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日本佛教學協會年報 第14号 002花山信勝「日本佛敎の發生」

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(1)

私は、今設に、至って卒明なる題目を選び、至って平凡なる結論を申述ペるに過ぎないのであるが、之を以て今回 の責を塞ぎ度いと思ふ。

題意は甚だ一や明なるが如くにして、その賓極めて陵昧であることを、自らも意識して殊更らに取り上げたのである が、此の題目の下に、戎の事柄について述べてみたいと考へたのである。 先づ第二ヘ﹁日本悌敬﹂と一再ふ用語が、比の最近、殊にしきりに用ゐられるやうに放ったと思ふのであるが、果 して﹁日本悌敬﹂と一再ふ用語が息子術的にも‘受賞であるか

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うかといふ黙である。 第こには、若し﹁日本伸教﹂といふ用語が‘皐術的にも安嘗であるとするたらぽ. それは歴史的に、何時頃から用 ゐられた用語であり‘且つ何時頃からさう去ったやろゑ考察が加へられるやうになったか、 と い ふ 賠 で あ る 。 而して第三には、たとへ﹁日本悌教﹂と一再ふ用語は、腰史的には極めて近世にはじまった用語でるるとしても、事 責上それは何鹿に費生したのであるか、と一広ふ以上の三酔舶に O いて、私見を申し越べてみたいと考へた次第である。

(2)

そとで、先づ第一の問題から申し述べるととに設す。

﹁日本悌敬﹂の概念

ル マ 悌 教 ﹂ ﹁日本悌歌﹂といふからには、それば嘗然﹁支那悌数︸﹁印度悌毅一﹁酉蔵悌教﹂﹁満蒙悌教﹂﹁セイロ ﹁欧米悌敦﹂等と‘桐封的に考へられる悌教であり、且つ﹁悌数﹂といふ一般の概念から特 一 グ イ 悌 数 ﹂ 殊化された﹁日本悌敬﹂といふ概念である可き筈である。 ﹁悌敬﹂といふ概念の外に、或は﹁悌教﹂と云ふ概念とは別に、 ﹁ 日 果 し て 然 ら ぽ 、 し 得 る か 否 か と 一 足 ふ と と か ら . 解 決 し て 行 か 喝 な け れ ば な ら ぬ 。 ﹁伸教﹂とは、抑 K 何を意味するかと一足ふに、その本来の意味は‘ 1 ﹁悌﹂によって設かれた﹁穀﹂といふととであ る可きであり、従ってそれは働陀関口広告旬、即ち稗迦牟尼悌ぬ色

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∞包岳山によって誼き述べられた敬、と 一 再 ふ と と で あ る 。 然 し ・ な が ら 、 そ れ と 同 時 に 、 2 ﹁ 働 ﹂ と た る ﹁ 教 ﹂ と 一 民 ふ 意 味 と 、

3

闘する﹁教﹂と一足ふ意味にも、理解される場合がある。 第一の﹁悌によって設かれた教﹂と云ふ意味では、﹁悌教﹂は明瞭に、盛史の上に現れた揮偉の教を意味し、卸ち 。 。 . 韓隼を中心とする悌教 A 闇がそとに展開するわけであるが、第二の﹁備とたる教﹂即ち理想的魔者とたる教といふ意 味に於ては、必やしも韓曾一人の設かれた敢に限られないととにたる。市して第三義の﹁悌盟国に闘する教﹂と一再ふ風 に解躍すると、愈主益主演範圏の数墜を、一切そとに包容するといふととになるのである。 上の第一義は、﹁伸敬﹂の保守的、形式的解躍であるに封し、第二義並に第三義は、﹁悌教﹂の準歩的、精神的解 躍であり、従って第一麓は小乗的解揮であるに封し、第二義第三義は大衆的解樟といふととに友る。若し﹁始畳﹂

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﹁本血児﹂の用語を用ゐるならぽ.第一義は始莞門的解躍であるに封し.第二義、第三義は本莞門的解眠障であると一足う oo − − 、 . 。 。 てもよい。事賞、悌教は、歴史的には韓傘を起源として費生したものであるけれども、遂に人類理想の教を以て悌教 となすやうにたったのであり、そとに﹁臆身説法﹂に劃する﹁法身説法﹂が考へられるやうにたり‘即ち﹁小栗﹂に 封する﹁大乗﹂の教が、後世に費展するとととたったのである。けれども、﹁法身説法﹂は理論として設かれるに過 ぎや、資際的には﹁法身説法﹂といふものは、感売を超えた、超認識の境域に属し、﹁法身説法﹂の賓際上の願現は、 時・慮・機・園の現賓に剖醸して、千差高別の様相をとって設かれて居るわけである。即ち、そとに印度には印度の 悌教が設かれ、支那には支那の悌教、西識には西臓の悌設、と一再ふ風に‘我が日本には郎ち﹁日本悌教﹂として設か る可きなのであり、叉事賓上設かれて来たのである。 我が﹁日本の悌教﹂は、我が日本の園土、我が日本の園民、我が日本の一言葉‘我が日本園民の思考と賓践とに邸臆 して、一千三百年の暦史の上に生 k 服々として護展を遂げて来たものであり・此の過去の﹁日本悌教﹂は、将来も亦 同様に、我が日本の圏土と圏民とに相臆した悌教として益主護展し、其のカ用を護揮して行か・なけれぽたらぬ筈のも の で あ る 。 過去の或る時代には、時に轄隼の精神に還蹄す可きととを主張した皐借もありはしたけれども、それは轄骨格の異精 神を時代に魁らして偶数界を廓清せんと欲したのであって、決して鰹隼嘗時の古代印度の原始悌数時代に立障るとと 。 。 を意味したのでは・なかった筈である。即ち、程隼はあくまでも、印度麿現の過去の備であり、その四時掌によって設き 。 。 、 、 . 、 . 0 0 0 0 一不された真理の教法を指針として、我等は躍骨骨の仰がれたと同巳理想教法に向って進む可きたのである。而して、斯 く解緯するととが、即ち虞の大乗偶数であり、﹁悌敬﹂の異賞理解であると考へる。具盟的た事貫を離れて、真理が 存したいやうに、現賓の此の我れ、現賓の我が信保、現賓の載が園家を離れて、官に浮いた﹁併設﹂ 一 般 と い ふ ゃ う

