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中央学術研究所紀要 第41号 004眞田芳憲「日本における宗教教育の現況と課題」

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はじめに

 本稿は、2012年5月18日、韓国大真大学で開催された韓国宗教教育学会国際シンポ ジウム「世界宗教教育と人権」において行なった基調報告に若干の補足修正を加えた ものである。本稿では、先ず、日本人の宗教意識の今日的特質と問題点を摘出し、日 本における宗教教育の現況を梗概する。ついで、人類の現代的課題としての倫理の復 権に論及し、インターアクション・カウンシルの『世界人間責任宣言』の現代的意義 に言及した後、最後に、私自身の宗教教育の実践から得た知見に基づき、いま、日本 の宗教教育に求められているものについて私見を述べることにする。

1 日本人の宗教意識

 日本は、神道・仏教・儒教の共存の歴史的伝統の下にキリスト教やイスラームが混 在し、豊かな精神文化を形成し、日本人の生活伝統の中にさまざまな宗教現象が綾な されてきた。しかし、その一方で、日本は明治時代以来の近代化の流れの中で急速に 世俗化し、いわゆる「宗教離れ」現象が顕著になっている。  日本人の宗教意識を多年、研究してきた井上順孝教授は、1945年と50年後の1995年 との時間の流れの中で日本人の宗教心の変化を分析し、その変化の特徴を次のように 結論づけている。すなわち、青年層の宗教離れ、さらにそれが進んで青年層の宗教・

眞 田 芳 憲

はじめに 1 日本人の宗教意識 2 国家法秩序における宗教教育の位置づけ 3 いま、教育に、そして教育者に問われているもの 4 倫理の復権と人間の尊厳 5 『世界人権宣言』50周年と『世界人間責任宣言』の起草 6 宗教教育に求められるもの

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宗教団体に対する敵視、そして高齢者の宗教離れと無関心層の増大、宗教的年中行事 の脱落化と民間信仰の希薄化である⑴  日本人学者で、カナダの大学で「自殺学」を教えていた布施豊正教授の著書、『自殺 と文化』の中に⑵、Sigelman, Lee による世界の宗教心の比較研究の調査データ(1977 年)が紹介されている。調査対象国は、イギリス・カナダ・フランス・インド・イタ リア・日本・スカンジナヴィア諸国・米国・ドイツ9カ国、アジアはインドと日本だ けで、中東地域でのイスラーム諸国は入っていない。調査項目は、「神の存在を信ずる か」「死後の世界を信ずるか」「信仰は非常に重要であるか」という3つの項目に限定 され、これを基礎にした宗教意識についての調査である。どのような調査方法が使用 されたのか、その調査方法は詳らかではない。  この調査に見られる数値の結果を見る限り、日本人の宗教心が一番低い。「信仰が非 常に重要である」という調査項目だけを見ると、インドをトップとして、次がアメリ カ、カナダ、イタリア、ついでイギリス、ドイツ、フランス、スカンジナヴィア諸国 と続き、最後が日本で、最低の数値を示している。1977年の段階で、すでにこのよう に社会の世俗化は非常に進んでいたわけで、今日的にはもっとその数値が悪化してい るものと推測できよう。その意味からも、井上教授の調査結果とある程度一致してい るのではないかと思われる。  いま一つ、先の井上教授が2000年に行なった日本と韓国の学生の宗教意識の比較調 査を見ておこう⑶。この調査によると、両国の学生の宗教意識の違いは、第1に、宗 教への関心について見ると、韓国人学生の方の信仰を持つ割合が圧倒的に多く、宗教 に対する関心度が日本人学生よりはるかに高い。第2に、宗教の必要性を感じる度合 いについても、韓国の方がはるかに高い。逆に、宗教に対する警戒心については、日 本人学生の方がはるかに高く、その結果によるものと推測されるが、布教に対する法 的規制の必要性についても日本の方が高い。第3に、宗教者に対する信頼性について は、韓国人学生の方が圧倒的に高く、日本人の学生の場合、調査対象である学生の半 数以上の者が宗教者を信頼しないという結果になっている。

2 国家法秩序における宗教教育の位置づけ

 このように日本人は、豊かな宗教伝統の中に生活しながら、こと宗教そのものに対 する関心ということになると、日本人の宗教意識は極めて希薄であるばかりか、時に は敵対的な警戒心すら抱いていることがわかる。こうした現象は、日本社会の歴史的・ 政治的・経済的・社会的・文化的諸要因によって織りなされる精神的伝統の構造から 表出するものであって、宗教学を中心に、隣接する人文科学や社会科学の諸々の学問 との共同作業によってはじめて解明し得るものである。しかし、こうした日本的特性

