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町並み保全型まちづくりから見たツーリズム発展論

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町並み保全型まちづくりから見たツーリズム発展論

はじめに Ⅰ.ツーリズムの変遷 Ⅱ.町並み保存の思想と実践 Ⅲ.観光開発型のまちづくり Ⅳ.地域と観光 むすび

はじめに

1960年代後半から70年代にかけて全国の先駆的な地方小都市に始まった「町並み保全型まち づくり1)」は住民が主体となってまちづくりを推進したことにより、ポスト近代の都市計画に 「市民参加型」の新しいまちづくり手法を確立した。一方、同時代に国民生活の経済的向上と ともに急成長した観光産業は観光計画において住民と環境を軽視した経済効率優先・団体志向 の開発手法をとってきた。 まちづくりと観光は、このように持続可能性においては相反する価値体系にあったといえる。 ところが、現在、まちづくりと観光は例えば「観光まちづくり」という用語に見られるように 融合が可能であり、一体化すべきものであると考えられている。まちづくりの成功の結果、町 並み景観の観光による集客効果と経済効果がもたらされる―このような観光の機能と意義の社 会的変化は、一般にはマス・ツーリズム(大量観光)からサスティナブル・ツーリズム(持続 可能な観光)への転換において観光の本質が変化したものと捉えられている。しかしながら、 2000年に入って唱えられ始めた「観光まちづくり」や地域主体の観光事業である「着地型観光」 の萌芽は1980年代初頭に既に理論的には生じていたものと考えられる。本論は現代の傑出した コミュニティ運動のひとつであった「町並み保存運動」がツーリズムにもたらした影響とその 経緯をたどり、現代の地域再生に結びつくツーリズムのあり方を考えるものである。

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Ⅰ.ツーリズムの変遷

1.経済成長社会と観光 戦後の経済復興と所得倍増とともに国民生活が物質的に豊かになり始めると、余暇のレクリ エーションと観光が国民生活にとって重要さを増し、勤労者が安価に旅行をできるようにソー シャル・ツーリズムの考えに基づき、公立青年の家(1955)、国民宿舎(1956)、公営ユースホ ステル(1958)、国民休暇村(1961)が相次いで開設された。勤労者が主力となった観光は海 水浴、スキー、登山など、特定の季節と週末に集中するため宿泊設備の不足する地域では民宿 (簡易宿所)が続々と出現した。そのような社会の中で1963年、「観光基本法」が制定される。 観光は生活の安定しつつある勤労者に欠かせない余暇活動であり、観光の目的は生活環境の精 神的な維持にあった。 1964年の新幹線開通と高速道路の整備は観光ブームに拍車をかけた。観光の大衆化はこの時 代の大きな特長であり、60年代∼70年代は団体旅行の最盛期であった。戦後の復興期を終えた 日本社会は欧米の経済に「追いつけ」の時代であり、さまざまな組織活動が活発になった。会 社法人、職場、業界団体、流通、政治後援会、宗教法人、文化団体、会員組織など社会のおよ そあらゆる分野に「組織」が再構築され、強化され、それは日本社会の原動力となった。「団 体旅行」は組織の記念的行事・儀式でもあり、組織的行動の最たるものとしてその果たした役 割は大きかった。 2.地方への回帰 1970年には大阪万国博覧会が開催され、国鉄(現在のJRグループ)がディスカバー・ジャパ ン・キャンペーンを全国展開した年でもある。米国旅行業協会が1960年代から1980年代の観光キ ャンペーンで使用した“DISCOVER AMERICA”ディスカバー・アメリカのロゴからヒントを得 たと言われている国鉄が1970年に始めた「ディスカバー・ジャパン・キャンペーン」は、それま で国鉄の「周遊指定地」に半ば限定されていた観光地をいっきに拡大した。この「ディスカバ ー;発見」という言葉にはそれまでとは違った観光の意味合いが含まれている。従来、観光地に 在ると分かっている名所を「見る」ことが観光であったが、「発見する」という言葉からは観光 地では必ずしもない場所への旅行から「何か」を発見することが求められた。観光地ではない地 方小都市や離島、秘境を訪れ古い町並みや暮らしを発見することが新しい観光となった。 又、同年には20歳代前半の女性層にターゲットをあてた情報誌「anan」(マガジンハウス)と 「nonno」(集英社)が創刊された。情報の増加により団体旅行中心の観光に個人旅行が増加し始 め、旅行会社は海外旅行、国内旅行のパッケージツアーを相次いで開発した。飛騨高山、倉敷、 萩、津和野、角館、鎌倉などの地方都市が旅行ブームを引き起こした。経済成長が地方から大都 市圏への人口の流出を促す一方で、都市住民の旅行志向は地方へと向かった。それはふるさとブ ームとも呼ばれ、並行して同時期に江戸時代から昭和初期の歴史的建造物を残した町並みの保 存運動が既に始まっていた。