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な も の は 、 あり得ないのでるる c 併 し ‘ な が ら 、 極 く 最 近 に 至 る ま で は 、 ︷ 悌 敬 ﹂ は あ る が 、 ﹁ 日 本 悌 教 ﹂ は な い 、 と考へるのが普通であったゃうで あ る 。 ﹁白本偽毅﹂といふゃうゑとと左口にするととが、既に非事術的である、 といふ風にさへ考へられたゃうであ 0 0 る 。 ζ れには、明治以後の西洋哲闘型的思索の影響があったやうに思ふ。し加し、理想は現買なくして存在し得、でお︷ 0

憶は個を離れて存在し得たいやうに、少くとも我 A 日本人にとうでは、﹁日本悌教﹂を離れて﹁悌敬﹂一般といふや うなものを考へる乙とは、事質的に不可能たわけである。純粋理論の推求を以て使命とする﹁哲事﹂に於てすら、情 その各哲事者の個性的色彩を脱却するととが出来たいのだから.況や﹁教化﹂を以て主目的とする﹁骨骨﹂に於ては 嘗然たととでなければならぬ。 そとで、題自の第一義の結論として述べて置きたいのは、﹁日本悌教﹂といふ用語は、最近の時勢の波に乗せられて 踊り出た言葉のやうに受取れるかも知れぬが、事賞はさうでなく・我々ト恥んの L V J 苧し骨齢する悌教は、間早なる叶悌 数﹂でたくして﹁日本偶数﹂であり、此の意味からすれば酔骨貯にも亦首然﹁臼本悌教﹂と呼んで差支ないといふ酷 で あ る 。

併しながら、最近の事情について考察すれば、満洲事費以前迄は、大韓﹁悌敬﹂一般が考へられて居って、特に﹁日 本悌教﹂と云ったゃうた事は齢り考慮されたかったやうに記憶する。最近は、﹁日本悌教﹂と呼ぶととから、更に敷 歩前進して、或は﹁護国備教﹂、或は﹁皇道働敬﹂、或は﹁忠義哲回申﹂と一耳ふ風た呼稿が、皐人の聞にも盛んに用ゐら とれは極︿最近の園家情勢に順醸した悌敦皐人の態度のやうに見える。 れるやうにたってゐるが、

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本、日本悌敬接協舎の設立は、満訓事費のはじまる四年以前・国ち昭和三年であるが‘その昔時作られた﹁日本悌 殺闇申協合合則﹂第一僚には 本協曾ヲ日本僻教皐協食︵叶

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ロ ∞ 足 。 伊 豆 河 内 W 印

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﹀ 回 目 。 丘 町 込 山 。 ロ ︶ ト 稽 ス 第 一 一 保 とあって、英語課の舎名によると吋

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。ロが附加されて居るのである。 イ ギ リ λ ド イ ツ フ ラ ン ス ﹁英蘭﹂﹁謂逸﹂﹁伸蘭西﹂等の園名左嘗て L も差支へたいのであって、 即ち﹁日本﹂の代りに・ ﹁ 併 教 ﹂ に づ い て の、世界的接術研究の一部門として、我が﹁日本﹂もとれを捨雷するといふ意味に於て採用された合名であったので ある。それは二十世紀に於ける・世界的墜術研究の通念であり、その通念に従って設立された我が日本に於ける﹁僻 較﹂研究の皐術協舎であったわけである。今日の時勢からすれば、恰も﹁日本悌教﹂の態的協舎の如くに見えるが‘ マルキスト運動の飴波が、備教界にも影響して、或は﹁日本反宗教同盟﹂の 決してさうではないのである。その後、 結成ハ昭和六年︶となり、或は﹁併殺法制経済研究所﹂の設立となり、乃至﹁新興悌教青年舎﹂の護舎を見る等に及ん だ が 、 満 洲 事 費 ハ 昭 和 七 年 υ を契機として、我閣の文部省自ら進んで教育と宗教との関聯について考慮左用ゐるやうに な り ハ 昭 和 八 年

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﹁園民精神作興ニ闘スル大詔﹂換護十週年紀念ハ昭和へ年十一月 U を切掛として‘園民精神運動がしだ い に 勃 興 し 、 一 フ ヂ オ の ﹁ 悌 教 修 養 ﹂ 講 座 ハ 昭 和 九 年 三 月 ﹀ や 、 ﹁ 日 本 精 紳 文 化 ﹂ ハ 昭 和 九 年 二 月 、 河 出 書 房 ︶ ﹁ 日 本 精 神 研 究 ﹂ ハ 同 年 六 月 、 東 洋 普 段 ﹀ ﹁ 日 本 精 神 叢 書 ﹂ ︵ 同 年 十 二 月 、 文 部 省 思 想 局 。 後 一 一 ﹁ 白 本 数 拳 叢 書 ﹂ ︶ と 一 足 っ た 、 ﹁ 日 本 精 神 ﹂ を 主 材 と し た種 K の叢書が謹積出版されて、以て現時に及ぶ﹁日本精紳﹂運動が展開したのである。そとに、或は﹁日本主義﹂、 或は﹁紳道主義兄或は﹁圏史主義﹂が勃興すると共に、悌教徒の側た於ては、聖徳太子を以て﹁和園の教主﹂と仰ぐ 一日本備教﹂運動が撞頭したのである。或は﹁聖徳太子﹂に闘する論著ゃ、或は﹁日本悌教﹂に闘する連作等が相つ ﹁聖徳太子﹂を主とした﹁日本悌教﹂闘係の講習舎や講損舎が諸鹿に於て要求されたのである。悌教聯合 い で 現 れ ‘

