「メレクザーラ」解題 鈴木滿
〔お断り〕
初出である鈴木滿訳・注・解題「メレクザーラ」
(「人文学会雑誌」第三十八巻第三号、平成十九年一月)では紙数
の関係で極めて簡単な解題を附したに過ぎなかった。今改める。今年十月出版予定の『メレクザーラ──ドイツ人の
民
話
』(
国
書
刊
行
会。
武
蔵
大
学
研
究
出
版
助
成
対
象
)
所
載
の「
メ
レ
ク
ザ
ー
ラ
」
に
は、
前
者
の
解
題
で
は
な
く、
こ
ち
ら
を
収
録する。
解題
〔一〕
近
レ ヴ ァ ン ト東
関
係
の
参
考
文
献
で
は、
ス
ウ
ェ
ー
デ
ン
の
植
物
学
者
フ
レ
ー
ド
リ
ク・
ハ
ッ
セ
ル
ク
ヴ
ィ
ス
ト
の
旅
行
記〔
訳
注
参
照
〕
の
他に、フランスの植物学者・旅行家ジョゼフ・ピットン・ド・トゥルヌフォール(一六五八─一七〇八)の『王命に
よ
り
行
わ
れ
た
近
レ ヴ ァ ン ト東
旅
行
見
聞
録
』
(( ((
一
七
一
七
)
も
用
い
ら
れ
た
か。
こ
れ
は
一
七
七
六
年
ド
イ
ツ
語
に
翻
訳
さ
れ
た。
〔
ド・〕
ト
「メレクザーラ」解題
鈴
木
滿
武蔵大学人文学会雑誌 第 39 巻第 1 号
ゥルヌフォールについてムゼーウスは「奪われた
面
ヴェール紗
」の原注で言及している。
さて、ムゼーウスがこの物語の素材に用いたのは、彼の故郷であるテューリンゲンの言い伝えで、ドイツ語圏ばか
りかフランスなどでも人に知られており、中世以降数数の小説・戯曲に編まれているグライヒェン伯爵の
冒
アヴァンテュール険
譚
、
テューリンゲンの名高い聖女エリーザベトに纏わる、これまた西欧に広く知られている伝説、それからザクセン公ハ
インリヒ
獅
デア・レーヴェ子
公
を主題にした
民
フォルクスブーフ衆
本
と
(( (いったあんばい。
第二、第三の素材については本文と訳注で述べ尽くされているから、ここでは煩瑣な繰り返しを慎む。
〔二〕
こ
こ
に
ご
紹
介
す
る
の
は、
グ
リ
ム
兄
弟
編『
ド
イ
ツ
の
伝
説
』(
一
八
一
六
/
一
八。
二
巻
)
五
八
一
番「
グ
ラ
イ
ヒ
ェ
ン
伯
爵
」
(( (の
訳
(( (である。
「グライヒェン伯爵」
サギタリウス『グライヒェンの物語
』
(( (第一巻。五章。
パウリ・ヨヴィイ(ゲッツェ)
『しゅゔぁるつぶるく年代記
』
(( (テンツェル『月例報告
』
(( (一六九六年。五九九─六二〇ページ。
メリサンテス『山城
』
(( (二〇─三一ページ。
グ
ラ
イ
ヒ
ェ
ン
伯
爵
ル
ー
ト
ヴ
ィ
ヒ
は
一
二
二
七
年
不
信
の
輩
やからと
の
戦
に
出
征
し
た
が、
捕
わ
れ
て
奴
隷
に
落
と
さ
れ
た。
身
分
を
隠していたので、彼は他の奴隷同様極めて過酷な労働に従事しなければならなかった。そのうち遂に何事にまれ彼が
「メレクザーラ」解題 鈴木滿
特別巧みで、身ごなしが優美だったので、
王
スルタンの
(( (麗しい息女の目に触れた。そこで姫の心は恋に燃え立った。ともに
虜
と り こ囚
となっていた伯爵の従者からその身分を聞き知った彼女は、何年もの間彼と親しく交わったあと、もし自分と結
婚しようというなら、彼を自由にし、莫大な宝物を与えよう、と約束した。ルートヴィヒ伯爵は故郷に奥方と二人の
子どもを残していた。しかし自由への渇望が勝利を占め、彼は教皇と今の妻の承認をなんとか得られるだろう、と思
い、姫の申し出を全て受諾した。その後彼らは無事に逃亡を果たし、キリスト教徒の地に辿り着いた。そして教皇は、
麗
し
い
異
教
徒
の
女
性
が
洗
礼
を
受
け
た
の
で、
結
婚
の
請
願
を
聴
き
入
れ
た。
両
人
は
テ
ュ
ー
リ
ン
ゲ
ン
に
向
か
い、
そ
こ
に
一二四九年に到着した。二人の妻たちが初めて出逢ったグライヒェン近郊の場所は
喜
フロイデンタールびの谷
と名付けられ、その傍に
は未だにこの名の館がある。更に未だに丸屋根の天蓋の付いた三人が眠れる緑色に塗られた寝台が見られるし、トン
ナ
城
((( (にはかのサラセン女性のトル
コ
((( (の
巻
タ ー バ ン頭巾
と黄金の十字架がある。彼女が舗石を敷かせた城郭への路は今日に至る
まで
ト
テ ュ ル ケ ン ヴ ェ ー クルコ人路
と言われている。キルヒベル
ク
((( (の城代一家はアイゼナハ近郊の城郭であるファレンロー
デ
((( (にこの物語
が織り込まれている古い
綴
タ ピ ス ト リれ織り
を所有している。エアフルトの
ペ
ペ ー タ ー ス ベ ル クテロの御山
にこの三人の夫妻が埋葬されており、
彼
ら
の
肖
像
が
墓
石
に
刻
ま
れ
て
い
る(
フ
ラ
ン
ケ
ン
シ
ュ
タ
イ
ン
著
す『
ノ
ル
ド
ガ
ウ
ィ
エ
ン
ス
*
*
年
代
記
』
に
版
画
が
見
ら
れ
る
((( ()。
〔三〕
グライヒェン伯爵伝説の発祥についていくらか解
説
((( (する。
一四五〇年に成立したフランスの韻文
物
ロ マ ン語
『ジリヨン・ド・トラゼニ
』
((( (はグライヒェン伝説にかなり似ている。
ジリヨンは聖地からの帰途
囚
とらわれの身となる。エジプトの
王
スルタンの息女グラシエン
ヌ
((( (は彼を牢獄から解き放ち、父王
武蔵大学人文学会雑誌 第 39 巻第 1 号
の宮廷で高位に就けてやる。ジリヨンは奥方マ
リ
((( (に貞節を守っていたが、妻が死んだ、との誤報を受けて王女と結婚
する。彼を救おうと旅に出た息子たちから彼は真実を聞き知る。サラセン女性は、自分はジリヨンと離婚するつもり
はないが、最初の妻の
端
はした女
めになろう、と言う。これに感動した奥方は夫を諦め、妻たちは二人ながら修道院に入る。
伯爵は最初彼女たちの例に倣うが、やがて、戦に巻き込まれた
王
スルタンの救援に赴き、異国で
殪
たおれる。彼の心臓は二人の
妻の間に埋葬される。
作者はル・エーノーの
橄
オリーヴ欖
修道
院
((( (にある墓碑を引き合いに出している。
しかし、これがグライヒェン伝説の前身とは断じられないであろう。前者は感傷的で暗いが、後者は楽天的で明る
い。むしろ、後者の方が古い、と言ってもよいかも知れない。それにドイツの物語が、エアフルトの大聖堂にある奇
妙な墓碑に影響されて、独自にテューリンゲンの山地で生まれたことを否定する理由は何も無い。あの墓碑は多分二
度(しかし同時にではなく)結婚した伯爵のものであろう。後世その解釈に空想が尾鰭を付けてまことしやかな物語
を作り出し、それが民衆の間に広まったとしても不思議は無い。
なお、イスラム教徒の王女メラッ
サ
((( (が
ボ
ヘムン
ト
((( (という名の虜囚の命を救い、自由にした、との中世の史家たちが
記している、とのこと。これから伝説に
王
スルタンの息女が登場することになったか。
ヘッセンのフィリップ寛容方
伯
((( (が、彼とマルガレーテ・フォン・デア・ザー
ル
((( (との結婚を承認するようルタ
ー
((( (とメ
ランヒト
ン
((( (に勧めた、とされるマルティン・ブツァ
ー
((( (に発した訓令(一五三九)は、十六世紀の最初の四半期に既に
この伝説が広まっていたこと、また、この伝説がジリヨン・ド・トラゼニの伝説に依存しているのではないことを証
明
す
る
た
め
に
重
要
な
意
義
を
持
つ。
関
係
箇
所
は
こ
う
で
あ
る。
「
ま
た、
殿
下
が
こ
れ
に
と
り
わ
け
重
き
を
お
か
る
る
に
は
あ
ら
ざ
れども、聖墓に赴き、奥方死せり、と聞き知りて、かるがゆえに別の女性を娶りたるグライヒェン伯爵なる人物に、
「メレクザーラ」解題 鈴木滿
二人を傍らに留むるも差し支えなし、と教皇自身認可したりし
ぞ
((( (」。
かくしてこの頃から十七世紀にかけて数多くグライヒェン伯爵の伝説が記される。伯爵の名はしばしばルートヴィ
ヒだが、エルンストとなっていることもある。また、オスマン・トルコのヨーロッパ侵攻が恐怖の的だった時代なの
