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Taisei Gakuin University 禁止と意味 バタイユ理論における Des interdits et un monde des sens des théories bataillennes 髙橋紀穂 Kiho TAKAHASHI < 要約 > 本稿の目的はジョルジュ バタイユの議論に

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Academic year: 2021

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禁止と意味

――バタイユ理論における――

Des interdits et un monde des sens

— des théories bataillennes—

髙橋 紀穂

Kiho TAKAHASHI

<要約> 本稿の目的はジョルジュ・バタイユの議 論における禁止と意味の世界の関係を明らかにする ことにある。各節で考察されるのは以下のとおりで ある。第1節では本稿の目的の確認を行う。第2節 では,死,労働,自己意識と禁止の成立を考察する。 第3節は原初の禁止としての自死の禁止について考 察する。第4節では,自死の禁止の上に積み上げら れる諸々の禁止について考察する。第5節では,人 間と自然との分割線としての自死の禁止,この分割 線の無意味性,およびその意味生成契機の役割,さ らにその無意味性の隠蔽のための諸々の禁止につい て論じる。第6節では,語りえない無意味の体験と しての至高性の体験,そしてそれについての記述の 失敗の必然性について論じる。第7節「おわりに」 では,この失敗による無意味の領域の照射,この領 域を基礎に人間の文化と歴史を考察した場合の至高 性と俗なる世界の無意味性,そして最後にこの無意 味性の自覚の重要性について論じる。 <キーワード> 禁止,至高性,意味,意識 1. はじめに 本稿の第一の目的は,ジョルジュ・バタイユの議 論における禁止の概念の明確化にある。 バタイユの議論はフランスの社会学者エミール・ デュルケームの宗教社会学が提示した聖と俗の二世 界論を利用している(1)。そして,バタイユは聖を違 犯の世界として捉え,俗を禁止を遵守する世界と捉 えている。バタイユにおいて,俗の世界における最 も重要な禁止とは自死の禁止である。ところがバタ イユ自身あまり明確にこのことを説明していない。 そこで本稿ではまずこのことを明らかにする。次 に,この自死の禁止の意味に注目する。つまり,バ タイユの議論から,この禁止が人間文化を成立させ る分割線であることを明らかにする。そして,この 分割線の考察が本稿の第二の目的となる。それはす なわち,この分割線が文化とともに意味の世界を成 立させる契機となるが,この分割に(および分割線 自体にも)意味がないということを明らかにするこ とである。 以下の議論ではこの二つの目的に沿って順次考察 を行う。 2.禁止の成立 バタイユは禁止と違犯という二項対立を軸に社会 理論を構成している。そして,この禁止と違犯は,

