はじめに
一九四五年一〇月二四日にGHQが発した覚書「信教 の自由侵害の件」は、戦時中のキリスト教学校における 信教の自由の侵害および蛮行を糾弾し、 ①立教学院職員一一名の追放。 ② 一一名の再任用の禁止と政府機関等への再就職の禁 止。 ③立教学院の再建。 ④ 他のキリスト教学校での戦時中の信教の自由の侵害 と蛮行の報告。 という四項目を指令した。これによって立教学院関係 者一一名が教職を追放されるという事態となった。 彼らにかけられた「容疑」は次の二つにまとめること ができる。 ① 一 九 四 三 年 、 キ リ ス ト 教 に 基 づ く 授 業 、 儀 式 の 廃 止 。 ② チャペルの閉鎖と蛮的行為 (1)。 こ の 事 件 は、 戦 後 の 立 教 学 院 の 出 発 で あ る と と も に、 占 領 史 に お い て も 一 般 の 教 職 追 放 に 先 駆 け た 事 例 と し て、とり上げられることが多い比較的メジャーなトピッ クである。 占 領 下 に お け る 教 職 追 放 に つ い て 検 討 し た 山 本 礼 子 は、立教関係者の追放と再審査、解除の過程を具体的に 検討し、GHQ内部における教職追放をめぐる主導権の 移 行 過 程 の 一 環 と し て、 こ の 事 件 を 捉 え た (2)。 山 本 も 含 めて論者の多くは、占領政策の一環としての位置づけに 関心が集中しており、立教のことに直接関心があるわけ ではない。 立教大学における自校史のテキストとして編纂された 『立 教 大 学 の 歴 史』 で は、 こ の 事 件 に よ っ て 戦 時 中 の立教関係者一一名の追放とその後
鈴木勇一郎
「苦 渋 に 満 ち た 立 教 の 決 断 の あ り 方 が 厳 し く 問 わ れ」 、 「学 院 首 脳 部」 が 立 教 を 去 っ た と し て、 追 放 に 至 る ま で の 過 程 に 焦 点 を 当 て て い る (3)。 ひ と こ と で 言 え ば、 戦 時 中の弾圧と抵抗や妥協といった視点の延長線上に位置づ けている。 ところがこの問題は、彼らが立教から追放されて終わ りという単純なものではなかった。実は彼らのうちの半 分近くが、数年を経ずして追放を解除されるという事態 となっていたのだ。公職追放解除とそれに追随して行わ れた教職追放解除が本格化したのは、一九五一年以降の こ と で あ り (4)、 一 九 四 六 年 か ら 四 八 年 と い う 早 い 段 階 で 行われたこと自体、異例だった。つまり、一一名の追放 自体も教職追放に関する一連の指令が出される前に実行 されたという点で異例だったが、その後の展開も異例づ くめだったのである。従って、この問題については、追 放の過程だけでなく、それが解除されていく経緯も一連 のものとして把握する必要がある。 追放については、追放された教員の一人である縣康が 回 想 を 残 し て い る が (5)、 こ の 他 の 関 係 者 は ほ と ん ど こ の 問題については語っていない。 『立教学院百二十五年史』 で も、 縣 関 係 の 資 料 を 中 心 に 収 録 し て い る (6)。 追 放 と そ の解除の事情については、縣の語る物語にほぼ独占され る状況となってきた。特に追放された他の十名がその後 どうなったのかについては、ほとんど触れられることが なかったのである。 本稿では、一一名の人々の追放とその後の経緯を具体 的に明らかにしていくことで、戦中から戦後にかけての 立教内部の構造とその置かれていた位置を再検討してみ たい。
1、
一一名の人々
まず、一九四五年一〇月二四日に追放された人物を確 認しておこう。GHQが指名した一一名は次のとおりで ある。 (1)三辺金蔵(総長) (2)帆足秀三郎(学監・中学校長) (3)辻荘一(予科長) (4)金子尚一(学生主事) (5)宮崎伊佐夫(学生主事) (6)小沢淳男(学生主事) (7)柴田亮(学生主事) (8)縣康(教員・前学生主事) (9)和田〔正俊〕大尉(理学部長事務取扱) ( 10)武藤安雄(図書館司書) ( 11)阿部三郎太郎(教員・前学生主事) (7)こ こ に 掲 げ た氏 名 や 肩 書 は英 文 を そ の ま ま 訳 した も の だ 。 フ ル ネ ー ム で な い 場 合 や 肩 書 が 正 確 では な い と いう レ ベ ル で あ り 、 正 式 な 指 令 と し て は かな り 雑 な 印 象 を 受 け る 。『 立 教 大 学 の 歴 史 』 で は 、 こ の 一 一 名 を 一 括 し て 「 首 脳 陣 」 とか 「 立 教 学 院 幹 部 」 と 呼 ん で い る が (8)、 総 長 である 三 辺 金 蔵 、 学 監 帆 足 秀 三 郎 の 二 名 を 除 け ば 、 す べ て予 科 に 所 属 す る 教 員 だ っ た 。 役 職に 就 い て い る 場 合 も 予 科 長 や 図 書 館 長 、 学 生 主 事 と い っ た も の であ り 、 理 事 長 はお ろ か 学 部 長 も 一 人 も 含 ま れ て い な い 。 つ ま り 追 放 され た 教 員 の ほ と んど は 予 科 の教 員であ り 、 そ の 多 く が 学 生 部 関 係 者 だ っ た 。「 立 教 学 院 幹 部 」 と い う に は 「 小 者 」 揃 い と い う 印 象 を 受 け る 。 縣 康に よ れ ば 、 戦 時 中 の 学 生 部 は 「 超 国 家 主 義 者 の 拠 点 (9)」 で あ っ た と い う 。 ところが追放された一一名のうち、一九四八年までに 五名が追放解除となっている。実に半分近くが短期間の うちに解除されているのだ。さらにその後、立教に復職 した場合、しなかった場合も存在するなど、その後の身 の処し方はいくつかのパターンがある。 ①追放解除、立教大学に復職。 ・縣康(一九四六年五月八日) ・辻荘一(一九四七年六月二七日) ・武藤安雄(一九四七年三月四日) ②追放解除、立教大学に復職せず。 ・阿部三郎太郎(一九四八年一月一四日) ・宮崎伊佐夫(一九四八年三月二五日) ③一九五二年に追放解除。 ・三辺金蔵 ・帆足秀三郎 ・金子尚一 ・小沢淳男 ・柴田亮 ・和田正俊 第三のグループの中でも帆足秀三郎、金子尚一のよう にその後立教に復職した人物もいる。さらに( 1)解除 申 請 し た が 認 め ら れ な か っ た、 ( 2) 解 除 申 請 し な か っ た、に分けることができる。 どうして処遇にこのような差が出てきたのかは、これ までほとんど明らかになっていない。そこで次に、彼ら が追放されて以降の過程、またその後の身の振り方を具 体的に見ていこう。
2、学院幹部
(1)三辺金蔵(総長) 一八八一年に神奈川県で生まれた三辺金蔵は、苦学し て立教中学校を卒業後、慶應義塾大学理財科を一九〇八年に卒業した。欧米留学から帰国後、一九一五年に同大 学 理 財 科 教 授 に 就 任 し、 そ の 後 経 済 学 部 長 を 歴 任 し た (10)。 そ し て 一 九 四 三 年 に 遠 山 郁 三 の 辞 職 後、 立 教 大 学 総 長(就 任 時 は 学 長) に 就 任 し た の で あ る。 結 果 的 に、 戦時中に立教大学総長の職を受けたことで、戦後教職追 放に遭うということになった。 追放後の一九四五年一二月、前総長三辺金蔵は、立教 学院に対し弁明書を提出し、五点にわたって戦時中にお ける自らの行為を弁明した。 ① 寄 附 行 為 か ら 基 督 教 主 義 と い う 文 言 を 削 除 し た こ と 。 (弁明) 前 学 長 時 代 に 決 定 し た こ と。 自 分 は ま だ い なかったので責任なし。 ② チャペルを閉鎖し基督教教育を廃止したこと。 (弁明) 実 施 し た の は 自 分 だ が、 前 学 長 時 代 に 決 定 したこと。 ③ キリスト教信者を解職したこと。 (弁明) 戦 時 中 に 解 職 し た の は、 文 学 部 の 閉 鎖 な ど に よ る も の で、 キ リ ス ト 教 徒 だ か ら と い っ て 解 職 し た 例 は 皆 無 で あ り、 全 く 身 に 覚 え がない。 ④ 礼拝堂などに蛮的行為を犯したこと。 (弁明) 空 襲 へ の 対 処 な ど か ら 切 羽 詰 っ て や っ た こ とで、当時としては仕方なかった。 ⑤ 戦後も信仰の自由の回復をはからなかったこと。 (弁明) 混 乱 に か ま け て そ こ ま で 手 が 回 ら な か っ た (11)。 