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龍谷大学学位請求論文2004.03.13 木田, 隆文「武田泰淳文学の生成と展開<昭和>言説空間との相関から」

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O

O

三 年 度 提 出 博 士 学 位 請 求 論 文

ム 昭 和 ﹀ 言 説 空 間 と の 相 関 か ら

(上)

(2)

武田泰淳文学の生成と展開

︿昭和﹀言説空間との相関から

(3)
(4)

1 武田泰淳研究の動向 同時代空聞 からみた武田文学 11 2 3 本研究の主題と方針 1

序 第 一 節 昭 和 戦 前 期 の 再 検 討 ︿ 言 語 体 験 ﹀ 2 ︿ 言 語 体 験 ) 戦前期に対する研究史的評価 としての戦前期 戦前期執筆活動の一側面 24 l 武 田 泰 淳 の 翻 訳 活 動 1 武田における中国文学の位置 3 武田の翻訳環境 武田の訳業と研究史の問題 32 2 4 翻訳﹁手﹂が示すこと 42 5 への読みかえにむけて 16 19 23 26 15

(5)

第 節 第三節 5 翻訳活動が示唆すること 50 従軍期における国策的中国研究の影響 │ │ ︿ 研 究 ﹀ か ら ︿ 創 作 ﹀ 1 従軍期の研究史的評価 54 2 ︿ 中 国 文 学 研 究 会 ﹀ への抵抗 3 国策化する︿中国研究﹀に向けて 4 ︿ 小 説 ﹀ への関心と劇作理論の萌芽 5 ︿小説家﹀武田泰淳の形成 戦後小説と昭和一

0

年 代 の 言 説 空 間 1 昭 和 一

0

年代の言説と武田作品の関係性 2 ﹁ 審 判 ﹂ 80 の問題系 3 ︿ 滅 亡 観 ﹀ の形成過程 83 4 ︿ 殺 人 肯 定 の 理 論 ﹀ の形成過程 5 昭 和 一

O

年前後の仏教言説 6 同時代言説と の相関から 99 57 75 91 への道程として 53 68 72 ﹁審判﹂における仏教言説の影 80 88 79

(6)

第二章

戦後言説空間における作品生成

序 第一節 第 二 節 情 婦 殺 し 129 123 119 114' -の 三号 仁ヨ 説 空 間 戦後小説における同時代言説の影響 A U マ ハU 1 第一章の検討から 2 昭和戦後期の諸言説との関係性 3 武 田 作 お け る 諸 109言 説 の 影 響 4 検討対象と手法 ︿ 新 聞 ﹀ を語る人々 l 新聞メディアの復興から 2 ︿ 情 婦 殺 し ﹀ のイメージ 3 ︿ 情 婦 殺 し ﹀ の語られ方 4 作品と同時代言説の距離 5 民主主義的発想へのとまどい 6 新聞読者の (声﹀を書くこと ︿ 同時代言説﹀ の期待を書くこと 103 107 105 141136 113 ﹃士魂商才﹄の典拠と方法 145

(7)

第 節 1 同 時 代 言 説 と の 関 係 149性 2 =司 士 魂 商 才 色 = の 典 166 155拠 3 典 拠 の 利 用 法 4 典 拠 と の 距 離 5 ﹁ 伝 記 ﹂ から﹁修身徳 目 ﹂ 6 同時代空間に聞かれたテクスト ︿ 歴 史 プ

l

ム ﹀ の中で書くこと ー l 1 ﹁ 貴 族 の 階 段 ﹂ 1 背景としての ︿ 歴 史 ブ ー ム ﹀ 2 モデル人物の確定 185 183 3 作 品 と 典 拠 の 距 離 4 ︿記録者﹀をめぐる問題 5 ︿ 見 せ か け ﹀ の歴史を語ること ノ、、 194 146 169 176 に お け る 歴 史 叙 述 の 方 法 180 199 179

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第三章

戦後メディア空間における読者と作品

序 第 節 昭和三

0

年代における小説の ︿ 場 ﹀ ││小説/読者/メディアの相関性から 1 一般読者への関心 204 205 2 読者をめぐる問題系 3 メディア論援用の可能性 207 4 小説と非活字メディアの連携 211 5 メディアコラボレ l シヨンの可能性 219 6 の な か で 書 く 226 / 百E む 222 と ﹁ 花 と 花 輪 ﹂ ︿意味﹀生成の周圏 ︿ 新 聞 ﹀ 1 武田の新聞観 2 新聞小説の読まれ方 228 3 読者の感性に馴馴致すること 232 235 4 戦略としての 説 ︿ モ ︺ ア ル ﹀ の対読者戦略 203 225

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第二節 第三節 5 ︿プライバシ ー問題 ﹀ と σコ 距 離 247 6 解 釈 格 子 と し て の 新 聞 言 説 253 7 外圧としての新聞言説 ︿ 週 刊 誌 ﹀ ブ ー ム の 言 説 圏 1 ︿ 週刊誌ブーム ﹀ の中で書くこと 2 外圧としての掲載誌 3 素材としての週刊誌言説 4 解釈格子としての週刊誌言説 5 週刊誌言説に馴致すること 6 武田小説の有機性 285 ︿ 観 光 ﹀ 小 説 の 問 題 系 290 森 と 湖 の ま イ コ り 1 読書から観光へ 2 反︿観光﹀小説としての 3 反転するテクスト 298 4 造 本 の 誘 惑 306 5 戦略化するテクスト 241 ﹁ 白 昼 の 通 り 魔 ﹂ 261 265 280 272 ﹁ 森 と 湖 の ま つ り ﹂ 310 の生成と展開から 258 のメディア戦略 294 257 289

(10)

注 参考文献 360 332 1 本研究の検討から 2 読みの定型を越えて 3 武田研究の検討課題 4 多元的な編自の中へ 316 329 323 321

(11)

伊j 1 作品本文は原則として﹃増補版武田泰湾全集﹄(昭日・ 11 日 ・ 7 筑摩書房)に拠った 。 ただし、全集未収録作品に関し てはそれぞれ初出本文を参照した 。 2 引用に際して、複数行にわたるもの 、 あるいは資料的に重要と思われるものについては、行を改め、 二段下げで示した 。 3 出典に際し、作品名は﹁ ﹂、単行本、雑誌、新聞名は﹃ ﹄で示した 。 なお、発表発行年月などは( ) で 示 し た 。 4 引用資料は、その資料的価値を重んじて旧漢字、 旧仮名遣いのままとした 。 た だ し 、 旧漢字 のうち印刷活字がない場合は、新 字を当てはめて対応した。 5 引用に際して中略を行う際には(中略)と示した 。 また原文 の 文脈を明確にするために言葉を補った場合は(木田注)と示し た 6 引用文中の傍点やルピは、特に記さない限り、原文のも の で ある 。な お、斜線は改行を示す。 7 注は原則として後注とし、巻末に一括して掲載した 。 ただし資料等の発行年月日に関しては、本文中に( )で示した 。

(12)

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1 武田泰淳研究の動向 武田泰淳研究は、何を問題にしてきたのだろうか たとえば竹内栄美子は﹁研究動向武田泰淳﹂ ( M