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Ⅱ.町並み保存の思想と実践

1.新旧の町並みからの出発 渡辺俊一らの研究2)によるとまちづくりという用語は、戦後の混乱からの復興期である1950 年代に地方行政、都市問題、社会教育などの分野の雑誌で最初に用いられた。戦後民主化の時 代を背景とし、青年団・婦人会の奉仕活動による町づくり・村づくり、市町村合併(1953年) における新しい町づくり、地方自治に民主化を求める運動としての町づくりなど、町づくりの 修飾語にも「新しい」「明るい」が多用されている。街灯で夜間の街を明るくするのも、蚊や 蚤を駆除するのも町づくりであった。 敗戦後の日本の都市は未曾有の廃墟から始まった。終戦の年の1945年3月に始まった東京大 空襲を皮切りに、米軍による本土攻撃は工業集中都市としてリストアップされた主要30都市の 軍事関係施設と密集市街地を焼夷弾により次々に破壊し、6月の2度目の大阪への大空襲でそ の最初の任務を終了した。わずか3ヶ月で日本の代表的な30都市は原爆投下候補都市であった 京都、広島、小倉など数都市を除いて焼け野原となった。米軍はさらに人口にもとづいて選び 出した120の地方都市を次段階の攻撃対象目標とし、翌々日から作戦を実施した。そのうち50の 地方都市が攻撃を受けた時点で、8月6日・9日の広島・長崎への原爆投下の後、戦争はよう やく終結へ向かった。これらの本土攻撃により何十万もの市民の人命が失われるとともに、80 余都市が焼失した。京都と金沢は空襲を免れたが、京都が日本を代表する古都であったがゆえ に攻撃対象とならなかったというある種の「美談」は偽りであったことが実証されている。3) 空襲により失われた町と残された町−焦土と化した都市には新しい都市建設と急造のバラック 化が並行して進み、空襲を免れた地方の小都市には歴史的な古い町並みが残されていた。 2.住民参加の町並み保存 戦後の復興期を経て1960年代の高度経済成長期に入ると、都市への人口流動と社会経済の急 激な変動によるひずみが都市部に道路・教育・上下水道・公害などの都市問題を引き起こし、 市民運動が活発となった。まちづくりはこのような生活環境の劣化に対する市民運動に始まっ たといえる。しかし、歴史的景観を持つ町並みを保存しようとする運動は、居住地に伝統文化 を見出そうとする歴史的景観の保存活動であった。 1960年代には建築や都市計画の専門家が全国の歴史的な街を調査し始めている。例えば、宮 脇檀は大学ゼミ(法政大学)で1961年から毎年、飛騨高山、倉敷、馬籠宿、萩、五箇荘、琴平、 稗田集落、篠山町などでの町並みのフィールド調査を行っている。1971年には文化庁が「集落 町並保存対策研究協議会」を発足、1972年からは「集落町並みの調査」を行っている。また、 朝日新聞社は1972年2月に全国の都道府県教育委員会と郷土史家などを通じて大がかりな歴史 地区の現状調査を実施し、「保存の必要な歴史的町並み」を発表している。このように地方に 点在する歴史的町並み景観の文化的価値を地元の住民に知らしめたのは学者やジャーナリズム に負うところが大きかった。

