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奈倉文二 1 はじめに

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(1)

(1934〜36年)

奈倉文二

1 はじめに

本稿の課題は,1920年以降繰り返し発生した日本製鋼所の英国側株式売却問 題のうち,最も本格的に展開した1934年から36年における交渉経過を詳しく検 討し、そこに伏在していた諸問題を明らかにすることにある。

本論に入るに先立ち,日英合弁兵器鉄鋼会社としての日本製鋼所の特徴及び 英国側株式売却問題の経過を簡単に述べておく。

日本製鋼所は,日英同盟を背景として,海軍のバックアップのもとに北海道 炭磧汽船(以下北炭と略)と英国兵器会社ヴィッカーズ社及びアームストロン グ社(以下V社・A社と略)の共同出資により設立された兵器鉄鋼メーカーで あった(1907年設立,資本金1000万円,09年1500万円に増資,出資比率はとも に2:ユ:1,工場室蘭,11年操業開始)(1)。

しかし,諸拙稿で明らかにしたように(2),第1次大戦を経過して英日資本間 には様々な軋櫟が生じ,英国側株式の売却問題も発生する。

まず,大戦直後(19ユ9年)の日本製鋼所による北海道製鉄(輪西製鉄所)の 合併(以下「輪西合併」と略)の結果,三井財閥の支配力が決定的となったが

[合併後の資本金3000万円,出資額内訳は北炭(既に三井傘下)1500万円,三 井合名・三井鉱山・V社・A社各375万円],合併の強行は英国側の三井に対す る不信感を醸成し,以後の英日資本間の軋礫の根源となった。

早くも1920年に,V社・A社ともに日本政府(海軍省)に対して日本製鋼所 株式買取りの打診を試みた。もっとも,当時は日英同盟継続中で,日本では海 軍大拡張(いわゆる八八艦隊案)計画実行中だったため,英国側両社は海軍大 臣の説得を受け入れて比較的早期に株式売却提案を取り下げた(株式売却問題 第1期)。

次いで,ワシントン会議(21〜22年)の諸結果は,日本製鋼所の経営環境を

(2)

激変させた。すなわち,四力国条約に伴う日英同盟の廃棄決定は,日英資本の 協力関係のよりどころが揺らぐことを意味し,海軍軍縮条約の締結は,日本製 鋼所の海軍受注を激減させ,同社の「兵器工場」としての存立をも脅かした。

1923年から26年にかけて,V社・A社ともに再び日本政府(海軍省)に対し て当該株式の買取り要請を行った。折しも政府はいわゆる軍縮補償を考慮して いたため,英国側株主の株式売却要請行動は,軍縮補償問題と関連して展開し た(株式売却問題第2期)。しかし,軍縮補償金による日本製鋼所英国側株式 の買取りという英国側の要請は日本政府としては受け入れる余地のないもので あったし,また,日本製鋼所に交付した軍縮補償金による英国側株式の購入・

償却という代案も,当時の英国側株主の日本側株主(三井)に対する不信感も 預かって,両国株主による具体的折衝も殆どなされずに実現を見なかった。日 本製鋼所に対する補償金の大部分が特別な方式(大口径砲関係設備に対する

「原価補償」と同設備の海軍への「無償譲渡」)であったことも,英国側株主の 折衝を困難にする要素であった(詳しくは第2論文参照)。

英国側株主は,その後も株式売却の意向は持っていたものの,しばらくの間 は売却要請を行うことはなかった。少なくともV社の場合,1920年代半ば以降,

日本製鋼所のトップ・マネジメントからの疎外状況の改善を試み,V社代理人 油谷堅蔵(海軍少将)を通じて,海軍省とも連携しつつ,役員人事や経営再建 策に自己の意向を反映させる途を追求していた(油谷の日本製鋼所取締役就任,

水谷叔彦海軍少将の同社常務復帰,水谷主導の同社経営再建策等,詳しくは第 3論文参照)。

この間,英国側ではV社とA社が合併し,1928年1月,ヴィッカーズ・アー ムストロング社(以下V−A社と略)が設立され(V社は持株会社的性格へ変 化しつつ存続),V社及びA社の日本製鋼所に対する投資(持株)はV−A社 に継承された。その際,日本製鋼所株式(一株額面500円)の総数15,000株

(750万円分の両社投資額計766,612ポンド)の簿価を15万ポンド(一株10ボン ド)と評価して継承したことに注意しておきたい(3)。

英国側株主は,V−A社設立後,油谷の発案に基づいて,日本製鋼所からの 輪西製鉄所分離を提起した。V−A社は,分離後の製鉄会社には出資せず,旧 来の(輪西合併前の)日本製鋼所のみへの関与に復帰することを追求した。し かし,英国案は三井側の抵抗にあって実現せず,輪西製鉄㈱設立(31年9月)

に際しては,V−A社は,日本側株主同様,従来通りの出資比率で関わること

(3)

を余儀なくされた。その結果,輪西分離後の英国側持株は,日本製鋼所・輪西 製鉄各7,500株(ともに額面一株500円)となった。また,V−A社は,輪西分 離に際しては役員人事の面でも自己の意図を実現できなかった(詳しくは第1 及び第3論文)。

以後,V−A社は,日本からの撤退の途を本格的に模索し始める。

ただ,輪西分離直後は,深刻な昭和恐慌のもとで株価も崩落状態であり,ま た,輪西分離の動きと元々関連していた製鉄合同問題が展開していたためか,

当該株式売却の表立った動きはない。製鉄合同問題は,紆余曲折の後,半官半 民の日本製鉄㈱設立に帰結する(34年1月)。輪西製鉄は日本製鉄に参加した が,鉱山部門が合同対象から外されたこともあって輪西鉱山㈱と名称を変更し て存続し,輪西鉱山が日本製鉄株式を所有するという関係となる。したがって,

V−A社は,直接には日本製鉄と関わらず,輪西鉱山を通じて間接的に関わる 形となる。

日本製鉄設立直後の34年2月,V−A社は,日本製鋼所及び輪西鉱山株式の 売却を油谷に要請し,以後36年秋に至るまで2年半にわたり株式売却交渉が展 開する(株式売却問題第3期)ω。当該期間は満州事変後の景気回復期に当た り,株式相場も昭和恐慌期に比して飛躍的に上昇するが,他方,国際関係は緊 迫の度を増しつつあり,世界経済のいわゆるブロック化傾向のもとで外国為替 管理は強化されつつあった。日本製鋼所の英国側株式売却問題の展開は,日本 製鋼所特有の問題にこうした問題が加わり,予断を許さないものとなっていく。

そこで,当時の全般的な為替・株式相場の動向について簡単にふれておく。

金輸出再禁止(1931年12月)後,周知のごとく円為替は急落し,政府は,為 替相場放任の立場から低位安定政策へと軌道修正する(いわゆる高橋財政の一 環)。すなわち,32年7月には資本逃避防止法を制定・施行し,資本の内外移 動を制限または禁止する措置をとる。しかし,同法によっては,資本逃避は防 止し得ず,為替低落の進行も止まなかったため,翌33年5月には外国為替管理 法を制定・施行した。政府は,本法により殆ど一切の外国為替取引を取り締ま る権限が賦与されたが,その具体的措置は「外国為替管理法に基づく命令の件」

(同法と同時施行)に基づいて実施することとした。なお,本法の議会上程と

殆ど同時に(33年3月),円のドル・リンクからポンド・リンクへの転換が行

われ(大金融恐慌・金輸出禁止等米国経済の激変に起因),政府は,以後対英

1シリング2ペンスへの固定を目指す政策をとる(目標が為替相場引上げでは

(4)