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舎の費行にか t A る﹃日本精神と白木伸教﹄ハ昭和九年十二月、矢吹擾輝著﹀が、最もよく此の時代相を物語って居り、その 中には﹁聖徳太子の偉業﹂﹁皇室と悌教﹂﹁鎮護園家と日本悌教﹂の如き章節が取上げられたのである。岩波の﹁東 洋思潮﹂講座の中に、﹁日本悌教の特質﹂の項目が採用されたのも、その頃ハ但し刊行は昭和十一年五月︶であり‘大日 本悌教青年舎がその舎舘として二百高園の﹁太子殴﹂建設を費願し︵昭和十年四月三縫いて第一回の﹁太子祭﹂を昭和十 二年の二月二十一日花々しく築地本願寺に開催したといふやうな、全日本伸教青年の賓動にまで護展したのである。 ﹁悌教の日本的展開﹂といふ書物ハ昭和十一年九月、佐藤待二著﹀が、如何に版教を重ねたかといふとと、叉現に遺元の蹄 が我が毅閥単の基本であるかの如く考察されてゐる事賓等は、一切是れ皆、﹁

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本精神﹂の勃興に刺激されて目醒めた、 ﹁悌歌﹂から﹁日本悌敬﹂への自畳であると云ってよい。 以上は.極く最近の、満洲事費を契機としての、 ﹁日本悌教﹂の自畳について略説したのであるが、果して然らば ﹁日本悌教﹂の自畳は最近の事柄に属し‘過去に於ては此の事賓が全然なかったのであらうか。と一足ふに、決してさ うではない。外に﹁日本精神﹂の昂揚す可き刺激を受けた時には、必や内に﹁日本伸教﹂の自畳が伴ったのである。 しばらく明治維新以後について之を翻るに、明治維新に際しては﹁悌法ハ天竺ノ悌法トノミ言ヘカラズ。乃.皇閤 ノ 悌 法 ナ リ ︸ と 主 張 し た 長 岡 謙 士 口 ハ 閑 愁 録 、 慶 臆 三 年 刊 U があり、日清戦役首時には﹁抑悌設はその開立は印度にありと 雄も開組樺寧滅後一千有徐年後山川を蹴渉して支那に侍来し叉朝鮮に移り日本に渡来す日本に渡来してより千三百有 。 。 。 。 齢年日本閤家と盛衰を共にし来り今や釜主謹んで日本悌教の名を以て世界を摩一倒するの趨勢をなせり﹂と論じ、或は ﹁日本国敏郎ち恥和⋮仲秘の開組と稿すべき人は果して誰とかたす骨骨竿是れ其人たり﹂等と説いて﹃蹴日恥骨骨歴 史 ﹄ 一 容 を 共 に 著 し た 相 津 間 明 並 に 渡 、 控 室 麟 ハ 明 治 二 十 八 年 九 月 刊 υ があり、その年の春、即ち明治二十八年五月には雑 誌﹁四明絵霞﹂八九競に水谷仁海が﹁日本の悌教は印度の悌教と異たるの説﹂を費表して居るのである。市してそれ

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は、その後明治三十四年二月の﹁四明儀霞﹂に掲載された前田聾雲博士の﹁日本悌教の特色﹂、及び明治三十九年六 月の雑誌﹁無重燈﹂に掲載された村上専精博士の﹁日本併設の特色﹂に迄及ぶ﹁日本悌敬﹂自費の一面であると見て よ い 。 前田博士は、その論文の中に於て、我が﹁日本悌教﹂が印度や支那の悌教と相違してゐるととを主張せられ、その 特色としては﹁賓行的であるとと﹂、即ち﹁世間国備法となった﹂賠を指摘されて居る。従って、我が﹁日木悌教﹂は 悌教を弘める者の側からは、その偉﹁園家を擁護する﹂ととにたると設かれた。村上博士も亦﹁悌教は本来印度の産 であるけれ

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も、その各地に停播するに随って、時と鹿とに醸じて一種の特色を帯びて費達して来たもの﹂であると とを設かれ、我が臼本悌教の特色としては、 1 ﹁初めから恥白骨昨観念の下に停播したのであり、その後の褒濯も酌勲 との密接な関係を以て今日に至った﹂ととを各時代の事蹟左奉げてとれを澄明し、 2 ﹁悌教教理の種展についてみれ ぽ密教・浮土教・坐棺修養法の三種の盛観は、我が日本の悌教に於てのみ見られ、部ち賓際的︷一目数的方面が護展し た ﹂ と と を 設 き 、

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﹁停教畢生の霊力によって大乗戒壇が比叡山に建てられて以来、我が日本悌教は大乗戒を以て一 般借風を整正するとと L たり、絡に真宗の開組親驚より公然肉食妻帯するとと a ふたった﹂とと左畢げて、以上白本の 伸敬は︵一︶園家的関係の密接なるとと︵二︶賓際的宗教的方面の殻展したとと合一︶大乗戒の賞践から肉食妻帯に 及んだととの三賭を拳げて﹁日本悌教の特色﹂とされた。それが明治三十九年六月、即ち日露戦役絡了の年に靖氏表さ れた論説である黙に、殊に吾人の注意を惹くものがある。 日露戦役の終った明治三十八年から﹁靖園紀念﹂として刊行された﹃大日本積蔵経﹄たる一大伸敬叢書があるが、 その題名の中に於て既に﹁日本﹂的自畳を見るととが出来るのであり、殊にその時の企劃の中に第二輯﹁日本部﹂が 第一輯﹁支郵部﹂と併せて考へられたのであり、賓際的にはその﹁日本部﹂が後に切り離されて﹃日本大騒経﹄四十