で、伯爵が十字軍に参加して聖地に赴くのではなく、対トルコ戦に出征するという設定もある。
〔四〕
十六~十七世紀にはグライヒェン伯爵伝説を素材とした戯曲が少なからず作られたが、これらに言及するのはひと
まず
措
おき、十七世紀末から十八世紀半ばの時代における創作を
俯
ふ瞰
かんする。ただし、その文学的価値には触れない。
クリスティアン・ホーフマン・フォン・ホーフマンスヴァルダウ『グライヒェン伯爵ルートヴィヒとあるマホメッ
ト教徒の女性との恋
』
((( (は書簡体叙事詩の一つとして一六七九年ライプツィ
ヒ
((( (とブレスラ
ウ
((( (で出版された。
十七世紀末出版の、ル・ノーブル
氏
ムッシュウな
((( (る人物が著したフランスの小説『ズリーマあるいは純愛。歴史小説
』
((( (は、
グライヒェン伝説の翻案とでも言うべき作品である。著者の主張するところによれば、物語の主人公であるヴェスト
ファーレン
公
((( (の流れを引くグライヒェン家の
文
もんじょ書
に題材を借りた、とのこと。この君侯エー
バ
ーハル
ト
((( (は
王
スルタンノラデ
ィ
ン
((( (に対する戦役に出征、ヨッ
パ
((( (の会戦で捕虜となり、
王
スルタンの寵臣ムスタフ
ァ
((( (に奴隷として与えられる。命運をとも
にした小姓エヴァリス
ト
((( (は
王
スルタンの息女ズリーマに主君の身分を明かす。エー
バ
ーハルトは勿論既婚者で、奥方のレオ
ノー
レ
((( (は彼に随いて十字軍に参加したのだが、船の難破で行方不明となっている。エー
バ
ーハルトは妻が亡くなった
と思わざるを得ないが、それでもズリーマの求愛を毅然として退ける。この行為は報われる。彼はやがて、レオノー
レがズリーマの友フェディ
メ
((( (の女奴隷となっているのを発見するのである。ノラディンは息女をムスタファと結婚さ
武蔵大学人文学会雑誌 第 39 巻第 1 号
せようとする。しかしズリーマはムスタファを愛していないので、ヴェストファーレン公夫妻とともに船でヨーロッ
パに脱出する。ムスタファはフェディメと結婚、ズリーマを失ったことの慰めとする。ズリーマはキリスト教に改宗、
エー
バ
ーハルトの友としてその所領に随いて行く。レオノーレが
ほ
どなく死ぬと、彼女がこれに代わる。
著者はどういう人物か不明だが、一七二五年初版、一七三〇年再版、改訂の無い三版が一七四四年に出た物語があ
る。
そ
の
扉
に
記
さ
れ
て
い
る
の
は
以
下
の
通
り。
「
グ
ラ
イ
ヒ
ェ
ン
伯
爵
ル
ー
ト
ヴ
ィ
ヒ
の
珍
奇
な
る
冒
ア ヴ ァ ン テ ュ ー ル険
譚
。
同
人
が
約
束
の
地
〔
カ
ナ
ン
〕
へ
の
十
字
軍
に
加
わ
り、
サ
ラ
セ
ン
人
の
手
に
落
ち
て
虜
と り こ囚
と
な
り、
サ
ラ
セ
ン
女
性
の
助
け
に
て
捕
わ
れ
の
身
か
ら
解
放
され、再びドイツなる元の妻の許に帰りつき、世を終わるまで二人の妻と添い遂げし次第。典雅にして教訓に満ちた
る物語に書き上げたるはウェルラミウス。版元カール・ヴィルヘルム・フルデン。シュネーベル
ク
((( (、一七三〇
年
((( (」。
一七六九年ハンブル
ク
((( (とブレーメ
ン
((( (で出版されたヨーハン・フリードリヒ・レーヴェン『
民
ロ マ ン ツ ェ ン謡調譚詩
』
((( (の中に「十
字軍遠征の最中サラセン人に捕われ、
王
スルタンの息女によって自由の身とされしグライヒェン伯爵ルーデヴィヒの真実の
物語。ならびに恋に燃えたるかかる釈放の理
由
((( (」と題された詩がある。これは滑稽な
民
ロ マ ン ツ ェ謡調譚詩
の一つである。
〔四〕
ムゼーウスと同時代の文学作品で、この伝説を作者が用いているものに、ヨーハン・ヴォルフガング・フォン・ゲ
ー
テ
((( (の戯曲『シュテラ』五幕がある。これは軍人フェルナンドが貞淑なチェチーリエと結婚、娘ルーチェをもうけた
にも関わらず、どうしようもない衝動に突き動かされて失踪。その後あどけない乙女シュテラとも同棲した挙句、同
じ理由からか、あるいは捨てた妻子と再会しようとしてか、なんともわけの分からぬ状況で再び出奔。数年経って孤
閨を守っているシュテラの邸へ戻って来たところを、人に騙されて財産を失い、シュテラの許で奉公することになっ
「メレクザーラ」解題 鈴木滿
た娘ルーチェをともない、この地へやって来たチェチーリエに遭遇する物語である。ただし、伝説がはっきり引用さ
れ、フェルナンドを説得するチェチーリエの情熱溢れる科白という形で紹介されているのは一七七六年の初稿におい
てのみ。その表題も『シュテラ、愛する人たちのための戯曲
』
((( (となっていた。愛する二人の女性の間に挟まれ苦悩す
る男性が、ここではグライヒェン伯爵同様幸せな大団円を迎えることを示唆して幕が降りる。しかし、こうした結末
は倫理的立場から批難を浴び、ハンブルクでは上演を禁じられた
ほ
ど。だが、倫理うんぬんはともかくとしても、男
を常に駆り立てて止まぬ
魔
デモーニシュ的な
力を本来の主題としているこの戯曲にあっては、両手に花の二人妻という解決は安易
な妥協、一時の安心の約束に過ぎず、なんとも奇妙な印象を禁じ得ない。これでは、そうでなくとも誠実一筋のグラ
イヒェン伯爵とは懸け離れた性格の主人公フェルナンドが、ひたむきな女心を弄ぶ低劣な悪党に過ぎなくなってしま
う。従ってゲーテは一八〇六年ヴァイマルでの上演に際して、伝説の使用は完全に取り止め、主人公フェルナンドを
自殺させ、更に一八一六年の改訂では、二人の女性の片方、若いシュテラが毒を仰ぐことにした。もっともそう変え
たところで到底納得の行く解決とは申せない。つまるところこの市民悲
劇
((( (は失敗作だった。
と
は
申
せ、
一
七
七
六
年
に
は
既
に、
詩(
た
と
え
ば「
ゼ
ー
ゼ
ン
ハ
イ
ム
の
詩
」)
で
も、
小
説(
た
と
え
ば『
若
き
ヴ
ェ
ル
タ
ー
の
悩
み
』)
で
も、
戯
曲(
た
と
え
ば『
ゲ
ッ
ツ・
フ
ォ
ン・
ベ
ル
リ
ヒ
ン
ゲ
ン
』『
ク
ラ
ヴ
ィ
ー
ゴ
』)
で
も
伝
統
の
革
新
者
と
し
て、
青年たちの叫びの代弁者として文学界にその存在を確立していたゲーテが、その戯曲に登場させたために、グライヒ
ェン伯爵の伝説は再び照明を当てられた。
まず同年、グライヒェン伯爵を主人公とする
民
フォルクスブーフ衆
本
が新たに出版され
た
((( (、という。
戯曲家ルートヴィヒ・フィリップ・ハー
ン
((( (は歌劇と銘打って『ジークフリート
』
((( (なる芝居を物した。粗筋はざっと
かくのごとし。
武蔵大学人文学会雑誌 第 39 巻第 1 号
引き揚げて行くトルコ軍の
勝
かちどき鬨
で幕が開く。ジークフリート伯爵が虜囚として
ト
ス ル タルコ皇
帝
ンの前に。彼は自らの素性
を明かさず、戦が始まる前は農夫だった、と言い張り、奴隷とされる。奴隷名はザー
デ
((( (。庭で
宰
グロース・ヴェジール相
の
((( (息女ズリ
ー
マ
((( (とその女奴隷フィライー
デ
((( (がザーデを見て、気に入る。突然奴隷たちの叛乱が起きる。ジークフリートは急いで
奴隷監督を助けようとするが、間に合わない。彼は自らの身を守るために、倒れた監督の剣を手に取って闘うが、結
局逃げなければならなくなる。現場に駆けつけた
宰
グロース・ヴェジール相
は彼を、監督の殺害者で叛乱の一味徒党だ、と思い込み、
塔に投獄させる。イスラム教徒の男性に変装したフィライーデがそこで彼を見つけるが、死刑の判決を受けた、と聞
き、気絶する。悲しむジークフリートは故郷の妻マティル
デ
((( (を偲んでいるが、息を吹き返したフィライーデの愛の告
白に驚愕する。牢番を買収しようとするフィライーデの計画は失敗、
宰
グロース・ヴェジール相
は、ザーデを助命してください、と
の娘とその女奴隷の嘆願を聞き入れない。フィライーデは迅速な行動を取ろう、と考え、牢番の監視の裏をかくこと