なく「低位安定」にあったことに注意)。そして,ポンド・リンクによる為替 の1シリング2ペンス台への安定政策は,外国為替管理法の運用と相侯ってひ とまず成功し,以後3ケ年にわたっては為替安定時代が現出した(5)。

また,全般的な株価動向については,昭和恐慌直後の1931年を底として,32 年から34年にかけて景気回復とともに急速に上昇しつつあったが,34年から36 年にかけては一進一退を繰り返し,その前後の時期に比べると(37・38年には 再度上昇)相対的には安定していたことに注意しておきたい㈲。

(1) 本稿では,年号は西暦を用いる。日本製鋼所に関する叙述は,断わりなき限り

『日本製鋼所社史資料(上)』(同社,1968年)及び拙著『日本鉄鋼業史の研究』(近 藤出版社,1984年)339〜348頁。

(2) 拙稿「両大戦問期における日本製鋼所の経営戦略とイギリス資本一輪西製鉄所 の合併と分離をめぐって一」(茨城大学人文学部『紀要(社会科学)』第25号,1992 年3月)(以下第1論文と略),拙稿「『ワシントン軍縮』下の日本製鋼所とイギリ ス資本一軍縮補償問題と英国側株主の要求一一」(『茨城大学政経学会雑誌』第60 号,1992年8月)(以下第2論文と略),拙稿「『ワシントン軍縮』下の日本製鋼所 の経営再建策と役員人事一トップ・マネジメントをめぐる三井・海軍省・英国側 株主一」(『茨城大学政経学会雑誌』第61号,1993年6月)(以下第3論文と略),

拙稿「日本製鋼所・英国側株式の売却問題一推移と帰結(1920〜41年)一」(『茨 城大学政経学会雑誌』第62号,1994年3月刊行予定)(以下別稿と略)。

(3)つまり,帳簿上は616,612ポンドの損失を計上して当該株式を償却したのだが,他 方,この間(日本製鋼所創立以来約20年間),V社・A社合計で受領した配当額は 72万3千ポンド余りであった([VA−1239]pp.8,15.別稿参照)。

なお,本稿で[VA− ]と略記して使用している一次資料は,英国・ケンブリッ ジ大学図書館所蔵(元Vickers PLC所有)の Vickers Archives である。

(4) 第3期の株式売却問題は,正式には日本製鋼所及び輪西鉱山の英国側株式売却問 題であるが,輪西鉱山株式は日本製鋼所株式に付随して扱われているので,簡単化 して日本製鋼所英国側株式の売却問題ないし交渉と呼ぶ。なお,第3期までの当該 株式売却問題については,日本の研究は皆無であり,前掲『日本製鋼所社史資料

(上)』にも何も言及されていない。英国側の文献には,若干の記述がある (別稿参

照)。

(5) 日本銀行調査局編『満州事変以後の財政金融史』1948年,141〜147頁[同編『日

(5)

本金融史資料』昭和編第27巻(1970年)所収,62〜64頁]。また,大蔵省昭和財政史 編集室編r昭和財政史』第13巻(国際金融・貿易),東洋経済新報社,1963年,123

〜144頁,参照。外国為替管理法のもとで,1933年以降3年間為替相場が低位に安 定し得た条件(外為銀行の一時的な外資資金の蓄積)とその脆弱性については,伊 藤正直『日本の対外金融と金融政策一1914〜1936−』名古屋大学出版会,1989 年,275〜323頁。

(6) 東京株式取引所調べ「株価大指数」の「価格指数」(1921年=100)では,31年の 53.0を底として34年には122.5と上昇したが,35年ll7.0,36年124.6であり,東洋経 済新報社調べの東京株式取引所の現物価格指数(23年平均=100)では,31年の68.9

を底として34年には108」と上昇したが,35年97.5,36年104.7である(東洋経済新 報社編『昭和国勢総覧』上,1980年,565・601頁)。

2 V−A社の要請と三井財閥への打診(1934年2月〜35年2月)

まず1934年2月,V−A社は, Mark Webster Jenkinson(同社取締役)名 の油谷宛書状で,V−A社所有の日本の株式(日本製鋼所及び輪西鉱山株式)

の売却の意志を表明するとともに,油谷に対して売却交渉の斡旋方を要請した。

その中で,Jenkinsonは, V社とA社による日本製鋼所への投資の条件は兵器・

鉄鋼メーカーに対する技術的援助やその見返りであったが,今やその株式所有 は配当収入以外に何等の利益もなくなっていること,V社は1925年以来株式投 資を貿易面で直接利益がある分野に限定してきていること,日本の株式につい ても売却の機会を窺ってきたが,ここ数年は世界経済の状況や日本の鉄鋼界の 再編のため時期が適していなかったことを述べた上で,あらためてV−A社重 役会は当該株式を売却する措置がとられるべきと判断したと述べているω。

油谷は,これを受けて,当該株式の売却問題の歴史等を詳しく伝えた後,結 論としては,株式売却先としては日本政府(海軍)か三井財閥(三井合名)の いずれかであるが,海軍は過去の経緯と政府の規則等かち考えて購入は不可能       、

ニ思われるので残るは三井しかないこと,三井が外国の株式を購入する意向は 今のところなさそうなので,三井に当該株式を購入する動機を与える必要があ ること,日本製鋼所株式は今売るチャンスだとしても,輪西鉱山株式や現在の 円安の為替相場を考えると,三井に売却交渉を持ち出すのは時期尚早であると 思われること,しかし,V−A社取締役会の意志が伝えられた以上,自分は最

も適した方法で行動できるように,まず状況を注意深く見守る意向である,な

(6)

どと回答した(2)。

なお,当時日本製鋼所株式は上場されておらず,また,日英両株主は,双方 の合意なくしては,その所有株式を売却できないものと定められていたことに 注意しておく必要があろう{3)。つまり,英国側株主の株式売却要請に対して,

当該株式を一般市場で販売するわけには行かず,同社の創立事情などから考え て,販売先としては日本政府か日本側株主(北炭・三井合名・三井鉱山3社)

にほぼ限定されることになり,油谷は,過去の経緯から考えて三井(三井合名)

を折衝先として選定したものと思われる。

油谷は,その後すぐに株式売却交渉を行ったわけではないが,三井財閥関係 者に接触・打診している。油谷は,はじめに磯村豊太郎(北炭会長・日本製鋼 所会長)に率直に本問題を話したが,北炭は当該株式を購入することはできな いとのことであったので,磯村の勧めもあって,有賀長文(三井合名常務理事・

日本製鋼所監査役)に打診した剛。すなわち,油谷は,34年5月,有賀に対し ては,当該株式売却問題の経緯等をふまえて,日本側株主が当該株式をこの際 購入すべきことを説明する詳細な書状を手渡している(5)。

そこで述べられている内容には,油谷の本問題に臨む基本的態度も示されて いるので,少し詳しく記しておくと,以下の通りである。

当該株式売却問題の経緯については,V社とA社がかつて(書状中では数年 前となっているが実際には1920年のこと)日本の海軍に両社所有の日本製鋼所 株式の買取を要請したが,当時は海軍側の説得にすぐに応じてその要請を取り 下げたこと,さらに,両社は,1926年には,海軍軍縮補償に関連して,外国資 本に対する「補償」の意味を込めて,1ヨ本海軍に当該株式を購入するようにあ

らためて要請したこと,海軍はその趣旨は理解しつつも諸規則上から当該株式 の購入は不可能であったこと,その代わり,海軍は,日本製鋼所に対して文書 をもって,同社が軍縮補償金を受け取ることの条件として英国側株式を購入・

