鏡の前から飛ぶカナリア
一『若きヴェルテルの悩み』に於る自然性の問題一
神 尾 達 之
目 次
0 菩提樹の立つ場所へ 1 庭:自然の仮象 2 門:母と/なる自然
2.1 母子の分離と不在の父 2.2 真の母
2.3 母なる自然
3 横たわることと座ること:直接性の幻想 3.1 接触と隔たり
3.2 鋤:労働と美的観照
3.3 入水の失敗:自然との一体化による意識の喪失 4 流動する液体:混沌たる自然と欲望
4.1 涙と雨
4.2 川:内なる自然の涌出 4.3 血液:死体という自然
(以上本稿)
5 欲望と秩序化
5.1 もっと砂糖パンを食べたい
5.2 「お利口」にするヴェルテル,あるいは玩具を整理すること 5.3 風:掟の言説に抵抗するオシアンの世界
5.4 ゲーテのリンネ受容に関する余論
5.5 鏡面から離れるカナリア,あるいは急いでアルプスを越えること
(以上紀要次号に掲載予定)
0 菩提樹の立つ場所へ
『ヴェルテル』の中には多くの自然形象が観察され,ヴェルテルの心情と外 部の自然との間に照応関係が見られる,というのがこの作品の自然を扱った従 来の解釈の主調である。ω本稿ではこの物語に特徴的な,主に自然に関する幾 つかの形象を分析しながら,主人公と自然との複雑な関係と,内なる自然とし ての欲望の問題について考察したい。その際私を導き,その都度解釈へと停留 させるきっかけを与えてくれるのが,菩提樹という木である。ω長旅の後ファ ウストが再会したこの木は,『ヴェルテル』の中では牧師館の庭に影を投げる あの胡桃の木によって(31−32,80−81),文字通り影が薄くなってはいるが,
実は物語の要所要所に姿を現して,テクストの裏に拡がる自然世界の混沌を暗 示する。まず菩提樹がヴァールハイムの庭園の扉の傍らに立っていること(59)
に注目し,庭園一般の意味を手短に考察したい(→1 庭)。次にこの木が人々 を包み込む格好をとっていること(14)とヴェルテルが故郷に帰る時この木の 側を歩いていくこと(72),この二つの事実は,『ヴェルテル』に於る母の意味 と自然との関係を考えるきっかけを与えてくれる(→2 門)。またヴェルテ ルは死後,墓地の奥に立つ二本の菩提樹の側に埋めてもらいたいと望む(122)。
この木の下に死体として横たわるヴェルテルは,生前も何度か自然に対して同 じ姿勢をとったはずである。主人公と自然との関係は本稿の主題になるだろう
(→3 横たわることと座ること)。ゲーテは自殺の場面に先立って殺人の場面 を設定し,死体が置かれている場所にヴェルテルを赴かせるが,その箇所には
「彼は菩提樹の間を抜けて行かなければならなかった(m貢ssen)」(95)と記さ れている。このm茸ssenはその直後に続く敷居の上の血痕と呼応して,外在的 な自然の問題が人間の内なる自然の問題と密接に結びついていることを予想さ せる(→4 流動する液体)。(3>
1 庭:自然の仮象
構造主義の角度から『ヴェルテル』の自然を考察するならば,まず人工と自 然という対立項を立て,作品内及び18世紀末に於る町と田舎の意味を記号化し た上で,両空間内でのヴェルテルの移動の意味を探らねばならない。ωしかし この物語の中では人工と自然はそれ程裁然とした二項対立を形成してはおらず,
例えば人工が自然を装うというような振れた関係をみせる。この関係を最もよ く表しているのが庭という形象である。(5)
町が「不快」なのと対照的に周囲の自然の美しさが「筆舌につくしがたい」
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と記した直後に,ヴェルテルはM伯爵がその丘の上に立てた庭園に触れる(8)。
その庭園は「簡素」であって,一歩中に入ってみれば,それを設計したのが
「庭園学を修めた庭師」ではなく,「感じる心の持ち主」であることが分る。こ れは幾何学的整形庭園としてのフランス庭園に対抗する形で創始されたイギリ ス庭園である。ドイツでは18世紀後半に造園理論家ヒルシュフェルトが取り入 ,
黷スこの庭園形態は,人為性を浮き立たせる幾何学模様を排して,あくまでも 自然を再現しようとする。素材としての自然を「感じる心の持ち主」が造る庭 園は,たとえ人の手に成るものであっても自然性を保持しているはずである。
しかし正確には自然性ではなく,自然らしさと言うべきだろう。カントによれ ば造園術は自然と同じく多種多様なもので大地を飾ることにほかならないが,
ただ自然の場合とは異なり,これら多種多様なものをある種の「理念に適合す るように配置する」(6)だけである。自然物を人間が理念に従って再布置すると いうことは,自然と人工との融合ではなく,自然への人工の側からの巧妙な接 近である。人間が自然でありえないからこそ,或いは自然がありえないからこ そ,自然の仮象を構成するというのが,イギリス庭園の理念の奥に潜む動機だ ろう。シラーは「素朴文学と情感文学』の中で,自然であることを素朴,自然 を求めることを情感と定義づけ,情感的な文学の成功例として『ヴェルテル』
を挙げている。のシラーのこの区別は些か単純ではあるが,物語冒頭部でヴェ ルテルが感応する庭園形態が,持続的に自然であることができなかった彼の存 在様態を象徴するものだったということを明らかにしてくれる。
しかもこの庭園は冒頭部でだけ言及されるのではなく,第1部の最後の,ヴェ
ルテルがロッテとアルベルトに別れを告げる場面の舞台にもなっている。ヴェ
ルテルが段庭に立って待っていると,二人がやって来る。彼らの目の前に拡が
るのは月明かりに照らされた並木道である。そして死と再会についての会話が
交わされた後,二人は再び並木道を通って庭園の戸口から外に出て行く(56一
59)。自然と一体化することに挫折し,愛の対象との一体化も禁じられたヴェ
ルテルが,自然であるはずの空間の中で目にするのは,人為の形跡としての遠
近法的な道である。第1部の最後の形象である庭園の戸口と,そこから外へ出
るロッテに向けて差しのべられた主人公の手は,自然空間が実は虚構であるこ
とを予感してしまった者が,それでもまだ自然を求めようとする所作にほかな
らない。5月には愉悦をもたらし,9月には決別と出発の舞台となったこの庭
園は,次の年の12月には死への思いが1彌漫する空間に変じる。ヴェルテルは最
後の手紙としての遺書を書く直前に,再度この庭園を訪れている(121)。この ように物語の冒頭部・中間部・結末部に暗示的に現れる庭園は,季節の変化に 確実に対応しながら,最終的には,自らを賛美してくれる訪問者としての人間 の死を越えて存在し続けることだろう。そう考えるとこの庭園の設立者であっ た伯爵が死んでしまっているという設定も,特別の意味を帯びてくる。設立者 や訪問者がいなくなれば,庭園は真の意味で自然となり野生と化すからである。
自然に憧れる人間の消滅によって,自然が実現するというこの背理は,(8)庭 という形象に関連して啓蒙主義批判の文脈の中でも変奏される。規範主義的な 芸術理論と市民社会の硬直した秩序至上主義とを同列に並べつつ,自分は生き 方の上でも創作に於ても「規則」を斥け,「自然」にのみ拠ると告白するヴェ ルテルは,自然の体現者としての「天才」の在り方を「大河」に讐えて次のよ うに主張する。「なぜ天才の大河は稀にしか氾濫を起こさないのだろうか,洪 水となって轟音を発し,君たちの心を驚かせ,震憾させないのだろうか?一友