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八袋ハ別に目録一巻と解題二品種︶となうて、明治末年から大正年間に亘って刊行されるととになったけれども、思想的に は﹃日本大蔵経﹄の編纂は日露戦役の官時昂揚した﹁日本精神﹂の櫨績なのである。その序文の中に、松本文三郎博 士は﹁日本の伸教も其の淵源する所を尋ぬれば‘国より印度支那から来たものであるから、其の末流と云って差支な い。併しながら日本悌敢には亦自ら其の特色がるって、決して伎と全然同一視する器には行かぬ﹂とも、﹁日本伸教 は賓に印度、支那備敬思想の一結論であり、復英正眼である‘故に日本悌教は一種特殊の地位を有す﹂とも説いて、 ﹁白木偶敬﹂の謂自性にういて指摘された。叉その賢際に編纂に首った中野建慧氏の﹁悌敦閣の牛耳をとる我がわか 本帝国特有の日本大蔵経﹂の編纂に闘する抱負の中にも、揺く可き卓設がある。即ち日露戦役による﹁日本精神﹂の 興隆に由来した﹁日本悌教﹂の白魔が、﹁日本大蔵経﹂の編纂といふ未曾有の率的事業左誘輔氏せしめたのであり、それ に引き績いて﹃大日本悌数金堂百﹄百五十巻ハ別に別倉十本と目録一品種ゾ編纂の事業が起り、大正の末年から昭和にかけて ﹃姻来あ件秘叢書﹄二十径が刊行され‘その序文の中に鷲尾一順敬博士は﹁孔山中引の件秘は日本の民族が印度・西域・支 那・朝鮮の悌教を獲て、自ら大に研究精錬したる結果である。とれは賓に日本の民族が世界に誇る可き一大文化的産 物である﹂︵大正十四年一一一月︶等と述べて、日本の併教師ち﹁東方悌教﹂の謂自的意義と債値とを主張された。尚、河 野法雲氏は﹁日本備教の特色﹂を大正四年十一月の雑誌﹁無量燈﹂に稿思表せられ‘薗田宗恵氏は同じく﹁日本悌教の 特色﹂を大正五年から六年に一旦る﹁蹄肇雑誌﹂上に掲載された。而して、是れ亦我が日本が第一,次世界大戦に参加し た前後に於ける費表たのである。 以上は、或は明治の維新に際し、或は日清.日露.日摘の戦役に際し、我が日本因家の封外的興隆と共に昂揚した ﹁日本精神﹂が、過去一千三百年の鹿史乞もつ我が﹁日本の悌敬﹂にも及んで、調はゆる﹁日本併設﹂の自費とな h ヘ白畳した﹁日本備教﹂の立場から過去の﹁悌教﹂左見直すといふととにたったと考へられるのである。市してそ

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れが現代に及んで居ると観てよい。勿論現代の悌教接舎に封するゆ山町山町影響の強いととは認めなければならぬでそ れとともに過去幾百年間に亘ってる一く忘れよ去られて来た﹁日本悌数﹂本来の立場が漸く愚人によっても意識されて来 たととを見越してはたらぬのである。 備、現代に於ける﹁日本悌敦﹂の白畳について忘れてならぬのは、故島地大等先生の東京帝園大墜に於ける大正八 年度の講義﹁日本悌敬本魔門思想の概説﹂ハ後年遺蒋として刊行︶である。日本伸教の金曜を﹁本血児門思想一といふ立場 から組織閥系づけられた接的努力は‘前後に例を見るものがたい。それと共に、先生の﹃日本併教教思史﹄の影響の 大なるととも忘れてはたらぬ。先生は‘その序論の中に於て、日本伸教の特色として左の四黙な暴げられた。 1 ﹁ 錦 教が最初より日本の閤樫を理解し、国家本位、皇室本位とたり、吹第に益主一位舎に接近するに至った﹂

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﹁ 最 初 よ り 最高の教製品在有し、事賓上最高の哲皐宗教道徳を宣べたため他の教皐は一切とれに包容され.神遣には本控思想すら 願れるに至った﹂ 3 ﹁定感?の傍持、即ち宗教悌教であり、備費中心の悌設である﹂ 4 ﹁印度伸教の無限思想を有限化 するに努め、支那伸教の宜際化‘単純化に努めた﹂との四期である。而してそれは、明治初年以来叫ばれて来た﹁日 本僻載の猫自性﹂の自費、並に﹁日本悌教の特色﹂について種 k に考察されて来た諸論誌の締結論でるったと一民って よい。而も﹁日本悌款の謂自性﹂ゑり、﹁日本悌教の特色﹂なりが考へられた時には、常に必歩﹁和園教主﹂として の聖徳太子が持出されたのである。 ﹁日本悌敦﹂といふ用語の使用は恐らく明治以後と思ふが、さういった意味は既に﹁日本悌敬﹂の費生と同時に起っ たのである。而してそれは聖徳太子の﹃コ一経義疏﹄中に於て見る印度及び支那悌款の批判的時取といふ黙に於て極め て明瞭であり、奈良時代にも、龍樹から嘉静注祖師と仰いだ三論宗の智光が嘉詳の﹃博名玄論﹄友略述しつ L 嘉群以 叉賓龍三年に誠明、徳楕等が入唐に際しては太 上に和圏太子のコ一経義疏を指南として常にとれを引詮したのであり、