9 ﹃ 昭 和 文 学 研 究 ﹄)において、最近の武田研究の動向を ﹁全集未収録の新資料 、 従軍期への考察、作家研究の現状、﹃富士﹄﹃司馬遷﹄その他の作品研究﹂の四点から 概観している 。 この研究動向を参考にする限り、武田研究の現在は実証的作家研究から作品論までバラ ン スよく進展している かのよ う に受け取れよ う 。 しかしこの研究動向に紹介されている個々の論文を検討した時 、 実は武田研究はある 一つの研究領域に向かって収散しようとしていることがうかがえる 。 たとえば﹁新資料﹂で紹介されているものは、主に伝記研究に関するものが中心である 。 そしてその伝記研究 が解明するのは、武田が作家として活動した戦後期の動静ではな く 、 それ以前││僧侶時代や従軍期││に関す るものばかりである 。 このことは、武田泰淳に向けられた関心が、戦後の小説家としての活動そのものよりも、 むしろ戦前期の伝記的事実に集まっていることを示していよう 。 それは竹内があえて現在の研究の焦点に﹁従軍 期への考察﹂をあげていることや、﹁作家研究﹂でもわざわざ従軍期の年譜の補足がなされたことを紹介してい ることが裏書きしている 。 しかもそれはまた﹁作品研究﹂においても同様である 。 もっとも盛んに研究 が なされている作品が、ことさら -2

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-に武田の従軍︿体験﹀と結びつけられて論じられる﹁司馬遷﹂であるという事実は、一見多角的に見える武田研 究が、実は、ほとんどが作家研究的な視座

!

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しかもそれは武田の出自や背景といった、戦前戦中期の伝記的事 実

l

1

に収赦していることを示しているのである。 しかし武田研究は、なぜこれほどまでに戦前戦中期の伝記的体験に意味を求めてきたのだろうか。それはおそ らく、武田に関する言説が、武田と世代的に閉じか、共有体験を有する人々によって先導されてきたことと無縁 で は な い だ ろ う 。 たとえば文学批評の場で初めて武田を取り上げ、武田の作品に﹁戦後文学の特質﹂を見出したのは戦後に批評 活動を本格化した平野謙であったし、戦後初期から晩年までの武田作品に継続的な批評を行い、﹃武田泰淳全集﹄ の編纂を行ったのは、武田と同世代で、同じく転向体験を有する埴谷雄高であった。そして武田の文学活動を総 合的に確認した討議としては最初(にして最大)のものであり、現在の武田研究の論点を形成したと思われる﹃近 代 文 学 ﹄ ( 昭 お ・ 7 1 8 ) の座談会﹁続・戦後文学の批判と確認﹂の出席者たちも、佐々木基て本多秋玉、竹内 好、小野忍、斉藤秋男、堀田善衛など、ほとんどが武田と同世代であるか、戦前戦中期から活動を共にした人物 た ち で あ っ た 。 もちろんこれら論者たちのアプローチは、それぞれに偏差があり、ひとくくりにするのは危険ではある。ただ 先の座談会が武田の﹁戦前のいろんな経歴は、武田泰淳の戦後の作品を考える場合にどうしても無視できない﹂ -3

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-という立脚点から討議を始めたことがわかるように、これら論者は、多くの場合武田の戦前戦中期の体験

1

転 向、従軍、敗戦ーーーにその文学活動の源泉を見出しているのである 。 しかもこれら同世代人の言及は、以降の世代たちによる武田論の枠組みにも影響を与えていくこととなる。た とえば、自らを﹁戦後文学の後継者﹂として自認し、﹃︿戦後作家論叢書)武田泰淳﹄(昭必・ロ審美社)によって、 武田泰淳を﹁戦後文学﹂の枠組みの中とら与えていく松原新一はその顕著な例であろう。そしてさらに付け加える ならば、この松原の著書は一冊にまとめられた武田論としては最初のものであったためだろうか、後に上梓され る武田論の定型を作ったともいえる。たとえば粟津則雄﹃主題と構造 l 武 田 泰 淳 と 戦 後 文 学 ﹄ ( 昭 立 ・ 9 集 英 社 ) は その劃題が示すように、武田を戦後文学の概念からとらえなおす試みを行う。また以下発表される立石伯﹃武田 泰淳論﹄(昭立・日講談社)、兵藤正之助﹃武田泰淳論昭和史に閉鎖する作家﹄(昭日・ 5 冬樹社)、宮本徹也﹃武田泰 淳論﹄(昭幻・叩季刊批評社)、岸本隆生﹃武田泰淳論﹄(昭日・ 1 桜楓社)、川西政明﹃準かなる美の国泰淳論﹄(昭 位 ・ 7 福武書庖)も、武田における戦前戦中期の位置づけから作品読解へと展開するその発想が、戦前戦中期に 起源を求める松原論と類似しているといえる。いわば武田泰淳に関する言説は、ごく近年まで同世代、あるいは それに続く世代の﹁戦後文学﹂への連帯意識の中で形成されてきたのである。そしてそれこそが、武田の原質を 戦前戦中期の伝記的体験に見出す研究傾向を形成したのであろう。 小熊英二は、戦後思想を﹁戦争体験の思想化﹂であると位置づけ、その﹁戦後思想の最大の強みであり、また 弱点でもあったのは、それが戦争体験という﹃国民的﹄な経験に依拠していたことである﹂とした。そして、戦

-

4

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-争体験を共有する荒正人や竹内好に代表される﹁戦後知識人﹂たちが﹁戦争から受けた傷を語ることによって自 己の内面を掘り下げることが、そのまま他者への連帯につながる﹂思想を展開したことを指摘している。 この小熊の言葉を援用すれば、﹁戦後文学﹂は戦争体験の文学化であり、同時代の﹁戦後知識人﹂たちの共同 意識や、戦争という国民的体験を語る、共感の素材でもあったことになる。そして武田もまた転向や戦争体験と いった戦後知識人に共通する体験を持ち、それに基づくいくつかの作品を書いた。だからこそ先に挙げた同世代 人やその信奉者は、武田文学から、自らの共有体験である左翼活動と転向、従軍といった伝記的体験見いだし、 そこに集中的に言説を重ねてきたのであろう。 2 同時代空間 からみた武田文学 -)・ だが、武田の文学活動を戦前戦中期の伝記的事実という一点に還元することは、やはり小熊がいうように﹁弱 点﹂をはらんでいるともいえよう。なぜなら、武田の文学活動は昭和一

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年前後から昭和五一年に没するまでの 約四

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年という広範な時代にわたって行われたのであり、特に小説家としての活動は、戦後になって本格化した からである 。 したがって、ある一時期にすべてを還元することは、実際に文学活動を展開した時代空間から武田 自身を切り離すことにつながるからである 。 しかも ︿ 小説家﹀武田泰淳が誕生、成長していく昭和二

01

0

年代は、日本史上まれに見る激変の時代であ

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った。さまざまな場面でくり返し語られるように、この時期は、さまざまな社会制度の刷新が行われ、戦争によ って壊滅的な打撃を受けた経済や社会的インフラの復興が進展し、それにともなう人々の認識の変化や多様な言 説が発生していく。そして武田もまた、この変転する戦後空間と軌を一にするように作家活動を展開し、特に昭 和 二