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には、勿論、宗教教育の在り方が重要な一翼を担っていることは否定できない事実で ある。  宗教が学校教育の場でどのように取り扱われているかは、宗教が国家の中でどのよ うに位置づけられているかによって大きく異なる。国家と宗教との関係は、通常、大 きく次の3つのタイプに分けられる。 ① 宗教に対して友好的なタイプ(米国、ドイツ等) ② 中立ないし非友好的なタイプ(日本、韓国、フランス等) ③ 批判的ないし敵対的なタイプ(中国、北朝鮮等)  戦後の日本の宗教教育は、②の中立ないし非友好的なタイプに属すると言えよう。 そして、日本における宗教教育は、日本国憲法における宗教に関する二つの原則、す なわち信教の自由と、その制度上の保障としての政教分離(国家と宗教の分離)と密 接に関わるものとして論じられてきた。日本国憲法は、信教の自由に関し、第20条に おいて次のように定めている。 第20条(信教の自由) 1  信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特 権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。 2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。 3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。  この憲法の規定に基づき、1947年公布の教育基本法は、宗教教育について次のよう に定めている。 第9条(宗教教育) 1  宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重 しなければならない。 2  国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教 的活動をしてはならない。  こうした憲法及び教育基本法の精神に基づいて、1949年の文部事務次官通達により、 初等及び中等教育における宗教の取扱いについて次の原則が示された。  第1に、国公立の学校にあっては、礼拝や宗教的儀式、祭典に参加する目的で宗教 施設の訪問を主催してはならない。もし研究や文化上の目的で訪問する場合には、こ れを児童・生徒に強要してはならない。  第2に、宗教に関する教材については、研究・教育上、必要があるならば、宗教的 教材を利用してもよいが、特定の宗教を評価したり、逆に否認したりする結果になら ないよう配慮しなければならない。

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 第3に、児童・生徒が授業時間以外に、自発的に宗教団体を組織することは自由で ある。  勿論、以上のことは、私立学校には適用されず、私立学校での宗教教育の自由は保 障される。  戦後数年間の間に示された宗教教育に関するこうした基本方針は、今日に至るまで 基本的には踏襲されてきている。宗教系の学校では、授業時間の制約はあっても、か なり自由に自宗の宗派教育を中心とした宗教教育を実現することが可能になった。し かし、公立学校では、戦前のいわゆる国家神道問題もからみ、教育現場において宗教 について取り扱うことがタブー視され、できる限り避ける風潮が醸成されていった。  教育現場におけるこういった宗教教育の忌避観や嫌悪感を反映して、宗教教育は、 ①知識教育、②情操教育、③宗派教育に分かたれ、公立学校では宗教に関する知識教 育を中心として行なわれるようになった。ここでは、歴史や倫理、道徳などの時間で 宗教の創唱者、哲学者などの思想の概要、あるいは宗教の歴史的展開などが教えられ るにすぎなかった。  ここで多くの論議を巻き起こしたのが、そもそも宗教情操教育とは何か、宗教情操 教育というものがあり得るとしても、公立学校での宗教情操教育が可能であるかとい う問題であった。その場合、公立学校での宗教情操教育が可能であるとすれば、そこ での情操教育は特定の宗教、特定の個別の宗教宗派と関わりのない宗教情操でなけれ ばならない。これに対し、そうした特定の宗教と離れた抽象的かつ一般的宗教情操と いう観念を想定することはできないとする強い反対論が提示された。  こうした論争に決着がつかないまま、2006年、改正教育基本法が施行された。この 改正法は、今日、①自信喪失感や閉塞感の広がり、②倫理観や社会的使命感の喪失、 ③少子高齢化による社会の活力低下、④経済停滞と就職難として顕在化されている日 本社会の危機的状況にあって、日本の教育を根本から見直し、新しい時代にふさわし く再構築することを目的とするものであった⑸  宗教教育については、新たに第15条に規定され、第1項に「宗教に関する一般的教 養」の文字が挿入され、次のように改正された。第2項は改正されず、従前のままと された。 第15条(宗教教育) 1  宗教に関する寛容の態度、宗教に関する一般的な教養及び宗教の社会生活におけ る地位は、教育上尊重されなければならない。  このような国家法次元での新しい見直しの動きも一つの要因となって、近時、従来 の宗教知識教育・宗教情操教育・宗派教育に統括される宗教教育を批判的に再検討し、 「宗教文化教育」と呼ばれる宗教教育論が提唱されてきた。その論者によれば、「宗教