に成功、ジークフリートとともに変装してヨーロッパに逃れる。ヨーロッパで二人はジークフリートの奥方が夫を悼
んで巡礼に身を
窶
やつしているのに出逢う。ジークフリートはこれを男性の隠者だと思い、大罪を犯した、と懺悔する。
マティルデはすぐに相手が夫であると分かり、女性の連れは何者なのか、と詮議する。彼女は真実を聞かされて最初
は
激
怒
し
た
も
の
の、
す
ぐ
気
持
ち
を
和
ま
せ、
フ
ィ
ラ
イ
ー
デ
を
抱
き
締
め
る。
「
彼
は
あ
な
た
の
も
の
よ、
そ
う、
私
の
も
の
で、
同時にあなたのもの
よ
((( (」と言って。
ト
ス ル タ ンルコ皇帝
は最初の登場以外、筋の進行に何一つ関わらない。一方女奴隷フィライーデは大活躍。しかし、なぜ彼
女が伯爵を熱愛するのか。ズリーマこそ
宰
グロース・ヴェジール相
の息女で、これが伯爵の恋人のはず。はてさて、こちらはどうな
った。伯爵夫人マティルデが巡礼の扮装をし、戻って来た夫に、懺悔を果たすに相応しい隠者だ、と誤解されるに至
るまでには一体どういう
顛
てんまつ末
があったのか。もしかしてマティルデはエルサレムなる聖墓へ参拝するつもりでいたの
「メレクザーラ」解題 鈴木滿
か。そもそも伯爵は奴隷の叛乱に際して、なぜ敵側の味方をしたのか。これらについては説明が無い。
〔五〕
次に紹介する
譚
バラーデ詩
はムゼーウスが「メレクザーラ」を書くに当たって大きな影響を与えたのではないか、と思われ
る。
シュトールベル
ク
((( (=シュトールベルク伯爵フリードリヒ・レオポルトの『グライヒェン伯爵の
譚
バラーデ詩
』
((( (がそれ。これ
は一七八二年に刊行されたが、その諧謔味溢れる筋立てはゲーテの『シュテラ』の深刻さとは無縁なので、もしかす
ると後者が発表された一七七六年以前に書かれたものかも知れない。
ム
ゼ
ー
ウ
ス
の
大
嫌
い
な
手
合
い
の
一
人
で
あ
っ
た
ろ
う
疾
シ ュ ト ル ム ・ ウ ン ト ・ ド ラ ン グ風
怒
涛
運
動
の
闘
士
ハ
ー
ン
の
噴
飯
物
の
熱
狂
的
芝
居
と
は
打
っ
て
変
わ
っ
た
静
せ い ひ つ謐
な
小
品
で
あ
る
点、
『
シ
ュ
テ
ラ
』
と
没
交
渉
な
点、
詩
句
が
晴
朗
に
し
て
素
朴
な
点、
等
等
が
大
い
に
ム
ゼ
ー
ウ
ス
の
琴
線に触れ、ために彼がこれを素材にいつか一編の物語を書き上げたい、と胸中
鬱
うつぼつ勃
となった。──こう想像してみた
い。
その語り出しはこんな具合。
この日
我
われ、聖なる
竪
ハ ー プ琴
を手より措き、
鳴り響く弦を張りたるは、
唄と
昔
メルヒェン話
の
七
リ ラ弦琴
なりき。
武蔵大学人文学会雑誌 第 39 巻第 1 号
唄
を
歌
い、
昔
メ ル ヒ ェ ン話
を
語
る
に
は
小
型
の
七
リ ラ弦
琴
が
伴
奏
楽
器
と
し
て
相
応
し
い。
こ
の
さ
り
げ
な
さ、
軽
や
か
さ、
そ
し
て
「
昔
メルヒェン話
」という言葉は、
(ムゼーウスが読んだ、とすればだが)ムゼーウスの心と目を充分に惹き付けたであろう。
いかにも
譚
バラーデ詩
らしく物語は十字軍への参加を促す教皇の呼び掛けから始まる。グライヒェン伯爵はこれに従い、奥
方に別れを告げて、戦の庭に赴く。
同勢果敢に聖墓を得んと、
割
かつれい礼
の
((( (子らを夥しく鞍の上より撃ち落とし、
ヨルダ
ン
((( (の流れを
屍
しかばねで蔽いぬ。
しかし伯爵は敵軍に捕われ、
教
カ リ フ主
の
((( (御前に連行される。
教
カ リ フ主
は彼に、石
竹
((( (と百
合
((( (の世話をするよう命じる。庭園で
働く彼は、そこで
王
スルタンの息女セリー
ナ
((( (と知り合い、彼女の典雅な美しさに魅惑されるが、さしあたっては故郷に残し
た妻を偲び、恋心など起こさないでいる。けれどもセリーナの方は再三庭園で伯爵を捜し出す。
しからば、という次第で、
〔ちと怪しからぬ仕儀と存ずるが〕
、こちらはキリスト教という大義名分に拠って立つ。
しかして騎士は、姫君に聖なる真理を教えむ、と、
貴き決意を固めたり。
甘き言葉や目配せや、はた
接
くちづけ吻
を便りにて。
「メレクザーラ」解題 鈴木滿
姫をキリスト教に改宗させるのに成功すると、今度は逃亡を考えるようになる。除去せねばならぬ障害はただ一つ。
さても思案は
外
ほかならず。騎士と連れ立ちこの愛らしき子が、
処
お と め女
のままにて逃げられようか。
そこで伯爵は姫君と結婚、追っ手から逃れて無事故国に到着する。奥方は、愛する夫が異国で戦没した、と思い、
喪服を纏っている。全てを打ち明けられた彼女は、夫を救い出してくれた女性に向かって、いみじくもこう語る。
さあ、
王
スルタンの息女殿。どうぞさらりと打ち解けて。
これから我ら三人で
永
とこしえ久
に愛し合いましょう。
臥
ふ し ど所
も墓ももろともとして。
このあとに続くのはカトリック教会に対する攻撃である。まだこの時期には作者シュトールベルク伯爵がカトリッ
ク
教
へ
の
改
信
を
念
頭
に
置
い
て
い
な
か
っ
た
こ
と
が
こ
れ
で
分
か
る
((( (。
僧
侶
た
ち
は
か
ん
か
ん。
「
こ
れ
で
は
世
俗
の
者
ど
も
は、
我
ら
に
堂
堂
胸
張
っ
て、
二
人
妻
を
ば
持
つ
で
あ
ろ
」
と。
彼
ら
は
司
教
に
訴
え
る。
司
教
は
好
機
到
来
と
ば
か
り、
伯
爵
の
贖
罪
の
証
あかしとしてその財産を要求する。しかし教皇はこの結婚に祝福を与え、三人は幸せな生涯を送る。教皇の特別認可を結婚
の事後にしたのはシュトールベルクの細工である。この改変によりおそらく僧侶たちへの攻撃がより効果的になった。
武蔵大学人文学会雑誌 第 39 巻第 1 号
さてそれからというものは、
年
としごと毎
二人子を授かりぬ。
やがて
齢
よわいが伯爵の
頭
つむりを
銀
し ら が髪
で覆うまで。
そして夫が
身
み罷
まかれば、
ほ
どなく妻らも跡を追う。
かくして夫は臥所の
裡
うちで二人と共寐をせしごとく、
墓でも二人の許に憩う。
更に『シュトールベルク伯爵兄弟全集』の編纂者はこう注記している
由
((( (。
「
こ
の
詩
情
豊
か
な
お
伽
話
は
歴
史
的
な
物
語
と
さ
し
て
隔
た
っ
て
は
い
な
い。
現
在
な
お
墳
墓
に
刻
ま
れ
て
い
る
墓
碑
銘
さ
え
結
び
の節と文字通りぴたりと一致する。すなわち、
二人妻は我を夫として愛し、互いを姉妹と愛したり。
一人は我に従いて、
イ
ア ル コ ー ラ ンスラム教典
を
((( (棄てたりき。
一人はまたさればとて我を捨てむとなさざりき。
一つ臥所がこの我ら
三
み た り人
を容れしあの日日のごと、
一つ
奥
おく津
つ城
きにこの我ら三人を抱かしめむことを。
」と。
「メレクザーラ」解題 鈴木滿
ただし、墓碑銘の作者が
何
なんぴと人
で、この墓がいずこにあるかについては、言及されていないそうな。
〔六〕
そしてこれが発表されたのと
ほぼ同時期に、ヨーハン・カール・アウグスト・ムゼーウスはイル
ム
((( (河畔の彼の
園
あずまや亭
で『ドイツ人の民話』の執筆にいそしんだ。十四話を集めたこの物語集は、一七八二─八六年、五分冊の形を取って
ゴ
ー
タ
((( (で出版された。
「メレクザーラ」はその第五分冊に「宝探し」
「
誘
かどわかし拐
──ある逸話」とともに収められている。
解題注 ( () ジ ョ ゼ フ・ ピ ッ ト ン・ ド・ ト ゥ ル ヌ フ ォ ー ル〔 一 六 五 八 ─ 一 七 〇 八 〕 の『 王 命 に よ り 行 わ れ た 近 レ ヴ ァ ン ト 東 旅 行 見 聞 録 』 Joseph Pitton de Tournefort : Relation d’un voyage du Levant, fait par ordre du Roy.
