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密教研究 Vol. 1932 No. 46 001上田 天瑞「有部律について P1-24」

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全文

(1)

I. 有 部 律 の 典 籍II. 有 部 律 と 密 教 ( 三 學 可録 、 大 師 所 制 の 理 由 、 大 師 以 後 眞 言 宗 の 律 )III. 有 部 律 の 特 色 ( 地 位 、 文 學 的 要 素 、 巴 利 律 と の 比 較 )

I.

有 部 律 と 云 ふ の は 根 本 説 一 切 有 部 (mulasravastivada ) 所 傳 の 律 の 意 で あ る 、 漢 繹 律 で は 次 の 諸 典 が 有 部 律 に 囑 目す る も の で あ る 。

XXIII

有 部 律 に り い て 一

(2)

有 部 律 に つ い て 二

巻同

XXIV

一卷

同 同

十卷

こ の 中 前 二 部 は 律 藏 に 於 け る 所 謂 経 分 別 (suttavibhanga ) の 部 分 で 後 入 部 が 腱 度 部 (khandhaka ) で あ る 。 こ の 他 に 綱 要 書 或 は 註 鐸 書 に 次 の も の が あ る 。

XXIV

西

(sarvastivada

)

(3)

ふ こ と に な る が 普 通 有 部 律 と 云 ふ 時 は 上 に あ げ た 義 浮 謬 の 一 群 を 云 ふ の で あ る 、 但 し 分 派 の 系 統 か ら 云 つ て も 根 本 説 一 切 有 部 は 説 一 切 有 部 か ら 分 出 し た も の で あ り 、 實 際 に 十 諦 律 と 有 部 律 を 比 較 し て 見 て も 爾 者 が 同 一 系 統 で あ る こ と は 直 ち に 知 り 得 る が 故 に 十 諦 は 奮 有 部 律 と も 云 ふ べ く こ の 意 味 か ら 云 っ て 十 諦 律 も 廣 義 の 有 部 律 の 中 に 含 ま れ る も の で あ る 、 ペ リ ォ (Peliot ) 氏 が 中 亜 探 瞼 の 際 登 見 し 元 梵 本 ブ ラ ー テ ィ モ ー ク シ ヤ ス ー ト ラ (Pratim oksa sutra ) は 十 諦 律 の 戒 本 に 相 當 す る も の で 、 羅 什 繹 の 戒 本 の 佛 諜 を 附 し て 一 九 二 ご 年 パ リ で 出 版 さ れ て を る 。 II. 有 部 律 と 密 教 (1) 弘 法 大 師 の 三 學 鋒 に よ れ ば 眞 言 宗 所 學 の 経 律 論 中 、 経 は 二 百 巻 、 梵 字 眞 言 讃 等 四 十 巻 、 律 一 百 七 十 五 巻 、 論 十 一 巻 と な つ て を る が 、 こ の 中 律 部 の 一 百 七 十 五 巻 は 次 の 如 く で あ る 。 蘇 悉 地 経 三 巻 蘇 婆 呼 経 三 巷 金 剛 頂 受 三 昧 耶 佛 戒 儀 一 巻 根 本 説 一 切 有 部 毘 奈 耶 五 十 巻 同 菰 島 尼 毘 奈 耶 二 十 巻 有 部 律 に つ い て 三

(4)

有 部 律 に つ い て 四 同 毘 奈 耶 雑 事 四 十 巻 同 尼 陀 那 目 得 迦 十 巻 同 芯 島 戒 経 一 巻 同 百 一 鵜 磨 十 巻 同 菰 爲 尼 戒 経 一 怒 同 毘 奈 耶 頚 五 巻 同 毘 奈 耶 雑 事 撮 頚 一 巻 同 尼 陀 那 目 得 迦 撮 頚 一 怒 根 本 薩 婆 多 部 律 癒 二 十 巻 薩 婆 多 毘 尼 毘 婆 沙 九 巻 合 計 十 五 部 百 七 十 五 巻 ( 弘 法 大 師 全 集 .I) こ の 中 前 の 三 は 密 部 に 厩 し て 密 教 濁 特 の も の で あ り 、 他 は 凡 て 小 乗 戒 の 書 で 純 粋 に 戒 律 を 傳 へ た も の で あ る 、 而 し て こ の 戒 律 方 面 は 悉 く 有 部 律 の 書 で あ る 、 (最 後 の 薩 婆 多 毘 尼 毘 婆 沙 は 十 諦 律 を 鐸 し た も の で こ れ の み が 異 な る が こ れ も 廣 義 の 有 部 律 な る こ と は 前 述 の 如 く で あ る ) 故 に 知 る 、 大 師 所 制 の 眞 言 密 敢 の 律 は 四 分 、 僧 砥 等 で な く し て 有 部 律 で あ る の で あ る 。

(5)

(2) 弘 法 大 師 は 何 故 に 有 部 律 を も つ て 眞 言 宗 所 學 の 律 と せ ら れ た の で あ ら う か 、 本 論 文 で 考 へ て 見 た い の は 主 と し て こ の 黙 で あ る 支 那 に 於 い て 律 典 に つ い て そ の 主 要 の も の を あ げ る 時 は 常 に 四 律 五 論 と 云 は れ る こ と は 何 人 も 知 る 所 で あ る 、 そ の 四 律 と は 四 分 律・ 五 分 律 ・十 諦 律 ・僧 砥 律 の 四 で あ つ て 所 謂 有 部 律 は こ の 中 に は 這 入 ら な い 、 又 支 那 に 於 い て 實 際 に 律 が 用 ゐ ら れ て 受 戒 錫 磨 を 行 つ た の は 從 來 は こ の 四 大 律 の み で あ る 、 そ の 中 で も 最 初 は 十 踊 が 行 は れ た が 後 に は 殆 ん ど 凡 て 四 分 に よ つ た こ と は 南 方 南 林 寺 の 戒 壇 、 北 方 草 堂 寺 の 戒 壇 等 が 曇 摩 迦 羅 以 來 四 分 の 法 に よ つ て 行 は れ た こ と に よ つ て も 推 定 し 得 る 、 殊 に 唐初道宣(A.D.596-667)に至つては律 は 四 分 律 南 山 宗 に 蹄 一 し て し ま つ た の で あ る 、 我 國 で も 支 那 と 同 じ く 鑑 眞和術の東征(A.D.753)後は宗 の 如 何 を 問 は す 四 分 の 戒 壇 に 於 い て 別 受 戒 を 受 け る こ と と な つ た 。 か う 云 ふ 歌 態 に あ つ た 時 大 師 は 何 故 に 四 分 律 を 探 用 せ す し て 有 部 律 に よ ら れ た の で あ ら う か 、 こ れ に は 二 三 の 理 由 が 考 へ ら れ る と 思 ふ 。 第 一 に は 龍 猛 以 後 密 敏 傳 統 の 租 師 が 有 部 律 を 依 用 さ れ た 故 に 大 師 は こ れ を 糧 い だ も の で あ る と 云 ふ 説 が あ る 、 (寳 暦 十 三 年 刊 行 、 有 部 律 撮 序 ) こ の 鮎 を 考 へ る に 龍 猛 菩 薩 は 薩 婆 多 部 帥 ち 奮 有 部 の 律 た る 十 諦 律 を 受 け た も の と 考 へ ら れ る 、 出 三 藏 記 第 十 二 一 に 僧 訪 が 薩 婆 多 宗 傳 戒 相 承 を あ げ る 中 に 、 第 一 迦 有 部 律 に つ い て 五

(6)