償却するように要請したこと(油谷はこのように記しているが当時海軍がそう した要請を行ったという確証は得られない),当時は様々な事情で日本製鋼所 は海軍の要請に応えず無視し,未だに日本製鋼所は海軍に何も答えていないこ と(以上の経緯については別稿参照,また,海軍軍縮補償問題との関連につい ては第2論文参照),そして,今,V−A社は,彼らの監督できない株式につ いては配当が良くても売却することを決め,日本製鋼所及び輪西鉱山株式の売 却を自分に依頼していること,などについて説明している。

i

(7)

そして,油谷は,上記の経過から明かなごとく,本問題については遅かれ早 かれ生じる問題であるし,日本側株主としては当該株式を購入する用意をすべ きであること,それが海軍の希望にも沿うことであるし,国家政策の上から最 も重要なことでもある,と述べている。

さらに,油谷は,以下の理由で,日本側にとっては今が当該株式を購入する 良いチャンスである,と説明している。外国資本との合弁会社に対する兵器注 文は差し控えられる傾向があるので,その株式を購入することは顧客(海軍)

に対する信用を増すこと。過去の歴史からも,海軍は日本製鋼所の大株主によ る当該株式の購入を願っていることは明らかなこと。海軍の意向に沿って当該 株式を購入することは,日本製鋼所にとっては従来からの海軍に対する恩に報 いるという意味だけでなく,国家に対する奉仕を意味し,それは大資本家にとっ て最も崇高な目標であろうこと。また,過去20年以上の歴史から明かなごとく,

英国側株主は日本製鋼所や輪西鉱山の活動を監督できないことは明かであり,

彼らが株式を売却することを願っているので,その購入は価格が合理的であれ ば容易であること。

そして,油谷は,最後に,輪西合併の結果として英国側株主が配当の減少及 び利益率の低下から蒙った損失は今までに相当多額に上っていることを述べた 上で,日本側株主が英国側が当該株式の処分を願っているチャンスをとらえて,

損得勘定を別にして高い見地から従来からの懸案を友好的に解決することを強 く望んで,書状を終えている。

油谷は,英国側に対しては,上記の有賀に対する書状の内容を要約して伝え つつ,三井は近年,「報恩会」の設立に見られるごとく,利益の社会への還元 など,その営業政策の原理を変化させてきているので(いわゆる「財閥の転向」

策の一つ),当該株式のような兵器会社の株式購入が国家的利益に最もかなう 重要な投資であることを理解してもらう必要がある,と述べている(6)。そのよ うな考え方に立って,油谷は,三井側に当該株式購入の動機付けを与えること を差し当りの目標としていたようである。そして,英国側に対しては,三井側 への接触・打診状況を知らせつつ,三井との交渉に際しての注意点,株式売却 問題に関連する現況(全般的な株価動向,輪西鉱山株の評価の困難性等)など を報告し,株式売却交渉は慎重に運ぶ必要性を繰り返し書き送っているω。

これに対して,Jenkinsonは,34年12月,英国側株主としては株式所有の重

荷をおろしたいと願っていること,そうすることが日英双方にとって有益であ

(8)

ること(ビジネスを一層発展させる上からも,また,重要な兵器会社の全ての 資本を所有するという日本側の国益からも),英国側にとっては当然のことな がら当該株式の売却価格に下限もあること,円為替低落のもとでポンド・スター

リングで高額を獲得することは期待していないが,他方,兵器の需要増や鉄鋼 業の繁忙に伴って日本製鋼所株式・輪西鉱山株式ともに2・3年前よりはその 潜在的価値は確実に上昇していると思われること,などを述べた上で,油谷に 対して英日両株主にとって妥当と思われる株式売却価格を提示してもらいたい

旨を要請した(8)。

この要請に対して,油谷は,現在は当該株式を売却する上では良い時期では ないと断わりつつ,当該株式の概括的評価額を推算して示した(9)。

すなわち,日本製鋼所株式(額面500円)は590〜600円,その推算根拠は,

北炭株式の現在価格(額面50円に対して64〜65円)に比して会社の基礎や兵器 会社としての不安定さから少々劣る(額面50円に対して5円程)というもので

あったが,油谷は,北炭株式の現在価格はその配当率8%に比して低過ぎ,過 去6ケ月間の価格(61〜78円)の平均約70円に回復するまで日本製鋼所株式の 売却は待つべきである,という。

輪西鉱山については,その実際の資本価値が資本金(1900万円)の半額かそ れ以下にしかみなされないとしている[したがって,株式(額面500円)の評 価額は,明示的な金額は示されていないが,250円またはそれ以下となる]。そ して,輪西鉱山株式についても,資本参加している日本製鉄の株式(額面5d円)

の市場価格がまだ50円であり,その実際の価値はずっと高いはずなので,今売 却すべきではない,としている。

つまり,油谷は,V−A社に対して当該株式の評価額を示しつつも,その販 売は時期をしばらく待つべきであるとの従来の判断をあらためて伝えている。

しかし,Jenkinsonは,その油谷の書状に対して,35年2月,日本製鋼所株 式650円,輪西鉱山株式額面の半額(250円)での販売であれば重役会の了承を 得られると思われるので,売却を早期に行うように電信で要請した上で(日本 製鋼所株式の売却価格を590〜600円でなく650円としたのは,北炭株式の平均 価格約70円を基礎として先の油谷の推算方法を援用したものと推察される),

さらに,書状で,当該株式の売却を遅らせることはより危険であること,兵器

会社は自国で所有するという世界的趨勢であること,株式売却に際して日本側

株主に有利になっても(V−A社側にキャピタル・ロスが生じても)その後の

(9)

ビジネスで良好な関係が築かれることが好ましいこと,などを再度強調しつつ,

上記価格を最低販売価格として三井側への株式売却の申し出を遅滞なく行うよ う督促したω。

そこで,油谷は,三井側(有賀)に対して,日本製鋼所株式650〜700円,輪 西鉱山株式250〜300円を提示したが,丁度その頃,有賀は三井合名常務理事を 引退し,三井に対する株式売却交渉は池田成彬(三井合名理事長)に引き継が れることとなった。なお,池田はおそらく本問題について牧田環(三井合名理 事,三井鉱山会長,輪西鉱山会長)や磯村と相談するであろうカ㍉油谷と有賀 との間では,本問題の交渉については,起こり得る誤解を避けるために,現在 東京で関わっている人物以外の者と交渉することは厳密に避けるべきとの了解 がなされたと,油谷は伝えているω。

(1)1934年2月20日付,M. Webster JenkinsonよりK. Yutani宛書状[VA一 1239&L15]。

(2)1934年3月29日付,K. YutaniよりMark Webster Jenkinson宛書状[VA一 1239&L15]。

ここで,当該株式売却交渉に主として携わった油谷について一言述べておく。油 谷は,1923年8月からV社の日本代表(Vickers Representative in Japan)ま たは代理人(Agent)であり,25年6月以降,日本製鋼所のV社(28年以降V−A 社)側の日本居住取締役(residential director)として,軍縮補償問題,輪西製 鉄所分離問題などで英国側株主の意向を体して(海軍とのコネクションをも利用し て)活躍した(第1〜第3論文)。しかし,第3期の株式売却交渉開始後(34年12 月),V−A社エイジェントとしての地位は山田海軍大佐(S. Yamada)に譲り,

顧問(Advisor to the Representative)に退いた(V−A社を代表する日本製鋼 所取締役の地位は不変)。そのことにより,むしろ油谷は当該株式売却交渉に多く の時間を割くことが可能となった([VA−892]p.122及び[VA−1239]p.13)。

