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大航海時代におけるポルトガルの 海上保険の活用状況

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(1)

大航海時代におけるポルトガルの 海上保険の活用状況

特にインド航路について

若 土 正 史

■アブストラクト

欧州における地中海・バルト海・北海を結ぶ海運交通では,14世紀後半か ら既に海上保険制度が普及し,海上リスク対策の一手段として海運関係者に 広く利用されていた。

1498年ポルトガルはインド航路を開設し,同国の基幹航路となった。本稿 はポルトガルと日本の交易に関して,隣国スペインのブルゴスに残る当時の 契約史料と同航路の海難事故事例を分析し,この航路における海上保険の活 用状況に関し一次史料と先行研究の二次資料とを使って検証したものである。

その結果, 大数の法則 に見合う引受件数の確保 と 一定水準で安定 した損害率 という要件が十分にカバーされなかったため,ポルトガルはイ ンド航路では海上保険は積極的に利用していなかった,という結論を得た。

■キーワード

海上危険,ブルゴス条例 (Ordenanzas de Burgos),インド航路 (Carreira da India)  

1.はじめに

広大な海洋を航行する船舶は常に各種の海上危険によって脅威を受ける。

会関西部会報告による。

*平成26年11月15日の日本保険学 27年1月5日原稿受領

/平成

(2)

荒天・衝突・座礁などの自然事故や,海賊・戦争・紛争など人為的事故もあ り,いずれもそれらの海上危険が脅威を齎し,安全な航海の進行を阻止し,

船舶・積荷・乗員を毀損・滅失させ,海運業・貿易業に関わる関係者に甚大 な影響を与える。彼らはこうした経済的損害の海上危険に対し,古くから 様々な自衛策を取ってきた。その一つが 保険制度 であった。

海上保険の起源についてはギリシャ時代から発達した冒険貸借から転化し,

14世紀頃にはイタリアの海港都市の商人間にウスラ 問題を回避する工夫を 凝らした手段が生み出され,それがさらに進化し海上保険制度が始まったと いうのが定説である。13世紀頃イタリア・スペインなどの地中海沿岸都市で は,海事裁判官や海事裁判所が置かれ,海運上の船長・商人間の争訟を審 理・裁定する監督制度がすでに存在していた。このように海運の海上危険の 対策はまずは地中海沿岸の諸国で起こり,それが北海・バルト海航路から未 知の太平洋・大西洋航路といった広範囲な航海に活用されていった。

本稿では,大航海時代に日本との交易関係が深かったポルトガルの海上危 険対策に焦点を当て,一次史料と先行研究の二次資料とを使って,当時のポ ルトガルの海上保険契約の実 態 と 海 難 事 故 の 分 析 を 行 い,イ ン ド 航 路

(Carreira da India)における海上保険契約の活用状況について検証を試み たいと考える。

2.大航海時代における欧州の海上保険の実態

⑴ 15‑17世紀の欧州における海上保険の取引状況

14世紀後半から15世紀にかけて,スペインにおいて海上保険の普及が進ん でいたことは,1435年 バルセロナ条例 の制定とその後のたび重なる改定 や各地の新たな制定を見ても明らかである。バルセロナの商業の繁栄は,地 中海海運において同地が地理的にもイタリアやポルトガルとの貿易取引上の 重要な拠点であったことが強く影響している。

一方,今回取り上げる北部の町ブルゴス(Burgos)は,マドリッドの北

大航海時代におけるポルトガルの海上保険の活用状況

1) 中世のカトリック教会が禁じた利息(usura)。

(3)

約200㎞に位置する内陸の都市であるが,中世カスティリャア王国の首都と して繁栄を誇った古都であり,レコンキスタ時代の英雄エル・シッドの町で もあった。中世スペインの有数の輸出品であった羊毛は,メディナ・デル・

カンポ (Medina del Campo)などの定期市で取引され,その中心的な集散地 であったブルゴスに集められた。ビスケー湾に面した外港ビルバオ (Bilbao) に運ばれて,輸送船団によって,ロンドン,フランス西岸の港ラ・ロシェル

(La Rochelle)やナント(Nantes),そして当時大西洋岸の商業の中心都市 ブルッヘ(オランダ語:Brugge 英語:Bruges)等の取引市場に積み出さ れていった。

一方のビルバオは,国内の船舶‑特に軍艦製造のため鉄の需要が強まり,

付近の鉄鉱山の開発によって育った鉄工業が盛んで,ブルゴスの商人たちも この取引参加のために一部がビルバオへ移るなどした。元々カステリアとバ スクと異なる民族のために,この両都市の商人たちは常に拮抗反目しあって いた。

ブルゴスはその当時ひっ迫していたスペイン王室の財政を支えるため,王 室がこの地を羊毛集積地として保護育成した期待の都市であった。1443年に はこの地に 商人の同業組合(Universidad  de Mercaderes) が設立され た。また1494年には傭船や保険・為替など海上輸送に関わる諸問題や船舶・

商品の売買といった商業上の問題を広範囲に管掌し,商業裁判権をも付与さ れたコンスラード(Consulado )が設置され,海運交易取引に携わる商人 たちのギルド体制を確立していった 。

2)

Consulado

の日本語訳は 商務館 や 通商院 など分かれるが,混乱を

避けるため本稿ではコンスラードもしくは

Consulado

と表記している。立石 博高他(2002) スペインの歴史 昭和堂

p.94及び中川和彦(2001) セビー

リャの通商院とヌエバ・エスパーニャのコンスラードについて 成城大學經 濟研究 151/152号

pp.42‑45。

3) 飯田敏彦(1993) 16,17世紀カスティーリャの羊毛貿易 社会経済史学 58⑸

pp.107‑108。

のところ

の上付きが入るため強制送りします

(4)