弁明書は三辺だけでなく他の被追放者も提出している が、立教学院に提出した後、GHQに渡されたのかどう なのかを含めて、どのように取り扱われたのかは、現在 のところ不明である。ただ結果として、この時点では追 放解除に向けた具体的な動きが見られなかった。 三辺 の 弁 明 に つ い て も う 少 し 具 体 的 に 見て い こ う 。 実 は ① 、 ② に関 し て は 、 三 辺 の 指 摘 す る通 り 、 彼 が 総 長に 就 任 す る 以 前 に 実 行 、 な い し は 決 定 さ れ て い た こ と で あ り 、 決 定 に あ た っ て の 直 接 の 当 事 者 で あ っ た 松 崎 半 三 郎 や 遠 山 郁 三 が 何 ら 責 任 に 問 わ れ て い な い こ と を 考 え る と 、 さ す が に 三 辺 の 責 任 を 問 う こ と は お か し い と 言 え る 。 次に③のキリスト教信者を解職したということに関し ては、彼の在職中に多くの教職員が解職されたことは事 実だ。だがこれに関しても、当時、国策で文系部局の整 理縮小を迫られている中で行われたものであり、キリス ト教徒を狙い撃ちしたものではないという弁明は成り立 つ。⑤については、総長の職にあった時の話であり、責 任があるとは言えるが、混乱期の数か月に無作為でいた ということであり、少なくとも積極的な行為によるもの ではない。つまり客観的に見て①、②、③、⑤は責任が
な い、 な い し は 軽 い と 考 え ら れ る。 だ が ④ に つ い て は、 総 長 で あ る 三 辺 が 直 接 指 示 を 出 し て 行 わ れ た こ と で あ り、 責 任 を 免 れ る の は か な り 難 し い と 言 わ ざ る を 得 な い。つまり三辺の場合は、主に④項、つまり一九四四年 のチャペルに対する責任が実質的に問われたという可能 性 が 高 い。 結 局、 三 辺 に つ い て は、 占 領 が 終 了 し た 一九五二年まで追放が解除されることはなかった。 (2)帆足秀三郎(大学学監兼中学校長) 同じようなケースとしては立教中学校長および学監を 務めた帆足秀三郎がいる。北辰一刀流の開祖千葉周作の 曾孫千葉秀三郎として一八九三年に生まれた帆足は、立 教 中 学 校 を 経 て 一 九 一 七 年 に 立 教 大 学 文 科 を 卒 業 し た。 在学中は立教学院ミッションに所属するとともに、その 機関誌『築地の園』の編集に力を注ぐなど、学内でのキ リ ス ト 教 伝 道 活 動 に は 特 に 熱 心 に 取 り 組 ん だ と い う (12)。 そ の 間 、 帆 足 家 に 養 子 と し て入 り 、 帆 足 秀 三 郎 と な っ て い る 。 そ の 後 、 聖 公 会 神 学 院 で 学 ん だ 後 、 一 九 一 九 年 に 立 教 中 学 校 教 諭 に 就 任 し 、 一 九 三 六 年 か ら 校 長 を 務 め た 。 こ の よ う に 帆 足 の立 教 に お け る キ ャ リ ア は 長 ら く 中 学 校 に 限 ら れ て い た が 、 一 九 四 四 年 か ら は 立 教 大 学 学 監 と な り 、 大 学 に も 関 わ る よ う に な っ た 。 学 監 と い う 役 職 の 位 置 づ け や 権 限 は よ く 分 っ て い な い が 、 他 の 大 学 の 例 か ら 考 え て 総 長 の 職 務 を 補 佐 す る 役 割 だ っ た も の と 思 わ れ る 。 実際、一九四四年にチャペルの資材を防空壕の資材に 転用することになった際、予科長辻荘一は三辺総長およ び帆足学監の指示を受けて作業を行なったように回想し て お り (13)、 学 内 を 監 督 す る 地 位 に あ っ た こ と は 確 か な よ うだ。少なくとも一九四四年の段階で帆足は、意思決定 に 関 与 し 得 る 立 場 に あ っ た こ と は ま ち が い な い よ う だ。 そ う し た 意 味 で 一 九 四 二 年 の 寄 附 行 為 の 変 更 は と も か く、 一 九 四 四 年 の チ ャ ペ ル に 対 す る 件 で は、 責 任 が な かったというのは難しいだろう。 追放後の一九四五年一二月に三辺や辻ら、追放された 旧教職員が弁明書を提出しているが、帆足については弁 明書を提出したことは確認できない。 かといって、追放解除に向けた動きを全くしなかった というわけではなく、大学時代に同級生であった早崎八 洲(社会学者)に「君今度ライフスナイダー先生に会っ たら、僕が自分の考えでピューを使ってしまったのでは ない。決してそんな人間ではない、と釈明してくれない か」と頼んだともいう。早崎によれば、その後ライフス ナイダーに会った帆足は「配属将校の命令に従わないと 立 教 は 潰 さ れ ま す」 と 言 っ た の に 対 し、 ラ イ フ ス ナ イ ダーに「つぶされたら私たちがまた帰って来て再興しま す」と返されたという (14)。
い ず れ に せ よ、 帆 足 の 追 放 解 除 は 占 領 が 終 了 し た 一九五二年になったことは確かだ。その後、帆足は立教 に復帰し、立教中学校講師や学校法人立教学院評議員や 理事を歴任している (15)。
3、追放解除・復職組
三辺や帆足のような、実際に学院や大学の幹部だった 人物が、戦時中の意思決定に関わる部分で責任を問われ るのは、ある意味やむを得ないかもしれない。 だ が す で に 触 れ た よ う に、 他 の 人 々 は 学 院 や 大 学 の 「首 脳 陣」 や「幹 部」 と 位 置 づ け る の は、 必 ず し も 当 を 得たものではなかった。次は、そうした人々に下された 教職追放という処分に対して、彼らはどのような対応を していったのかを具体的に見ていきたい。 (1)縣康(学生主事) 最 初 に 追 放 解 除 に 向 け た 具 体 的 な 動 き を 始 め た の が、 予科教授であった縣康である。 縣 は 、 三 辺 ら と 同 様 に 一 九 四 五 年 一 二 月 二 日 に 立 教 学 院 に 対 し 「 弁 明 書 」 を 提 出 し て い る が (16)、 実 は そ れ 以 前 か らY M C A 総 主 事 斎 藤 惣 一 を 通 じ て 民 間 諜 報 局( C I S ) のポール・ラッシュ(元立教大学教授)に陳情していた (17)。 さ ら に そ の 勧 め に 応 じ て 一 一 月 二 〇 日 に は、 す で に 英文の請願書を提出し、追放の解除を要求していた (18)。 縣の主張は、自分は立教に就任以来、一貫してキリス ト教徒として誠実に身を処してきたのであり、戦時中に は軍国主義者からさまざまな圧迫を受けてきた。にもか かわらず、戦後になって軍国主義者呼ばわりされるのは 誤解だ、というものであった。 GHQにおいて教職追放を直接所管したのは民間情報 教育局(CIE)だったが、日本国内における情報収集 は参謀2部(G2)傘下の民間諜報局(CIS)の所管 であり、その指揮下で直接調査に当ったのが対敵諜報隊 (C I C) と 呼 ば れ る 部 隊 だ っ た (19)。 C I C 四 四 一 支 隊 は 一九四五年一一月二三日に縣の調査の依頼を受けていた が (20)、 一 二 月 三 日、 そ の 首 都 第 八 〇 班 に、 縣 に つ い て の 再調査を命じた。これを受けて一九四六年二月、CIC 特殊諜報員八五六六が縣について調査を始めた (21)。 特 殊 諜 報 員 八五 六 六 は 、 二 月 一 四日Y M C A 総 主 事 斎 藤 惣 一 、二 月 一 五 日 総 長 事 務 取 扱 須 藤 吉 之 祐 お よ び 学 院 チ ャ プ レ ン 竹 田 鉄 三 (22)、 三 月 四 日 に は 日 本 基 督 教 団 牧 師 白 戸 八 郎 と 、 次 々 に 関 係 者 か ら 事 情 聴 取 を 行 っ て い っ た 。 彼らはいずれも、戦時中においても縣が敬虔なクリス チャンであり、軍国主義に加担したことなどなく、また 学校の意思決定に参加できる責任ある地位にあったわけでもなかったことを証言した。また、高松孝治(元大学 チャプレン) 、佐々木鎮次(日本聖公会主教) 、白戸八郎 (日 本 基 督 教 団 牧 師) が ポ ー ル・ ラ ッ シ ュ に 送 っ た 書 簡 でもそれぞれ、縣の身の潔白を主張していた。なお特殊 諜 報 員 八 五 六 六 は、 二 月 一 六 日 に は 縣 本 人 へ の イ ン タ ビューも実施している (23)。 