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文化教育」とは、文化としての宗教についての理解を深める教育、すなわち「文化と しての宗教とは、日本及び近隣諸国、そして世界の主な宗教の習俗、伝統的宗教につ いての基礎知識、日本人の宗教に対処する態度の特徴、世界の諸宗教の現状について の理解を深めることを目指すものである。宗教情操というような曖昧とした概念では なく、個別の宗教について、その文化的側面についての理解を深めるということであ る。知識と言ってもいいが、宗教知識教育という場合にはすでに固定した解釈がある。 また、文化の理解には知識だけでなく、共感とか理解しようとする態度とか、判断力 といったものが求められる」⑹

3 いま、教育に、そして教育者に問われているもの

 宗教教育をどのように位置づけるにせよ、そもそも今日、教育に求められているも のは何であるのか。このことを明確にせずに宗教教育を語っても、問題の所在を矮小 化し、ともすれば教育技術論に陥りかねない危険性がある。いま、教育に求められて いるものは何か。いま、教育者に求められているものは、はたして何であるのか。  そのためには、いま、社会が私たちに求めているものは何かを問うてみなければな らない。今日ほど、私たちに、国際社会たると国内社会たるとを問わず、個人の尊厳 を大切にしながら他者との繋がりを尊重し、かつ国家の枠組みに組み込まれることな く、私たちの生活の基盤たる共同体に対する責任に応答していく態度が求められてい る時代はない。かつてインドのマハトマ・ガンジー(Mahatma Gandhi)は、7つの社 会的罪を次のように説いた。

1、原則なき政治(Politics without principles) 2、道徳なき商業(Commerce without morality) 3、労働なき富(Wealth without work)

4、人格なき教育(Education without character) 5、人間性なき科学(Science without humanity) 6、良心なき快楽(Pleasure without conscience) 7、犠牲なき信仰(Worship without sacrifice)

 ガンジーのこの教えは、今日、緊急性の度合をますます強めて、私たちに訴えかけ ている。個人主義に裏打ちされた過度の自由主義は、人びとに放縦ともいうべき自己 利益の追求を許し、人間社会に不可欠な社会的連帯性を希薄化させ、社会の荒廃を招 来させている。  国家の安全保障の名の下で、過去半世紀で最悪の経済危機の中にあっても、過去10 年間で50%近くの上昇という世界軍事費の増強、それにもかかわらず極度の貧困の中

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に生きる世界人口の半数の人びとの悲惨な生活、リーマンショックによる世界の金融 市場の瓦解的影響と競争原理の貫徹した市場経済によって生み出された勝ち組と負け 組みの二極分化、「無縁社会」という言葉で象徴される共同体の危機的状況と孤独感・ 疎外感等に帰因する、社会的弱者の増大する自殺の常態化、民主主義という名の下に 公共の精神を忘れて衆愚政治の中に踊る国民と政治家、過度の暴力や性描写を地球全 体に伝達するマスメディアの商業主義、官僚や警察官や教員など公職にある者の公僕 にあるまじき反倫理的行為、人間の生命操作を可能にする科学技術の進展に伴う「生 命の尊厳」に対する脅威等々―私たちの社会に蔓延している倫理の空洞化現象は、現 在に生きる私たちは言うに及ばず、未来を担う来るべき世代のためにも放置できない 事態を生み出そうとしている。  ここにおいて根源的に、かつ本質的に問われなければならないことは、第1に、い ま、ここに生きることの意味、人間存在についての実存的な根本問題を問うことを学 ぶということである。「私は一体、誰なのか。なぜ、私は、いま、ここにいるのか。私 が、いま、ここに生きている社会は、そもそも何であるのか。私はこの社会で、いか に生きるべきなのか。私にとって、この社会に生きることは、いかなる意味があるの か。」などの根本的問題について実存的に問うことを学び、学んでさらに問うという魂 の探求者とならねばならないということである。こうした魂の探求の道を、教師と子 供が共に手を携えて歩むことの中で、人間として、正しく生きる道を知る「知道者」 として、その道を切り開く「開道者」として、そしてまた人間としての正しい道を説 く「説道者」としての義務感と責任感を持てる人間を(『妙法蓮華経』薬草諭品第五)、 いかに育成するかということが問われることになる。  この目的を実現するためには、教育が人生についての単なる理論から、人生の価値 転換のダイナミックな過程へと変質していかねばならない。教育は、人間が人間らし くあるための主体的営みである。人間がそれ自らなる主体性に覚醒し、これを取り戻 し、他者との相依相関の中で調和と連帯の確立を通して自己を変革し、自己の裡にあ る本来なる自己の尊厳性を自覚するための人間性への深い探求の過程こそが、教育の 本質なのである。  第2に、教育が魂の探求であるとすれば、教師たるものの仕事は単なる知識の伝達 でもなければ、単に分析的方法を用いて世界を記述するという非人格的な仕事でもな い。それは、子供が新たな人生の意味を実感できるように、子供の潜在的能力と可能 性を啓発することなのである。教師が何を知っているかではなく、子供が自分の力で 何を発見するか、それによっていかに生きるかを自覚することが重要なのである。従 って、それはまた、従順なる子供を育成することでもない。むしろ、人生のジレンマ を恐れずに凝視し、自らの全存在をかけてこれに対決し、自己の高潔と叡智を大切に する主体性ある個人を生み出すことなのである。

