“ Y O K O S U K A ” の ご 案 内
ο横須賀を語るうえで、「知っておいたほうがベター」という言葉がいくつかあります。 これは「横須賀」という地域が歴史の表にはじめて現れたのがペリーの黒船来航からで あり、幕末の人物という面からみると「小栗忠順(ただまさ)」「レオンス・ヴェルニー」 らの名前があげられます(ペリーや中島三郎助については今回は割愛します)。 一方、組織という面からみれば、横須賀鎮守府に代表される「旧・海軍」、そして自衛艦 隊司令部や横須賀地方総監部に代表される「現・海上自衛隊」などについては、多少の 知識があったほうが、「横須賀」を知るうえで、便利だと思われます。 ο今回は「JR横須賀駅」周辺の狭いエリアを散策しますが、この案内文は「名所・旧跡」 についてよりも、主として、横須賀についての理解を深めるための「組織」や「人物」 について紹介しておりますので、予めお含みおきください。 <参考>【 横須賀関連の幕末~近代の年表 】 ο1648 年(弘化 5年) 浦賀に燈明堂が造られる ο1853 年(嘉永 6年) ペリーが浦賀に来航(中島三郎助が黒船乗船) ο1854 年(嘉永 7年) 浦賀で鳳凰丸竣工 ο1860 年(万延 元年) 咸臨丸、浦賀港を出港 ο1865 年(慶応 元年) 横須賀製鉄所の建設開始 ο1866 年(慶応 2年) ヴェルニー横須賀に着任 ο1867 年(慶応 3年) 大政奉還 ο1869 年(明治 2年) 観音埼灯台の点灯開始 ο1876 年(明治 9年) 走水から造船所への水道供給を開始 ο1884 年(明治17年) 横須賀鎮守府の設置 ο1889 年(明治22年) 横須賀線開通(横須賀~大船間) ο1894 年(明治27年) 日清戦争 ο1899 年(明治32年) 浦賀船渠株式会社の1号ドック竣工 ο1901 年(明治34年) 久里浜海岸でペリー上陸記念碑除幕式挙行 ο1902 年(明治35年) 横須賀海軍下士卒集会所設立 ο1904 年(明治37年) 日露戦争 ο1907 年(明治40年) 横須賀町、市制を施行 ο1916 年(大正 5年) 追浜に海軍航空隊を開設 ο1930 年(昭和 5年) 湘南電鉄株式会社が黄金町~浦賀間運転開始 ο1941 年(昭和16年) 太平洋戦争(~1945 年) ο1951 年(昭和26年) 横須賀港が重要港湾に指定 ― 1 ―<これから以降は研修ツアーのルート順に関連事項を掲載しています> 【 JR横須賀駅 】
ο1889 年(明治 22 年)6月、大船~横須賀間の横須賀線開通に伴い、開業した。 我が国では数少ない階段のない駅としても知られている。
【 海上自衛隊<Japan Maritime Self-Defense Force>の概要 】 ο統合幕僚長・海上幕僚長の監督を受ける部隊および機関で構成される。 主として海において活動し、日本の平和と独立を守り、国の安全を保つため、直接侵 略および間接侵略に対し国家を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、公共の 秩序維持にあたる。組織のトップは海上幕僚監部を統括する海上幕僚長。 現在は第30 代海上幕僚長として、昨年 7 月に杉本正彦海将(防大 18 期卒)が就任。 日本国内では憲法上、戦力の保持と交戦権が否認されているため、海軍としての機能 は発揮できないが、諸外国からは「JAPAN NAVY」と認識されている。 ο2011 年段階での現有勢力は以下の通り。 ・ 海上自衛官数 ………… 約4万6000名 ・ 艦船隻数 ……… 148隻(排水量20 トン超) ・ 航空機数 ……… 297機 <自衛艦の区分> 〔警備艦〕 機動艦艇 ………… 護衛艦(DD・DE)、潜水艦(SS) 機雷艦艇 ………… 掃海艦(MSO)、掃海艇(MSC)、掃海管制艇(MCL)、 掃海母艦(MST) 哨戒艦艇 ………… ミサイル艇(PG)、哨戒艇(PB) 輸送艦艇 ………… 輸送艦(LST・LSU)、輸送艇(LCU)、エアクッション艇(LCAC) 〔補助艦〕 補助艦艇 ………… 練習艦(TV)、練習潜水艦(TSS)、訓練支援艦(ATS)、 多用途支援艦(AMS)、海洋観測艦(AGS)、音響観測艦 (AOS)、砕氷艦(AGB)、敷設艦(ARC)、潜水艦救難 艦(ASR)、潜水艦救難母艦(AS)、試験艦(ASE)、 補給艦(AOE)、特務艦(ASU)、特殊艇(ASU・ASY) <航空機の区分> 固定翼機 ………… 哨戒機・対潜哨戒機、救難機、多用機、練習機・輸送機・ 連絡機 回転翼機 ………… 哨戒機・対潜哨戒機、救難機、掃海・輸送機、掃海機、 輸送機、練習機・連絡機 ― 2 ―
【 海上自衛隊の組織 】 ο海上自衛隊は大きく分けて「自衛艦隊」と5つの「地方隊」から成る。 大雑把にいえば「自衛艦隊」は洋上警備を主たる任務とし、「地方隊」は沿岸警備を主 たる任務としている。なお、主要な艦艇・航空機は「自衛艦隊」の所属であり、その トップたる「自衛艦隊司令官」は実戦時の最高指揮官であり、海上幕僚長に次ぐ海上 自衛隊No2のポストである。 ο「地方隊」は5つあり、司令部は「地方総監部」である。総監部のトップは「地方総 監」であり、総監の序列は「横須賀」→「呉」→「佐世保」→「舞鶴」→「大湊」の 順番となっている。 < 組 織 図 > 防衛大臣 海上幕僚長 海上幕僚監部 (市ヶ谷・東京都 ) 自衛艦隊 (船 越・神奈川県) 護衛艦隊 (船 越・神奈川県) 航空集団 (厚 木・神奈川県) 潜水艦隊 (船 越・神奈川県) 横須賀地方隊 (横須賀・神奈川県) 呉 地方隊 ( 呉 ・広島県 ) 佐世保地方隊 (佐世保・長崎県 ) 舞鶴 地方隊 (舞 鶴・京都府 ) 大湊 地方隊 (大 湊・青森県 ) 教育航空集団 (下 総・千葉県 ) 練習艦隊 ( 呉 ・広島県 ) システム通信隊群(市ヶ谷・東京都 ) 幹部学校 (目 黒・東京都 ) 幹部候補生学校 (江田島・広島県 ) 第1術科学校 (江田島・広島県 ) 第2術科学校 (田 浦・神奈川県) 第3術科学校 (下 総・千葉県 ) 第4術科学校 (舞 鶴・京都府 ) 補給本部 (十 条・東京都 ) その他の部隊・機関 ― 3 ―
【 海上自衛隊の文化 】 ο陸上自衛隊はアメリカ陸軍式に編成・教育され、大日本帝国陸軍との関係を断絶して いるが、海上自衛隊は戦後に大日本帝国海軍の元軍人たちが再建した組織なので、そ の歴史と伝統を明確に受け継いだ後継組織を自認している。現在でも「スマートネイ ビー」を標榜し、シーマンシップに基づいた「スマートで 目先が利いて 几帳面 負けじ魂 これぞ船乗り」を躾とする人材育成を掲げることがあげられる。 これは、海軍が外国を訪問することによって、外交関係の親善を深める役割を担って きたことに由来する。そのこともあり、陸海空の中で海上自衛隊のみ初任幹部を練習 艦隊等により海外に出して見聞を広めさせている。 ο海上自衛隊は、礼式・号令・日課・用語などを日本海軍から継承しており、その独特 の気風から「伝統墨守・唯我独尊」とも言われる。 観閲式における海上自衛官の分列行進や自衛艦の進水、遠洋航海や南極観測への出港 などの際には日本海軍伝統の「行進曲 軍艦」(軍艦マーチ)が演奏され、海軍の軍艦 旗をそのまま自衛艦旗としており、日本海海戦を記念して制定された戦前の海軍記念 日(5 月 27 日)の前後には、現在の海上自衛隊も基地祭などの祝祭イベントを設けて いる。海上自衛隊で使われる信号喇叭の喇叭譜も一部を除いて旧海軍のものをそのま ま使用しており、君が代の喇叭譜が陸海それぞれ別にあるという変則状態となってい る。週末に海軍カレーを食べる習慣も旧海軍の伝統である。 なお、陸・空では使用されない「士官」という呼称も「幹部自衛官」の他に法令上も 用いられている。 【 大日本帝国海軍の解体と海上自衛隊の創設 】 οポツダム宣言受諾により、大日本帝国陸軍・海軍は解体されることとなり、海軍でも 順次復員が行われるとともに、海軍省自体も第二復員省に改組された。 第二復員省は、特別輸送艦船の運航や掃海に関する事務を掌るものとされ、第一復員 省(旧陸軍省)等と協力して復員および在外邦人の引き揚げ等を行った。そのため、 必要な艦船・職員をそのまま保有し、日本海軍の残存艦船は復員船・引き揚げ船(特 別輸送艦船)として各地と日本の間を往復したほか、航路啓開のため日本近海の掃海 作業にあたった。 第二復員局の掃海部隊は、1948 年(昭和 23 年)5 月 1 日、装備や人員はそのままに、 新たに発足した海上保安庁保安局掃海課に組み入れられ、多数の殉職者をだしながら 機雷の除去作業を行った。このことが、結果的に日本海軍が培ってきた操船技術など のノウハウやマンパワーを維持することになる。また、旧海軍軍令部作戦課が第二復 員省資料整理部として温存され、ここで海軍再建の研究が行われた。 なお、第二復員省は、復員庁、厚生省第二復員局へと改組された。 ― 4 ―
