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ある 女 性 たちは 放 送 日 である 月 曜 の 夜 街 からOLが 消 えた( 現 代 の 君 の 名 は 現 象!)と 言 われ るほど 熱 中 しました 視 聴 者 の 女 性 の 圧 倒 的 な 共 感 を 得 たのはリカでした リカは 勝 気 で 打 算 をしない カンチ( 永 尾 完

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Academic year: 2021

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高校国語マル秘帳 現代文編5

埼玉県立浦和第一女子高校 滝本 正史

○森鷗外『舞姫』

Q.

『舞姫』の感想文を書かせると、女子生徒に、エリスに対する厳しい意見が多いと

いうのは本当ですか?

A.本当です。同年代の同性が持つ感覚で、エリスに「女臭さ」を感ずるからではないかと思いま す。 森鴎外『舞姫』のあらすじを述べよ、となると、たとえば次のようになります。 物語を要約すれば、海外(ドイツ)に赴任して、現地の女の子と恋をして、いっしょに暮らして、出 世のために彼女を捨てて帰国した青年の苦悩、といったあたりか。こうまとめると、どこかのエリート 商社マンの自慢げな打ち明け話(俺もさあ、むこうでいろいろあったんだよ、といったたぐいの)みた いなものでもあるな。 (斎藤美奈子『妊娠小説』ちくま文庫) こんなわけですから、主人公の太田豊太郎に対しては、男子も女子も辛辣です。しかしながら、エリ スに対しても厳しいのは、女子だけのように思います。 ・「見上げたる目には人に否とは言はせぬ媚態あり。この目の働きは知りてするにや、また自らは知ら ぬにや」とあるけど、絶対意識的だと思います。 ・豊太郎も豊太郎だけど、エリスもエリスで、初めて会った外国人に何もかも喋りすぎです。 ・エリスは妊娠して、日本までついて行くと言い、本当に可能だと思ったのでしょうか。何か重い感じ でイラッとします。 等々の意見が女子から出てきます。 この現象について、私は次のように考えています。 もう二昔も前になりますが、フジテレビ系で柴門ふみの『東京ラブストーリー』が放映され(1991 年。月曜夜9 時代のドラマ、いわゆる「月げつ9く」の代表作)高視聴率を上げました。このドラマでは、赤 名リカ(鈴木保奈美)関口さとみ(有森也美)というタイプの違う二人の女性が登場し、主な視聴者で

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ある女性たちは、放送日である月曜の夜、街からOLが消えた(現代の「君の名は」現象!)と言われ るほど熱中しました。 視聴者の女性の圧倒的な共感を得たのはリカでした。リカは勝気で打算をしない。カンチ(永尾完治 =織田裕二)に好意を持ちながら、カンチがさとみを思っているのを知り、「私は三上君を慰めてあげ るから、カンチはさとみを慰めなよ。」と言う。料理上手だとしても、料理上手で女らしいところを男 に示すのを自ら恥じ、むしろ男にカップラーメンを差し出したりする。「一人でも私は大丈夫よ」と言 い、淋しさを抱えながらも決して自らの弱さに甘えない。一方、さとみは、一言でいえば女臭い。リカ の所へ行こうとするカンチを前に、さとみは「行かないで」と涙を流す。おでんを作ったと言ってカン チのアパートに持って来るという「女らしさ」や、保育園の保母をして子ども好きということを無意識 のうちに看板にし、自分の方に引きずり込んでいく。コラムニストの中野翠は、さとみの女臭さは女同 士だとよくわかり鼻につくが、男受けはすると手厳しい(中野翠・麻生圭子・横森理香「東京ラブストー リー大論争」『文藝春秋』1991 年 7 月号)。 さて鴎外の『舞姫』です。 この小説を読み進めていくと、エリスの印象が前半と後半で異なるのに気づきます。当初、「清ら」 で「羞じを帯び」清楚な少女であった彼女が、明治21 年の冬を迎え、妊娠すると、まだ 20 歳に満たぬ 年齢であるのに完全な妻となり、「(天方伯のもとへ赴く豊太郎の身支度をするエリスの気遣いは)かは ゆき独り子を出だしやる母も、かくは心を用ゐじ」というように、「母」のような腰の重さを持つよう に変化します。 「よしや富貴になりたまふ日はありとも、我をばよも見捨てたまはじ。」 「よしやいかなることありとも、我をばゆめな捨てたまひそ。」 「私を捨てないで」という訴えを、『舞姫』の解説書や教科書ガイド、指導書は、エリスの可憐さ、 いじらしさ、愛情の深さと注するのですが、私にはその女臭さが鼻につく感じがします。か弱さを男の 前に示すというのは、女らしさの名を借りた無意識のたくらみであり、有無を言わせず男を自分の土俵 に引きずりこむものです。だからこそ一転して「我が愛もてつなぎ留めではやまじ」という強い言葉と もなります。「(ロシアから)帰り来たまはずば我が命は絶えなむを」――帰って来なければ私は死んで いただろう――というのは、無意識のうちの一種の脅迫です。 前に「東京ラブストーリー」の二人の女性につき、「さとみの女臭さは女同士だとよくわかり鼻につ くが、男受けはする」という、女性の目から見た手厳しい批評を見たのですが、現代の女子高生が同性 としてエリスに手厳しいのも同様の理由に拠るのではないでしょうか。シンデレラは、わざとお城でガ ラスの靴を片方脱いで王子様と結婚し、自分の力ではなく王子様の力でお金持ちとなる、したたかでイ ヤな女だという解釈があります(前掲「『東京ラブストーリー』大論争」)。エリスもまた貧しい家に育 ち、「知りてするにや、また自らは知らぬにや」「見上げたる目には、人に否とは言はせぬ媚態」のある 少女であり、豊太郎が「大臣の君に重く用ゐられたまはば」「親とともに行かむ」と思うのでした。「東 京ラブストーリー」を視聴した女性たちがさとみを嫌悪し、リカに共感したように、女子高生たちも、 エリスにさとみと共通する、女らしさの名を借りた無意識のうちのたくらみ、自らは独立せずにむしろ 男を無意識のうちに去勢していく女臭さを敏感に感じ取り、手厳しい評価となったのではないでしょう か。