(((( . ( () 民 フ ォ ル ク ス ブ ー フ 衆 本 複 数 形「 フ ォ ル ク ス ビ ュ ー ヒ ャ ー」 Volksbücher. 大 抵 は 書 肆 を 通 じ て 売 り 捌 さば か れ る の で は な く、 見 メ ッ セ 本 市 や 歳 ヤ ー ル マ ル ク ト の 市 で 行 商 人 の 手 に よ っ て 頒 布 さ れ、 下 層 の 民 衆 の 娯 楽 に 供 さ れ た 安 い 本。 こ れ ら の 本 の 多 く は 中 世 後 期 あ た り が 起 源 で、 十 五 世 紀 に フ ラ ン ス 語 か ら 翻 訳 さ れ た り、 翻 案 さ れ た り し た 騎 士 物 語 や メ ル ジ ー ネ 伝 説 の 散 文 版 で あ る。 『 角 つの あ る ザ イ フ リ ー ト 』〔 「 沈 黙 の 恋 」 訳 注 参 照 〕、 『 エ ル ン ス ト 公 』 な ど の 民 衆 本 は、 ド イ ツ の 英 雄 伝 説 や 吟 遊 詩 人 の 詩 歌 の た ぐ い が そ の 材 料。 フ ラ ン ス の 伝 ロ マ ン ス 奇 文 学 は、 『 フ ォ ル ト ゥ ナ ー ト と そ の 息 子 た ち 』( 既 知 の 最 古 の 版 は 一 五 〇 九 )、 『 皇 帝 オ ク タ ヴ ィ ア ヌ ス 』( 一 五 二 五 )、 『 ハ イ モ ン の 四 人 の 子 ど も た ち 』( 一 五 三 五 )、 『 麗 し の マ ゲ ロ ー ネ 』 と な っ た。 純 粋 に ド イ ツ 種 の 民 衆 本 と し て は、 『 テ ィ ル・ オ イ レ ン シ ュ ピ ー ゲ ル 』『 フ ァ ウ ス ト 博 士 』『 シ ル ダ の 市 民 た ち 』( こ れ は 愚 か 者 を か ら か っ た 笑 い 話 ) が 挙 げ ら れ よ う。 『 フ ァ ル ツ 伯 爵 夫 人 ゲ ノ フ ェ ー フ ァ』 を 女 主 人 公 と し た も の は 最 も 新 し い 民 衆 本 か も 知 れ な い。 十 七 世 紀 に な る と 民 衆 本 は 度 重 な る 改 変・ 歪 曲 を 蒙 り、 有 識 者 層 か ら は 軽 視 さ れ た。 そ れ ら の 不 朽 の 文 学 的 内 容 を 再 認 識 し た の は ロ マ ン 派 の 作 家 た ち で、 ヨ ー ゼ フ・ ゲ レ ス Joseph Görres ( 一 七 七 六 ─ 一 八 四 八 ) は そ の 著 作『 ド イ ツ の 民 衆 本 』 Die teutschen Volksbücher ( 一 八 〇 七 ) で、 ル ー ト ヴ ィ ヒ・ テ ィ ー ク Ludwig Tieck ( 一 七 七 三 ─ 一 八 五 三 ) は「 麗 し の マ ゲ ロ ー ネ 」 を 再 話 し、 「 フ ォ ル ト ゥ ナ ー ト 」「 ゲ ノ フ ェ ー フ ァ」 お よ び「 皇 帝 オ ク タ ヴ ィ ア ヌ ス 」 を 戯 曲 化 し て、 と り わ け ま た グ ス タ ー フ・ シ ュ ヴ ァ ー プ Gustav Schwab ( 一 七 九 二 ─ 一 八 五 〇 ) は そ の 理 解 に 満 ち た『 ド イ ツ 民 衆 本 』 Deutsche Volksbücher ( 一 八 三 六 ) の 編 纂 で、 民 衆 本 の 価 値 を 広 く 世 間 一 般 に 承 認 さ せ た。 ド ゲ ル マ ニ ス ト イ ツ 学 者 で も あ っ た カ ー ル・ ジ ム ロ ッ ク Karl
武蔵大学人文学会雑誌 第 39 巻第 1 号
Simrock ( 一 八 〇 二 ─ 七 六 ) も、 古 い 版 に 基 づ く『 ド イ ツ 民 衆 本 集 成 』 Sammlung deutscher Volksbücher ( 一 八 四 五 ─ 六 七。 十 三 巻 ) に よ り、 この分野で多大の功績がある。 ( () グ リ ム 兄 弟 編『 ド イ ツ の 伝 説 』( 一 八 一 六 / 一 八。 二 巻 ) 五 八 一 番「 グ ラ イ ヒ ェ ン 伯 爵 」 Nr. ((( . Der Graf von Gleichen. > Brüder Grimm: Deutsche Sagen. (((( /(( . ( 0 Bde. ( () 五 八 一 番「 グ ラ イ ヒ ェ ン 伯 爵 」 の 訳 こ れ は 論 者 の 訳 だ が、 グ リ ム 兄 弟 編・ 桜 沢 正 勝 / 鍛 冶 哲 郎 訳『 ド イ ツ 伝 説 集 』( 上 下。 人 文 書 院、 一九八七)に、五八一番「グライヘンの伯爵」 (下巻三三四ページ)として先行の邦訳がある。 ( () サ ギ タ リ ウ ス『 グ ラ イ ヒ ェ ン の 物 語 』 Sagittarius: Gleichische Historie. カ ス パ ー ル・ ザ ギ タ ー ル『 グ ラ イ ヒ ェ ン 伯 爵 の 物 語 』 KasparSagittar: Historia der Grafschaft Gleichen. Frankfurt. a. M.
(((( . のこと。以下メリサンテスまでこの伝説の出典を記したグリム兄弟のメモ。 ( () パ ウ リ・ ヨ ヴ ィ イ( ゲ ッ ツ ェ) 『 し ゅ ゔ ぁ る つ ぶ る く 年 代 記 』 Pauli Jovii(Götze): Chronicon Schwarzburg. Pauli Jovii ( = Paul Götze): Chronicon Schwarzburgicum. (((( . ( () テ ン ツ ェ ル『 月 例 報 告 』 Tenzel: Monatliche Unterr. Wilhelm Ernst Tentzel: Curieuse bibliothec oder fortsetzung der Monatlichen
Unterredungen einiger guten freunde.
(( 0( -0 (. グリム兄弟は Tenzel と誤記している。 ( () メ リ サ ン テ ス『 山 城 』 Melissantes: Bergschlösser. Melissantes ( = Johann Gottfried Gregorius): Die curieuse Orographia, oder Akkurate
Beschreibung derer berühmtesten Berge in Europa, Asia, Africa und Amerika.
