院生として取り組んだ 本研究は、そのような視点の下、スポーツ報道の変遷を追いながら、将来のあるべき姿を追 究するものである。
歴史をたどれば、スポーツ・ジャーナリズムはメディアの変革に伴って、役割を変容させ てきた。新聞がメディアの中心だった時代には、活字媒体はスポーツのルールや技術、戦術 を伝え、試合結果を記録し、スポーツの精神性や思想を啓蒙しようとした。ラジオは試合の 模様を音声で全国に瞬時に伝える速報の役割を担い、活字にはできなかった伝え方として、
現場の雰囲気をリアルに実感させる工夫を盛り込んだ。
第2次世界大戦後にテレビが登場すると、スポーツ報道はいっそう大きく変わった。クロー ズアップ、スローモーション、衛星回線を使った国際実況など相次ぐ映像の技術革新は、放 送だけでなく、活字分野にも変化をもたらした。当時の新聞記者たちは、戦術や技術よりも、
映像に映らない人間ドラマを追い求める風潮が生じ、それが1980年代からはスポーツ・ノ ンフィクションという分野に発展していく。スポーツ報道は娯楽化の様相を強めていった。
ところが、1990年代後半以降、インターネットの普及、さらにスマートフォンの登場によっ てメディア環境は大きく変動し、スポーツ情報の伝わり方も性質の異なるものとなりつつあ る。
本論文ではまず、各時代を象徴するジャーナリストたちを例示しながら、スポーツ報道の 推移を追った。大正期から昭和期に野球の発展に寄与した飛田穂洲、五輪の思想を戦前、戦 後と追い続けた大島鎌吉らから始まり、テレビ時代に娯楽路線を追い求めた新聞記者たち、
そしてスポーツ総合誌「Number」の創刊によって、スポーツ・ノンフィクションに一時代 を築いた山際淳司、沢木耕太郎らを取りあげる。そうしたジャーナリストや作家たちを 記
者列伝 的に紹介し、それぞれの時代の役割を考察した。
スポーツはメディアを通じて人気を高め、世界的な文化として大衆化した。しかし、一方 で弊害も生じた。政治や商業主義と切り離せなくなり、スポーツは独立性を維持できなく なってきたといえる。スポーツメディアもビジネスと密接な関係に置かれ、ジャーナリズム の存在意義が問われている。2年ごとに開かれる夏冬の五輪や各種競技のワールドカップ、
米大リーグや欧州サッカー、そして多種多様な国内スポーツ。記者の行動範囲はかつてなく 広がり、扱う情報量も膨大になってきた。そんな時代にスポーツを報じるジャーナリストは 何を目指すべきなのか。
スマホやSNSの登場によって「情報大爆発」の時代に突入し、近年は人工知能(AI)にスポー ツ記事を書かせる取り組みも始まっている。かつてのようなプロフェッショナルな記者でな くても、一般市民がスマホを片手に情報を発信し、AIがコンピューターで記事を書く。では、
従来のスポーツ・ジャーナリストたちは将来、消え失せていくのだろうかといえば、決して そうではないだろう。
論文のタイトル「スポーツ報道 新時代の使命」は、このような問題意識を表したもので ある。結論を示す最終章では、スポーツ・ジャーナリストの養成や媒体組織がどうあるべき かについて提言を試みた。今後、スポーツ報道はジャーナリズムの機能を分担しながら、既 存のメディア企業だけでなく、大学など研究機関も参画して新たな枠組みを作っていくべき ではないか。その例として、「アカデミック・ジャーナリズム」を紹介した。表現の場をそ うして確保しながら、若いジャーナリストたちを育てていく必要性も提示している。
スポーツは人間が長い歴史をかけて営んできた文化である。スポーツ・ジャーナリズムは その文化の伝え手として、競技者や指導者、観戦者らとともに文化継承の役割を担っている。
新時代に向けて考察した使命を、未来につなぎたいと考える。
日本鉄道会社「機関方」の意識と行動
呑川 泰司
日本の初期鉄道史は幕末に動き始め、路線網が全国に及ぶころまでに、つぎの3つの時期 を経た。