0

年代後半から三

0

年代にかけては、月数本の短編と、長編の連載を抱え、多くの読者を獲得する流行作家 の地位を築いたのである。しかもこうした時代空間の中で武田が生み出した作品は、恋愛や戦後の世相、社会、 風俗などを素材としたものが主流を占めているのであり、研究史が着目する戦前戦中期の体験事実と接近する作 品は、武田作品全体から見ると意外なまでに少ないのである。 武田の小説が同時代空間に存在するさまざまな事象を書き取っていたこと、そしてそれが一般読者空間に広く 流通する存在であったこと 。 この一見自明の事実は、武田研究においてきわめて重要な意味を持っているだろう。 なぜならこのことは、研究史の枠組みの中で戦前戦中期の伝記事実に還元されてきた武田の文学活動が、実は 同時代空間と緊密に連携しながら生成・展開していたことを示唆するのであり、同時に、それらが同時代の一般 読者たちとの関係性から聞い直される可能性があることを示すからである 。 そしていうまでもなく、これはまた、研究史が形成してきた既存の位置づけを解体する試みへとつながるとも いえよ hフ 。 事実、武田の小説作品を、 同時代読者たちの読みからとえなおしたとき、 研究史が還元主義的な思考で読みと -6

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-ってきた作品の意味は、一般読者空間の中では実質的に機能するものではなかったことがうかがえる 。 たとえばそれは、一般読者が﹁風媒花﹂に対して抱いた印象が示しているだろう。以下の表は、 が昭和二九年一月から三月に徳島県で行った、同作品に対する読書調査をまとめたものである。 う け と り 方 に つ い て ( ア ア ピ ア 数 字 は 、 記 載 の 区 分 番 号 ) A むつかしい よくわからない いやらしい ゆがめられている D いやだが然視でをぬ B C 8 、やされない文体と傍 成 ロ B 、自分と無縁でない 盟、的の中に日本の文化 人の委がある ー、文章とほ成 6 、 用 語 ( 渓 飾 的 不 用 脱 届 )

τ

、 文 翠 ( 絞 没 な 頭 で よめず、エネルギー がいる、二度とよめ

a v

x x 3 2 、女主人公の心理や 一 行動 5 、三国村の行動中目的 5 、ヱ度よんだがわから ね 2 、四人の男女の合宿 2 、小娘がよむことがい 申らしい(パーマ底 主の雪) 3 a 、かん遜や設人のテ IT 3 a 、妻の外潟、義弟の 愛人との肉体関係 5 、 一 一 = 岡 村 ( キ ザ 、 香 総 ) 6 、 男

I

グロテスグ 女 l 胸が恋︿なる

A 、守の F イ プ U A 、作者の J P ガネの符 一別性 U B 、人間像 3 2 、かん週、三角関係 売春などの情事 ﹃ 思 想 の 科 学 ﹄ おもしろい E ー、官官校の人物 3 b 、米議の先を推定で きる探偵小説的で適 中した 8 、女、主人公二人の魅力 9 、三国村、軍地の人物 。 桃代の庄例的魅力 目、時間的収繍と筋の畏 関 特 異 な 人 物 と そ の逮関怯 ロ B 、おもしろいが、後 味はわるい -7

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-E

作 者 及 び 作 品 に つ い て ( ア ラ ピ ヤ 霊 友 ー と 問 C ) ヨミ ..・1 3寸・ /1

濡 ~~ F 日 問 G 工、密設がよ︿かけているその * セッグアハ・アッピール、そ の 一 人 あ る 苦 の 滋 写 但 し 行 動 は 不 可 解 3 b 、切返した生活をしていな いから洩解できないが、勉 強になった 5 、労働者の描写(アゾピラと 座談会) 9 、 軍 地 の 摘 出 と 桃 代 の 生 活 怒 度 認、峰と寓問者との棺似点からの 支持 ー、悪怒のみの検行(倫巡伎の 火除)峰と守がかけていな し 沼 3 司、特殊な情事をおもしろが ってかいている作者の態度 4 、想像力の貧困と民衆の生活 をしらない 6 、まともな人聞が全然出てこ 九 、 ぃ 叩、結末がみつけない。 口、峰のあい支いさ。 ロ A 、寧地の非リアル飴 ー、俊伶であろうか 2 、娘がよんでいけない本か 3 b 、女が独力で生活ナると ζ のようであるか 3 2 、 東 京 に は こ の 主 人 公 の 如 宮女性がいるのか 5 、ありうるオトシ穏だゐう この作品に出浅ナるような 人隔が本当にいるのか その人たちは今後どの主う に生きる︾ -8 -批 :刊 I ー 、 社 会 伎 や 政 治 性 の あ る 作 品 でない 3 a 、 評 判 倒 れ の 作 品 4 、 ︿ だ ら な い 5 、 作 者 の ア ツ ピ 7 、 評 判 に な っ た 辺 自 不 明 立、澄樹辺と作品唱の世界の交錯 民 笈 逃 亡 の 文 学

B 、 わ 作 わ れ と 無 縁 で な い か ら厭だ 口 、 弱 い 内 向 的 宮 本 の イ ン テ リ の 妥 が 作 考 の 分 身 的 般 の 中 にある 峰 は わ れ わ れ で あ る じ め と し て 、 武田と中国文学研究会との関係が描かれた作品であるために、これまで竹内好の同時代評をは 一 貫して中国問題などの政治的な視点や、 中国に対する武田 の罪意識といった内的問題を焦点にし て論議が重ねられてきた作品である。 ﹁ 風 媒 花 ﹂ l土

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しかしこの表は、一般読者たちがそれら問題をほとんど読みとっていなかったことを示している。 たとえばそれは、読者たちの多くが、研究史が中心的に取り上げなかった女性登場人物に焦点を当てた読み方 をしていることからわかる。しかもその注目の仕方の多くが、彼女たちの﹁肉体関係﹂ ( B 3 a ) や﹁セックス・ ア ッ ピ ー ル ﹂ ( F l ) に集中し、そこから﹁かん通、三角関係、売春などの情事﹂ ( C 3 b ) 、﹁貫通や殺人のテ

l

マ ﹂ が読み解かれ ( B 3 a ) 、この作品が﹁小娘が読むことがいやらしい﹂ ( B 2 ) 内容を書いた作品として理解されて いたのである。要するに﹁風媒花﹂は、一般読者にとっては風俗小説として受容されていたのである。 そしてそれは、読者たちが︿作者﹀の存在をほとんど意識しない読書行為を展開していたことを示すだろう。 先に見たように、批評的読者は、武田の戦前の経歴や、中国文学研究会における武田と竹内の関係性を読書コー ドとした読みを生み出した。だが一般読者は、たとえば登場人物と自分の共通点を見出した F 口 の 読 者 の よ う に 、 自己そのものの経験や生活を読書コードとし、自らの関心や、周囲に存在する出来事を作品に照射しながら読ん で い た の で あ る 。 -9 -もちろんこうした読みは、作品(作者)の意図を解さない︿誤読﹀であると位置づけられるのかも知れない。 しかし、よく知られたように、小説の意味生産の主体は作品(作者)の側にあるのではなく、読者におかれて いる。そしてその読者はフイツシュがいうように、つねに歴史的・社会的条件の中で形成された解釈戦略によっ て読みを形成する存在である。