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子の三経義疏に﹁此是大委園上宮王私集非海彼本﹂と特筆大書して支那にもたらしたのであり、殊に外来の悌教が我 山か白木の園教的地位にまで高められるやうになった、時のみかど聖武天皇の一興隆三賓の御聖業を以て聖徳太子の御 再来と仰ぐ信仰をさへ生み出したのである。平安時代に天台法華宗を建立した最澄が﹁海内求縁力、陣心聖徳官﹂と 太子を仰いで日本の天台宗乞建立したととは飴りにも有名であり‘虞言宗には空海や聖賓を以て太子の後身とする信 仰を生み.﹁五館長茶羅﹂や﹁聖皇盈茶羅﹂の如きものを繕がくやうになった。鎌倉祭西の興開は片岡飢人を通して 太子に聞係づけ、明遍、詮室、親驚.一遁等の念備も亦観音化身設を通して太子に結び付けて費生したものであっ た。日蓮が太子を本邦法華侍遣の先臨と仰いだととは云ふ迄もない。斯くして鎌倉の諸聖は、悉く太子を以て我園働 法の砲師と仰いだのであって.華巌の宗性、提然、三論の聖守、澄輔、律の答品峰、良観等も、亦皆同様である。就 中、親驚、提然.客等等が顕著であるが、それは只濃淡程度の相遣に過ぎぬのである。太子に侵託した備書が鎌倉以 後盛んに遣られたといふととも、太子を以て﹁和闘の教主﹂と仰ぐ信仰の増大が結果せしめたわけである。江戸時代 は儒曲学・聞製等の復興により、﹁日本悌教﹂の自置は、奈良・平安・鎌倉の各時代に於けるが如きものは無かったが 明治維新以後は前述の如く、実第に強まり、殊に明治三十六年が﹁憲法十七保﹂費布一千三百年.大正十年が麗去後 一千三百年に相官して、夫 k 或は日露の大戦を目前に控え、或は世界大戦に大勝利を博して、我が園民精神の最も緊 張し、或は園出家意識のいやが上にも昂揚した際でもあったために、聖徳太子崇仰の運動はその高波に乗って普及し、 太子の崇仰は同時に﹁日本悌教﹂の白血死となって展開したのである。 要するに﹁日本悌敬﹂が聖徳太子に費生したといふ考へは‘今ではる一く一般の通念となり切ったのであり、而もそ れは過去一千三百年の我囲内悟史が実第に賓詮して来たととなのである。故に﹁日本悌散の白血死﹂は決して最近に拍 まったのではたく、既に﹁日本伸数﹂琵生の昔時に聾生したといふととになるのである。

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義疏に見ゆる

﹁日本悌数﹂の殺生

聖徳太子の﹃一二経義疏﹄は小野妹子を陪に遣して多くの参考す可き註轄を取寄せられ、就中梁朝光宅寺法雲等の設 に依って撰述したまうたものであるととは今や一般周知の事柄に属する。而も彼等の揮を﹁本襲﹂ 等と呼び O L も.而も伺ほ彼等の所説乞﹁今須ゐや﹂、彼等の所設と﹁大いに異たる﹂等と特記して、太子調自の﹁私 懐 ﹂ 説 、 ﹁ 本 韓 ﹂ ﹁ 本 疏 ﹂ ﹁私意﹂設を堂々と述べたまうてゐらせられるととも、亦人の皆知るととろである。その太子の読き述べた まふ御白設の中に於て、支那の詰躍家や印度の本経中に見られない.我が日本猫自の解轄の多いととも、亦今改めて 誌に説明する要がたい。然したがら、それ等の中に於て、特に今回の題目に関係ありと考へるもの二三を孝げて、本 題意の第三義に答へるとと与する。 そ の 一 ク へ O O ヲ 太子は﹁憲法十七保﹂の第二僚に﹁篤敬ニ三賢一三賀備法借品﹂ 之極︷一万﹂と仰せられ、更に﹁何世何人、非レ貴ニ是法こ ル パ O ノ @ ヲ ヘ絡には﹁非レ貴ニ是法こと結んで、 と 示 さ れ 、 と 受 け ら れ て 、 旦 そ

ヨれ

逼喜三 良工直 者 ち 悌・に 法・「 借・則 , 』 チ

巴四・

と 生 ・ 朝、之、

詰経−

, , 5並走、. ・せ同;= ら 主 れ 高 ・ 0 圏・ ﹁備法借﹂の三賓を﹁法﹂によって統一したまうたのである。即ち一三賓の中 心が﹁法﹂にあり、したがってその﹁法﹂は﹁回生之絡師、高園之極宗﹂たる所以とたる。

それは、太子の﹃勝置経義疏﹄の一一束章の初にご乗是一睡三費之図、一程コ一賓是一一飛之果﹂と仰せられ、更に − − − 一 シ チ ズ レ = ハ ノ ハ て ν ユ ハ ﹁昔日梯控三費及五乗之別、同是方便之設非ニ是賓設

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とも‘叉﹁昔日梯桂三費、非ニ是究寛司﹂とも仰せられて、 グ ノ ‘ . 、 . . . 7 ス 。 。 。 。 ト 0 0 0 0 ﹁唯今日常佐一位、角二日脚依之極一也﹂と仰せられであるととると一躍たのである。即ち義疏に於ける﹁蹄依之極﹂