(3) 日本製鋼所「創立契約書」第ll款(前掲『日本製鋼所社史資料(上)』72頁)。

(4)1934年5月17日付,K。 YutaniよりMark Webster Jenkinson宛書状[VA一 1239&L15]。

(5)1934年5月11日付,K. YutaniよりC. Ariga宛書状(英訳文)[VA−1239&

(ママ)

Ll5]。

(6)1934年6月17日付,K. YutaniよりMark Webster Jenkinson宛書状[VA一

(10)

1239&L15]。

(7) 1934年5月17日付,6月17日付,9月18日付,11月6日付等,K. Yutaniより Mark Webster Jenkinson宛書状[VA−1239&L15]。

(8)1934年12月10日付,M. W. Jenkinson(推定)よりK. Yutani宛書状[VA一

1239&Ll5]。       i

(9) 1935年1月7日付,K. YutaniよりMark Webster Jenkinson宛書状[VA一 1239&L15]。

(10)1935年2月5日,M. W. JenkinsonよりK. Yutani宛電信[VA−L15],2 月6日付,M. W. Jenkinson(推定)よりK. Yutani宛書状[VA−1239&L

15]。

(11)1935年2月13日付,K. YutaniよりMark Webster Jenkinson宛書状[VA一 1239&Ll5]。

3 三井合名への要請と株式売却価格の試算(1935年6月〜9月)

油谷は,その後,本問題につき三井合名(池田成彬)との話合いを試みるが,

池田の病気や業務多忙などのため,直接池田に会見して話合いが開始されたの は1935年6月のことであった(1)。油谷は,その際,有賀に対して示したのと同 様に,再び株式売却問題の歴史と現状及び自己の見解を伝える覚書を池田に手 渡して当該問題に対する理解を求めている12)。

その要点を摘出すると以下の通りである。

まず,V−A社の基本的考え方を次のように伝える。 V−A社は,既に鉄鋼・

兵器製造について援助するという当初の目的は果たしたので,日本の現状から もこれ以上共同事業を継続する必要性を感じていないこと,当該株式を処分す る主な誘因は兵器会社の株式は自国民により所有されるべきとの世界的な世論 であること,したがって,日本の友人に株式を獲得する機会を与えることはむ しろ両国間の友情を固める手助けになること,そして,たとえV−A社が合意 された価格での株式売却によりキャピタル・ロスを蒙ったとしても,おそらく 今後の増加するビジネスにより回復することを望むべきであるし,そのように

して株式売却を相互に有益にし得る,と考えていること,と。

次に,当該株式売却問題の歴史についての叙述は,ほぼ有賀への書状と同様

であるが,英国側は第1次大戦直後の売却要請の申し出の際に日本海軍の説得

により要請を撤回したことを述べた後,油谷の注釈として,当時はV社とA社

(11)

が自己の利益に犠牲を払ったので,今回は三井側が犠牲を払うことに躊躇すべ きでないとの意見を付加している。

そして,株式売却の提案についての油谷の考えどして,以下の諸点を伝えて いる。日本製鋼所が受領した軍縮補償金により英国側の株式を購入するという 約束が果たされていないことは遺憾であり(そのような明白な約束はなされて いなかったと思われるが油谷はこの主張を折ある事に繰り返している),英国 側から株式売却の申し出がなされているこの良い機会に三井が購入することが 日本製鋼所にとってもV−A社にとっても非常に望ましいこと,三井と三菱と は周知の通り日本の二大資本家であるが,防衛産業・兵器会社に対する投資と いう点では大きな差があり,三井は三菱とのバランス上からも当該株式を購入 すべきであること,ナショナリズムが唱道されている今日,兵器会社は自国民 によって統括されるのは当然であり,外国人所有の日本製鋼所株は日本の資本 家により購入されるべきで,三井を除いて他にないこと(三菱は三井との共同 事業をしない慣行であること),最近私利よりも国家的利益のための奉仕を追 求しつつある三井により当該株式が購入されることは陸海軍の希望にも沿うこ

と,などである。

油谷は,英国側への書状においても,池田は国家に対する奉仕や三菱とのバ ランスを十分考慮する人物であり,彼は当該株式について価格の上で多少不利 であっても購入の努力をするであろうとの判断を伝え,さらに,当該株式の売 却問題を扱うには,内部事情(とくに資本家と軍部サイドとの複雑な関係)に も精通していることが必要であって,その点では自分は最適任であって(通常 のビジネスマンや外国人では不可能),三井合名の弱点をもうまく突いて池田 に当該株式を購入することを勧めていることを自信を持って説明している。そ して,油谷は,池田は有賀から事情を聞いてはいたものの上記覚書を見て非常 に同情的な態度を示したこと,株式売却についても,価格はまだ何とも言えな いとしつつも,結局はまとまるとの楽観的見通しを英国側に伝えている(3)。

油谷は,さらに,上記覚書では,日本製鋼所の株式はともかく,輪西鉱山の 株式を何故三井が買う必要があるかという説明が不十分だったとしで4),その 点を説明した覚書を再度池田に手渡した。その中で,油谷は,輪西合併と分離,

輪西製鉄の日本製鉄への参加の経過と結果について詳しく説明し,とくに輪西

合併が合法的ではあったとしてもフェアではなかったと指摘し,それによって

英国側が蒙った不利益を償うべきことを強調している㈲。輪西合併による英国

(12)

側の不利益との主張は元々英国側株主が指摘してきたことでもあり,英国側株 主は油谷がこの点を株式売却要請に当たって三井側にあらためて提示したこと をこの時点では積極的に評価していることに注目しておきたい(6)。

そして,1935年8月時点では,油谷は,日本製鋼所株式及び輪西鉱山株式の 様々な評価計算方法を示し,売却価格としては,前者一株650円,後者一株250 円であれば大成功と見込んでいたω。

油谷による当該株式の評価計算方法の概略は,以下のごとくである。

日本製鋼所株式の場合,親会社としての北炭の株式価格との比較のみならず,

同様の重工業,機械・鉄鋼メーカーである神戸製鋼所,三菱重工の株式価格と の比較により,評価が試みられている。

まず,神戸製鋼所の株式(額面50円,配当率7.5%)の市場価格55.50円を基 礎として日本製鋼所株式(額面500円,配当率8%)の評価額を算出すると約 600円となるが(55.50×8/7.5×10=592),日本製鋼所の方が会社の基礎は少

し良いので約630円とする[600+600×5%=630−一一(a)]。

次に,三菱重工の株式(額面50円,配当率7%)の市場価格65.50円を基 礎として日本製鋼所株式評価額を算出すると750円となる(65.50×8/7×10=

748.6)。しかし,三菱重工の方が会社の基礎は日本製鋼所よりはるかに良いの で,それを考慮して日本製鋼所株式を637.5円とする[750−750×15%=637.5 一一一 ib)]。

そして,北炭の株式(額面50円,配当率8%)の市場価格62.5円(過去7ケ 月間57〜65円の間を変動)を基礎として日本製鋼所株式の評価額を算出すると 625円となる(62.5×8/8×10=625)。三井側では,北炭の方が日本製鋼所よ

り会社の基礎は良好と判断しているようだが[35年1月時点では油谷もそのよ うに判断していた(前節参照)],現在時点では殆ど等しいかあるいは日本製鋼 所の方がやや良好と思われるので(過去3ケ年平均の配当率では6.17%で同等,

減価償却やスタッフ・労働者の人的要素を考慮すれば日本製鋼所の方がやや上 回る),640.63円と推算する[625+625×2.5%=640.63−一一(c)]。

上記(a)(b)(c)の平均を求めると,636.04円一一一(A)。

また,復成式評価法(the method of reconstruction system)により,日 本製鋼所の株式評価額を求めると,652.32円となる(一一一B)(8)。