当時こうした交易業務にはユダヤ人(改宗ユダヤ人conversao も含む)

商人が多く関わっていたが,1480年に異端審問制度が導入され,1492年には ユダヤ人追放令が発せられたため迫害や軋轢が激しくなり,彼らはやむなく 他国へ集団移動するなどしたため一時期ブルゴスの市場も混乱した。ブルゴ ス商人は王室への巨額な献金を続け,それと引き換えに多くの特権を受けて,

この地域の貿易取引の中心地という立場を維持していった。

15世紀ではイタリアが中心であった海上保険は,16世紀に入ると徐々にそ の市場の中心がスペインに移動し始めた。ただ保険の引き受け手である保険 者たち有力商人は,引き続き経験を積んだジェノヴァ・フィレンツェなどイ タリア商人たちが中心であったが,16世紀後半になると証券の保険者名のサ インに,スペイン人の名前も次第に登場するようになったと言われている。

またスペインの海上保険条例では,1435年にバルセロナ海上保険条例が初め て制定されているが,1538年にはブルゴス海上保険条例(Ordenanzas de Burgos),1556年にセビリア条例,1560年にビルバオ条例と各地で次々と制 

定された。

このようにスペインにおいて地中海側と大西洋側の各条例群とが夫々競う ように施行され,海上保険に関する諸々の制度の確立が図られた。それに合 わせスペインでは,地中海側と大西洋側の両地域において一時期欧州におけ る最大の海上保険市場が生まれていった。

一方ポルトガルの海上保険(類似組織も含め)への取り組みは古く,ポル トガル国王と有力商人たちとの間で交わされた 保険 に関する合意書や保 険制度に関する史料は,同国の古文書館にもかなりの数が残されている。最 も古いものでは,1293年5月10日デニス王(D.Dinis)によって,ポルトガ ル商人たちの相互扶助的な (保険)組合取引所(bolsa comum) が創設 4) 新キリスト教徒 ともいう。岡美穂子はデ・ソウザの研究を取り上げ ポ ルトガル人のアジア間貿易の担い手に改宗ユダヤ人が数多くおり,血縁にもと づく商業ネットワークがアジア=ヨーロッパ=新大陸間に展開していた可能性 を指摘している と解説している。岡美穂子(2010) 商人と宣教師 南蛮貿易 の世界 東京大学出版会

p.5及び p.

19。

大航海時代におけるポルトガルの海上保険の活用状況

(5)

されたことが史料で確認 されているが,この制度が世界最初の保険組織で はないかとして,これまで様々な文献に引用されてきた 。さらにブルゴス 条例制定時期より10年ほど早い1529年には,ポルトガルにおいてもリスボン に インド商務院(Casa da India) が設置され,そこに 海上保険 の 機能を有する 海上貸付 の仕事を専門に担当した 保険書記官(Escrivao de Seguros) の役職が設けられている。その後,1570年頃リスボンとポル 

トに 保険取引所(Casa dos Seguros) も設けられ,同国の保険制度は発 展していった 。

⑵ ブルゴス・コンスラード所蔵の海上保険契約に関する史料の意義 1755年11月,当時ヨーロッパ有数といわれたリスボン(人口約20万人)の 街はマグニチュード9という空前の大地震に見舞われた。インド航路関連の 記録を所蔵していたインド商務院と保険取引所の施設は艦船の停泊地であっ

5) トーレ・ド・トンボ古文 書 館(A.N.T.T.)Gaveta3

, maço n.o

5,

doc.5

では 取引所 創設の勅令に触れている。この組織はポルトガル商人が国外の 港湾都市間での航海上の損失を組合員相互で負担し合うよう設計された,いわ ば 相互救済扶助 なる制度の創設であったといわれる。Instituto de Segur-

os de Portugal

(2010)

Os Seguros em  Portugal da Fundaç ao a Moder- nidade ISP Lisboa p.10 .

6) 例えばカール・レアッツ著 加藤由作訳(1944) 欧州海上保険法史 厳松堂 書店

pp.120‑136。

7) 金七紀男(1990) マヌエル1世(1495‑1521年)におけるポルトガルの香料 交易Ⅱ―インド商務院の活動を中心に― 東京外国語大学論集 第40号

pp.

239‑259。

8) 岡・前掲注4)

pp.197‑198 また A.N.T.T., Livro de Notas do

150

Car- torio Notarial de Lisboa, Liv.12 PT/ ADLSB/ NOT/ CNLSB15 A/001‑1/

12 は,海難保険事故(1573年)に言及した最初の一次史料である。その中に 積荷の詳細は 保険取引所(Casa dos Seguros) に登録記述されている 旨の記述が見られるので,その頃すでにこの機関が設置され機能していたもの と推定される。なおポルトガル海上保険史に関して,拙稿(2013) ポルトガ ルにおける大航海時代の海上保険と日本 海事交通研究 第62集,山縣記念 財団,pp.90‑91を参照されたい。

(6)

たテージョ川河口に置かれていたため,この大地震と津波と大火災で建物が 悉く壊滅し,収蔵されていた海上保険や海上貸付(ポルトガルではempres- timo a risco)など,その当時の海上保険に関する商業文書類を始め,イン ド航路に関する史料も大半が失われてしまったと言われている 。

