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佛教学研究 第71号 004楠, 淳證「貞慶の遁世について : 新資料「故解脱房遣坂僧正之許消息之状」翻刻紹介」

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Academic year: 2021

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貞慶の遁世について

││新資料﹁故解脱一房達坂僧正之許消息之状﹂翻刻紹介││

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貞慶の

貞慶の遁世について 解脱房貞慶(一一五五ー一二一三)が笠置の地に遁世したのは、建久四年(一一九一ニ)のことであり、現年の 建久五年に永塾居している。しかし、これらの遁世年や塾居年については異説があり、﹃本朝高僧伝﹄によれば 寿永二年(一一八一二)二十九歳遁世、﹃解脱上人形状記﹄によれば建久二年(一一九一)三十八歳遁世、﹃興福寺 略年代記﹄によれば建久三年(一一九二)三十九歳遁世、﹃解脱上人懐胎以来形状﹄では建久三年塾居となって いる。筆者はかつて﹃讃仏乗抄﹄と﹃般若理趣分奥日記﹄の記述より、建久四年遁世、翠建久五年永艶居の説を 取っ向。この説に変わりはないが、しかしよく知られている九条兼実(一一四九│一二

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七)の﹃玉葉﹄の記述 よりすれば、遁世の意思自体はすでに建久三年には明確になっていたと見るべきであろう。 では、貞慶はなぜに遁世したのであろうか。これについて﹃元亨釈書﹄には、宮中で閃かれた最勝講でのでき ② @ ごとが大きな原附であったといい、﹃玉葉﹄には春日大明神の冥告によるものであったと記されている。これら はいずれも真実と見てよいが、筆者はかねてより世の無常を感じた貞慶が積極的な仏道実践のために遁世したと も論じてきた。今回、それこそが真因であることを示す新資料を発見したので、ここに紹介したい。それが他な

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らぬ﹁故解脱房遺坂僧正之許消息之状﹂である。 本消息は、華厳宗宗性(一二

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ニー一二七八) 司 ﹄ 410 、 の﹃遁世述懐抄﹄に収録されている短編文書であり、 その奥書 建保三年七月四日、東大寺南中院において、住侶これを書写す。解脱房、世間の無常を厭いて南都を出でて 山寺に飽もり、本房に送る所の消息なり。貴む可し、哀れむ可きの者なり。 と記されている。本消息によって知られる事実は 員慶の遁世について

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員慶が世間の無常を厭って山寺(笠置)に遁世したこと。

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貞慶自らが本消息を本一房である興福寺へ送付したこと。

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建保三年(一二一五)七月四日に東大寺南中院の﹁住侶﹂によって書写されたこと。 - 20-等の三点である。これを見る限り、貞慶の遁世の真因はやはり﹁世間の無常を厭う﹂点にあったことは明白であ り、このことは世の無常(輪廻)を厭って仏道実践に励んだ事実とよく符号している。また、奥書では本消息を 本一房である興福寺へ送付したとあるが、消息名には﹁故解脱房の坂僧正の許に遣わす消息の状﹂とあるから、員 慶の唯識の師であった実の叔父にあたる壷坂僧正覚憲(一二二一

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一一二二)宛に提出したものであったことが 知られる。なぜならば、建久三年から五年当時の興福寺別当は覚憲だったからである。ちなみに、覚憲は後に壷 坂寺に隠棲しているので、﹁坂僧正﹂と記す消息名は後人の付加と見てよい。また、建久三年から五年当時の党

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憲は僧正ではなく、権僧正であった。このことは、﹃法勝寺御八講問答記﹄の建久三年から建久五年の諸役の段 によって明らかである。なお、覚憲が東大寺別当として法勝寺御八講(恒例七月)に出仕していたあり方を確認 するため、文政二年(一一八六)より建久六年(一一九五)までの記述を﹃法勝寺御八講問答記﹄より抜き出し 一覧にして示すと以下のとおりであ旬。 た 。 ft慶の遁l止について ( 10) (9) (8) (7) (6) (5) (4) (3) (2) (1) 文治二年法勝寺御八講 文治三年法勝寺御八講 文治四年法勝寺御八講 文治五年法勝寺御八講 建久元年法勝寺御八講 建久二年法勝寺御八講 建久三年法勝寺御八講 建久四年法勝寺御八講 建久五年法勝寺御八講 建久六年法勝寺御八講 讃誠 j去 印 澄憲(兼講師) 興福寺権別当法印権大僧都 興 福 寺 別 当 法 印 覚 憲 興 福 寺 別 当 法 印 権 大 僧 都 覚 憲 山 階 寺 別 当 権 僧 正 覚 憲 法 印 前 権 大 僧 都 澄 憲 興福寺別賞権僧正覚憲 興福寺別嘗権僧正覚憲 興福寺別賞権僧正覚態 興福寺別常法印前権大僧都範玄 讃 誠 党 態 讃 誠 讃 誠 諮 誠 讃 誠 讃。讃 誠 誠 詮 誠 讃 誠 と。これを見ると、覚憲は文治三年にまず﹁権別当﹂として﹁讃誠﹂を勤め、翌年の文治四年から建久五年まで、 ⑤ 一年を除いて﹁別当﹂として﹁鐙誠﹂を勤めていたことが知られる。また、建久六年には別当職を範玄に譲った ⑥ こともわかる。なお、建久元年(一一九