第1期 1872年(明治5)、政府が新橋、横浜間に蒸気車を走らせてから、官営の東海道線、
日本鉄道会社の高崎線などが布設され、各地の商工業者、名望家らがそれぞれ鉄 道資本を形成し始めたころまで。
この間、華族の資産を中心に資本を形成した日本鉄道株式会社は国内最大の鉄道
企業となる。蒸気機関車の運転、その車輛の修理、営繕など、これまでこの国に なかった新技術が英米などから輸入され、運転手、鉄工などの鉄道労働者群が形 成される。
第2期 1892年(明治25)、政府が鉄道布設法を発布し、全国の民間鉄道網の形成を国策
として推進した時期。
鉄道労働者群が全国にわたり形成され、とくに列車乗組員らの長時間、不規則、
危険、低賃金、低身分の労働条件が進行する。1898年(明治31)年の早春、「日 本鉄道会社機関方争議」が起る。
第3期 1906年(明治39)、政府が鉄道国有法を発布し、東北線、山陽線など全国の私設
鉄道を買収して国有鉄道にし、列島の幹線、支線の連絡網を完成した時期。
軍事国家のための全国統一的な鉄道網は、鉄道労働者とくに機関手らのいっそう の統制を必要とする。国家と資本は機関手らの労組「日鉄矯正会」をその障害物 として治安警察法により、解散させた。
本論文ではこの3つの時期にかかわることのうち、「機関方」らが職名改称、賃上げなど を要求して、北関東、東北の広域にわたって展開した大争議とその前後の事情が焦点として 論じた。
中国人留学生と日本人の日常的友人関係構築における困難解決
― 学習支援プログラムの設計を通して ―
呉 佳瑋
本研究は、日本にいる中国人留学生と日本人の友人関係構築に着目し、親しみのある会話 の基盤となる「よいリアクション」が返せるようなになるための日本語学習支援の手法につ いて考えたものである。
まず、インタビューにより、中国人留学生は、日本語教育を受け、一定の程度の日本語能 力を持つにも関わらず、日本人との日常的な交流をとおして日本人と友人関係を築くことに 困難を感じているという事実を明らかにした。続く質問紙調査では、中国人留学生が日本人 との友人関係を構築する際にどのような困難に遭遇したのかを把握することを目指した。調 査の結果、中国人留学生と日本人が友達になろうとする時に遭遇する困難として、「相手の 話を発展させられない」、「相手の発話に対して、よいリアクションが示せない」、「日本語の 冗談を言えない」等が存在することが明らかになった。
本研究では、初対面時と関係維持期に共有して現れていた「よいリアクションが示せない」
という困難に着目し、それを、「日本語の冗談がいえない」という訴えと統合し、「相手の発 話をボケとして捉え、うまくツッコむことで楽しい会話ができるようになること」を支援の 焦点として設定し、このための学習支援プログラムをデザインした。
学習支援プログラムを実際の中国人留学生に適応してみたところ、いままでの留学生活の 中では気づくことのなかった「ボケ−ツッコミ」の構成における日中の相違点に気づくこと ができた。このような相違点を認識することは、中国人留学生が自覚的に自身の言語活動を 制御して日本人にとっても面白い、楽しいと感じるリアクションを生成するための基盤とな ると考えられる。
大人数授業への対応、様々な背景を持つ留学生の個別事情を考慮した支援手法の改善等が 今後の課題である。
蔡元培の教育思想研究
― 民国初期における反儒教運動との関連について ―
舒 芳