よ,それは河の両岸に冷静な紳士達(9)が住んでいて,洪水になったら自分達の 園亭やチューリップの花壇や野菜畑がやられてしまうかもしれないと恐れて,
早いうちに堤防や排出路を造り,何時か襲って来るやもしれない危険を予防し ているからなんだ」(15−16)。自然を造り,造った自然を柵で囲って,野生を 馴致してゆく啓蒙主義者が最も恐れているのは,いわば本物の自然である。
「天才」を肯定する以上ヴェルテルは,造られ囲われた自然を,つまり自然の 仮象を否定せざるをえないだろう。にもかかわらず彼は庭園という自然の虚構 の内で居心地の良さも感じてしまう。(1°)
川崎寿彦によれば庭園の原型としてのパラダイスは,語源にまで湖ると「囲 われた,快適な土地」を意味していた。( 旦)ヴェルテルは「自分の小さな庭を刈
り整えて楽園にする」市民という皮肉な言い方もしている(14)。第1部の終 わり,庭園の中でロッテとアルベルトがヴェルテルのもとを去る場面について は既に触れたが,それは実は楽園としてのヴァールハイムからヴェルテルが追 放される=脱出することであった。彼は生暖かい自閉的な対幻想の空間から,
公的な空間としての荒野に出立するのだ。しかし彼は最終的にはヴァールハイ ムに戻ってしまう。しかもその直前彼は自分の生まれ故郷を訪問してもいる。
前史から見ればヴェルテルは母親や女友達のもとを離れ一人新しい土地にやっ
てきた格好になっているが,奇妙なことに彼は生まれ故郷への最終的な帰還を
断念し,選んだ故郷としてのヴァールハイムに戻り,ここで生を閉じる。この
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二つの故郷の倒錯は,ヴェルテルにとって,生物学的な意味での母親と愛の対 象としての母親との奇妙な関係に対応している。
2 門:母と/なる自然 2.1 母子の分離と不在の父
ヴェルテルと実母との関係には,彼と自然との関係とは異なり,一体化への 志向が感じられない。彼が実母に直接あてた手紙は少なくともこのテクストに
は載せられていない。ヴェルテルは時として,手紙の主な受取人であるヴィル ヘルムに母への言付けを依頼しているが(8,71,72),このことからヴェル テルは実母にあてて直接手紙を書かなかったと推測してもよいだろう。(12)ヴェ ルテルの実母には,彼に感情の直接的な表白をためらわせるようなところがあっ た。彼女は子供を守り包むのではなく,子供を公的な領域に引き込み追いやろ うとする。ヴェルテルがこの地へやって来た理由の一つは,母に依頼された遺 産相続の問題を解決するためだった(8)。経済的カテゴリーが二人のコミュ ニケーションの場を形づくっているのである。彼女はヴェルテルが「活動的な 仕事」をすることを願っている(40)。母にとってこれが官職に就いて出世す
ることにほかならないということを,ヴェルテルは知っている(71)。官職を 辞したヴェルテルはまず生まれ故郷を訪れる。「幸福な夢想に浸って過ごした 昔日を思い出してみたい。ほかならぬあの門を通って中に入ろう。父が死んだ 後,母は僕を馬車に乗せ,その門を通って,住み慣れたあの場所を捨て,住む
に堪えない町に閉じこもることになったんだ」(72)。そして実際その門を通過 して中へ入って行くと,過去の思い出が宗教的な感情のようにヴェルテルを襲 う(73)。市門で区切られた二つの空間は,奇妙な倒錯によって特徴づけられ る。生誕の地であり,正の符号をもつその内部を構成しているのは,父と母と 子の三者であり,成長の地であり,負の符号をもつその外部を構成しているの は,父を欠いた母と子の二者である。この移行は,母と子との間の双数的な関 係を基軸とした所謂前エディプス期と,父と母と子との間で成立する欲望の総 体としての所謂エディプス期との時間的逆転を示している。(13)更に興味深いこ
とには,生まれ故郷を再び後にしたヴェルテルが最終的に帰るのは,既に指摘
したようにロッテとアルベルトがいるヴァールハイムである。即ち彼は再び三
者関係の中に入るわけである。ここからすぐさま,ロッテを母とするような再
生された家族を想定したくなるが,その前に,この物語の中で言及される他の
母と父にも眼差しを向けておくことにしよう。
ヴェルテルが最初に出会う母はフィリップスとハンスの母である。彼はこの 女性の「母親らしい愛情」に強く引かれる.彼女の夫は従兄弟の遺産を受け取
りにスイスに旅行に出ていて不在である(16−17)。ヴァールハイムに帰って 来たヴェルテルはこの女性を再訪する。この小説の対照的な構造は多くの研究 者によって指摘されてきたが,ωこの家族もまた第2部で登場する時,第1部
とは正反対の意味を伴う。彼女は意気消沈した様子で,開ロー番「私のハンス が死んでしまった」と嘆き,夫はスイスから手ぶらで帰郷したばかりでなく,
熱病まで患ったと言う(76)。母は子を失い,夫は不在であるか,主人として の役割を果たしていない。
実際に登場しないにもかかわらず,ヴェルテルに強い印象を与えるもう一人 の母は,ロッテの死んだ母である。彼女の死が追想される場面はニヵ所ある。
アルベルトが彼女の臨終の床の様子についてヴェルテルに語る場面は(正確に は,その場面を報告するヴェルテルの手紙は)重要なのだが,その内容に踏み 込むのは後にして,とりあえずここでは,ロッテの母の臨終にはロッテの父が 立ち会わなかったらしいことを確認しておこう(44)。もう一ヵ所は第1部の 最後,ヴェルテルがロッテとアルベルトと別れの言葉を交わす場面である。こ
こでロッテは死の淵にあった母から,子供たちにとっては母に,父にとっては 妻になってほしいと言われたことを,ヴェルテルに告げる。ヴェルテルも,そ
して普段は冷静なアルベルトも「すっかり取り乱し」興奮する。ここでは父が 部屋の外に出ていたことも指摘されている(57−59)。少なくとも構図の上で は,母子が切り離され,父が不在であるという形になっているわけである。( 5)
2.2 真の母
このように物語の背景では,母子の分離と父の不在という構図が三重に(ヴェ ルテル,ハンス,ロッテの家族)折り重なっていることを観察した後,再び物 語の表層に戻り,ヴェルテルが最終的に帰還するロッテーアルベルトとの三者 関係に目を転じてテクストを読み直してみると,ヴェルテルが「愛すべき家族 の一員」(44)であるような自分を強く思い描いていたことが分る。先程引用を ひかえた手紙のこの部分では,ヴェルテルの無意識の欲望が,検閲による歪 曲(16)を殆ど受けずに表現されている。ドイツ語原文のまま引用する。
・ o
gEin Glied der liebenswurdigen Familie zu sein, von dem Alten geliebt
zu werden wie ein Sohn, von den Kleinen wie ein Vater, und von
Lotten!−danII der ehrliche Albert,[…]dem ich nach Lotten das