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何よりも死をめぐるそれとして論じられる。 この論は,第一に「動物性」を前提とし,そこか ら進化論的に人間社会を論じることから始まる。動 物は「水の中の水」のような連続性としてある (Bataille [1973b:25=1985:21])。しかし,やがて 人間はそこから離脱する。彼によれば,動物から人 間への移行の際,一つの契機となるのは,死の知覚 である(Bataille [1987:34=2002:49])。一方,人間は この死を禁止の対象とする。同時に,バタイユはこ の禁止と労働とを結びつける。彼にとって,労働と は何がしかの生産を第一の目的とする行為ではない。 なぜなら,そもそもこの世界にエネルギーは過剰で あり,それゆえ,何かを生産する必要などないから である(Bataille [1949:60=1973: 24-25])。労働の 第一の目的とは,何よりも死の遠隔化にある。だか らこそ,バタイユは原初の労働に埋葬,あるいは墓 の建築をあげるのである(Bataille[1987:47=2004:70])。 これは死体を隠蔽する行為であり,それゆえ死の遠 隔化となる。つまり,労働とはそれ自体で死の禁止 となるのである。 死体を埋葬し隠すことにより,他者の死は隠蔽さ れる。しかし,それで死が消えうせるわけではない。 死を知覚した者は「死すべき自己」の意識を,すな わち,自己意識を有している(Bataille [1976a:71=2011:114])。 自己意識と死の意識とは密接につながる。つまり, 自己意識が存在する限り,自己の死の意識はそれに とりつく。個体は常に自己の死の不安を抱えている のである。こうして,他者の死を隠蔽したところで, 自己の死の不安が消えうせるわけではないことが明 らかとなる。にもかかわらず,他者の死体を埋葬し 隠蔽するのは,他者の死体が自己の死を想像させる からである。この想像は生きている個体の死の不安 を高めるだろう。死体が見せつける死は伝染し,結 果 , 人 々 に 襲 い 掛 か る (Bataille[1987:48-49= 2004:73-74])。 それゆえ,死体の埋葬に関しては二つのことが指 摘できる。それはたしかに他者の死の遠隔化ではあ るが,一方で,それは自己の死の遠隔化にもなる。 真の目的とは後者である。自己を襲いかかる死から できるだけ遠ざけること,これこそが埋葬の目的で ある。そしてまた,この遠隔化こそが,禁止と呼ば れる。人間は他でもなく自分自身で自分自身にこの 禁 止 を 課 す ( Bataille[1987:34=2004:48] , Bataille[1987:= 2004:62])。バタイユの聖なるもの と俗なるものからなる社会理論とは,何よりもこの 死体への態度により生成する。彼は次のように言う。 「死者をめぐる人間の振舞いが,はじめて一つの新 しい価値の存在を知らせる。死者は少なくともその 顔立ちによって生者に魅入り,生者のほうは死者へ の接近を禁止しようとするにいたるだろう。そして, 他の客体には許されているような通常の行き来を死 者には制限することになるだろう。禁止とは,人間 自身による生物や事物としての運動に課された,こ の魅入られた制限によって構成される。このような 恐怖の感情により留保されたものは,聖化される。 はるかな古代から死者に接しつつ人間の示した態度 は,客体についての根源的な分類が始まったことを 示している。すなわち,聖なる,禁止されたものと, 俗なる,取り扱いやすい,制限なしに近づいていい もの,という分類である」(Bataille[1979a:33-34= 1975:72-73])。 3. 禁止の諸形式 聖なる世界において人は動物性――あるいは連続 性――への回帰を目指す。バタイユはそこへ向かう 性向を「至高性」と呼ぶ。彼にとって至高性とは「人 間の本性を定義づける事実」である(Bataille[1979b: 215=1998:102])。バタイユは生涯をかけて人間の有 するこの性向を明らかにしようとしていた。したが って,彼の文章のほとんどすべてが至高性をめぐる ものであったと言っても過言ではない。そしてまた, これが死を目指すものであることは明らかである(2) それゆえ,俗と聖はそれぞれ,死が遠隔化される世 界,および死が近づけられる世界として位置づけら れる。あるいはまた,死の禁止を遵守する世界とそ の禁止を違犯する世界とも考えられる。 一方,バタイユは「暴力」全般と死を同一視する(3) そして,この禁止は他者の殺害の禁止へとつながる