有有 報 叩 律 に 層 つ い て 、 六 葉 尊 者 第 二 阿 難 尊 者 乃 至 第 三 十 三 祀 達 磨 戸 利 帝 尊 者 と し 第 三 十 四 頑 に 龍 猛 菩 薩 を あ げ て を る 、 (結 一 、七 二 頁 b ) 又 龍 樹 の 大 智 度 論 の 集 法 経 は 十 諦 律 に よ つ て 述 べ て を る し 、 龍 樹 が 毘 尼 に 五 種 入 説 法 を 説 く と 云 つ て を る が の 五 種 人 説 法 は 十 語 律 に 説 い て を る こ れ 等 に よ つ て 見 て 龍 樹 は 十 訥 律 を 受 け た こ と は (1) 確 か で あ る と 思 ふ 。 次 に 龍 智 菩 薩 が 珂 部 の 律 を 受 け た か 今 明 に 知 り 得 な い が そ の 資 金 剛 智 に つ い て は 付 法 傳 に 貞 元 鐸 教 録 の 文 を 引 い て ﹁ 年 甫 十 歳 於 二那 欄 陀 寺 一依 二寂 静 智 一出 家 學 二聲 明 論 一十 五 學 二法 禰 論 鴫二 十 受 二具 足 戒 一六 年 學 二 大 小 乗 律 一云 々 ﹂ (大 師 全 集 1 十 頁 ) と 云 ふ 、 こ れ に よ つ て は 那 欄 陀 寺 で 受 け た 具 足 戒 が 何 部 の 律 に よ つ た か 、 そ の 後 六 ヶ 年 學 ん だ と 云 ふ 大 小 乗 の 律 中 小 乗 律 は 何 部 の 律 で あ つ た か 不 明 で あ る が 同 じ く 付 法 傳 に 大 歴 六 年 (A .D .771 ) 不 室 の 奏 と し て

(大

講 下 抽 二 諸 寺 名 行 律 師 七 人一 毎 年 爲 レ 曾 置 中 立 戒 壇 上

上 在 日 捨 二衣 鉢 興 建 當 昌不 室 進 具 之 日 一 亦 有 誠 願 一 許 二同 修 葺 一不 室 明 承 二聖 澤 一翼 二玉 鏡 之 重 開 一観 二大 師 之 奮 規 一望 二金 輪 之 再 韓 一今 講下一 置 二 一 切 有 部 戒 壇 院 額 一及 抽 工名 行 大 徳 七 人 西 季 爲 レ僧 敷 昌唱 戒 律 一六 時 奉 二爲 國 一修 解 行 一ご 密 目法 門 六云 々 (弘 法 大 師 杢 集 I 一 七 、 一 八 頁 ) こ れ に よ つ て 見 れ ば 金 剛 智 三 藏 の 住 院 で あ つ た 薦 輻 寺 に 古 い 一 切 有 部 の 石 の 戒 壇 が あ り 、 こ れ を 不 室 が 再 興 せ ん と し た こ と が 分 る 、 又 不 室 は 次 に 述 べ る 様 に 薦 幅 寺 で 有 部 戒 を 受 け て を る 、 こ れ 等 よ り 推

(7)

定 し て 金 響 三 藏 も 亦 有 部 の 律 を 傳 へ た も と 考 へ 錫 る 。 次 に 不 室 三 藏 は 前 の 引 文 で も 明 で あ る が 付 法 傳 に は 更 に 開 元八年(A.D.720)方至二東洛唱十二年 甲 子 年 方 弱 冠 於 二薦 幅 寺 一依 一 一 切 有 部 石 戒 壇 所 一而 受 二近 圓 -律 相 ラ カ ニ ナ ラ ヒ 洞 閑 知 而 不 レ住 ( 大 師 全 集L 二 〇 頁 ) オ ヨ ビ と 云 ひ (貞 元 録 十 五 に も 同 じ く 云 ふ ) 宋 高 僧 傳 に も ﹁ 泊 レ登 一具 戒 一善 解 二 一 切 有 部 鳳﹂ ( 致 四 、 七 一 頁 b ) と 云 つ て を る 、 こ れ 等 に よ ら 不 室 が 有 部 の 律 を 學 ん だ こ と は 明 ら か で あ る 、 但 し こ 、 に 云 ふ 一 切 有 部 と 云 ふ の が 果 し て 義 津 謬 の 根 本 説 一 切 有 部 律 (A .D.703 或 ハ702 繹 ) に 當 る も の で あ る か 或 は 十 諦 律 の こ と で あ る か が 疑 問 で あ る が 金 剛 智 不 塞 の 洛 陽 に 來 た の は 開 元 入 年 で あ る か ら そ の 時 は 既 に 有 部 律 は 義 浮 に よ (3) つ て 翻 謬 さ れ 且 つ 京 師 に は こ れ が 行 は れ る に 至 つ て を つ た の で あ る 。 い つ れ に し て も 金 剛 智 不 室 は 律 の 傳 持 に 於 い て は 當 時 一 般 に 行 は れ た 四 分 律 で は な く し て 一 切 有 部 の 律 で あ つ た こ と を 知 り 得 る の で あ る 。 次 に 弘 法 大 師 の 師 で あ る 慧 果 和 爾 は 如 何 と 云 ふ に 阿 閣 梨 の 弟 子 の 纂 し て 阿 闇 梨 の 行 状 記 に は ﹁ 年 及 弱 冠 一具 二波 羅 提 目 又 一⋮ ⋮ 初 乗 一四 分 一後 三 密 灌 頂 ﹂ (大 師 全 集 I. 四 三 頁 )と 云 ふ 、又 付 法 傳 に は ﹁ 年 登 二弱 冠 一進 昌之 ヲ 具 足 一四 分 兼 學 、 三 藏 該 通 ﹂ (大 師 奄 集 I. 三 九 頁 ) と 、 こ れ に よ れ ば 慧 果 和 省 は 四 分 律 を 學 し た の を 知 る 、 然 し 師 た る 不 塞 三 藏 が 有 部 に よ ら れ た も の な る 故 に 和 省 は 亦 有 部 も 亦 學 ば れ た も の と 考 。へ ね ば な ら ぬ 。 有 部 律 に つ い て 七

(8)

有 部 律 に つ い て  八 以 上 は 從 來 の 説 に よ り 密 敏 の 租 師 と 有 部 律 と の 關 係 を 見 た の で あ る が 更 に 一 般 に 密 教 と 有 部 律 が 時 代 的 に 域 的 に 如 何 な る 關 係 に あ り 上 來 の 傳 統 の 説 を 認 め る こ と が 出 來 る や 否 や を 考 へ る 必 要 が あ る 、 先 づ 有 部 律 と 密 教 と の 成 立 時 代 の 關 係 を 見 る に 密 敢 の 成 立 は 勿 論 そ の 起 元 を 潮 れ ば 佛 敢 以 前 の 婆 (4) 羅 門 敢 に 到 る こ と が 出 來 佛 陀 の 漱 説 中 に も そ の 片 影 を 見 る こ と が 出 來 る で あ ら う が 支 那 傳 繹 史 上 及 び 玄 彗 義 浮 等 の 族 行 記 か ら 見 て 大 膿 に 於 い て 西 紀 三 百 年 頃 に は 西 域 鶉 叢 國 (罰 = oゲa ) 地 方 に は 呪 術 が 佛 教 者 間 に 盛 ん に 行 は れ 更 に 五 百 年 末 頃 に は 西 域 印 度 全 土 に 密 教 思 想 が 浸 漸 し て 居 つ た と 云 ひ 得 る が 密 教 思 想 が 大 成 さ れ た 時 代 所 謂 純 部 密 敷 が 大 成 さ れ た 時 代 は 印 度 佛 教 史 上 最 後 の 頁 た る 西 紀 六 ハ 百 年 よ り 七 百 年 の 時 代 と 云 は ね ば な ら 漁 。 一 方 有 部 律 の 成 立 は 何 時 頃 で あ る か と 云 ふ に 勿 論 律 藏 の 成 立 時 代 を 決 定 す る こ と は 極 め て 困 難 な こ と で あ る が 有 部 律 が 他 の 諸 律 に 比 し て そ の 成 立 が 遙 か に 後 で あ る こ と は 疑 ふ べ か ら ざ る こ と で あ る 、 自 分 は 種 々 の 黙 よ り 考 察 し て 律 藏 の 成 立 順 序 を 大 膿 五 分 四 分 、十 諦 巴 利 、 (5) 僧 砥 、 有 部 と し 、 巴 利 律 を 紀 元 百 年 以 前 と し 有 部 律 を も つ て 三 百 年 よ り 四 百 年 の 間 と 定 め て を る 、 若 し こ の 説 に し て 大 過 な し と す れ ば 有 部 律 と 密 激 と は そ の 成 立 時 代 を ほ い 等 し く し 他 の 諸 律 の 成 立 し た 時 代 に は 密 激 は 未 だ 成 立 の 遣 程 に も 向 つ て ゐ な か つ た と 云 ふ こ と が 出 來 る 、 か く し て 密 教 の 成 立 時 代 印 度 に 於 い て は 根 本 有 部 が 最 も 盛 ん で あ り 律 に 於 い て も 新 し く 増 廣 成 立 せ る こ の 部 の 律 が 最 も 用 ゐ ら れ る に 至 つ た で あ ら う こ と は 後 に 述 べ る 南 海 寄 蹄 傳 の 文 よ り し て も 想 像 す る こ と が 出 來 る 。