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)

といえば、貞慶が法勝寺御八講において講師を勤めた最後の年にあ

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たる。すなわち、建久元年の﹁七月三日﹂より始められた法勝寺御八講の第五日朝座において貞慶は、﹁問者頼 恵 L に相対し、﹁法相大乗の心は第八識を以て所依と名づくの事 L の問答の講師を勤めているのである。また、 ⑦ この年の﹁行番﹂を見ると、貞慶は﹁三礼﹂をも勤めていることが知られる。したがって、貞慶が遁世の意思を 明確に示し始めたのは、建久二年以降といってよく、おそらくは隠棲の地を定めるため、しばしば笠置山を訪れ たのであろう。それが遁世年を記載する際に、建久二年から四年に亙る数種の記述になった理由ではないかと思 われる。そして、政治的な意図によるものなのか否か、建久三年に九条兼実のもとを訪ねて遁世の意思を表明し 点Ilの遁1仕について た後、貞慶はいよいよ﹁建久四年に遁世、建久五年に永錘居﹂をはたすのである。 では、建保七年(一二一九)に本消息を書写した﹁東大寺南中院の住侶﹂とは誰であろう。﹁院主﹂とは書か れていないので、不特定多数が考えられる。宗性の先輩であった住侶の一人かとも考えられるが、名を明記せず 呼ぴ捨てのような記載がなされているので、貞慶の事跡に深く関心を寄せていた宗性自身であった確率も高い。 ちなみに、奥書に出る建保三年といえば西暦=二五年であり、この時、宗性は十四歳。そして、本消息を収録 する宗性撰﹃遁世述懐抄﹄そのものの奥書は、

-

22-建保七年四月十五日︹巳時︺於東大寺中院書写之了 華厳宗沙門宗性︹年生十八 夏 鵬 六 週 ︺ とあるように、建保七年白︿二二九)宗性十八歳である。また、﹁夏臓六週 L とあるので、宗性の出家年齢が十 三歳であったことがわかる。したがって、宗性自身が貞慶の消息を見出して書写していた可能性は非常に高い。 周知のように、宗性は貞慶に対する尊敬の念の篤かった学侶であり、同じく弥勅浄土信仰を持つ祖師として後に

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深く崇めていたことが、宗性編﹃弥勅如来感聴抄﹄巻一の奥書によっても知られている。すなわち、 宗性、寛喜二年の秋よりこのかた、図らずもこの霊地に参龍してよりこのかた、深く慈尊の引接を滋み、偏 に兜率の往生を楽う。

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抄出の勤を励まして、今この一帖の抄を結集し詑んぬ。この中、観兜率記の外は、 みな是れ祖師上人の御草案なり。毎に拝見して信仰の涙、限に浮かび、毎に読制して随喜の思い、肝に銘ず。 実に是れ末代の要書、後学重宝の者・判。 貞慶のi盛慨について とあるように、宗性は貞慶を﹁祖師上人﹂とまで呼ぴ、貞慶撰述の弥軌に関する堂闘を可能な限り蒐集・収録して いるのである。寛喜二年(一二三

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)

といえば宗性は二十九歳であり、﹃遁世述懐抄﹄を著してより十一年が経 過している。貞慶の抄物の蒐集はとても一朝一夕で出来るものとは忠われないので、円十くから貞慶に対する関心 が宗性にはあったものと推察される。したがって、﹃遁世述懐抄﹄収録の﹁故解脱房遣坂僧正之許消息之状 書写した人物もまた、宗性であったと考えてよいように忠われる。 では、﹁故解脱房遺坂僧正之許消息之状﹂には何が書かれていたのであろうか。以降に翻刻と訓読を記載する こ と に し た い 。