ο1950 年(昭和 25 年)に朝鮮戦争が勃発すると、旧海軍関係者はGHQおよびアメリ カ極東海軍に、局地紛争に対応可能な小規模な海軍再建案を打診した。 選択肢として、海軍を復活させるものと海上保安庁を拡充させるものが示されたが、 旧日本軍の復活を危惧する国際社会と、非武装論が浸透した世論を考慮して組織構想 が練られることになった。 アメリカ極東海軍では、アーレイ・パーク少将が中心となって日本海軍の再建に助力 した。アメリカは日本の海上部隊を設置することによって、極東地域での沿岸警備能 力を増強する狙いであった。 1951 年(昭和 26 年)10 月、連合国軍最高司令官マシュー・リッジウェイ大将より、 フリゲート18 隻と大型上陸支援艇50隻の貸与の提案があった。この提案を受け入 れた日本政府は1951 年(昭和 26 年)に旧海軍軍人と海上保安庁から人材を集め、受 け入れ態勢を整えることとし、内閣直属の委員会が置かれた。この委員会は、交互に 議長を務めた柳沢米吉海上保安庁長官と山本善雄元少将とのイニシャルをとって、「Y 委員会」と呼ばれた。 Y 委員会審議では、新部隊を海上保安庁の下に置くことに異論はないものの、一般の 海上保安庁の部隊同様に警備救難監の下に置くか、特別に海上保安庁長官直属の機関 とするかで紛糾した。 あくまで新部隊は海上保安庁の警察力強化と理解する海上保安庁側は、警備救難監の 下に置くことを主張した。一方、新部隊を将来海軍として独立させ、名実ともに海軍 再建を目指す旧海軍側は、将来の分離独立を目指して海上保安庁長官直属とすること を主張した。結局、旧海軍側の主張が通り、長官直属の機関とされた。 新組織の名称は当初は警察予備隊に倣って「海上保安予備隊」が予定されたが、後に 「海上警備隊」とすることが決まる。そして、サンフランシスコ平和条約発効の日で ある1952 年(昭和 27 年)4 月 26 日に、海上警備隊が設置された。同年中に、海上 警備隊と航路啓開隊(掃海隊)は海上保安庁から分離され保安庁警備隊となり、1954 年(昭和29 年)の防衛庁発足とともに海上自衛隊が誕生する。 この過程で、旧海軍の港湾施設・航空基地などは、そのまま海上自衛隊へ引き継がれ ることとなった。なかでもDE-261 わかばは、旧海軍の駆逐艦であった艦船をそのま ま海上自衛隊が護衛艦として運用することになったものであり、旧海軍の継承の象徴 となった。 海上自衛隊を管理する行政機関である防衛庁は、2007 年(平成 19 年)1月 9 日に 防衛省へ昇格した。 【 海上保安庁との関係 】 ο海上自衛隊は、主に他国の軍艦、軍用機を対処目標としているのに対し、海上保安庁 ― 5 ―
は主に民間船舶を任務対象としている。 海上保安庁は海上での警察および消防機関であり、領海・排他的経済水域の警備を第 一の任務としている。海上保安庁は国土交通省(旧運輸省)の機関(外局)であり、 防衛省とは行政上、別系統の機関である。 海上自衛隊は防衛大臣による海上警備行動の発令によって初めて洋上の警備行動がと れる。近年の一連の不審船事案以来、海上保安庁との共同対処訓練が頻繁に行われる ようになっており、同時に海上警備行動発令下の行動基準(ROE)、とりわけ武器の 使用に関する隊員教育が行われるようになってきている。 海上警備行動は警察官職務執行法に準じた行動が求められるためである。 【 小栗 忠順(おぐり ただまさ)について 】 ο小栗忠順(おぐりただまさ)は江戸時代末期の幕臣、勘定奉行、軍艦奉行、外国奉行。 通称は又一(任官前)。1839 年(安政6年)、従五位下豊後守に叙任。のち、1863 年 (文久3年)、上野介(こうずけのすけ)に選任。小栗上野介とも称される。 父は新潟奉行を務めた小栗忠髙(小栗氏の当主)である。 ο1859 年(安政6年)に目付、1860 年(万延元年)、34 歳にして日米修好通商条約批 准のため、アメリカ艦ポーハタン号で渡米、地球を一周して帰国した。 その後、勘定奉行・軍艦奉行・外国奉行など多くの奉行を務め、財政再建やフランス 公使レオン・ロッシュに依頼しての洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設などを行う。 ο1867 年(慶応3年)11 月9日、将軍・徳川慶喜は朝廷に大政を奉還。その後、鳥羽・ 伏見の戦いを経て、江戸城において主戦派と恭順派の議論が繰り返されていたが、恭 順派は勝海舟など少数であり、殆どの人間は主戦派であった。小栗忠順は主戦を説い たと言われているが、倒幕を容認する発言もしている。 ο1868 年(慶応4年)1月 15 日に罷免されると、小栗忠順は1月 28 日「上野国群馬 郡権田村(現在の群馬県高崎市倉渕町権田)への土着願書」を提出した。 旧知の三野村利左衛門から千両箱を贈られアメリカに亡命を勧められたものの、これ を丁重に断り、「暫く上野国に引き上げるが、婦女子が困窮することがあれば、その時 は宜しく頼む」と三野村に伝えた。また、2月末に渋沢成一郎から彰義隊隊長に推さ れたが「徳川慶喜に薩長と戦う意志がない以上、大義名分のない戦いはしない」とこ れを拒絶した。 3月初頭、小栗忠順は一家揃って権田村の東善寺に移り住む。 当時の村人の記録によると、水路を整備したり、塾を開くなど静かな生活を送ってお り、農兵の訓練をしていた様子はない。しかし2ケ月後、官軍の命を受けた高崎藩・ 安中藩・吉井藩兵により小栗忠順は捕縛された。 同年閏4月6日朝4ツ半(午前11 時)、小栗忠順は取り調べもされぬまま鳥川の水沼 ― 6 ―
河原に3人の家臣とともに引き出され、斬首された。享年42 歳。 死の直前、大勢の村人が固唾をのんで見守る中、東山道軍の軍監に対して、小栗の家 臣が無罪を大声で主張すると、小栗は「お静かに」と言い放つ。 それが最後の言葉と言われている。 ο捕縛の理由には多数の説がある。大砲2門・鉄砲20 挺の所持と農兵訓練が理由であ るとする説。また、勘定奉行時代に徳川の大金を隠蔽したからであるという説(徳川 埋蔵金説)。しかしながらこれらの容疑には事実の根拠がない。 戦後になり明治政府中心の歴史観が薄まると小栗忠順の評価は見直された。 作家の司馬遼太郎は小栗忠順を「明治の父」と記した。 <小栗忠順の人物点描> ο大政奉還後も徹底抗戦を主張し、箱根での陸海共同の挟撃策を提案したと言われる。 これは敵軍(新政府軍)が箱根関内に入ったところを迎え撃ち、同時に当時日本最強 といわれた榎本武揚率いる幕府艦隊を駿河湾に突入させて後続部隊を艦砲射撃で足止 めし、箱根の敵軍を孤立化させて殲滅するというものであった。しかし慶喜は、この 策を採用しなかった。後にこの策を聞いた大村益次郎が「その策が実行されていたら、 今頃我々の首はなかったであろう」と懼れたほどの奇策だった。 ο横須賀造船所の建設においては、相当な費用の負担を幕府に強いることになると、幕 府内部からも反対論が根強く、建設地を横須賀にすることへの反対論も強かった。 