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 そのためには、教師は、先ず、自らが己れの裡なる魂の巡礼者とならねばならない。 己れ自らが現在の蒙を打ち破り、未来へ呼びかける預言者とならねばならない。これ によってはじめて、教師と子供との間に強い連帯感、心の通った意志の触れ合い、共 感に根差した理解が生まれ、知識が徳に昇化する道が開かれるのである。  第3に、教育の場は学校だけではないということである。教育が本来的に人間教育 であるとすれば、家庭教育・学校教育・社会教育の全期間、言い換えれば、人間の生 から死までの全生涯を一つの全体と把握し、その全生涯をかけて本来の人間性に復帰 するための教育でなければならない。その意味で、教育は人間の一生を貫く生涯教育 でなければならない。そして同時に、それはまた、家庭教育・学校教育・社会教育が それぞれの機能を生かしつつ、有機的に結合した統合教育でもなければならないとい うことになる。  まことに人間は、縦の時間軸では「生命の伝承の連鎖」と、横の空間軸では「個人 と環境世界の相依相関」とが交錯する網の目の中で人と人、人と物、人と自然との同 時的不可分の関係において生かされて生きる歴史的存在である。こうした存在として の人間にとっては、日常生活そのものが教育の場である。生活の場で一瞬一瞬触れ合 う一切の事象が、人間性開発のための教育へと繋がっていくのである。

4 倫理の復権と人間の尊厳

 今日、人類が直面している最大の問題の一つは、倫理の復権である。倫理とは、ギ リシア語の“ethos”の原義に従えば、人間が住みやすい生活環境を作り出すために永 年にわたって理性的かつ感情的に納得でき、受容ができるものとして蓄積された規範 の集成ということになる。  私たちの生活の地が安住の場とならず、安住の地を求めて束縛と隷従からの解放を 口にするとき、私たちは人権を主張するのが常である。しかし、「人権」と「人間の尊 厳」とは明確に区別されねばならない。1948年の『世界人権宣言』⑺、この『宣言』を 受けての1966年の『国際人権規約』⑻においても、「人間の尊厳」と「人権」とは明確に 区別されている。同様に、ここ韓国においても、1987年公布の『大韓民国憲法』には 「人間の尊厳」と「基本的人権」とが厳然と区別されている(第10条)⑼  このように、「人間の尊厳」と「人権」が明確に区別されていることは、「人間の尊 厳」が人類に実現すべき目的であって、「人権」はこの「人間の尊厳」を実現し、これ を擁護するために考え出された一つの手段でしかないということを意味する。  しかし、過去から現在に至るまで、人類の叡智は、確かに「人権」が「人間の尊厳」 を実現する有効かつ強力な手段であることは否定できないにしても、「人権」のみが 「人間の尊厳」を実現する唯一、絶対の手段とは必ずしも考えてこなかったことを、私