しかし幸いなことにブルゴスのConsuladoには,ポルトガル関連も含め た主として大西洋・北海・バルト海の海運に関する海上保険契約の一部の記 録(1565‑1619年)約11000件が残されている。

これまでCasado Alonsoなど欧米の研究者たちが,このConsuladoの史 料を使い16‑17世紀における欧州の海上保険取引の研究を行っている。この 時代のポルトガルの海上保険の契約記録は,上記事情によってほぼ消滅して いるため,同種の史料の稀少さという観点からも,これらのデータは研究者 にとり大変貴重な史料であると考えている。

⑶ ブルゴスの海上保険契約の分析

ブ ル ゴ ス のConsuladoに あ る 証 券 記 録 簿(Libros Registros de Pol- izas) には,1565年から1619年まで50年余りの期間の海上保険の契約約

9)

Boxer, C.R.はこのことを “The archives of the India House at Lisbon having perished in the great earthquake of  

1755

, we have no exact records of all sailings in the Carreira before that date.”と述べている。  

同 (1991)

The Portuguese Seaborne Empire 1415

‑1825 

CARCANET  p.

219

.

10) 本稿のブルゴスに関する図及び表の多くは,このうち

Casado Alonso, H.

et al,

(1999)

“El M ercado internacional de seguros de Burgos en el siglo XVI” Boletı n  de la  Institucion  Fernan  Gonzalez,   no

219

,

(2003)

”Los seguros marı timos de Brugos. Observatorio del comercio internacional portugues en el siglo XVI”Revista  de Faculdade de   Letras HISTORIA  Porto, III Serie, vol.4   , Barkham, Selma

(1981)

“Brugos Insurance for Basque Ships :M aritime Policies from  Spain,

1547‑1592

”Archivaria , no11の3論文に記載されているデータを中心に加

筆・作成した。

険の活用状況 海時代におけるポルトガルの海上保

大航

の上付きが入るため強制送りします 本文のところ

(7)

11000件の記録が残されているといわれる 。 本稿ではそのうち先行研究の資料

・契約件数:5042件

・総保険金額:643万4130.5ドゥカード(ducado)

の情報をもとに当時の海上保険契約を検証している。なおその契約は,図1 のとおりブルゴスが繁栄した1590年代前半までの契約に集中しており,それ らが件数ベースで全体の約97%を占めている。

15世紀後半のポルトガルの海上輸送による交易活動の中心地は,ネーデル ランド(低土地)のフランドル地方である。ポルトガルは1460年ブリュッヘ に王室管理下の商館を開設し,アフリカやマディラ(Madeira)・アゾレス

(Azores)各諸島の植民地からの産品(砂糖や香料)を,当時 世界の市 場 といわれたブリュッヘに持ち込み,毛織物や銀・銅を得る取引を行って

11) Casado Alonso, H., (2003) op.cit. pp.216‑217 .

図1 ブルゴスにおける海上保険の引受件数の推移

出典)Casado Alonso, H., (1999) “El M ercado internacional de seguros de

Burgos en el siglo XVI”Boletı n  de la Institucion  Fernan  Gonzalez  

no 219p.283より作成。  

(8)

いた。

15世紀末になるとインド航路も開設され,1499年にアジアから船積みされ た市場性の高い貴重な香辛料が,海路で直接リスボンに齎されるようになっ た。しかし当時リスボンには,こうしたアジア産品を活発に取引するだけの 十分な市場規模はなく,より大規模な市場を求めブリュッヘやアントウェル ペン(オランダ語:Antwerpen,英語:Antwerp)に持ち込み,諸外国の 大資本との取引が行われていた。ポルトガルはアントウェルペンに国王任命 の商務官を常駐させ,商人たちはこの市場に香辛料などアジア産品を持ち込 み,引き換えにアジア域内取引で使用する南ドイツ産の銅や銀などを獲得し ていた 。しかしこのアントウェルペンの繁栄も1560年頃までで,この地の 国際市場としての役割は間もなく終わり,そののちはアムステルダム市場へ と移っていく。こうした北海・バルト海沿岸の港湾都市と緊密に海上交通で 結び,海運・商業・金融(保険を含む)とともに繁栄していたのがブルゴス であった。

先行研究を使い,16世紀後半この地域における海上保険契約を分析してみ ると,近隣航路や欧州を起点としたアジア・アフリカ・ブラジルなど遠隔地 航路の海上保険の実態を探ることができる。図2では,年度ごとの保険料率 の分布をみている。年度によっては10%を超える年もありバラつきがみられ るが,1570年前後と1590年前後に戦争による影響 で右肩上昇がみられる。

実績の多い前半は7%前後でほぼ安定しているが,17世紀になると5%前後 の年も多くあり,総じて振幅が激しい。但し経年に従い料率は右肩下がり傾 向なのが分かる。

12) この当時ポルトガルは,西洋とアジア間の金銀の交換相場の違いを利用(中 国は銀が乏しく金より相対的に高価だったが,一方ヨーロッパでは安い銀を買 い込み,アジアで相対的に安い金や香料と交換)することで,二重の利益を獲 得していた。中澤勝三(1993) アントウェルペン国際商業の世界 同文館出

p.