中国における近代教育の発展に、最も大きな役割を果たしたのは中華民国教育の父と呼ば れている蔡元培(1868−1940)であるといえよう。蔡元培は1912年に中華民国初代教育総 長を在任した際、従来の旧弊な教育制度を廃止した上で、新教育思想及び方針を実施して近 代中国教育の基礎を築いた。また、1917年から1927年まで、蔡元培は北京大学の学長とし て十年間かかって北京大学の改革に尽力し、近代中国の思想界・教育界で看過できない歴史 的足跡を残した。学術の発展と繁栄を促進する上で、蔡元培の「思想自由、兼容併包(思想 自由、様々な学派を兼ね包容すること)」という大学教育思想は、近代中国において、教育 界のみならず、思想文化界にも影響を及ぼした。よって、近代中国思想文化発展の過程及び 近代教育の変遷を考察する際、蔡元培の教育思想をぬきにして論じることはできない。蔡元 培の近代中国教育思想を研究することによって、中国教育近代化の経緯と変遷を明らかにす ることができ、それに深く関与した民初の尊孔運動及び反儒教運動の流れも明確にすること ができるのではないかと筆者は考える。
本論文は蔡元培の教育活動を軸とし、第一章「中華民国初期における中華民国初期におけ る尊孔活動の展開」、第二章「中華民国初期における儒教批判」、第三章「蔡元培の中華民国 初期における教育活動」の三章より成る。
第一章では、中華民国初期における中華民国初期における尊孔活動の展開を探った。民国
初年における孔教会の「尊孔読経」と孔教の国教化運動および袁世凱の尊孔活動と祭祀実践 など具体的な活動を考察した。
第二章では、中華民国初期における尊孔活動に対する批判を考察した。陳独秀の「新青年」
における儒教批判言論、胡適の白話文運動、魯迅の反伝統的な文学言論を考察し、新知識人 たちの尊孔活動への批判について把握した上で、更に新文化運動の発展と内容を明らかにし た。
第三章では、中華民国初期における蔡元培の教育活動を考察した。中華民国教育総長在任 時期における蔡元培の教育方針の革新及び経学教育に対する改革について把握し、更に北京 大学学長時期における蔡元培の北京大学改革における教授陣営の刷新及び指導方針の改革を 究明した。
以上のように蔡元培が民国初期教育総長から北京大学学長を在任した時期までの教育改革 の諸相を追ってきた結果、近代教育の変革及び民初の尊孔運動、反儒教運動の流れが明らか になった。特に、民国初期における思想界の流れとして、蔡元培の「廃孔」、孔教会と袁世 凱の「尊孔」、新文化運動の「打倒孔家店」はお互いにつながりを持つものであったことが 明らかになった。つまり、清朝の忠君・尊孔・尚公(公民道徳)・尚武(体育)・尚実(実 学)という教育宗旨に対して、蔡元培は尊孔は信教の自由と相容れないと批判し、初等教育 における尊孔読経・孔子祭祀・跪拜を廃止する措置を取った。これら一連の「廃孔」の主張 は伝統儒教文化を擁護する康有為・陳煥章ら知識人の危機感を引き起こし、民国初期におけ る尊孔運動の引き金となった。続いて孔教会および袁世凱が全国的に尊孔復古の潮流を起こ した。その反発として、陳独秀ら新知識人が新文化運動を起こして徹底的に儒教を批判した。
蔡元培による積極的な支持を得たからこそ、北京大学は新文化運動の中心地となった。北洋 政府からの圧力及び林紓のような知識人の非難に対し、蔡元培は大学という存在は大典を包 括し、様々な学派を網羅する学府であり、思想の自由が各国の大学の通例であるとして、断 固として新文化運動を支持した。彼は強力な後ろ盾として新文化運動の展開に直接的な影響 を与えたといっても過言ではない。蔡元培は新文化運動の指導者かつ庇護者として反儒教運 動の展開に直接的な影響を与え、主導的な役割を果たしたと結論づけられよう。
明治初期の神戸居留地に見る異文化接触
―「英国領事裁判記録」を中心に―
章 世弋
本論文は、明治初期における神戸外国人居留地について、「イギリス領事裁判記録」を中
心に、その時期の神戸居留地の異文化接触の実態を明らかにすることを課題として設定し、
研究を行ったものである。
第一章では、神戸居留地について、当時明治初期の神戸が直面していた国際情勢、および 神戸が「極東のモデル」にまで発展した原因について分析を行った。「安政5カ国条約」によっ て、神奈川(横浜)・長崎・箱館(函館)・新潟・兵庫(神戸)の五港の開港と、江戸(東京)・