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﹁故解脱房遣坂僧正之許消息之状﹂翻刻紹介

︻ 原 文 ︼

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油 引

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︻ 翻 刻 } 故解脱房遺 坂僧正之許消息之状也。 昨日徒暮臥見多夢。今夜空曙起管何事。無常虚聾 近耳。不覚雪山鳥鳴。出巣速忘書。知水上泡随風。而 廻神間。箆中鳥待問而去。消者不再見。去者不重来。 須奥生滅、剃那離散。重病在身。助而欲生。頓死多世 間而無驚。兼不知者死期也。今日何必不其目。自不 悟者病相也。我身宇得弁其事。罪不悟積時不覚遷。 恨哉。忘緯迦大師態慰之教、悲哉、聞閤魔法王町責 之制。名利助身未養北悲之骸。恩愛悩心、誰随黄泉 -

(7)

24-t!t般の.i!illtltについて

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奪略共事

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事長名将砂危伐法人六詠

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穿

え品川占晶子セ府四ユれ永大す弔中氏低俗

言鳴之'併総局扶世判燕常虫南都龍中

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︻ 訓 読 } 故解脱一勝、坂僧正の許に遣わす消息の状なり。 之魂。為之馳足所得幾利。依之追求所造多罪寒因。 思従事、悦恨皆空。折指数故人、親疎多隠。北日臨其事 之日。愛柴田仙銘肝。十日向其人之時。貴賎質在眼。時選 事去。今何砂荘。我住人。残誰。又傷差。三界無安。猶如 火宅。主宮是三界之家。常有生老病死憂息。天仙猶 四苦之身。況於下賊貧遺之報故。況於老病憂悲之 質哉。愛其可楽乎。惜其可保哉。 建保三年七月四日 書 官 何 之 。 於東大寺南中院住侶 解脱房厭世間無常出南都龍山 寺本房所送之消息也。可賞、可哀之者也。 昨日も徒らに暮らし、臥しては多夢を見る。今夜も空しく曙け、起きるに何事か営まん。無常の虚撃は耳に近し。 雪山の鳥の鳴くを覚えざるに、巣を出でて速やかに需を忘る。水ふり上の泡の風に随うが知し。而るに神間を廻ら す。鏡の・中の烏は開くを待ちて去る。消えれば再ぴ見ることならず。去れば重ねて来ず。須央に生滅し、利那に 離散す。重病の身にあらば、助けて生ぜんと欲するも、頓に死すること世間に多く、驚くこと無し。兼ねて知ら

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点慶の1i1ltについて ざるは死期なり。今日、何ぞ必ずしも其の日にあらざるや。自ら悟らざるは病相なり。我が身、争か其の事を弁 えるを得るや。罪の悟らざるして積もる時、覚えずして遷る。恨めしい哉、樺迦大師の感動耐の教えを忘れ、悲し い哉、閤魔法王の町責の詞を聞けり。名利は身を助くるも、未だ北慈の骸を養わず。思愛は心を悩ますも、誰か 黄泉の魂に随わん。これが為に馳せるも、得る所は幾ばくの利に足らん。これにより追い求め造る所の多くの罪 は、寒困たり。往事を岡山うに、悦ぴも恨みも皆、空しき。指を折りて故人を数えるに、親といい疎といい、多く 隠れたり。昔、其の事に臨むるの目、愛楽の思い、肝に銘ず。古に、其の人に向かうの時、貴賎の質、眼にあり。 時は遷り事は去って、今、何ぞ妙法たる。我も往くの人なり。残るは誰か。また、傷嵯とせん。三界は安きこと 無く、猶し火宅の如し。主宮は是れ三界の家なり。常に生老病死の憂怠あり。天仙、猶し四苦の身なり。況んや 下賎貧遺の報においてをや。況んや老病憂悲の質においてをや。其の楽う可きを愛するや。其の保つ可きを惜し む や 。

- 2

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建保三年七月四日、東大寺南中院において、住侶これを書写す。解脱房、世間の無常を厭いて南都を出でて 山寺に一寵もり、本房に送る所の消息なり。貴む可し、哀れむ可きの者なり。