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たちは真摯に思い起こすべきである⑽  例えば、イスラームでは、人間の尊厳は、個々の人間が神に対して神の僕としての 義務を履行するところに付与される。イスラームという言葉が「唯一神アッラーに対 して絶対的無条件に帰依、服従する」ことを意味していることからも明らかなように、 神によって創り出された人間は、創造主たる神の意志=神の法シャリーアに絶対無条 件に服従し、その定めに従い義務を履行してこそ、人間としての尊厳は付与されるの である。従って、イスラームでは権利より義務が、自由よりも平等と責任が重んじら れることになる。まことに、西洋法系の法体系が「権利の体系」であるのに対し、イ スラーム法は「義務の体系」なのである。  仏教の場合はどうであろうか。仏教の中心思想は「縁起」である。私という存在は、 確かに唯一無二の絶対的個人である。しかし、そうでありながら、他者から切り離さ れた存在ではあり得ない。私たちは、好むと好まざるとにかかわらず、縦の時間軸と 横の空間軸とが交差する他者との相互依存の関係性の中で生存しているのである。そ れ故に、仏教では、「人間の尊厳」は「己を忘れて他を利する」慈悲の実践、菩薩行の 実践によって光り輝くことになる。  儒教の場合も、「譲ることのできない権利」としての「人権」という観念を生み出す ことはなかった。儒教によれば、人と神、天と地、森羅万象ことごとく調和的に秩序 づけられた統一的宇宙の有機的な諸部分として位置づけられる。それ故、人間の自己 実現としての最高の目標は、その思惟・感覚・行為において全宇宙を遍く支配する諸 関係の自然調和と完全な一致を保つことであった。このような世界の自然的秩序の中 で個人の行為の正当性を規律する規範が、「礼」である。  個人は、「礼」の規範に服従し、すべての生活関係において、中庸と謙譲の徳のなか に生きてこそ「理想的人間」となるのである。従って、ことさらに自己の権利を主張 し、人間関係の不調和を一層激化させ、社会の平和を掻き乱す者は、人間として基本 的特性を欠く、粗野で無教養な人間とみなされる。  アフリカ文化圏における伝統的な人間観は、西洋近代哲学の祖デカルトの「我思う、 故に我あり」(Cogito, ergo sum)という言葉に準じれば、「我々(共同体)あり、故に 我あり」に帰すると言われる。人間が生まれたときは、人間ではなく、「人」であると いう。「人」を人間にするのが共同体であり、共同体が人間をつくるというのである。 このことは、人間が共同体のなかに埋没していることを意味しない。むしろ、人間は 共同体において自己実現が可能となるのである。  ここにおいては、共同体及びその構成員のために自発的になされる義務―「義務で ない義務」を果たす贈与的行為―の履行が重んじられ、それを基準として「彼は人で はない」「彼は本当の人間だ」と評価されることになる。従って、人間の尊厳は共同体 の構成員として共同体において「人間」となる義務を履行することによって与えられ

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るのである。  いずれにせよ、「人間の尊厳」を実現する手段としての「人権」という観念は、一言 で言えば、17・8世紀の近代西洋の自然法思想に基づく人間観・国家観・法律観の長い 伝統の中から創出されてきたものであった。それ故、「人権」という思想を無条件に絶 対化・普遍化し、これを文明の真実の証として西洋の文化伝統と異にする非西洋文化 の人びとに強要することは、それらの人びとの社会に混乱をもたらし、社会の荒廃を もたらしかねない危険を内蔵させていることに留意しておかなければならない。  しかし、このことは人間の責任を強調して人権の力を弱め、人権の価値を低下させ ることを意図するものであってはならない。むしろ、人権の価値を高め、これを強化 していくためには、権利と義務、自由と責任を均衡あるものに構築しなければならな いことを意味する。精神の空洞化・倫理の真空化の社会にあって倫理の復権に問われ るのは、人間の尊厳の実現、そして回復のためにはその基本的前提として最大限可能 な自由を目標としつつも、同時に自由そのもののさらなる発展を可能にする最大限の 責任感を涵養することにある⑾

5 『世界人権宣言』50周年と『世界人間責任宣言』の起草

 1998年、『世界人権宣言』(The Universal Declaration of Human Rights)は50周年を迎 えた。世界の各地で祝賀された数々の記念事業の中でも、特に特異な、預言者的地位 を占めていたのが、インターアクション・カウンシル(Inter Action Council)―この組 織は、1983年、東西南北陣営に属する世界に24人の元首相と元大統領によって設立さ れ、現在は、33人の元政治指導者によって構成され、通常「OB サミット」と呼ばれ ている―によって提案された『世界人間責任宣言』(A Universal Declaration of Human Responsibilities)である⑿  この『宣言』案は、「責任を負わぬ自由は自由そのものを滅ぼすが、権利と責任を均 等のとれたものとすれば、自由はさらに力を増し、より良き世界が創りだされるであ ろう、と警告してきた古来の宗教指導者や哲人たちの叡智の上に」立って起草された ものであった。本宣言において最低限許容され得るものとして合意された基本的原則 は、次の二つである。 1  いかなる人間であれ、人間の尊厳が尊ばれるよう、人間らしく取り扱われなけれ ばならない。 2 他者から自分にしてもらいたいことは、自ら進んで他者にしなければならない。  この基本原則の上に立って、本宣言は、人間性の基本原則・非暴力と生命の尊重・ 正義と連帯・真実と寛容性・相互尊敬とパートナーシップの5項目を掲げた19カ条か