(9)

次 に 密 教 と 有 部 律 と の 成 立 乃 至 流 行 地 域 の 關 係 を 見 る に 密 教 の 第 一 の 租 と す る 龍 樹 は 南 印 度 の 人 で あ り 所 謂 南 天 の 鐵 塔 よ り し て 爾 部 の 大 経 を 傳 へ た と 云 は れ る 、 第 二 租 龍 智 は セ イ ロ ン 或 は 南 印 の 生 れ で 密 敏 を 興 隆 し た の は 南 印 度 と 云 は れ て 居 る 、 又 金 剛 智 は 南 印 度 の 摩 羅 耶 國 (maraya ) の 人 で あ り 不 塞 と 共 に 支 那 に 來 り 後 再 び 南 印 度 に 渡 つ た 、 次 の 不 塞 は 生 國 は セ イ ロ ン で 金 剛 頂 経 の 梵 本 を 得 た の は 南 印 度 と す る 、 か く の 如 く し て 密 教 は 南 印 度 に 於 い て 興 起 し 流 行 し た も の と 見 ら れ る 、 然 し 唯 り 南 印 度 の み で な く 中 印 度 北 印 度 に 於 い て も 密 教 が 盛 ん に 行 は れ た こ と は 後 に 述 べ る 如 く で あ る 。 他 方 有 部 律 は い つ れ の 地 に 行 は れ た か と 云 ふ に 元 來 有 部 は そ の 成 立 が 佛 滅 後 三 百 年 に 北 天 竺 の 至 那 僕 底 國 (cina bhukti) で 迦 多 縛 尼 子 (katyayaniputra ) が 登 智 論 を 作 つ て 成 立 し た も の と 云 は れ る 如 く 北 方 が そ の 登 群 (6) 地 で あ り 流 行 地 で あ る 、根 本 有 部 は こ の 有 部 か ら 分 出 し て や は り 北 印 度 に 於 い て 行 は れ た も の で あ る 。 密 教 の 大 成 時 代 印 度 に 至 つ た 義 浄 (A .D .695 に 支 那 に 蹄 る 、 金 剛 智 不 室 の 渡 支 前 二 十 年 ) の 南 海 寄 蹄 傳 に 當 時 印 度 に 於 い て 流 行 せ る 小 乗 部 派 を 説 い て 、 1 、 阿 離 耶 莫 詞 僧 砥 尼 迦 耶 (Aryamahasamhhikanikaya 聖 大 衆 部 ) 2 、 阿 離 耶 悉 他 陛 羅 尼 迦 耶 (Aryasthaviranikaya 聖 上 座 部 ) 3 、 阿 離 耶 慕 羅 薩 婆 悉 底 婆 柁 尼 迦 耶 (Aryamulasarvastivadanikaya 聖 根 本 説 一 切 有 部 ) 4 、 阿 離 耶 三 密 栗 底 尼 迦 耶 (Aryasammtiyanikaya 聖 正 量 部 ) 有 部 律 に つ い て 九

(10)

有 部 律 に つ い て 一 ○ の 四 部 と し 、 中 印 度 塵 掲 陀 は 四 部 通 習 す る が 有 部 が 最 も 盛 ん で あ り 、 西 印 度 は 正 量 最 も 多 く 他 の 三 部 を 兼 ね 、 北 方 は 皆 有 部 で 時 に 大 衆 部 に 會 ひ 、 南 印 度 は 悉 く 上 座 部 で 鯨 部 を 少 し く 存 す 、 束 印 度 は 四 部 を 雑 行 し 師 子 洲 ( セ イ ロ ン ) は 皆 上 座 部 、 南 海 諸 洲 (馬 來 宇 島 、 ジ ヤ バ 島 等 ) は 純 ら 根 本 有 部 で 時 に 正 量 あ り 近 來 少 し く 他 の 二 部 を 兼 ね る と 云 ふ 、 (南 海 寄 蹄 傳 一 ) こ れ 等 に よ つ て 見 て も 有 部 の 流 行 地 は 北 印 度 を 最 と し 中 印 南 海 諸 洲 で あ る こ と を 知 る 。 こ れ に よ れ ば 有 部 の 流 行 地 と 密 教 の 流 行 地 は 相 反 す る 様 で あ る が 前 に も 述 べ た 様 に 密 教 は た い 南 方 に の み 流 行 し た の で は な い 、 特 に 那 蘭 陀 寺 を 中 心 と す る 中 印 度 及 び 迦 灘 彌 羅 (kasmira) 、 腱 陀 羅 (Ganhara ) 烏 伏 那(Udyana ) 等 に 密 教 の 流 行 せ る こ と は 明 ら か で あ る 、 即 ち 龍 智 菩 薩 は 生 れ は セ イ ロ ン で あ る が 中 印 度 の 那 蘭 陀 寺 を 中 心 に 法 を 弘 め た の で あ る し 、 一 説 に は 中 印 度 の 生 れ と も 云 は れ る 、 殊 に 支 那 へ 始 め て 純 部 の 密 教 を 傳 へ た 善 無 畏 三 藏 は 生 地 は 束 印の烏茶國(Udra)である が 出 家 の 後 に 直 ち に 那 蘭 陀 寺 に 來 り 達 磨 掬 多 (Dharmagupta 束 密 で は 龍 智 と 同 人 と す る ) か ら 密 教 の 奥 義 を 傳 へ 北 方 迦 灘 彌 羅 國 に 至 り 、 更 に 烏 伏 那 、 腱 陀 羅 等 の 諸 國 に 入 つ た の で あ る 、 一腱 陀 羅 國 で は 金 粟 王 の 塔 下 で 大 日 経 の 第 七 巻 (大 日 縄 供 養 法 ) を 登 見 し た と 云 ふ 、 殊 に 台 密 で は 大 日 経 は 第 六 巻 迄 で 達 磨 掬 多 が 登 見 し て こ れ を 那 蘭 陀 寺 に 傳 へ た も の を 善 無 畏 が 相 承 し た と 云 つ て を る 、 又 金 剛 智 三 藏 も 南 天 竺 の 人 で あ る が ( 一 説 に は 中 天 竺 ) 那 蘭 陀 寺 に 於 い て 出 家 し 西 印 、 南 印 、 セ イ ロ ン 等 二 十 鯨 國 を 遊 化 し た の で あ る 、 又 金

(11)