は、憲法の﹁四生之格闘‘高閣之極宗﹂と同一躍であり、憲法の﹁備法借三貴﹂が﹁法﹂に統一されてゐるのは、自

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ち義疏では﹁常佳一盟﹂と言ひ詮されて居るのである。悌法借の別曹三賓が如何にして一韓三賓となり得るかについ て は 、 更 に 一 一 燕 章 臨 時 の 絡 に 太 子 の 明 瞭 た 御 自 躍 が あ る 。 レ y モ ハ チ ノ ナ ル ガ ュ ・ ・ シ ナ ル グ ナ ラ パ ヲ テ カ シ ナ リ ト 即ち﹁然、別盟三費、則其名煙各主具、故理白可レ別。但、一盟何以潟レ別﹂と、自ら聞を出して躍したまふ ク テ グ ‘ . . . . ヲ ス 0 0 トノク−−ノ.‘.タレパオラ 9 0 0 ト チ グ 。 に、﹁種目。常住法身詩ニ併賀 4 此法身能詩レ物軌則、自第二法賓 4 又此法身則能奥レ理和 0 て居られる。部ち﹁常住法身﹂がそのま L 衆生の軌範たるととるが﹁法﹂であり、更にその﹁常住法身﹂が叉そのま ザ ン ガ 主翼理と和合ハ伶伽︶するととるが﹁僧﹂である、との御解樟である。故に﹁常住法身﹂の外に、﹁法﹂があり、﹁借﹂ があるのでたく、﹁常住法身﹂がそのま t A ﹁法﹂であり、﹁借﹂である。故に﹁悌﹂賓は、同時に﹁法﹂賓であり. ﹁借﹂賓であるので、此の三は完全一躍の三賓なのである。主︿の故にとそ三は平等に﹁賓﹂と稽せられ得るのであ り‘義疏にはしばらく﹁法身﹂を中心に説明してあるが、憲法の﹁法﹂を中心とした一慎一一一賓と影略五顧の三賀轄と 観てよい。三者が異に常住一躍であるたらぽ何れを中心に説いても同じととである。勿論一韓三賓の思想は勝軍本経 に穫するわけだが、斯くも明確にその思想の玄底を把捉して表詮されたのは、太子の義疏に於ける特徴である。而も シズレペヲエハノヒヲシガヲチタモツテシトスシルハハ O O Z 4 A それにつどいて﹁若辞ニ腸依↓詩ニ其習レ解断 c惑‘則別腫可レ先。但不レ迷ニ回目蹄↓必一睡詩レ要。今勝重唯欲 0 0 7 0 ン ト O ト = シ テ ノ ヲ セ ル ノ ヲ 旨踊一詩歩本、故非ニ昔日梯桂−唯欲ニ今日一盟一也﹂と、調自の説明を加へて、﹁旨蹟得本﹂の立場から﹁一韓三費﹂を 0 0 0 0 謹取す可き要を勝重に託して設かれたのである。我が﹁日本偶数﹂が﹁旨踊詩本﹂を以て展開する過程は今拾に説明 す る 要 は な い が 、 ﹁三間晶子一一線﹂の宜践悌教として展び行く﹁日本偶数﹂の地盤が確乎と築かれたととを重観したけれ ば た ら ぬ 。 更に﹃勝髭﹄の﹁常住法身﹂は、﹃法華﹄の﹁書量長選悌﹂である。それが、奈良伸敢には﹃華巌﹄﹃党網﹄の﹁見 慮舎那悌﹂、平安悌教に於ては天台﹃法華﹄の﹁久建賓成大牟尼簿﹂と真言﹃大日﹄﹃金剛頂﹄の﹁法身大毘車遮那如

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来﹂とたり、鎌倉悌教に於ては静土教の﹁阿繭陀如来元日蓮﹃法華﹄の﹁久遠本門悌﹂等として、我が﹁日本悌数﹂ の理想果瞳としての信仰封象と展開する。而してそれ等が、現に南方備敬語閣に於ける印度障現の﹁稗傘﹂を唯一割 象とするものと異ゑる賄を思へば、一韓三賓の﹁常住法身﹂を仰がれた聖徳太子に避する﹁日本伸敏﹂の特性が知ら れ る の で あ る 。

0 9 V テ ヒ − − 、 メ ダ マ フ ‘ . 、 . セ 、 . 、 ヲ ノ キ ノ コ 3 z e ト 我が﹁日本の備敢﹂は、推古天皇第二年春二月﹁詔ニ皇太子及大臣﹁令 ν = 隆 三 費 ↓ 是 時 . 諸 臣 蓮 等 、 各 主 骨 ; 野 3 ト D O ノ ヂ ル ノ タ チ タ フ ト 親 之 恩 ﹁ 競 謹 ; 備 会 一 郎 是 調 ν寺震﹂と﹃日本書紀﹄に見えて居る如く、﹁詩−一君親之恩こに興隆せしめられた悌較で ある。そとに自ら、我が日本の悌教は、我が日本の﹁園﹂と﹁家﹂との密接た闘係の下に護毘せぎるを得たい出費貼 がある。したがって、我が日本最初の借とたった鞍部多須奈は用明天皇の都惜の一や安を前らんがために出家し、我が 日本最初の寺島十即日︷やは四天王の我が国家擁護を念じて朝敵物部氏滅亡の土地に建立せられ.現存最古の砂怪やも亦 用明天皇の御遁踊のために謹立された薬師伸像奉安の御堂として建てられたのであった。 聖徳太子は﹃憲法﹄の第一僚に於ての貴む可きととを強く割へたまうたのであるが、その中に﹁或ポ一順一 。 。 。 。 科会︺と云ふ御言葉がある。我が圏に於て﹁君親﹂﹁君父﹂の命に従ひ、その恩に報ゆ可きととは‘天地の存穫す る限り永胡に費つてはたらぬととなのである。それは太子の﹃憲法﹄に於て、叉先の推古天皇の﹃詔﹄によっても明 ジ シ 。 。 ﹁ 世 掌 我 従 一 一 今 日 一 乃 至 ニ 菩 提 4於 ユ 諸 寧 長 田 不 ﹁ 和 ﹂ 瞭に示されて居る。 勝童夫人が十大受を趨ペらるる第二に 。 。 レ超一一慢心一云#﹂と誓って居られる、その﹁隼長﹂の二字を嬉して、太子は 三鹿詩 ν 寧.兄秩露レ長 し た が っ て 、 ・ と し て 居 ら れ る 。 タ ス ト ト ト ハ フ 。 0 0 7 ﹁一二島﹂とは、唐の明室が轄して﹁ご一鹿篇レ傘等者、等調ニ君ザ︿師−﹂と説いて居るやうに、即ち