上記(A)(B)を1:2のウェイトをつけて評価すると,646.89円が求めら

れるので[(636.04×1+652.32×2)÷3=646.89],日本製鋼所の株式評価額

(13)

としてはおよそ650円とする。

次に,油谷は,輪西鉱山株式の評価については大変困難としつつも,以下の ように試算した。

(1)日本製鉄株式の市場価格は42.50円(35年8月初旬),(2)(輪西の)

鉄山の実際の価値は簿価の約半分,(3)電気諸設備,機械,建物,レール等 の実際の価値は簿価の約60%,(4)諸道具,用具類の実際の価値は簿価の約 半分,(5)用水権や土地の価値は簿価と等しい,と考え,以上(1)〜(5)を 総合すると,輪西鉱山の株式評価額は約225円となる[(2)を60%,(3)(4)

を70%と見積ると輪西の株式評価額は243.16円]。この他に,不確定要素では あるが,輪西鉱山が行っている北海道の金山の試掘の期待分を輪西の株式評価 額に5円上乗せし,また,輪西が最近負債の一部として20万円を支払ったこと を評価して,さらに5円上乗せすると,輪西の株式評価額は約235円となる。

つまり,輪西鉱山の株式評価額は225〜235円であるが,売却希望価格としては

250円とした(9)。

以上のごとく,油谷は,日本製鋼所株式を650円,輪西鉱山株式を250円と試 算してV−A社に伝えたところ,英国側もその金額であれば重役会の了解可能

との見解であった(1°)。そして,油谷は,三井合名(池田)に対しては,9月初 め,やや改訂した評価計算結果と売却希望価格(日本製鋼所株式650〜670円,

輪西鉱山株式250〜270円)を提出し,近く予定される会談にそなえていた(11)。

(1) 1935年3月15日付,4月15日付,5月10日付,23日付,6月3日付,4日付,

K.YutaniよりMark Webster Jenkinson宛書状[VA−L15]。

(2)  Memorandum of K. Yutani presented to Mr. Ikeda of Mitsui Gomei Kaisha on the 3 rd June l9S5  [VA−1239&Ll5]。

(3)1935年6月18日付,K. YutaniよりMark Webster Jenkinson宛書状[VA一 1239&L15]。

(4)1935年8月2日付,K. YutaniよりMark Webster Jenkinson宛書状[VA一 1239&L15]。

(5)   TRANSLATION OF A MEMORANDUM BY MR K YUTANI TO MR IKEDA OF MITSUI GOMEI

KAISHA ,22/7/1935[VA−1239&L15].

(6)1935年8月27日付,M, W. Jenkinson(推定)よりK. Yutani宛書状[VA一

1239&Ll5]。

(14)

(7)1935年8月9日付,13日付,16日付,K。 YutaniよりMark Webster Jenkinson 宛書状[VA−1239&Ll5]。なお,〔VA−1239]pp.88−90をも参照。

(8) 8月9日付書状で661.60円としたのを13日付書状で訂正。

(9) 8月16日付書状では,日本製鋼所及び輪西鉱山の固定資産の詳細な評価額の計算 が復成式評価法に基づいて試みられている。

(10)1935年8月30日付,9月6日付,M. W. Jenkinson(推定)よりK, Yutani 宛書状[VA−1239&L15]。

(11)1935年9月9日付,K. YutaniよりMark Webster Jenkinson宛書状[VA一 1239&L15]。

4 輪西合併問題の調査と株式売却交渉(1935年9月〜36年7月)

しかし,その後,油谷は,池田との話合いが延び延びになるなかで,三井側 に対する株式売却交渉を有利に進めるために,輪西合併問題についての詳細な 調査を開始した。つまり,油谷は,輪西合併が英国側株主に損失を与えたとい う従来からの主張にとどまらず,合併のプロセスの検討結果いかんでは合併そ のものが法的に有効か否かの疑問が生じかねないと判断したのであるω。

油谷は,とくに次の3点に疑念を抱き,英国側に照会した。

①輪西合併を決定した1919年7月の日本製鋼所臨時株主総会に英国側からの 委任状が送られなかったようだが,何故か。

②その決定前後に英国側の同意を得るために日本側から誰か派遣されたか。

③合併の同意または承認を書状もしくは電信で依頼された記録があるか(2}。

本照会と併せて,油谷は三井側との交渉の現状を次のように伝えている。三 井側は当該株式の購入の意志を持っているが,残る問題は価格(池田に対して は日本製鋼所株650〜700円,輪西鉱山株250〜300円を提起)と買主(三井合名 単独か合名・鉱山・北炭3社か)であり,合名の池田は国家的見地から購入に 前向きだが,鉱山の牧田と北炭の磯村は通常のビジネスでという態度であるの で予断を許さない,と。

油谷の上記照会に対して,V−A社は,1935年12月,1919年当時の記録の調 査結果をふまえて回答したが,そこから以下の内容が明かとなる(3)。

①については,19年6月7日付で日本製鋼所に委任状12通が送付されている が,どの会議用かは記されていないこと。

②については,誰も英国には派遣されていなかったこと。

(15)

③については,英国側株主は,輪西合併についてより詳細な情報を求めつつ も,基本的には日本側取締役を信頼して合併を承認する電信及び書状を19年 2月から6月にかけて発していることω。

油谷は,上記回答受領の後もしばらくの間(1935年末から36年4月頃まで),

輪西合併の有効性に関する調査をさらに進めるとともに,三井側に対する株式 売却交渉はあまり急がず,輪西合併による英国側株主の不利益を三井に認めさ せて売却価格を高めに誘導する方策を取り続けたのであるが,そのような対応 が英国側株主にとって有利なことを繰り返し英国側に伝えている㈲。

すなわち,まず油谷の基本的考え方は,この株式売却交渉は通常のビジネス 業務ではなく,国防・国家政策に関わることであり,三井のような大資本家は,

その誇りと政府に対する責務という観点から㈲,日本製鋼所のような兵器産業 の外国人所有株式を購入すべきであるし,まして日本製鋼所による輪西合併が 英国側株主に甚大な損失を与えたということを考慮するならば,三井はその補 償の意味からも英国側株主の申し出をスムーズに受け入れるべきであるという

ものであった。そして,油谷は,自分は一番事情を良く知るものとして交渉に 携わっているが,このような考え方は,陸海軍省(とくに後者)の支援も得て いるという。三井側も合名の池田は国家的見地について理解を示しているが,

池田は病気がちで直接交渉が出来にくいので,油谷は磯村・牧田にも輪西合併 の件も含めて詳しい話をしたところ,彼らも以前よりは事情を理解し,かつて 彼らが考えていた価格(日本製鋼所株式600円,輪西鉱山株式230円)よりは高 い価格(前者650円,後者250円)で購入する見込みも出てきたが,彼らは直接 ロンドンで交渉した方が有利と考えて接触を図る可能性があるので警戒する必 要がある,と。

そして,油谷は,1936年4月には,この株式売却交渉も終わりに近づいたと の認識を一旦示した(η。これを受けて,V−A社側も,重役会に対して,本交 渉について油谷を通じて折衝中であること,最低価格日本製鋼所株式650円,

輪西鉱山株式250円での売却を希望していること,その場合のV−A社受領分,

交渉成立の際の油谷のコミッション,などについて報告している(8)。

しかし,油谷は,池田の三井合名理事長退任(同年5月1日定年制導入)に 伴い,再び本交渉が長引くとの見通しを示すとともに,その前後から,磯村と の交渉に加えて,仲介者としての水谷叔彦(日本製鋼所前会長)・樺山愛輔