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Liebste auf der Welt bin! 彼は息子であり,同時に父親であることを願う。
そのような家族の中では彼とロッテはどのような関係に立つことになるのだろ うか。 von Lotten の後に続くはずの wie がその関係を明示してくれる はずだが,しかしヴェルテルの欲望を満たす二人の関係は沈黙に(書字の上で は,感嘆符とダッシュに)飲み込まれる。物語のこの空所には勿論 ein Mann を入れるのが賢明だろう。ヴェルテルはロッテを自分のものにしたい
にもかかわらず,それが社会的に禁じられているから,発語されなかった,と 考えるのが穏当な解釈である。しかしながら父と息子という名詞は,感嘆符と ダッシュの後に,決して忘れ去ることのできない事実として記述されることを 求める「そして」の直後のアルベルトの名と共振しつつ,一義的な解釈を拒む 決定的な文を導く。「この関係ほどおかしなものはこの世に考えられない」(44)。
この文の直後に,臨終の床でロッテの母が彼女に「家政と子供たち」のことを 頼み,この時から「まったく別の精神がロッテに生きる力を与え[…]ロッテ
は真の母になった」という報告が続く。注意しなければならないのは,最後に 引用した文章が,アルベルトによる報告をヴェルテルがヴィルヘルム宛の手紙 で再構成したものだということである。(17)単なる報告の形をとりつつも,実は そこで選ばれた語彙はヴェルテルに由来するものである可能性が高い。ロッテ が残された子供たちにとって母になったという報告の裏には,正しくそのよう に報告しているヴェルテルにとって,彼女こそが「真の母」であってほしい,
という願望が潜んでいる。(18)
ヴェルテルと子供との親近性を示唆する箇所は沢山ある(10,13−17,29一 30,36−37,50,57−59,65,84,105,122−124)。また,ヴェルテルが最初
に目にしたロッテの姿は,子供たちにパンを配っている光景である(21)。こ の光景は彼の心に衝撃を与えた。正確には彼の心のトラウマが,この光景によっ て強い刺激を受けたと言うべきだろう。彼はロッテという固有名詞を挙げて彼 女との出会いの過程を報告する前に既に,「僕の心にとってなんという喜びだ ろう,彼女が可愛くて元気な子供たち,彼女の八人の弟妹たちに囲まれている のを見ることは!」(20)と興奮ぎみに記している。ヴェルテルの遺書の最後の 数行は,この光景に強く結びついている。彼はロッテが誕生日に贈ってくれた
リボンを,自分の死体と一緒に埋めるように頼んでいる。そのリボンは彼が
「初めて子供たちに取り巻かれているロッテ」を見た時に,彼女が着けていた
ものだ。続けてこう記される。「可愛い子供たち!彼らが僕に群がってきます。
ああ僕はどれほど君に結びついていたことだろう!最初の瞬間から君とは離 れられなくなってしまったんだ!」(123)。ヴェルテルをロッテに縛りつける ことになったのは,ロッテその人の有り様というよりも,寧ろ子供たちに囲ま れている「真の母」という光景が,実母によっては満たされなかった,家族に 対するヴェルテルの秘められた欲望を刺激したからではないだろうか。(19)ロッ テがヴェルテルの「真の母」であるというテーゼは,ヴェルテルの次の叫びか らも裏付けられるだろう。「僕たちは再び会うだろう!君のお母さんに会うだ ろう!僕は彼女に会うだろう,見つけだせるとも,ああ,そして彼女に僕の思 いの丈を打ち明けるんだ!君のお母さんに,君の似姿に」(117)。ヴェルテル はロッテの母とは会ったことがないから,彼女の母がロッテに似ているかどう かは,直接は分からなかったはずだ。死の直前の昂揚感は,彼の意識の側から の,無意識の欲望に対する検閲を弱めている。(2°)
2.3 母なる自然
既に指摘したように,死の直前までヴェルテルの脳裏に焼き付いて離れない ロッテの姿は,子供たちに「囲まれ(im Kreise)」つつ,子供たちを守る母 の構図である,この円環の形象は,しかしロッテにのみ観察されるのではなく,
ヴェルテルが接する自然の属性にもなっている。文体分析によってヴェルテル の自然描写の特性を解明したマナックによれば,特に物語の前半部で(ヴェル テルは至福の状態にある)描かれる自然風景は,「閉じた円環」の形を示して いる。ωまた,その中にいる人間を包み込む暗さもこの自然の特徴である。例 えば,ヴェルテルが自然との一体化による 1光惚感を体験する森は,「あやめも わかぬ闇」(9)である。マナックは最終的に,『ヴェルテル』のこのような自 然描写が所謂locus amoenusに潮るものだとしているが,クルツィウスによ
るこのトポスの説明には円環性と包み込む暗さという二つの特徴は挙げられて いない(22)。これらは,ゲーテがこのトポスに新しい意味を付与したことから来 る形象の変位と捉えることができるだろう。ヘルマンはこの二つの特徴を明ら かにはしなかったものの,ゲーテが新たに意味付与したこのトポス内の自然が,
「組織生成的な生(organisches Leben)」に満たされていると指摘している。(23)
円環であり,かつ包み込む暗さに満ちたこの「組織生成的な生」の別の名前
を口にする前に,ヴェルテルが自殺の前に訪れた生まれ故郷の風景を見てみる
ことにしよう。ヴェルテルが父の死後母と共に離れることになったこの故郷も
また,ヴァールハイムの風景を構成しているのと同じような自然形象を示して
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いる。彼は幼い頃何時間も,目の前の「山々」を見,「優しく霞む」「森」や
「谷」の中に「心から溶け込んで」いった。市門の外にはまた,ヴァールハイ ムの教会前の広場を覆っていた菩提樹もある(72−73)。要するにヴァールハ イムで彼が一体化し得た自然の諸形象が,彼が母胎から出て来た空間である故 郷でも再発見されるのである。更に,この土地が市門によって裁然と内と外と に区分けされていたことを思い出そう。ヴェルテルはかつて市門から外に出た こと,今その市門を通って中へ入るということ,この二つの動作をわざわざ手 紙に明記している・(72−73)。門から中に入ると,そこには円環であり,かつ 包み込む暗さに満ちた「組織生成的な生」を象徴するあのヴァールハイムの自 然形象が拡がっているのだ(24)。
ゲーテが自然を母という形象で思い描いていたことはよく知られている。㈱
母なる自然に包み込まれ庇護されている至福は,この小説の中では1771年5月 10日の手紙で表白されていた。それは1775年6月15日に書かれた『湖上にて」
では,より純粋な形で表現されている。「膀の緒」で自然と結ばれ,自然の
「胸」に抱かれた詩人は,湖に浮かぶ小舟の中で「まわりの」自然に揺すられ,
至福を感じている。しかしケラーによれば,この至福は自然から一方的に詩人 にもたらされるのではない。詩人の方からもまた母なる自然に向かわなければ ならない。詩人が与えられる「養分」を吸い取るという動作と,小舟が波に揺 すられるのにまかせず,詩人自身が擢を動かしている動作は,共に詩人の側か らの自然への働きかけを示している(1;102)。つまり至福は自然と主体の相互 作用によって実現するわけである。母なる自然と主体としての主人公は,あの umfangend umfangen(抱きつつ抱かれつつ)(1;47)という境位で相互浸透