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﹁君﹂と﹁父﹂と﹁師﹂との三を太子は﹁愈むべきもの﹂と樺せられたので、 ﹁君﹂を第一に、共に﹁父﹂と﹁師﹂ とを事げられたのである。勿論.太子の今の御解糧も、支那の詰躍を参考されたに相違ないと思ふが‘現存する勝軍 経の詰轄では幸ぴ嘉静の﹃勝髭費窟﹄の中に、上と類似の説明がある。故に嘉群の躍も‘亦その由来するととるるう たに相建たいと考へる。ととろが、その嘉詳の四時では ‘ . ト 、 t F 2 7 シ ト ト ト ダ ス ト 師父詩レ隼.兄姉詩レ長 とあって、太子の﹃義疏﹄の轄と明らかに同文に由来する義轄と考へられつ L .その相違するととるは嘉詳の﹁師父﹂

が太子では﹁コ一鹿﹂とある賠であり‘支部の﹁師父﹂が日本で﹁君師父﹂と襲ってゐる駐が殊に注意させられるので ある。支那では往々にして﹁君﹂が﹁傘﹂となり得ないとともあるが‘我が日本国に於ては﹁君﹂は永遠に結封でる り、﹁父﹂﹁師﹂よりも前に、第一に﹁傘﹂の封象とたらねば友らぬととは、云ふを侠たぬ。太子が﹁師父﹂の上に ﹁君﹂を加へたまうたととは嘗然である。故に我が﹁日本の悌教﹂は、その後奈良・平安・鎌倉・現代に於て、その 意味と方法とに於ては夫々の時代相躍の立場佐取ったけれども、常に﹁鎮護圏家﹂を旨として展開したのであり、是 れ亦太子から議したととを忘れてたらぬ。更に太子は掃受正法章の粧の方にある﹁枠仲﹂を樺して簡単に −F A ,.‘. 捨財、調身外之物 1 c 設をたまうて居るが、とれ左嘉群の﹃賓窟﹄が J J

・ − 、

. . 7 グ チ ス タ ユ ス ト 自身命外、閤城妻子、悉以施 ν 、 話 コ 輪 一 財 一 み一躍してゐるものと比べ考へるとき、太子も亦恐らく﹃費窟﹄の如き解四帽を興へた註疏を御覧になったに相遣ないと 思ふが、﹁圏域妻子﹂起をも他人に施すといふゃうた寅践は印度や支那に於てはいざ知ちゃ‘少くとも我が日本聞に 於ては箕似る可きでたいと思召されて簡単に﹁身外之物﹂と耀せられたものと考へられる。而してそれは亦太子の御

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生涯の上に充分伺はれるのであり、﹃法華経﹄に﹁園王・王子・大臣・官長に親近ぜぎれ﹂とあるを醸して、 ﹁是瞬慢蹴﹂と揮しであるが、鴎慢の誌となるが故に是等に親近したいといふととよりも.摩ろ親近しつ L 瞬慢の践 とならぬやうに心掛けるといふ‘大衆菩醸の立場を取られたのが太子の僻較であり,その都一生であらせられたので 単 に る る 。

備毅は、印度に於て鰭隼の滅後、小栗から大乗が展開し、更にその大乗が小乗相射の大衆といふ貼左誇張したとと ろから、更に三乗から一乗へと議展したのである。而してその闘係は、大館支部に於ても掠糧承された。したがって 我が日本に悌教が輸入された官時は、既に印度及び支那に於て一一燕思想の国熟しつ a A あった時代たのである。したが って‘﹃勝髭﹄﹃法華﹄﹃華巌﹄﹃浬螺﹄﹃般若﹄﹃無量露﹄といったゃうた経奥に盛られた思想が時代を風醸したのであ り.我が聖徳太子も亦嘗然それ等の一一燕経典を採用して﹁日本悌教﹂の基本と・たしたまうた。我が日本園の、上郷一 人を絶艶と仰をたてまつり、園民を一視同仁したまふ大御心は、大小の相封を超えた翼貫一乗の教法によって‘始め と説く異質一乗であり、 て説明するととが由来るのである。邸ち ﹁無二無コこと表詮して居る異質一一飛である。太子の御草本﹃法華義疏﹄の中で位、殊更ら修正を加へて用ゐられる やうに怠った﹁一大衆﹂の教法である。 此の太子の﹁一大乗﹂の日本備教が.奈良時代には聖武天皇の﹁華厳一乗︸とたり、平安時代には最澄の﹁法華一 乗﹂空海の﹁不二車詞街﹂金剛乗となって.天皇陣一の湾民一一架精神を、外来臨化の閤民心地にまでも深く植ゑ付け た の で あ る 。 而 し て 鎌 倉 に は . 法 然 の ﹁ 念 悌 一 一 飛 ﹂ 親 饗 の ﹁ 本 願 園 頓 誓 願 一 一 架 ﹂ 道 一 冗 の ﹁ 悌 心 一 一 束 ﹂ 日 蓮 の ﹁ 法 華 本 一大衆群山の中に祇生した各自の一一無峯が、聖徳太 ﹃ 勝 髭 経 ﹄ の 中 に は ﹁ 純 一 大 衆 ﹂ ﹃ 法 華 経 ﹄ に は 門 一 乗 ﹂ 等 と た っ て 、 一切衆生の平等成悌を主接したのである。