大坂(大阪)の二市の開市が行われた。各港、各市場には外国人居留地が設定されることに なった。神戸居留地の工事が遅れたため、日本政府は外国人が居留地周辺の地域に住むこと を承認し、この地域は雑居地と呼ばれた。神戸居留地と雑居地の関係、及び誕生から返還さ れるまでの流れについて述べた。神戸開港直後に備前藩の藩兵とフランス兵隊の間に衝突事 件が生じたが、明治政府はこの事件を機に外交の舞台に登場した。この神戸事件の位置付け についても分析を行った。神戸居留地組織の状況、及びその運営を横浜・長崎と比較をしな がら分析し、居留地の中で最後まで存続した神戸居留地がどのような要素を備えるのかを明 らかにした。
第二章では、「英国領事裁判記録」を中心に論じた。まず「英国領事裁判記録」の史料に ついて紹介した。またこの裁判記録をめぐって領事裁判権に関する分析を行った。この「英 国領事裁判記録」の事例の件数、内容区分(民事事件、刑事事件、警察事件)、勝訴と敗訴 の比率および日本側の訴訟結果などの分析を行った。「英国領事裁判記録」の資料を利用し て、裁判録中の事例の特徴を明らかにし、事例を通して一八七一年から一八七二年にかけて の神戸外国居留地社会の一側面の実態を明らかにした。
第三章では、神戸居留地における異文化接触の視点から、「英国領事裁判記録」に出てく る原告が日本人で被告がイギリス人である訴訟で、日本人が敗訴した例を三件挙げて、事件 が起こった原因・時代背景・敗訴原因の面で詳しい論証と分析を行った。この三件の事例の 論証から当時の居留地の異文化接触についてどのような問題があったのかを検討した。また 一件の日本人勝訴例を取り上げて、それを敗訴例と比べて、訴訟例によく出てくる問題を分 析した。最後に訴訟に関する上訴手続き、および「英国領事裁判記録」に出てくる日本政府 訴訟代理と直後に誕生した代言人について明らかにした。
大学新入生の刺激欲求と自己成長感
―
1年生前期の追跡調査と学年終了後の振り返りを通して ―
包 新新
本論文は2つの調査を含む。調査Ⅰでは、刺激欲求、ライフイベント、自己成長感の関連
性を定量的に明らかにした。調査Ⅱでは、大学一年生が経験するライフイベント、とくに自 己成長に結びつく経験の特徴を定性的に明らかにした。総合考察では、研究Ⅰと研究Ⅱの結 果を総合することで、刺激欲求の強い者が自己成長感を経験する条件について考察した。
調査Ⅰの協力者は茨城大学新入生122名、調査時期は2016年2月から2016年7月までで ある。質問紙法を通して、約4ケ月間の追跡調査を行った。パス解析の結果、刺激欲求から ポジティブライフイベントに対して有意な正のパスが認められた。そして、ポジティブライ フイベントから自己効力感の変化得点に対して有意な正のパスが確認された。これらの結果 から、刺激欲求の強い者はより多くのポジティブライフイベントを経験し、それが自己効力 感を向上させることが示された。
調査Ⅱの面接調査では茨城大学の1年生〜2年生、計7人を対象とした。2017年2月か ら2017年7月の間、計13回の面接を実施した。調査Ⅱでは、調査Ⅰの結果を踏まえ、大学 一年生が経験するライフイベントの中でも、とくに「自己成長やそれに類似した変化」と認 識している物事を振り返ってもらった。その結果、部活・サークル、社会活動、アルバイト、
学業などを通して、新入生は多様な自己成長を経験していたことが明らかになった。
総合考察では、まず調査Ⅰの結果から、刺激欲求と自己効力感との関連性について考察し た。刺激欲求と自己効力感を媒介するライフイベントは「活動範囲が広がった」、「部活・サー クルに参加した」、「部活・サークルの活動時間が増えた」、「部活サークルの中で新しいスキ ルを身につけた」、「新しい知識を得た」、「人から頼りにされた」などであることが明らかに なった。つぎに調査Ⅱの結果から、自己成長感に関連した多様な経験について考察した。面 接結果をK-J法により分析した結果、自己成長に関連した体験として≪生活を作り直す≫、