してゆく。(26>それ故に,ヴェルテルが「真の母」たるロッテを思い浮かべる時 の決定的な構図は,子供たちに取り巻かれている彼女の姿だったのであり,彼 もまた自然に囲まれ包まれていたのである。けれども彼の生まれ故郷には,そ のような自然との相互浸透の可能性を示すような湖はない。そこには寧ろ逆に,
ヴェルテルにあっては自然との安定した一体化が不可能であることを暗示する
ような形象が潜んでいる。その故郷にはヴァールハイムと同じく川が流れてい
る。ヴェルテルは時々その川岸に立ち,「水面を見やりながら,不思議な予感
に促されて流れを目で追った,その川が流れて行くところが風変わりな土地だ
と想像していると,やがて自分の想像力の限界に突き当たるのだったが,それ
でも川は遠くへ,どんどん遠くへ流れゆき,僕はついには目に見えない遠方を
思い描いては,すっかり我を忘れてしまうのだった」(73)。川を眺めては異国 を思いやるヴェルテルは,母なる自然の中で安らうのではなく,予め与えられ た自然を離脱しようとしているように思われる。
事実,彼は最後にはこの生まれ故郷の市門だけでなく(そこから外部への離 脱は幼い頃と今と二度,実行されるのだが),ヴァールハイムの市門をも抜け 出ることがテクストの中に明示されている。自殺する前日,ロッテの家でオシ アンを朗読したヴェルテルは,彼女と最後の言葉を交わした後,市門の外に出 る(115)。そして自殺を決行するその日にも市門から外に出る(121)。しかも この時は,あの伯爵の庭園を訪れている。しかしここでは空間の逆転が起こっ ていることに注意しよう。即ち,ヴァールハイムでは市門の内が町であり,外 が自然なのである。それ故に市門を出るという運動の方向だけに着目して,生 まれ故郷の市門からの出立とここでの市門からの外出を同一視してはならない だろう。だがしかし彼は結局,市門の内にある自分の部屋に戻り,そこで自殺 することになる。後から述べるように,彼は自然の中での自殺を思い止どまっ た形跡があるのだ。このようにヴェルテルは母なる自然との合一を希求しつ つ,(27)同時に自然への距離を保たざるをえないのである。
3 横たわることと座ること:直接性の幻想
庭と母という形象を中心にして論じてきた,ヴェルテルにとっての自然の二 重性という問題を,㈱以下では彼の周辺世界の具体的形象ではなく,彼自身の 姿に注目して考察する。
3.1 接触と隔たり
ヴェルテルと自然との一体感が最も強烈な形で表現されているのは,周知の ように1771年5月10日の手紙である。彼は自分の「芸術[Kunst]」が捗らない ことを嘆き,「今は絵など描けない,一本の線も引けないのに,自分がこの瞬 問ほど偉大な画家であったことはない」と断言する(9)。また,「真の母」た るロッテに恋をしてしまった後も,ヴェルテルは絵を画けないと告白している
(40−41)。自然にせよ恋人にせよ対象との叙情的な一体化は,その対象を「見 る」ための距離を失わせるから(29),絵が画けないのも当然だろう。逆に言えば,
絵を画けないということは,ヴェルテルが(少なくともその時点では)自然で
あることの可能性を暗示している。自然であることの 胱惚の中にいるヴェルテ
ルは,「横たわっている(1iegen)」(9)。そこでは「見る」という動詞は使用
されていない。そして正常な構文を破ってまで,釦hlenという,直接的接触
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も意味する動詞が繰り返される(9)。彼は正に地面に横たわっているからこ そ,そこに拡がる世界に距離をとれないのである。クルツィウスによれば,こ の姿勢はウェルギリウスの『牧歌』の第1歌の冒頭部にまで潮るもので,「牧 歌的な横臥のモティーフ」と呼ばれるものである。(3°)
絵を画くためにヴェルテルがとるのは,横臥や仰臥ではなく,座る姿勢であ 嘘
驕Bヴァールハイムの広場で二人の子供の姿に魅了されたヴェルテルは,「み んなが畑に出ている」時に,この子供たちを写生しようとする。ヴェルテルが
「鋤の上に」座り,子供たちの姿に周囲の風景を加えて完成したスケッチは,
彼を満足させる(15)。座ることで,彼は子供たちに距離をとり,彼らを見る ことができるようになるのだ。しかしながら絵を画くことに成功しても,ここ からは自然との一体化による愉悦感は読みとることができない。この絵の成功 をきっかけにしてヴェルテルが書き綴るのは,あの5月10日の手紙で歌われて いたような胱惚感ではなく,啓蒙主義的な規範美学に対する明解な批判である。
前の手紙の言説が自己表現の至らなさから来るもどかしさを内包しながら,触 れられた自然物を一つ一つ数え上げていったのに対し,この手紙では,今自分 が記している言葉自体を問題化するような感情の動きは観察できないし,自然 物はその具体性を失って「自然」という概念に収束してしまう。端的に言えば,
横たわる姿勢は自然であることに,座る姿勢は自然を対象化し,自然を描き,
自然を論じることに対応していると言ってもいいだろう。
3.2 鋤:労働と美的観照
このような対象との一体化と距離の関係は,ヴェルテルが自然を描くために 座っていた「鋤」という形象に関して,奇妙な思い違いを誘発する。ヴェルテ ルは次の日の手紙でもこの「鋤」に言及し,「絵を画く気分にすっかり没入し たために,二時間もあの(mein)鋤の上に座っていた」(16)と述べている。
この所有代名詞は5月10日の手紙で「森」に付せられたそれを思い起こさせる。
「森」も「鋤」も心的には既にヴェルテルの所有物なのである。彼は自然とし
ての「森」の地面の上に横臥し,自然に接触(f面len)していたために,自然
を描くことができなかった。しかし「鋤」には接触しつつも,ヴェルテルは当
初それを座るための,つまり対象に距離をとるための道具としか見なさないの
で,それにはmeinという所有代名詞は付けられない。けれども今引用したよ
うに,次の日の手紙で,彼はこの「鋤」を二次的な道具ではなく,接触し,感
情移入し,自己の一部となるべき物と捉えている。彼は前日の手紙で,子供た
ちの背景にあった「垣根」や「納屋の入口」や「壊れた車輪」(15)も絵の中に 画き足したと述べている。「鋤」はまだそれらと同一次元に置かれてはいなかっ た。だが次の日の手紙のこのmeinは「鋤」をいわば前景化してしまう。そし てヴェルテルが単に道具として接触していたにすぎないこの「鋤」は,3日後 の5月30日の手紙では彼が「この前写生した鋤」(18)と呼ばれることになるの だ。こうして三回言及されるこの「鋤」もω,自然に対するヴェルテルの両義 的な姿勢を象徴している。それは人の手になる道具である時ヴェルテルと接触
し,美的対象である自然物として立ち現れる時,彼から隔てられ眺められる。
直接性と媒介性のいわば涙れた関係は,「鋤」という形象に内在する労働の カテゴリーに起因する。グラートホフは自然の美的観照=直接的関係と自然の 加工=媒介的関係とを区別し,ヴェルテルが「鋤」や「胡桃の木」(31)に対し て前者のような関係しか結んでおらず,後者の関係を見過ごしていると指摘す る。(32)このような視点から見ると,ヴェルテルが子供たちを写生していた時,