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ら構成されている。そして、起草された本宣言には、25人の元首相と元大統領がこれ に署名している。

 この『宣言』草案の作成に指導的役割を演じたインターアクション・カウンシルの 名誉議長ヘルムート・シュミット元西ドイツ首相は、2000年11月28日、日本の京都で 開催された『世界宗教者平和会議』(World Conference on Religion and Peace:WCRP) 創立30周年記念式典において「新たなる世紀における人間の責任の確立に向けて」 (Toward Establishing Human Responsibility in the New Century)と題する記念講演を行な

い⒀、『世界人間責任宣言』草案の基調原則を次のように強調したのであった。 ・ 私たちに生命の権利があるとすれば、私たちには他の一切の存在の生命を尊重する 義務がある。 ・ 私たちに自由の権利があるとすれば、私たちには他者の自由を尊重する義務がある。 ・ 私たちに安全の権利があるとすれば、私たちはすべての人間が人間としての平和を 享有できる条件を創出する義務がある。 ・ 私たちに自国の政治過程に参加し、指導者を選挙する権利があるとすれば、私たち にはそれに参加し、最良の指導者を選ぶことを保証する義務がある。 ・ 私たちに思想の自由、良心の自由、信仰の自由の権利があるとすれば、私たちには 他者の宗教や他者の思想を尊重する義務がある。 ・ 私たちに地球の恵みを享受する権利があるとすれば、私たちは地球の天然資源を尊 重し、保護する義務がある。

6 宗教教育に求められるもの

 世界の諸宗教は、人類にとって叡智の宝庫であり、叡智の偉大な伝統の一つである。 過去数千年にわたり、世界の諸宗教は預言者・聖者・賢者を通して「人間はいかにあ るべきか」の倫理規範を説いてきた。  人間の行為・行動は、基本的に価値や選択に深く関わっている。それ故に、倫理は 何よりも優先されねばならない。倫理は、私たちの行動を啓発し、私たちを「悪を避 け、善を行なう」道を指し示し、私たちの魂を鼓舞させてくれる。従って、学校の場 から倫理や正邪の教えがなくなれば、私たちの学校はすぐに切り捨てられる労働力を 大量生産する単なる工場と化してしまうであろう。  世界の諸宗教は、その誕生の時代、民族そして自然的・社会的環境等に応じてその 教義や儀式の表現形態にさまざまな相違を示している。しかし、その相違の根底には すべての宗教に共通する教えが秘められている。およそ宗教で、人びとの幸福や安寧、 人びとの共生と社会の平和や調和を説かないものはない。いかなる宗教も、自己抑制・