≪他者を通して自分の成長に気付く≫、≪良好な人間関係≫、≪努力による技能の向上≫、
≪試行錯誤して物事を考える≫、≪成果が可視化される≫という6つの中カテゴリーが得ら れた。さらに調査Ⅰと調査Ⅱの結果を総合して、刺激欲求が自己成長感に結びつくための条 件を以下のように考察した。刺激欲求はポジティブライフイベントを生み出す要因の一つで あるが、それだけでポジティブライフイベントや自己成長感を十分に生みだすことはできな い。ポジティブライフイベントが生じるためには、より多くの重要な要因が関与している。
まず必要となるのは、本人の努力と継続である。具体的には第一に、生活リズムを自己管理 することである。第二に、活動の繰り返しと試行錯誤である。本人の努力に加えて必要とな るのが周囲の人々の関わりである。具体的には第一に、周囲との良好な人間関係である。第 二に、自分の成長を気づかせてくれる他者である。これらの要因に加えて、自分の努力の成 果を実感するためには、成果を可視化することも有効である。これらの諸条件が存在すると き、刺激欲求は自己を成長させる力になると考えられる。
社会関係資本から見た千葉県いすみ鉄道における地域鉄道の変容
佐々木 淳
地方の鉄道会社は、単なる損得の会社経営だけでなく、地域の公共交通という側面を持ち、
場合によっては、地域の街づくりや地域変容そのものに関与する。鉄道会社は客が減り運賃 収入が減少し赤字経営に転落したとき、鉄道事業の存続か廃止が検討されるが、地方鉄道の 場合、存続か廃止が言われた際、「親しんできた公共機関の地方鉄道を残さなければならな い」という理由から地域などの積極的な結束がなされ、社会関係資本が形成されることで存 続する可能性を高めることが指摘されている。そこで本研究は、千葉県いすみ鉄道株式会社 を事例として、地域鉄道の存続要因としての観光鉄道化が、いかに地域関係および地域外ア クターとの関係性に影響を与え、ひいては社会関係資本を形成するにいたるのかを明らかす ることを目的とした。いすみ鉄道を分析の対象に選定した理由は、地域鉄道を住民が利用し ないなどの理由から営業実績の赤字が続き、廃止されている地域鉄道が多い中、いすみ鉄道 が観光鉄道化など新しい試みが続々と実行され、生き残りが模索されているからである。
研究方法は現地調査・視察、SNSなどを中心に行い、得られた情報を分析した。まず1 章で公共交通を取り巻く我が国の環境を概観したうえで、先行研究の分析を行った。2章で は国の地域鉄道を巡る動きの経過と現状を考察し、特定地方交通線の廃止や仕分けを明らか にした。3章ではいすみ鉄道の現状と課題を調査し、いすみ鉄道の営業状態や設備投資、再 生プロジェクト会議、ファンクラブ、乗客増に向けての取組み、イベント列車の運行、運輸 外の収益、売店の設置、消耗品・グッズの企画・販売、観光資源化、地区のツーリズム形態 などを指摘し、いすみ鉄道の業務形態を明らかにした。4章では、筆者が実際に行った聞取 り調査と現地調査の結果を述べ、5章では考察としていすみ鉄道の存立と社会関係資本との 関わりを論じた。その上で、6章で結論を以下のようにまとめた。即ち、公共機関の鉄道の 廃止は地域発展の障害になるのはおろか過疎化を加速させることもあるが、地域住民がアク ターとなった存続運動が始まると社会資本関係の結束が見られるようになり、それがパット ナムの橋渡し的社会関係資本として働くようになる。いすみ鉄道においては具体的には、外 的な橋渡し的社会関係資本である地域住民、通勤・通学客による橋渡し的社会関係資本とと もに、社内の結合型社会関係資本も働くようになり、結果、ムーミン戦略をはじめとした鉄 道の観光化が促進され、その結果、営業収入の増加がみられるようになったのである。以上 のように、本研究では、鉄道の廃止論の初期段階に、多様なアクターが関係や関係性を構築 することで、橋渡し的社会関係資本と結合型社会関係資本が有効に機能するようになり、そ れが鉄道存続の可能性を高めることが明らかとなった。