しかし日露戦争の英雄東郷平八郎は1912 年(明治 45 年)7月、自宅に小栗貞雄(小 栗忠順の娘婿)と息子の又一を招き、「日本海海戦に勝利できたのは製鉄所・造船所を 建設した小栗氏のお陰であることが大きい」とし、丁重に礼を述べた後、「仁義禮智信」 と書をしたため、これを又一に贈った。その後、又一は内務省に勤務することにもな った。 ο大隈重信が後年、「明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない」と発言した ほどの人物だった。大隈の夫人は小栗の遠縁にあたり、間接的ながらも時流を先読み する姿勢は感化を受けていたといえよう。 ο鉄砲の名手でもあり、砲術上覧にて皆中し、徳川家慶より褒美を賜っている。 【 横須賀製鉄所について 】 ο1853 年(嘉永6年)、浦賀沖にアメリカのペリー艦隊が現れてからは、幕府・諸大名 も強力な海軍の必要性を感じ、軍艦や船舶の建造や購入に力を入れてきた。 ο1861 年(文久元年)、ロシア軍艦対馬占領事件が発生した。小栗忠順は当時外国奉行 であったため、事件の処理に当たった。 幕府の対応に限界を感じ、江戸に戻った小栗忠順は老中に ― 7 ―
・ 対馬を直轄領とすること ・ 今回の事件の折衝は正式の外交形式で行うこと ・ 国際世論に訴え、場合によっては英国海軍の協力を得ること などを提言したが、老中はこの意見を受け入れなかった。このため、小栗忠順は7月 に外国奉行を辞任した。 しかしロシア艦を退去させるためには、結局は英国海軍の圧力が必要となった。 1863 年(文久 3 年)11 月 26 日、造船所建設案を幕府に提出。幕閣などから多くの反 発を受けたが、徳川家茂はこれを承認し、12 月 8 日に実地検分が始まり建設予定地は 横須賀に決定された。費用は4 年継続で総額 240 万ドル。 これが徳川埋蔵金説につ ながったとも言われている。建設に多くの鉄を使用するにあたって上野国甘楽郡中小 坂村で鉱山採掘施設との建設ラインをひき、これによって建設日数が短縮された。 幕府は1864 年(元治元年)に、この建設をロッシュに依頼し、ロッシュはフランソ ワ・レオンス・ヴェルニー(フランス海軍大技仕)を招くことになった。 同年、ロッシュたちが横須賀を見学した結果、湾の形に変化があって要害の地であり、 風波の心配もなく湾内も広くて深い、また、景色も優れ、フランスのツーロン湾に似 ているなどの理由から横須賀を製鉄所の建設地に選んだとされている。 1865 年(慶応元年)11 月 15 日、「横須賀製鉄所」(後の横須賀海軍工廠)の建設が開 始された。規模と建設費用を考えると、当時のアジア最大の海軍工廠建設計画であり、 その費用は万延二分金などの貨幣の増鋳による貨幣発行益で賄った。 そして、当時28 歳のフランソワ・レオンス・ヴェルニーを首長に任命。幕府公認の 事業では初の外国人責任者だった。これにより、職務分掌・雇用規則・残業手当・社 内教育・洋式簿記、月給制など近代経営や人事労務管理の基礎が日本に導入された。 製鉄所の敷地は約24.6万平方メートルで1865 年(慶応元年)11 月 15 日に関係者が 出席して鍬入れ式が行われた。 明治維新によって製鉄所は明治政府に引き継がれたが、工事は引き続き進められ、横 須賀造船所と名前を変えた後の1875 年(明治8年)頃から、本格的な軍艦を建造す るようになった。その後も、海軍造船所、横須賀海軍工廠と名称を変え、戦艦「陸奥」、 空母「信濃」をはじめ数々の軍艦を建造した。 ヴェルニーの指揮により1871 年(明治4年)に完成した日本最古のドライドックは、 100 年以上を経た今も使われている。 なお、1945 年以降はアメリカ海軍の基地となり、普段は立入ることができない。 【 ヴェルニー公園とヴェルニー記念館 】 οヴェルニー公園には、現在はアメリカ海軍横須賀基地として利用されている横須賀製 鉄所跡地を臨むようにヴェルニーと小栗上野介忠順の胸像が並んでいる。 ― 8 ―
毎年11 月にはこの胸像の前で、ヴェルニー・小栗祭式典が行われる。 フランス庭園様式の公園は、春と秋にさく薔薇や海上自衛隊やアメリカ軍の艦船を身 近に見ることができるスポットとして知られている。また、かつての旧軍港への入口 として、多くの軍人が行きかった旧横須賀軍港逸見門が残されている。 公園の一角にあるヴェルニー記念館は、横須賀製鉄所を作り上げたヴェルニーの功績 と横須賀製鉄所の意義を永く後世に伝えるために建てられた施設である。中には1865 年に製造されたオランダのロッテルダムから横須賀製鉄所に輸入されて以降、100 年 以上にわたって使用されていた3トンと0.5トンのスチームハンマー(蒸気の圧力 でハンマーを動かして作業を行う工作機械)が展示されている。 日本に近代西欧の技術が輸入され、西欧文明を消化吸収していく歴史を語る貴重な文 化遺産として、いずれも国の重要文化財に指定されている。 【 フランソワ・レオンス・ヴェルニー 】 οレオンス・ヴェルニーは1837 年(天保 8 年)12 月 2 日、フランス中部アルデシュ県 ポンドーブナス(現ローヌ=アルプ地域圏)で生まれた。 リヨンで学び、名門エコール・ポリテクニクへ進学。1858 年(安政 5 年)シェルブ ールの応用科学研究所に入り、海軍技術者となった。その後、ブレスト造兵廠で国家 のために働き、1862 年(文久 2 年)中国寧波に派遣されて造船所及び清国海軍向け 砲艦4隻の建設を監督した。 ο日本では1853 年(嘉永6年)から近代化への努力を始めており、江戸幕府はフラン スの協力で近代的造兵廠(製鉄所)の建設を決定していた。 ヴェルニーは1864 年(元治元年)10 月に日本へ派遣され、翌 1865 年(慶応元年) に造兵廠建設の総責任者として横須賀に着任した。横須賀は前述した理由により、建 設用地として選ばれた。この年、ヴェルニーは造兵廠建設に必要な装備を購入し、支 援要員となるフランス海軍技術者(全部で 45 家族)をリクルートするためフランス に一時帰国した。日本側では65 人の技術者と 2500 人の労働者が選抜されていた。 造兵廠建設は世界的水準からみても近代的なインフラの中心をなすものであり、日本 産業近代化の最初の重要なステップとなった。近代的な建物、走水水道、製鉄所、レ ンガ工場、日本人技術者養成のための技術学校も設置された。 横須賀造兵廠建設以外にも、ヴェルニーは東京周辺で4ケ所の灯台建設(観音崎灯台、 野島埼灯台、品川灯台、城ヶ島灯台)にも関わり、そのうち旧品川灯台(国の重要文 化財)だけが博物館明治村に移築されて現存している。また、アジア最大の造船能力 を誇る長崎造船所の建設にも携わった。 1876 年(明治 9 年)、日本が完全に自前の運営能力を持つようになると、彼の使命は 終わった。 ― 9 ―