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こうした動きにともない市街地の区画整理や都市道路計画などの開発に反対して歴史的町並 みを残すいくつかの小都市や地区において住民が立ち上がり始めた。1974年に「妻籠を愛する 会」、「今井町を保存する会」、「有松まちづくりの会」の3団体連合により「全国町並み保存 連盟」が組織されている。そのような社会潮流の中、1975年に文化財保護法の改正が行われて 「伝統的建造物群保存地区制度」が誕生した。それまで個々の建造物が文化財の対象であった が、この制度により点ではなく面である「建造物群保存地区」が文化財として保護されること となった。翌年の1976年から始まった「重要伝統的建造物群保存地区」の選定はその後の文化 財としての町並みの復元に大きな役割を果たした。図表1はこれらの町並み保全初期の保存団 体を列挙したものである。 図表1 60年代、70年代の主な町並み保存団体(設立年) 高山・上三之町町並保存会(1966)☆ 妻籠を愛する会(1968)☆ 今井町を保存する会(1971) 白川郷の自然環境を守る会(1971)☆ 湯布院 自然保護愛護運動(1970)☆ 富田林寺内町をまもる会(1973) 有松まちづくりの会(1973) 飯田市・大平の自然と文化を守る会(1973) 小樽運河を守る会(1973)☆ 足助の町並みを守る会(1975)☆ よみがえる近江八幡の会(1975)☆ 内子・八日市周辺町並み保存会(1976)☆ 小布施、北斎館の設立(1976)☆ 奈良まちづくりセンター(1979)☆ 伊勢河崎の歴史と文化を育てる会(1979) これら15例のうち、☆の9例は保存運動後、観光客の顕著な増加を見たものである。又、上 記15例のうち7例は重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。 3.保存と観光−妻籠宿の場合 妻籠宿は江戸時代の中山道の宿場であったが、戦後は過疎に苦悩する一山村であった。当時、 町の職員で農業技術員の任にありながら町長に村おこしを任命され、町並み保存と観光事業の リーダー的存在となった小林俊彦は次のように述べている。「農業以外に妻籠を振興させる道 を考え、観光ということに眼を向けたわけです。当時、たまたま隣の馬籠の藤村記念堂に年間 14万人ほどの観光客が訪れていました。だからその14万人の1割でも2割でも妻籠に引っぱっ