66。

13) 1568年からオランダ独立戦争の開始(〜1648)や1588年スペイン無敵艦隊の 敗北など戦争に関連している。

大航海時代におけるポルトガルの海上保険の活用状況

(9)

17世紀になると保険料率の低下と契約件数の大幅な減少がみられるが,こ れは有力な保険者がブルゴス市場から去り,大型契約の引き受けが減る一方 で,スペイン国内か近隣国との短距離で比較的安全な航路の小口契約にシフ トしたためだと推定される。前半20年間の1ポリシー当り平均単価が1352ド カードだったものが,後半の20年間で見ると886ドカードと単価が約3分の 2にまで低下していることからもこれが裏付けられる。1619年までの平均保 険料率は7.3%であった。

しかし1571年の レパントの海戦 や70年代から続くオランダの独立戦争 といった政治問題によって,引き受けを手控える地元保険業者が急増し保険 料率も10%超と一気に急騰したため,ブルゴスの扱い件数も激減していった。

さらにネーデルランドに居住し,有力な商人で保険者でもあった改宗ユダヤ 商人たちは,異端審問所の設置など宗教弾圧が激化したスペインから,宗教 的自由を求めアムステルダムに移動したため,ブルゴスにおける海上保険市 場は一気に衰退していった。17世紀になると世界経済の中心都市となり,欧 州の最大の海上保険市場となったアムステルダムへと保険契約は移っていく のである。

次に表1の付保された積載貨物の内容から,スペイン北部の取引市場の姿 図2 平均保険料率の推移(1565‑1619)

出典)Casado Alonso(1999)

, H., “El M ercado internacional de seguros de

Burgos en el siglo XVI”p.283より作成。  

(10)

を見てみたい。当時ブルゴスの最大の貿易品は下記の通り羊毛であり,件数 でも保険金額でも全体の3分の1を占めているが,鉄製品・船具などととも にブルゴスやビルバオの街の特徴を反映している。通貨は主として新大陸

(メキシコと南米)からの金貨・銀貨が中心で,当時スペインもまた,新大 陸と欧州における金・銀の交換比率差を生かし多大な収益をあげていた。

また香辛料は胡椒を中心に15‑16世紀の欧州における貿易取引品目の大宗 であったが,ここの取扱高が少ないのは,アジアから持ち込んだ香辛料はポ ルトガル王室の管理一本化のため一旦リスボンに集中化させており,ブルゴ

表1 ブルゴスの海上保険の付保商品(1565‑1619)

出典)Casado Alonso, H.,(1999)

El Mercado internacional de segur- os de Burgos en el siglo XVI Boletı n de la Institucion Fernan Gonzalez no

219

p.285 .  

商品

保険証券 総保険金額

ウエート (

%)

35.0 9.4 6.5 6.1 5.6 5.6 4.5 3.6 2.8 2.0

14.6

0.9 0.9 100.0 ドカード

ducados

2,251,667.0

608,003.8 415,927.3 389,806.0 362,533.5 362,335.6 288,988.3 232,955.0 177,112.0 131,575.0

938,096.5

55,640.0 54,707.0 6,434,130.3 ウエート

(%) 37.0

2.7 7.7 4.5 3.2 12.2 4.5 6.6 1.4 0.6

11.6

1.9 1.6 100.0 件数

1865 137 390 228 159 614 229 334 72 32

585

96 80 5042 羊毛

金貨・銀貨 アメリカ・アフリカの

農製品と乳製品 生地 染料 鉄製品・船具 イベリア半島の食糧・塩

馬具・大砲・弾薬 香辛料

奴隷

その他 生命保険

再保険 合計

大航海時代におけるポルトガルの海上保険の活用状況

(11)

スはメインのルートから外れていたためである 。

な お 表 中 に は 生 命 保 険(Seguros de Vida) と 再 保 険(Reasegur- os) とが記載され,証券数で其々100件近く計上されているが,ここでい う生命保険とは,恐らく 乗組員 や 奴隷 を対象にしたもの と考え る。また高額保険の引受を実現する手段として,複数の保険者がシェアする 共同引受やこの再保険が利用されていたと思われる 。この情報から当時す でに両保険の制度が欧州では既に存在し,利用されていたことが分かりこの 資料に注目したい。

次に本論文末尾の別表1より,ポルトガルと各国間の航路別契約実績約 1600件の保険料率と1証券当たり単価について検証してみたい。

各航路全体の平均保険料率は9%程度であり,この数値は欧州地区で引き 受けた当時の海上保険の標準的な料率水準であったと考える。ただし,この 保険料は,船舶名・船舶及び積荷所有者・船長・積荷の種類と数量とその価 格・航路や仕向地そして運行時期など,保険証券にも記載される契約時の諸 条件や関係者の引受実績によって常に左右される。ビルバオなどスペイン北 部とポルトガルを結ぶ航路は運航距離が短く,その上,北海やバルト海に比 べると気象条件も比較的安定しているため,保険料率も5.9‑7.1%と低かっ た。またポルトガルの港を出向地とし,ネーデルランド地方向けルートは総 保険金額が最も高く,取引の活発さを物語っている。保険料率は8.2%とほ

14) 1567年のアントウェルペン市場における取引商品別構成では,香辛料は全体 の15.6%を占めているが,リスボンからも同市場へ運び,欧州間の取引に参加 していたことを裏付けている。中澤勝三・前掲注11pp.107〜111。

15) 再保険の誕生は,遅くとも14世紀の末までに制度が確立し,イタリア諸都市 を中心として西欧の各地に広まっていった。大谷光彦監修 トーア再保険株式 会社編(2011) 再保険 その理論と実務[改訂版]

pp.11‑12。

16) 木村栄一(1963) 奴隷に関する1401年ピサの海上保険証券 保険学雑誌 第423号

pp.157‑168及び同 (1966) 奴隷保険と生命保険―世界最古の真正生

命保険証券 生命保険文化研究所論集 ⑶

pp.28‑31。

17) 小林篤(2012) 再保険の進化と最近の再保険市場 損保ジャパン総研レポ ート

Vol.