ο結局、ヴェルニーは日本に12 年間滞在したが、その間に横須賀造兵廠建設だけでな く、前述したように、4ケ所の灯台の建設、横須賀・横浜間の定期蒸気船の運航、走水 水源地湧水型近代水道施設建設、長崎造船所建設などに携わり、1876 年(明治 9 年) 3 月 13 日フランスに帰国した。 οフランス帰国後、6 ケ月間公務を続けた後、現役を離れた。さらに 1895 年(明治 28 年)までフランス最大の鉱山会社の取締役となり、1908 年(明治 41 年)5 月 2 日、 ポンドーブナスの自宅で死去した。 οレオンス・ヴェルニーは日本では近代化と日仏友好の象徴として記憶されている。 海上自衛隊横須賀地方総監部とアメリカ海軍横須賀基地に隣接する海辺には、その名 にちなむヴェルニー公園が造営され、ヴェルニー記念館と胸像もその地に作られた。 なお、1858 年(安政 5 年)の日仏修好通商条約から数えて、国交開始 150 周年とな る2008 年(平成 20 年)に、日仏両国の代表的な人物の記念切手が発売された。 ヴェルニーはその「幕末シリーズ」10 人の中に選ばれている。 【 ベースに残る近代化遺産 】 οベース(アメリカ海軍横須賀基地)内には、旧日本海軍の横須賀鎮守府庁舎や、日本 で最も古いドライドックなど歴史的建造物が数多く残されている。 現在の在日アメリカ海軍司令部庁舎は、1926 年(大正 15 年)に横須賀鎮守府庁舎と して建造された建物である。鉄骨造りタイル張りの大正建築の傑作といわれている。 日本最古の1号ドライドックはヴェルニーの設計により、1871 年(明治 4 年)に完 成した。同時期に建造された2号・3号ドックも含め100 年以上たった今も使われ続 けている。その他にも第二次世界大戦中に巨大空母「信濃」を建造した6号ドックや 「海軍砲術学校」校門銘板「横須賀製鉄所跡碑」などが残っている。 ο原子力空母GW(ジョージワシントン)の母港は横須賀であり、アメリカ海軍第7艦 隊の旗艦「ブルーリッジ」も横須賀にいる。 横須賀基地はアメリカ軍の所管となっており、住所はカリフォルニアとなっている。 ベース内の道路には「キングスロード」「ニミッツストリート」などの名称がつけられ ており、完全にアメリカの雰囲気である。入所するときはワンデイパスが発行される。 【 どぶ板通り 】 ο国道16 号線沿いに、京急線汐入駅からアメリカ海軍横須賀基地正面あたりまで続く 商店街一帯はどぶ板通り(ドブ板ストリート)と呼ばれている。 旧日本海軍の軍港として栄えた当時、通りをどぶ川が流れていて、その上に厚い板が 敷いてあったことから、こう呼ばれていたようである。 戦後は横須賀に駐留したアメリカ軍の歓楽街として栄えた。 ― 10 ―
肖像画、スカジャン、刺繍店など他ではあまり見ない店舗が集まっているのは、帰国 するアメリカ兵のお土産として人気があったためである。以前は帰国したアメリカ兵 に送る手紙の翻訳をする店が多数あったが、今では姿を消している。 ο現在はスーベニアショップやバーなど昔ながらの面影を残しつつ、アメリカ軍の払い 下げ品やスカジャン、アメリカンフードなどアメリカの雰囲気を味わうことができる 通りとして人気をよんでいる。年に4回開催される「どぶ板バザール」では多くの人 で賑わう。 < どぶ板通りの老舗紹介 > 【 ハニービー 】 οアメリカ軍の食堂のコックをしていたオーナー直伝の味。ベース(アメリカ海軍横 須賀基地)の目の前でヨコスカネイビーバーガーを味わえるアメリカンな雰囲気満 点のお店です。 【 ミリタリーショップ FUJI 】 οアメリカ軍の放出品、ヨーロッパ諸国軍用の希少品、横須賀でしか入手できないネ イビーものまで、独自の仕入れルートで選び抜いた品ぞろえ。 【 大将ミシンししゅう店 】 ο刺繍歴は1951 年(昭和 26 年)から。アメリカ海軍、自衛隊関連の刺繍が施された ワッペンや帽子が、店内所狭しと並ぶのはどぶ板通りならでは。 【 プリンス商会 】 ο1947 年(昭和 22 年)創業。刺繍から縫製まで手作業でスカジャンをを製作してい る。戦後にアメリカ兵の間で広まったスカジャンも今は人気の横須賀ブランド。 【 GREEN 】 οアメリカンヴィンテージスタイルにこだわったカジュアルショップ。フライトジャ ケットなどミリタリーウェアを多数取り揃えている。 【 武谷肖像画店 】 ο50 年の画歴が人物の深い味わいを表現している。朝鮮戦争やベトナム戦争時には、 艦船が寄港すると多くのアメリカ兵から恋人や家族の肖像の注文が入った。 < 横須賀豆知識 > 【 スカジャン 】 ο横須賀に駐留していたアメリカ軍兵などが、記念に和風の柄などの刺繍をオーダー して作ったジャンパー。軍から持参したパラシュート生地(サテン)で作られたの がはじまり。アメリカ軍兵のみやげ物として誕生した「スカジャン」の語源は勿論 「ヨコスカジャンパー」である。 ― 11 ―
【 ホッピー 】 οビールが高嶺の花であった頃、ホッピーはビールの代用品として横須賀のセイラー たちに爆発的ブームを巻き起こした。「焼酎割り飲料 ホッピー」としての飲み方も、 この当時に生まれた。 【 ヨコスカネイビーバーガー 】 ο100 年以上前にアメリカで製作されたハンバーガーは、20 世紀はじめにはアメリカ 海軍でも 24 時間交代勤務の見張り要員に濃いコーヒーとセットで提供されるよう になっていた。 1940 年代後半、アメリカ海軍から横須賀に様々なアメリカ文化が広がっていく中、 ハンバーガーは汐入駅近くにあったEMクラブ(アメリカ海軍下士官兵集会所)で ビッグバンドジャズの演奏とともに、日本人へ浸透していった。 2008 年 11 月には海軍の伝統的な調理法で作られるハンバーガーのレシピがアメリ カ海軍から横須賀市へ提供された。このレシピを基に基地周辺の飲食店でメニュー を開発。横須賀観光を象徴する新グルメブランド「YOKOSUKA NAVY BURGER」が誕生した。 現在、基地周辺の12 店舗で販売している。 【 連合艦隊、旧字体は聯合艦隊 】 ο連合艦隊は2個以上の艦隊で編成された日本海軍の中核部隊である。明治初期、海軍 はそれまで有力艦・新鋭艦で編成された主力部隊を「常備艦隊」、老朽艦などで編成さ れた沿岸警備のための二線級部隊を「警備艦隊」と称していた。しかし、日清戦争開 戦がせまってくるにつれ「警備艦隊」というのは戦時に相応しくないという意見が出 てきた。一時は「警備艦隊」を「常備艦隊」に統合する案が出たが、当時の軍令部官 房主事である山本権兵衛大佐が「警備艦隊」を「西海艦隊」と改名し、「常備艦隊」と 「西海艦隊」をもって「連合艦隊」を組織するという案を出した。 これが連合艦隊編成のきっかけとなり、日清戦争開戦の6日後に初めて連合艦隊が編 成された。以降、日露戦争など戦時や演習時のみ臨時に編成されていたが、1923 年(大 正12 年)以降常設となった。 ο連合艦隊は天皇に直属する連合艦隊司令長官がこれを統括し、軍令に関しては軍令部 総長の、軍政に関しては海軍大臣の指示を受けた。1944 年(昭和 19 年)のレイテ沖 海戦で事実上壊滅した。 【 記念艦「三笠」(三笠公園) 】 ο「三笠」は、大日本帝国海軍の戦艦で、敷島型戦艦の4番艦。奈良県にある三笠山に ちなんで命名された。船籍港は京都府舞鶴市の舞鶴港。同型艦に敷島・初瀬・朝日が ― 12 ―
ある。1904 年(明治 37 年)からの日露戦争では連合艦隊旗艦を務め、連合艦隊司令 長官の東郷平八郎大将らが座乗した。 現在は、神奈川県横須賀市の三笠公園に記念艦として保存されている。 < 建 造 > ο日清戦争後、ロシア帝国に対抗するために日本海軍は軍拡を進める。その中で「六六 艦隊計画」(戦艦を6隻、装甲巡洋艦6隻を配備する計画)の一環として三笠は建造さ れた。 計画実現には莫大な資金を要するため、日清戦争以前から続けていた海軍のリストラ や必死のやりくりにもかかわらず、海軍予算は尽き、完成させるには憲法違反である 予算の不正流用しか道は残されていなかった。そこで、六・六艦隊計画の発案者山本 権兵衛が協力者の西郷従道に相談すると、西郷はこう言った。 「山本さん、それは是非とも(軍艦を)買わねばなりません。予算を流用するので す。勿論違憲です。議会で違憲を追及されたら、二重橋で腹を切りましょう。 二人が死んでも軍艦ができれば本望じゃないですか。」 こうして、予算を不法流用して三笠は完成することとなった。 三笠は六六艦隊計画の最終艦であり、イギリスのヴィッカース社に発注された。 1899 年(明治 32 年)1月 24 日、バロー・イン・ファーネス造船所で起工。1900 年 (明治33 年)11 月 8 日進水。1902 年(明治 35 年)1月 15 日から 20 日まで公試が 行われ、3月1日サウサンプトンで日本海軍への引渡しが行われた。 建造費用は船体が88 万ポンド、兵器が 32 万ポンドであった。 3 月 13 日、イギリス・プリマスを出港し、スエズ運河経由で 5 月 18 日横須賀に到着 した。初代艦長は早崎源吾大佐。横須賀で整備後6 月 23 日に出港し、7月 17 日本籍 港である舞鶴に到着した。 < 戦 歴 > ο1903 年(明治 36 年)12 月 28 日、三笠は連合艦隊旗艦となった。 1904 年(明治 37 年)2 月 6 日から日露戦争に加わり、8 月 10 日には黄海海戦に参加 した。12 月 28 日呉に入港し修理を行った後、1905 年(明治 38 年)2 月 14 日日呉を 出港、江田島・佐世保経由で 21 日朝鮮半島の鎮海湾に進出した。以後、同地を拠点 に対馬海峡で訓練を行い、5 月 27 日・28 日には日本海海戦でロシア海軍バルチック 艦隊と交戦した。この海戦で三笠は113 名の死傷者を出した。 ο日露戦争終結直後の1905 年(明治 38 年)9 月 11 日に、佐世保港内で後部弾薬庫の 爆発事故のため沈没した。この事故では339 名の死者を出した。 弾薬庫前で、当時水兵間で流行していた「信号用アルコールに火をつけた後、吹き消 して臭いをとばして飲む」という悪戯の最中に、誤って火のついた洗面器をひっくり 返したのが原因とする説や下瀬火薬の変質が原因という説もある。事故当時、東郷は ― 13 ―