(((( . ( () 王 スルタン 王 マリク と と も に、 教 カ リ フ 主 の 宗 教 的 至 上 権 を 認 め、 そ の 見 返 り に イ ス ラ ム 教 圏 の あ る 地 域 の 政 治 的 権 力 を 確 立 し た 主 権 者。 た だ し 後 代 オ ス マ ン・トルコ皇帝はスルタンを名乗り、かつ 教 カ リ フ 主 (後掲注参照)を自任した。 ( (0) ト ン ナ 城 Tonna. テ ュ ー リ ン ゲ ン の 村 グ レ ー フ ェ ン ト ン ナ( ゴ ー タ の 北 方 ) に あ る 二 つ の 城 の 一 方( も う 片 方 は ケ ッ テ ン ブ ル ク 城 )。 こ の 村 は 八 四 五 年 に ト ゥ ナ ハ の 名 で 文 書 に 登 場。 グ レ ー フ ェ ン ト ン ナ と な っ た の は 一 二 九 〇 年。 一 〇 八 九 年 ト ン ナ 伯 爵 領 と な る。 こ の 伯 爵 家 の 分 家 がグライヒェン伯爵家である。 ( (() ト ル コ ト ル コ 族 の 首 長 オ ス マ ン 一 世( 一 二 五 九 ─ 一 三 二 六 ) が ト ル コ に オ ス マ ン 朝 を 創 設 し て 初 代 君 主( 治 世 一 二 九 九 ─ 一 三 二 四 ) と な っ た の は こ の 伝 説 に 明 記 さ れ て い る 年 よ り 七 〇 年 以 上 後 代 な の で、 ト ル コ う ん ぬ ん は 時 代 錯 誤。 し か し、 十 五 世 紀 半 ば ~ 十 七 世 紀 後 期 の ヨ ー ロ ッ パ 人 は、 ト ル コ 帝 国 の 勃 興 と ヨ ー ロ ッ パ へ の 侵 攻 を 大 い に 恐 れ て い た の で、 伝 説 口 承 の 過 程 に お け る サ ラ セ ン 人( ア ラ ビ ア 人 ) と ト ル コ 人 の 取 り違えは理解し得る。 ( (()キルヒベルク Kirchberg. ザクセンの町。ツヴィカウの近く。 ( (()ファレンローデ Farrenrode. 未詳。
「メレクザーラ」解題 鈴木滿
( (() フ ラ ン ケ ン シ ュ タ イ ン 著 す『 ノ ル ド ガ ウ ィ エ ン ス * * 年 代 記 』 に 版 画 が 見 ら れ る gestochen in Frankensteins Annal. nordgaviens. 英 語 訳 (Edited and translated by Donald Ward: The German Legends of the Brothers Grimm. (vols. A Publication of the Institute for the Study of Human Issues. Philadelphia, (((( .) でもこのまま踏襲されている。グリムの注記にある nordgaviens. の最後の終止符は略語の印であろうから、 訳 語 で は「 * * 」 を 附 し て お い た。 と こ ろ で ム ゼ ー ウ ス は「 こ の 墓 碑 の 銅 版 画 は フ ォ ン・ フ ァ ル ケ ン シ ュ タ イ ン 著 す『 ノ ル ド ガ ウ ィ エ ン ス ィ ブ ス選集』に見られる」 Ein Kupferstich von diesem Leichenstein, befindet sich in von Falkensteins analectis nordgaviensibus と明記している。 「 メ レ ク ザ ー ラ 」 訳 注「 フ ォ ン・ フ ァ ル ケ ン シ ュ タ イ ン 」 お よ び「 『 ノ ル ド ガ ウ ィ エ ン ス ィ ブ ス 選 集 』 を も 参 照 の こ と。 グ リ ム が ム ゼ ー ウ ス の 原 注 を 引 き 写 し、 し か も そ の 際 二 重 に 誤 記 し た、 と 解 釈 で き な い だ ろ う か。 た だ し、 伝 説 が 記 さ れ る の は「 選 集 」 よ り も「 年 代 記 」 の 方 が 相 応 し い、とは思うが。 ( (() 解 説 以 下 の 記 事 は 資 料 面 に お い て、 未 公 刊 な が ら、 エ ー バ ー ハ ル ト・ ザ ウ ア ー の 博 士 号 請 求 論 文「 ド イ ツ 文 学 に お け る グ ラ イ ヒ ェ ン 伯 爵 の 伝説」 (一九一一) Eberhard Sauer: Inaugural-Dessertation der Philosophischen Fakultät der Kaiser-Wilhelms-Universität in Straßburg: Die Sage vom Grafen von Gleichen in der deutschen Literatur. Straßburg (((( . に全面的に依拠したことをここにお断りしておく。もとよりこの論 文には出典その他がきちんと脚注に記されているが、この解題においてはかなり省略した。 ( (()『 ジ リ ヨ ン・ ド・ ト ラ ゼ ニ 』 Gillion de Trazegnies. 極 め て 著 名 な フ ラ ン ス の 文 献 学 者 ガ ス ト ン・ パ リ ス( 一 八 三 九 ─ 一 九 〇 三 ) 著『 中 世 の 詩 歌 』( 一 八 八 五。 二 巻 ) Gaston Paris: La poésie du moyen-âge お よ び ア ル フ ォ ン ス・ バ ヨ の 論 文「 ジ リ ヨ ン・ ド・ ト ラ ゼ ニ の 物 語 」 AlphonsBayot: Le roman de Gillion de Trazegnies.
で紹介されている由。 ( (()グラシエンヌ Gracienne. アラビア風名称にしよう、との努力は払われていない。 ( (()マリ Marie. ( (()ル・エーノーの 橄 オリーフェ 欖 修道院 Kloster Olive im Hennegau. ル・エーノーは一部はベルギー、一部はフランスにまたがる地方。フラマン語で はヘネガウ Henegouw 。昔は伯爵領だった。 ( (0)メラッサ Melassa. ムゼーウスが「メレクザーラ」という名を姫に与えたのは、これといくらか関係があるか。 ( (() ボ ヘ ム ン ト Bohemund. ノ ル マ ン 人 で 出 自 は ノ ル マ ン デ ィ ー の 小 貴 族 だ っ た ら し い が、 イ タ リ ア の ア プ リ ア 地 方 の 支 配 者 に ま で の し 上 が っ た ロ ベ ー ル、 す な わ ち ギ ス カ ー ル( 奸 か ん け つ 譎 公 ) と 綽 名 さ れ た 梟 きょう 雄 ゆう ロ ベ ー ル・ ギ ス カ ー ル Robert Guiscard の 長 子 に こ の 名 の 戦 士 が い る。 フ ラ ン ス 風 に ボ ー モ ン Boemund の 方 が よ り 一 般。 一 〇 六 五 頃 ─ 一 一 一 一 年。 彼 は 父 の 後 妻 の 策 略 で 父 の 地 位 を 襲 う こ と が で き ず、 イ タ リ ア 半 島 南 端 の 港 町 タ レ ン ト の 領 主 に 甘 ん じ ざ る を 得 な か っ た が、 第 一 回 十 字 軍 に 参 加、 一 方 の 旗 頭 と な り、 シ リ ア の ア ン テ ィ オ キ ア を 占 有 す る に 至 っ た。
武蔵大学人文学会雑誌 第 39 巻第 1 号
( (() ヘ ッ セ ン の フ ィ リ ッ プ 寛 容 方 伯 Philipp der Großmütige, Landgraf von Hessen. ヘ ッ セ ン 方 伯 フ ィ リ ッ プ 一 世( 一 五 〇 四 ─ 六 七 )。 一 五 二 六 年 ヘ ッ セ ン に 新 教 を 導 入。 マ ー ル ブ ル ク 大 学 を 創 建 し た の も こ の 人。 彼 は ル タ ー と メ ラ ン ヒ ト ン の 同 意 を 得 て、 一 五 二 三 年 に 結 婚 し た ク リ ス テ ィ ー ネ・ フ ォ ン・ ザ ク セ ン( 一 五 四 九 没 ) が い る に も 関 わ ら ず、 一 五 四 〇 年 マ ル ガ レ ー テ・ フ ォ ン・ デ ア・ ザ ー ル( 一 五 六 六 没 ) と も 結婚した。 ( (()マルガレーテ・フォン・デア・ザールMargarethe von der Saal.
