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Vol.66 , No.2(2018)070藤本 晃「Sati(念)とSampajanna(正知)」

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Academic year: 2021

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全文

(1)

Sati

(念)と

Sampajañña

(正知)

藤 本   晃

1.

 仏道実践における念の意味

最近の「マインドフルネス」ブームで誤解されがちな念(sati),そして念と対 になる正知(sampajañña)とは何か考察する. 仏教の瞑想は,心も物質も瞬間(刹那)ごとに生滅を繰り返すその一つひとつ の現象をあるがままに捉え,現象の無常,苦,無我を見抜いて悟りに至る道であ る.現象をあるがままに捉えるための心のはたらきが念である.それは次のよう に『清浄道論』で定義されている. それによって人々が憶念すること,あるいは,それみずから憶念すること,あるいは, それが憶念そのものであることが,念である.それは列挙(ラベリングapilāpana)を相と する.目覚めていることasammohaを味とする.保護ārakkhaを現起とする.あるいは,対 象と正対していることvisayābhimukhabhāvaを現起とする.堅固な想thirasaññāを足場とす る.あるいは,身(受心法)などの念処satipaṭṭhānaを足場とする.(Vm 464.以下,原典 はすべてPāli Text Society版)

念とは憶念することである.対象を「これはこれ」と,あるがままに捉えるこ とである.どのようにか.瞬間ごとに生滅を繰り返す現象をあるがままに捉え, ただ列挙(ラベリング)するはたらき(相)である.現象の生滅に追い付かないま でも,心を集中して「サティを入れ」て列挙(ラベリング)し続けるのである. ぼんやりしていては対象に正しくラベリングできない.列挙するために目覚めて いることが必要(味)である.目覚めているので,念という行為は念の保護になっ て生起する.もちろん,一つひとつの念はその対象とぴったり正対して生起する. 念は五蘊の中では行蘊の説明の中に出る.行(saṅkhāra)と同種の,何かをおこ なおうとする心所だと分かる.それゆえ,行の前に生じる想が対象に関して堅固 に想起していることが念の足場となる.何かを感受して想起して,それを足場に 「これはこれ」と,ただラベリングするのである.生滅し続ける心相続がまだ認

(2)

識(識)になる前の状態で,生滅し続ける対象をラベリングし続けるのである. これが念である. 2.

 仏道実践の定型的説明における念と正知の役割

念を理解するには,ほぼ必ず念と対で説かれる正知(sampajañña)をも理解する 必要があろう.しかし正知についての定義が『清浄道論』などに見られないため か,従来の学界では念と正知の違いが明確に捉えられていなかったように思われ る.現代の「マインドフルネス」の現場でも念(mindfulness)に対して正知は awarenessと英訳されているが,意味は的確に理解されているだろうか.念と正 知をパーリ聖典の用例から考察しよう. 瞑想して悟りに至る順路が,パーリ聖典では多くは定型で説かれている.瞑想 の準備段階にすでに念と正知が説かれる.「長部」2『沙門果経』を例示しよう. 1.比丘は,在家生活を捨てて出家したばかりのそのときにも「戒を具備し, 諸根を防護し,念と正知によって具備されて満足しているsati-sampajaññena samannāgato santuṭṭho」(DN I 63). ここでは念と正知は名詞二つの同格で,差が見えにくい.一つひとつの現象を しっかり目覚めてラベリング(念)し,それを自分で正しく知っているとだけ確 認しよう.ここで比丘は「念と正知によって具備されている」と説かれるので, 一度や二度ラベリングができているだけでなく,生滅変化し続ける対象を明確に 捉えて目覚めている状態が,比丘には常に備わっているということである.念と 正知が共に備わって,比丘は「満足している」. 2.瞑想するときは,戒を具備し諸根を防護することが詳説され,さらにどの ように「念と正知によって具備されて満足する」のか,具体的に説かれる. 「進むにも退くにも……食べるにも飲むにも,大便・小便をするにも……語る にも黙するにも,正知をつくる者になっているsampajāna-kārī hoti」(Ibid. 70).

「念と正知によって具備されて」とは,正知が途切れることなく,行住坐臥の すべてにおいて「正知をつくる者になっている」,つまり一度や二度ではなく, 一つひとつの対象を常に「正しく知る者になっている」ということである.

ここでは念が説かれないが,省略されているにすぎない.対象を「正しく知 る」ためには,正しく明確に捉えなければならない.その正知を「つくる者に

(3)

なっている」,しかもそれが「念と正知によって具備されて満足している」こと を指すからには,比丘は正知する前に,生滅変化し続ける対象を念をもって明ら かに捉え(ラベリングし)ているのである.そのことをみずから正しく知り,つま り「正知をつくる者になっている」のである. 「念と正知によって具備される」とは,対象に対して明確に念がはたらいてい て,それをみずから正しく知っていることである.念が能動的な,ラベリングす るはたらきで,正知が受動的な,変化生滅し続ける対象を正しく認知しているは たらきである.念(ラベリング)が的確にできていれば正知はその後(といっても 無間anantaraであるが)に必然的に生じるので,正知だけが語られていても直前に 念もあると理解できる. 3.いざ瞑想するときは「身体を真っ直ぐに保ち,全面に念を確立させて pari-mukhaṃ satiṃ upaṭṭhapetvā坐る」 (Ibid. 71).