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(Bataille[1987:50-51=2004:75-77])。この禁止は もっぱら,自己の属する共同体のみで有効となり, 他の共同体には暴力が向けられる。後に詳しく見る が,バタイユにとって戦争の意味とはこのように, 死への暴力が外に向けられたものとしてある。しか し,至高性が人間を連続性へと誘う性質であるとい うのであれば,暴力は何よりも,自己に向かわなけ ればならないはずである。つまり,直接的には,至 高性とは,自死,あるいは自殺という形態であらわ れるはずである。バタイユは至高性の形式として頻 繁に供犠の儀礼を取り上げるが,その説明において 彼は次のように述べることもあった。 「血なまぐさい供犠のうちで,自由に発動する要求 に応じられるのは,宗教的な自殺だけだろう」 (Bataille[1976b: 257= 2003:178])。 このように,自死こそが至高性の中の至高性を示 す行為だとすれば,それこそがもっとも強く禁じら れなければならないはずである。他者や生贄の殺害 は自死の代替行為でしかないのではないのか。 実際,バタイユの供犠は,自己の死をイメージす るものとして説明されている。 「供犠において,供犠を執行する者は,死にみまわ れる動物と自己同一化する。そのようにして彼は, 自分が死ぬのを眺めながら,死んでゆくのだ。それ も,いわば,自分自身の意志で,供犠の凶器に共感 を覚えつつ」(Bataille[1988c :336=2009:214])。 しかし,この禁止自体はやがて見えなくなる。な ぜか。 4.隠された禁止 すでに述べたように,人間は至高性への性向を持 つ。バタイユはこのものを連続性への「郷愁」とも 呼ぶ(Bataille[1987:21=2004:24])。この郷愁は自 己(意識)を消滅させることへの郷愁である以上, それは必然的に人間を死へと誘うだろう。したがっ て,これは死への衝動あるいは欲望であるとも言え る。しかし,これまで述べてきたように,この欲望 は最初から禁じられる。さらにその禁止自体が隠蔽 される。われわれはこの道筋をたどっていこう。 死体の衝撃から聖と俗の二世界が生成するという バタイユの議論はすでに見た。そして,その核に労 働が置かれていることも見た。ここでは,隠蔽され る自死の禁止という問題を考察する補助線として, バタイユが考える労働を少し詳しく見てみよう。 バタイユの労働は,その起源に道具の使用をおい ている。道具はそれ自身で価値を持つことはない。 それは何がしかの目的をより円滑に達成するための 何ものかである。つまり,道具とは手段としてある 物である。これを作成している者は必然的に「今こ こ」――動物性,あるいは自然的直接性――に生き てはいない。彼は道具を利用し,何がしかの目的を 達成する瞬間を想像しながら道具を作成している。 したがって,道具を作成している者は「今ここ」を 離脱している。代わって,彼は目的と手段の連鎖の 中に入り込む。そして,このような行為は認識,あ るいは理性をもたらす。バタイユは次のように言う。 「労働は何よりも認識と理性の基礎であった」 (Bataille[1961 : 69=2001:49])。 「認識なしに道具はないが,同様に,道具なしに認 識 は 想 像 で き な い 」(Bataille[1988f:510= 1973:197])。 これらを見ればわかるように,バタイユは,認識 と労働とを同じ性質を持つものと考えている。何か を意識する,あるいは理性的に考えるということは, 労働することであり,労働するということは理性的 に考えているということなのである。そして,バタ イユはこのような労働と理性こそが俗なる世界の特 質と考える(Bataille[1987:69-72=2004:108-112])。 あきらかにヘーゲル哲学との格闘の中で,導かれ たであろうこの意識論は,自己意識の論理とも結び ついている(Cf. Bataille[1988c=2009])。すなわち, 労働とは人間を「今,ここ」から未来への配慮へと

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離脱させるが,時間の中に入り込んだこの者は必然 的に未来に来たる自己の死の不安を持たざるをえな い。結果,自己意識は――労働により理性的になる だろうが――ますます死にとりつかれることになる。 われわれはここで,自身の生において意識から逃 れている時間があるかと考えてみるべきである。お そらく,眠っている時間以外,われわれは常に認識 している。ということは,われわれはつねに労働の 中にあるということになる。すなわち,人間は意識 のある限り俗なる世界に存在する,ということであ る。そして,俗なる世界とは,禁止の世界である。 あるいは,禁止によって成立する世界である。では, 意識と労働を導く禁止とは何か。それこそが,前述 したように,死体の前にたたずむ人間が自らに課し た死の禁止である。そしてそこから俗の世界――と その対立項としての聖の世界――が切り拓かれたの である。人間は死体を隠し,死から逃げ,自身に死 を禁じた。その瞬間に世界は開かれたのである。 しかしその一方,バタイユは人間文化の普遍的な 禁止について次のように述べている。 「殺人の禁止は「汝殺すなかれ」という強烈な単純 さで表明されている。そして間違いなくこの禁止は 普遍的だ」(Bataille[1987:74=2004: 115-6])。 「歴史を支配している禁止とは殺人の禁止である」 (Bataille[1988e :426=1973: 151])。 禁止は一つの命令として人間に与えられる。換言 すれば,それは人間の意識あるいは理性に訴えかけ る。とすれば,禁止が有効になるには認識がなくて はならない。つまり,前提として労働の地平が存在 しなければならない。この地平を構築したのは,自 死の禁止,「我を殺すなかれ」であった。ということ は,俗の世界を前提とする限り,このものに言及す る必要はなくなるだろう。なぜなら,そこは自死の 禁止の上に成立する世界であるのだから。したがっ て,自死の禁止とは,いわば,隠された禁止として あることになる。他者の暴力についての禁止をはじ めとして,各々の禁止とは,この隠された禁止の上 にはじめて成立可能となる。あるいはまた,暴力や その他の禁止が自死の禁止の上に成立することによ り,後者が見えなくなると言ってもよい。いずれに せよ,人間が人間として生きている限り,彼らは, 何をしようと,どこにいようと,すでにこの禁止の 遵守の中にあるということになる。 5.自己命令 このような生から死,あるいは,死から生を往復 するバタイユ理論の根底にはエネルギーの循環理論 がある(吉田[2007:136-143])。そして,エネルギー 論の観点から考えれば,個体が死のうが生きていよ うがその総量に変化はない。このことから自然の世 界に生と死の分割は存在しないと考えることができ る。動物の世界を考えても同様のことが言える。動 物は他の動物を食べて生きる。ここで死と生は結び ついている(Bataille[1987:62-63=2004:96-97])。 また単細胞生物の細胞分裂による増加にも同様の現 象が見られる。細胞が分裂したとき,最初ひとつで あった細胞は死んでいる。この死によって細胞は二 つと化す(Bataille[1987:97-98=2004:159-162])。 生殖活動の局面においても,新たな個体が生まれる ために,古い個体が死ななければならないことは事 実である。この見解は生殖活動を微細に見ていくと 明らかとなる。新たな生命は精子と卵子の合体によ り生み出される。その時,精子と卵子は死ぬと考え られる。ここでもまた,生と死が分かちがたく結び ついている(Bataille[1987:20=2004:22])。バタイ ユには,生と死の結びついた動物性の世界,あるい は自然界とは,エネルギーが「爆発し枯渇」する世 界として映っている(Bataille [1976a:73=2011: 117])。 ところが,人間は生と死の間に分割線を引き,後 者を禁止の対象とする。こう考えると分割線と禁止 とは同じ意味となるだろう(4) この分割が人間文化を切り拓いていることは明ら かである。人間は分割線を引き,そこを特別視する ことにより世界を切り拓く。デリダはこの分割線を 「差異のたわむれ」と呼ぶ(Derrida[1967b:73=