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しかも小説自身も、本来的に常に他のテクストを付随させながら流通する存在である。たとえば新聞・雑誌媒 体に掲載された場合、小説作品の周りには、記事、広告、他の小説が常にまとわりつくのであり、単行本であっ ても、作品は帯批評や解説、あるいは装丁などのもたらす印象と併存させられるのである 。 しかも時には映画、 舞台といった二次テクストを派生させることもあり、それが広告や販売戦略によって新たな作品の印象をメディ ア空間に流通させることもある。こうした読者と小説をめぐる意味の機能を武田作品に当てはめるならば、武田 作品の意味は本来的にこれら諸条件下に生成されるものだったといえるのである。 したがって武田研究の視座に、これら小説と読者に関わる現象的側面を加えることは、武田作品の意味に加わ る外的要因を測定するとともに、研究史が切り捨ててきた新たな局面を見出すことになろう 。 しかもそればかりではなく、この一般読者の存在はテクスト生成自体にも影響を力を与えていると想定できる。 なぜなら武田の作品のほとんどが、一般読者層を対象とする商業雑誌、新聞、単行本といった媒体に発表された からであり、それは媒体の背後に存在する読者層の要求にも影響されていたことを示すからである。 先に武田作品の生成要因に、戦後の時代相とそこに派生する言説を見出した。だがここからは、作品が一般読 者層の無言の要求のもとに形成されていた面もあったことが示唆されるのである。 以上のような検討からは、武田の文学活動と作品が、常にそれらを取り巻く空間に存在した外部要因││読者、 媒体、メディア、言説ーーとの交渉によって形成されていたことが想定できよう。そしてそれをふまえれば、武 -10

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-田が戦前戦中期に行った、翻訳、研究といった文学活動もまた、時代的コンテクストとの強い影響関係のもとに 派生したことが想定されるのであり、武田の伝記的側面ばかりに注目が集まった戦前戦中期を、別のアプローチ でとらえなおす試みにもなるはずである。 3 本研究の主題と方針 したがって本研究は、武田泰淳の文学活動とその作品を、それらが生成・展開した昭和戦前戦後期

l

l

特に昭 和 一

0

年代から昭和三

0

年代頃ーーーの言説空間との関わりから総合的に検討することを主題とする。 -11 -この時代範囲の区切り方であるが、昭和一

0

年代を検討対象に含んだのは、先に触れた戦前戦中期の読み替え の問題が念頭にあるためである。そして戦後を昭和二

0

年代から三

0

年代までとしたのは、この時期が武田の作 家的な出発、発展期であり、多様な作品が書かれた時期であるということと、時代そのものが多様な言説を生ん だ時期であったからである。そしてこれらを通時的に検討するのは、戦前から敗戦前後の時期に関心が集中する 武田研究の不均衡を解消し、昭和期の各時代相とその中での武田の作家活動を総体的に検討するためである。 また用語上の問題でいえば、本研究にはたびたび﹁言説﹂という言葉が出てくる。 この語は本来的には文字で書かれた文言のことを指すのであろうが、ここでは、ある集団や特定の時代の中で

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支配的だった言葉の体系ないしそれを支える構造をすべてを指す広い概念で採っておきたい。したがってその意 味も、たとえば噂や世論などに置き換えられるような場合もあるし、ある特定の集団の中で使われる語りのパタ ーンを指す場合もある。また、ある時代を区切って発生した複数の語りをまとめて指す﹁同時代言説﹂という場 合や、社会システムや言説の担い手たちの動向すべてを含めた﹁言説空間﹂という場合もあるなど、広範な意味 をとる場合もある。 それと同様に本研究における﹁読者﹂の概念も振幅を持っている。 ﹁読者﹂は本来、実際に作品を受容する人々だけを指すことになるのだろうが、本研究で使用される﹁読者﹂ の語は、雑誌の購読層や社会的階層といった意味と質的に差がない場合がままある。それは先の﹁風媒花﹂の読 者調査ような場合を除き、具体的な読者像というのは想定しにくい場合がほとんどであることに起因している。 このため以後頻出するご般読者﹂という概念も具体的なイメージを持った言葉ではなく、研究、批評的な立場 に立つ﹁批評的読者﹂の対概念として使用し、時には﹁大衆﹂の概念に極めて近いイメージで使用する場合もあ ることを断っておきたい。 -12 -各章の構成を概略すれば、次のようになる。 まず第一章では、武田の戦前戦中期の執筆活動に焦点を当て、武田が小説家として出発する以前の言語環境の 様態と、それらが戦後の小説作品に与えた影響を測定する。

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ただ武田の戦前戦中期に注目するという意味では、こうした論点は先述の武田研究史が抱える問題点と通じる といえるかもしれない。だが本研究は、研究史が形成した動向とは一線を画し、武田の体験事実そのものの内実 は重視しない。したがって従軍、上海渡航、僧侶生活などの伝記的事実も、あくまで武田の周囲に存在した言語 環境を示す指標として扱う程度にとどめる。そしてひとまずは武田周囲に存在した言説の測定と、そこで行われ た武田の言語活動の実態を確認し、そのうえでそれらと戦後の小説作品の言語的な相関性を検討したい。そして いうまでもなく、これら試みを行うのは、︿伝記的体験﹀に注目が集まった戦前戦中期を、それら言説領域が有 する言語体系を摂取した︿言語的体験﹀の時期として読み替えることと、戦後に展開する小説作品の言語的基盤 の一端を確認する目論見のためでもある。 続く第二章では、小説作品の生成過程に焦点を当て、これらが昭和戦後期の諸制度や言説といかなる関係性を 有したのかを考察する。いわば先に触れた作者周辺の外部言説と作品形成の関係性を解明する試みである。 そのため本章の多くの部分は、作品成立に影響をもたらした言説や文献の確定を試みる典拠研究的な検討が占 めることになる。だが、本章の目論見は単に典拠を指摘するところにはない。本章が解明するのは、それら典拠 および言説の採択理由を同時代言説空間の様態から確認することであり、それらの作品化がいかなる時倒的要 J 請 によってなされたのかを検討するためでもある。そしてこれら試みは、いうまでもなく戦前戦中期に還元され続 けた武田作品が、同時代言説との緊密な連携によって生成していたことを証するためである。 そして第三章では、第二章の検討に引き続き、戦後期に執筆された小説作品を検討対象とする。ただし本章で -13

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-は、第二章で行った作品の生成に注目するのではな く 、 読者たちの作品受容とそこで発生する ︿意味﹀を中心に 検討する 。 そしてその際特に着目するのは、一般読者たちが有した読みであり、読者と作品を繋ぐ媒体の特質であり、そ れらに影響を与えるメディア環境である 。 こうした視点に立脚することは、作品とその意味が、メディアの特質 や読者の影響下に形成されていることや、それらがメディアを介した作者と読者 の 往還関係のなかでさまざまに 変容していた事実を解明することにもなると思われるからである。 この各章の構成は、研究手法的にいえば、第一章は作家論的視点、第二章は生成論的視点、第三章は読者論的 視点という形に分かれる 。 これは武田の活動を多角的に検討するためにとった手法である 。 そして検討対象とす る活動および作品は、おおよそ発表年代順にならんでいる 。 そこからはまた武田の文学活動を通時、発展的に見 通すことも出来よう。 そしてなにより、以下の事例研究の蓄積からは、昭和期の各時代空間とそこに展開する言説とさまざまに交渉 交雑することで生成、展開した武田作品の多面性を見出すことが出来ようし、同時に自身の周辺に散在する言説 を作品として自在に再編成し、同時代の言説空間に聞かれたテ ク ストを編み出した武田泰淳の姿を確認すること が出来るはずである。 -14