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Q.豊太郎のドイツ滞在中、彼の母親が死にます。その死因について「諌死」だと

いう説が根強くあります。本当に諌死なのでしょうか?

A.不成立だと思います。ここで母親が死ぬのは鴎外の「母親殺し」の現れだと、私は思いま す。 森鴎外の小説『舞姫』は明治23 年(1890 年、鴎外 29 歳)発表で、日本の近代小説の先駆的作品で す。鴎外はドイツ留学中、親しくしていた女性がいたことはよく知られており、「エリスはこの人だ!」 といったことが、「文学史上の発見」として今でも新聞紙上をにぎわわせます。 明治17 年、明治政府の新進官僚、太田豊太郎は 22 歳でした。父は既に亡く、母とともに暮らす一人 っ子です。19 歳で東京帝国大学法学部卒業後、某省に出仕し、上司の覚えもめでたく、政府留学生とし てドイツ遊学を命ぜられます(鴎外自身のドイツ留学は明治17~21 年、23~27 歳。ちなみに 1 か月の 生活費が25 円、年間の政府からの支給額が 4000 マルク=1000 円≒現在の 1000 万円だったことがわ かっている)。彼は見るもの聞くものすべてが新鮮で、家名を興す意気に燃えて出発します。 この頃の豊太郎は孝や忠、そして「太田家」という家のため、立身出世の道をたどることに少しの疑 問を持たない封建的(儒教的)真面目青年です。彼は後に、この頃の自分を、器械的、所動的な「我な らぬ我」(本当の自分ではない自分)と総括しています。 東洋の後進国から大都会ベルリンに出てきて「お上りさん」である豊太郎は、その繁栄ぶりにびっく り仰天しますが、ひたすら勉学に励みます。しかし豊太郎は、ヨーロッパの大学で自由な風に触れ、「ま ことの我」(本当の自分=近代的自我)に目覚めます。 そこで出会ったのがエリスという美少女です(明治20 年、豊太郎 25 歳、エリス 17 歳)。 「舞姫」という優雅な呼び方をしていますが、要するに劇場の「踊り子」「ダンサー」であり、当時 売春する者も多かったとありますから、半分は「風俗の女」というイメージです。豊太郎はそのような 女とつきあっているということで、免官になるのですが、すぐ帰国するか、ドイツに留まるか、選択を 迫られます。その思案期間中に日本から母の手紙が届き、母の死を知らせる親族からの手紙が同時に届 くという展開です。 その、「母の死」なのですが、あまりにも突然、不自然な死ということで、「諌死」であるという説が 根強くあります。次に、『舞姫』口語訳として広く知られている二つの本の解説部分を引きます。 「母の自筆」が、豊太郎の免官を嘆く内容であることは容易に察しがつく。ほぼ同時に母の死を報 ずる親族の手紙が届いたという。母は手紙を書いてすぐ死んだのである。どう考えても天寿を全う した自然死ではありえない。ここは「諌死」――死をもって醜行をいさめたという説に従いたい。 (角川ソフィア文庫『ビギナーズ・クラシックス 鷗外の「舞姫」』武田友宏通釈、寸評) 長谷川泉が指摘するごとく「諌死」であろう(増補『森鷗外論考』昭和 41・6、明治書院)。立 身出世と家名を挙げる目的で留学した息子豊太郎を待つ母にとって、息子の免官が官報に出たのを 見れば、当然死をもって諌めたと思われる。 (ちくま文庫『現代語訳 舞姫』井上靖現代語訳、山崎一穎解説)