(同元会長)との話合いを度々行った(両人が仲介者として登場した事情につ

(16)

いては後述)。三井側は仲介者を通して実際の価格交渉に入ることを提起した が,油谷はその前提として三井が英国側のかつての損失を償う意志を表明する ことを主張し,依然として売却を急がない方がより高い価格で妥結できるとの

態度をとっていた(9)。

さて,日本製鋼所による輪西合併の法的有効性に関する油谷の調査結果はど のようなものであり,それが株式売却交渉にどのように使われ,その帰趨にど のように影響したか。

まず,油谷の調査結果によれば,輪西合併を最終的に承認した1919年7月31 日の日本製鋼所臨時株主総会の決議は,英国側株主の委任状なしに行われたこ とが明かとなった(根拠①6月7日付で英国側から日本製鋼所に送付された12 の委任状は使用目的が特定されておらず,その書式を日本側から送付した時期 などから8月14日の定期株主総会用のものであったと判断されること,②7月 31日の臨時株主総会の出席者は委任状含めて14名であったから問題の12の委任 状は含まれていないことが明らかなこと)。したがって,その臨時株主総会の 決議は法的に無効である。しかも,その後も,英国側株主に合併を同意させる

正規の手続きは行われていない( °)。

油谷は,本調査結果,とりわけ輪西合併が違法に行われた有力な根拠を三井 側に示したところω,彼らは大変驚き慌てて,交渉の仲介者として水谷と樺山 に斡旋に尽力するように依頼し,自分の所に差し向けた,と,両人が仲介者と して登場した経過を説明しているω。そして,水谷は,三井側に価格面である 程度考慮させるので,輪西合併の違法性については直接言及せずに価格交渉に 入るように提案した,という。

油谷は,本問題は非常にデリケイトなので,交渉妥結までにはあと十数回の

交渉と数ケ月以上の日数を要すると見込み,その間に輪西合併強行に関する疑

念を三井側に正式に提起して,場合によっては法に訴える必要がありうる,と

考えていた(両国間及び同僚との永い友情を傷つけたくないが,他に英国側の

利益を守る手段がない場合にはやむを得ない,と)。もっとも,油谷は輪西合

併問題を裁判で徹底して争う意志はもっていなかった。すなわち,自分は,詳

細な調査の結果,輪西合併決議の法的無効の根拠を得ているが,英国側の最大

の弱点として,輪西合併から17年間,何ら公的抗議が行われなかったというこ

とがある。したがって,自分の親しい法律家の意見によれば,裁判に持ち込ん

だ場合に確実に勝てる保証はない,と。ただ,既に輪西合併が有効であったか

(17)

否かを磯村に個人的にせよ提起している以上,次回株主総会(5月27日)直後 には,株式配当を従来通りの割合で行うことに対して何も意志表示をしないで いることは危険である(裁判の際に合併を承認していたと認められるおそれ),

との法律家の指摘を英国側に伝えている( 3)。

しかし,油谷は,さしあたり訴訟を起こすことを差し控えただけでなく,株 式配当についての不同意表明も行わないことにし,輪西合併についての疑念を 表明した覚書を磯村に手渡し,英国側への照会の回答いかんにより具体的な提 案をする,との態度をとった。そして,水谷との協議の結果,次の(A)(B)い ずれかの方法をとるべきということになった。

(A)まず,英国側所有の輪西鉱山株式を三井所有の日本製鋼所株式と交換す る(輪西合併前の状態に戻す)。その後,三井が英国側所有の日本製鋼所 株式全部を購入する。

(B)三井が英国側への補償の意味も含めて,英国側所有の日本製鋼所株式を 一株700〜800円,輪西鉱山株式一株300〜400円で購入する。

油谷自身は,株式価格上昇の折(日本製鉄が輪西鉱山を購入するとの報道も あって輪西鉱山株式も上向き,日本製鋼所は8%配当を持続して基礎いよいよ 良好),売り急ぐ必要はないと判断し,提案(A)を英国側に勧めている。そ して,段取りとして,V−A社が油谷を通じて日本製鋼所会長に正式に提案す ることを提起し,油谷に交渉を一任する公的文書を送付するように依頼した(ユ4)。

しかし,英国側は,丁度その頃,株式売却交渉の早期妥結を要望する書状を 油谷に送っていた(15)。そして,油谷の上記書状の(A)(B)案については,電 信による油谷とのやり取り[日本製鋼所株式の市場価格(上場していないので 単純に販売する場合の価格に相当)に関する照会など]を経て,(輪西鉱山株 式との交換がうまく行くとの仮定のもとに交換後の)日本製鋼所株式15,000株 全体がもし一株600円(油谷は市場価格600〜650円と試算)で売却できるなら ばともかく,そうでなければむしろ(B)案の方を採るとの選択を示している{16)。

一方,油谷は,上記書状に引続いて長文の書状を送り,輪西合併と分離の経 過について詳しく報告しつつ,今回の油谷の提案についてあらためてV−A社 の理解を求めている。その大要は,次のようなものである( 7)。

英国側株主は,輪西分離当時は他に方法がなかったので日本側の対案をのん

だが(この経過について詳しくは第1論文参照),その際にも数年後には輪西

製鉄所との関り合いから解放されたい旨述べており,今や事情が1931年当時と

(18)

異なるばかりでなく,輪西合併の無効性も明らかになったことだから(しかも 合併に伴う英国側の損失は現在までに1500万円にも上ると推算),英国側株主 は合併以前の状態に戻ることを三井に強く要求しうる。以上の主旨を理解の上,

前記(A)(B)案のいずれかをV−A社の名において提案してもらいたいが,

自分は(A)案を勧める(この点は水谷も同意見である),と。その上で,油 谷は,書状末尾に,英国側から日本側に提案すべき文書の草稿を付記し,英国 側の正式の提案を促しだ18)。

このような油谷の提案・督促に対し,V−A社は,種々の検討の結果,7月 初旬,油谷の草稿のような提案を日本製鋼所側に行うことには同意しない旨の 電信を送るとともに(19},次のような内容の書状を送った⑳。

我々英国側株主の見解としては,1919年の輪西合併に不満を表明するような 交渉は望ましくない(株式売却の実行を遅らせると良い結果をもたらさない),

と考える。そうした交渉が価格面で改善をもたらすとしても,早期売却の方が 犠牲が少ない,と判断する。

つまり,V−A社は,前記(A)案を正式に提案することに同意しなかった ばかりでなく,油谷のこれまで行ってきた交渉方式(輪西合併の法的有効性に 疑義を呈して時間は多少かかっても価格交渉を有利に進めるという方式)に否 定的考えを表明し,株式売却交渉の早期妥結を促したのである。

       曹 i1) 1935年9月15日付,10月5日付,K. YutaniよりMark Webster Jenkinson

宛書状[VA−L15]。及び, SALE OF JAPANESE SHARES:CORRESPONDENCE RE AMAL GAMATION OF HOKKAIDO SEITETSU(WANISHI)AND SEIKOSHO IN l 919 (3/6/36)[VA一

Ll6]参照。本資料は, V−A社が36年6月時点で35年8月2日から36年5月14日 までの油谷との当該問題に関するやりとりを整理したもので,以下の叙述に際して も参照した。

(2)1935年11月8日付,K. YutaniよりV−A社宛書状[VA−1239&Ll5]。本書 状は,Mark Webster Jenkinsonの計報に接して哀悼の意を表するとともに,34 年2月にJenkinsonから株式売却要請を受けて以来の本問題の経過と現状を述べ,