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てくれば観光ということも始まるだろう、そういうことを考えていました。」(1976年10月小林 俊彦氏の講演会より)観光以外に妻籠が生きる道はないという信念を持った小林は1965年に郷 土資料を研究保存する「妻籠宿場資料保存会」を結成、1967年には脇本陣を整備して郷土館を 開館、さらに長野県の明治百年記念事業により1968年∼70年の3年間で宿場の復元工事を行っ た。整備された妻籠の町並みはNHKや民放のテレビ番組で全国に紹介され、1972年には早くも 年間50万人を突破するわが国有数の観光地となった。観光客が急増する中、集落全戸が加入す る「妻籠を愛する会」は「妻籠を守る住民憲章」(1971)を制定し、「貸さない」「売らない」 「こわさない」の三原則を自らに課し、外部資本の参入を防いだ。同時にそれは戦後の町並み 保存の先駆的な試みとなり、妻籠は全国の町並み保存のメッカとなり、その後の町並み保存の きわめて優れたモデルとなる。地域の価値の発見と再生、住民の合意形成と統制、町並みの保 存理念、観光プロモーションとマーケティング、観光による経済効果創出と雇用創出、観光の インパクトに対応した持続的な事業経営、これらのすべての面において妻籠は小林のリーダー シップのもと完璧であった。 観光マネージメントから見ると妻籠宿は当時の概念を覆す画期的な観光地であった。ひとつ は急増する観光客に対する観光施設の対応である。宿泊設備は街道筋の民宿を中心にして各戸 の収容人員は多くて12∼3名、土産物は現地の生産を原則とし、県内産に限定した。当時の観 光地は大型観光ホテルと大規模観光施設が観光計画の常套手段であり、マス・ツーリズムがそ の基盤にあった。妻籠宿は全てがスモールであり、スモールの集積が年間観光客100万人を越 えるメジャー・デスティネーションとなった。ふたつめは住民主体の観光マネージメントで、 その根本に住民憲章の3原則があった。このようにマス・ツーリズムの最盛期にあって、妻籠 は逆行する観光経営により持続的な観光地として成功した。 4.再開発のまちづくり−山鹿市の例 一方、70年代に歴史的な温泉街の景観を取り壊して巨大な再開発ビルを建てた町がある。熊 本県の山鹿市は近世以前からの温泉郷であり、阿蘇山系から流れる菊池川と小倉と熊本を結ぶ 豊後街道の交差する交通の要所でもあった。菊池川には大阪へ米を運ぶ船が発着し、宿場町、 河港として栄えた。中心部の温泉広場には道後温泉の公共湯を模して明治時代に立てられた壮 麗な木造建築の「桜湯」が外湯としてあり、周囲には温泉旅館が建ち並んでいたが、1975年、 国道の拡幅事業をきっかけとした市街地再開発事業により「桜湯」と周辺の旅館・商店は取り 壊わされ移転し、延べ床面積2万8千平米の巨大な複合ビル「プラザファイブ」(開業時は 「温泉プラザ」)が建設された。スーパー・名店街・住宅・温泉・プール・市民会館などを収納 した「温泉プラザ」は西日本では最初の大規模な再開発ビルとして当時、西日本のほとんどの 市町村自治体が視察に訪れたという。温泉旅館は郊外の住宅地に移転し、団体客の受け入れが できる中規模温泉ホテルとして再出発した。 「プラザファイブ」はオープン当初は周辺地域の一大ショッピングセンターとして繁栄した が、郊外に大型店や専門店が進出するにつれ次第に売り上げが落ち、空き店舗が増えていった。

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1993年には再開発ビルと対峙するように旧温泉広場を見下ろす場所に9階建てのマンションが 福岡の民間資本により建造され、再開発ビルに占拠された旧温泉広場の個性のない無秩序な景 観をさらに悪化させた。中心市街地活性化法に基づき2002年TMOが設立され、温泉と豊前街 道や山鹿灯籠、そして2001年に市民の力により見事に復元された大正時代建造の芝居小屋、八 千代座での観光まちづくりへの取組みを行っている。しかし、プラザファイブ内や周辺商店街 の空洞化は歯止めが利かず、現在、山鹿市ではプラザファイブの一部取り壊しと、桜湯の建物 の復元を計画しているという。 山鹿市の事例は歴史的建造物の取り壊しと巨大な複合商業ビルによる再開発が現在のツーリ ズム論では大きな過ちであったことを端的に示している。地域にとって内湯のない小規模な温 泉旅館を住宅地に移して団体客の対応できる規模にしたことと風格のある外湯の木造建築を取 り壊したことは経済成長とマス・ツーリズムのもたらした遺恨であった。