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義務・責任を唱導している。すべての宗教が、慈悲や赦し、寛容や少欲知足、喜捨(布 施)や他者への奉仕、公平や正義の教えを説き、人びとを導いている。いかなる宗教 も、人間よりも崇高な存在を信じ、物質主義的で自己中心的な生き方の限界を教え説 いている。  いま、宗教教育に問われていることは、第1に、宗教教育に携わる教育者は、自己 の信ずる宗教あるいは信条に埋没することなく、それらに秘められている共通の普遍 的真理を見出し、それを究明し、特に宗教信仰を持った教師であれば、他宗教・他宗 派を排するのではなく、そこに「万教同根」の真実を探知し、相互理解と相互尊重の 寛容な精神を涵養し、知的・霊的連帯を強固にし、かつこれを子供たちに伝えていか なければならない。その意味において、宗教教育は宗教の求める慈悲の実践者の育成 であり、人類全体の幸福への奉仕者の育成ということになる。  第2に、いま、宗教教育に問われていることは、宗教が人間の自己の裡なる平和に とどまらず、人間と人間との平和、人間と自然との平和、人間と人間を越えたものと の平和と調和、そして共生の教えであることを子どもたちに説き導くことである。宗 教の歴史には、慈悲と寛容に包まれた建設的な明るい面と、暴力と殺戮に彩られた暗 黒の面が常に存在していたし、9.11の同時多発テロに見られるように、いまでも存在 し続けている。しかし、その宗教の暗黒面は宗教そのものに本質的に内在するものな のか、それとも宗教を信奉すると称する者たちの政治的・経済的欲望に起因するもの であるのか。重要なことは、宗教が政治や経済などの世俗的欲求を正当化するための プロパガンダに利用されているか否かを正しく認識することである。私たちは、宗教 がハイジャックされた苦い歴史の教訓を学ばねばならない。グローバリゼーションが 進む今日の世界にあって真の世界平和をつくるためには、人類のさまざまな宗教の歴 史的知識に裏付けられた宗教相互間の理解と調和、他宗教に対する寛容と敬意が欠く ことのできない条件の一つである。この意味において、宗教教育は「平和をつくり出 す人」を育成する平和の教育でなければならない。  第3に、宗教教育は、人間の倫理的生き方に関わるものであってみれば、学校教育 という狭い枠の場に限定され、固定化されるものであってはならない。教育そのもの は、本来、家庭教育・学校教育・社会教育の三者のネットワークの中で行なわれるも のである。特に宗教教育の場合、家庭における宗教教育、学校における宗教教育、社 会における宗教教育は相互に密接に結合している。それ故、この三者の教育がそれぞ れの機能を生かしつつ、有機的な相関関係において機能する宗教教育の在り方が追求 されていかねばならない。ここにおいては、当然のことながら、宗教者の社会的役割 が極めて重要となる。宗教者自らが自己の宗教の創唱者の本願に回帰し、人びとの救 済と社会の平和実現への社会的使命に生き、宗教の社会的信頼の回復に努める必要が あろう。

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 第4に、宗教教育においては、この仕事に携わる教師は単なる宗教的権威者でも、 子供たちの客観的模範者でも、宗教的知識の単なる伝達者であってもならない。なに よりも、教師その人が先ず自己自身を変革する魂の巡礼者であり、自己の変革を通し て子供たちを変革する神聖な義務の履行者たることを自覚し、かつその実践者でなけ ればならない。ここにおいては、宗教教育は子供の心の裡に宗教的経験とも言うべき 内的変化を生み出す創造的教育ということになる。その意味において、宗教教育は、 教師に厳しい実存的な責任を課すことになる。  第5に、今日、宗教は、個人的領域における個人倫理はもとより、政治・法律・経 済・社会に関わる地球的・人類的諸問題をはじめとして、科学技術・生命操作・環境 保全などの諸問題に関わる社会倫理の領域において、こうした社会倫理をいかに形成 するか、あるいは既存のものに、いかにして新しい方向づけを提示するかという社会 的責任が問われている。もし宗教がこうした課題に答え得ず、信者はもとより、社会 の一般の人びとに対して、生・老・病・貧・死に関わる現代的苦の課題に倫理的指針 を与えることができなければ、宗教は時代から取り残され、過去の遺物と化すことに なろう。もしそうした事態に立ち至れば、宗教教育は単なる古物商的教育と化し、宗 教の社会的機能・役割・使命を伝達する生きた教育とはほど遠いものとなろう。それ は、とりもなおさず、宗教教育の挫折であり、宗教教育の敗北以外の何物でもない。  第6に、それ故に、宗教教育は純宗教的情報にとどまらず、今日の地球的・人類的 課題に対する宗教的対応やその宗教者や宗教団体の具体的活動実践例に関する情報を 必要とすることになる。宗教教育に携わる教師が教育上必要とする情報を効果的に入 手するためには、ソフトとハードの面におけるシステマティックな教育環境と教育体 制が整備されていなければならない。その意味において、諸宗教間対話、及び宗教と 他の学問分野との間の教学的対話、そしてその対話を通して宗教教育の教材づくりの ための共働体制がますます必要となっていくであろう。 註 ⑴ 井上順孝「宗教意識に見る現代社会の変化」新宗教新聞、2005年12月25日号。 ⑵ 布施豊正『自殺と文化』(新潮選書)、新潮社、1958年、50頁。