差別を原因とする離婚・婚約破棄への民法的アプローチについて
喜田 啓太
本論文は、婚姻・婚約の場面において「部落差別問題」が立ち現れてくる事例である結婚 差別事例を扱い、特に婚約破棄の事例に力点を置いて論じたものである。全体的な目標とし ては現代にも継続している問題である部落差別を、家族法、民法としてどのように向き合っ ていくべきかを考察することに目的がある。この問題の中で婚姻・婚約の事例は差別・非差 別の関係にある両者に大きな傷跡を残しかねない大きなテーマであるといえる。婚姻関係が 破綻するという事例は数多く存在し認知度も比較的高いといえる状況にあるが、婚約破棄の 事例については認知度が高くない状況にあるため、この点について調査を重ねることであま り注目されてこなかった部落差別に基づく婚約破棄の事例研究に対して、一定の貢献が行え れば幸いであると考えているのが婚約破棄を重視する理由である。
一章である「はじめに」においては、まず近年における「部落差別問題」の概況を示し、
現在でもまだ部落差別は継続中の問題であると述べた。そしてまた再びこの問題が起こりう るという危険性があり、「部落差別問題」について検証は続けられなければならないと一言 した。
続く二章では、部落差別の大まかな歴史を便宜的に「A.戦前まで」と「B.戦後」に分 けて検討を行った。第二次世界大戦の終戦によって節を分けたのは、現行憲法によって平等 が保障されるようになったため、その点を考慮したためである。
「A.戦前まで」では部落差別の起源について「中世起源説」によるとした上で、平安期 から江戸期まで差別的扱いが継続され、法的に「賤民廃止令」によって四民平等が確立され た明治期以降にも差別は隠然と続いていくこととなったということを示した。
「B.戦後」では、現在までの部落差別についての状況を同和対策特別措置法や人種差別 撤廃委員会の発表した見解などを交えて詳述した。
三章では、地方自治体による部落差別への対策として、「大阪府部落差別事象に係る調査 等の規制等に関する条例」を取り挙げた。これに関連して、婚姻前に被差別部落出身者でな い当事者の親族などによって興信所や探偵事務所によって身元調べが行われる場合があり、
この条例はそうした調査を防止し、また具体的罰則規定も含むために差別事象に対して有効 な抑止効果を持っているということもあり、特にこの条例を紹介した。
四章においては、続く五章における判例紹介の理解の助けのために、婚姻及び婚約に関す る家族法的内容を簡単ながら紹介した。内容の構成としてはA.婚約について、B.婚約成 立の基準となる事実、C.婚約破棄の正当事由、D.離婚時における慰藉料(離婚による損害 賠償)という形を取った。
五章においては、A.高知地判昭和47年3月24日判例時報679号60頁、B.大阪地判昭和 58年3月28日判例時報1084号99頁、C.最判平成元年11月30日判決(公式判例集未掲載)
という三判例を紹介した。それぞれ、Aは妻が部落民であることを理由になされた夫の実父 母による婚姻破壊(その不当干渉による夫の家出による事実上の破壊)につき不法行為の成 立が認められ、また妻が未解放部落の出身であることを理由になされた夫の実父母による婚 姻破壊が、妻に対する共同不法行為になるとされた事例、Bは婚約の相手方が被差別部落出 身であることを理由とした婚約の一方的破棄が起こり、原告女性が婚約の相手方とその両親 に対して、婚約を一方的に破棄したとして婚姻予約不履行または不法行為による損害賠償を 請求した事例、Cは一旦婚姻が成立したものの周囲の親族などから婚姻関係の継続を困難に するような妨害があり、婚姻が破綻した事例である。