(26)

-第

.:o:: 辱主

昭和戦前戦中期における

(27)

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l

-15

(28)

-1 戦前期に対する研究史的評価 第一章は、武田の戦前期に焦点を当てる 。そ れは、続 く 第二、三章で戦後の作家活動と小説を検討する意味か らいえば、その前段階を明らかにする試みであり、武 田泰淳と いう作家の活動を、通時的、総合的に検討する目 論見のためでもある 。

*

ところで武田の戦前期とは、研究史においてどのような位置づけがされてきたのであろ -16 -う か 。 lま たとえばまとまった作家論としては最初期のものにあたる、重岡徹﹁武田泰淳﹂(昭目的・叩﹃山口大学教養部紀要﹄) ﹁ 作 家として 自立するまで﹂、つま り戦前期の武田を以下のように説明している。 武田泰淳を論ずる場合、作家として自立するまでの彼の変貌に つ いては、二つの転機を認めるの が ほぼ常識とな っ ているよ うである。即ち昭和ロ年叩月召集され中支へ派遣され、昭和 M 年叩月除隊するまでの、満 2 年間の中国での軍隊生活をそれと し、昭和円年 6 月中日文化協会嘱託として上海に渡航し、敗戦後昭和幻年 4 月日本に引き揚げて くる までの 、 中国での異常な

(29)

体験をしていた時期を第二のそれとする説である。 これに付け加えて、第一の転機となった軍隊生活以前の泰淳に大きく影響した事実として、(中略)泰淳の左翼活動への参 加と、そこからの転向を重要な契機として強調することもできる。又同じく﹁中国文学研究会﹂同人との交流

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なかんずく 竹内好の一元論的思考の堅固さより受けたコンプレックスの大きさを強調することもできる。 重岡はここで、従軍、上海での敗戦体験、左翼活動と転向、中国文学研究会での交流といった、武田の具体的 な︿体験﹀に着目している。しかも重岡はこの引用以降で、これら体験が後の小説に描かれる作中事実の素材を 与えただけではなく、後の武田を支える思想面の形成にも影響を与えたとして、武田の作家的基盤を、戦前期の 伝記的体験に見いだしている。 -17 -そしてこうした考え方は、引用回目頭にある﹁ほぼ常識﹂という言葉が端的に示すように、研究史のきわめて初 期の段階から固定化された理解であったといえる。つまり研究史はかなり早い段階から、武田における戦前期を、 武田文学の基層に位置づけ、特にその時期の武田の伝記的体験に思想、素材面で多くの文学的源泉を見いだして きたといえよう。 しかもそれは、重岡論から三五年を経た現在においても一定の影響を保っている。現行の研究史を概観しても、 武田の戦前期、特にその︿伝記的体験﹀に対する注目はいまだに研究史の大きな位置を占めている。 竹内栄美子は平成一四年九月時点での武田研究の動向を﹁全集未収録の新資料、従軍期への考察、作家研究の

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現状、﹃富士﹄﹃司馬遷﹄その他の作品研究﹂の四点から概観している。そのこの項目立てのなかに、特に﹁従 軍期への考察﹂が含まれていること自体が、現在の研究動向においても、戦前期の伝記的体験が主要な検討課題 であることを裏付けていよう。また実際、それ以外の項目で紹介される論考の多くも、武田の戦前期、しかもそ の時期の武田の伝記的体験を証明するものに偏っている。たとえば﹁資料紹介﹂に挙げられる研究成果も、武田 の僧侶時代の裏付ける資料をはじめ、すべて戦前期の活動をあとづける資料ばかりが発掘されている。また﹁作 家研究の現状﹂には川西政明﹃昭和文学史﹄が挙げられているが、同書の武田に関する記述も従軍期の年譜補訂 が大半を占めており、やはり戦前期の具体的な伝記事項の究明に力が注がれていることがわかる。 しかし不思議なことに、これら、戦前期の伝記的体験に対する関心に比して、武田が小説家として本格的に活動 を始める戦後の伝記研究は皆無であるといってよい。現在もっとも詳細な年譜とされる古林尚編﹁武田泰淳年譜﹂ でも、戦後の部分は作品発表以外の事項がほとんど書かれていないし、それを補訂する個別の研究も発表されて いない。作家として活動する時期の伝記研究が空白であるという状況をおきながら、一方で小説家以前の戦前期 に伝記研究が集中することは、武田研究が、戦後の作家活動と同じか、あるいはそれ以上に戦前期の ︿ 伝記的体 験﹀に重大な意味づけを与えていることを示していよう。それは論考が集中する作品が、たいてい武田の戦前期 の伝記的体験の反映がうかがえるものであることからもわかる。 つまり、武田研究はこれまで一貫して戦前期を最重要課題としてとらえ、特にその︿伝記的体験﹀の究明と意 味づけに大きな力を注ぎ、そこからまた多くの作品の意味を読み出すことで形成されてきたのである。 -18

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-2 ︿ 言 語 体 験 ﹀ としての戦前期 だが、こうした武田の戦前期をめぐる研究史を通覧すると、改めてここにはいくつかの問題点と欠落があるこ とが浮き彫りにされる。 研究史はこれまで、武田の戦前期の伝記的体験にいくつかの︿意味﹀を与えてきた。詳述はしないが、たとえ ば従軍については中国に対する侵略戦争の一翼を担った罪意識の発生を見いだし、僧侶としての生活は、マルキ シズムとの相克の中で過剰な劣等感を生んだとしてきた。 だが改めて考えてみると、先に触れたように、従軍も僧侶としての活動もようやくその客観的資料が発掘され はじめたところである。しかもそれとてまだ経歴の一部が確認されたに過ぎない。これらの意味づけは、多くの 場合、武田が戦後、小説、エッセイなどフイクシヨナルな場で語ってきた言及を拾い上げ、再構成したものであ る。つまり研究史が繰り返し語り、補強してきた多くの戦前期に対する意味づけは、実はきわめて暖昧な立脚点 から生まれた、仮想の意味づけだったといえるのである。 そして今ひとつの問題は、こうした意味づけの多くが、戦前期の伝記的体験が︿小説家﹀としての基盤を作っ たとしながら、それらの影響を、思想面と小説の素材面だけへの影響だけで語り終え、小説という表現行為、 まり文体や表現意識の形成に与えた影響を検討してこなかったことである。 -19 -イコ