上陸して無事であった。また、艦隊付属軍楽隊に着任していた瀬戸口藤吉も、事故当 時は上陸中で難を逃れたが、軍楽兵の多くが事故で殉職した。なお、この爆発沈没事 故は秋山真之が宗教研究に没頭する一因ともなったとされる。 10 月 23 日の海軍凱旋式は戦艦敷島が三笠に代って旗艦となった。三笠は予備艦とさ れ、1906 年(明治 39 年)に引き揚げられた後佐世保工廠で修理され、1908 年(明 治41 年)4 月 24 日、第一艦隊旗艦として現役に戻った。 ο1914 年(大正 3 年)8 月 23 日、日本が第一次世界大戦に参戦すると、戦争初期に三 笠は日本海などで警備活動に従事した。その後、1918 年(大正7年)から 1921 年(大 正 10 年)の間、大戦中に誕生した社会主義国ソ連を東から牽制するシベリア出兵支 援に参加した(参加前に防寒工事が実施され、飛行機の臨時搭載も行った)。 1921 年(大正 10 年)9 月1日、一等海防艦となるが、9 月 16 日ウラジオストク港外 のアスコルド海峡で濃霧の中を航行中座礁し大きく損傷して浸水したが、離礁後ウラ ジオストクに入渠し応急修理を行い、11 月 3 日に舞鶴に帰投した、 < 廃艦とその後の荒廃 > οワシントン軍縮条約によって三笠は廃艦が決定した。1923 年(大正 12 年)9 月 1 日 には関東大震災により岸壁に衝突した。応急修理のままであったウラジオストク沖で の破損部位から大浸水を起こし、そのまま着底してしまう。9 月 20 日に帝国海軍から 除籍。軍縮条約により廃艦後は解体される予定だったが、国民から愛された三笠に対 する保存運動が勃興し、現役に復帰できない状態にすることを条件に保存されること が特別に認められ、1925 年(大正 14 年)1 月に記念艦として横須賀に保存すること が閣議決定された。同年6 月 18 日に保存のための工事が開始され、11 月 10 日に工 事は完了した。舳先を皇居に向けた後に船体の外周部に大量の砂が投入されるととも に、下甲板にコンクリートが船内に注入された。この日以降、三笠は海に浮かんでい るのではなく、海底に固定されており、潮の満ち引きによっても甲板の高さは変わら ない状態となっている。11 月 12 日に「記念艦三笠」保存記念式典が行われた。 これより日本海海戦の第1日目の5 月 27 日を「海軍記念日」とし、昭和前期までは 例年、東京で天皇の臨席する水交社主催記念式典が行われ、海軍軍楽隊の演奏や陸戦 隊の行進や、また各地の団体や学校でも記念行事が行われていた。 ο太平洋戦争の敗戦後、「海軍記念日」は廃止となり、「記念艦三笠」は連合国軍に接収 され三笠保存会も解散となった。占領されていた時期にはソ連からの要求で解体処分 にされそうになったり、アメリカ軍人のための娯楽施設が設置され、「キャバレー・ト ーゴー」が艦上に開かれるという状態にあった。さらに戦後の物資不足により、主砲 を含む兵装や上部構造物はおろか、取り外せそうな金属類は機関部に至るまで、ガス 切断を使って全部盗まれ、チーク材の甲板までも薪や建材にするために剥がされてい るという荒廃ぶりとなった。後部主砲塔があった場所には水族館が設置されていた。 ― 14 ―
< 復元運動 > οこの惨状を見たイギリス人のジョン・S・ルービンが英字紙「ジャパンタイムズ」に 投書をし、大きな反響を呼んだ。さらにアメリカ海軍のチェスター・ニミッツ提督が 三笠の状況を憂いて本を著し、その売り上げを三笠の保存に寄付するなどして復元保 存運動が徐々に盛り上がりをみせていった。 復元にあたり、アメリカ軍が撤去した記録が残っているものは、ほぼ全てが完全な形 で返還されたが、誰が持ち去ったか不明なものは、今日に至るまで殆ど返還されてい ない。1958 年(昭和 33 年)にチリ海軍の戦艦「アルミランテ・ラトーレ」が除籍さ れ、翌年日本において解体されることになったが、三笠と同じイギリスで建造された 艦であったため、チリ政府より部品の寄贈を受けるという幸運があった。 また、1958 年(昭和 33 年)には三笠保存会が再建され、復元募金を開始し、1959 年(昭和34 年)に復元整備工事が行われ、1961 年(昭和 36 年)5 月 27 日に記念艦 三笠復元記念式が行われた。以後、毎年5 月 27 日に横須賀の三笠記念公園で「日本 海海戦記念式典」が開催されている。 < 現 在 > ο砲塔や煙突、マストをはじめとする多くは神奈川県横須賀市において新しく作成され たレプリカである。下甲板はコンクリートや土砂で埋められているので、船内で見学 できるのは上甲板と中甲板となっているが、資料展示室や上映室などが作られている ために、かつて船であったという面影は後部地区の一部を除いて見ることができず、 事実上船の形をした資料館となっているが、甲板の一部に当時のままのチーク材が残 っている。管理は三笠保存会に委託してあるが、現在も防衛省所管の国有財産である。 【 東郷 平八郎 】 ο明治時代の日本海軍の司令官として日清戦争・日露戦争の勝利に大きく貢献した。 日露戦争においては、連合艦隊を率いて日本海海戦で当時世界屈指の戦力を誇ったロ シア帝国海軍バルチック艦隊を一方的に破って世界の注目を集め、アドミラル・トー ゴー(東郷提督)としてその名を広く知られることとなった。 当時、日本の同盟国であったイギリスのジャーナリストらは東郷平八郎を「東洋のネ ルソン」と呼び、同国の国民的英雄に比して称えている。 日本では大胆な敵前回頭戦法(丁字戦法)により、日本を勝利に導いた世界的な名提 督として、東郷平八郎と同藩出身者であり、同じく日露戦争における英雄である満州 軍総司令官・大山巌と並び、「陸の大山、海の東郷」とも称され、国民の尊敬を集めた。 ο1848 年(弘化 4 年)12 月 22 日、薩摩藩士・東郷実友の四男として生まれる。その後、 薩摩藩士として薩英戦争に従軍し、戊辰戦争では新潟・函館に転戦して阿波沖海戦や 箱館戦争、宮古湾海戦で戦う。体型は小柄ではあるが美男子であり、壮年期において ― 15 ―