村の住民が皆「畑に出て」いたことは意味深い。彼は自然が労働によって加工 され人工(Kunst)の印を刻みこまれざるをえない世界の中で,一人,自然を 専ら美的観照の対象として享受し,それを自らの芸術(Kunst)によって表現 するという特権を得ている。だが言うまでもなくこの行為は自然であるような 営みではない。ヴェルテルから見て自然であるような村人たちは,寧ろ日々労 働しているからだ。彼らは自然へと思いを馳せたりしないからこそ自然であり
うる。彼らは「幸せな平穏の内に自分たちの生活の狭い範囲を歩み,一日また 一日となんとか凌いでいき,木々の葉が落ちるのを見ては,冬が来るなと思い,
それ以上は何も考えない」(17)。ヴェルテルはこういう人々を見ると「乱れた 心が落ち着く」と記しているが,その時彼は自然であるような存在様態を生き
ているのではなく,それを対象化している。自然であることについての自己意 識が自然であることを妨げているわけである。⑬
3.3 入水の失敗:自然との一体化による意識の喪失
今挙げたテーゼはロッテ(「真の母」である限りに於て自然を体現している)
に対するヴェルテルの距離についてもあてはまる。有名な舞踏会の場面ではヴェ ルテルは最初からロッテと踊るわけではない。彼は「踊っている彼女の姿をこ そ見なければならない」(24)と書いた後,彼女自身との踊りを思い出しながら
「僕はもう人間ではなかった.[…]周りの一切のものが消え去った」と書く
(25)。その時ヴェルテルの目には何も映らなかったのだ。彼は自然を見ること
神尾:鏡の前から飛ぶカナリア 71
をやめ,自然と接触する。㈱だかしかし一人の婦人がすれ違いざま口にした
「アルベルト」という名前を耳にしたことで,ヴェルテルは「惑乱」する。彼 は舞踏から思考へと引き戻されるわけである(25−26)。
それ故にヴェルテルは意識や知の喪失を求める。「無知」という語には,「幸 せな」という形容詞が付けられるのに対して(72),「意識」は「鈍く冷たい」
ものとされる(92)。自殺の3週間ほど前にヴェルテルは,冬に花を摘む狂人 にでくわす。(35)この狂人は自分が「昔」幸せだったのにと嘆くが,彼の母によ れば,その「昔」とは,彼が精神病院にいた頃を指し,その時彼は「正気を失 い[…]自分のことが何も分らなかった」(89)。これを聞いたヴェルテルは次 のように記す。「天の神よ!これがあなたの定めた人間の運命なのですか。人 間は理性を持つようになる前か,或いは理性を再び失う時か,どちらかでない と幸せになれないのですか!」(90)。クライストの『人形劇場』の一節を思わ せるこの根源的な疑問は,それが正に冬に花を摘む狂人についての発言である が故に重要である。それは,意識や理性の喪失こそが幸福をもたらすというテー ゼが,反自然(花の咲かない冬に)の極みでしか自然性に到達しえない(花を 摘もうとする)という,同じく逆説的なテーゼと重なって,自然に対するヴェ
ルテルの関係を解明するてがかりを与えてくれるからである。
狂人になることができない時,意識の喪失を可能にする手段としてヴェルテ ルが選ぶのは自殺である。自殺という行為は,今指摘した反自然の極みで自然 に到達するという逆説を内包している。生物としての自己の身体が存続を求め るのに,意識がそれを否定し,身体は生物であることをやめる。意識が身体に 決定的な勝利を収める直後に,意識が消失し,身体は自然と化すことができる。
ヴェルテルの自殺の場合は更に,その方法にも反自然と自然との逆説的な関係 を見てとることができる。ヴェルテルの自殺の様子は次のように報告されてい る。「椅子の背に血が付いていたことから推測すると,彼は書きもの机の前に 座って自殺を決行したらしい。そうして椅子から滑り落ち,椅子の周りを痙攣
しながら転がり回ったのだ。彼は力尽きると,窓際に向かって仰向けに横たわっ
た」(124)。ヴェルテルは最終的には,物語冒頭部と同じように横たわる姿勢
で,自然に帰るわけであるが,しかし自殺そのものは室内空間で椅子に座った
格好で(しかも書きもの机の前だ)行われたことに注目したい。意識が遠のく
につれて彼は椅子から「滑り落ち」,ついには仰臥する。けれどもこの仰臥の
場所は屋外の自然ではない。彼はせいぜい「窓際に」向かうことしかできない。
即ちヴェルテルにあれ程強い胱惚感を与えた自然の中での仰臥は,正に彼自身 が自然物と化した瞬間に実現するが,それは自然ならざる空間の中である。
ヴェルテルの自殺がこのような人工空間の中でしか実現しえなかったことは,
彼が自然空間内での自殺を決断できないことによって裏書きされるだろう。自 殺の10日前の手紙を引用しよう。「昨晩も僕は外出しないではいられなかった。
急に雪解けの陽気になったのだ。聞くところでは,河が氾濫し,小川はみな水 嵩を増しヴァールハイムから下手の僕の好きな谷が水に浸かっているというこ
とだ!夜ユ1時すぎ,僕は走って出た。恐ろしい光景だった。月明かりの中,岩 から大量の水がえぐるように逆巻きながら流れ落ち,畑も牧草地も生け垣も何 もかも,広い谷の上流も下流も,ざわめく風の音に包まれて一つの嵐の海と化 していた。やがて再び月が姿を現し,黒雲の上にかかり,見渡す限り満々たる 水が壮絶なまでに月光を反射しながら,響き流れてゆくと,突然僕は戦標と,
そしてまたもや憧れに襲われたのだ!ああ僕は両腕を広げ,深淵に向かって立 ち,下へ下へと引かれるように息をした。僕は歓喜に我を忘れた。それは僕iの 苦しみ,僕の悩みを,吹きすさび荒れ狂う波にして,その深淵の中へ流し去る 喜びだ!おお!一それなのにお前は地面から足を離して,一切の苦しみに終止 符を打つことはできなかったのだ!一僕の時計の砂はまだ落ちきってはいない,
それを僕は感じる!おおヴィルヘルム!あの疾風で雲を引き裂き,満々たる流 れを掴むことができるなら,僕は自分が人間であることを投げうってしまって
も構わないほどだ![…]僕は立ちつくしたままだった!一だが僕は自分を責 めない。僕には死ぬ勇気があるのだから。一やろうと思えば(Ich hatte)一 それなのに僕は今まだここに座っている[…]」(98−99;下線部は原文の強調 箇所)。中断された接続法1式の文からは,ヴェルテルが氾濫する河の中に身 を投げようとし,思いとどまったことが読みとれる。ここでは椅子に座る姿勢 は,自然の中での自殺が拒否されたことから来る深い絶望を象徴している。こ の入水が成功したならば,文字通り自然との一体化が実現しただろう。その時 ヴェルテルはミレイが描くあのオフィーリアのように,緑の草々で囲まれて,
水面で仰臥の姿勢をとることができたはずだ。(36}
4 流動する液体:混沌たる自然と欲望 4.1 涙と雨
妹の死を知ったレアティーズは「ああ,オフィーリア,これ以上水は/たく
さんだろう,おれも涙はこぼさぬぞ。/だがこれも人情か,おさえても涙はあ
神尾:鏡の前から飛ぶカナリア 73