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1972 (上): 104])。そして,この分割線から言語 空間,あるいは,表象一般の空間が開かれることを 指摘している(5)。つまり,この分割線により,意味 の世界もまたあらわれるということである。しかし ながら,この分割線自体に意味はない。だからこそ, デリダはそれを「たわむれ」と呼んだのである。バ タイユは死を「空無vide」と呼んだ(Bataille[1987: 61=2004:94)。しかし,極論すれば,分割線どころ かこの分割の運動自体が「空無」であるとも言える。 そこに意味など探しても無駄であろう。意味とは, この無意味な運動によりあらわれるのだから。つま り,意味とはこの禁止(=分割線)の比岸に成立す るだけであり,この禁止自体に意味はないのである。 この分割線=自死の禁止とは,自己が自己の上に 課しているものであることは先に見た。そうである 限り,この禁止の有効性は必然的に自己の意志に依 拠する。ところが,先に見たようにこの禁止には意 味がない。 バタイユは「知力の中にはひとつの盲点がある」 と言うが,この禁止はその盲点として考えることも できるだろう(Bataille[1973a:129=1998: 254])。 そして,彼はまた,理性が「効用主義的限界」 (Bataille[1961:62=2001:38])を持つことをも指摘 している。理性あるいは意識が限界づけられている のは,それが分割線によって限定されているからで ある。そして,意識は分割線の内部に生起する諸意 味しか取り扱うことはできない。それゆえ,意識は, 分割線およびその外部を把捉することはことはでき ない。後者の意識の外部を意識が捉えることができ ない,ということは説明するまでもないだろう。で はなぜ分割線の意味まで捉えることができないのだ ろうか。 分割線は意味自体を構成する要素である。そして, 意識が分割線(とそれによって生起した俗なる世界 との関係)の意味を十全に捉えようとすれば,意識 はこの分割線を越え,自身の外部に赴かなければな らない。そうすることによって,意味の生成の過程 をつぶさに把握しなければならない。もし分割線に 意味,目的,価値といったものがあるとすれば―― 前述のように,デリダはそれはないと考えている― ―,そうすることによってしか捉えることができな いだろう。ところが,意識が意識の外部へたどり着 けば,意識自体は消滅する。それゆえ,意識は決し て分割線そのものの意味を捉えることはできない。 ゆえに,意識にとってこの禁止=分割線は意味の不 在の領野となる。そうである限り,意識はこのもの を不気味なものとして恐れることになるだろう。反 して,同時に,意識はそれに惹かれもする。至高性 とはここに宿る。連続性を手に入れるにはこの分割 線を乗り越えるしかないのだから。結果,意味が不 在であるこの禁止は俗の世界においては極めて危険 な性質をはらむこととなるだろう。 それゆえ,「私は私が死ぬことを禁ずる」という禁 止の意味――なにゆえこの禁止を守り,この世界に いるべきか――は,探したところで決して見つから ないことになる。こうした無意味性とその危険性を 隠蔽するため,あるいは意識をこのものから逸らす ため,人間は宗教,倫理,法,道徳を構築してきた。 つまり,この禁止の上に新たに諸々の禁止を構築し てきたということである(6)。ブラウンの言葉にした がえば,人間は「死と戦うために歴史を作る」ので ある(Brown[1959:101=1970:110])。 これらの新たな禁止は新たな至高性の運動と平行 してあらわれる。バタイユは至高性の運動を,供犠, 祝祭における破壊,戦争,消費という形態で分析す る(Cf. Bataille[1949=1973],Bataille[1973b=2002])。 この説明は,西欧の歴史と平行する事象だと思われ る。そこで至高性と禁止は次のように連動している。 それぞれ見ていこう。 供犠の前段階には,自死の禁止がある。自死の違 犯の代替行為として供犠が成立する。つまり,限り なく自己に近い他なるものを殺害するのである。次 に,この禁止を基礎にして戦争があらわれる。戦争 とは供犠の代替行為である。つまり,戦争には前提 として,暴力が自集団内の他なるものに対して向け られることについての禁止がある。この禁止を遵守 しつつ,その暴力は他集団へ向けられる。ここに戦 争があらわれる。さらに,戦争の禁止が財の消費(あ るいは消尽)という行為をもたらす。後者は他集団 との血で血を争う戦争行為の代わりとしてある。こ