さらに白戸へのインタビューと同じ三月四日には、警 視庁の資料も調査している。そこでは、縣が一九四五年 二月以降、縣は反戦思想の持主として警察の監視下に置 かれ、五月には学生主事も辞任を余儀なくされていたこ とも判明した (24)。 こ れ ら の 調 査 に 基 づ い て、 C I E 局 長 ダ イ ク 准 将 は、 縣は反軍国主義者であり、敬虔なクリスチャンであった と し て、 立 教 大 学 に 復 職 さ せ る の が 適 当 と 結 論 づ け、 一九四六年五月七日、正式に縣の追放解除と大学への復 職を指令した (25)。 (2)辻荘一(予科長) 縣 に 続 い て 解 除 に 向 け て 動 き 出 し た の が、 辻 荘 一 で あった。辻は一八九五年生まれ。東京帝国大学文学部心 理 学 科 を 卒 業 後、 一 九 二 二 年 立 教 大 学 講 師 と な り、 一 九 二 七 年 予 科 教 授 と な っ た (26)。 一 九 四 三 年 に 予 科 副 長、その後予科長となっている。予科長は大学生の前期 教育を行う課程である予科のトップだが、辻によれば立 教大学の予科長は、人事やカリキュラムを含め、ほとん ど実質的な権限はなかったという (27)。 辻は三辺らと同様に一九四五年一二月に弁明書を提出 し て い る。 文 章 は 詳 細 で 多 岐 に わ た る が、 要 約 す る と、 次のような内容であった。 学校の基本的な方針を決定するのは学院の理事会であ り、当時予科副長にしか過ぎなかった自分は、キリスト 教 主 義 の 放 棄 を 含 む 学 校 の 方 針 に 従 わ ざ る を 得 な か っ た。礼拝堂の内装を防空壕の資材に転用したことも、三 辺学長と帆足学監の指示に従ったまでであり、あの時は やむを得なかった (28)。 縣とは異なり、辻に対してはこの時には、GHQ側に 具体的な動きは見られなかった。 辻 は そ の 後 、 一 九 四 六 年 一 二 月 に 再 審 査 を 要 求 し た (29)。 な お こ れ に は 、 帆 足 秀 三 郎 ( 元 大 学 学 監 )、 三 辺 金 蔵 ( 元 大 学 総 長 )、 縣 康 ( 元 予 科 教 授 )、 須 貝 止 ( 日 本 聖 公 会 主 教 )、 阪 井 徳 太 郎 ( 同 志 会 会 長 ) に よ る 、 そ れ ぞ れ 辻 の 主 張 を 裏 書 き す る よ う な 内 容 の 書 簡 を 添 え て い る 。 一九四六年一二月二七日、辻自身がCIE局長に書簡 を送り、追放解除と大学への復職を要求した。ここでも 礼拝堂の内装を防空壕の資材に使ったのは、学長など大 学幹部の指示によるもので、自らはそれに従っただけで
あり、戦時中は学院や大学の意思決定に関与できる立場 にはなかったと、弁明書で訴えた内容を繰り返し主張し て い る (30)。 C I E は C I S に 調 査 を 依 頼 し、 辻 の 主 張 が おおむね正しいことを確認した (31)。 だが、これに対して異を唱えたのがCISのポール・ ラ ッ シ ュ で あ っ た。 彼 は、 「戦 時 中 の 辻 は 命 令 に 反 対 せ ずに唯々諾々と蛮行に加担した上に、立教の松崎半三郎 理事長と佐々木順三総長が、解職された教員は復職され るべきではないと考えている」として、辻の追放解除と 復職には反対した (32)。 立教側が復職に反対しているというのは、あくまでも ポール・ラッシュによる主張であり、辻のケースに限っ て み る と、 松 崎 や 佐 々 木 が こ う し た 主 張 を し た こ と は、 現在のところ史料的には確認できない。だが後で見るよ うに、立教学院・大学の幹部が追放された旧教員の復職 に反対するということは十分あり得ることだった。 一 方、 C I E 教 育 課 長 補 佐 ジ ョ セ フ・ ト レ ー ナ ー は、 重要なのは辻が破壊行為や蛮行に関与したかどうかであ り、関与がなかったということが立証された以上、速や かに復職させるべきである。そもそもそういう口出しを してくるのは、CISによるCIEに対する越権行為だ と反論した (33)。 実 は 、 戦 時 中 に 予 科 講 師 だ っ た 細 入 藤 太 郎 は 、「 一 九 三 七 年、 木 村 重 治 博 士 時 代 以 降 の 立 教 の 歴 史 の 回 顧」 (以 下 「細 入 メ モ」 と 略 称) と 題 し て、 戦 時 中 に お け る 立 教 大 学 内 の 対 立 構 造 に つ い て、 詳 細 な 証 言 を し て い る (34)。 具 体的には、後で触れる武藤安雄の再審査の際に提出され たもののようだが、GHQの判断には大きな影響を与え たことは確かだ。 このメモの中で、戦時中の辻は経済学部長河西太一郎 や予科教授阿部三郎太郎と親しく、予科教授武藤安雄ら の グ ル ー プ と 激 し く 対 立 し て い た こ と が 指 摘 さ れ て い る。 こ う し た 学 内 対 立 の 一 方 の 当 事 者 で あ っ た こ と が、 戦後の学院首脳部が辻の復職に逡巡した大きな要因だっ たのかもしれない。 だが結局、CIEは一九四七年六月一七日に、辻荘一 の追放解除と立教大学への復職を指令した。辻の追放解 除問題について検討した山本礼子は、この過程でG2に よる追放審査に対する干渉を排除し、CIEによる主導 権 を 確 立 し た と し て い る (35)。 辻 の 場 合 で は、 立 教 側 の 事 情への配慮を要求するポール・ラッシュらG2系の部局 の 主 張 を 退 け た こ と は 確 か だ。 だ が、 後 で 見 る よ う に、 その後も「学内事情」が審査に大きな影響を及ぼすよう な事例がなくなることはなかったのである。
4、追放非解除組
縣や辻のように、早い段階で追放の解除と大学への復 職を果たした教員が出る一方で、占領終了まで追放が解 除されなかった人々もいる。 (1)金子尚一(学生主事) 一九〇〇年生まれの金子尚一は、立教大学文学部英文 学科在学中から「秀才の誉れ」が高く、一九二五年卒業 後 た だ ち に 文 学 部 助 教 授 と な り (36)、 ア メ リ カ に 留 学 し て ケ ニ オ ン 大 学 で 学 位 を 取 っ た (37)。 さ ら に 一 九 二 九 年 に は 予科教授に就任している。一九四四年四月立教大学学生 部副部長、さらに一九四五年四月からは立教大学学生部 長 を 務 め て い た。 金 子 は 他 の 人 々 と 同 じ く 一 九 四 五 年 一 〇 月 教 職 追 放 と な っ て い る。 と こ ろ が、 そ の 翌 月 の 一九四五年一一月には「連合軍総司令部顧問」に就任し ている。そこで彼が具体的に何をしていたのかは、現在 のところわからないが、一九四九年一一月からは「連合 軍 総 司 令 部 外 交 局」 に も 勤 務 す る よ う に な っ た (38)。 追 放 したにもかかわらず、GHQは金子を重用していたよう に見える。 この点について、金子は次のように回想している。 司 令 部 が ぼ く を パ ー ジ し て お い て、 今 度 は ぼ く を 雇っている。あれは係が違うから構わないと言うん で す(笑) 。 ぼ く は 司 令 部 の ポ ー ル・ ラ ッ シ ュ の と ころへ行ったの。そうしたら、おまえはみんなから いろんなことを言いつけられた。一説に依ると高松 先生とか菅先生等が司令部に働きかけてパージを実 現させたとのことです (39)。 GHQにも出入りできるという経歴がものを言ったの か、金子については縣康とほぼ同じ一九四五年一一月か ら、 C I C 四 四 一 支 隊 首 都 八 〇 班 が 金 子 の 再 審 査 を 行 なっていた。だが縣とは異なり、一九四六年五月一〇日 に 以 前 の 教 職 の 地 位 に 戻 る の は 好 ま し く な い と 報 告 し た (40)。 そ の 具 体 的 な 理 由 は よ く 分 ら な い。 た だ、 縣 の 回 想の中に次のような一節がある。 私とほぼ同じ頃に指令取消を申請したある人につい て、ラッシュ氏は「彼は立教を卒業し、聖公会の援 助のもとにアメリカに留学した。しかるに、この信 仰の危機に臨んで、何ら立教のために積極的擁護を していない。だから彼の解除の申請は受け付けられ ない」と私に漏らした (41) 縣は金子とは明言していない。だが再審査の時期やア メリカへの留学経験など、前後の状況からその可能性は 低くはない。 と は い え、 戦 時 中 の 具 体 的 な 行 動 に つ い て は、 人 によって見解が食い違うことも多く、その評価は容易では な い。 