は横須賀の料亭「小松」で芸者に随分もてたとされる。 < イギリス留学 > ο明治の世になると、海軍士官として 1871 年(明治 4 年)から 1878 年(明治 11 年)ま でイギリスのポーツマスに官費留学する。東郷平八郎は当初鉄道技師になることを希 望していた。イギリスに留学するに際して、最初は大久保利通に留学を頼み込んだが 色よい返事はもらえなかった。後で東郷は大久保が自分に対して「平八郎はおしゃべ りだからダメだ」とする感想を他者に漏らしたことを伝え聞き、自省してその後寡黙 に務めた。それが長じて、後年は「沈黙の提督」との評価を得るまでになった。 大久保の後、西郷に頼み込んだところ、「任せなさい」と快諾、ほどなくして東郷のイ ギリス留学が決定した。 ο当初、ダートマスの王立海軍兵学校への留学を希望したがイギリス側の事情で許され ず、商船学校のウースター協会で学ぶことになる。留学先では「To Go, China」とか らかわれるなど苦労が多く、おしゃべりだった性格はすっかり無口になってしまった と言われている。しかし、宮古湾海戦に参戦していたことを告げると、一躍英雄とし て扱われることとなった。 この留学の間に国際法を学んだことによって、日清戦争時に防護巡洋艦浪速の艦長と して、停船の警告に応じないイギリスの商船「高陸号」を撃沈する(高陸号撃沈事件) にあたって、このことは国際法に違反しない行為であると正しく判断できたのだとさ れている。さらにこのときの沈着な判断力が、後に連合艦隊司令長官に人選される要 素となった。 帰国途上、西郷隆盛が西南戦争を起こして自害したと知った東郷は、「もし私が日本に 残っていたら、西郷さんの下に馳せ参じていただろう」と言って西郷の死を悼んだと いう。実際、東郷の実兄である小倉壮九郎は、薩軍三番大隊九番小隊長として西南戦 争に従軍し、城山攻防戦の際に自決している。 < 日清戦争 > ο1894 年(明治 27 年)の日清戦争では緒戦より「浪速」艦長を務め、豊島沖海戦(イ ギリス船籍の高陸号事件)、黄海海戦、威海衛海戦で活躍する。威海衛海戦後に少将に 進級し、同時に常備艦隊司令官となるが、戦時編成のため実際には連合艦隊第一遊撃 隊司令官として澎湖島攻略戦に参加した。 ο日清戦争後、一時病床に伏すが 1899 年(明治 32 年)に佐世保鎮守府司令長官となり、 1901 年(明治 34 年)には新設の舞鶴鎮守府初代司令長官に就任した。これは後の対 米戦備での位置づけから閑職であったとみなされがちであるが、きたる対露戦を想定 してロシアのウラジオストク軍港に対峙する形で設置された重要ポストであり、決し て閑職ではなかった。但し、東郷自身は中央への異動を希望していたようである。 しかしながら日露開戦前の緊迫時期に海軍首脳の山本権兵衛に呼び戻され、1903 年 ― 16 ―
(明治 36 年)12 月に第一艦隊兼連合艦隊司令長官に就任する。本来は常備艦隊司令 長官である日高壮之丞がそのまま就任するのが筋であったが、山本が我の強い日高を 嫌って命令に忠実な東郷を据えたのだといわれる。しかし実際には、日高が健康問題 を抱えており、指揮が難しい状態であり、当時の将官の中で実践経験豊富な東郷が至 極順当に選ばれたというのが真相であった。明治天皇に理由を聞かれた山本は「東郷 は運のいい男ですから」と奏したと言われているが、内田一臣海上幕僚長によれば「こ の人が、ちょっといいんです」だったという。 < 日露戦争 > ο1904 年(明治 37 年)2 月 10 日からの日露戦争では、旗艦三笠に座乗してロシア東洋 艦隊(ロシア第一太平洋艦隊)の基地である旅順港の攻撃(旅順港閉塞作戦)や黄海 海戦をはじめとする海軍の作戦全般を指揮する。6 月 6 日には大将に昇進する。 そして 1905 年(明治 38 年)5 月 27 日に、ヨーロッパから極東へ向けて回航してきた ロジェストウェンスキー提督率いるバルチック艦隊(ロシア第二・第三太平洋艦隊、 旗艦「クニャージ・スォーロフ」)を迎撃する。 この日本海海戦に際し、「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動これを撃 滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し」との一報を大本営に打電した。 また、艦隊に対し、「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」とZ旗を掲 げて全軍の士気を鼓舞した。東郷は丁字戦法、その後「トウゴウ・ターン」と呼ばれ る戦法を使って海戦に勝利を収めた。 この海戦における勝利は、当時ロシアの圧力に苦しんでいたトルコにおいても自国の 勝利のように喜ばれ、東郷は同国の国民的英雄となった。その年に同国で生まれた子 どもたちの中には、トーゴーと名づけられる者もおり、また「トーゴー通り」と名づ けられた通りもあった。 < 日露戦争後 > ο1905 年(明治 38 年)から 1909 年(明治 42 年)まで海軍軍令部長、東宮御学問所総 裁を歴任。1906 年(明治 39 年)、日露戦争の功により大勲位菊花大綬章と功一級金鵄 勲章を授与される。1907 年(明治 40 年)には伯爵を授爵。1913 年(大正 2 年)4 月 には元帥府に列せられ、天皇の御前での杖の使用を許される。1926 年(大正 15 年) に大勲位菊花章頚飾を受章。当時の頚飾受章者は皇太子裕仁親王と閑院宮載仁親王だ けだった。また、タイム誌の 1926 年 11 月 8 日号において、日本人としては初のカバ ーパーソンとなった。 < 晩 年 > ο末次信正、加藤寛治らのいわゆる艦隊派の提督が東郷平八郎を利用し、軍政に干渉し た。1930 年(昭和 5 年)のロンドン海軍軍縮会議に際して反対の立場をとったロンド ン軍縮問題はその典型(このときには昭和天皇直々に「元帥は凡てにつき達観するを ― 17 ―
要す」と実質的戒告を受けた)であるが、その他に明治以来の懸案であった兵科と機 関科の処遇格差の是正(一系問題。兵科は機関科に対し、処遇・人事・指揮権等すべ てに優越していた)についても、改善案について相談を受けた東郷は「罐焚きどもが、 まだそんなことを言っているか!」と反発し、結局、この問題は第二次世界大戦の終 戦直前に改正されるまで部内対立の火種として残された。 ο壮年時代はよく遊び、料亭に数日間も居続けたり、鉄砲うちに出かけたりしたが、晩 年は質素倹約を旨とし、趣味といえば盆栽と囲碁をたしなむ程度であった。自ら七輪 を用いて料理をすることもあったという。しかし、新聞記者に対し、妻が新婚時代に 内職して家計を支えたエピソードを話すと、家族に経済的心配をかけたことはないと 激怒した。(実際、当時の海軍士官の俸給が内職を必要とするほど寡少であったとは考 えにくいと思われる) ο晩年において海軍における東郷平八郎の権威は絶大で、官制上の権限はないにもかか わらず、軍令・軍政上の大事は東郷にお伺いをたてることが慣例化していた。海軍省 内では伏見宮博恭王軍令部総長とともに「殿下と神様」と呼ばれ、しばしば軍政上の 障害とみなされた。井上成美は「東郷さんが平時に口出しすると、いつもよくないこ とが起きた」と述懐したうえで、「人間を神様にしてはいけません。神様は批判できま せんからね」と語っている。また、岡田啓介・米内光政・山本五十六なども、東郷の 神格化については否定的な態度をとっている。 < 死 去 > ο1934 年(昭和 9 年)、膀胱癌のため 86 歳で死去。死去の前日に侯爵に陞爵した。 死去に際しては、全国から膨大な数の見舞い状が届けられたが、ある小学生が書いた 「トウゴウゲンスイデモシヌノ?」という文面が新聞に掲載され反響をよんだ。 ο6 月 5 日に国葬が執り行われた。国葬の際には参列のために各国海軍の儀礼艦が訪日 し、アメリカ海軍アジア艦隊の重巡洋艦「オーガスタ」(司令長官アッバム大将、艦長 ニミッツ大佐)、フランス海軍極東艦隊の軽巡洋艦「プリモゲ」(司令長官リシャール 少将、艦隊参謀長兼艦長ルルー大佐)は儀仗隊を葬列に参加させ、日本艦隊とともに 横浜港で半旗を掲げ、弔砲を発射した。イタリア海軍東洋艦隊の巡洋艦「クアルト」 (艦長兼極東イタリア海軍首席指揮官プリヴォネジ大佐)の横浜入港は夕刻となった。 中華民国練習艦隊の巡洋艦寧海(司令王壽廷中将、艦長高憲申大佐)は国葬時刻に間 に合わぬと判断し、儀仗隊を下関から列車で東京に向かわせて弔意を示し、寧海の横 浜入港は翌 6 日となった。 ο当時のイギリスでは「東洋のネルソン提督が亡くなった」、ドイツは「東洋のティルピ ッツが逝去した」と自国の海軍の父的人物に準えて哀悼した。 ・遺髪はイギリス海軍のホレーショ・ネルソンの遺髪とともに海上自衛隊幹部候補生 学校(江田島)に厳重に保管されている。 ― 18 ―