併せて上記照会を行ったものである。

(3)1935年12月4日付,J. Reid Young(V−A社役員で日本製鋼所英国側セクレ タリー)よりK.Yutani宛書状及び添付書類[VA−L15]。

(4) この英国側株主の対応については,第1論文でも明らかにしたが,19年5月17日

(19)

のDr. T. Dan(団琢磨)よりJ. H. B. Noble宛電報に対して,英国側株主は,

6月2日に合併を承認する旨の返電を発していたこと[同7日付,送電内容確認の 書状(前注添付書類)]をここで補っておく。

(5) 1935年12月30日付,36年4月1日付,14日付,K. YutaniよりJ. Reid Young 宛書状(35年12月30日付のみ[VA−1239&L15],他は[VA−1239&L16])。

(6) 三井は三菱に比して従来そうした観点が希薄であったので,三菱とのバランス上 からも必要と,前掲池田への書簡(前節注2)で強調されていたことを想起された

いo

(7)前掲,1936年4月14日付,K, YutaniよりJ. Reid Young宛書状。

(8) WCKER3A磁STRO]MGS、LlM∬ZEDl M刀Vσπβ00κOF BO湾躍〕MEEπMGSハ10.4 (1936−1938)

[VA−1225],1936年5月20日分。翌日のV社の重役会議事録[VA−1371]にも 同様な報告がなされている。最低価恪(日本製鋼所株式650円,輪西鉱山株式250円)

での売却の場合でも,V−A社の受領分(コミッション差引後)は約391,000ポンド と見積られていた。V−A社に継承された輪西分離前の日本製鋼所株式の償却後の 簿価は150,000ポンドになっていたことを想起されたい(第1節参照)。

なお,油谷のコミッションについては,何回かのやり取りを経て,結局は,上記 最低価格までは1%,それを越える場合,そのL5%,さらに,株式売却の結果とし て油谷が取締役を辞任する場合(V−A社側代表のため),別に1,500ポンドの補償 金を支払うこととなった。最後の点については,英国側持株のうち油谷に名義貸さ れている日本製鋼所株式及び輪西鉱山株式計50株を油谷の取締役辞任後も記念に自 分に譲渡してもらえないかとの油谷の要望に対して,英国側から拒否回答がなされ

(油谷は英国側株主の代理として取締役に選出されているのだから持株を処分すれ ば自動的にその権利はなくなるとの理由),代案として提起されたものである。[上 記議事録の他,1935年7月8日付,8月30日付,M. Webster JenkinsonよりK.

Yutani宛書状,8月9日付, K. YutaniよりMark Webster Jenkinson宛書 状(以上[VA−1239&L151),1936年4月1日付,14日付,5月15日付, K.

      、

xutaniよりJ. Reid Young宛書状,4月24日付,5月15日付, J. Reid Young よりKYutani宛書状(以上[VA−1239&Ll6])及び[VA−1239]p.13参

照。]

(9) 1936年4月23日付,5月4日付,K. YutaniよりJ. Reid Young宛書状[VA一 1239&Ll6]。

(10)1936年5月14日付,K. YutaniよりJ. Reid Young宛書状[VA−1239&L

(20)

16]。

(11) 油谷は,その根拠が明かとなる文書の内容については,日本人として示すことが 出来ない旨,英国側に了解を求めている。

(12)水谷は,かつて海軍省のバックアップにより日本製鋼所常務に復帰し(1925年),

日本製鋼所の再建に努め,油谷を通じて英国側株主とも良好な関係を維持してい た(第3論文参照)。水谷・樺山が仲介者として登場したのは,輪西合併問題当時

(1919年)彼らが最高経営陣(ともに常務)として関わっていて事情を良く知って いたということによるが,英国側株主や油谷,さらには海軍省との関係も考慮され たものと思われる。

(13)前掲,5月14日付,K. YutaniよりJ. Reid Young宛書状。

(14) 1936年5月27日付,28日付,K. YutaniよりJ. Reid Young宛書状[VA一 1239&L16]。(B)の輪西鉱山株式の価格は訂正値(6月25日付, V−A社より K.Yutani宛電報[VA−Ll6],及び,26日付, K. YutaniよりJ. Reid Young 宛書状[VA−1239&L16])。

(15)1936年5月28日付,J. Reid YoungよりK. Yutani宛書状[VA−1239&L

16]。

(16) 1936年6月16日付,25日付,V−A社よりK. Yutani宛電信,及び,25日付,

K.YutaniよりV−A社宛電報[VA−1.16]。なお,25日のV−A社の電信では,

油谷が訴訟をあきらめたことを歓んでおり,V−A社としてはそのような方法は認 めなかったとしている。

(17)1936年6月1日付,K. YutaniよりJ. Reid Young宛書状[VA−L16]。な お,噛SALE OF JAPANESE SHARES㌔26th June 1936(to Mr. J. REID YOUNG)[VA一 1.16]をも参照。本文書は,5月27日付(2通),28日付,6月1日付の油谷の書状

をV−A社の Secretary s Office が要約したものである。

(18) 1936年6月26日付,K. YutaniよりJ. Reid Young宛書状[VA−1239&L 16]でも,油谷は,英国側からの正式提案と交渉権限の油谷への委任状の送付を督 促している。

(19) 1936年7月4日付,V−A社よりK. Yutani宛電信[VA−Ll6]。

(20) 1936年7月6日付,J. Reid YoungよりL. Yutani宛書状[VA−1239&L

16]。

(21)

5 交渉妥結と実行頓座(1936年7月〜10月)

V−A社が油谷の構想の線に沿った提案は行わないことを決めて電信及び書 状を油谷へ送っていた丁度その頃,油谷は,水谷・樺山・磯村と合い前後して 会談し(7月3・6・7日),その結果,三井側に対する交渉は前記(B)方 式で臨むことにした(輪西鉱山株式との交換後の日本製鋼所株式を最低価格 600円で引き取らせるのは困難との判断から)。

そして,南条金雄(三井合名理事長)に対して当該株式の買取り要請を行い,

前年に池田に示した価格より100円ずつ高い価格(日本製鋼所株式750〜800円,

輪西鉱山株式350〜400円)を提示した(現在の事情は昨年とは相当異なってい るとの理由で)。油谷によれば,南条との会話では輪西に関する補償問題につ いては何も言及せず,このような言い方(昨年とは相当事情が異なるとの表現)

をしたが,南条は油谷の申し出を十分理解したという。

そして,油谷は,南条が総額いくら用意する必要があるかと問うたこと(南 条は上記価格からは最低約800万円になると試算),難問は三井側3社(合名・

鉱山・北炭)の購入割合であると油谷に知らせたこと(北炭は従前の出資比率 と同じ50%負担には難色),などから判断して,三井は当該株式を購入する意 向を持っているので,もしもV−A社が総額825万円(日本製鋼所株750円,輪 西鉱山株350円として計算)を得られるならば歓んで当該株式を売却すべきと V−A社に伝えている。そして,三井側は購入価格自体には反対はないものの,

価格が輪西合併問題を理由につり上げられたと思われることを極力避けたがっ ていること,三井3社の分担割合については純粋に三井の内部問題なので今し ばらく時間がかかることを付記しているq)。

油谷は,三井側は輪西合併問題に言及されることを嫌いつつも,ようやくそ の補償の意味を込めてエキストラを払うつもりになっていると判断し,南条に 対し,あらためて日本製鋼所株式一株780円,輪西鉱山株式一株350円を提起し た(最低でも総額800万円以上での妥結を見込み)。そして,油谷は,三井側3 社の購入割合が依然ペンディングではあるが,特別な問題が生じない限り,こ の価格の有効期限である8月末までには価格とともに購入割合も決まるとの楽