61

p.

33。

(12)

ぼ平均的なレートであった。次に1証券当たりの単価を比較すると,インド 航路(復路3603D)が圧倒的に高いが,これは1航路の積載量合計が大きく,

高級繊維類や香辛料といった高額商品による構成が影響している。こうした 保険料率表は,当時のポルトガルの取引国(地方)の実情や,その航路の安 全性・積載商品を料率で示したもので,非常に興味深く貴重な資料であると 考える。

最後にインド航路について検証したい。

ブルゴスでのこの航路引受件数は表2のとおり全部で32件と数は少ないが,

特に注目したいのは付保が圧倒的に復路(La India-Lisboa及びCalicut- Lisboa計29件)に偏っていることである。これはブルゴス条例:第29条で,

付保できる保険目的のうち 羊毛・藍・葡萄酒・魚類・小麦類・果実など損 傷しやすい貨物の損害は免責 (但し 羊毛 は契約時に告知し,明記する と対象品目となる)としていたため,往路便の積荷の多くが必然的に免責の 対象品目になっていたこと,さらに復路便の積荷の多くが王室関連のオーダ ー品で,付保の必要性があったことが大きく影響していたと考える。通算の 保険料率の平均は9%である。

インドとポルトガル間の貿易は,16世紀当初は王室所有の船舶・船員に限 って行われていたが,1580年代以降は民間商人たちが王室と契約をし,自分

Origen (出発地)

出典)Hilario Casado Alonso(1999)

“El Mercado Internacional de Seguros de Burgos en el Siglo XVI” pp.  

302‑304 及 び 同

“Los seguros marı timos de Brugos. Observatorio del comercio internacional por-   tugues en el siglo XVI” pp.231‑237より作成。

表2 インド航路の付保件数と保険金額の実績(内訳 1565‑1619)

Destinos (到着地)

Numero Polizas (保険証券数)

Ducados asegurados

(引受額:ドゥカド) 1565‑691570‑741580‑841585‑891590‑941595‑991600‑041605‑19Premios Medios (平均保険料率)

Calicut   Lisboa 4,750 不明 8.9

La India  Lisboa 24 102,450 52,050 2,800 15,000 7,500 9.0

Total 32 115,300 不明 8.98

9.0 不明

8,100 LaIndia

  Lisboa

 

大航海時代におけるポルトガルの海上保険の活用状況

(13)

たちの船をインドに派遣して行っていた。その場合王室の積荷も,王室に代 わって商人たちが保険などリスク対策を負担した といわれている。表3 には表れていないが,このインド航路の復路便で民間の商人たちも高い海難 リスク対策として,当初は海上保険をリスボンなどで手当てしていたことを 取り上げた一次史料が,リスボンの古文書館に残っている 。この史料によ ると 1638年マルガリーダ王女(M. Margarida1621‑?)が,リスボン在 住の商人たちに対し,ナウ船で運ぶインドからの王室商品には,海上保険を かけるよう議会に命じた ことが書かれ,さらに表3の通りその年に付保を 検討した3例が紹介されている。

提示された3例の料率はいずれも18%と,ブルゴスでの引受実績9%と比 べると倍に跳ね上がり極めて高いレートである。このうち②の被保険者

(Diogo Duarte de Souza)はこの料率が高すぎて結局付保を見合わせた。

船舶も改良され航海術も向上したにも拘らず,わずか100年未満のうちに

18) M.N.ピアスン(生田滋訳)(1984) ポルトガルとインド―中世グジャラー

トの商人と支配者― 岩波書店 pp.57‑58。

19) Biblioteca da Ajuda 51‑ VI ‑21 fl.147 v.- 149 v.

18 商品

7000 Antonio Ribeiro

de Carvalho  他2名 Pedro de Bacia

他2名 (いずれもジョノバ人) 8月5日

(1638年)

18 × 商品

15000 Diogo Duartede Souza 

8月17日 不成立 (1638年)

18 商品

1000 Manoel Dias da 

Sylva Nicolao Velozo  Rodrigo Botelho 

de Moraes  7月12日

(1638年)

成約 保険料

(%) 目的

(付保対象) 保険金額

(Cruzardos) 被保険者

保険者 NO 年月日

表3 ゴアにおける海上保険契約の事例

出典)Biblioteca da Ajuda 51‑ VI ‑21 fl.147 v. ‑149 v.及び Souza, T.R. (1977) ,

“Marine Insurance and Indo−Portuguese Trade History”pp.377‑381

より作成。

(14)

この航路の保険料率がなぜこれほど高騰したのか。また表2によれば1590年 以降この航路では,海上保険を付保した実績は見られない。

このように付保が減少した(あるいは止まった)のは,保険契約上不可欠 な要素(言い換えれば 保険が成り立つ要件 )であるリスク分散が可能な 大量の引受の確保,海難事故頻度つまり収支に見合う 損害率 の維持,そ して事故後の迅速な損害調査が可能といった重要な要件がこの地域の特性か らいずれも難しかったためだと考えられる。