Ⅲ.観光開発型のまちづくり

1.町並み観光 1976年に山田智念は「観光は<娯楽・見物>という様式から、<親密な体験を得る機会>と して新しい方向が示され伸びつつある。4)」と指摘している。「親密な体験」とは旅行に求め る体験が必ずしも非日常ではなく、日常性を含んでいることを暗示している。旅行は「非日常 体験」であるという通念はこの1980年前後から変化したといえる。親密な体験につながる観光 は旅行者の日常を構成するライフスタイルとの関係を反映し始めた。 このような旅行者の志向の多様化とライフスタイルの反映は観光行動を豊かにし、町並み歩 きを観光の対象そのものとした。「町並み」という観光資源は都市観光に属するものであるが、 他の観光地資源と比較すると住民の生活空間そのものであるという際立った特性を含んでいる。 通常の都市観光では商業地や飲食街、歓楽街、公共の建造物が主流となり、生活空間に直接入 り込むことはないが、町並み歩きでは生活の場への観光のインパクトが如実に現れ、住民の日 常生活において観光客の一方的な来訪は逆に住民の日常空間に負の非日常性をもたらした。 2.観光開発型のまちづくり 本来、生活住環境の改善を目的とした「まちづくり」は社会経済の変化によって、又、生活レ ベルを向上させることによって多様な目的をもってきた。1969年(昭和44年)、第1回国民審議 会コミュニティ小委員会の提言を受け、自治省の「新しいコミュニティづくり」の施策が都市お よび農村地域において始められた。このコミュニティ施策の展開は各地区でのコミュニティセン ターの建設、コミュニティ形成の団体づくりの促進、およびリーダーの養成を目的とした。住民 運動の先駆的な地域であった東京都や神戸市では区単位での住民参加のまちづくり、まちづくり 協議会の結成、まちづくり条例の制定、地区計画への参画などの一連の市民参加のまちづくりが 活発に行われ、市民運動がコミュニティ主導型の「まちづくり」へと発展していった。

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1976年(S51)に建設省(現在の国土交通省)都市局都市政策課により実施された「特色あ るまちづくり」に関する調査結果5)は高度経済成長期後の70年代におけるまちづくりの特性を 良く現していて興味深い。70年代に入って「まち」の居住環境への市民の意識が高まるととも に課題が多様化し、行政が進める市街地整備事業・市街地開発事業を中心とした都市計画に市 民が参画し始め、まちづくりは多様な展開をした。建設省の調査は自治体が提案・実施してい る都市計画を12の分野に整理したもので、分野ごとの件数の多い順番は次の通りである。 ①公園・緑地の整備と緑化、②居住環境の整備、③地域開発、④市街地の整備、⑤福祉・医 療、上位1∼4位には都市のインフラ整備を重点に置いたものが占め、中位5∼9位には福祉、 安全、住民参加、公害などの生活に直接関わる分野が見られ、さらに下位10・11位に1990年代 以降のまちづくりの主流となる文化財及び美観の保存、自然環境の保存がある。観光は地域開 発の分野に一部含まれるのであろうが、この時点でコミュニティが参画する「まちづくり」と 「観光」とはつながりを持ちえない概念であった。 「もともと観光というベクトルと町並み保存のベクトルとはくい違うわけです。6)」と木原 延男は80年代初頭に述べている。これはその頃優勢な論調でもあったであろうが、むしろ観光 というものが観光地の住民といかに無縁であったかという当時の観光開発のあり方から生じた 社会通念であった。妻籠宿やその後の町並み保存の例を見ると、町並み保存と観光を「もとも とくい違うベクトル」とするには早計であろう。町並み保存により有数の観光地となった妻籠 宿にはベクトルの方向の完璧な一致が見られる。 80年代から90年代に関西を中心として全国各地で多くの町並み保全を手がけた高田昇は町 並み保存を生活環境型と観光開発型に分けている。そして観光開発型の「昔風のみやげ物屋 と民宿の町では、若い住民が定住しないという経験を積んでいる。7)」と述べ、現代の都市の 一部である生活環境にあれば、「町並み保存も、総合的なまちづくりであり、地域の活性化事 業であり、優れた創造活動でなければならない。」つまり、「歴史的な住まいや町並みが、私 たちに語りかけるものを、じっくり聞き分けつつ、貧弱になってしまった私たち自身の生活 文化の建て直しにかかる構えが何より求められる。」と述べている。高田のまちづくり理論は 70年代から80年代の実践と思索を経て創られたといえる。そのまちづくり論からは町並みを 通じた過去との対話による地域の創造という2 1 世紀に入ってからの地域と観光の大きな課題 が読み取れる。