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たしかに武田が小説家として注目されるのは戦後である。しかし戦前期の武田も﹃中国文学月報﹄、﹃中国文 学﹄を中心に、研究、評論をはじめ、翻訳、翻案、詩など多岐にわたる作品を発表している。もちろんその中に は﹁司馬遷﹂も含まれている 。 先の研究動向でも特に項目だてされていたことがしめすように、この﹁司馬遷﹂ に関してはこれまで多くの研究が重ねられ、多くの議論が重ねられてきた。だがそれはあくまで例外で、戦前期 に書かれた多くの作品や、それらが生み出された背景などはあまり検討されることはなかったといえる。 だが後の各論でも触れるが、戦前期のこれら文章を通覧すると、最初中国文学研究を 中心とする実証主義的文 章を書くことから始まり、それがやがて詩や翻案へも広がりを持ちはじめるという傾向を示していく。これを仮 に、実証から虚構への転換だととらえておくならば、やがて小説へとつながる表現面での模索がすでに戦前期に 始まっていたと仮定することもできるであろうし、武田の戦前期がさまざまな言説パターンに接した︿言語体験﹀ の時期であったともいえるだろう。 -20 -3 戦前期の読み替えに向けて そこで本章では、戦前期の検討に際して、まずは旧来重視されなかった、戦前期武田の執筆活動とその作品の 検討からはじめたい 。 それは︿伝記体験﹀の解明を通じて生身の作家像の確立を目指した先行研究の方法とは一 線を画し、武田の戦前期を ︿言語体験﹀の時期としてとらえ直すためである。そして同時に、武田を言語テクス

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トの編成者 │ │つまり、同時代に存在するさまざまな言説を作品へと編み上げる主体ーーとしてとらえなおす、 本論考全体の目論見へ接続するためでもある。 ただ、本章がたとえ先行研究と一線を画すとはいえ、武田の出自や従軍など、事実として確認できる体験を無 視するわけではない。また、武田の伝記研究がいまだ不確定の要素を含んでいることが多いため、以下の事例研 究においても、実際に伝記研究的な手法に基づき、武田の執筆活動の動向や、新資料紹介、所属団体の動静など 確認し、場合によっては先行の伝記研究の訂正をする箇所もある。 ただし、誤解なきように述べておくならば、本章で参照、展開する伝記研究的記述は、あくまでその執筆活動 の確認と、その周囲に立ち上がった言説環境と言説内容を測定するためである。したがってここで注目するのは、 主に武田の執筆活動を取り巻く、戦前期という時代環境やそこで武田が属したコミュニティの動向であり、それ らが生む制度的圧力や言説の様態である。そのため本章は、伝記研究的手法を取ってはいるが、武田がどこで何 をしたというような詳細な行動内容は必要以上に記さないし、また、戦前期全体の武田の動向を明らかにするも のでもないことを断っておく 。 そうした手法をふまえ、以下第一節では、武田の翻訳活動に焦点を当て、戦前期武田の執筆活動の一端と、そ れを支える環境を確認する。この翻訳活動は戦前期の執筆活動としては多くの部分を占めているにもかかわらず、 これまでその動向がまとめて確認されることはなかった。したがってこの翻訳活動を検討することは、戦前期の 武田を取り巻く執筆環境を通覧できると同時に、発表媒体の言質や同時代の翻訳をめぐる状況など、戦後期のさ -21

(34)

-まざまな言説環境と武田の活動の相関性を確認する試みになると思われる。 続く第二節では、戦前期の中でも特に従軍期に焦点を当て、その時期に書かれた作品を検討する。かつて筆者 はこれら作品と従軍中の書簡を素材として、従軍中の武田の具体的足跡を検討したことがあった。ただ ﹄ し本節で は、著作から武田の体験を逆措定するのではなく、従軍という一種隔絶された環境の中で、これら作品を武田が どのような言語領域と相関性を持ちながら形成したのかを検討することに重きを置く。それは戦前期における武 田の文学言語がどのように形成されたのかを検討する第一節の問題と相互補完する試みでもある。 そして第三節では、戦前期に武田が接した言説と、戦後小説の関係性を検討することを目的とする。本章は戦 前期を主要な検討対象とするが、ここで扱う作品は昭和二二年に発表された武田の文壇登場作﹁審判﹂である。 ただし作品自体は戦後のものであるが、この作品は、武田が戦前期に接した仏教言説が反映していると考えられ るものである。そこで本節はこの作品の検討を通じて、戦前期の言説が武田の戦後の文学活動に与えた影響の一 端を解明し、戦前期が︿言語体験﹀の時期であったことの証左としたい。 -22・

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武田泰淳の翻訳活動

戦前期執筆環境の

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1 武田における中国文学の位置 武田泰淳が中国文学から受けた影響の大きさは、研究史の通説になっている。 武田の伝記的な足跡を年譜類を参照しても、昭和六年に東京帝国大学支那哲学支那文学科に入学、すぐに大学 の講義から足を遠のけたものの、昭和九年には同期の竹内好などと、漢学から脱却した現代中国文学研究を標梼 する中国文学研究会を結成、昭和二三年五月の解散まで中心メンバーとして会を運営するなどと記されており、 その影響は容易に推測できる。 また実作に目を転じても、武田が文壇で注目されるきっかけとなった、評論﹃司馬遷﹄(昭児・ 4 日本評論社) や、最初の小説作品集﹃才子佳人﹄(昭辺・日東方書局)には、中国文学に材を得た多くの作品が収められており、 特に初期作品にはその影響が顕著に認められるといえよう。 こうした年譜的事実を通覧するだけでも、武田と中国文学の浅からぬ関係を読み解くことができる。しかし、 研究史はこれら中国文学の影響について、年譜記載事項以上の検討をなしてきたとは言い難い 。 一 部 ﹁ 才 子 佳 人 ﹂ などの翻案小説において、中国古典文学との影響関係が典拠研究という形で検討されたことはある。だが、武田 が主に関心を寄せていた中国近現代文学からの影響はまとまった形で検討されたことはなく、具体的にどのよう な作家や作品が受容されたのかも、実はそれほどつまびらかにはされていない 。 だが、改めて年譜記載事項や武田の著作を読み直してみると、武田と中国文学の関わりは、多く中国現代小説 -24

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-︿ 翻訳﹀という形で表されていることに気づくはずである 。 この翻訳活動に注目することは、武田が受容した 中国文学の傾向を直接的に知る手がかりになるであろう 。 またこれら翻訳のほとんどが、武田が作家として認知 される昭和二二年頃までに発表されていることからは、初期武田の文学活動のなかで中国現代小説の翻訳が大き な位置を占めていたことが意味されるであろう。 本章の目的は、戦前期の武田の執筆活動が 、 それを取り巻 く 環境といかなる相関性を持ちつつ行われたのかを 検討することにある 。 本節はその目的の一助として、武田の翻訳活動に焦点を当てることで、戦前期の執筆活動 を支えた環境と、それが作品にもたらす影響の一側面を確認したい。 そのため、まずはこれまでに知られている翻訳作品に対して、書誌事項を中心とした再検討を行う。それは出 版メディアや交友関係など、翻訳活動の周辺に存在する環境を確認する目的のためである 。 だがこうした試みを 通じて先行の年譜に対する疑問が生じた場合は、極力紹介を行い、後の研究の資としたい。 また今回検討対象とする ︿ 翻訳﹀は、中国語から日本語へ翻訳された作品とし、内容的には独立した作品とし て扱ったものだけを対象とする。したがって翻案小説や武田が自作内に部分引用する形で翻訳したものは検討外 と し た い 。 なお本調査の過程において、敗戦直後の上海で発行された日本語雑誌﹃改造評論﹄に、武田の翻訳と推定され る一文を発見した 。 ただしこれは後述するように、未確定の要素を多分に含んでいる。したがって本稿ではこれ を﹁存疑﹂資料として扱い、今後の研究の資として紹介するに留めたい。 の -25