ふれる」働と嘆く。まるで死体が川の中で滞らないようにするためでもあるか のように,テクストの中で涙が流され水量が増す。『ヴェルテル』という物語 の中でも,外でも,大量の涙が流される。勿論これは『ヴェルテル』に固有な 文学現象ではなく,所謂感傷主義の文学全般に共通するものである。しかしこ の涙は同時代の読者に向けられた単なる文学的な信号に止まらず,物語内の他 の液体の形象と呼応して,深くそして荒々しい自然世界を構成しているように 思われる。鮒
物語が終わりに近づくにつれ,涙の含意が歓喜から絶望へと変わってゆくが,
それと平行して,雨の象徴的な意味も変化する。雨はまず(クロップシュトッ クの『春の祝い』の雨と混ざって)世界を神聖化する清例な液体として降り注 ぎ,ヴェルテルとロッテの心を一つに結ぶ役割を果たす。この雨に誘われるよ うに二人の目には涙が溢れる(27)。初夏のこの雨は第2部ではしかし冬の雨 に転調する。公使との仲がうまくいかなくなった頃,ヴェルテルは天気が悪い と寧ろ気が晴れると書く(66)。またヴェルテルは自殺の直前に二度市門から 外に出たが,その時は二度とも雨が降っていた(115,121)。ここではもう雨 は,愛に媒介された自然との感応を喚起するのではなく,自然との乖離を暗示
している。
4.2 川:内なる自然の涌出
川の象徴的な含意もまた,ヴェルテルと自然との関係の変質に対応して変わっ てゆく。最初に現れる川は,ヴェルテルがその岸に横たわる小川である。そこ では自然との一体化による 胱惚感が歌われた(9)。彼はヴァールハイムの川 の彼方にロッテの家を眺めるのが常だった(28)。彼は第1部の最後でロッテ とアルベルトに別れを告げる場面でもこの川を見やる(56)。既に指摘したよ うに,この川は彼が自殺を決行する10日前に氾濫する(98−99)。氾濫し怒涛 のように逆巻く川の流れはしかし,早くも第1部に現れている。それは8月18 日付けの手紙である(51−53)。(39)この手紙はあの5月10日付けの手紙の陰画 となっている。どちらの手紙に於ても支配的な形象群は自然から採られ,最も 長い文では,wennで導かれる副文が三回繰り返され,その後に(カンマでは なくセミコロンかコロンで区切られ)激しい心の動きを表す主文が続いている。
しかし時制は異なっていて,5月の手紙では,自然との合体による歓喜の瞬間
が現在形で表出されていたとすれば,その3ヵ月後の手紙では,その歓喜の瞬
間が追想され,過去形で書かれる。これは自然であることが可能であった瞬間
と,それに憧れ,それを対象化する時間と言い換えてもいい。また前の手紙で は川の表現としては小川(Bach)しか使用されていなかったのに,この8月 の手紙では川(Flu B),奔流(Wetterbach),大河(Strom),大洋(Ozean),
海(Meer)といった語彙が用いられている。液体の形象の空間的な拡張にと もなって,ヴェルテルの目には,3カ月前には見えていなかった自然の姿が見 えてくる。3カ月前に彼が体験した輝かしい自然は,今や「永遠に創造する者 の精神」と命名され,意識にもたらされる。意識化と同時にしかし,その体験 は過去のものとなる。あの瞬間的な 胱惚感を取り戻すことができないことを自 覚する時,自然は負の符号を帯びて,「永遠に開いた墓の深淵」として,「永遠 に呑み込み永遠に反劉する怪物」として立ち現れる。ズルツァーの『美術論』
についての1772年12月18日(4°)に発表された書評の中で,ゲーテは死や破壊もま た自然の生命を真に証しするものだと述べ,「私たちが自然から見てとるもの は,力を呑み込む力である。何一つ現存せず,一切は移ろい,何千もの芽が踏 みにじられ,瞬間ごとに生まれ,成長し,価値をもち,無限に多様である。美
も醜も,善も悪も,一切が同等の権利をもって併存しているのだ」と記す
(12;18)。『ファウスト』の「母たち」と同じく「破壊と再生というこの地上の 存在の永遠の変容」を司るのが,この自然なのだ。けれどもヴェルテルの眼前 では,自然はその負性に於てしか姿を現さない。それは,ヴェルテルの芸術的 創造力がこの混沌を秩序化しうるほどの強度をもっていないということと,人 間の内なる自然としての欲望の問題(これはゲーテのズルツァー批判には欠落 していた)が,『ヴェルテル』の中では外的な自然の問題と重なっているとい うことに起因している。
5月の手紙はヴェルテルがロッテを知る前のものであるが,8月の手紙は彼 女への思慕に満ちた手紙に挟まれている。また後者では,あの長い文の後半部 をなす主文はwie faBte ich das alles in mein warmes Herzとなっていて,
目的語としての自然には,ロッテの姿が重なっているように思われる。同じ自
然がここでは混沌とした形で現出しているのは,自然との瞬間的な一体化を果
たしつつもそれを今は実現できないヴェルテルの内面に,ロッテに対する強い
欲望が芽生えたからである。このテーゼは,液体の形象群が8月の手紙の中に
文字どおり氾濫していることから裏打ちされる。ここでは既に指摘した水に関
する五つの名詞と並んで,動詞の形でもまた水がテクストに浸透する(面er一
strδmen,荘berflie B en, strδmen, untertauchen)。自然の混沌たる相を示す
神尾:鏡の前から飛ぶカナリア 75
川をめぐる語群は,ついには「生の歓喜」と名ざされる液体を飲む動作へと展 開してゆく。「ああ,あの頃僕は何度も,頭上を飛ぶ鶴の翼を借りて,果てし ない海の岸辺にゆき,無限なる者の泡立つ盃から溢れるあの生の歓喜を飲み,
一切を自己の内で自己によって生み出すあの存在者の至福の一滴なりとも,僕 の胸の限られた力の中で,一瞬でもよいから,感じたいと憧れたのだ」(52)。
川や海をめぐる名詞群や氾濫を意味する動詞群が外部の自然の混沌を表してい たとすれば,歓喜の一滴を飲むという動作は主体の内面に渦巻く欲望を暗示す
る。
性愛と水との強い結びつきは,『ヴェルテル』というテクストの内と外の両 方の次元で確認することができる。今引用した手紙の日付のユ週間ほど前,ヴェ ルテルは自殺に関してアルベルトとかわした激しい議論について記している。
自殺を無条件に否定するアルベルトを,抽象的な言説では説得できないと考え たヴェルテルは,入水した少女を例に持ちだす(48−50)。この少女は(恐ら くは思春期を迎え)「心の内からの欲望(innigere Bed世fnisse)」を感じるよ うになった時,一人の男に恋をする。そして彼女の「欲求(Verlangen)はまっ すぐに目的に向かう」。その男からの「繰り返される約束」や「大胆な愛撫」
が彼女の「欲望(Begierden)をいやましに」し,彼女があらゆる喜びの予感 に震えるその時,男は彼女を捨てる。その時少女は,ヴェルテルと同じく「深 淵」をまのあたりにすることになる。ボイトラーによればこの少女のモデルと なったのは,1769年にフランクフルトで入水したアンナ・エリーザベト・シュ テーバーであるが,ゲーテは彼女の入水自殺に関する裁判記録を読んで,衝撃 を受けたらしい。ωこの少女の水死体が『ヴェルテル』という物語へと流れて ゆくのに対して,『ヴェルテル』というテクストから流れてゆく少女の溺死体 もあった。1778年クリスティアーネ・フォン・ラスベルクという少女が,これ また失恋の痛手が原因となって,イルム川に入水した。自殺の際彼女が『ヴェ ルテル』を携えていたことは,ゲーテに衝撃を与えた。彼はシュタイン夫人宛 の手紙でこの事件に触れ,水が「危険な魅力」(42)をもっていると書いている。