次章では事故事例データを検証しながら,その原因について具体的な検証 を試みてみる。

3.インド航路の実績と海難事故事例の検証

ポルトガルのインド航路の発見は,1488年バルトロメウ・ディアスが喜望 峰の迂回航路の発見に成功し,その後1498年バスコ・ダ・ガマ率いる艦船が,

喜望峰を経由してインド・カルカッタに到着し,これによってポルトガルの アジア進出となるインド航路が始まった。この間スペインは,1492年コロン ブスがアメリカ大陸に到達している。

この章では,インド航路の航海実績とその間の海難事例を使い,海上保険 の引き受け手である保険者の引き受け判断となるInsurable risk を基に① 保険の大原則となる 大数の法則 に見合う引き受け件数が可能か ②保険 契約者や船員の信頼性また積荷は安心できるか ③損害率は一定水準で安定 しているか ④過去の引受記録や事故・争訟経緯の記録が保存されているか

⑤事故発生頻度の高い原因や地域を十分把握しているか ⑥事故後の迅速な 調査・検証が可能かといった観点からデータ分析をし,当時この航路におい て海上保険が浸透・普及したのか否か,そしてそれはなぜかを検証していき たい。

20)

Bennett, C.

(木村栄一監訳)(1996) 保険辞典 ㈶損害保険事業研究所

p.231東京海上火災保険株式会社編(1987) 損害保険実務講座 4貨物保険

有斐閣

pp.51‑55。

大航海時代におけるポルトガルの海上保険の活用状況

(15)

⑴ インド航路の実績

ポルトガル国のこの航路への船舶派遣数は,図3の通り大きく変動してい るが,常に基幹航路と位置づけられ16世紀中頃までは順調に推移していた。

ただ後半になると年間平均5隻程度に減り,さらに17世紀半ば以降は年2〜

3隻まで落ち込んでいる。

本稿で取り上げる16世紀から17世紀半ばまでの最盛期150年間には,1100 隻を超える船舶がインドを目指しリスボンを出航している。単年度の派遣船 舶数はグラフの通り,政情や宗教問題に影響され大きく変動はしているもの の,1505年の28隻をピークに1520年頃まではほぼ10隻以上の実績を保ってい た。しかし我が国との交易がはじまった1540年代以降になると,年間5隻前 後でほぼ一定していた。これが1600年に入るとやや持ち直すものの1610年以 降は再び5隻前後となり,1639年日本が鎖国を打ち出し,それ以降ポルトガ ルの日本入国は閉ざされてしまった。鎖国前後(1611‑1700)のインド航路 におけるポルトガルとオランダ両国の派遣船舶数を比較してみると,ポルト 出典)Paulo Guinote, Edouardo  Frutuoso, Antonio  Lopes(1992)

“O M ovimento da Carreira da India nos Secs. XVI-XVIII. Revisao e   Propostas”MARE  LIBERUM  N.  

4

pp.206‑208から作成。

図3 ポルトガル国のインド航路における派遣船舶数の推移(1500‑1650)

(16)

ガル船は通算年平均3.5隻に対し,オランダは20隻近い実績である。オラン ダは自国の造船工業の発展 に支えられ,毎年平均23隻とポルトガルの10 倍以上もの船舶をこの航路に送り込んでいる。

従ってこの航路の契約のリスク集積は小さく,①の 大数の原則 に則っ たリスク分散は極めて難しかったと考えられる。

⑵ 船舶到着率・帰還率と損害率

次にポルトガル船のインド航路の往復路別の海難事故率や帰還率を検証し てみたい。表4は同国の往復路別の海難事故の発生率を50年単位で見たもの である。前述 図3で見たとおり,16世紀後半の50年間ではこの航路への派 遣実績が急減している。

また往路は事故件数が16世紀後半になると減少し,事故発生率も一旦7%

弱と低下するが,17世紀に入ると17%近くと,急激に悪化する。一方復路の

21) フリース

J.

ワウデ

A.V.

(大西吉之他訳)(2009) 最初の近代経済 名 古屋大学出版会

pp.333‑336。

合計

1601‑1650

1551‑1600

1497‑1550

44.3 97 47.3

36 18.5

12 61.3

49 Ida

11 24 14.9

11 9.3

6 8.7

7 Indico

11.7 16.8 6.9 11.3 往路(%)

42.9 94 36.5

26 70.7

46 27.5

22 Volta

16.2 26.3 27.7 8.4 復路(%)

1.8 4 1.3

1 1.5

1 2.5

2 出発前事故 or行方不明 海難事故発生率

復路(for Lisbon) 海難事故発生率

インド付近 往路(for India)

期間

(各50年間)

表4 インド航路 往復路別海難事故発生件数(1497‑1650)

出典)Paurlo Guinote, Edouardo Frutuoso, Antonio Lopes (1998)

Nau- fragios e Outras Perdas da “ CARREIRA  da INDIA” Seclos XVI   e XVII Grupo de Trabalho do M inisterio da Educacao p.106及び   p.