むすぴ

本消息は、員慶が興福寺本房の覚憲別当に送った書状であるが、全文を貫くその思想はまさしく﹁無常観﹂で ある。格調高い文体は、﹃愚迷発心集﹄や﹃表白集﹄に出る貞慶の華麗な文体を街御とさせるものがあり、九条 ⑨ 兼実より﹁談といい弁といい末代の智徳なり﹂と評された貞慶のあり方をよく伝えているといってよい。また、 寸釈迦大師の態鞍の教え﹂とか﹁開魔法王の町責﹂などの言葉には、﹃弥勅講式﹄や﹃心要紗﹄などと結びつく忠

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想的同質性が感じられる。そのいずれの書においても求めるところは、生死輪廻を厭って三界を出離解脱するこ とにあった。これこそ、遁世した貞慶が生涯にわたって求め統けたものであった。 周知のよう.に、﹁モノナラウホウシ﹂によって仏教教義が日本に伝えられて以降、学問を専一とする学侶集団 その一角を担う有力な大寺であった。各大寺では学侶を養成する制度 が奈良の地に形成された。興福寺もまた、 貞慶の遁世:1;:'ついて を相次いで整えていくが、そのような中で貞慶は興福寺の菩提院蔵俊の室に入り、叔父の覚憲について唯識を学 ぴ、世の一般の学侶と同様の出世コ

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スを歩み始めた。﹃法勝寺御八講問答記﹄には、建久元年に貞慶が講師を ⑩ 勤めた翌年、兄弟弟子の信憲(一一四五ー一二二五)が順調に講.帥を勤めている記述があり、党懸からすれば二 人の弟子を無事に軌道に乗せることができたという思いがあったはずである。そこへ、貞慶の遁世である。貞慶 はその思いを、別当でもあり師でもある覚態へ宛てた書状(消息)に託したといってよい。かくして本消息は作 成されることになったのである。 遁世して以降の貞慶は、仏道の実践と成就を願い、仏国 ω 報謝のために数多くの著作をなすと同時に、順次生の 往生を願って﹁浄土信仰﹂を展開した。筆者は、その特色を釈迦・弥陀・弥勅・観音の四尊を中核とする被合型 信仰であったと判じたが、そこには明確な仏道への意思があった。貞慶にとって浄土とは、三阿僧紙劫の聞に歴 任することになる諸仏の世界であり、仏道実践の過程で菩薩の階位にしたがって順々に知見すべき世界に他なら なかった。したがって、まずは最初発心の行者(菩薩)が往くべき世界(小化土)であれば、極端な話し、どの 尊者の浄土でもよかったのである。そのため、一見すれば多種の浄土を同時に欣求したかのような様相を見せる ことになったが、しかし超えがたい﹁凡人報土﹂﹁一四天下﹂の難があったため、最終的には観音の補陀落浄土 のみを欣求して示寂した。なぜ観音であったのか。それは、観音が値遇しやすい菩薩身であり、かつまた﹁我と 共に大悲の行を実践しよう﹂と呼びかけていたからである。

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このような貞慶の生きざまの原点を示すものが、このたび翻刻紹介した﹁消息﹂であった。貞慶の﹁生死輪廻 を厭い仏道を実践していく﹂という強い意思こそが遁世の真の理由であったことが、本消息によって裏づけられ たといってよいであろう。 貞.の遜世について 註 ①拙著﹃心要紗講読﹄九頁 1 十 一 頁 を 参 照 の こ と 。 ②﹃元亨釈書﹄(﹃大日本史料﹄第四編之三了二六九頁)。拙著﹃心要紗講読﹄七頁を参照のこと。 ③﹃玉葉﹄(﹃大日本史料﹄第四編之一二・二七九 l 二 八

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頁 ) 。 拙 著 ﹃ 心 要 紗 講 読 ﹄ 八 頁 を 参 照 の こ と 。 ④⑦東大寺蔵。 ⑤﹃興福寺別当次第﹄等では、﹁文治五年五月二十八日に別当に補せられた﹂とあり、若干の相違がある。しかし、 ずれにせよ貞慶が遁世する頃の別当は覚憲であることに間違いはない。 ⑥﹃興福寺別当次第﹄ e等でも、﹁範玄が覚憲にかわって別当に補せられた L と あ る 。 ⑧平岡定海著﹃日本弥勅浄土思想展開史の研究﹄四一二 1 四 一 三 頁 。 現 漢 文 。 ⑨ ﹃ 玉 葉 ﹄ ( ﹃ 大 日 本 史 料 ﹄ 第 四 編 之 . 一 二 ・ 二 七 九 頁 ) 。 ⑩東大寺歳。 - 28

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キーワード 貞慶、覚憲、遁世消息

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