観的見通しを示した(2〕。

しかし,いくつかのクリアすべき障害が生じたので,上記価格の有効期限は 9月末に延長され,引続き交渉が行われだ3)。

障害の一つは,三井側3社のうち,北炭が難色を示したことにあった。北炭

(22)

は従来から購入割合に異議を唱えていたが(旧来の出資比率の2分の1ではな く3社等分の3分の1を主張),さらに,油谷の今回の申し出価格(日本製鋼 所株式780円,輪西鉱山株式350円)をも拒否した。そのため,三井合名として は,北炭に替わって三井生命保険会社がその分を購入する案を考え,生保側へ の説得を試みた。

さらに重要な問題として,当該株式の対価としての金輸出あるいは外貨現送 の困難性が浮上してきた。この点については,外国為替管理法との関係で大蔵 省の許可が必要であり(後述),楽観は許さないものの,8月下旬時点では,

陸海軍省の支持を取り付けることにより大蔵省の許可を得ることは可能との見 通しであったω。

三井合名による三井生命保険会社への説得にも関わらず,生保による当該株 式の購入は困難となった。生保自体が,油谷の申し出価格での購入は不可能と 判断しただけでなく(生保は長期に投資が拘束されることを好まず,とくに配 当が期待できない輪西鉱山の株式購入には難色),陸海軍も生保が兵器産業の 株式を購入することには賛意を表さなかった(軍は当該株式をも通常の株式と 同様に取り扱う生保の態度を嫌った),とのことであった。

そのようなもとで,三井合名は,当該株式全株(15,000株)の購入を1社だ けで引き受けるしか方法がないと判断した(日本の国家政策の上からは資本投 下を分散させる必要があるので,合名は極力この方法は避けようとしたが)。

しかし,合名1社で全株を引き受けるには余りに高額なため,南条はあらため て日本製鋼所株式700円,輪西鉱山株式300円を油谷に申し出た。

なお,金(外貨)現送の困難性に対処する方法としては,英国側が当該株式 の対価を円で受け取るか,金(外貨)での受領の場合は10回ぐらいに分けて現 送するかなどの方法が考慮された。

油谷は,以上の内容をV−A社側に電信及び書状で知らせた(5)。

V−A社は,油谷からの電信に対して二通りの返電をもって答えた。

(イ)日本製鋼所株式750円,輪西鉱山株式300円で応ずる用意がある。その場合 の条件として,円での対価支払の場合は日本の銀行での自由処分に委ねるこ と,9月末までに実施すること,当該株式の引渡しはロンドンで購入者代理 に対して行うこと。

(ロ)さらに,油谷に対する私的な情報としては,日本製鋼所株式700円,輪西

鉱山株式300円を受け入れる用意があることを伝える(ただし9月末までに

(23)

全ての処理が完了することが条件)(6)。

そこで油谷は,上記(イ)の内容を三井合名(南条,島田常務理事及び金子財務 担当理事)に示して交渉したところ,価格(日本製鋼所株式750円,輪西鉱山 株式300円)についてはもはや異論はなされなかったが,金子は,問題は大蔵 大臣の許可が得られるか否かにあるとして回答を留保し,V−A社側の条件と して提示された当該株式の対価の日本の銀行での自由処分,ロンドンでの株式 引渡しについても同意しなかった。問題は,価格よりも外国為替管理法との関 係で大蔵省の許可が得られるか否かにしぼられてきたが,大蔵省の認可は得ら れるとしても数週間はかかること,当該株式の対価を日本の外国銀行に預金し た上で自由処分するという方式も外国為替管理法に従わねばならないこと,大 金の現送も現状では大変困難との見通しであった(特別な事情のもとでは百万 円位までなら可能との情報もあるが,その場合でもポンド・スターリングへの 転換には相当の期間を要することになる)ω。

以上の経過を経て,1936年9月末,V−A社(J. B. Neilson名)とロンド ン三井(Mitsui&Co., London)との間で,日本製鋼所株式一株750円,輪 西鉱山株式一株300円での売買が以下の条件付きでひとまず合意された。

①日本政府の売却許可を得るのに必要な期間の確認。

②当該株式のロンドン三井への引渡し。

③売却許可から3ケ月以内における代金のポンド・スターリングへの転換に ついての日本政府の保証。

④その間の交換レートの固定。

しかしながら,三井合名は,①③④については,自分たちの権限を越える問 題であり,大蔵省の了解確保に努力するが難しいとの態度であったので,油谷 は,海軍省に大蔵省側への説得を依頼した。②についても,三井合名は日本で の株式引渡しを強く主張したが,この点については,油谷が英国側から委任状 を送付してもらって必要な手続きを行うことを検討し,英国側に依頼した(8)。

油谷は,上記①③④について大蔵省の理解を得るべく,海軍当局に斡旋方を 強力に依頼するが,海軍当局者から伝えられた大蔵省の見解は,短期間の大量 の外貨現送は到底無理である,とのことであった(9)。

このようなもとで,10月中旬,三井合名(南条)は,ポンド・スターリング

での現送が困難なので,この株式購入交渉は中断することに決定した,との見

解を油谷に伝え,ロンドン三井にもその旨打電した。これを受けて,油谷は,

(24)

三井はもともと当該株式購入には消極的であって,何か口実があればいつでも 交渉を止めたかったのであって,外貨現送の困難iはその格好の材料となった,

と英国側に報告した( °)。

当該株式売却問題に関連して,大蔵省が外国為替管理法を実際にどのように 適用ないし運用しようとしていたかは資料的には定かではない。しかしながら,

二・二六事件以降,国際及び国内情勢は大きく変化しつつあり,1933年以来比 較的低位安定を続けてきた為替相場の維持も困難となっていた(二・二六事件 後に対英為替相場が1シリング2ペンスを割り,その後,政府の相場堅持方針 により一時持ち直すが,同年秋,膨大な次年度予算と関税改正を含む税制改革 発表を契機に再び1シリング2ペンスを割る)。このようなもとで,政府・大 蔵省は外国為替管理法の運用強化をまさに図ろうとしていた(事実同年11月27

日「外国為替管理法に基づく命令の件」改正)(11)。したがって,同年10月時点 においては,当該株式の売却の結果として生じる大量の外貨の現送は実際に困 難となっていたものと考えるのが妥当であろう。

こうして,日本製鋼所及び輪西鉱山の英国側所有株式の売却問題は,1936年 9月末に,三井合名との間で一旦は合意に達したものの,国際金融情勢の緊迫,

外国為替管理法の運用強化の情勢のもと,当該株式の対価としての外貨(ボン ド・スターリング)の現送が不可能(大蔵省の認可困難)との見通しであった ため,結局は,売却は実行されずに終わったのである。

(1)1936年7月10日付,K. YutaniよりJ, Reid Young宛書状[VA−1239&L

16]。

(2)1936年7月16日付,K. YutaniよりJ. Reid Young宛書状[VA−1239&L 16]。この油谷の三井側への提起を英国側了解(同年8月18日付,J. Reid Young よりK.Yutani宛書状[VA−1239&L16])。

(3) 1936年8月25日付,K. YutaniよりJ. Reid Young宛書状[VA−1239&L 16]。また,前掲V−A社重役会議事録(前節注8),1936年9月16日分,参照。

(4)前掲,8月25日付,K. YutaniよりJ. Reid Young宛書状。

(5)1936年9月19日付,K. YutaniよりJ. Reid Young宛書状,及び,同書状添 付の同日付電信確認文[VA−1239&L16]。

(6)1936年9月21日付,V−A社よりYutani宛電報(2通)[VA−L16]。また,

EXTRACT FROM COLONEL NEILSON S DIARY (21/9/36)[VA−Ll6]をも参照。た

参照

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