剛 智 不 室 に つ い て 注 意 す べ き は 金 剛 智 三 藏 は 不 室 三 藏 を 伸 つ て 支 那 に 來 ら ん と し て 摩 頼 耶 國 を 登 つ た が 途 中 暴 風 等 の 難 に 遭 ひ ジ ヤ バ 島 等 の 南 海 諸 洲 に 足 を 留 む る こ と 三 年 に し て 漸 く 支 那 に 着 い た と 云 ふ 、 こ の 爾 三 藏 が 三 年 間 足 を 留 め た 南 海 諸 州 は 義 浮 の 説 に よ る と 純 ら 根 本 有 部 の 行 は れ た 地 で あ る 。 以 上 に よ つ て 知 り 得 る 様 に 密 教 の 興 起 は 寧 ろ 南 印 度 で あ る と し て も 密 激 の 租 師 は 常 に 中 印 度 或 は 北 印 度 に 法 を 弘 め 密 教 は 寧 ろ 那 蘭 陀 寺 を 中 心 と す る 中 叩 度 に 於 い て 一 層 盛 ん で あ つ た と 見 る べ き で あ る 而 し て 中 印 北 印 は 實 に 有 部 の 最 も 盛 ん な 地 で あ つ た の で あ る 、 か く て 有 部 律 と 密 教 と は そ の 流 行 の 年 代 に 於 い て の み な ら す 、 そ の 地 域 に 於 い て も 相 三 致 す る と 云 ふ こ と が 出 來 る の で あ る 、 か く し て 我 々 は 有 部 律 が 他 の 諸 律 に 比 し て そ の 内 容 に 於 い て 多 く の 密 教 的 要 素 を 含 む こ と 、 密 激 の 頑 師 が 有 部 律 を (7) 珪 ゐ た こ と 等 の 理 由 を 了 鱗 す る こ と が 出 來 、 又 西 藏 佛 教 に 於 け る 律 が 有 部 律 な る 理 由 も 理 解 す る こ と が 出 來 る の で あ る 、 要 す る に 密 教 の 流 行 時 代 印 度 で は 小 乗 に 於 い て は 有 部 (即 ち 根 本 有 部 ) が 最 も 盛 ん (8) で あ り 大 乗 の 激 徒 も 實 際 の 律 儀 は 有 部 に よ つ た の で あ ら う 、 從 つ て 金 剛 智 が こ 十 歳 の 時 那 蘭 陀 寺 に 於 い て 具 足 を 受 け 更 に 六 年 間 大 小 乗 の 律 を 習 つ た と 云 ふ の は 有 部 の 律 に よ つ た も の で あ ら う 、 思 ふ に 律 に 於 い て 四 分 律 等 を 最 も 重 ん す る の は 支 那 日 本 に 於 い て の 事 で あ つ て 印 度 に 於 い て は 各 部 の 律 が 用 ゐ ら れ 、殊 に 後 に は 有 部 の 律 が 最 も 用 ゐ ら れ る に 至 つ た の は 有 部 が 最 も 盛 ん で あ つ た こ と よ り 知 り 得 る 。 支 那 日 本 で 律 と 云 へ ば 四 分 を 考 へ る 機 に な つ た の は た ま く 四 分 を 傳 へ た 人 に 律 の 大 家 が 出 た か ら に 宥 部 律 に つ い て 二

(12)

有 部 律 に つ い て 一 二 過 ぎ な い の で あ る 。

(3)

弘 法 大 師 の 有 部 律 探 用 の 第 二 の 理 由 は 有 部 律 の 内 容 が 密 教 的 色 彩 に 富 め る こ と で あ る 。 ( こ れ は 成 立 關 係 に よ る 結 果 で あ る か ら 前 項 に 含 ま す べ き か も 知 れ 組 が ) 呪 術 が 密 教 特 に 純 部 密 教 の 本 質 で あ る と は 云 ひ 得 な い が 密 教 の 基 く 所 は 兇 術 思 想 で あ り こ れ か ら 密 教 が 流 れ 出 た こ と は 否 定 す る こ と は 出 來 な い 、 純 部 密 教 の 眞 の 大 成 者 弘 法 大 師 は こ れ を と り 入 れ て そ の 中 に 最 も 明 了 に 佛 教 特 に 大 乗 佛 教 の 眞 義 を 與 へ た も の で 、 大 乗 佛 教 の 世 俗 諦 帥 勝 義 諦 の 思 想 を も つ と も 端 的 に 表 現 し た も の で あ る 、 原 始 佛 教 で は か 、 る 呪 術 の 禁 じ ら れ た こ と は 何 人 も 知 る 所 で あ つ て (9) 律 の 中 に は 特 に 呪 術 を 禁 す る 箇 條 が あ る 、 但 し 律 に 呪 術 を 禁 す る の は 絶 樹 的 で は な く し て 四 分 律 に よ つ て 見 て も 支 節 呪 、 刹 利 呪 、 鬼 呪 、 吉 凶 呪 、 轄 昌鹿 輪 幅卜 、 解 呂知 音 聲 唱等 を 禁 す る と し 治 内 虫 病 呪 、 治 食 不 消 呪 、 世 俗 降 伏 外 道 呪 、治 毒 脱 等 は 身 を 護 る も の な る 故 に こ れ を な し て も 無 罪 で あ る と す る 。 (四 分 律

XXII 五 四 頁 b ) 十 諦 律 四 十 六 に も 同 様 に 云 ひ 巴 利 律 に も 外 道 の 呪 術 を 學 び 或 は 説 く こ と を 不 浮 業 (tiracchanavijja ) と し て 禁 じ て を る が 、 文 字 (ledha) 憶 持 (dharana) を 學 び 自 己 を 守 る 爲 に 呪 文 を 學 び

(guttatthaya paritta m pariyapunati)

或 は 説 く の は 無 罪 (anapatti ) で あ る と 云 つ て を る 、 (VP.Vol. IV . P.305 ) こ れ に よ つ て 呪 術 の 禁 は 所 謂 外 道 の 專 門 的 呪 術 を 學 び 或 は こ れ に よ つ て 生 活 す る こ と を 禁

(13)

じ た の で あ つ て 一 般 慣 用 の 呪 は こ れ に よ つ て 生 活 を な さ ざ る 限 り は 許 さ れ た も の と 云 は ね ば な ら ぬ 、 少 く と も 現 存 律 藏 の 成 立 時 代 に は 既 に 佛 敦 々 團 内 に 於 い て 實 際 上 脱 術 が 行 は れ て を つ だ こ と を 知 り 得 る の で あ る 、 か く し て 成 立 の 遽 い も の 程 呪 術 に つ い て 多 く を 述 べ 密 教 思 想 の 影 響 を 受 け る こ と が 多 い と 見 る こ と が 出 來 る 、 こ の 見 地 よ り 見 れ ば 有 部 律 は 他 の 律 に 比 し て 呪 術 を 述 べ る こ と が 特 に 多 く 密 漱 的 色 彩 の 強 い こ と を 狡 見 す る の で あ る 、 経 律 中 に 存 す る 呪 術 の こ と に つ い て は 既 に 松 本 博 士 も 述 べ ら (10) れ て を る が 今 有 部 律 に 存 す る 呪 術 に つ き 数 例 を あ げ て 見 度 い 。 1 、 盗 戒 の 下 に 伏 藏 し た 他 人 の 所 有 物 を 取 る の に 脱 術 を 用 ゐ る こ と を 説 い て 島 弦 意 欲 〆取 彼 有 主 伏 藏 一、 從 レ床 而 起 整 二帯 衣 服 輔作 曼 茶 羅 於 二彼 四 方 一釘 二謁 地 羅 木 一以 二五 色 線 一而 園 繋 之 一、 於 二火 鐘 内 一然 二 諸 雑 本 口 諦 二禁 呪 一作 二如 レ是 言 一、 有 生 伏 藏 癒 レ 來 。 ( 有 部 毘 奈 耶 三 、 大 正 XXIII 六 三 九 頁 a ) か く の 如 き 密 敏 的 呪 術 の こ と は 諸 律 中 盗 戒 迄 で に 於 い て は 有 部 律 に 始 め て 出 る も の で 十 諦 律 四 分 律 等 に も 地 中 物 伏 藏 物 に つ い て 説 く が こ の 盗 兜 に つ い て は 何 ん 等 説 く 所 が な い 。 2 、 殺 戒 の 下 に は 起 屍 殺 及 び 作 呪 殺 を 説 き 呪 殺 の 法 を 説 い て を る 。 云 何 起 屍 殺 、 若 芯 鶴 故 心 欲 レ殺 二女 男 孚 澤 迦 等 一、 便 於 黒 月 十 四 q 一詣 昌屍 林 所 一、 覚 下新 死 屍 乃 至 蟻 子 未 二傷 損 者 上便 以 二黄 土 一搭 拭 香 水 洗 レ屍 以 二新 畳 一 讐 一遍 覆 二身 禮 二以 猷 塗 レ足 諦 レ呪 呪 レ之 、 干 レ時 死 屍 頻 申 レ欲 レ起 安 昌在 南 輪 車 上 一以 二 二 銅 鈴 一繋 於 頸 下 輔以 雨 及 刀 贈置 一於 手 中 二、 其 屍 帥 起 便 問 呪 師 一日 、 汝 欲 岡合 ヒ昌我 殺 二害 誰 耶 、 有 部 律 に つ い て 二 ご