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「息子の免官が官報に出たのを見れば」とありますが、豊太郎免官から母の手紙が届くまで、一週間 以内の出来事です。しかしながら明治時代中期、母の手紙及びその死を知らせる親族の手紙が船便であ ったのは間違いなく、船であればドイツ――日本間は数十日を要したはずです(『舞姫』冒頭、イタリ アのブリンヂイシイ港からベトナムのセイゴン港まで二十日余を要したとある)。このようなタイム・ ラグから考えて「母諌死説」は不成立です。 豊太郎がドイツ留学する時の気持ちとして、「五十を越えし母に別るるをもさまで悲しと思はず」と あります。「五十歳を越えた母」というのは、当時は「人生五十年」の時代ですから、「年老いた母」で あり(1960 年〈昭和 35 年〉のことだが、松本清張の『砂の器』では、殺害された 51 歳の元巡査三木 謙介のことを「すでに五十を過ぎた老人、、」と表現している)これは後に母が死ぬための伏線のようにも 思われます。母の死が不自然ではないと、鴎外なりに工夫したのかもしれません。 この、豊太郎免官の時点でいえば、日本(母)を取るかドイツ(エリス)を取るかという、対決と選 択の決断の時であるはずですが、母死亡によりエリス不戦勝の形となり、話の流れから必然的に、、、、ドイツ でエリスとともに「憂きが中にも楽しき月日」を送る展開となります。また最終場面でも天方伯に帰国 承諾の返事をした豊太郎は、エリスと向き合うことなく意識不明の病気となり、その間、相沢が周旋し 事を決めるというように、対決すべき所で対決をしないというのがこの小説です。 豊太郎免官時の母の死亡は、そのような御都合主義ですし、率直に言って鴎外の小説能力がこの時点 で未熟であったということです。私など、「鴎外君、20 歳代で若くてまだまだ未熟だな」と授業で説明 するのですが、「大学の先生」はそうもいかないようで、「母諌死説」のような尤もらしいウソの深読み が生まれるのですが、実を言うと私もまた――「大学の先生」ではないのですが――深読みの解釈をも っています。 ここで母が死亡する、――つまり筆者鴎外にしてみればストーリー展開上、母を「殺す」のは、彼の 深層の「母親殺し」の願望の現れだというものです。 『舞姫』は端的に言うと、主人公太田豊太郎が母と妻(エリス)という二人の女を「殺す」という構 成の物語です。 鴎外は闘う家長であるとともに、「気難しい母親と、わがままな妻にさいなまれた」等身代の「父」 でもありました(山崎正和『闘う家長』新潮文庫)。明治政府の多くの高官と異なり、鴎外には国家に 参加するに当たって家庭を捨てるという瞬間がなかったと、山崎前掲書は言いますが、それだけにむし ろ圧力釜の中のような家庭内の、家長としての葛藤は激しいものがあったでしょう。 「気難しい母親と、わがままな妻」に苛まれる姿は小説『半日』に詳しく書かれています。この小説 の主人公の高山博士は母君の味方であり、「奥さん」は悪役となり「お前は精神が変になっているのだ」 と決めつけられています。そのため、鴎外の妻=しげ子夫人はこの小説が発表されるや激怒し、単行本 所収を許さなかったといいます。さりとて「母君」とて賢母とは程遠い描かれようです。明治維新の荒 波を経験し、「男のような気概」で「声も優しくな」い豪傑なのですが、夫婦のいる部屋に現れ、息子 の湯殿の世話をし、食事の給仕をする姿は、愛情というよりは母子相姦的です。 「おれを生んだお母さまではないか。」 「おれに誰が学資を出して大学を卒業させてくれたと思う。」 「博士」はこう言うのですが、母君は愛すべき母としては描かれていません。この小説を読む限り、 博士は母君を敬してはいるが愛しておらず、前の博士の言葉は、「奥さん」に向かって言っているとい うよりは、自らを納得させるためのものであるかのようです。 桜井哲夫氏は、母親の「モラル・マゾヒズム」が近代の男を立身出世へと駆り立て、日本の近代化を