前掲注以外は未詳。 ( (() ル タ ー Luther. マ ル テ ィ ン・ ル タ ー Martin Luther ( 一 四 八 三 ─ 一 五 四 六 )。 ド イ ツ に お け る 宗 教 改 革 の 創 始 者。 エ ア フ ル ト 大 学 で 哲 学 を 学 ぶ。 修 士 号 を 得 て か ら 父 の 希 望 で 法 学 研 究 に 向 か っ た。 し か し あ る 時 戸 外 で 激 し い 雷 雨 に 襲 わ れ、 落 雷 と い う 畏 怖 す べ き 体 験 に 遭 い、 ア ウ グ ス テ ィ ヌ ス 派 の 修 道 院 に 入 る。 一 五 一 〇 年 ロ ー マ を 訪 れ、 帰 国 後 ヴ ィ ッ テ ン ベ ル ク 大 学 の 神 学 教 授 と な る。 一 五 一 七 年 学 問 的 論 難 を 目 的 と し て、 ヴ ィ ッ テ ン ベ ル ク の 城 付 き 教 会 の 扉 に い わ ゆ る「 九 十 五 箇 条 の 意 見 書 」 を 貼 り 出 し た。 さ し あ た っ て ル タ ー 自 身 に そ の 意 図 は 無 か っ た も の の、 これはドイツにおける宗教改革の誘因となった。 ( (() メ ラ ン ヒ ト ン Melanchton. フ ィ リ ッ プ・ メ ラ ン ヒ ト ン Philipp Melanchton ( 一 四 九 七 ─ 一 五 六 〇 )。 Melanchton は 元 来 の 姓 シ ュ ヴ ァ ル ツ エ ー ル ト Schwarzerd ( 黒 土 ) を ギ リ シ ア 風 に 変 え た も の。 宗 教 改 革 者。 神 学 者。 教 育 家。 語 学 の 才 能 に 恵 ま れ、 若 く し て ヘ ブ ラ イ 語、 ギ リ シ ア 語、 ラ テ ン 語 な ど を 習 得。 テ ュ ー ビ ン ゲ ン 大 学 に 学 ぶ。 一 五 一 八 年 ヴ ィ ッ テ ン ベ ル ク 大 学 ギ リ シ ア 語 教 授 と な る。 一 五 一 九 年 以 降 は 神 学 の 授 業も担当。ルターと急速に接近、一五二一年その影響下で最初の宗教改革教義学書『神学総論』 Loci communes rerum theologicarum を著した。 ルターを助けて、改革運動の精神を学問的に深めた、と言えよう。 ( (()ブツァー Bucer. Butzer とも。宗教改革者マルティン・ブツァー(一四九一─一五五一) 。一五一八年以降ルターを支持。 ( (() ま た、 殿 下 が …… 教 皇 自 身 認 可 し た り し ぞ Item, wie wohl seine Fürstlichen Gnaden auf diese folgende nicht hoch geachtet, so hat der Papst selbst einen Grafen von Gleichen, welcher zum heiligen Grabe gewesen und in Erfahrung kommen (ママ) , sein Weib sollte todt sein,
deswegen er eine andere nahm, zugelassen, daß er sie beide mocht behalten.
( (() ク リ ス テ ィ ア ン・ ホ ー フ マ ン・ フ ォ ン・ ホ ー フ マ ン ス ヴ ァ ル ダ ウ『 グ ラ イ ヒ ェ ン 伯 爵 ル ー ト ヴ ィ ヒ と あ る マ ホ メ ッ ト 教 徒 の 女 性 と の 恋 』 Christian Hofmann von Hofmanns-waldau: Liebe zwischen Graf Ludwig von Gleichen und einer Mahometanin. ホ ー フ マ ン ス ヴ ァ ル ダ ウ ( 一 六 一 七 ─ 七 九 ) は シ レ ジ ア の 指 導 的 法 律 家 に し て 文 人。 シ レ ジ ア の 都 市 ブ レ ス ラ ウ の 市 参 事 会 員 を 経 て 市 参 事 会 座 長。 こ う し た 非 の 打 ち 所 の無い経歴とは裏腹に、巧緻な技巧の限りを尽くした官能的享楽主義的な韻文を著した。 ( (() ラ イ プ ツ ィ ヒ Leipzig. こ の 当 時 は ザ ク セ ン 選 帝 侯 国 に 属 す。 そ の 首 邑 ド レ ー ス デ ン と と も に 有 数 の 商 工 業 都 市。 ス ラ ヴ 人 の 入 殖 地 と し て の 起 源 は 一 〇 〇 〇 年 頃 に ま で 遡 る。 ハ レ か ら シ レ ジ ア へ、 後 に は ニ ュ ル ン ベ ル ク か ら ポ ー ラ ン ド へ の 通 過 貿 易 に よ っ て 古 く か ら 栄 え、 既 に 十 四
「メレクザーラ」解題 鈴木滿
世紀 ラ ラ イ プ ツ ィ ガ ー ・ メ ッ セ イプツィヒの見本市 は名が高かった。 ( (0) ブ レ ス ラ ウ Breslau. ス ラ ヴ 人 の 入 殖 地 と し て の 起 源 は 一 〇 〇 〇 年 頃 に ま で 遡 る。 オ ー ダ ー 河 河 畔 の シ レ ジ ア の 都 市。 十 一 世 紀 に は ポ ー ラ ン ド 王 国 領。 や が て ボ ヘ ミ ア 王 国 に 属 し、 こ の 当 時 は オ ー ス ト リ ア の ハ プ ス ブ ル ク 家 の 支 配 下。 現 在 ポ ー ラ ン ド 南 西 部 の 商 工 業 都 市 ウ ロ ツ ワ ー フ Wrocław 。 ( (()ル・ノーブル 氏 ムッシュウ M. Le Noble. 未詳。 ( (()『ズリーマあるいは純愛。歴史小説』 Zulima ou l’amour pur. Nouvelle Historique.
一六九五年、パリでの出版。 ( (() ヴ ェ ス ト フ ァ ー レ ン 公 Prinz von Westfalen. ヴ ェ ス ト フ ァ ー レ ン は 元 来 ザ ク セ ン 公 国 の 西 部 地 域 の 意。 バ イ エ ル ン と ザ ク セ ン を 支 配 し て い た ハ イ ン リ ヒ 獅 デ ア ・ レ ー ヴ ェ 子 公 ( 一 一 二 九 ─ 九 五 ) が 神 聖 ロ ー マ 帝 国 皇 帝 フ リ ー ド リ ヒ 一 世( 赤 デ ア ・ ロ ー ト バ ル ト 髯 王・ 帝 〔 バ ル バ ロ ッ サ 〕) の 権 勢 の 前 に 敗 れ て 一 一 八 〇 年 追 放 刑 を 受 け た 時、 独 立 の 公 国 と な っ た。 そ の 公 権 は ケ ル ン の 大 司 教 が 掌 握。 後 そ の 大 部 分 は ヘ ッ セ ン = ダ ル ム シ ュ タ ッ ト 方 伯 の 手 に移った。十九世紀初頭短期間ナポレオンの 傀 かいらい 儡 国家ヴェストファリア王国の構成要素になり、一八一五年プロイセン王国が継承。 ( (()エー バ ーハルト Eberhard. 古高ドイツ語で「牡猪 ebur=Eber +不屈の harti=hart 」というこの名はいかにもドイツの戦士に相応しい。 ( (() ノ ラ デ ィ ン Noradin. 十 二 世 紀、 エ ジ プ ト と シ リ ア の 王 マリク と な っ た ク ル ド の 英 傑 サ ラ ー フ・ ア ッ・ デ ィ ー ン の ヨ ー ロ ッ パ 訛 サ ラ デ ィ ン か ら 思 いついたのであろう。 ( (()ヨッパ Joppe. パレスティナの港湾都市ヤッファ Jaffa の古名。 ( (()ムスタファ Mustapha. ( (()エヴァリスト Evariste. ドイツ風に読めばエヴァリステの表記の方が近いが、原典がフランス語であることを考慮した。 ( (()レオノーレ Leonore. E ・ザウアーの原文通り。フランス風ならエレオノール Eleonore となろう。 ( (0)フェディメ Phedime. アラビア風の女性名ファティマの訛か。 ( (()シュネーベルク Schneeberg. ザクセンの小都市。 ( (()グライヒェン伯爵ルートヴィヒの……一七三〇年 Die besonderen Aventüren Ludwigs, Grafens von Gleichen, wie derselbe in einem Kreutz-Zuge nach dem gelobten Lande unter die Sarazenen als ein Gefangener gerathen, durch eine Sarazenerin aus der Gefangenschaft errettet, und
bey seiner ersten Gemahlin wieder zu Teutschland ankommen auch
mit beyden in Ehestand biss ans Ende. In einer anmutigen und le
hrreichen
Geschichte beschrieben, von Verlamio. Schneeberg, bey Carl Wilhelm Fulden 173
0. 著者を「ウェルラミウス」としたのは論者の考え。右の原題には Verlamio とある。 ( (() ハ ン ブ ル ク Hamburg. エ ル ベ 河 下 流 の 自 由 ハ ン ザ 都 市。 一 五 一 〇 年 以 降 神 聖 ロ ー マ 帝 国 直 属 都 市。 ド イ ツ 最 大 の 港 湾 都 市。 ド イ ツ 有 数 の 大
武蔵大学人文学会雑誌 第 39 巻第 1 号
商工業都市。現在ドイツ連邦州の一つ。 ( (() ブ レ ー メ ン Bremen. ヴ ェ ー ザ ー 河 下 流 の 自 由 ハ ン ザ 都 市。 か つ て の 歴 史 に つ い て は「 沈 黙 の 恋 」 訳 注 に 詳 し い。 一 六 四 六 年 以 降 公 式 に は 神 聖 ロ ー マ 帝 国 直 属 都 市。 ド イ ツ 有 数 の 大 商 工 業 都 市。 現 在 ブ レ ー マ ー ス ハ ー フ ェ ン( 六 五 キ ロ 離 れ た ヴ ェ ー ザ ー 河 河 口 の 海 港 ) と 合 体 し て ド イツ連邦州の一つ。 ( (()ヨーハン・フリードリヒ・レーヴェン『 民 ロ マ ン ツ ェ ン 謡調譚詩 』 Johann Friedrich Löwen: Romanzen. レーヴェン(一七二七─七一)は北ドイツで活 躍 し た 詩 人。 一 七 六 七 年 ハ ン ブ ル ク の 国 民 劇 場 創 立 に 関 与、 こ こ で 上 演 さ れ る 演 劇 の 選 定 に 当 た っ た 他、 寸 エ ピ グ ラ ム 鉄 詩 、 頌 オ ー デ 歌 、 歌 リ ー ト 曲 、 滑 稽 詩、 物 語、 教訓詩、脚本などを書いた。 ( (()十字軍遠征の最中……釈放の理由 Die wahrhafte Geschichite des von den Sarazenen in den Kreuzzügen gefangenen und durch die Tochterdes Sultans befreiten Graf Ludewig von Gleichen, samt den verliebten Ursachen d
ieser Befreiung. ( (()ヨーハン ・ ヴォルフガング ・ フォン ・ ゲーテ
Johann Wolfgang von Goethe.