ま た 後 で 見 る よ う に、 他 の 関 係 者 の 再 審 査 に あ たっては、教育や宗教を取り扱うCIE、ポール・ラッ シュの所属していたCICといったGHQ内部の各セク シ ョ ン、 さ ら に は 立 教 大 学 の 思 惑 が 複 雑 に 関 わ っ て お り、単純に評価することはできない。 いずれにせよ、金子の追放解除は一九五二年になって からのことになった。追放解除後の金子は、一九五三年 四 月 立 教 大 学 文 学 部 講 師 と し て 立 教 に 復 帰 す る と と も に、 一 九 五 三 年 一 〇 月 に は 立 教 大 学 文 学 部 教 授 と な り、 一九六六年三月に定年で退職している (42)。 (2)小沢淳男(学生主事) 小沢淳男は一九〇二年生まれ、一九二七年立教大学文 学部哲学科を卒業後、文学部助手を経て一九三二年に予 科教授、一九三八年からは文学部教授を兼ねるようにな り、 論 理 学 の 授 業 を 担 当 し て い た (43)。 さ ら に 一 九 四 四 年 には立教大学学生部主事、報国団主事となり、学生の生 活指導にも大きな影響力を持つようになった。 戦時中の彼の行動については、卒業生と結託して学校 からのキリスト教の追放を主張したなどとして、辻荘一 は 名 指 し で 非 難 し て い る (44)。 ま た 縣 康 も 同 様 の 証 言 を し ているが (45)、実際のところはよくわからない。 た だ 、 一 九 四 二年 九 月 に は 、 阿 部 三 郎 太 郎 の 強 い 影 響 下 に あ っ た ボ ク シ ン グ 部の 学 生 か ら 襲 撃 さ れ た 「 学 生 暴 行 事 件 」 の 当 事 者 と さ れ る な ど 、 当 時 の 学 内 に おける 対 立 構 造 の 渦 中 に い た こ と は 確 か な よ う だ 。「 細 入 メ モ 」 によ れ ば 、 小 沢 は 宮 崎 伊 佐 夫 とと も に 、 辻 荘 一 ら と 激 し く 対 立 し て い た と さ れ て い る (46)。 小 沢 と 対 立 し て い た 辻 の 証 言 は 、 必 ず し も 信 頼 で き る も の で は な い が 、 一 九 五 二 年 ま で 小 沢 の 追 放 が 解 除 さ れ る こ と は な か っ た 。 小沢はその後も立教に復職することはなく、秋田短期 大学の創立に参画するとともに、その教授となった。秋 田 短 期 大 学 は そ の 後 秋 田 経 済 大 学 に 改 組 さ れ た が、 一九八二年に退職するまでそこで教鞭をとった (47)。 (3)柴田亮(学生主事) 一 九 〇 二 年 生 ま れ の 柴 田 亮 は (48)、 立 教 大 学 文 学 部 史 学 科在学中から「秀才の誉」が高く、一九二八年に卒業後 は、予科長であった小林秀雄の推薦でただちに予科教授 に 就 任 し た (49)。 卒 業 論 文 の 題 目 が「尾 張 美 濃 に お け る ヤ ソ教について」であったことからもわかるように、キリ シタンを研究対象としていた。 戦 時 中 は 小 沢 ら と と も に、 学 生 主 事 を 務 め て い た。 「細 入 メ モ」 に よ れ ば、 柴 田 も 小 沢 淳 男 や 宮 崎 伊 佐 夫 と と も に、 辻 荘 一 ら と 対 立 す る な ど (50)、 学 内 で の 対 立 構 造
の一翼を担っていたとされる。彼の場合も一九五二年に なるまで追放は解除されることなく、その後も立教に復 職することはなかったが、戦後もキリシタン関係の論文 を発表するなど、研究は続けていたようだ (51)。 (4)和田正俊(教務課長) 立教大学出身であった小沢や柴田と異なり、和田正俊 は一九二八年に東京帝国大学文学部支那哲学科を卒業し た人物であった。卒業後は立教大学予科教授となり、漢 文 の 授 業 を 担 当 し て い た (52)。 ま た 教 務 課 長 を 務 め る な ど、学生部関係者が多くを占めていた他の人々とは、多 少プロフィールが異なっている。一九四五年一〇月の追 放 指 令 に 名 前 が 含 ま れ て い る が、 「細 入 メ モ」 に も 名 前 が登場しないなど、戦時中における具体的な行動や人間 関係はよく分らない。和田の場合も一九五二年まで追放 は解除されず、立教にも戻ることはなかった。戦後の和 田の具体的な経歴はよく分らないが、一九七〇年代でも 文筆活動を続けていたことは確認できる (53)。
5、追放解除と復職をめぐって
こ こ ま で 見 て き た 三 名 が 、 な ぜ 追 放 が 解 除 さ れ な か っ た の か は よ く 分 ら な い が 、 少 な く と も 、 G H Q が そ の 可 否 に つ い て 、 そ れ ほ ど 深 く 追 究 し た こ と は 確 認 で き な い 。 だが、追放解除の是非をめぐって、さまざまな意見が 噴出し、数多くの調査が行われた場合もある。それがこ れから見る武藤安雄と阿部三郎太郎のケースである。 (1)武藤安雄(図書館長) ・武藤安雄の人物像 まず武藤安雄から見ていこう。 一八八九年に福島県に生まれた武藤は、福島県立会津 中学校を経て立教中学校に転校し、一九〇七年に卒業し て い る (54)。 後 に 立 教 中 学 校 長 や 立 教 大 学 文 学 部 長 を 務 め た 小 島 茂 雄 と は、 立 教 中 学 校 時 代 に 同 級 生 で あ っ た (55)。 武藤はその後早稲田大学英文科を経て東京帝国大学英文 科選科で学んだ後、立教中学校、立教大学で教えるよう になった。立教に勤めるようになってからも「小島茂雄 先生と大の仲良し」で、一緒に新宿の小劇場に浪花節を 聴 き に 行 っ た り、 家 で 将 棋 を 指 し て 過 ご す よ う な 間 柄 だ っ た と い う (56)。 小 島 は、 一 九 三 六 年 の い わ ゆ る「学 歴 詐称」事件で立教を追われるが、その後、事実上小島の 勢力を受け継いだのが武藤であった (57)。 武藤は中学校では寄宿舎の舎監、大学ではバスケット ボール部の部長を長く務めるなど、学生生徒の生活にも 深く関わっていた。一応専門は英語であったが、研究者というよりは教育者としての性格が強い人物であった。 武藤は一九六四年に死去するが、その一周忌に際して 教え子や同僚が中心になって追悼文集を編んでいること か ら も、 人 望 を 集 め る 人 物 だ っ た こ と は 確 か だ ろ う。 「学 生 か ら 親 し ま れ た こ と は 事 実 で あ る が、 親 し ま れ 過 ぎ、 余 り に「う ち の お や じ」 扱 い さ れ 過 ぎ (58)」(松 下 正 寿)という評があるほど、立教での生活に入れ込んでい た人物であった。 戦 時 中 に は、 学 徒 出 陣 す る 学 生 を「何 た る 名 誉 ぞ や、 何たる光栄ぞや、さらば往け、学徒諸君、往け」といっ た 言 葉 で 送 り (59)、 日 の 丸 に「武 運 長 久」 「祈 必 勝」 の 文 字 を 積 極 的 に 書 き 込 ん で い っ た と い う (60)。 こ う し た 行 な い は 後 世 か ら み る と、 戦 地 に 赴 く「学 生 の 深 刻 な 悩 み」 を 察 す る こ と の な い 無 神 経 な 姿 勢 (61)、 と 非 難 さ れ て も 仕 方がないところはある。 だ が 一 方 で は、 「熱 心 な 信 仰 者 で い ら っ し ゃ っ た だ け に、太平洋戦争中の御苦労は言語に絶するものがあった と 聞 い て 居 る」 と か、 「立 大 が 使 命 と し て い る も の と、 国が押し付けたものを終戦時まで苦労して調和の状態に 持 ち 続 け た (62)」、 さ ら に は「戦 時 中 学 院 チ ャ ペ ル が 破 壊 さ れ た 時、 そ の 形 骸 を 見 て 思 わ ず 歎 声 を も ら さ れ た (63)」 といったように、戦中においてもキリスト教を守ること には腐心したという証言もある。武藤が戦時中にどのよ うなふるまいをしていたのかは、今一つわからないこと もあるが、戦争遂行に積極的に協力したことと、キリス ト教の信仰を守ったことは、実態としては十分両立する ことであった。 ・武藤の再審査 も ち ろ ん 武 藤 は 、 追 放 は 不 当 であ り 「 早 く 濡 衣 を 脱 い で 、 も う 一 度 立 教 の 教 壇 に 立 ち 度 い (64)」 と 考 え て い た よ う だ が 、 追 放 直 後 に は そ の 望 み が か な う こ と は な か っ た 。 事態が動き始めたのは一九四六年四月六日に聖公会の 神 父 桜 井 健 が ポ ー ル・ ラ ッ シ ュ に 書 簡 を 送 っ て か ら で あった。栃木県の小山修道院にいた桜井は、以前から武 藤と親しかったようだ (65)。 桜井は、戦時中におけるチャペルへの冒涜行為につい て、興味深い噂を耳にしたという。それは、配属将校飯 島信之大佐が反キリスト教運動を主導しており、彼の命 令によってチャペルを破壊したものだというものであっ た。 だが、それは事実ではないと桜井は指摘する。 飯島大佐はキリスト教徒ではなかったが、多くの軍 国主義者と同じようにキリスト教に反対していたわ け で は な い。 彼 は 正 義 の 人 で あ り、 不 義 を 憎 ん だ。 彼の直情径行な性格は、多くの大学関係者から嫌わ れた。だが立教は、彼が極端な国家主義者からの攻