Ⅳ.地域と観光

1.地域主義 1970年代はまちづくりと観光の揺籃期であった。住民参加のまちづくりは歴史的町並み保存 を通じて交流人口を増やし、観光との関わり合いを深め、地域の産業創出に新しい手法を生み 出した。三村浩史は1978年にこう述べている。「わが国のこれまでの観光政策のみならず観光 に関する研究を振り返ってみると、観光する側およびその需要を先取りするために観光開発す

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る側からのさかんな論議があったのにくらべて、観光を受け入れる地域社会から見た考察が立 ち遅れていることは否定できない。8) 観光を受け入れる「地域社会からの考察」を具体的に三村は「地域社会と観光客との対等互 恵的な関係をどのように築いてゆくか9)」にあるとする。この考えは従来の観光―ゲスト・ホ ストの関係論にはなかった、新しい考えであった。 一方、当時の「地域主義」の代表的な論者の一人であった清成忠男は地域主義と観光開発に ついてこう論じている。「地域主義の立場に立つと、観光とはなによりもまず『住んでよいま ち』をつくるということになる。そこに住んでいる人々が、主体的に『住みよいまち』をつく るということである。(中略)さらに重要なことは、『住んでよいまち』は『観てもよいまち』 だということである。『住んでよいまち』には、独自の生活文化が生まれ、この文化にふれた いという観光客にとっては、自らの視野が広くなるとともに安らぎも得られるということにな る。1 0 )」観光とは「住んでよいまち」をつくることでもあるという考えは、1980年に既に到達 されていた概念であった。この概念は後の観光立国政策の基本的な理念ともなる。 2.1980年のツーリズム論 1980年代初頭にまちづくりと観光は概念上は融合されていたことが1980年に発表された猪爪 範子の「地域と観光−トータル・システムとしての観光のあり方を問う−」と題した論説から も伺われる。猪爪はそのなかで観光そのものが地域文化に他ならず、生活文化の横溢する「地 域」であると論じ、したがって「観光事業はその地域の住民と広く結びつく」ものである。 「まちづくり」は住民自らにより地域の主体性を確立することであり、社会的・文化的な自立 性を高めてゆく動きがその町や村を個性的に変え、生活を豊かにすることで、こうした動きに よって展開する観光開発は「まちづくり観光」である11)、と論じている。 又、同じ1 9 8 0 年に三村浩史はこう述べている。「地域を育てる観光開発をめざす観光が、 地元の商業、地場産業、農林漁業、文化活動にどう結びつき貢献するかも観光地を評価する 上でのいよいよ大切な尺度となるものと思われる。地域づくりに誇りを持つ主人公たる地域 住民がそこにいなければ、観光客も成立しないのである。主客のつき合いということが大切 であろう12)。」 2 0 0 0 年前後にまちづくりと観光の関わり合いから使われ始めた「観光まちづくり」とい う用語を西村幸夫は「地域が主体となって、自然、文化、歴史、産業、人材など、地域の あらゆる資源を活かすことによって、交流を振興し、活力あるまちを実現するための活動 である」と定義付け、特に「観光まちづくりでは観光はまちづくりの結果のひとつの現れ であり、まちづくりの仕上げのプロセスを意味している13)」ことを強調している。猪爪と三 村の引用から1 9 8 0 年のわが国において既に地域と結びついた持続可能な観光の考えが表明 されていたことが分かる。

