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北九州独特遺産「海と船が見える坂道」 連載その1

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Academic year: 2021

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(1)

続「海と船が見える坂道」

-横須賀の坂道と横須賀文化+α-

vol.2

- 1 - 国土技術政策総合研究所 管理調整部長 吉田 秀樹

1. 坂道紹介①

浦賀道入り口にあたる「横須賀(追浜)・横浜(六浦)境界」(和田山、夕

照橋、野島)の坂道と浦賀道

今回以降追浜地区から各地区の「海と船が見える坂道」を紹介することとなります。その 場合、浦賀道に沿って坂道を紹介することとなります。今回は、横須賀市域に入る直前の「坂 道」紹介をしたいと思います。 横須賀市域と横浜市金沢区の境界は、和田山、夕照橋、野島付近となります。電車でいう と京浜急行本線、「金沢八景駅~追浜駅間」となります。皆さんは、たぶん国土技術政策総 合研究所や港湾空港技術研究所関係の仕事で、京浜急行を利用し、京急久里浜駅に「快特」 で行くとき、金沢八景駅を発車してしばらく後にご覧になるとこことなります。今回この3 つについて紹介します。周辺地図は3ページにあります。(なお写真が少し曇っていますが、 写真撮影時(11/3午後)PM2.5が高かったためと思われます。) ○和田山(国道16号線 和田山交差点 横須賀に向かって左折) 国道16号線(昔の浦賀道)和田山交差点を左折すると和田山です。和田山は、横須賀市 域と横浜市金沢区の境界であり、古くは相模国と武蔵国の境でした。現在この境には、六地 蔵があります(写真①)。昔は京急線上にあってそれを移したとか。12,3年前は、私が 後ほど説明する財務局もしくは関東地整の公務員宿舎「室ノ木住宅」に住んでいた時には、 写真②のマンションが建設中でしたが、今では和田山全体が、マンションや一戸建て住宅に 開発されました。 和田山への坂は超急です。10パーセントは楽に超えています(写真②)。普通の自転車 では登れません。和田山からは、横須賀市側の街追浜、横浜側の街を臨めます(写真③④)。 また後ほど紹介する野島や財務局もしくは関東地整の「室ノ木住宅」の公務員宿舎も見つけ られます(写真⑤⑥)。今回はかすんでいますが、東京湾や横須賀港が見えます。海側への 下りの坂ももちろん急です(写真⑦⑧)。 写真①交差点の六地蔵 写真②和田山の登り坂 写真③横須賀市側を望む 写真④横浜市側を望む

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続「海と船が見える坂道」

-横須賀の坂道と横須賀文化+α-

vol.2

- 2 - ○野島(夕照橋から登る) 金沢八景のひとつ「野島夕照」で有名な夕照橋から野島に登ります。野島には戦前、横須 賀海軍警備隊野島浦高角砲台が設置されていた。さらに、野島には、終戦直前、戦闘機を格 納する野島掩体壕(えんたいごう)が作られました。夕照橋のたもとには、公務員宿舎があ り私もかつて住んでいました。いいところです。夕照橋から平潟湾の水路があります(写真 ⑩)。水路の向こうには日産の工場があります。この水路は、横須賀市と横浜市の境界線で 戦後ずいぶんもめたようです。 さてそれでは野島に登りましょう。野島の階段は強烈です。写真を見てもその凄さがわか るでしょう(写真⑪,⑫)。頂上のかつて砲台があった場所には現在は展望台があります(写真 ⑬)。展望台からは360度の展望が見られます(写真⑭)。東京湾や船も当然見えます。ざっ と見てみると、室の木追浜方面の風景。日産自動車のテストコース(写真⑮)。横浜市の埋め 立て地と八景島シーパラダイス(写真⑯)。そして海の公園(写真⑰)。実はこの展望台からの 夕日がきれいです。日が沈んだ後は、富士山が黄昏にきれいに浮かびます。最高です。 降りて野島の周りを歩いてみましょう。急な階段をおります(写真⑱)。室の木宿舎に住ん でいた時、子どもとよくこの階段でジャイケン(福井ではジャンケンとはいいません。)を しながら上り下りました。登るのも降りるのも楽しい時間でした。降りた後は、横浜市営の バーベキュー広場があり、それを過ぎるとすぐ航空掩体壕(写真⑲)につきます。ここは、戦 前追浜に横須賀海軍航空隊があった時に航空機を格納するためのわが国最大の掩体壕が作 られました。さらに進むと横浜では唯一の砂浜である野島海岸につきます(写真⑳)。ここで は子供とよく潮干狩りやカニ釣りをしたものです。さらに進むと、伊藤博文野島別荘につき ます。この別荘は最近改修されたようです。(写真㉑) 写真⑤野島を望む 写真⑥「室の木宿舎」も見える 写真⑦急な下り坂 写真⑧坂を下から望む 写真⑨夕照橋から野島を望む 写真⑩橋から平潟湾を見る。 写真⑪野島への階段 写真⑫真っ直ぐ続く。写真⑬頂上展望台