最後の六章において「おわりに」として、上記の判例の検討から得られた結論として、部 落差別という文脈上で起こる婚姻・婚約に関する差別事例において、婚姻の相手方本人とい うよりも、両親をはじめとする親族が差別に大きな役割を果たしているという事実が得られ た。そして、このような事情もあり結婚差別は声を上げにくい事例であるが、泣き寝入りは 問題を深刻化させるものであるから、各支援機関から適切な支援を受けて裁判に踏み切るこ とが問題の解決には重要である、と論じた。その上で、結婚差別事例の解決方法として、話 し合いのような、相手に強制力を持って何かを求めるという事ができない方法では、相手の 差別意識が強固な場合に解決まで時間がかかりすぎるため、強制力のある方法が裁判の他に は少ない以上、裁判という手段を有効に活用するべきであると述べた。
中国における市民農園の存立基盤とその変容
―北京大都市圏を事例として―
喬 丹
中国の都市化は、1978年の改革開放から始まり、新中国の設立当初、都市化率はわずか 7.3%であったが、60年以上の発展を経て、2011年までには初めて50%を超え、2014年に
54.77%に達した。北京市は中国の首都、政治、文化と国際交流の中心であり、経済や都市
の発展レベルは高いと考えられる。
都市部の経済発展に伴い、近郊区では広域の土地が住宅開発や工業開発に利用され、都市 近郊農業の生産量は急速に減少し、都市農村一体化や農村都市化の政策の実施により、近郊地 区と都市部の境界線があいまいとなった。その結果、近郊農業では効率的且つ持続的な生産方 式が求められるようになり、「都市農業」への転換が求められるような時代に移り変わった。
市民農園は都市農業や観光農業のような現代農業の重要な形の一つである。市民農園は農 業観光園に属し、農作業の体験ができ、余暇を有意義に利用でき、農作物を安心して栽培で きる場を提供している。市民農園は国や地域の経済発展及び都市化の程度が比較的高くなっ た段階の産物でもあり、都市と農村の経済補い合いの有効的な方式でもあるとされている。
市民農園は農業観光園の一つとしては、農作業の体験に加え、利用者のリラックス、安全 食品の提供、観光遊楽、科学普及教育など多様な機能を持っている。利用者は、都市生活の 中では体験できない農作業を市民農園で体験し、イベントやコミュニティー活動を通して交 流を深めることもできる。
現在北京市の市民農園の発展状況はまだ初期段階と言える。北京市近郊区と遠郊区では多 様な類型の土地賃貸サービスを提供する農園がある。現在、北京市では「市民農園」という 名称すらまだ統一されていないことからも明らかなように、まだ初期段階を出ているとは言 えない。市民農園に関連する政策規定もまだ公布されておらず、市場メカニズムも不完全で あり、社会の認識度も高くないなど、様々な難題を抱えている。市民農園のさらなる発展に 向けて研究の蓄積が重要であると言える。
本稿は地理学の理論・方法を使い、アンケート分析の原則に基づいて研究を行った。本稿 の研究対象は観光農業を代表する、北京市の市民農園である。第2章では北京市の概要と余 暇を中心とした市民生活の変遷について整理した。第3章では北京大都市圏の変化にて、北 京市土地利用の展開過程や観光農業の発展について整理した。第4章では観光農業の概念、
機能、類型を整理し、北京市における観光農業園の存立現状を明らかにした。第5章では北 京市市民農園における存立基盤を三つの市民農園の比較から明らかにした。第6章では小ロ バ市民農園、三元都市菜園と大興赤星集体農荘菜園の利用者のアンケート調査を基に利用者 の今後の市民農園利用に関する意向と課題を明らかした。さらに今後の市民農園の開発のあ り方について提唱した。