(14)

有 部 律 に つ い て 一四 モ シ 呪 師 報 曰 汝 頗 識 昌彼 某 甲 女 男 孚 繹 迦 一不 、 答 言 我 識 、 報 曰 汝 可 三往 レ彼 断 二其 命 根 一。 ( 同 上 七 大 正 XXII工 六 二 頁 a ) こ れ に つ い て は 四 分 律 巴 利 律 に は 同 様 の 箇 虚 に 呪 術 を 説 か な い し 十 諦 に は 説 き 、 五 分 に は 極 め て 簡 軍 に 説 い て を る が い つ れ も 有 部 律 の 如 く 委 は し く 呪 術 の 法 を 説 く も の は な い 。 3 、 殺 戒 の 下 に 小 軍 比 丘 が 毒 蛇 に 蟄 さ れ て 死 ん だ 時 佛 が 舎 利 子 に か う 云 ふ 場 合 に は 次 の 伽 陀 及 び 禁 呪 を 諦 す れ ば 毒 蛇 の 爲 に 害 せ ら れ ぬ と 説 か れ た と 述 べ て を る 。

羅 解 難 世 癖遮 盧 計 薩 町 咽 咀 毘 盈 皇 麗 非沙 証 。 ( 同 上 六 大 正 XYIII 五 七 頁 a 、 b ) 4 、 波 逸 底 迦 第 八 十 の 下 に 郎 陀 夷 が 病 婆 羅 門 の 爲 に 呪 法 を 爲 し て 病 を 治 し た こ と を 説 い て 、

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汝 不 レ須 レ憂 、 呪 術 良 藥 力 不 思 議 、 須 輿 之 間 命 得 二李 復 一、 病 人 聞 已 深 生 二欣 慶 一、 郎 陀 夷 即 爲 諦 レ呪 欝 主 寳 名 一 、 彼 婆 羅 門 既 聞 レ呪 巳 衆 病 皆 除 卒 復 如 レ故 。 ( 同 上 四 + 三 大 正 XXIII 六 一 b ) 5 、 有 部 毘 奈 耶 雑 事 十 七 に は 信 者 が 病 に 罹 つ た 時 は 比 丘 の 鉢 水 を 乞 ふ て こ れ を も つ て 身 禮 を 洗 ひ 病 が 治 る こ と を 説 き 信 者 に 鉢 水 を 渡 す 方 法 を 佛 が 説 か れ た と し て 次 の 如 く 云 ふ 。 諸 蕗 島 授 二他 鉢 水 一所 有 行 法 我 今 當 レ制 、 先 可 三三 遍 浄 二洗 其 鉢 一、 盛 レ水 満 レ中 以 二佛 経 頚 一呪 乏 歎 遍 然 後 授 與 、 若 不 レ依 者 得 二 越 法 罪 一。 ( 大 正 XXIV 二 八 三 頁 c ) 6 、 同 じ く 雑 事 二 十 八 巻 、 二 十 九 巷 に は 毒 蛇 を 呪 す る 人 の こ と を 説 い て を る 。 ( 伺 上 三 四 一 頁b. 三 四 四 頁 c ) 7 同 じ く 雑 事 三 十 三 巷 に は 吐 羅 難 陀 尼 が 能 く 警 巫 を な し 鈴 を ふ つ て 人 家 に 至 わ 男 女 の 身 燈 を 洗 浴 し て 吉 凶 渦 薦 を 談 じ 病 の あ る も の は こ れ に よ つ て 癒 え た 、 こ の 爲 に 人 々 は 彼 の 尼 を 信 じ 専 門 の 巫 ト の 人 が 利 養 を 失 つ た こ と を 説 い て を る 。 ( 同 上 三 七 四 頁 、 ) 以 上 の 藪 例 に よ つ て 知 り 得 る 様 に 有 部 律 は 呪 術 を 説 く こ と が 甚 だ 多 い 、 勿 論 呪 衛 を 説 く の は 有 部 律 の み で な く 四 分 律 、 十 諦 律 、 僧 砥 律 等 に も あ る が 有 部 律 は こ れ 等 に 比 し て 特 に 多 く 説 い て ゐ る こ と は 律 書 を こ 讃 す れ ば 直 ち に 知 る こ と が 出 來 る 、 帥 ち 有 部 律 は 成 立 時 代 地 域 の 關 係 に よ り 密 敷 の 影 響 を 受 け 内 容 に も 密 敷 的 色 彩 が 見 ら れ る の で あ る 。 諸 律 中 有 部 律 が 呪 を 説 く こ と が 特 に 多 い こ と に つ い て は 他 の 方 面 か ら 疑 問 に 考 へ ら れ る 鐵 が あ る 、 有 部 律 に つ い て 一 五

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右 可部 律 に つ い て 一 六 帥 ち 眞 諦 の 部 執 異 論 疏 に よ れ ば 法 藏 部 は 経 律 論 の 三 藏 の 外 に 呪 藏 及 び 菩 薩 藏 を 説 く と 云 ふ 、 (三 論 玄 義 頭 首 所 引 ) こ れ に よ つ て 法 藏 部 は 特 に 呪 を 重 ん じ た も の で こ の 黙 に よ つ て 一 派 を 分 立 し た の で あ ら う と し (國 謬 大 藏 経 論 部 十 三 巻 附 録 、 木 村 、 干 潟 爾 氏 ) 又 後 世 の 密 教 は こ の 部 を も つ て 登 端 と す べ き で あ ら う (榊 博 士 、 異 都 宗 輪 論 講 義 ) と も 云 は れ て を る 、 こ れ に よ れ ば 法 藏 部 の 律 は 四 分 律 な る が 故 に 四 分 律 は 最 も 呪 を 重 ん じ こ れ を 説 く 筈 で あ る 、 又 西 域 記 九 に 大 衆 部 は 経 律 論 の 外 に 雑 藏 禁 呪 藏 の 五 藏 を 立 て る と 云 ひ 、 こ の 禁 兇 藏 と は 眞 言 の 別 號 で あ る こ と を 智 度 論 五 十 入 、 大 日 経 疏 十 二 、 十 九 等 に 説 い て を る 、 こ れ に よ り 佛 の 秘 密 思 想 は 大 衆 部 に よ つ て 傳 持 さ れ 、 法 藏 部 及 び 憤 子 部 に も こ れ を 宣 布 し た も の と 云 は れ る 、 而 し て 大 衆 部 の 律 は 僧 砥 律 な る が 故 に 僧 祇 律 に 禁 呪 を 説 く こ と が 多 い 筈 で あ る 、 か く の 如 く 都 派 分 立 の 關 係 よ り 見 れ ば 四 分 律 及 び 僧 砥 律 は 特 に 呪 術 を 説 く べ き で あ る が 律 藏 の 内 容 を 見 れ ば 有 部 律 が 最 も 呪 術 を 説 く こ と が 多 い の で あ る 。 こ の 黙 は 更 に 研 究 す べ き 問 題 で あ る と 思 ふ 。 (4) 弘 法 大 師 の 有 部 律 探 用 の 第 三 の 理 由 は 謬 者 義 浄 が 密 教 的 な 人 で あ り 、 そ の 課 た る 有 部 律 が 當 時 に 於 い て 最 も 新 し い 律 で あ つ た と 云 ふ こ と で あ る 、 義 浄 が 密 敢 的 な 八 で あ つ た こ と は 宋 高 僧 傳 に も ﹁ 性 傳 二 密 呪 一最 蓋 二其 妙 こ( 致 四 、 七 〇 頁 b ) と 云 ふ に よ つ て も 知 り 得 る し そ の 翻 課 し た 経 論 に は 密 部 の も の が 多 い