テクストに戻ろう。「理性」の人アルベルトは結局ヴェルテルの自殺擁護の
論拠を承認しない。業を煮やしたようにヴェルテルは「少しばかり理性をもっ
ていたって,情熱が荒れ狂って人間の限界がぐっと迫ってきたならば,そんな
ものは殆ど,或いは全く役にはたたないよ」(50)と叫ぶ。理性は秩序化する
ことで,人間の深奥から沸き上がる欲望を制御する。直接的な自然は人間に役
立つ自然に変えられる。酒々たる川の流れを塞止めてダムを作ったり,水路を 作って農耕や運搬に役立てようとする人間の理性の働きは,内なる欲望を否認
したり抑圧することで自己を社会化しようとする志向と通底している。(43)既に 引用した8月10日付けの手紙の直前の手紙でヴェルテルは,ロッテとアルベル
トと並んで川辺を散歩した時の様子を描写している。彼は道端の花を摘み,そ れを花束に編んで「流れ過ぎる川」に投げ,それが漂って流れるのを目で追う
(44−45)。ヴェルテルの手紙には珍しく,その時の思いは一言も記されていな いが,この描写の直後にダッシュが引かれ,アルベルトが宮廷で評判がいいこ
と,彼ほど「几帳面な(in Ordnung)」な男はめったにいないと書かれている。
花束が漂う川の流動とアルベルトの秩序志向とが対立的に捉えられていること は,次の手紙で理性の人アルベルトが入水する少女の話を理解できないと書か れていることからも明らかである。
内なる自然としての欲望が理性を圧倒する時,水を中心とした液体の形象が テクストを濡らす。ヴェルテルが冬に花を摘む狂人に遭遇した時も,雨雲が空 を覆い,ヴェルテルは川沿いを歩いていた(88)。この狂人は「正気を失い[…]
自分のことが何も分らなかった」頃,「水の中の魚のようにしあわせだった」
(89)と言う。ヴェルテルの心にはこの言い回しが響いたらしく,狂人と別れ て一人町に向かう時にこの言葉を叫ぶ(90)。(44)理性を完全に失うことこそが,
水の中で自由に泳ぐ条件である。
4.3 血液:死体という自然
雨や水よりも,そして涙よりも強く,人間の内なる自然に関係づけられ,そ れを直接的に表示する液体の形象が血である。血はまず比喩として現れ(50,
69−71),最後には二つの死体から現実に流れることになる。最初の死体はあ る寡婦の下僕のそれである(95)。彼を殺害したのは前々からこの寡婦に思い を寄せていた若い農夫だが,㈲彼女の容姿と「身体」はこの若い農夫を「激し く(gewaltsam)」「引きつけ縛りつけていた」。ヴェルテルはそこで「切なる 欲望(Begierde)と熱い憧れの欲求(Verlangen)をこんなに純粋な形で見た
ことは」なく,彼はその農夫に感情移入するあまり「その炎が僕自身に燃え移っ たかのように,喘ぎ焦がれる」と報告している(18−19)。この農夫は殺人を 犯す3カ月ほど前にヴェルテルに,自分が解雇された理由を打ち明けていた。
寡婦に対する彼の「恋情(Leidenschaft)」は日増しに強くなり,彼は「まる
で悪霊にでも愚かれたようになり,ついにある日,彼女が二階の部屋にいるの
神尾:鏡の前から飛ぶカナリア 77
を知り,後から追い,と言うより寧ろ引き寄せられていった。彼女は農夫の懇 願を聞き入れてくれなかったので,彼は力つくで(mit Gewalt)彼女をわが ものにしようとした」というのが,ヴェルテルが手紙の中に記しているその農 夫の告白である(77)。この若い農夫を寡婦に執着させていたのが,彼の性的 欲望であったことは以上の引用から明らかだろう。重要なことは,この欲望が 血の形象を導いており,それが死と結びついているということである。
ヴェルテルはこの事件によって,内なる自然の爆発がその当事者を没落させ ることを知る。彼は事件の直後この農夫を助けるべく郡長官(ロッテの父)の もとに赴くが,そこにはアルベルトも同席していた。結局ヴェルテルの熱弁も 空しく,彼は二人に言い負かされる。編集者の報告によれば,ヴェルテルはこ の男の「境遇にすっかり感情移入したので,他の人たちも納得させることがで きると確信するように」なっていたのだ。ヴェルテルが残したメモには「お前 を助けることはできない,不幸な男よ!僕たちが助からないことは明らかだ」
と書かれている(94−97)。しかしヴェルテルは殺人者に自己投影しながらも,
この殺人者の存在様態を対象化しているので,自分の恋敵を殺害はしない。彼 は同質の欲望が自己の内にも爆発しかかっているのを予感するにもかかわらず,
その自然性を擁護はしても,それを生きることはできない。外部の自然に対す るのと同様に,彼は内部の自然に対しても,それを目的語にしかできない。ヴェ ルテルと自然は繋辞では結ばれない。こうしてヴェルテルの欲望はその対象の 獲i得に向かって一直線には進まず,最終的には欲望の淵源としての自己を否定 することになる。ヴェルテルの死体から流れ出る血が意味しているのは,彼が
自殺によって,つまり自らを死体と化す行為によって,漸く自然性に到達でき たということなのである(123−124)。(46)
後註
引用はHamburger Ausgabe(dtv版,1982)の第6巻を使用し,引用及び言及箇 所の末尾に原文の頁を示した。このテクストは所謂改訂版によっている。ゲーテの他の 著作から引用する場合も原則としてこの全集を使い,引用文の後の丸括弧の中に巻数と 頁数をセミコロンで区切って表示した。また作品名は『ヴェルテル』と略して表記する。
尚本稿(個別的な形象分析とその解釈)は同じく紀要に掲載する予定の次稿(後半部=
結論部)とともに,『ヴェルテル』に於る書字と逃走を考察するはずの,いわば『ヴェ
ルテル』本論に対する序論を形成している。
1 『ヴェルテル』の比較的新しい研究史については,木村直二:『続ゲーテ研究』(南 窓社,1983)306−311頁と,1945年以降の文学研究方法論の変遷とこの物語の受容 史との対応を手際よく整理したBingjun Wang:Rezeptionsgeschichte des Romans Die Leiden des jungen Werther von Johann Wolfgang
Goethe in Deutschland seit 1945. Frankfurt a. M.[usw,]1991.を参照さ れたい。ヴェルテルの心情と外部の自然との照応関係については,木村直司の次の 解釈が,従来の研究の到達点を示しているように思われる。「[…]心情に従っての み生きるヴェルテルは,自然の全体を理性的に見ることをせず,自然の暗い死の面 に気づいたとき,かれはそれを自己の絶望的なこころのたんなる反映として眺める ようになる」。木村直司:『ゲーテ研究』(南窓社,1976)132−173頁。
2 中村志朗によれば,菩提樹の象徴的通性は「人間の生活空間の中に取り入れられて,
自然と人間の親和的な一つの共同空間を形成する」ことである。中村志朗:「菩提 樹のあるところ⊥『ゲーテ年鑑』第28巻,109−128頁。この論文はゲーテの作品中
(特に『ファウスト』)に現れた菩提樹に関する卓見に満ちているが,残念ながら
『ヴェルテル』の菩提樹については言及されていない。