念が備わるだけでなく確立されているので,ここには説かれないが,念が生じ るたびに念が捉えた対象を正しく知る正知も生じていると分かる.正知を検討す る場ではないので,ただ省略されていると見るべきであろう. 4.その上で,禅定や悟りに達するための障壁となる五蓋から心を清める.す なわち, ①貪欲,②瞋恚から心を清める.③沈鬱・眠気を捨て,「光明想を備える者と なり,念があって正知があって,沈鬱・眠気から心を清めるāloka-saññī sato sam-pajāno thīna-middhā cittaṃ parisodheti」(Ibid. 71).④浮つき・後悔,⑤疑から心を清 める.それから瞑想対象に集中して色界四禅に入り,悟りに悟入するのである. ここで「念があって正知があって」はどちらも比丘の状態を表しているので, 集中力が高まってすでに無理せずとも「念もあって正知もある状態」になってい ると言えよう.念と正知が身についているときは沈鬱・眠気も起こらず目が覚め た状態になる. 以上で念と正知の意味の差が明確になった.念は,しっかり目覚めて対象を一 つひとつラベリングすること.実践では「念(サティ)を入れる」などと言われ る.正知とペアにならずに「念を確立させる」とだけ言われるとき,その能動性 がより明らかになる.

(4)

念があれば,それを正しく認識する正知も必然的に伴う.正知も「正知をつく る者になっている」などと単独でも用いられるが,対象を「正しく知っている」 からには,先に対象をラベリングする念が生起したことが略されているのであ る.念と正知が並ぶときは必然的に念が先になる. 3.

 単独では念と正知の意味の違いが明確になる

念と正知の意味の違いは,以下に示す単独の用例でより明確になる. 1.念単独では能動的に「目覚めて対象をラベリングする」意味が際立つ.「中 部」119『身至念経』で,上述した瞑想の定型を解説する中で,特に出入息,身 体の部品三十二種,四大元素,そして死体の観察などkāya(身・物質)をありあ りと観察して「内に心が確立し,落ち着き,専一になり,安定する」ことが「身 に至った念を修習するkāyagataṃ satiṃ bhāveti」(MN III 89)と表現される.刹那ご とに生滅変化し続ける対象をありありとラベリングする念は,能動的に修習すべ き修行なのである. 2.正知単独では,「正しく知っている」意味が強まる.「中部」122『大空性経』 で,心の清まり,確立などのありさまが「sampajāno hoti(彼は正知になっている)」 (Ibid. 112)と表現される.これは「彼は正しく知っているsampajānāti」と同義で, 念によって捉えた対象を自分で「正しく把握している」ということである. 4.

 念と正知の順番は変わらない.なぜ?

念と正知を説く順番が逆になっているように見える文言がある.「中部」10 『念処経』(「長部」22『大念処経』も)に,比丘は身受心法のそれぞれにおいて「隋 観し,熱心になり,正知があり,念を持つ者となって,世における貪欲と憂い を 除 い て 安 住 す るanupassī viharati ātāpī sampajāno satimā vineyya loke abhijjhā-domanassaṃ」(MN I 56)と説かれる. これは,正知が先に来て,その後で念(ラベリング)するという「因果のあべこ べ」になっているのではない.「正知があってsampajāno」と言われるなら,定型 のように,その前に「念があってsato」が省略されていると見るべきである. 一方,ここに見られる念は正知の後に出るが,「正知があって」に対応する 「念があって」ではない.念があるだけでなく常に念が備わっているので「念を

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持つ者となってsatimā」と,一歩進んだ表現になっているのである.むしろ,こ の念の後に「正知をつくる者となったsampajāna-kārī hoti」などという表現が省略 されていると見るべきである.念と正知が生じる順番は,明確にラベリングする 念とそれを正しく知っている正知なので,逆になることはない. 釈も問題視し ていない (Ps I 244). 5.

 では,なぜ念と正知がさまざまに説かれるのか?

以下のように考えてみよう. 対象を念ずる(明確にラベリング)こととそれを正知する(正しく知る)ことは, 厳密に分析すればそれぞれ独立した行為・現象である.しかし実際には,念とい う行為は直後にその行為を確認したという行為・現象を必ず伴う.念と正知とい う二つの行為・現象は切り離しがたく連続して生じるものである.だから「念と 正知sati-sampajañña」と対で説かれることが多い. しかも,この二語は切り離しがたいものだからこそ逆に,いつも二語を並べな くても一方があれば他方も必ず含意される.だから念と正知のどちらか一方だけ を挙げて他方を省略しても意味は通じる. ただし実際に現象として生じる順番は,必ず念が先で正知が後である.だから 仮に順番が逆に説かれているように見える文脈があれば,前半の念が略されてい る,あるいは後半の正知が略されていると見るべきである. 6.

 まとめ

今回考察した念と正知は,悟りに向かう瞑想実践はもとより,それ以前の日常 生活をしているときから必要な生き方とも言えよう.ぼんやりと惰性で行動する ことを止め,一瞬ずつ目覚めて現象をありありと捉え,それをみずから正しく知 り,満足して生活する認識の仕方である. 念と正知が具備する生き方を続ければ,そのまま禅定や悟りに至る修行道とも なるが,日常生活を送る中でもみずから目覚め,みずから保護されるのである. 〈キーワード〉 実証仏教学,念,正知,サティ,ラベリング (浄土真宗誓教寺住職,博士(文学))

参照

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