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こ と に よ つ て も 知 り 得 る 、 次 に 翻 鐸 年 時 に つ い て 見 る に 他 の 四 大 律 の 繹 は 十 調 律 がA ・D . 四 ○ 四 年 、四 分 律 が 四 一 二 年 、 僧 砥 律 が 四 一 六 年 、 五 分 律 が 四 二 四 年 で あ る 、 然 る に 有 部 毘 奈 耶 の 鐸 は こ れ 等 よ り 遙 か に 後 れ て 唐 の 義 浄 (A.D .635-713 ) に よ つ て 則 天 武 后 の 長 安 三 年 (A.D.703) 或 は そ の 前 年 迄 で に 課 さ れ て を る 、 そ の 他 の 部 分 の 有 部 律 も 大 禮 七 一 〇 年 迄 で に 繹 さ れ た も の で あ る 故 に 有 部 律 は 他 の 四 律 に 比 し て 約 三 百 年 の 後 に 課 さ れ た も の で 漢 鐸 律 中 最 も 新 し い も の で あ る 、 ( こ の 爲 に こ の 律 の み が 普 通 に 律 藏 と 云 は れ る 中 か ら 除 外 覗 さ れ る の で あ る ) 而 し て 弘 法 大 師 の 入 唐 は 延 暦 二 十 三 年 (AD804 ) な (11) る 故 に こ の 律 の 謬 さ れ た 後 約 百 年 で あ り 大 師 の 入 唐 以 前 こ の 律 は 既 に 日 本 に 傳 つ て は ゐ た が 然 し 當 時 律 と 云 へ ば 所 謂 四 律 五 論 が 考 へ ら れ て ゐ た こ と は 想 像 に 難 く な い 、 (鑑 眞 和 爾 の 將 來 さ れ た 律 書 は 四 分 律 及 び 菩 薩 戒 に 關 す る も の 、 み で あ る ) 弘 法 大 師 は 御 請 來 目 録 に も 上二. 新 請 來 経 等 目 録 一 表 と 云 は れ る 様 に 大 師 の 請 來 せ ら れ た も の は 大 部 分 不 室 (A.D .705-774 ) 鐸 の 新 し い 経 論 で 未 だ 日 本 に 傳 ら ぬ も の (12) で あ り 、 奮 鐸 の も の は 未 だ 傳 ら す 或 は 名 の み あ つ て 實 に 闘 げ た も の で あ る 、 ま た 大 師 の 三 學 録 に よ つ て 見 て も 眞 言 宗 徒 の 學 ぶ べ き 経 論 は 殆 ん ど 不 室 鐸 の 新 課 の 経 で あ る 、 か く の 如 く 大 師 は 從 來 の も の よ り も 新 し い も の を 傳 へ こ れ に よ つ て 宗 を 立 て ら れ た の で あ る か ら 律 に 於 い て も 最 も 新 し く 從 來 鯨 り 省 み ら れ な か つ た 有 部 律 を 採 用 さ れ た の で あ る と 見 る べ き で あ る 、 況 ん や 密 数 租 師 の 律 の 相 承 が 有 部 系 な る に お い て を や と 云 ふ べ き で あ る 。 右 隠郡 可律 に つ い て 一 七

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有 部 律 に つ い て 一 八 爾 注 意 す べ き は 三 學 録 に は 現 今 大 藏 経 に 掻 め ら れ て ゐ る も の よ り も 少 な く 出 家 事 、 安 居 事 、 乃 至 破 僧 事 等 腱 度 部 に 當 る 七 部 が の つ て ゐ な い (雑 事 の み あ る ) こ れ は ど う 云 ふ 理 由 に よ る か と 云 ふ に こ の 七 事 は 義 浮 三 藏 が 謬 し て 未 だ 整 理 を な さ す 入 滅 し た 爲 世 に 流 布 せ す 支 那 で は 逸 し て 高 麗 に の み 存 し て ゐ た の を 後 に 貞 元 録 (A .D .800 に 成 る ) の 作 者 圓 照 が 捜 検 し て 得 た も の で あ る 、 故 に こ の 七 事 は 開 元 録 (開 元 十 八 年-A .D .730-智 昇 撰 ) に は 載 つ て ゐ な い 、 弘 法 大 師 は 貞 元 録 を 請 來 せ ら れ た が (御 請 來 目 録 ) 當 時 こ の 七 事 は 未 だ 日 本 に 傳 つ て ゐ な か つ た の で 開 元 録 に 準 じ て. 三 學 録 を 定 め ら れ た 為 に こ の 七 事 は 略 さ れ た の で あ る と 云 は れ て を る 。 (5) 弘 法 大 師 は 眞 言 宗 所 學 の 律 を 有 部 律 と 定 め ら れ た が そ の 後 有 部 律 は 眞 言 宗 に 於 い て 如 何 に 行 は れ た か に つ い て は 實 の 所 未 だ 自 分 の 研 究 が 及 ん で ゐ な い が 極 め て 概 略 的 に 云 へ ば 元 來 日 本 佛 激 は 制 規 の 上 に は 戒 律 が 存 し て ゐ た が こ れ が 最 も 重 大 な る 關 心 事 で は な か つ た 、 故 に 弘 法 大 師 以 後 に 於 い て 眞 言 宗 の 戒 律 殊 に 小 乗 戒 (外 儀 は 小 乗 に し て 内 心 は 大 乗 菩 薩 の 心 地 に 住 す る の が 大 乗 佛 敢 殊 に 日 本 佛 教 の 小 乗 戒 に 樹 す る 態 度 で あ つ た ) の 方 面 は 特 別 の 關 心 も な く 事 實 上 無 親 さ れ が ち で あ つ た ら し い 、殊 に 一 般 の 律 學 即 ち 四 分 律 も 鑑 眞 が こ れ を 傳 へ た 後 い く ば く も な く し て 衰 へ 李 安 の 中 葉 以 後 は 戒 學 戒 行 共 に 地 に 墜 ち 僧 侶 は 腐 敗 堕 落 す る に 至 っ た 、 か く て 鎌 倉 期 に 入 り こ の 堕 落 を 慨 き 戒 律 の 復 興 を な さ ん と す る

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に 至 つ た の が 笠 置 の 解 股 上 人 で あ り 、 そ の 弟 子 戒 如 の 門 下 畳 盛 、 有 巌 、 圓 晴 、 叡 尊 の 四 大 徳 に 至 つ て 戒 律 は 大 い に 復 興 さ れ た 、 一 方 こ の 南 京 律 に 樹 し て 俊 彷 、 曇 照 は 宋 か ら 戒 律 を 傳 へ て 北 京 律 を 起 こ し た 、 か く の 如 く 鎌 倉 佛 教 の 革 新 は 實 に 其 の 端 著 を 戒 律 の 復 興 に 開 い た の で あ つ た 、 而 し て こ れ 等 の 律 は い つ れ も 四 分 律 南 山 宗 で あ つ た の で あ る 、 か く の 如 く 鎌 倉 の 初 期 に 至 つ て 戒 律 が 復 興 さ れ 四 分 律 が 講 究 せ ら る 、 に 至 り 眞 言 の 宗 徒 も 同 じ く 律 宗 に 準 じ て 四 分 律 を 學 ん だ ら し く 、 學 如 が 翻 刻 し た 説 一 切 有 部 律 撮 の 序 (寳 暦 十 三 年 金 剛 峯 寺 菰 島 密 門 題 ) に 、 中 世 有 叡 尊 大 徳 者 一常 慨 傳 戒 已 磨 途 嘉 禎 丙 申 季 秋 與 一盛 嚴 晴 三 師 同 志 一⋮⋮⋮ 我 朝 律 宗 之 中 興 也 、高 祓 シ 之 兇 孫 者 輿 レ之 不 レ依 二行 有 部 律 一鳴 呼 滑 々 者 天 下 皆 是 也 云 々 と 云 ふ 、 又 同 じ く 弘 範 の 序 に も 、 夫 密 宗 之 培 戒 學 者 必 用 二有 部 一然 與 二彼 律 宗 之 用 意 天 不 同 也 、 而 中 古 以 來 學 二密 律 一者 倣 他 律 儀 一學 二行 事 鋤 レ ド モ 等 一於 二有 部 律 及 高 祓 之 學 則 輔則 有 而 若 レ亡 焉 と 云 つ て を る 、 然 し こ れ は 弘 法 大 師 自 身 に も 原 因 が あ る の で 大 師 は 眞 言 宗 徒 の 所 學 と し て 有 部 律 を 規 定 さ れ た け れ ど も 宗 徒 の 實 際 の 受 戒 に は 當 時 の 一 般 風 習 に よ り 東 大 寺 戒 壇 院 に 於 い て 四 分 律 に よ る 具 足 戒 を 受 け る こ と を 規 定 さ れ た の で あ る 、 即 ち 大 師 御 遺 告 に 、 シ チ 今 須 東 寺 座 主 大 阿 闇 梨 耶 執 事 欲 レ改 二直 之 一亦 簡 二定 諸 定 額 僧 中 能 才 童 子 等 一於 二山 家 一試 度 部 於 二東 大 寺 戒 墳 有 部 律 に つ い て 一 九