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続「海と船が見える坂道」

-横須賀の坂道と横須賀文化+α-

vol.2

- 3 - ○浦賀道 浦賀道は、江戸時代、幕府と浦賀奉行所を結ぶ重要な陸の路でした。保土ヶ谷宿から六浦 を経由して浦賀に続きます。追浜以南は海岸線が複雑なため険しい山道となるなど不便であ り、海軍が拡張するまでは、金沢と横須賀や浦賀を結ぶ海運も利用されていました。この浦 賀道はわたくしの自宅の近くも通っていました。今回の「海と船が見える坂道」は「浦賀道」 を中心に展開する予定です。 ◎浦賀道のルートの詳しいところは下記のHP参照してください。 http://latlonglab.yahoo.co.jp/route/watch?id=1d9b7c7d68e8d1467978959484ee6a43 ◎今回紹介した和田山、夕照橋、野島の周辺図(マークは和田山交差点) 写真⑭六浦追浜を望む 写真⑮日産テストコースを見る 写真⑯八景島シーパラダイス 写真⑰海の公園写真 写真⑱野島から降りる 写真⑲航空掩体壕 写真⑳野島海岸 写真㉑伊藤博文別荘

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続「海と船が見える坂道」

-横須賀の坂道と横須賀文化+α-

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2.横須賀紹介① 横須賀港の歴史概観

次回以降横須賀文化を紹介しますが、横須賀の歴史を知らなくして紹介することは出来ま せん。 横須賀の歴史は、わが国の近代化を進めた転換点の歴史と言っていいでしょう。具体的に どのような契機があったか見てみましょう。 ① ペリー来航(1853) 教科書にも出てきますが、やはり我が国にとってこの出来事が我が国近代化の契機に なったことは確かです。浦賀と言われますが久里浜に上陸したとか。 それまでの横須賀は、干鰯を扱う湊として浦賀湊があったこと、江戸への船の出入り を監視する場として下田から1720年に奉行所が移ったということで歴史に登場しま す。 ② 横須賀製鉄所(横須賀海軍工廠)建設(1865) 江戸幕府勘定奉行小栗上野介などにより横須賀に造船所が建設されます。建設にはフ ランス海軍のヴェルニーの指導の下建設されます。この製鉄所が作られたからこそ明治 以降のわが国の工業化もスムーズにできたといえます。なお、このときに作られたドッ クは現在も米軍基地内で現役で使われています(写真①)。1 号ドックは現存するわが国 最古のドライドック(1867 年着工 1871 年完成)です。2 号ドック(1880 年着工 1884 年 完成)、3 号ドック(1871 年着工 1874 年完成)もかなり古いです。我が国ならば重要文 化財級でしょう。米軍内にはその他戦前からのドックが6つあります。また別の機会に ご紹介します。 ③ 横須賀鎮守府(1884) 横須賀製鉄所が整備されその後1876 年海軍直属になりますが、1884 年、横浜の東海 鎮守府から横須賀に移転し横須賀鎮守府になったことが軍都横須賀への発展への転換点 となったと思われます。その後海軍関係の諸施設が作られるとともに陸軍関係の施設も 立地していきます。そのための家族、工場労働者の集中により横須賀の人口も増加して いき町も発展していき、坂道も発展していきます。横須賀の文化もこのころに起源を有 するものが多いと思われます。 写真①一国屋坂から米軍ドックを見る 写真②わが国現存最古の1号ドライドック 写真③2号ドック