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3.80年代から90年代の観光開発 70年代に町並み保全型まちづくりのコミュニティ運動から展開された地域と観光の調和の取 れた観光開発論は80年代の社会経済環境の激変により、あきらかに後退した。80年代に出現し たテーマパークブーム、リゾート法の制定、第三セクターの乱立、海外旅行者数の年間1千万 人達成は地域と観光の調和に大きな影響をもたらした。 (1)テーマパーク 1983年の東京ディズニーランドの開園は80年代の観光潮流を象徴するエポックであった。初 年度入園者数1,036万人に達した東京ディズニーランドはファミリー層、若者層を中心に修学 旅行、職場旅行などの団体旅行を取り込み、主要な観光地となった。テーマパークの成功は地 域にもテーマパークブームを引き起こし、狂騒的なまでのテーマパーク建設が全国に展開され た。パルケエスパーニャ志摩スペイン村(1 9 8 8 )、フェニックス・シーガイア・リゾート (1993)、「21世紀に向けた環境重視型の観光都市」と銘打ったハウステンボス(1992)、宇宙体 験型テーマパークのスペースワールド(1990)などの大型テーマパークが相次いで開園し、北 海道ではグリュック王国(1989)、カナディアンワールド(1990)などが開園、全国各地の観 光地や都市周辺に大小無数のテーマパークが建設された。 (2)リゾート法 まちづくりとはその手法において対極にあった地域におけるテーマパーク建設は、スキー場 やゴルフ場開発と同様の従来の手法を継承した大資本による大規模観光開発の流れを組むもの である。このような地域開発に大きな推進力となったのが1987年に制定された「総合保養地域 整備法」(通称リゾート法)であった。リゾート法は80年代の社会経済情勢を背景とし、米国 との貿易摩擦に起因する内需拡大策を主たる目的として導入された政策であった。1989年での 全国のリゾート投資予測総額は12兆円にものぼった14) リゾート法施行17年後の2003年4月に総務省は「リゾート地域の開発・整備に関する政策評 価書」と題されたリゾート法の評価を関係各省及び地方自治体に通達している。評価は全国い ずれの地域においても基本構想(41都道府県において42の基本構想が作成された)の進展はな く、整備が完了し供用された42地域の平均は20%と極めて実現性の低い政策であったと述べ、 結論として政策の抜本的な見直しと道府県における政策評価を行うことを意見している。 (3)第三セクターによる観光施設 高度成長期(1960年~1970年)以降、地方公共団体主導の第三セクターが活発に設立され始 め、さらにリゾート法関連の設立とバブル経済崩壊後は景気対策としてとられた公共事業政策 により1988年から1996年にかけて全国で毎年400件前後の数の第三セクターが設立された。全 3,197法人の第三セクターのうち観光レジャー施設の管理運営を主たる事業とするものは29.7% にも及んでいる1 5 )。第三セクターによる観光開発は民間と行政が一体となった組織でありなが ら、地域住民不在の開発・整備であったといえる。1992年を設立数のピークとしてその後は減 少傾向にあるが、2000年現在、地方公共団体の出資が25%以上の第三セクターは全国で6,834 法人を数える。その内の17.9%、1,221法人は観光・レジャーの業務分野のものである。観光・

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レジャー分野の法人形態は株式会社が773、財団法人が358となっている。観光開発公社など、 これらの第三セクター法人は地域開発、観光開発あるいは公共団体の所有する施設の管理委託 業務を通じて、ゴルフ場、スキー場、大型テーマパーク、宿泊設備、レストラン、オートキャ ンプ場、温泉施設、売店、特産品製造などの多様な観光施設を開発してきた。特に、1986年の 「民活法」、1987年の「リゾート法」、1989年の「ふるさと創生資金」の政策は地方自治体の観 光計画にも大きな影響をもたらした。その後、1998年頃から第三セクターの倒産が相次ぎ、多 額の負債を自治体が債務保証をしての経営、叉、他公的機関との統合など大半の第三セクター が厳しい経営状態にある。 (4)環境と観光開発 1980年代のこのような観光開発の展開は自然環境にも大きな影響をもたらした。例えば、日 本産蝶の大分県での絶滅危惧種の34種のうち80年代に急速に衰退したもの12種、90年代には17 種と80年代・90年代で29種もの蝶が急速に減少の傾向にある16)。減少の要因には観光開発等が 多々見られることからも、観光開発による生態環境破壊は明白である。このような傾向は長野 県など他府県においても酷似した状況である。 国連機関やOECDの「持続可能な開発」の理念を含んだエコツーリズムやグリーンツーリズ ムが政策上取り上げられ始めたのは1990年代中ごろ以降であった。「農山漁村滞在型余暇活動 推進法」(通称「農村休暇法」叉は「グリーンツーリズム法」)は1995年に施行され、ようやく 第一歩を踏み出した。エコツーリズムについては1998年、日本エコツーリズム協会が設立され、 同協会の働きかけによって2007年、エコツーリズム推進法が成立した。エコツーリズム推進法 は地区計画を中心に行政、住民、関係機関が推進するもので環境と観光の融合のプロセスをよ り明確にするものである。