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有 部 律 に つ い て 二 〇 シ メ ヨ 受 二呉 足 戒 一受 戒 之 後 於 二山 家 嘱三 箇 年 練 行 蕨 後 各 各 随 レ師 受 二學 密 教 一云 云 (大 師 杢 集II. 七 九 七 頁 ) と 云 さ渦 、 帥 ち 弘 法 大 師 の 東 大 寺 戒 壇 に 封 す る 態 度 は 圓 頓 戒 壇 建 立 を 叫 ん で 一 生 を 苦 岡 さ れ た 傳 教 大 師 と 全 く 反 封 で あ る 、 こゝ に も 弘 法 、 傳 藪 爾 大 師 の 性 格 の 相 違 を 見 る こ と が 出 來 る の で あ る 、 又 元 緑 七 年 七 月 江 戸 塞 雲 寺 の 畳 彦 が 寺 肚 奉 行 に 奉 つ た 、 ﹁ 眞 言 宗 律 事 ﹂ (寓 本 ) に も 次 の 如 く 云 ふ 。

扁 巷 アリ 秘 書 ナ リ ニ モ 高 野 山 二 住 シ 候 僧 ハ 先 ヅ 東 大 寺 ノ 戒 壇 ニ テ 具 足 戒 ヲ 受 ケ 比 丘 ト 成 テ 後 チ 三 年 間 戒 學 ヲ シ テ 其 ノ 後 チ 高 野 山 之 衆 徒 二 成 テ 眞 言 ヲ 學 セ シ メ ヨ ト 記 セ ラ レ 候 故 高 野 山 ノ 僧 モ 昔 シ バ 比 .丘 ノ 戒 ヲ 受 ケ 持 チ 候 、 然 ル ニ 中 古 已 來 ハ 戒 ヲ 受 ヶ ル コ ト ハ 無 ク 候 ヘ ト モ 唯 今 二 至 ル マ デ 高 野 山 ヒ ク タ リ ニ テ 小 鬼 ノ 髪 ヲ 剃 テ 帥 チ 衆 二 入 レ 候 時 生 年 十 九 歳 受 戒 東 大 寺 住 山 三 箇 年 ト 三二 行 書 キ タ ル 折 紙 ヲ 其 ノ 新 楼 意 ノ 師 ノ 方 ヨ リ 衆 中 へ 出 シ 候 、 是 其 ノ 遺 風 ニ テ 御 座 候 云 云 こ れ に よ つ て 高 野 山 の 戒 が ど う で あ つ た か も 知 り 得 る 。 眞 言 宗 に は 眞 言 律 宗 と 云 は れ る 如 く 戒 律 に 心 を よ せ た 大 徳 が 屡 よ 現 は れ た 、 中 世 戒 律 の 中 興 た る 興 正 菩 薩 叡 尊 は 専 ら 密 敢 を 究 め た 人 で あ つ て 眞 言 律 宗 の 粗 と せ ら れ て を る 、 徳 川 時 代 の 始 め に 至 つ て 愼 尾 山 の 明 忽 上 人 が 一 旦 壌 滅 し た 眞 言 律 を 棋 尾 の 雫 等 心 王 院 に 再 興 し た の で あ る 、 後 元 腺 年 間 に 浮 巌 律 師 が あ り 、 江 戸 湯 島 に 難 雲 寺 を 創 し て 戒 律 の 道 場 と し た 、 か く 眞 言 の 精 紳 に よ つ て 小 乗 戒 を 保 た ん と す る 眞 言 律 が 存 し た が そ の 小 乗 の 戒 儀 は 弘 法 大 師 所 制 の 有 部 律 で あ つ た か と 云 ふ に 必 す し も さ う で は

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な い 、 叡 尊 、 明 忍 は 四 分 律 で あ り 浄 嚴 律 師 は 四 分 と 有 部 を 並 用 し た 、 眞 ハ言 律 宗 が 眞 に 有 部 律 を 用 ゐ た の は 慈 雲 尊 者 飲 光 (A,D,1718-1804 ) に よ つ て で あ る 、 慈 雲 は 義 浄 の 南 海 寄 蹄 傳 を 鐸 し て 南 海 蹄 寄 解 績 釣 四 巻 を 作 つ て を る 、 南 海 寄 蹄 傳 は 義 浄 が ア リ 凡 此 所 論 皆 依 根 本 説 一 切 有 部一不 レ可 下將 二徐 部 事一 見 レ揉 巾於 斯上 、 此 輿 二十 訥 天 蹄 相 似 、 有 部 所 レ分 三 部 之 別 一 法 護 二 化 地 三 迦 撮 卑 、 此 並 不 レ行 二五 天 唯 烏 蔓 那 國 及 轟 菰 干 閲 雑 有 二行 者 一然 十 訥 律 亦 不 是 根 本 有 部 一 也 (卷一 ) と 云 ふ ご と く 有 部 律 に よ つ て .述 べ た も の で あ る 、 慈 雲 は こ の 鐸 に 於 い て 、 今 就 レ名 求 査 ハ實 唱有 部 律 名 二毘 奈 耶 一毘 奈 耶 者 三 藏 之 一 、 制 教 之 総 號 、 絵 律 有 二別 目 一謂 四 分 五 分 十 諦 等 毘 奈 耶 爲 二本 部 一可 レ観 と 云 ひ 有 部 律 を も つ て 三 藏 の 一 た る 根 本 律 と し こ れ よ り 他 律 が 分 出 し た も の と し て を る 、 か く て 慈 雲 尊 者 は 有 部 律 を 研 究 し こ れ に よ る 種 々 の 書 を 著 は し て を ろ .、 更 に 明 治 の 雲 照 律 師 も こ の 流 を 汲 み 正 法 律 を 高 張 し た の で あ る 、 雲 照 律 師 は 萬 延 元 年 八 月 三 十 四 歳 の 時 高 貴 寺 で 四 分 律 に よ つ て 具 足 戒 を 受け 行 事 紗 等 を 學 ん だ が 翌 文 久 元 年 に は 高 野 山 眞 別 虜 で 榮 嚴 和 尚 を 戒 師 と し て 根 本 説 一 切 有 部 律 に よ つ て 重 ね て 具 足 戒 を 受 け 、 そ の 後 翌 々 年 文 久 三 年 よ り 三 ヶ 年 間 眞 別 庭 に 於 い て 有 部 律 を 研 究 し 、 後 東 京 に 戒 律 學 校 (目 白 僧 園 ) を お こ す に 至 つ た の で あ る 、 但 し 慈 雲 有 部 律 に つ い て 二 一