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続「海と船が見える坂道」

-横須賀の坂道と横須賀文化+α-

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- 5 - ④ 戦後 戦後横須賀は軍都から平和産業港湾都市に転換しました。捕鯨産業、さらには日産自 動車、関東自動車の立地により我が国の経済を支える 地域にもなりました。一方で、海上自衛隊司令部、横 須賀総監部など我が国海上防衛の中枢機能、米海軍横 須賀基地の立地など東アジアの安定の拠点となって います(写真④)。そして人口も増加し、坂道も再び 発達します。この面からも横須賀文化への影響があり ます。

3.全国坂道めぐり① 新潟下越(岩船港、塩谷)

私が全国訪れたことのあるみなとのうち坂道を有するみなとをいくつか紹介します。今回 は新潟下越(新潟県北部)の港を紹介します。 今回は岩船港と塩谷です。ともに現在では村上市の行政区域です。「海と船が見える坂道」 の分類の方から見ると、神社・寺院坂道発達型、つまり「江戸時代湊発達型」と言えます。 ○岩船港 (江戸時代湊発達型) 岩船港は、現在は地方港湾で、粟島への航路もあり当該地区の拠点港湾となっています。 蒲原砂丘の北端にあたる岩船潟の排水河川である石川の河口港。河口港の宿命である、沿岸 漂砂、冬季風浪による港内埋没が旧来の課題とか。10月に行われる石船神社の祭りである 岩船大祭は有名です。 さて港を見ると、河川部分には漁船が係留(写真①)し、本港部分にはフェリーや商船が 係留しています。河川右岸側砂丘上にある石船神社の階段を上ると石船神社につきます。(写 真②③) 砂丘上の石船神社からは岩船の街や港がよく見えます。このことからも、江戸時 代発達型の港では、民家は平地及び低い砂丘上に位置し、神社は集落で一番高いところに位 置することがわかります。 写真④米海軍司令部(旧横須賀鎮守府) 写真①河川部分の風景 写真②石船神社階段 写真③石船神社 写真④石船神社から港を眺める

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続「海と船が見える坂道」

-横須賀の坂道と横須賀文化+α-

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- 6 - ○塩谷地区 (江戸時代湊発達型) 現在は港はありませんが、明治時代までは、北前船航路でにぎわったものと思われます。 地元の塩谷活性化推進協議会のパンフレットによると、塩谷(屋)湊は、荒川の内陸水運と 日本海沿岸の結節点の港として発達したとか。(荒川の対岸には河川マリーナがあります。) 特に、18世紀前半に、現在地に移転し、内陸水運と沿岸海運の結節点としての繁栄をした とか。さてこの湊、明治時代まで相当繁栄した模様で、街並みを見ると、一つの大通りを中 心に町屋が発達しています(写真⑤)。典型的な江戸時代の湊町のつくりと言えます。新潟 湊、三国湊と全く同じつくりとなっています。小路もあります。さらに塩谷には塩竈神社も あり、湊町だといえます。 さて坂道を探してみましょう。大通りを南に進むと河口部の小高い砂丘に当たり、坂上に 稲荷神社があります(写真⑥)。ここが水運、海運盛んな頃船の出入りを監視した番所山で す。日本海沿岸各地にある「日和山」と同じ役割を果たしたところといっていいでしょう。 さすがに見晴らしは良く、荒川河口、日本海、塩谷湊町が一望です。(写真⑦⑧) 参考文献 塩谷紹介パンフレット http://www.pref.niigata.lg.jp/HTML_Article/429/180/shioyapunf.pdf 写真⑤街並みの様子 写真⑥番所山への坂道 写真⑦番所山から荒川河口を望む 写真⑧番所山から町を望む 写真④石船神社から港を眺める

参照

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