むすび

1980年代は円高による産業の空洞化が進んだ時代であったといわれている17)。60年代からの まちづくりと観光をたどっていくと70年代にいくつかの地方都市の町並み保全型まちづくりを 通じて地域と観光の調和をめざす理論上の成果が見られた。しかし、80年代に入ると何か大き な障害が出現したかのように地域開発と観光のバランスは大きな破綻を来たした。その破綻は 挙句の果て1990年のバブル崩壊に通じ、さらにその後膨大な赤字国債の発行による公共事業へ の予算投入が国を挙げて展開された。 「80年代論」で佐和隆光は「地方経済が空洞化の過程にあるのだとすれば、今後、地方経済 を活性化させるためには、地方経済のソフト化を考えざるをえないのだろうか。その場合はた して、それぞれのソフト化の核となるのは、いったい何なのかという問題がでてくる。私の頭 の中に浮かんでくるのは観光ぐらいしかない。1 8 )」と述べ、それに続けて新藤は「経済の東京 一極集中。佐和さんがおっしゃるように、ソフト化、サービス化、あるいは金融化ということ が動因になっていることは事実なんですけれども、そうすると地方の地域経済のソフト化とい

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うことが観光しかないのかということになりますが、観光と地域の産業、特に第一次産業とを 結びつけるようなことが必要なんではないか。(略)(観光を)伝統的な地域経済と切り離さな い道を考えることが地域経済の再生の鍵ではないか。1 9 )」と語っている。このような議論は 2000年代に入り、新たに地域と観光のテーマとして再度議論されている。というよりも、よう やく一般的になって来たというべきだろう。 1)日本建築学会編「まちづくり教科書第2巻・町並み保全型まちづくり」丸善、2004による 2)渡辺俊一・杉崎和久・伊藤若菜・小泉秀樹(1997)「用語「まちづくり」に関する文献研究(1945~1959)」 第32回日本都市計画学会学術論文集 3)吉田守男「日本の古都はなぜ空襲を免れたか」朝日文庫、2002 4)日本観光協会「観光計画の手法」p.155、山田智稔、1976、1980再版 5)ジュリスト増刊総合特集(1977)『全国まちづくり集覧』p.301−309 6)日本の美術4「町家と町並み」p.86、至文堂、1980 7)高田昇「まちづくり実践講座」p.148−149、学芸出版社、1991 8)三村浩史「環境文化31・32」p.41、『町並み保存と観光』1978 9)同上 10)清成忠男「地域主義の時代」p.140、東洋経済新報社、1978 11)日本観光協会「月刊観光1月号No.160」p.17、猪爪範子『地域と観光』(1980) 12)日本観光協会「月刊観光1月号No.160」p.5、三村浩史『80年代の観光と観光地づくり』(1980) 13)西村幸夫(2002)、国土交通省総合政策局観光部監修「新たな観光まちづくりの挑戦・第1章」ぎょうせ い、p.21 14)佐藤誠著「リゾート列島」p.110、岩波新書、1990 15)総務省「第三セクター等の状況に関する調査結果の概要」2004年3月 16)日本鱗翅学会版・都道府県別のレッドデータ・リスト(2002)による 17)佐和隆光・新藤宗幸/杉山光信「80年代論」p.161他、新曜社、1987 18)同上 p.191−193 19)同上 p.193−194

参照

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