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有 部 律 に て い つ 二 二 雲 照 等 有 部 律 に よ る と 錐 も 必 す し も 他 律 を 排 す る の で は な く し て 四 分 律 , 梵 網 戒 等 は 自 ら 研 究 し 又 こ れ を 他 に 講 説 し た の で こ れ は 印 度 に 於 け る 部 派 と 大 い に 異 な る 黙 で あ る 。 III 有 部 律 の 特 色 以 上 の 論 述 で 豫 定 の 紙 数 は 遙 か に 超 過 し て し ま つ た し 本 論 の 中 心 題 目 は 終 つ た の で あ る か ら 編 輯 者 の 迷 惑 を 思 ひ 以 下 極 め て 簡 軍 に 箇 條 書 に し て 委 は し く は 他 日 の 機 會 を 待 つ て 論 す る こ と に し た い 。 第 一 に 有 部 律 の 地 位 に つ い て は 有 部 律 は 有 部 教 會 の 改 革 さ れ た 根 本 説 一 切 有 部 に 囑 す る 律 で 印 度 に 於 い て は 部 派 と し て は 最 も 有 力 な も の 、 律 で あ る 、 こ れ と 十 諦 律 が 同 一 系 統 な る こ と は 内 容 比 較 に よ つ て 知 り 得 る 、 又 有 部 律 が 支 那 日 本 で 除 外 親 さ れ た の は 醗 諜 が 逞 い 爲 で あ る 。 第 二 に 有 部 律 の 文 學 的 要 素 に つ い て は , 有 部 律 は そ の 量 に 於 い て 最 も 廣 大 で 比 丘 戒 の み に つ い て 見 て も 最 も 簡 輩 な る 五 分 律 に 比 す れ ば 殆 ん ど 四 倍 の 量 を も つ て を る 、 こ れ は 有 部 律 に は 律 と し て は 本 質 的 の も の で な い 、 本 生 話 (jataka) 讐 喩 潭 (avadana ) 、 教 義 的 説 明 等 を 非 常 に 多 く 附 加 す る 爲 で あ つ て 有 部 律 を 一 護 す れ ば 通 俗 的 な る 敏 義 宣 傳 の 文 學 的 作 品 た る の 戚 が あ る 、 又 律 藏 の 要 素 に 註 繹 、 因 縁 談 等 を 多 く 附 加 す る 黙 は 経 (sutta ) に 封 し て 論 (abhidhamma ) が あ る 如 く 本 來 の 律 (vinaya ) に 封 し て 阿 毘 毘 奈 耶 (abhivinaya ) の 形 を と る も の で 有 部 律 は 阿 毘 毘 奈 耶 の 代 表 的 な る も の と 云 ひ 得 る と 思 ふ 。 (僧 砥 と 有 部 は こ の 黙 に 於 い て 似 る )

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第 三 に 有 部 律 と 巴 利 律 と の 比 較 に つ い て は こ の 爾 者 は そ の 部 鵬 及 び 成 立 地 方 が 異 な る に 拘 ら す 形 式 に 於 い て 頗 る 似 る も の が あ る 、 こ れ は 何 に よ る も の で あ ら う か 、 或 は 成 立 時 代 の 關 係 に よ る も の で は な い か と 思 ふ 、 こ の 黙 は 更 に 研 究 す べ き 問 題 で あ る 、 こ の 事 に つ い て は 宗 漱 研 究 誌 上 (新 八 巻 六 號 ) 拙 稿 墾 照 せ ら れ た い 。 ( 七 .九 . 二 ) 註(1) こ れ に ょ つ て 又 十 諦 律 が 龍 樹 以 前 に 成 立 ぜ る も の で あ る と 云 へ ろ 、 自 分 ば 十 諦 律 の 成 立 な 紀 元 一-一 〇 〇 頃 と 推 定 し て 々 ろ 。 ( 宗 蹴荻 研 究 新 八 一巻 六 曲號 拙 稿 轟参 暫照 ) (2)宋高鱈 傳 の 金 剛 智 傳 に に ﹁ 泊 登 戒 法 偏 賠 十 八 部 律 云 云 ﹂ ( 致 四 、 七 〇 頁 b ) と 云 ふ が こ の 十 入 部 の 律 と ば 何 か い さ さ か 疑 問 が あ る 。 著 者 に 小 乗 十 八 部 の 律 矩 悉 く 賠 い れ と 云 ふ 意 味 で 書 い カ か 知 れ ぬ が そ れ は 實 際 上 に あ り 得 な い 、 何 ん と な れ ば 當 時 十 八 部 の 律 が 悉 く 存 し て ゐ 六 と に 考 へ ら れ 沁 か ら 、 又 十 八 部 律 な ろ 一 種 の 律 で あ る と す れ ば こ れ に 入 十 部 律 の 誤 で あ ら う 、 入 十 部 の 律 は 十 諦 律 或 に 有 部 律 で あ る こ と に 松 本 傅 士 の 論 じ ら れ て な る 所 で あ る 。 ( 佛 典 批 評 論 ) ヘ ヘ へ (3)宋高曾 傳 義 浮 の 傳 に ﹁ 浮 錐 三 偏 翻 二 三 藏 一而 偏 攻 二 律 部 蝋課 綴 之 暇 曲 授 二學 徒 一 凡 所 行 事 皆 術 二急 護 一漉 嚢 溝 繊 特 異 二常 倫 學 侶 一傳 行 偏 二 ヘ ヘ へ 干 京 洛 一美 哉 亦 逡 法 之 事 盛 也 ﹂ と 云 ふ 。 (4)大正 十 四 年 松 本 文 三 郎 博 士 講 演 録 ﹁ 眞 言 密 教 の 興 ろ ま で ﹂ 参 照 、 渡 邊 海 旭 氏 も 阿 含 の 中 に 密 教 の 基 礎 と な う も の が あ ろ と し て 孔 雀 王 経 な そ の 適 例 と し て 、あ げ て を ら れ る 。 ( 昭 和 七 年 度 佛 教 學 大 會 講 演 ) (5)宗教研 究 新 入 巷 六 號 七 八 頁 拙 稿 塗 照 。 (6)佛 蘭 西 の ヂ ヤ ン 、 ビ ル チ ル ス キ (Jean Przyluski ) 教 授 に } 九 一 四 年 に ﹁ 根 本 有 部 律 並 び に 關 係 文 献 に 表 ば れ た る 西 北 印 度 ﹂ な ろ 論 文 た 獲 表 し (J.A.1914.p .439-568 ) 根 本 有 部 律 が カ シ ユ ミ ー ル や そ の 隣 接 地 方 に 積 極 的 關 係 を 持 つ こ と 、 こ れ 等 の 律 典 の 編 立 時 代 カ シ ユ ミ ー ル の 丈 學 的 言 語 ば 梵 語 で あ つ た こ と 々 明 に し て 々 ろ 。 有 部 律 に つ い て 二 三

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有 部 律 に つ い て 二 四 (7)西藏律が有 部 律 な る こ と に 簡 畢 に に そ り 戒 條 の 順 序 た 比 較 す ろ こ と に よ り 爾 者 の 酬 致 に よ つ て 知 り 得 る 。 ( 西 本 龍 山 氏 諸 部 戒 本 比 較 表 塗 照 ) (8)那蘭陀 寺 に 於 け ろ 小 乗 律 ほ 何 ん で あ つ た か ば 更 に 研 究 す べ き で あ ろ 、 識 者 の 教 示 ん 、仰 ぎ 度 い 。 (9)比丘尼 バ ー チ ツ テ イ ヤ 四 十 九 , 五 十 、 四 分 律 で に 百 十 七 、 百 十 入 、 百 六 十 九 條 、 大 乗 戒 に も 四 十 八 輕 戒 の 第 二 十 九 に 邪 命 養 均 戒 と し て 呪 術 葎 も つ て 活 命 す ろ こ と 々 禁 じ ろ o (10)前述講演 錐 ﹁ 眞 言 密 教 の 興 る ま で ﹂ 塗 照 。 (11)石田茂作 氏 著 ﹁ 爲 経 よ り 見 衷 る 奈 良 朝 佛 教 の 研 究 ﹂に よ れ ば 有 部 律 艮 既 に 天 亭 入 年 よ り 十 五 年 (A .D.736-743 ) に 書 爲 さ れ て 々 ろ 、 何 人 に よ つ て 、請 來 さ れ カ も の か 不 明 で あ る が 或 に 天 亭 七 年 に 玄 肪 が 請 來 し カ も の か 。 (12)有部律 ば 御 請 來 目 錐 に は な い 、 こ れ は 大 師 が 實 際 講 來 ぜ ら れ な か つ れ の か 、 或 は 講 來 に さ れ た が 既 に 以 前 に 日 本 に 傳 ば つ て 、 居 ろ 故 に 載 ぜ ら れ な か つ れ の か 、 恐 ら く 後 者 で は な か ら う か 。

参照

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