111より作成。

大航海時代におけるポルトガルの海上保険の活用状況

(17)

事故発生率は,当初の50年間は8%台で落ち着いていたが,16世紀後半以降 は急激に悪化し25%を超え,4隻に1隻が事故に遭遇するという非常に高い 発生率である。この結果17世紀になると,往復路とも極めて海難リスクの高 い航路となった。さらに日本と交易があった期間(1543‑1639)の往復到着 率(仕向地到着率)とリスボンへの帰還率を検証してみると,前半の50年で は往路:85.7 復路:82.5とまずまずだったのが,後半では往路:66.9 復 路:76.5(いずれも%)と悪化し,特に往路は20%も落ち込んでいる。また 出航船舶のリスボンへの最終帰還率は,後半では37.5%と3分の1にしか過 ぎなかった 。

当時の復路の積荷は,香辛料や真珠など欧州で市場性が非常に高い高価な アジア産品が多く,そのため表5の通り海賊や敵国の攻撃によって船ごと全 て略奪されることが多くなった。こうした事態に1609年には王室の勅令によ って,王室貨物に海上保険の付保を義務づけるよう敢えて命令も出されてい る。

表5 インド航路 海難事故原因(1497−1650)

出典)Paurlo Guinote, Edouardo Frutuoso, Antonio Lopes (1998)

Nau- fragios eOutras Perdas da “ CARREIRA  da INDIA” Seclos XVI   e XVII p.116より作成。  

期間

(各50年間)

22) 帰還率低下の原因は,必ずしも海難事故によるものばかりではなく,往路で の船舶の損傷や乗員の死亡で,復路は船団を縮小せざるを得なくなったためで もある。

航海技術 暴風雨 ・

荒天 海賊 積載不良 敵国攻撃 船上火災 不明 合計

1497‑1550 16 12 2.5 0.5 2 5 42 80

20.0 15.0 3.1 0.6 2.5 6.3 52.5 1551‑1600 10 6.5 9.5 11.5 5.5 4 18 65

15.4 10.0 14.6 17.7 8.5 6.2 27.7

1601‑1650 9 9.5 10 0 15.5 6 24 74

12.2 12.8 13.5 0.0 20.9 8.1 32.4

合計 35 28 22 12 23 15 84 219

16.0 12.8 10.0 5.5 10.5 6.8 38.4

(18)

⑶ 海難事故原因

表5では,海難事故の原因を見ている。航海技術は順次向上したためこの 原因事故は逓減し,また積載不良も激減していることがわかる。海図や羅針 盤などの航海術の向上に併せ,積荷の積載・荷卸し作業など乗員の基本技量 の向上も事故発生減に貢献している。この表の通り,この航路における初期 の最大の海難事故リスクは航海技術や気象条件によるものであったが,16世 紀半ばからはむしろ海賊による略奪やイギリスやオランダなど敵国からの攻 撃によるものが急増している。

②及び③に関して検証すると,この時期には保険者の経験も積まれ契約者 の選別も向上したと思われるが,復路の積荷の中心は王室関連の高価商品で あり,海賊や敵国から真っ先に狙われるリスクはむしろ高くなり,船長をは じめ船員にそのリスク対策の負担を強いるのは自ずと無理があるように思わ れる。こうしたリスクに対しては軍隊による十分な護衛支援を求めるか,無 論無理だが 戦争 (海賊・敵国攻撃) 危険不担保 付き条件の契約で引き受 けるか,あるいは極力引き受けるのは避けたいというのが当時の保険者の本 音ではなかったかと考える。

⑷ 海難事故発生エリア

表6はインド航路内での海難事故発生をエリア別で検証したものである。

この表で示す通り,アフリカ南東部モザンビーク(Moçambique)海峡付 近での海難事故が多発している 。また1588年 アルマダの海戦 でスペイ ン無敵艦隊がイギリスに敗れて以降は,フランス・イギリス・オランダは海 賊に信任を与えた私掠船によって,アジア産の積荷を運ぶポルトガル船(ポ ルトガルは1580年‑1640年の間スペインに併合されているため同一国)をイ ベリア半島沿岸で集中的に攻撃し,海上略奪を繰り返すようになった。17世 紀に入りこの地域やイベリア半島沿岸での海難事故が急増しているのは,こ うした海賊や他国の攻撃行為が原因である。

以上から④及び⑤に関して検証してみてみると,こうした事故の発生個所

大航海時代におけるポルトガルの海上保険の活用状況

(19)

の記録は,表6のように公証人役場や保険取引所など各機関や古文書館に,

当時からその原因や争訟過程も可能な限り保存されリスクの高低を把握して いたとみて良かろう。

⑸ 事故後の対応

最後に⑥の 事故後の迅速な調査・検証可能か について見ておきたい。

インドやアゾレス諸島など遠隔地における契約では,付保段階で積載船舶名 未詳であっても海上保険の付保が可能であった ため,引き受け上の信頼 性判断能力は極めて重要で,相当のアンダーライティング力が求められたと 思われる。一方こうした長距離航路での洋上での海難事故の通知は,当時の 伝達手段では僚船からの報告に限られるため,迅速な現地調査は極めて限定 的かつ非常に困難であった。現地で海上保険を引き受け,その保険が有効と なるためには,実務上目的物が発航地の関税記録簿に記録されていることを 契約要件とし,この記録に残らない保険契約は無効であるとされた 。 出典)Paurlo Guinote, Edouardo Frutuoso, Antonio Lopes (1998)

Nau-

fragios e Outras Perdas da “ CARREIRA  da INDIA” Seclos XVI   e XVII p.438より作成。  

表6 インド航路 海難事故発生エリア(1497−1650)

23) 近見正彦 (2005) 1538年スペイン・ブルゴスの海上保険条例(その1) 害保険研究 第67巻第3号

pp.

63‑64。

24) レアッツ 前掲注6)

p.