・ 旧蔵書は、広島県呉市にある海上保安大学校図書館が所蔵する「旧海軍大学校 図書」の内に残る。 ・ 私邸跡は東郷元帥記念公園として使用され、現在でも獅子像などが残っている。 < アメリカ海軍での東郷崇拝 > ο太平洋戦争時のアメリカ海軍の諸提督の多くは、若き日に東郷平八郎と接したことも あり、東郷に対しては英雄として崇拝していた。特に、チェスター・ニミッツは太平 洋戦争でアメリカに勝利をもたらしたことで、「トーゴーの血筋はヤマモト(山本五十 六)ではなく、ニミッツへと受け継がれた」とも表現された。ニミッツ本人も東郷平 八郎への英雄崇拝の念が非常に強く、若い頃に日本に来て東郷と出会い、話した時の 感激を終生忘れることはなかったという。 ο第二次世界大戦後、GHQによって日本の軍事的モニュメントの撤去作業が行われた が、アメリカ海軍は東郷平八郎に関するものには手を触れさせなかった。ニミッツは 後に戦後、荒れ果てた三笠の姿を見て嘆き、修繕するためにポケットマネーを送り、 東郷と若い頃への思いをこめて三笠の復興に協力した。 【 秋山 真之 】 ο1868 年(慶応 4 年)4 月 12 日、松山藩の下級武士秋山久敬の五男として生まれる。 実兄に「日本騎兵の父」と言われた陸軍大将の秋山好古ほか実業家となった兄など。 大学予備門(後の一高、現在の東京大学教養学部)から海軍兵学校に進み、1890 年(明 治23 年)に兵学校を首席で卒業し、海軍軍人となる。 ο1898 年(明治 31 年)に海軍の留学生派遣が再開されえると派遣留学生に選ばれるが、 公費留学の枠に入れずはじめは私費留学であった。アメリカへ留学した真之は、ワシ ントンに滞在して海軍大学校校長で軍事思想家でもあるアルフレッド・セイヤー・マ ハンに師事し、主に大学校の図書館や海軍文庫の図書を利用して兵術の理論研究に努 める。この時、米西戦争を観戦武官として視察し、報告書「サンチャゴ・デ・クーパ の役」(後に「極秘諜報第 118 号」と銘うたれる)を提出する。アメリカ海軍がキュ ーバ港を閉塞する作戦を見学しており、このときの経験が日露戦争における旅順港閉 塞作戦の礎になったとも指摘されている。翌1899 年(明治 32 年)1 月にはイギリス 駐在となり、視察を行い8 月に帰国。 1900 年(明治 33 年)には海軍省軍務局第1課員、常備艦隊参謀になり、1901 年(明 治34 年)には海軍少佐。1902 年(明治 35 年)には海軍大学校の教官となる。1903 年(明治36 年)6 月に稲生季子と築地の水交社で結婚。翌 1904 年(明治 37 年)に 海軍中佐・第1艦隊参謀(後に先任参謀)。朝鮮半島を巡り、日本とロシアとの関係が 険悪化し、同年からの日露戦争では連合艦隊司令長官東郷平八郎の下で作戦担当参謀 となり、第一艦隊旗艦「三笠」に乗艦する。旅順艦隊(太平洋艦隊)撃滅のための、 ― 19 ―
旅順港閉塞作戦においては先任参謀を務め、機雷敷設などを行う。 ロシアのバルチック艦隊が回航すると迎撃作戦を立案し、日本海海戦の勝利に貢献、 日露戦争における日本の政略上の勝利を決定づけた。 そして、日本海海戦における有名な電文・信号文、そしてかの有名な「連合艦隊解散 の辞」は秋山真之の作である。 ο1905 年(明治 38 年)12 月の連合艦隊解散後は巡洋艦の艦長を歴任し、第一艦隊の参 謀長を経て1912 年(明治 41 年)12 月 1 日からは軍令部第1班長(後の軍令部第1 部長)に任ぜられる。1908 年(明治 41 年)、海軍大佐となり、1913 年(大正 2 年) には海軍少将に昇進。その後、1917 年(大正6年)にはアメリカから帰国後には第二 艦隊の水雷司令官になるが、病状悪化もあり直ぐに辞職。同年7月には名誉職として の海軍将官会議議員になる。この年には海軍中将になる。 1917 年(大正 6 年)5 月に虫垂炎を患い箱根で療養に努めたが、翌 1918 年(大正7 年)再発、悪化して腹膜炎を併発、2 月 4 日小田原の山下亀三郎別邸にて死去した。 享年49 歳。 < 人 物 > ο日清戦争における日本海海戦が人生のピークであったと評されることもあり、最後は 中将まで登りつめたが、病気に苦しんだこともあって、第一次世界大戦の結果を見事 に言い当てたことを除き、大正以後は特に目立った活躍をしていない。しかし、日露 戦争での功績から海軍では長らく秋山真之は神秘的な名参謀として考えられ、崇拝の 対象になっていったようである。但し、近年の研究によって秋山真之の業績として知 られていたものに、島村速雄の案と同じものが発見されているが、これらは両者が同 時期にイギリスで勉強したため同じ作戦を思いついたものと考えられている。 なお、現在、目黒にある海上自衛隊・幹部学校(旧海軍の海軍大学に相当)には秋山 真之中将の胸像が置かれている。 ο日本海海戦出撃の際の報告電報の一節である「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」は、「本 日天気晴朗ノ為、我ガ連合艦隊ハ敵艦隊撃滅ニ向ケ出撃可能。ナレドモ浪高ク旧式小 型艦艇及ビ水雷艇ハ出撃不可ノ為、主力艦ノミデ出撃ス」という意味を、漢字を含め て13 文字、カタカナのみでも僅か 20 文字という驚異的な短さで説明しているため、 今でも短い文章で多くのことを的確に伝えた名文として高く評価されている(モール ス信号による電信では、わずかな途切れでも全く意味の異なる文章になるため、とに かく文章は短ければ短いほど良いとされている)。 また、Z旗の信号文「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ」も秋山真 之の作である。 ο日本海海戦に勝利した連合艦隊の解散式における東郷平八郎の訓示(聯合艦隊解散の 辞)の草稿も秋山真之が起草したものとされている。この文章に感動した時のアメリ ― 20 ―
カ大統領セオドア・ルーズベルトは、全文を英訳させてアメリカ海軍に頒布した。 これらから名文家・文章家としても知られており、後に「秋山文学」と高く評価され るようになる。 ο参謀としての秋山真之の功績は長らく東郷平八郎の影に隠れ、広く一般に知られてい る人物とは言い難かったが、戦後島田譲ニの「アメリカにおける秋山真之」(初版昭和 44 年)によって紹介され、司馬遼太郎が発表した歴史小説「坂の上の雲」(初版昭和 47 年)で主人公になった結果、国民的な知名度を得ることになった。 < 評 価 > 【 東郷平八郎元帥 談 】 ο「智謀如湧」(智謀湧くが如し) 【 小村寿太郎侯爵 談 】 ο「秋山と碁をうつと面白い。いつでも百目も取るか取られるかの勝負だから、アハハ」 ο小村寿太郎が外務省にあった時、次官以下下僚の意見などあまり重きを置かなかった 人でしたが、秋山真之だけは特別で、いつも進んでその意見を叩いていたと云います。 また、私交でも深いものがあり、二人は碁敵同士であったと云います。 【 島村速雄元帥 談 】 ο私は日露戦争では開戦から旅順陥落まで、連合艦隊参謀長を務めました。 ο何にしましても、日露戦争の艦隊作戦は、ことごとく秋山真之がやったもので旅順港 外の奇襲戦、仁川沖開戦、三次にわたる旅順口閉塞、第二軍の大輸送、ついで日本海 海戦に至るまでの作戦とその遂行は、すべて秋山の頭から出、彼の筆によって立案さ れたもので、その立案したものは、殆ど常に即座に東郷長官の承認を得たものであり ます。 ο日露戦争における海上作戦は、すべて彼の頭脳から出たものであります。 ο彼が前述の作戦を通じて、さまざまに錯綜してくる状況を、その都度その都度、統合 してゆく才能にいたっては、実に驚くべきものがありました。彼は、その頭に、こん こんとして湧いて尽きざる天才の泉というものを持っていたのです。 【 山屋他人大将 談 】 ο「秋山真之をかく見る」 一、少尉時代 俊才 一、米国駐在前後 傑物 一、日露戦役前 哲人 【 山梨勝之進大将 談 】 ο私が海軍大学校生の頃、教官に秋山真之中佐がおられました。戦略・戦術・戦務を体 系づけた、とびつきたくなるように魅力的で、筋が通って、胸のすくような講義であ りました。 ― 21 ―