本稿で述べた三つの市民農園に対する調査を通し、現在、北京市の市民農園の名称はまだ 統一されておらず、市民農園に関連する政策規定もまだ公的に公布されておらず、市場メカ ニズムも不完全であり、社会の認識度を広げる必要があることが明らかになった。市民農園 が今後発展するには直面する様々な問題を解決しなければならない。
発展の初期段階にある市民農園の今後の開発方面として、経営モデルの融合、プランド意 識、イベント内容の新開発などが考えられる。
市民農園は観光農業の発展の高い段階として現れ、現代観光農業の重要な部分とされてお り、新型産業とも言われているが、中国や北京市では市民農園の発展を推し進められるサー ビスシステムはまだ初期段階に止まっていると考えられる。そのため、住民の余暇体験の需 要を満たし、生活水準の向上といったニーズに合わせ、交通、情報システム、周囲の施設、
市場サービスシステムなどの方面のサービス保障システムを迅速に整え、市民農園の発展を 促すように働かせる必要がある。
地方中心都市に居住する高齢者における 買い物行動と栄養摂取の関係性
―茨城県水戸市を事例に―
石井 秀明
本稿では,地方都市中心部におけるFDsの危険性が高い地域において、高栄養状態にあ る高齢者が、いかにそのような健康的な生活を維持できているのかを明らかにした。具体的 には、高栄養状態にある高齢者の栄養摂取状況と買い物行動や社会的つながりとの関係性を 解明した。そのために、量的調査だけでは把握できないような詳細な買い物等を含む生活行 動について、対象者への聞き取り調査およびアンケート調査を実施した。
まず、買い物行動に影響を与える空間的要因を、店舗立地の分析とアクセスの解析、買い 物弱者マップの作成および比較から分析した。そして、聞き取り調査とアンケート調査を実 施することで、高齢者の買い物行動と栄養摂取の関係を明らかにした。最後に。対象地域に おいて期待されるFDs問題の予防策の方向性とその際の行政の関わり方、そして、FDs問 題研究の課題を整理した。その結果、以下の点が明らかになった。
まず、水戸市における商業機能を地域メッシュ統計から分析した結果、中心市街地におい て店舗数の減少が確認された。また,新規店舗の立地は主に中心市街地外の地域であり、中 心市街地の商業機能の空洞化が示唆された。
1974年以降の水戸市における店舗の立地に着目すると、2005年から2010年の期間を除い てその数は増加していた。しかし、中心市街地における店舗数は、1997年と2015年におい て減少している。そして、2015年現在では、中心市街地の中央部において店舗は立地して いない。
次に、店舗からのアクセスを道路距離で解析したところ、店舗から500m圏の面積の割合 は、1997年と2015年において段階的に悪化していた。1997年と2015年の店舗数の減少は、
中心市街地における店舗へのアクセスに悪い影響を与えたことが明らかになった。さらに、
店舗へのアクセスが悪化した2010年から2015年における生鮮食料品の需要量と供給量のバ ランスを比較した結果、中心市街地の広い範囲でそれは悪化していた。特に,店舗が消失し た中央部においてバランスは悪化していた。この地域は、店舗へのアクセスが悪化している 地域でもあることから、買い物環境が特に劣悪であることが示唆された。
買い物環境が著しく悪化した地域である梅香一丁目に居住して、自立した生活を営む高齢 者を対象に、買い物行動と栄養摂取の関係性を分析した。その結果、主な買い物先に徒歩で 向かう世帯の食品摂取の多様性得点が相対的に高かったことから、徒歩での外出が食品摂取 の多様性得点を高めていることが示唆された。さらに、それらの世帯のうち、食品摂取の多