撃 に 対 し て 戦 っ た こ と に 感 謝 し な け れ ば な ら な い。 彼はチャペルに一歩も足を踏み入れたことはなかっ たが、そこが神社や寺と同じように神聖な場所であ ることは理解していたのである (66)。 後で触れるように、飯島は多くの立教関係者が口を極 め て 罵 る 評 判 の 悪 い 配 属 将 校 で あ り、 こ う し た 評 価 を 知っていると、にわかには信じがたい内容だ。戦時中桜 井は、栃木県小山町の修道院で生活していたので、こう した当時の立教内部の状況についての観察や主張は、武 藤自身によるものだと見ていいだろう。 さらに六月七日には武藤安雄自身もCIE局長に書簡 を 送 っ て い る。 武 藤 は こ こ で 書 簡 を 送 る の は ポ ー ル・ ラッシュの示唆によるものだとした上で、CIEに追放 の解除と大学への復職を直接要求した。彼は、自分が戦 時中に大学図書館長を務めていたことは確かだが、欧米 の大学におけるそれとは異なり、当時の立教では大学の 行政に直接責任を持つ立場ではなかったことを主張する とともに、戦時中の自らの処し方については、ここでは 詳しく触れず小山修道院の桜井神父が証言してくれるは ずだと述べている (67)。 こ う し た 一 連 の 要 求 を 受 け て 一 九 四 六 年 六 月 一 四 日、 CISはCIEの依頼に基づき、CIC第四四一支隊に 武 藤 の 再 調 査 を 実 施 す る よ う 指 示 し た。 そ の 際、 「信 頼 で き る」 参 考 資 料 と し て、 「細 入 メ モ」 が 渡 さ れ て い る (68)。 そ こ に は 戦 時 中 の 立 教 に お け る 派 閥 対 立 が 具 体 的 に描かれていた (69)。 「細 入 メ モ」 に よ り、 G H Q が 戦 時 中 の 立 教 内 部 の 対 立構造をはっきりと認識したことは、武藤とその他の関 係者の再審査を進める上で、大きな影響があった。 こうした状況のもとで東京を担当するCIC第二五地 区 本 部 (70) が 武 藤 に つ い て の 調 査 を 進 め 始 め た の は、 一九四六年九月ごろであった。 C I C の 特 殊 諜 報 員 四 八 四 八 が 最 初 に 接 触 し た の が、 学 院 チ ャ プ レ ン 竹 田 鉄 三 だ っ た (71)。 イ ン タ ビ ュ ー は 九 月 九日に行われたが、その際竹田は、武藤は戦争が始まる とすぐに、完全に態度を変えた。宗教的な態度を順守し なくなっただけでなく、戦時中、反キリスト教主義に転 じたなどと主張した (72)。 竹田は戦時中の武藤の身の処し方については、かなり 厳しい見方をしていた。だが竹田はその一方で次のよう にも続ける。 武藤が飯島と突然仲良くなったのは、あくまでも表面 的なものだったのだろう。なぜなら武藤は、私に深い宗 教 的 信 条 を 誓 っ て い た か ら だ。 武 藤 が 宗 教 的 な 抑 圧 や チャペルへの冒涜に関わっていたとは信じがたい。全体 と し て 見 れ ば、 武 藤 は 誠 実 か つ 公 正 で、 良 心 的 な 人 物
だ。ただ悔い改めのためにも、もう少し学校から離れて いる時間を延長してもいいのではないかと付け加えた。 竹 田 は、 戦 時 中 に お け る 武 藤 の 振 る 舞 い に つ い て は、 決してほめられたものではないとしつつも、基本的には 追放の容疑については否定した。 翌一〇日にも、佐々木順三、沢田文雄、田中シンキチ という三人の人物のもとを訪れている。佐々木は言うま でもなく、当時の総長だが、彼は武藤については、佐々 木が立教に来てからのことしか知らないとして、コメン トを避けた。 一方事務職員である沢田と田中は、学生時代から武藤 に親しく接していた。彼らは、武藤は忠実なクリスチャ ン で あ り、 宗 教 に 対 す る 犯 罪 に 関 わ っ た と は 信 じ が た い。武藤は戦時中に配属将校を務めた飯島大佐と親密な 関係にあったことは、彼の学内における評判を悪くする 影響があったかもしれないが、武藤はただ大学に対する 飯島の極端な行動を和らげたかっただけだ、などと武藤 を強く弁護した。 その上でさらに次のように続けたという。 武 藤 は、 前 学 生 主 事 阿 部 三 郎 太 郎 と 個 人 的 な 確 執 が あったにもかかわらず、同僚たちから好かれていた。そ して武藤が軍国主義や国家主義、反キリスト教主義的な 発言をしているのを見たことがない。 こうした沢田や田中の証言からは、武藤の卒業生に対 する影響力の強さを見ることができる。また武藤が阿部 三郎太郎と深刻な対立を抱えていたことを認めているこ とにも注目したい。 立 教 関 係 者 へ の 聞 き 取 り は 連 日 続 い た。 特 殊 諜 報 員 四八四八は、翌一一日には柴田亮の自宅を訪れ、その話 を聞いている。すでに触れたように、柴田は戦時中予科 教員を務め、一九四五年一〇月に追放された一一名の一 人である。 柴 田 は、 戦 時 中 武 藤 と 同 僚 だ っ た が、 「学 校 の 方 針 が 変 更 に な っ た 時」 、 つ ま り 寄 附 行 為 か ら キ リ ス ト 教 主 義 を削除した時には、自分も武藤もこうした決定に関与し 得るような責任ある地位にいたわけではない。責任があ る と す れ ば 財 団 法 人 の 理 事 長 で あ っ た 松 崎 半 三 郎 こ そ、 その当事者であると主張した。またその上で、戦時中に 武藤が反キリスト教的な言動をするのを聞いたことがな いとも付け加えた。 特殊諜報員四八四八の関係者への聞き取りはさらに続 き、九月一二日には藤原守胤(アメリカ研究所所長)と 根岸由太郎(文学部教授)から話を聞いている。藤原は 武藤が研究所の図書を利用するために頻繁に訪れていた ことから接触があり、根岸は、築地時代の立教から四〇 年来の親交があったという。
この二人も、武藤が大学の意思決定に関与できるよう な 存 在 で は な く、 大 学 の 一 般 の 教 員 以 上 の 存 在 で は な かったと述べた。また、武藤が青山三一教会の熱心な教 会員であり、常々反軍国主義的な姿勢を持っていたと断 言した。ただ、武藤は配属将校であった飯島大佐と親し かったのも認めている。しかしそれはあくまで個人的な 関係に止まるものであったとも付け加えた。 特殊諜報員四八四八は、さらに続けて同じ日に財団法 人 立 教 学 院 理 事 長 松 崎 半 三 郎 に も 会 っ て い る。 松 崎 は、 古くから武藤のことは知っているが、あくまでも公式上 の関係に止まるものだったとした上で、次のように述べ た。 武藤は、ずっと敬虔なクリスチャンとして知られてい たし、宗教的な儀式にもほとんど出席していた。そうし た 宗 教 的 な 観 点 か ら す る と、 彼 を 宗 教 的 な 弾 圧 や 大 学 チャペルの閉鎖に関わったという理由で辞職させること はできなかったが、同時に過去の記録は、武藤がこれ以 上大学にいることは望ましくないということを示してい る。 だ か ら 武 藤 を 大 学 か ら 追 放 し た こ と は 適 切 だ っ た。 それはチャペルへの蛮行に参加したからではなく、大学 の評価を下げる行いを継続的に行なったからだ。 松崎は財団法人の理事長であり、経営に関する最高責 任者の地位にあった。その松崎が、武藤が戦時中におい ても反キリスト教的行為にも関わらなかったということ を知りつつも、なお武藤が立教に戻ることを望んでいな かったのである。 特殊諜報員四八四八は、さらに図書館司書津久井安男 にも、同じ日にインタビューしている。 津 久 井 も、 武 藤 が 戦 時 中 も 基 本 的 に は 敬 虔 な ク リ ス チャンであったことは認めた。ただ同時にチャペルが閉 鎖されたり破壊された時に、なぜ武藤が反対しなかった のかという疑問を抱いていた。また津久井は、飯島が学 内のキリスト教をかく乱しようという意図を持っていた のに、武藤は飯島と仲良くし続けたとも指摘した。 特殊諜報員四八四八は、こうして関係者への聞き取り を入念に済ませた上で九月一七日、ついに武藤自身に対 するインタビューに踏み切った。 武 藤 は 自 ら の キ ャ リ ア に つ い て 簡 単 に 振 り 返 っ た 後、 戦時中のことについて次のように語った。 一九四四年図書館長に就任すると、飯島大佐と知り合 うようになった。そうして歴史や哲学、宗教についての 本を読むために図書館を頻繁に訪れるようになった飯島 に魅了されるようになった。こうして武藤は飯島と親密 な関係となり、時には一緒に歩くこともあった。また飯 島は、チャペルから持ち去られた椅子を取り戻そうとし たりするなど、実際には宗教には気を使っており、むし