οアメリカ海軍の空気と感情と、科学的方法と組織とを日本海軍に導入されたのは、秋 山教官の力であります。ジョミニあり、クラウゼヴィッツ、孫子などが口をついて出 てくる。川中島の戦史を説くとき、いわゆる「車がかりの戦法」とはこういうものだ と、詳しく説明してくださいました。 ο「二十閲月ノ征戦己ニ哲事過ギ……」という「連合艦隊解散ノ辞」など、いっぺんで なぐり書きをしたといわれますが、世界の名文ですな。普通の人ではありませんでし た。のべつ頭が活動しているのですね。兄さんの好古将軍も偉い人でしたが、頭の方 は弟さんの方が上でした。 οあの頭の働き具合は、我々の知っている海軍の先輩のうちでは、秋山さん一人のもの であった。秋山さんは本当に偉い、立派な人で、アメリカの海軍から図上演習、兵棋 演習を学び、それから海の上に緯度経度に沿って平行線を引き、その一つ一つの区画 に地点番号をつける。そういったやり方を導入して、日本海軍の兵術の基礎を据えた 人でした。 【 飯田久恒中将 談 】 ο秋山参謀は天才肌の男であるが、スリッパで食堂に入ったり、長官より先に盛皿から 食べ物をとるなど、礼儀作法に無頓着であった。しかしそれが通り相場になっている ので、東郷司令長官はじめ誰もこれを異としない。 οベッドに寝転んでじっと想を練り、腹案が決まると、たちどころに筆をとって立派な 計画や報告が出来上がるといったふうであった。 【 清河純一中将 談 】 ο提督は甲越の争いには非常に興味を持っていたらしい。提督の性格としては、信玄よ りも謙信の方が好きらしかった。といって謙信が好きかと正面から聞いてゆくと、例 の負けず嫌いの性格で、図星をさされるのが嫌いだから、これを否認していたようだ ったが、どうもいろいろの点から推測して、謙信が好きだったように思われる。 また、提督が謙信のような人だったというと、相当反対論が出るであろうが、人物の 全部がそうでないまでも、何処か一致した点があった。 しかしその戦法となると、提督の戦法は寧ろ謙信流よりも信玄流の方に近いと思われ る。提督の作戦計画は極めて科学的で綿密であったからだ。 【 山本五十六元帥 談 】 ο秋山真之提督の本当に偉いところは、あの日露戦争の1年半で、心身ともにすり潰さ れたところにある。 そして東郷元帥を補佐して偉業をたてられた。軍人はこれが本分だ。お互い、この大 戦争に心身をすり潰すことができるのは、光栄の至りだ。わかったか。 (これは太平洋戦争時、ガダルカナルの戦況が悪く、重苦しい雰囲気に包まれた連合 艦隊司令部を一喝した山本連合艦隊司令長官の言葉です) ― 22 ―
【 河東碧梧桐 談 】 ο我輩が 11~12 歳の物心つきはじめた頃に、少なくとも我輩の憧憬した二青年があっ た。何だかその統率の旗下に参ずる一兵卒のような気分で、物見遊山に往ったり、泳 ぎに往ったりしたものだった。首領株は馬島某であった。今一人の青年は隊中の闘将 とも言うべきで、どんな相手にも背ろを見せない颯爽たる気魄と風采とを持っていた。 οその闘将が先頭に立つ時、天下に何の恐いものもないような勇気と安心とが、我々の 胸に一杯になる程だった。名を秋山の淳さんといった。淳さんは恐ろしくて好きであ ったのだ。 【 連合艦隊解散の辞 現代語訳 】 ο二十数ヶ月にわたった戦いも、はや過去のこととなり、わが連合艦隊は、今やその任 務を果たして、ここに解散することとなった。しかし艦隊は解散しても、そのために わが海軍軍人の務めや責任が軽減するということは決してない。この戦役で収めた成 果を永遠に生かし、さらに一層国運をさかんにするには、平時戦時の別なく、まずも って外の守りに対し、重要な役目を持つ海軍が、常に万全の海上戦力を保持し、ひと たび事あるときは、ただちに、その危急に対応できる構えが必要である。 οところで、その戦力であるが、戦力なるものはただ艦船兵器等有形の物や数によって だけ定まるのではなく、これを活用する能力すなわち無形の実力にも実在する。 百発百中の砲は一門でも、百発一中いうなれば百発打っても一発しか当たらないよう な砲なら百門と対抗することができるのであって、この理に気づくなら、われわれ軍 人は無形の実力の充実、即ち訓練に主点を置かなければならない。先般、わが海軍が 勝利を得たのは、勿論天皇陛下の霊徳によるとはいえ、一面また将兵の平素の練磨に よるものであって、それがあのような事例をもって将来を推測するならば、たとえ戦 いは終わったとはいえ、安閑としてはおれないような気がする。 ο考えるに武人の一生は戦いの連続であって、その責務は平時であれ、戦時であれ、そ の時々によって軽くなったり、重くなったりするものではない。事が起これば戦力を 発揮するし、事がないときは戦力の涵養に務め、ひたすらその本文を尽くすことにあ る。過去一年半かの風波と戦い、寒暑を冒し、しばしば強敵とまみえて生死の間に出 入りしたことは、勿論大変なことではあったが、考えてみると、これもまた、長期の 一大演習であって、これに参加し、多くの知識を啓発することができたのは、武人と して、このうえもない幸せであったというべく、なんで戦争で苦労したなどと言えた ものであろう。もし、武人が太平に安心して、目前の安楽を追うならば、兵備の外見 がいかに立派であっても、それはあたかも砂上の楼閣のようなものでしかなく、ひと たび暴風にあえば、たちまち崩壊してしまうであろう。誠に心すべきことである。 ο昔、神功皇后が三韓を征服されて後、韓国は四百余年間、わが支配の下にあったけれ ― 23 ―
ども、ひとたび海軍が廃れると、たちまちこれを失い、また近世に至っては、徳川幕 府が太平に慣れ、兵備を怠ると、数隻の米艦の扱いにも国中が苦しみ、またロシアの 軍艦が千島樺太を狙っても、これに立ち向かうことができなかった。目を転じて西洋 史を見ると、十九世紀の初期ナイル及びトラファルガー等に勝った英国海軍は、祖国 をゆるぎない安泰なものとしたばかりでなく、それ以降、後進が相次いで、よくその 武力を維持し、世界の進歩に遅れなかったから、今日に至るまで永く国益を守り、国 威を伸張することができた。 ο考えるに、このような古今東西のいましめは、政治のあり方にもよるけれども、そも そもは武人が平安なときにあっても戦いを忘れないで、備えを固くしているかどうか にかかり、それが自然にこのような結果を生んだのである。 οわれら戦後の軍人は、深くこれらの実例を省察し、これまでの練磨のうえに戦役の体 験を加え、さらに将来の進歩を図って、時勢の発展に遅れないように努めなければな らない。そして常に聖諭を泰戴して、ひたすら奮励し、万全の実力を充実して、時節 の到来を待つならば、おそらく、永遠に護国の大任を全うすることができるであろう。 ο神は平素ひたすら鍛錬に務め、戦う前に既に戦勝を約束された者に勝利の栄冠を授け るとともに、一勝に満足し、太平に安閑としている者からは、ただちにその栄冠を取 り上げてしまうであろう。 ο昔の諺にも「勝って兜の緒を締めよ」とある。 明治38 年 12 月 21 日 連合艦隊司令長官 東郷平八郎 <参考資料> ο「世界の海軍 2011-2012」 (海人社) ο「世界の艦船」 (海人社) ο「坂の上の雲」(司馬遼太郎:文春文庫) ο「昭和天皇側近たちの戦争」(茶谷誠一:吉川弘文館) ο「海の史劇」(吉村昭:新潮文庫) ο「海軍の父 山本権兵衛~日本を救った炯眼なる男の生涯」(生出寿) ο海上自衛隊訓令昭和35 年第 30 号 ο海上自衛隊訓令昭和47 年第 17 号 ο東郷神社資料室 ο海上自衛隊ホームページ ― 24 ―