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のように,供犠には自死の禁止が,戦争には自死と 他者の殺害の禁止が,消費には自死,他者の殺害, 戦争の禁止,と歴史を追うごとに禁止が重ねられて いく。さらに,供犠,戦争,消費という活動自体が それぞれ俗なる世界では禁止の対象になっているこ とも忘れてはならない。それらは聖なる時間におい てしかなされることはない活動である。 一方,そこにあらわれる至高性は常に有用性を含 んでいる。なぜなら,供犠のさなかには自死の禁止 が,戦争のさなかには自死の禁止と自集団の殺害の 禁止が,消費行為のさなかには自死の禁止,自集団 の殺害の禁止,そして生産性の回復が不能になるま での消費が禁じられているからである。どれをとっ ても,決して自己が死ぬわけではないことは一目瞭 然である。それらが真の至高性ではないことは明ら かであろう。 さらには,次第に至高性が禁止に,すなわち有用 性に侵食されつつあること,つまり,バタイユの言 う至高性の「横滑り」が生じていることが理解でき るだろう(Bataille [1973b: 49=2002:47])。そして, この過程の中で,最下層にある自死の禁止は隠蔽さ れ見えなくなるだろう。それゆえ,バタイユはそれ らの順序にしたがい人間が自死から遠ざかっていく ――つまり至高性が弱くなる――ことを指摘するの で あ る ( Cf. Bataille[1949=1973] , Bataille [1973b= 2002])。 このことはすなわち,人間が次第に意味の世界に 拘泥していく歴史を示してもいる。つまり,この歴 史とは次第に「私は私が死ぬことを禁ずる」という 命令に無条件に従う,あるいはそれを問うことを忘 却していく道筋である。あるいはまた,バタイユの 読解したコジェーヴの説くヘーゲルに従えば,世界 を知で包摂する道筋と考えることもできるだろう。 しかしバタイユはそれには抵抗する。人間には,常 に至高性への傾動があると。バタイユはこれを「使 いみちなき否定性」とも呼ぶ(Hollier[1979:171= 1987: 161])。 この否定性はあの分割線を否定,破壊することを もいとわない否定性である。世界が意味に満ちたと ころで,あるいは,満ちるからこそ,意味の根源の 意味が疑義にかけられ,否定されるのである。 6.意識と意味 バタイユにとっての問題はあくまでも至高性であ る。それはあの分割線を乗り越えるときに十全なも のとなる。しかし,それは可能であろうか。一つの 方法としてはこれまで述べてきたように,単純に個 体が自身を殺すことがあげられる。個体性が消滅し てしまえば,そこには分割線はなくなる。しかし, 分割線とは単に意識的問題である。ならば,人間の 意識を消滅させれば,その分割線も消えうせるであ ろう。 バタイユがことさらにエロティシズムにこだわる 理由は,ここにある。エロティシズムは動物性,あ るいは連続性の世界へ人々を近づけることは事実だ からである。すなわち,エロティシズムには肉体感 覚をもとにしたエクスターズがつきまとっているか らである。そこにおいては,必然的に自己を自己と して成立させている個体性の意識は失われるであろ う(Bataille[1987:35=2004:50])。つまり,隠され た禁止は打ち破られるであろう。一方,エロティッ クな行為に耽ったところで,命を落とすことはまず ない。したがって,たしかに,これは死なずに死ん でいる体験をもたらすように見える。 しかし,問題が意識ということであれば,それは もはや肉体にかかわる必要もなくなるだろう。つま り,意識の操作だけで至高性へ近づく手段もあるだ ろう。バタイユが,頻繁に取り上げる供犠はその代 表例である。そこにおいて参加者は,犠牲が死ぬの をただ眺めるだけである。この儀礼を,バタイユは 至高性に近づく儀礼の代表的なものとして頻繁に取 り上げている。そこにおいて,人々は意識の操作の みで至高性への道を歩むことになっているはずであ る。 ところが,前述のように,供犠は歴史の中で消え てしまっている。では,近代社会において,肉体に 依拠せず,意識が意識を破壊することはいかにして 可能となるか。バタイユは,それは意識を「逆向き にやりなおすこと」であると説明する(Bataille