ろ そ う し た 行 動 に 対 し て 責 任 を 感 じ て 切 歯 扼 腕 し て い た、という。武藤は、自分の名前がパージリストに入っ ていたのは、まったく理解しがたいと主張した。 武藤は、戦時中に飯島大佐と親交があったことを認め たが、その姿勢は特殊諜報員四八四八には、苦しい言い 訳に聞えたようだ。彼は報告書に次のようなコメントを 付け、武藤への不信感をあらわにしている。 インタビューを実施したうち何人かは、武藤への個 人的な嫌悪感を示し、武藤のディフェンシブな発言 に対する反対を強調した。飯島に関する武藤の証言 は、他の全ての対象者とは対照的であり、武藤の証 言の信憑性に疑問を投げかけたのである。 こうした特殊諜報員の個人的印象とは別に、調査の過 程では戦時中の武藤が、反キリスト教活動に従事したと いう明確な証拠が出てこなかったことも確かだ。 これを受けて、九月二六日CICの管理官ノーマン大 尉は、次のように報告書をまとめた。 調査は、武藤が立教に在職中、深く宗教的で教会の柱 であるという評判を得ていたが、同時に機会主義者であ り、 意 地 悪 な 性 格 の 持 主 だ と い う こ と も 明 ら か に し た。 インタビューの際に関係者は口を揃えて、武藤は追放の 理由になるような「信教の自由の侵害」とは何の関係も なかったと証言した。武藤の唯一の過失は、配属将校飯 島大佐と親しくしていたことだが、学校の方針に影響を 与えるようなものではなかったように見える。さらに言 えば、学校の方針に影響を与えるような責任ある地位に 就 い て い た わ け で も な い。 恐 ら く 武 藤 が 追 放 さ れ た の は、手のひらを返すような、嫌らしい身のふるまい方の 結果である。だから、元の責任のない地位に復職させる べきだ。 C I C の 報 告 を 受 け て 、 教 職 追 放 を 直 接 所 管 す る C I E は一九四六年一一月二〇日、武藤に関して追放に該当す る よ う な 証 拠 は 確 認 で き な か っ た と 結 論 づ け た (73)。 こ う し て 一 九 四 七 年 一 月 二 七 日 に 武 藤 安 雄 は 追 放 を 解 除 さ れ、立教大学に復職することになったのである (74)。 ・配属将校飯島信之 武藤の追放にあたっては、配属将校であった飯島信之 大佐との関係が強く影響していたことは明らかだ。飯島 は、 多 く の 立 教 関 係 者 が「鬼 の 配 属 将 校 (75)」 と か「狂 的 愛 国 主 義 者 (76)」 と 評 す る よ う な フ ァ ナ テ ィ ッ ク な 軍 国 主 義者であり、文学部の学生を「文弱部」と呼んで目の敵 に し た 人 物 だ っ た と さ れ る (77)。 こ う し て 伝 え ら れ て き た 飯島像からすると、およそ学術や文化に理解があったと は思えない。 ところが武藤が自ら語るところによると、飯島と親交 を持つようになったのは、一九四四年に武藤が図書館長
をしている時に、飯島が歴史や哲学、宗教についての本 を読むために図書館を頻繁に訪れるようになったことが きっかけだったとしている。 一般に流布されている飯島のイメージと、図書館で読 書や思索にふけるような行動の間には大きな落差がある が、武藤は追放を逃れるために苦し紛れに適当なことを 吹聴していただけなのだろうか。 実は当時の立教関係者にも、一般的なイメージとは異 なった飯島の一面を見た人物もいる。 当時、経済学部の学生であった菅井勇造(戦後、桃山 学 院 大 学 教 授) は、 「欧 米 憎 悪 に は 狂 信 的 な も の が あ っ た」とか、 「感覚は時代離れしたものであった」などと、 大 方 の 飯 島 像 を 裏 書 き す る よ う な こ と を 述 べ る 一 方 で、 次のように飯島の自宅を訪問した時のことを回想してい る。 軍服を脱いでしまえば、自宅での飯島大佐は礼儀正 しい人であった。謹厳な頑固じいさんという感じで はあったが、懲罰というようなことではなく、鄭重 に接待してくれた。書斎の三方は書棚で囲まれてい た。吉田松陰や山 家 (鹿) 素行の著書が大半であった。そ れに日本精神論の書籍が多数あった。この書斎の雰 囲気から、この人は日本精神の研究をしている学者 かもしれない?と思った (78)。 菅井は、飯島に「頑固じいさん」であるとともに、非 常な読書家としての一面を見ていたのである。また予科 生 で あ っ た 緑 川 亨(戦 後、 岩 波 書 店 社 長) も、 飯 島 が ポール・ヴァレリーの詩をフランス語で諳んじていたこ とを記憶している (79)。 飯 島 信 之 は、 一 八 八 六 年 に 広 島 で 生 ま れ て い る (80)。 父 浦太郎は梅坪と号し、大阪師範学校で学んだ後、長年岡 山 師 範 学 校 で 教 鞭 を と っ た 漢 学 者 で あ っ た (81)。 信 之 自 身 も 漢 学 に 造 詣 が 深 く、 趣 味 で 漢 詩 を 詠 む よ う な 環 境 で 育っていた。 こ う し た 背 景 を 持 つ 飯 島 が 、「漢 学 の 素 養 も 浅 か ら ず (82)」 とされた武藤安雄と、大学図書館で互いに親交を深めた としても、必ずしも不自然とは言えない。武藤が飯島に 接近した意図は、そう単純なものではなかったのかもし れないが、少なくとも苦し紛れの出まかせだったわけで はないようだ。 いずれにせよ飯島は、配属将校として戦時中の立教大 学の動向に大きな関わりがあったことは確かだ。GHQ も戦時中の立教における一連の反キリスト教的な事件に 飯島に責任があったものとみなし、立教関係者を追放す るよりも前の一九四五年一〇月二二日、日本政府に飯島 の 逮 捕 と 大 森 収 容 所 へ の 移 送 を 指 示 し て い た (83)。 だ が 飯 島はすでに健康を害しており、東京第一陸軍病院で一一
月 一 三 日 に 死 去 し た (84)。 結 局、 戦 時 下 の 立 教 に つ い て は 一言も語ることなく世を去ったのである。戦時中に「何 と な く や か ま し (85)」 か っ た 飯 島 が、 多 く の 立 教 関 係 者 か ら忌み嫌われていたことは確かだが、戦後は「死人に口 な し」 、 ど れ ほ ど 責 任 を 押 し 付 け て も 実 害 の な い 便 利 な 存在になったとも言えよう。 (2)阿部三郎太郎(学生主事) ・阿部の人物像 次に阿部三郎太郎のケースを見てみよう。一八九三年 生まれの阿部は、一九二四年に東北帝国大学理学部物理 学 科 を 卒 業 し、 一 九 二 七 年 に 立 教 大 学 予 科 に 着 任 し た。 一九二九年には水泳部長にも就任している。一九三三年 には自ら三万円の借金をして大学にプールを建設し、多 くの部員をベルリンオリンピックに出場させることに努 力 す る な ど、 「水 泳 立 教 の 恩 人」 で あ り「熱 心 な ク リ ス チ ャ ン で 人 格 者 と し て」 知 ら れ て い た (86)。 専 門 は 数 学 だ が、やはり武藤と同じように研究者というより、教育者 としての性格が強い人物だったようだ。 それだけに、一九三〇年代に激しくなってきた学内で の 勢 力 争 い に も 深 く 関 わ る よ う に な っ て い っ た よ う だ。 