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-2 武田の訳業と研究史の問題 ところで、武田の翻訳作業全体を論じた先行研究は、管見に入る限り見当たらない。ただ、武田の最も詳細な 年譜とされ、著作 目 録も兼ねた 古 林 尚 編 ﹁ 武 田 泰淳年譜 ﹂ ( 以 下 ﹁ 古 林 年 諮 ﹂ と略称する)には、翻訳作 品 が 一 一 作 品紹介されている。さらに年譜作成以降、長田真紀によって発見されたものをあわせると、現在までに武田の翻 訳は以 下 の 一 四 作品を数えることができる。 蜜 i僑 A 耳 え 支 老 蜂 玉 鮮 す 日君 dEコ~ 中 騨 れ 虹 漫 南 農村国 入 ば 彊 露 ロロ 、ー 尽 少年 日 頭 」 記 名 -t:- 察 旦 コ。 」 記 '- よ り 愛 支 中 現 貫 現 所 国 す 那遁 化 貰 れ 虹 集 r.... J、、 彊 月 収 ば 視 察 報 圃 ( ( 、P 14 13 」 7 本 そ 記 号 、、-' 昭 昭 昭 昭 昭 昭 昭 発 15 15 12 10 9 8 8 3 2 12 9 7 10 6 表 20 20 15 25 1 10 10 月 東 東 改 中

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-しかしそうだとしても、奥付からは飯塚が翻訳者であった事実を示唆するものは確認できず、飯塚が共訳者であ ったことを確認させることは出来ない 。 とはいえ、中国文学研究会の動向を記した立問祥介編﹃復刻中国文学別冊﹄所収﹁年譜﹂(昭栃・ 3 汲古書院 以下﹁研究会年譜﹂と略)には、飯塚朗が武田の翻訳を手伝った旨が記されている。ここからは﹁古林年譜﹂の 記述が﹁研究会年譜﹂を典拠としていることが推定できるのだが、﹁研究会年譜﹂の記述では、あ く まで飯塚は 応召前で完成を危ぶまれた武田の翻訳を間に合わすために手伝ったという記述にとどまっている。したがってあ る意味では飯塚朗の共訳という記述は妥当であるのかもしれない。しかし、書誌上の翻訳者ではない飯塚を、井 上紅梅と共に共訳者とする表記法は、書誌的な面においては若干の疑問と混乱を招くといわざるを得ないだろう。 それと同様に、原本記載事実と﹁古林年譜﹂の記述の髄離に関して言えば、﹃中国文学﹄六四号(昭日・ 8 ) に 掲載された﹁緩遠の王同春﹂にも同様の疑問が認められる 。 本作は末尾に﹁編集部訳﹂の注記があるが、﹁古林年譜﹂ではこの翻訳を武田の手になるものとする 。 だ が 、 やはりこの言及も何を証拠にしたものかが記されていない。翻訳本文の内容を検討しても武田訳といえる決定的 な証拠がなく、先の﹁研究会年譜﹂や管見に入った限りの武田及び関係者の言及の中にも武田訳であるとの証左 を認めることができない。したがってこの訳文もやはり武田単独によるものであるかどうかの疑義が残るのであ る 。 -28

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-このように原本の記述を再検討すると、現行の年譜の記述は未だいくつかの疑問を苧んでいることが確認でき る。そしてさらにこうした原本の再確認作業からは、またいくつかの﹁古林年譜﹂未記載作品があることを認め ることができる 。 すでに﹁古林年譜﹂にも記載のある﹃湖南の兵士﹄(昭げ・ 9 小学館)だが、今回改めて原本を確認すると、年 譜に記載されていない﹁女作家の生活﹂という翻訳作品が収録されていることを確認することができた 。 この作品の内容は、同書の武田自身による解題を見ても明らかに﹁記丁玲﹂上巻を翻訳したものであるといえ、 すでに年譜に記されている表題作の﹁湖南の兵士﹂とは明らかに別作品であることが確認できる。 だが、年譜の記述はあくまで単行本としての﹃湖南の兵士﹄を刊行した事実のみを伝える記述になっているこ とから、古林氏は﹁女作家の生活﹂の収録を確認していたものの、あえて年譜に書かなかったとも考えられる。 しかし、たとえば﹁古林年譜﹂昭和一二年の﹃支那辺境視察記﹄に対する記述では、版形、ページ数、値段まで 記されており、同じく昭和一五年の﹃現代支那文学全集﹄の記述では、本の題名のほか、収中の武田訳の作品名 までが詳しく記されている。それに対し、この﹃湖南の兵士﹄に対する年譜上の記述にそうした詳細さはない。 したがって同書の記述もまた、年譜作成に際し原本に当たらなかったために、﹁湖南の兵士﹂単独の翻訳書だと 誤認したという可能性が認められるのである。 この﹁古林年譜﹂は、編纂者の古林自身が語るように、武田自身の聞き書きを中心に編纂したとされる。その 言及を踏まえるならば、この年譜に記された武田の翻訳作品に対する記述は、武田の記憶に頼った裏付けのない -29

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-記述が多 く を 占 め 、 たとえ調査をしても、 たものを確認する程度までしか調査が及んでいない、 中国文学研究会が発行した﹁中国文学月報﹂ 不確定な記述事項を含んだ年譜であったことがわかるので に掲載され ある 。 .~"健向 1T)<II'I.1

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﹁ 中 国 文 学 ﹂ 以上のような事実をふまえると、﹁古林年譜﹂昭和 一六年三月の項で発刊の事実が紹介される﹃丁玲の 実際には刊行されていなかった可能性 想 ひ 出 ﹄ は 、 が で て く る 。 同書に関しては、昭和二ハ年一月発行の雑誌﹃中 国文学﹄に掲載された﹁中国文学叢書﹂の広告の中 同叢書のうちの一冊として刊行が予告されてい 30 -で 、 る ( 本 頁 資 料 参 考 ) 。 ここではこの叢書が れ、しかも掲載される叢書の中で、 ひ出﹂が筆頭におかれている 。 この広告を見る限り、 ﹁古林年譜﹂の記述通り昭和一六年三月より ﹃丁玲の想ひ出﹄から順に刊行されたよう コニ月以降月一冊刊行﹂ ﹁ 丁 玲 の 想 レ ﹂ 々 。 こ の 叢書は 武田訳の

(43)

な印象を受ける。しかし、それに引き続く同年六月の広告には﹁近日出来﹂との記述があり、当初発行予定から 三ヶ月たった六月の時点でもまだ﹁中国文学叢書﹂自体が一冊も刊行されていない。しかも一月の広告で叢書の 筆頭にあげられていたはずの武田訳﹃丁玲の想ひ出﹄は、続刊の項目に廻されている。したがって、﹁古林年譜﹂ のいう一六年三月刊行という記述は誤りであるといえる。 なお、この叢書の最初の出版は、劉鉄雲原作、岡崎俊夫訳﹃老残遊記﹄であるが、﹃中国文学﹄同年一