このドイツの大文豪(一七四九─一八三二)の事績については、 こ と さ ら 注 を 施 す 必 要 は な か ろ う。 た だ、 一 七 三 五 年 生 ま れ の ム ゼ ー ウ ス が 十 四 歳 年 下 の 彼 に 対 し て、 そ の 最 初 の 出 逢 い か ら 自 ら の 没 年 (一七八七)に至るまで、 さして良い印象を持たずに終わったのではないか、 との推測は記して置こう。二十代半ばのゲーテが一七七五年十一月、 若 い ザ ク セ ン = ヴ ァ イ マ ル 公 カ ー ル・ ア ウ グ ス ト( 一 七 五 七 ─ 一 八 二 八 ) の 友 人 と し て、 ま た、 や が て 公 国 の 政 治 に 参 与 す る 身( 一 七 七 六 年 七 月 カ ー ル・ ア ウ グ ス ト は ゲ ー テ を 枢 密 閣 議 の 一 員 に 任 命 ) と し て こ の 国 の 宮 廷 に 姿 を 現 し た 時、 ム ゼ ー ウ ス は 初 め て 宮 廷 に 出 入 り し て か ら 既 に 八 年 に も な る 先 輩 格 で、 し か も 四 十 歳 の 中 年 だ っ た。 け れ ど も ゲ ー テ は、 大 学 生 活 を 送 っ て い た ス ト ラ ス ブ ー ル( 一 六 八 一 ─ 一 八 七 〇 フ ラ ン ス 領 ) で 兄 事 し た ヨ ー ハ ン・ ゴ ッ ト フ リ ー ト・ フ ォ ン( 一 八 〇 二 以 降 )・ ヘ ル ダ ー( 一 七 四 四 ─ 一 八 〇 三 ) ─ ─ 彼 も ヴ ァ イ マ ル の 総 教 区 監 督 兼 宮 廷 牧 師 に 就 任 す る ─ ─ ば か り か、 ム ゼ ー ウ ス が 大 い に 嫌 っ て い た 疾 シ ュ ト ル ム ・ ウ ン ト ・ ド ラ ン グ 風 怒 涛 運 動 の 熱 狂 的 推 進 者 で あ る、 こ れ ま た 若 手 の 戯 曲 家 ヤ ー コ プ・ ミ ヒ ャ エ ル・ ラ イ ン ホ ル ト・ レ ン ツ( 一 七 五 一 ─ 九 二 ) や フ リ ー ド リ ヒ・ マ ク シ ミ リ ア ン・ フ ォ ン・ ク リ ン ガ ー( 一 七 五 二 ─ 一 八 三 一 ) ま で 引 き 連 れ る 恰 好 で、 颯 爽 と 登 場 し た わ け で あ る。 善 意 の 人、 と 言 わ れ る ム ゼ ー ウ ス で は あ る が、 内 心 甚 だ 穏 や か で な か っ た、 と 忖 そ ん た く 度 し て も 無 理 は あ る ま い。 な る ほ ど、 レ ン ツ や ク リ ン ガ ー は そ の 矯 激 な 活 動 の た め、 翌 七 六 年 早 く も ヴ ァ イ マ ル か ら 追 放 さ れ て し ま う し、 ゲ ー テ は、 小 邦 と は い え そ の 経 営 の 一 端 に 参 画 す る こ と に よ っ て 現 実 の 厳 し さ を 体 感 す る と と も に、 内 面 的 に 静 か に 後 の 古 典 主 義 へ と 向 か い 始 め る の だ が。 ゲ ー テ が ヴ ァ イ マ ル を 去 っ て イ タ リ ア へ 赴 く の は 漸 く 一 七 八 六 年 の こ と。 ヴ ァ イ マ ル に 帰 還 す る の は 一 七 八 八 年 六 月。 ム ー ゼ ウ ス は 既 に 前 年 の 十 月 世 を 去 っている。 ( (()『シュテラ、愛する人たちのための戯曲』
Stella, ein Schauspiel für Liebende.
( (()市民悲劇 bürgerliches Trauerspiel . 従来の慣習を破り、王侯貴族の代わりに市民階級を主人公とした悲劇。 ゴ ットホルト・エフライム・レ
「メレクザーラ」解題 鈴木滿
ッ シ ン グ( 一 七 二 九 ─ 八 一 ) の『 ミ ス・ サ ラ・ サ ン プ ソ ン 』 Gotthold Ephraim Lessing: Miß Sarah Sampson ( 一 七 五 五 ) を 先 駆 け と す る。 一 見 英 国 市 民 階 級 の 家 庭 を 舞 台 に し て い る よ う だ が、 そ こ に 投 影 さ れ て い る の は 紛 れ も な く ド イ ツ 市 民 階 級 の 意 識 で あ る。 二 人 の 女 性 と 一 人 の 男 性の葛藤を描いている点、これはゲーテの『シュテラ』の原型と言えるかも知れない。 ( (0) ま ず 同 年 …… 民 フ ォ ル ク ス ブ ー フ 衆 本 が 新 た に 出 版 さ れ た 文 学 史 家 リ ヒ ア ル ト・ マ リ ー ア・ ヴ ェ ル ナ ー Richard Maria Werner ( 一 八 五 四 ─ 一 九 一 三 ) が 指摘しているとのこと。 ( (() ル ー ト ヴ ィ ヒ・ フ ィ リ ッ プ・ ハ ー ン Ludwig Philipp Hahn. 疾 シ ュ ト ル ム ・ ウ ン ト ・ ド ラ ン グ 風 怒 涛 運 動 時 代 の 戯 曲 家( 一 七 四 六 ─ 一 八 一 四 )。 『 ピ サ の 叛 乱 』 Der Aufruhr zu Pisa ( 一 七 七 六 )、 『 ア ー デ ル ス ベ ル ク 伯 爵 カ ー ル 』 Graf Karl von Adelsberg ( 一 七 七 六 )、 『 ロ ー ベ ル ト・ フ ォ ン・ ホ ー エ ン エ ッ ケ ン』 Robert von Hohenecken (一七七八)といった一連の極めて熱狂的な戯曲のために、一時的ではあるが、 「シェクスピアのようだ」と讃嘆さ れた。ゲーテの追随者と申せよう。 『ローベルト』はゲーテの『ゲッツ』に大いに影響されているそうな。 ( (()『ジークフリート』 SiegfriedSiegfried, ein Singeschauspiel. Straßburg
(((( . 版元不明。 ( (() ザーデ Zade. ル・ノーブル 氏 ムッシュウ の小説でも伯爵エー バ ーハルトの奴隷名はこれだそうな。 ( (() 宰 グ ロ ー ス ・ ヴ ェ ジ ー ル 相 Großwesir. ヴ ェ ジ ー ル は 元 来 ペ ル シ ア 語。 「 補 佐 者 」 の 意。 ト ル コ 帝 国 の 大 臣。 「 グ ロ ー ス・ ヴ ェ ジ ー ル 」 は「 大 い な る 大 臣 」 なので「宰相」 。 ( (() ズ リ ー マ Zulima. こ れ は 勿 論 ル・ ノ ー ブ ル 氏 ムッシュウ の 小 説 の タ イ ト ル で も あ り、 女 主 人 公 で あ る 王 スルタン の 息 女 の 名。 前 掲 の ザ ー デ お よ びこ の ズリ ーマから、ハーンがこの小説を読んでいることが類推される。 ( (()フィライーデ Philaide. アラビア風の名としては何に当たるか未詳。 ( (()マティルデ Mathilde. ( (()彼はあなたのものよ、そう、私のもので、同時にあなたのものよ
Dein sey er, Dein, wie mein.