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宗教心の意識調査 国 名 信ずる(%)神の存在を 死後の世界を信ずる(%) 重要である(%)信仰は非常に 宗教心の順位 イギリス 76 43 23 ⑤ カナダ 86 54 36 ③ フランス 72 39 22 ⑦ インド 98 72 81 ① イタリア 88 46 36 ④ 日本 38 18 12 ⑨ スカンジナヴィア諸国 65 35 17 ⑧ 米国 94 69 56 ② ドイツ 74 33 17 ⑥ Sigelman, Lee、“世界の宗教心の比較研究”、1977年 ⑶  井上順孝(研究代表者)『宗教教育の日韓比較』平成12年∼13年度科学研究費補助 金基盤研究(C)⑴研究成果報告書(平成14年)91頁以下。 ⑷  このアンケート調査項目は、1.宗教への関心、2.信仰している宗教、3.家の宗 教、4.宗教に関する一般的問題(科学社会における宗教の必要性・宗教に対する警 戒心・宗教家に対する信頼性)、5.宗教に関する最近の話題(宗教上のトラブルに 対する公的な相談窓口・街頭での布教に対する法的規制・臓器移植)、6.超常現象・ オカルトなどを信じるか、7.占いを信じるか、8.霊魂のイメージ、9.宗教とジェ ンダーの9項目から構成されている。 ⑸  眞田芳憲「教育と法と文化―教育基本法改正問題に問われているもの」地域文化 研究 No.9、地域文化学会、2006年、1頁以下。 ⑹ 井上順孝『前掲』15−16頁。 ⑺  『世界人権宣言』の前文には、「人類社会のすべての構成員の固有の尊厳と平等で 譲ることのできない権利とを承認することは……」と明定され、第1条において「す べての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利について平等で ある」と定められている。ここで規定されている「平等で譲ることのできない権利」 が人権にほかならず、ここにおいても「人間の尊厳」と「人権」とが明確に区別さ れている。 ⑻  1966年に採択された『国際人権規約』を構成する『経済的、社会的及び文化的権 利に関する国際規約』、そして『市民的及び政治的権利に関する国際規約』の前文に は、「この規約の締約国は、国際連合憲章において宣明された原則によれば、人類社 会のすべての構成員の固有の尊厳及び平等かつ奪い得ない権利を認めることが世界 における自由、正義及び平和の基礎をなすものであることを考慮し、これらの権利 が人間の固有の尊厳に由来することを認め、」と明定されている。

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⑼  大韓民国憲法第10条〔人間の尊厳性・幸福追求権・基本的人権の保障〕は、次の ように定めている。「すべての国民は、人間としての尊厳及び価値を有し、幸福を追 求する権利を有する。国家は、個人の有する不可侵の基本的人権を確認し、これを 保障する義務を負う。」阿部照哉・畑 博行編『世界の憲法集〔第3版〕』有信堂、 2005年、224頁。 ⑽  眞田芳憲「人間の尊厳と人権―比較法文化的考察を通して―」比較法雑誌26巻2 号、日本比較法研究所、1992年、9頁以下。 ⑾  このことは、ここで論及した宗教の霊的文化の次元に限定されるものではない。 世俗的な日常生活の場においても、例えば「母の尊厳」は、妊婦たる女性が出産し て母となり、母としての身分を取得したからといって、直ちに自動的に母としての 尊厳が付与されるわけではない。胎内に新しき生命を宿し、10ヵ月と10日の間、胎 内の幼き生命と一体となって慈しみ育て、その無事の誕生を願い、そして産みの苦 しみに耐え忍び、自己の生命を堵けて出産し、その後はそれこそ寝食を忘れて育児 に自身を捧げ尽くし、子供の成長に生きる母の偉大な自己犠牲によって、母として の「人間の尊厳」が自ずから湧出するのである。生理的、肉体的に母となり、母と しての権利や自由を主張しても、自己犠牲という母としての責任、母としての義務 を履行しない限り、母としての「人間の尊厳」が生じることはあり得ないであろう。 ⑿  眞田芳憲「『世界人間責任宣言』(A Universal Declaration of Human Responsibilities) 草案とその歴史的意義について」比較法雑誌第35巻2号、日本比較法研究所、2001 年、1頁以下。

   インターアクション・カウンシルは、国連の『世界人権宣言』(The Universal Dec-laration of Human Rights)採択50周年の1998年に、この『世界人権宣言』を強化する ためにも「権利」の裏側にある「責任」を国連の場で論議し、『世界人間責任宣言』 の採択を要望した。しかし、「機はまだ熟さず」と言うべきか、特に西洋の人権運動 家からこの『宣言』の精神の正しい理解を得られず、「この宣言は人権の弱体化に繋 がるもの」との猛反対を受けることになった。このように、『宣言』の真の精神が理 解されず、西洋諸国の政府はこの草案を国連の場に送ることを見合わせざるを得な くなったのである。

⒀  この講演は、後に、Helmut Schmidt, Toward Establishing Human Responsibility in the New Century, Dharma World vol.28, p.8, Mar/Apr. 2001.として掲載された。

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