3 自然科学の研究対象である外的自然と,倫理学の研究対象である内的自然との強い 類似性は,ゲーテが自作の『親和力』のために作成した広告文に明確に定式化され ている(6;639:Hamburger Ausgabe第6巻の後註)。また,ゲーテによるヒト の顎問骨の発見は,ヒトとサルとの連続性を証明し,この発見は「比較的完全な有 機的自然」が一つの「原形象」に基づいて形成されているという主張を裏付けるこ とになる(潮出版社版ゲーテ全集第14巻184頁と192頁を参照されたい。引用は高橋 義人訳の「動物学」の部分である)。
4 自然空間に対して町が負の符号を帯びていることは確かである。町は「不快な」
(8)場所であり,そこに住む医者は「教条的なあやつり人形」(30)で,ロッテは 病人を見舞いに町に行く(31)。
5 周知のように,ゲーテの作品中で庭園が最も強い象徴的意味をもつのは『親和力』
である。この作品に於る庭園の意味を,フーコーを援用しつつ,表象の彼方の自然 という視点から明らかにした研究として水田恭平:『タブローの解体 一ゲーテ
「親和力」を読む』(未来社,1991)を挙げておこう。尚庭園に関する以下の一般的 解説は,川崎寿彦二『楽園と庭』(中公新書,1984),小西嘉幸:『テクストと表象』
(水声社,1992),Siegmar Gerndt:Idealisierte Natur. Stuttgart 1981.か
ら学んだ。神尾:鏡の前から飛ぶカナリア 79
6 1rnmanuel Kant:Kritik der Urteilskraft. In:Werkausgabe. Bd.X,S.261.
・,
V Friedrich Schiller:U)er naive und sentimentalische Dichtung. In:
ramtliche Werke. Hanser Ausgabe. Bd.5,S.716 u.S.738−739.ゲーテに
09強い影響を与え,シラーのこの文学論が批判対象と目していたルソーは,『新エロ イーズ』のエリゼーの園を「野生のまま打ち棄て」られ,「自然だけ」によって成 辱 ァした庭園としている。ルソー(松本勤訳):「新エロイーズ」,『ルソー全集』第10 巻(白水社,1981)100−101頁。シラーによればルソーもまた情感的詩人の代表で
ある。
8 造園術という芸術には,自然の超越(人工的に自然を創造する)と自然からの拘束
(素材としての自然に対する依存度が高い)という背理が内在している。これにつ いては小西前掲論文の157−159頁を参照されたい。
9 この「冷静な(gelassen)」という語は,ここではまだ登場していないアルベルト の装飾的形容詞にもなっている(42,47,91,120)。
.辱
P0 VgL Dirk Grathoff:Der Pflug, die NuBbaume und der Bauerbursche:
r・
matur im thernatischen Gefuge des Werther −Romans. In:Goethe,
Vortrage aus AnlaB seines l50. Todestages. Hg. v, Th, Clasen/E.
Leibfried. Frankfurt a. M.[usw.]1984. S.55−75, bes.69−70.
ll 川崎前掲論文,3−4頁及び162−165頁.
12彼は死の前にも実母に会おうとはしない。かろうじて手紙によって,しかも人づて に,「息子のために祈ってほしい」という願いを伝えるだけである(101)。
. o
@ ・・
P3 Vg1. Sigmund Freud:Uber die weibliche Sexualitat. In:Studien一
ausgabe. Bd. V, S.275−277.
14 例えば,Horst Flaschka:Goethes》Werther<. M面chen 1987. S.196一 ・O
撃X9とEdgar Hein:Die Leiden des jungen Werther. Munchen 1991. S.71一 75を参照されたい。
15不在の父というモティーフは更に別の箇所でも繰り返される。ヴェルテルとロッテ が知り合った時アルベルトが旅行に出ていたのは,彼の父が死に,その後の整理を するためだった(20)。またロッテとアルベルトは彼女の父が旅行に出ていた時に は,子供たちを寝かしつけてから,一緒に話をするのが常だった(58)。
・0
P6 Vgl. Sigmund Freud:Vorlesungen zur Einfuhrung in die Psychoana一
lyse. In:Studienausgabe, Bd.1, S.293.
17体験を手紙の中で報告の形で再現してゆく内に,ヴェルテルは昂揚し,書くという
行為自体によってもたらされた新たな体験を,元の体験に重ねてしまう。この問題 については『ヴェルテル』本論で詳述する。
18但し,父であり息子であるという二重の役割は,族長時代(10)の大家族にヴェル テルが憧れていることを暗示しているとも読むことができる。
19初対面の時に早くも,ロッテをめぐる家族に向けて,ヴェルテルの欲望は刺激され る。彼女が末っ子に「おじさまにお手てをお出しなさい」と言うのを聞いて,ヴェ ルテルは「僕があなたと親戚だという幸せに値するとお考えですか」と尋ねる。そ れに対してロッテは「うちの親戚関係はとても広いんですのよ」と答える(21−22)。
20 この物語を精神分析学的な視点から解釈した論文は少なくない。比較的新しく,ま た説得力を持った研究としてReinhart Meyer−Kalkus:Werthers Krankheit
Urszenen. Hg. von Fr. A. Kittler/H. Turk. Frankfurt a. M.1977. S.76一
138.を挙げておこう。精神分析学的な解釈を単純化すれば次のようになるだろう。
即ち,母・父・子の三者間でのエディプス三角形は,この物語の中では前二者が隠 蔽されることで,ロッテ・アルベルト・ヴェルテルの三者関係に転化する。ヴェル テルは母たるロッテと結ばれることを望み,父たるアルベルトを殺害しようとして,
自己処罰する。
21Eberhard Mannack:Raumdarstellung und Realitatsbezug in Goethes epischer Dichtung. Frankfurt a. M.1972. S.27−29.
22 マナック前掲論文,30−32頁。E. R.クルツィウス(南大路振一他訳):『ヨーロッ パ文学とラテン中世』(みすず書房,1971)271−272,281頁。
23 Hans−Peter Herrmann:Landschaft in Goethes Werther .Zum Brief voln 18. August. In:Goethe, Vortrage aus Anla B seines l50.
Todestages. Hg. v. Th. Clasen/E. Leibfried. Frankfurt a. M.[usw]1984.
S.77−100, bes. S.84.