「細 入 メ モ」 で は、 経 済 学 部 長 だ っ た 河 西 太 一 郎 と 親 し く、 武 藤 安 雄 ら と は 激 し く 対 立 し て い た と さ れ て い る。 後で触れるように、戦後になって河西は、GHQに阿部 を擁護する書簡を提出している。 阿部がCIEに書簡を送り、自ら再審査と追放解除を 訴えるようになったのは、一九四七年五月一六日のこと だった。この中で阿部は次のように自らの事情を説明し ている。 戦 時 中、 決 定 に 関 与 で き る 地 位 に あ っ た わ け で は な く、 総 長 で あ っ た 遠 山 郁 三、 三 辺 金 蔵 や 学 監 帆 足 秀 三 郎 の指示に従うほかなかった。キリスト教色の払拭に努め たどころか、軍国主義の犠牲者だった。戦時中も敬虔な ク リ ス チ ャ ン で あ っ た こ と は、 須 貝 止(日 本 聖 公 会 主 教) 、 蒔 田 誠(日 本 聖 公 会 主 教) 、 遠 山 郁 三(元 学 長) 、 三辺金蔵(元総長) 、帆足秀三郎(元学監) 、河西太一郎 (元 経 済 学 部 長) ら が 保 障 し て く れ て い る。 一 九 四 四 年 のチャペル破壊は私のまったくあずかり知らないところ で起こった事件だ (87)。 阿部はこのように戦時中の容疑がかけられている問題 について反論し、身の潔白を主張した。阿部自身による 弁明だけでなく、須貝、蒔田、帆足、河西ら、聖公会お よび立教大学の主要人物が阿部を擁護する書簡も同時に 提出されている。なお、ここに挙がっている人物の多く は、 他 の 被 追 放 者 の 弁 護 の 際 に も 書 簡 を 提 出 し て い る が、河西太一郎は阿部以外の人物を擁護していることは
確認できない。河西と阿部の関係の深さをうかがうこと ができる。 ・阿部の再審査 これらの状況を受けて、GHQは阿部の再審査を決定 した。ところが、一一月一四日、財団法人立教学院理事 長松崎半三郎と立教大学総長佐々木順三という、立教の 両首脳が連名で書簡を送ってきた。松崎と佐々木は主に 次 の よ う な 理 由 か ら 阿 部 の 復 職 に 否 定 的 な 見 解 を 述 べ た (88)。 阿部は、戦時中キリスト教徒としての立場を守ること が で き ず、 宗 教 活 動 を 放 棄 す る こ と に 血 道 を 上 げ て い た。阿部は、その党派的活動によって大学の管理に影響 を及ぼし、それまで長年にわたって築いてきた大学の伝 統を破壊し、国家主義的な雰囲気が主流となった。危機 の数年間、学生課長としてその影響力を立教の基本的な 要素を破壊することに力を注ぐ方が、阿部にとって容易 な選択であった。GHQが一一人のリストに阿部を入れ たことは正しい判断であったし、同様の理由で我々は阿 部が復職することを望んでいない。立教大学の再生と復 興のためにはふさわしくない人物だ。 松 崎 と 佐 々 木 と い う 立 教 の 経 営・ 教 学 上 の ト ッ プ が 揃って、阿部の復職に対して拒否反応を示した。それは 主に阿部の「党派的活動」を問題視したものだった。 こうした告発にもかかわらず、GHQは戦時中の阿部 の行動について、軍国主義的かつ反キリスト教的行動を し た と い う 具 体 的 な 証 拠 を 見 つ け る こ と は で き な か っ た。阿部を擁護する多くの関係者の書簡が揃って指摘す る よ う に、 戦 時 中 の 阿 部 は む し ろ 軍 国 主 義 に 否 定 的 で、 キリスト教徒としての信仰を守ったという証言が多かっ たのである。 とすれば、現在の立教の首脳部が阿部の復職に反対す る の は、 別 の 問 題 を 懸 念 し て い た こ と に な る。 つ ま り、 「細 入 メ モ」 を は じ め と す る さ ま ざ ま な 史 料 が 示 し て き たように、学内における対立構造の当事者であったこと を問題視していたのである。 もちろん、立教の首脳部が、被追放者の復職に反対し たのは、阿部が初めてだったわけではない。先にも触れ たように、辻荘一の際にも、ポール・ラッシュは松崎ら が辻の復職に否定的だったと述べていたし、武藤の際に も、松崎が復職に反対する書簡を出している。だが、経 営上と教学上のトップが揃って直接反対するという事態 は初めてだった。 阿 部 の 調 査 に あ た っ て い た G 2 は、 一 一 月 二 二 日 に CIEに対して次のような意見を出している。 阿部に関する過去の記録から判断する限り、われわ れは、彼が大学の再出発にとって障害になる人物だ
とみなさざるを得ない。われわれはこれ以上の混乱 ではなく、平和と統合を望んでいるのだ (89)。 「細 入 メ モ」 な ど に よ っ て、 戦 時 中 の 立 教 に お け る 対 立構造について、かなり詳しく知るようになったGHQ は、立教の内部事情に配慮せざるを得ないと考えるよう になっていたのである。 教職追放を直接所管するCIEは、基本的には信教の 自由の侵害があったかどうかが問題であり、それ以外の 要 素 が 入 る べ き で は な い と い う 立 場 を 取 り (90)、 戦 時 中 の 阿部の行動に関しては、縣、武藤、辻と似たようなケー ス、つまり軍国主義に積極的に加担した証拠はないと判 断 し て い た が (91)、 同 時 に こ う し た 立 教 の 学 内 状 況 に も 配 慮せざるを得ないようになっていった。 一九四七年一一月二九日のCIEの報告書は「立教の 総長による純然たる学内行政を制限してはならない」と して、次の三つの選択肢を取ることを提案している (92)。 A案 阿部を元の地位に戻す必要はないという声明 を出すという方法。 復職の際に、阿部は元の地位に留まること は要求されないという声明を出す。 この計画は、総長の現在の計画に対する不 幸な干渉をうまく防止することができる。 B案 地位を維持する必要はないことを総長に非公 式に知らせるという方法。 C案 立教以外の教育機関のどこかに職を与えると いう方法。 CIEが選択したのは、さらに将来における困難を未 然 に 防 ぐ に は、 B 案 つ ま り、 阿 部 が 復 職 し た と し て も、 それを維持するかどうかは立教側の判断に委ねるという ものであった。具体的には、阿部は公式には三〇日以内 に 大 学 に 復 職 す る が、 そ の 後 そ れ を 維 持 す る か ど う か は、内部の問題として大学当局に委ねられることを示唆 したようだ (93)。 こうしてGHQは一九四八年一月一四日に阿部三郎太 郎の追放を解除するとともに、立教大学への復職を命ず る 指 令 を 発 し た (94)。 だ が 実 態 と し て は、 阿 部 は 二 月 一 三 日 付 で い っ た ん 立 教 大 学 に 復 職 し た に も か か わ ら ず、 「病 気」 で 職 務 が 執 れ な い 状 態 と な っ た と さ れ て い る (95)。 その後の詳しい経緯は不明だが、結局阿部が立教大学に 戻ることはなかった。 予科で同僚であった縣康は、阿部との関係について次 のように述べている。 水泳部を育てた部長は数学の教授阿部三郎太郎氏で あ る。 し か し 同 氏 は、 終 戦 直 後 の、 例 の マ ッ カ ー サー指令で追放になり、厳格に一切の教育機関への 出入りも禁じられてしまった。私も一緒に追放され