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子に費生したつ日本悌敬﹂の展開として整え立つこと与なったのである。 ては、既に九年以前‘山口回大串に於て開催された﹁日本宗教墜舎﹂の大舎に於て述べたととるであり、現在では既に多 くの事人にようて採用されてゐるととであるから‘之を以て省略する。 ﹁日本側教の基本としての一大衆﹂につい そ の 四 ﹁日本の悌敬﹂は園家に印して費生したといふととは、即ち大乗菩薩遣を賓践するととに費したといふととにたる。 是れ剖ち﹁民俗一貫の菩薩道﹂と稽す可き悌設である。戒・定・慧の三串は印度及び支那僻徒の寅践規定であり、経 論理の中には極めて複雑な賓践法が設かれて居る。それを文字通りに寅践するには、官然﹁圏域﹂を捨て、﹁妻子﹂ を棄て与、濁り出家修行の生活を行予るのでたけれぽ‘到底不可能である。 太子は﹃法華経﹄安繋行品の﹁後世﹂﹁謡世﹂に於ける﹁四安業行﹂を取り上げて﹁今此四札立前口一行町宮レト小、低 ハ 卓 ’ ν ・ . ‘ . ‘ . ハ ユ ス ン ト タ グ ス ヲ ハ グ グ ハ ユ ス ノ ヲ 一 慈 悲 行 則 是 外 化 行 。 菩 薩 之 道 、 持 ν 欲 レ 正 ν 他 、 先 正 ユ 己 身 サ 正 レ 己 之 要 、 莫 ν 如 二 三 行 ↓ 高 行 昨 一 札 H 要 ハ 必 ス や げ ル ノ 一 、 一 ん や 一 一

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﹂と詑き給ひ、此の身・口・意の自の三善行と慈悲詩本の外化行と‘即ち﹁正 シ グ セ レ 己 ﹂ ﹁ 正 ν 他﹂のこ行を以て天下の高普を組べられたのである。而も﹁菩菌若能修三此四行﹁上則詩三諸悌所二稽嘆円 ハ チ ・ ‘ . ノ ハ チ ‘ . 、 ノ レ V モハレ Do − − ハ 中則潟三諾天所二護念↓下則詩口一諾入所二供敬こ等と稗揚せられ、﹁然此是私意、本鶴少田ごと附設して、光宅の﹁本 稽﹂に少しく異なる太子の御﹁私意﹂聴であるととを明記してゐらせられるのである。 亦屡主此の﹁正レ己、正レ他﹂の二行の費践を勧めてゐらせられるのであって、他人を導くためには先づ自己を完全た らしめ友けれぽたらぬといふととを常に誠められたのである。したがって、それは後に、孝徳天皇の大化二年の改新 の詔勅の中にも採用したまふ御大雪ともなって﹁凡そ治めんとする者は‘若しは君、若しは臣ョ先づ官に巴を正しく して後に他を正すぺし。如し自ら正しく合宮れぽ、何ぞ能く人を正さん、云々﹂と見えて居る。

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自己完成は他我の完成を以て目標とする大衆窓口蕗誼の賓践を.地に行かんとせられたのが即ち聖徳太子の御生涯で チ チ シ ‘ . 夕 、 . チ ・ − − ・ ス 、 . タ チ ラ シ ム ル ハ ヲ ヨ ヲ ス ノ 孟 あり、従って﹃維摩経義疏﹄の中には﹁菩薩行淵成伸、還入レ中施レ化﹂とも﹁動取二部土﹁本非エ自得−﹂等と設 かれて,此の現賓の日本国土を離れて遠︿仰の世界に遊ぶといふやうな櫛考へ方はたく、飽くまでも此の闘士の臣民 左導くとの御精一脚に住したまうたがために﹁成伸しでも、再び此の園に還来して衆生の中に化を施す﹂といふ御解躍 を輿へられたわけである。叉若し設に﹃法華義疏﹄に於ける﹁常好坐調、在於ユ閑鹿一修ニ揖其心この御解躍を忠ひ浮 一層太子の民俗一貫、大衆菩躍の国家に卸した化他行の御精神が理解されると思ふ。即ち﹃法華経﹄の べ る な ら ば . 諸法質相の虞精神から、此の世間と彼の山間とを区別して山聞の坐聞を以て成備の遣と考へる小乗的賓践を﹁顛倒分 −フ 7 ・ 夕 、 シ ‘ . ト 、 . ‘ . 7 ・ ‘ . ト 別の邪見﹂と排し、﹁演 ν 物詩レ先﹂﹁慈悲詩 ν本﹂の大乗菩薩遣を高揚してゐらせられるのである。又﹃勝童経﹄

中身・命・財の三拾によって、﹁不壊常住不可思議功徳如来法身﹂等乞﹁得﹂るとるる﹁得﹂の字について、太子は − − フ ト ク ム ル ヲ シ 予 ﹁此言レ得者、謂令い得二衆生司ぬとと躍して居らせられるが、とれが叉﹃法華経﹄の﹁常好坐栂﹂四時のやうに、太子御 調自の破天荒の御轄訟のである。支那の古註疏は悉く﹁自得︺の立場に於て躍するのであるが、我が聖徳太子のみが 0 0 と解したまうたのである。﹁拾三の行人﹂が﹁掃受正法﹂の正法と相即するためには 濁り﹁衆生をして得しむる﹂ ﹁拾﹂のみを見て﹁得﹂を語らぎる﹁成就衆生﹂の震の大乗菩蕗にして始めて説を得る解臨時なのである。今、是等の 詳細については遺憾・ながら省略せぎるを得ないが‘要するに聖徳太子の﹃一二経義疏﹄の中には‘支部皐匠の諸註疏の 中に到底見るととの出来たい.極 u u て大謄にして濁自た御解轄が多 k あ る の で −

bb

、そとに自ら我が﹁日本僻駿﹂が ﹁和闘の験生﹂と昆閉められたまふととも‘罫笠た h v 一 広 ふ 可 き で あ る 。 都 民 生 ず る の で る る 。

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昭和十六・±・

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参照

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