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月 、 翌一七年一月の広告を参考にすると、同書以降に刊行される近刊リストからも﹃丁玲の想ひ出﹄は漏れているこ とが確認できる。そして次に広告が登場する昭和一七年七月では竹内好訳﹃饗金花﹄の近刊予告がなされ、それ とともに付された刊行予定作品の一覧から﹃丁玲の想ひ出﹄という書名そのもが消滅している。つまりこの事実 は、武田が翻訳予定であった﹃丁玲の想ひ出﹄が﹁中国文学叢書﹂の出版計画自体からはずされ、実際には刊行 されなかったことを示唆している考えられるのである。 こうした出版計画の頓挫は、時局を控えた当時にあってはそれほど珍しいことではないと思われる。実際、国 立国会図書館、日本近代文学館、三康図書館、および

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﹀門∞目当与の包による全国大学図書館等への所蔵検索な どでも所蔵を認めることができず、さらに国会図書館および日外アソシエーツの共同作成になる、昭和元年以降 の国内刊行書目リストとしては最大級の回 CC 間宮、

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による検索でも、同書の刊行を認めることができなかっ た。さらに、この回。。間宮札口∞によって﹁中国文学叢書﹂を検索すると、同叢書は竹内好訳﹃菱金花﹄を最後 に出版が中断されていることが確認でき、ここからも﹃丁玲の想ひ出﹄が未刊行であったことの推測ができよう。 -31

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-同書を発刊されたものとする﹁古林年譜﹂の根拠はわからない。おそらくは先に挙げた昭和一六年一月発行の ﹃中国文学﹄に掲載された広告のみを参考にし 、原本と 刊行事情を確認せずに年譜を記述したことから 発生した と思われるのだが、あるいは先に見たように、年譜作成に際して武田の直接の言及があったのかもしれない。し かしいずれにせよ、﹃丁玲の想ひ出﹄は年譜上のみ存在し、実際に刊行されなかった幻の翻訳本である可能性が 高いといえ、年譜の記述に再考を促すといえるのである。 なお﹃丁玲の想ひ出﹄は、先の﹃中国文学﹄昭和二ハ年一月の広告に記された文章から推定すると、沈従文﹁記 丁玲﹂を翻訳したものであると考えられる 。これは 先に見た﹁女作家の生活﹂の原作と同じであり、ここからは ﹁女作家の生活﹂が、発表先を失った﹃丁玲の想ひ出﹄の前半部分を発表し直したものであるという、刊行事情 の一端をうかがうこともできるのである。 -32 -3 武田の翻訳環境│││新出資料が意味するもの このように、旧来から知られていた翻訳の出版事情を検討し直すと、武田研究が依拠してきた﹁古林年譜﹂に 対し、いくつかの補訂を加えることができた。こうした事実はまた、﹁古林年譜﹂を基礎資料としてきた旧来の 武田の伝記研究が、いまだ未発見の事実や多くの未確定要素を含んだ状態にあるという、武田研究における問題

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の一端をも暗示しているといえる。 実際そうした問題を示すように、今回の調査の過程で、次表にまとめたように﹁函谷関﹂﹁前哨兵﹂﹁我家の 出来事﹂、そして先に紹介した﹁女作家の生活﹂および﹁手﹂という、武田研究史上において知られていなかっ た五編の翻訳作品、及びその翻訳に関連する全集逸文を三編、新たに確認することができた。 これらの発見は、単に新出資料の発見だけに留まらない意味をもたらすはずである。なぜならこれらの資料の 出版事情を検討することは、同時にこれまでほとんど知られなかった武田最初期の文筆活動の実態を想定させる 手がかりにもなるとおもわれるからである。 新出翻訳作品一覧 -33 -女 我 作 家 作 家 前 函 手 の 日首 谷 口 の 出 /丘、L 関 生 来 名 活 事 改 湖 支 支 造 日 君 の 輩 印 印 論 兵 度 度 収 窟 り 士 短 短 本 T司j 編 編 号 ) 集 集 民 昭 昭 園 35 17 14 11 11発 Bg

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1 11 年 12 9 9 10 16 16 日 伊 藤 河 何 発出 出 行 書 書 書 庖 房 房 所 作 ; ロロロ 備 名 名 lま l土 考 木 木 田 田 よ よ る る 仮 仮 題 題 右表にあげた﹁函谷関﹂﹁前哨兵﹂についてであるが、この二作が収録された﹃支那印度短編集﹄(昭 H ・ 9 河 出書房)は﹁世界短編傑作全集﹂の第六巻として刊行された 。 翻訳代表者佐藤春夫 。 B 6 版四二六頁 。 頒 価 一 円 。 同書には二ニ編の中国文学の短編が収録され武田はその中で郭沫若﹁函谷関﹂、競金枝﹁前哨兵﹂の二編の翻 訳を担当している 。 -34 -﹁函谷関﹂(原題同じ)の原作者、郭沫若(一八九二 1 一九七八)は、大正三年来日。九州帝国大学医科大学在学 中に文学に目覚め、郁達夫らと創造社を設立。機関誌﹃創造季刊﹄を発行した 。 初期は芸術主義色の強い詩を発 表していたが、大正二ニ年に河上肇﹃社会組織と社会革命﹄の翻訳をきっかけとして革命文学に転身 。 昭 和 元 年 、 北伐に参加 。 国民党総政治部副部長に就任 。 翌年、蒋介石が反共に転じた後には逮捕令で追われ、昭和三年初め

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頃、日本人の夫人と子女と共に上海を脱出。千葉県市川に居を求める。以後日中戦が本格化する昭和二一年まで 在日。唯物史観の立場から中国古代社会研究、甲骨文字研究に没頭する。なお武田は中国文学研究会第三回例会 ( 昭 和 一 O 年一月二六日、於、一ツ橋学士会館)への出席を依頼するため、市川の郭沫若の住居を訪れている。先の﹁研 究会年譜﹂昭和一

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年の項によれば、武田はこの前後の時期に頻繁に郭沫若を訪ねており、両者の問には浅から ぬ親交があったようである Q 作品内容は、老子の﹁道徳経﹂を信奉する関すが老子の話に独善さを見出し、老子の教えは煽りであったこと に気付くというものである。 また﹁前哨兵﹂(原題同じ)であるが、作者の貌金枝(一九 0 0 1 ? ) は、文学研究会系の雑誌に短文を発表し、 後、左翼作家連盟に参加。農民の霊魂を描く作家と評された人物であおな 作品内容は、馬鹿者とさげすまれる農民出身の前哨兵が、一度は自分が愚かでないと確信し、命を賭してそれ を証明しようとするものの、それも結局周囲に愚弄されるだけに終わったといったものである。 この二作品に関して、武田は以下のような解題を寄せている。こ h w v解題は﹃増補版武田泰淳全集﹄にも未収録 であるため、資料紹介もかねて以下に全文を掲載しておく 。 なお、各解題には題名が付されていないため、識別 のため木田による仮題を付した。 -35

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