たのだが、幸いにして私は他の人達よりも早く追放 解除になった。懇意な阿部氏からも懇請されて、そ の後任を仰せつかったのであった (96)。 縣 は、 「キ リ ス ト 教 な ど 立 教 に 用 は な い、 と 放 言 し た 某学部長がいた。また、天皇は神である、と力説する教 授もいた。 「あら人神」の「上御一人に帰し奉ればよい」 な ど と 言 っ て い た 哲 学 者 だ の フ ラ ン ス 文 学 者 だ の も い た (97)」 と し て、 戦 時 中 時 局 に 迎 合 し た り、 軍 国 主 義 的 な 行動をとった人物に対する敵意を示しているが、少なく とも阿部に対してはこうした感情を抱いてはおらず、戦 後も親交があったことがわかる。 また、水泳部の出身者のひとりは阿部が「敬虔なクリ スチャン」であり、戦後追放となって駒込に隠棲した後 も、常に教え子のことを気にかけていたことを回想して いる (98)。 ・経済学部長河西太一郎 阿部の復職を後押しようとした人物の一人に、戦時中 に経済学部長であった河西太一郎がいたことは先に触れ た。追放された立教の教職員の中で河西が復職のために 動いたことが確認できるのは、この一例だけである。河 西と阿部は戦時中関係が深く、先に出てきた武藤安雄な どと激しい対立を繰り広げたとされることは、本稿でた びたび触れてきた。 一 八 九 五 年 生 ま れ の 河 西 は、 東 京 帝 国 大 学 法 学 部 を 一 九 二 〇 年 に 卒 業 後、 大 原 社 会 問 題 研 究 所 を 経 て、 一九二三年から立教大学教授を務めていた。東大在学中 は、新人会の創設に参画するなど社会運動に関わるとと もに、卒業後は農業問題の専門家としていくつかの著書 を発表していた (99)。 河 西 は 一 九 四 一 年 五 月 に 経 済 学 部 長 に 就 任 し た が、 一 九 四 三 年 七 月 に 大 学 を 辞 職 し て い る (100)。 河 西 は 経 済 学 部 教 授 で あ っ た 田 辺 忠 男 ら と 学 内 で 激 し く 対 立 し て い た。これは彼が当時左翼的立場を取っていたという側面 も あ っ た が (101)、 そ れ 以 上 に 一 九 三 〇 年 代 か ら 顕 在 化 し て きたより広範囲な学内対立を背景としていた。河西は山 下英夫といった経済学部の教員だけでなく、辻や阿部と いった予科の教員をも自らの勢力に取り込んでいた。こ うして予科教員らも巻き込んだ対立は、一九四二年後半 には激しさを増していた。すでに触れたように「学生暴 行」事件なども発生するなど、抜き差しならない状況に 陥 っ て い た (102)。「細 入 メ モ」 に よ る と、 一 九 四 三 年 に 赴 任した三辺金蔵の最初の大きな仕事が、河西や田辺を大 学 か ら 一 掃 す る こ と で あ っ た と い う (103)。 実 際、 一 九 四 三 年 に は 河 西 だ け で な く、 田 辺 忠 男(経 済 学 部 教 授) 、 松 下正寿(経済学部教授)といった人々が相次いで大学を 去っている。CIE資料によれば、学校側は河西の辞職
理 由 を「転 職 の た め」 と の み 説 明 し て お り (104)、 具 体 的 な 経緯は記していない。 なお、この間立教学院および立教大学では、寄附行為 や 学 則 か ら キ リ ス ト 教 に 関 す る 文 言 を 削 除 す る 変 更 を 行 っ て い る が、 学 長 で あ っ た 遠 山 郁 三 の 日 記 に よ る と、 河西は一九四二年九月に学則から「キリスト教主義の文 字 抹 殺 (105)」 を 要 求 す る 発 言 を 行 な っ て い る。 遠 山 は 日 記 に、配属将校や教員、卒業生らからのさまざまな要求や 圧力、時には脅迫を記しているが、キリスト教主義排除 の直接的な要求があったことが確認できるのは、河西に よるものだけだ。 戦 後 、 一 九 四 六 年 一 月 に 立 教 大 学 に 復 職 し て い る が 、 そ の 際に は 学 内 か ら 復 職 に 反 対 す る 声 が 上 が っ た 。 具 体 的 に は 、 学 部 長 代 理 の 須 藤 吉 之 祐 や ア メ リ カ 研 究 所 長 藤 原 守 胤 ら が 、 河 西 が 戦 時 中 に 公 金 を 費 消 し た と し て 、 そ の 復 職 に 反 対 し た と い う 。『 立 教 大 学 経 済 学 部 一 〇 〇 年 史 』 で は 、 そ れ が 「 冤 罪 で あ る こ と が 、 完 璧 に 証 明 さ れ た 」 と し て い る が (106)、 そ の 当 否 は と も か く と し て 、 こ れ ま で 触 れ て き た戦 時 期 か ら 戦 後 に かけ て の 学 内 で の 状 況 を ふ ま え る な ら ば 、 復 職 へ の抵 抗に は 単 に 金 銭 関 係 や 政 治 的 立 場 と い っ た 問 題 だ け で な く 、 学 内 で の 対 立 構 造 や 人 間 関 係 が 大 き く 作 用 し て い た と 考 え る 方 が 自 然 だ ろ う 。 復 職 後 の 河 西 は 一 九 四 六 年 五 月 に 経 済 学 部 長 に 就 任 し、一九五九年まで務めた。その間、一九四七年一二月 には洗礼を受け、トマスというクリスチャンネームを持 つようになった (107)。 一九四八年には、学内で『アカハタ』を頒布したとい う 理 由 で 学 生 を 退 学 処 分 に し た こ と に つ い て、 「真 理・ 自 由 大 い に 結 構、 然 し 本 学 に は 建 学 精 神 が あ る か ら ね、 建学精神に反するものは放校してもやむをえん」などと 言い放ったという (108)。 戦時中のキリスト教抹殺発言にせよ、戦後の建学精神 発言にせよ、いずれも河西が直接述べたり、記したりし たものではない。だが、これらの史料から知ることがで きる範囲では、その時々や場所、立場によって大きく言 動がぶれる、ずいぶん機会主義的な人物だという印象は 免れがたい。 すでに触れたように河西は、東大在学中に新人会で活 動していた。新人会出身者の心性と行動については、古 川江里子が詳細な分析を行っている。彼女は、東大法学 部出身者が一九二〇年代以降、新人会のような社会運動 に積極的に参加するようになった理由を次のように説明 する。明治時代とは異なり、進路として官界にも産業界 にも閉塞感を感じるようになった彼らが、新たな有望な 分 野 と し て 着 目 す る よ う に な っ た か ら だ (109)。 つ ま り 立 身 出世の手段として社会運動にコミットするようになった
の で あ る。 一 見、 脈 略 が な さ そ う に 見 え る 河 西 の 行 動 も、こうした新人会出身者の心性に引きつけて捉えなお すと理解しやすいかもしれない。 なお河西は、その後学校法人立教学院理事長などを歴 任し、一九八六年に死去した際には学院葬を以って送ら れている (110)。 (3)宮崎伊佐夫(学生主事) 阿部と同様に、追放を解除されながらも立教大学に復 職しなかった人物に宮崎伊佐夫がいる。一九〇七年生ま れ の 宮 崎 は 一 九 三 三 年 に 立 教 大 学 文 学 部 英 文 科 を 卒 業 し、 一 九 四 二 年 度 か ら 予 科 の 専 任 教 員 に な っ て い た (111)。 一 九 四 四 年 か ら は 学 生 主 事 も 務 め て い た。 「細 入 メ モ」 では、宮崎は武藤安雄の「子分」として、同窓生である 小沢や柴田らとともに強力な派閥を形成し、辻荘一らと 対立していたとされている (112)。 阿 部 の 再 審 査 が 進 ん で い た 一 九 四 七 年 一 〇 月 二 三 日、 宮 崎 も C I E の ヌ ー ジ ェ ン ト 局 長 に 書 簡 を 送 っ て い る。 この中で宮崎は、戦時中寄附行為や学則の変更に関与で き る よ う な 責 任 あ る 地 位 に 就 い て い た こ と も な け れ ば、 軍国主義や超国家主義に加担したこともないと主張して いる (113)。 こうした論理は、それまでに再審査の対象になった辻 や武藤、阿部などと基本的に共通するものであり、さら に三辺金蔵(前総長) 、八代斌助(日本聖公会主教) 、巽 芳三郎(東京聖愛教会牧師)といった、聖公会や立教の 関係者が宮崎を擁護した。これを受けてCIEは宮崎に ついても再審査を決めた。 調査の結果、CIEは宮崎の場合も縣、辻、武藤、阿 部と似たようなケース、つまり宮崎が戦時中に立教で責 任ある地位にあったわけでもなければ、キリスト教に対 する蛮行に関与した証拠もないと判断していた (114)。 ところが、松崎半三郎理事長と佐々木順三総長は連名 で、宮崎に対しても立教への復職に否定的な見解を示し ていた (115)。 少なくとも追放の容疑となった事項については潔白は 証 明 さ れ た と 考 え た C I E は、 一 九 四 八 年 三 月 二 五 日、 宮崎伊佐夫の教職追放解除と立教大学への復職を指令し た (116)。 だ が、 実 際 に は 阿 部 の 場 合 と 同 じ よ う に、 そ の 後 の取扱いは大学内部の経営問題として、大学側に委ねら れる (117)という対応がとられた。 一九五一年一一月に大学同窓会は、この宮崎伊佐夫の ほか、小沢淳男、柴田亮ら、当時追放になっていた旧教 員 の 立 教 大 学 へ の 復 職 を 要 望 し て い る (118)。 宮 崎 は、 戦 後 も 国 学 院 大 学 で 教 え た り (119)、 英 語 に 関 す る 著 作 を 刊 行 (120) するなどしているが、結局、宮崎を含めて彼らが立教に