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推進してきたと言います(NHKブックス『「近代」の意味』)。言うに言われぬ母の苦労が強調され、 自分の苦労を子どもに罪悪感として押しつけ、子どもは自分が成長する過程がそのまま親が苦労し傷つ く過程と自覚するのであり、子は原罪として母が内面化するというのです。高山博士の、そして鴎外の 母親尊重は、真の愛情としての情感のふくよかさを欠き、頭でっかちに倒錯した、モラル・マゾヒズム 的です。 フロイトは男子の成長自立における「父親殺し」の重要性を述べましたが、鴎外には、常に、潜在的 に「母親殺し」の願望があったように思います。女系続きの森家にあって鴎外森林太郎は久々に生まれ た男子であり、家長を宿命づけられ、物静かな父静男にかわって母峰子祖母清子の期待を一身に受けね ばなりませんでした。『半日』の高山博士は、「おれに誰が学資を出して大学を卒業させてくれたと思う。」 と言っていますが、「母君」にしてみれば、我が子に投資するのが、幕末明治初期の荒波の中、唯一生 き残る道でもありました。鴎外にとってそれは恩であると同時に重荷であり、常に母親殺しの願望があ ったに相違ありません。 『舞姫』の豊太郎の母は、「独り子の我(豊太郎)を力になして世を渡」り、豊太郎からも「またな く慕」われていました。豊太郎がドイツにおいて免官され決断を迫られた時、偶然にも、、、、この母は死にま す。そして豊太郎は、エリスとの「まことの我」の生活を開始します。 この時母が死ぬのは、物語の展開上の御都合主義――鴎外の未熟さ――なのですが、「まことの我」 に生きるための、鴎外自身の母親殺しの願望の現れではないでしょうか。『舞姫』で豊太郎は、鴎外は、 母を殺し、最後に妻(エリス)を精神的に殺し、自らの人生を選ぶのですが、後年、母と妻との板挟み に苦悩した人生の願望を、この処女作ですでに予言したともいえるでしょう。 『舞姫』については以上で終わりなのですが、もう少し鴎外について述べます。 二人の女性を「殺す」ことによって自己の内面を成長させ、かつ世俗的出世を達成する物語を、鴎外 は『舞姫』の25 年後に発表します。『山椒大夫』です。山岡大夫の人買い舟により安寿と厨子王姉弟は 母と生き別れになります。姉弟は現実の辛酸を嘗めますが、安寿の献身により厨子王は山椒大夫のもと から脱し、関白師実の知遇を得て平正道と名乗り丹後守となります。そして佐渡に渡り母との再会が実 現します。 リルケの諸作に見える献身の倫理を主テーマに安寿の像を形象したというのが通説ですが、私の読後 感は少し別の所へ行きます。この小説は、母を「殺し」「妻」を「殺し」(安寿を「妻」というのは突飛 かもしれないが、寡黙に、「目は遥かに遠い処を見詰めている」安寿の姿は、「瞑目するまで、美しい視 線は遠い、遠い所に注がれてい」たお佐代さん――鴎外の『安井夫人』のヒロインで、安井息軒夫人― ―と共通する)自己実現を果たした男の悲哀と罪悪感、そして最後に母なるものに抱かれるという幸福 な大団円の物語です。この物語は、女を殺しつつ女に救済され、母親殺しをしつつ母なるものに救済さ れる物語であり、「モラル・マゾヒズム」に苛まれる近代の男の心を癒すものです。そして、「我は許す べからぬ罪人なり」と書いた『舞姫』の作者は、この時、『山椒大夫』の結末を書きながら、少しは幸 福であったように思います。 ※拙稿「鷗外私論――『舞姫』から『渋江抽斎』へ――」(小学館パブリッシング・サービス『国 語フォーラム』76 号 1996 年 11 月)参照。

参照

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