( (() シ ュ ト ー ル ベ ル ク Stolberg. シ ュ ト ー ル ベ ル ク は ハ ル ツ 山 地 南 麓 に あ る ザ ク セ ン の か つ て の 伯 爵 領 で、 主 権 は 一 八 一 五 年 プ ロ イ セ ン 王 国 に 移 っ た。 伯 爵 家 は シ ュ ト ー ル ベ ル ク = シ ュ ト ー ル ベ ル ク と シ ュ ト ー ル ベ ル ク = ロ ー ス ラ の 二 系 統。 シ ュ ト ー ル ベ ル ク = シ ュ ト ー ル ベ ル ク 伯 爵 家 の城下町だったシュトールベルク ・ アム ・ ハルツは海抜三〇〇メーターにある保養地で、現在人口一四〇〇。今もなお美しい 木 ファッハヴェルクハウス 骨 家 屋 が多く、 十三世紀に起源を持つ城館がある。 ( (0) シ ュ ト ー ル ベ ル ク = シ ュ ト ー ル ベ ル ク 伯 爵 フ リ ー ド リ ヒ・ レ オ ポ ル ト の『 グ ラ イ ヒ ェ ン 伯 爵 の 譚 バ ラ ー デ 詩 』 Friedrich Leopold, Graf zu
Stolberg=Stolberg: Ballade Graf Gleichen.
フ リ ー ド リ ヒ・ レ オ ポ ル ト( 一 七 五 〇 ─ 一 八 一 九 ) は 兄 で あ る 同 じ く シ ュ ト ー ル ベ ル ク = シ ュ ト ー ル ベ ル ク 伯 爵 ク リ ス テ ィ ア ン( 一 七 四 八 ─
武蔵大学人文学会雑誌 第 39 巻第 1 号
一 八 二 一 ) と と も に ド イ ツ の 小 領 邦 で 高 級 文 官 職 を 務 め る と と も に 文 筆 に 親 し ん だ。 兄 弟 は そ れ ぞ れ ゲ ッ テ ィ ン ゲ ン 大 学 に 学 び、 文 学 結 社 「 林 ハ イ ン 苑 」( 後 の「 ゲ ッ テ ィ ン ゲ ン 林 ハ イ ン 苑 同 ブ ン ト 盟 」) の 成 員 と な っ た。 二 人 な が ら ゲ ー テ や ラ ヴ ァ ー タ ー と も 親 交 を 結 ぶ。 ゲ ー テ と は ス イ ス 旅 行 ( 一 七 七 五 ) に 同 行。 フ リ ー ド リ ヒ・ レ オ ポ ル ト は 抒 情 詩 に も 優 れ て い た が、 長 編 小 説『 島 』 Insel ( 一 七 八 八 ) や 紀 行『 ド イ ツ、 ス イ ス、 イ タ リ アおよびシチリア旅行記』Eine Reise durch Deutschland, die Schweiz, Italien und Sizilien
(一七九四) もある。 『イリアス』 の翻訳 (一七七八) や ア イ ス キ ュ ロ ス の 四 つ の 悲 劇 の 翻 訳( 一 八 〇 二 ) は 卓 越 し た 業 績 で あ る。 晩 年 の 最 も 重 要 な 仕 事 は『 イ エ ス・ キ リ ス ト の 宗 教 の 歴 史 』 Die Geschichte der Religion Jesu Christi ( 一 八 〇 六 ─ 一 八。 十 五 巻 )。 彼 の 著 作 は『 シ ュ ト ー ル ベ ル ク 伯 爵 兄 弟 全 集 』 Gesammelte Werke der Brüder Christian und Friedrich Leopold Grafen zu Stolberg (一八二〇─二五。二十巻)の大部分を占めている。一八〇〇年家族ともども新教 か ら カ ト リ ッ ク に 改 宗 し た た め、 多 く の 知 己、 た と え ば ゲ ッ テ ィ ン ゲ ン 大 学 の 同 窓 生 か つ「 林 ハ イ ン 苑 」 に お け る 盟 友 で、 彼 と 同 様 の 分 野 で 高 い 学 問 的 業 績 を 挙 げ た 文 人・ 文 献 学 者 ヨ ー ハ ン・ ハ イ ン リ ヒ・ フ ォ ス な ど に 非 常 に 悪 い 心 証 を 与 え た。 フ ォ ス は『 い か に し て フ リ ッ ツ・ シ ュ ト ー ル ベ ルクは隷属者となりしか』 Wie ward Fritz Stolberg einUnfreier (一八一九) 〔「フリッツ」はフリードリヒの愛称ないし蔑称だが、この場合フォ ス は も と よ り 転 向 し た 友 人 を 愛 惜 し て い る わ け だ か ら、 友 人 と し て の 愛 称 〕 を 書 い て い る。 し か し こ れ は 一 七 八 七 年 に 物 故 し た ム ゼ ー ウ ス の 与 り 知 ら ぬ こ と。 と に か く シ ュ ト ー ル ベ ル ク = シ ュ ト ー ル ベ ル ク 伯 爵 フ リ ー ド リ ヒ・ レ オ ポ ル ト は ム ゼ ー ウ ス の 晩 年 時 既 に、 若 手 な が ら ド イ ツ 語 圏 で か な り の 文 名 が あ り、 ム ゼ ー ウ ス が 充 分 に 敬 意 を 払 う、 あ る い は 少 な く と も 好 意 を 感 じ る た ぐ い の 人 士 で あ っ た、 と 言 え よ う。 ま た、 そ の 生涯の業績を考えれば、十二分にそれに価した、と思われる。 ( (() 割 か つ れ い 礼 男 子 の 場 合 陰 茎 の 包 皮 を 環 状 に 切 除 す る 習 俗。 古 来 エ ジ プ ト 人 な ど 諸 民 族 に 行 わ れ た。 ユ ダ ヤ 人 も こ れ に 従 う。 旧 約 聖 書 創 世 記 に 記 事 がある。ただしここで「割礼の子ら」というのはイスラム教徒を指す。 ( (()ヨルダン Jordan. シリアに発して死海に注ぐ河。 ( (() 教 カ リ フ 主 Kalif. ア ラ ビ ア 語 ハ リ ー フ ァ( 「 相 続 者 」「 代 理 者 」) の 訛。 預 言 者 ム ハ ン マ ド の 後 継 者 を 指 す。 政 教 一 致 の イ ス ラ ム 教 共 同 体 の 最 高 権 威 者。 と は 言 え、 教 カ リ フ 主 自 ら が 十 字 軍 と 対 たい 峙 じ し た 事 実 は な い。 ま た、 名 ば か り に な っ た 教 カ リ フ 主 制 度 も、 一 二 五 八 年 ア ッ バ ー ス 朝 教 カ リ フ 主 が 都 し て い た バ ク ダ ー ド が モ ン ゴ ル 軍 に 破 壊 さ れ る と と も に 終 焉 を 迎 え た。 後 エ ジ プ ト の 奴 マ ム ル ー ク 隷 兵 朝 の 王 スルタン の 一 人 が ア ッ バ ー ス 朝 教 カ リ フ 主 の 後 裔 を 首 都 カ イ ロ に 招 き、 教 カ リ フ 主 として擁立しはしたが。 ( (() 石 竹 Nelke. 撫 な で し こ 子 科 の 多 年 生 草 本。 石 竹 は 中 国 原 産。 別 名 唐 から 撫 子。 高 さ 三 〇 セ ン チ。 五 月 紅、 白、 ま た は 雑 色 の 花 を 咲 か せ る。 南 ヨ ー ロ ッ パ 原 産 の も の は カ ー ネ ー シ ョ ン。 石 竹 科 の 多 年 生 草 本。 高 さ 三 〇 ─ 九 〇 セ ン チ。 夏 夏 紅、 淡 紅 色、 あ る い は 白 の 芳 香 あ る 花 を 咲 か せ る。 別 名 オ ランダ石竹。 ( (()百合 Lilie. 百合科百合属の総称。多年生草本。石竹とともに何か寓意が籠められているのだろうか。