363。

期間

(各50年 間)

Costa  da Penin-

sula  Iberica (イベリア

半島沿岸) Acores (アゾーレス

諸島)

Atlantico Sul, zona  do Cabo,  costa do

Natal  (アフリカ

西沿岸) Canal 

 de Mocambi-

que  

Africa  Oriental

  Litoral da 

India (インド

沿岸)

Indico (インド洋) Outro

(その他) Desconhe-

cido (不明)

合計

8.7 6.8 8.2 13.7 9.6 26.5 11.0 5.0 10.5

19 219 15 18 30 21 58 24 11 23 合計

0.0 8.1 6.8 16.2 14.9 18.9 13.5 2.7 18.9

0 74 6 5 12 11 14 10 2 14 1601‑1650

18.5 7.7 10.8 13.8 3.1 20.0 7.7 12.3 6.2

12 65 5 7 9 2 13 5 8 4 1551‑1600

8.8 5.0 7.5 11.3 10.0 38.8 11.3 1.3 6.3

7 80 4 6 9 8 31 9 1 5 1497‑1550

(20)

なおブルゴス条例では,保険者は各種証明書を受領後8か月以内に保険金 を支払うことが明記され,また当該貨物の保険金額の10分の1は,被保険者 の自己負担(免責金額)になっており,一定のモラルリスク防止策にもなっ ていた と考える。

4.終わりに

以上の検証の結果,本稿の主題である ポルトガルはインド航路の交易で 海上保険を十分に利用していたか? という問いに対して,現段階では ポ ルトガルはインド航路では,海上保険は積極的に利用していなかった とい うのが筆者の結論である。

その理由は,前述した海上保険を引き受けるにあたって保険者がInsura-

ble riskを判断する, 大数の法則 に見合う引受件数の確保 と 損害率

は一定水準で安定しているか という最もベーシックな要件が,十分にカバ ーされていなかったからである。インド航路に関する史料は上述の通り極め て限定されているため,同航路における海上保険の研究はまだまだ十分とは いえず,さらには日本航路を含めた東アジア地域の実態についても殆ど解明 されていないといってもよい状況である。ポルトガルの貿易取引の特質を把 握する上でも,この分野の調査は重要な作業になると言えよう。

(筆者は神戸大学大学院経済学研究科博士課程)

25) 近見正彦 (2003) 1538年スペイン・ブルゴス海上保険条例における保険契 約者資格と保険者資格 損害保険研究 第65巻第1‑2号合併号

pp.

302‑305。

大航海時代におけるポルトガルの海上保険の活用状況

(21)

別表1:ブルゴスの航路別証券数・保険金額・おもな保険料率(1565‑1597)

出典)Casado Alonso(2003)

, H.., “Los seguros marı timos de Brugos. Obser- vatorio del comercio internacional portugues en el siglo XVI”pp.231‑

237及び

p.242から作成。

国・地域 主な出向地 主な仕向地 証券件数 保険金額

ducado

1証券あたり 単価

平均料率

(%)

5.9‑8.2

12.5

7.8 7.0‑8.3

8.2

12.5

5.6‑11.0 5.9‑7.1

7.8

6.5 7.0‑8.3

6.5 9.3 650.2

2,030.0

1,600.0 1,079.3 1,441.9

530.0 1,335.0 1,435.3 149.3

2,145.1 2,659.6 542.0

1,550.0

2,127.4 1,126.6 1,211.0 1,401.4 29,260.0

24,360.0

6,400.0 91,741.0 369,115.0

2,650.0 13,350.0 76,068.3 4,180.0

25,741.0 143,620.0 169,650.0

10,850.0

4,254.7 51,825.0 24,220.0

74,276.0 45

12

4 85 256

5 10 53 28

12 54 313

7

2 46

20 53 Costa Cantabrica Espanola

(スペイン北部海岸)

Costa Mediterranea Espanola

(スペイン地中海沿岸)

Andalucıa(アンダルシア地方)

Francia(フランス)

Paıses Bajos

(ベルギー・オランダ)

Inglaterra(英国)

Alemania(ドイツ)

Italia(イタリア)

Madeira/Azore/Canarias

(葡 マディラ・アゾレス諸島)

Europa   Europa

  Portugal

  Portugal

  Madeira/Azore

  Portugal

 

Cabo Verde  Santo Tome

(アフリカ西岸)

Europa  

Aveiro Lisboa Oporto   Lisboa

  Lisboa

  Lisboa Oporto

 

Lisboa Oporto Setubal   Viana do Castelo

  Lisboa Setubal

  Lisboa Oporto

  Oporto

  Islas de Madeira

  Islasde Azores

 

Bilbao Deva San Sebastıan Pasajes  

  Malaga Valencia

  Sevilla

 

La Rochela Nantes   Lisboa Oporto Sevilla

 

Cabo Verde Santo Tome Portugal

 

Costa  Cantabrica Espanola 

  Costa Mediterranea 

  Espana

  Francia   Rutas hacia Africa

  Africa   Africa   Rutas hacia Grasil

  Brasil

  Rutas de Terranova 

  Rutas de La India

  Otras rutas

合計 Cabo Verde Santo Tome

Lisboa Oporto Madeira   Olindaen Pernambuco

  Aveiro Bilbao Bayonne

  Calicut La India lisboa

  Lisboa Sevilla Jamaica

  America

 

La Palma Madeira San  Salvador(アフリカ西諸島)

Lisboa Oporto Vigo   Terranova

(ニューファンドランド)

La India lisboa(インド航路)

Cabo Verde Lisboa

52 185 289 38

32 9 1610

190,675.0 64,665.0 168,060.0 11,570.0

115,300.0 13,175.0 1,685,006.0

3,666.8 349.5 581.5 304.5

3,603.1 1,463.9 1,046.6

5.8 6.0‑9.5 9.2‑10.2 8.0 8.2

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