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[1973b:132 =2002:130])。そしてまた,それは著書 『内的体験』において取り組まれてもいる(Bataille [1973a=1998])。そこでバタイユは至高性とヨガの 体験との類似性を認めている(7)。他方,その違いも 強調している。両者の相違点については,たとえば, 次のように説明される。 「あの人たち〔インド人たち〕の不幸は,キリスト 教徒たちの場合とはたしかに違っているにせよ,救 済というものに心を砕く点にある。周知のようにイ ンド人たちは,もはや二度と生まれ変わらないとい う最終的解放のときまで,一連の再生を思い描く」 (Bataille[1973a:31=1998:56] 〔 〕内は引用者 による補足)。 「私はヨガと同じ手段(赤裸に剥かれた手段)を, 絶望のうちにあって用いようとするのである」 (Bataille[1973a:28=1998:49])。 ヨガには「救済」「解放」「再生」といった目的が ある。何がしかの意識あるいは功利的な目的に到達 することを目的にする限り,それはバタイユの試み とは対極に位置する。なぜならバタイユの試みとは いかなる意識も持たないことを目指すからである。 だからこそ,これは「絶望」的なのである。 しかし,意識の操作により意識を消失させること は本当に可能か。バタイユは至高性を浮き彫りにす るために,その体験を記述する。しかし,その体験 のさなかには,記述しようとする意識さえない。な らば,のちにそれを記述することは不可能である。 したがって,その記述は必ず失敗する。バタイユは このことを熟知している。その上で,彼は記述する。 なぜか。 彼は,失敗することにより,記述しようとしても できない何ものか,つまり,何ものでもないものを 照射することを試みているからである(8)。至高性の 記述はこの失敗を通してしか語られることはないで あろう。 7.おわりに この失敗の試みは,生きている限り,意味をもた らすことになる。 いかなる意味だろうか。 言語化不能の,無意味,あるいは「空無」の体験 という意味である。いわば無意味という意味である。 バタイユは至高性の体験をもとに人間の文化と歴 史を語っている。それは彼の語る歴史がこの無意味 という意味の体験を基礎にして記述されているとい うことになるだろう。 もう一度整理すると次のようになる。まず,生と 死のあいだに分割線を引く。次に,その分割にした がい死を禁止する。同時に,その否定,遠隔化ある いは,そこからの逃走としての俗なる,意味の世界 が構築される。そしてさらに,この世界は死の禁止 の上に無数の禁止を覆いかぶせる。 バタイユは至高性の体験から俗の世界を記述する。 そのことにより,至高性と俗の世界の分割に意味は ないこと,その分割線が死の禁止であること,そし てまた,その死の禁止にも意味はないことを浮き彫 りにする。これらは意味の世界が,至高性の,無意 味の世界に依拠して,その上に成立しているという ことを示すだろう。このことは,意味の世界が無意 味であることをも示す。次のように言うこともでき る。無意味な分割によって生じた世界とはすべて無 意味であり,それゆえ,至高性の世界も俗なる世界 もともに無意味である,と。バタイユのように自覚 的に至高性を求め,そして,また,その至高性から 帰還した者はこういったことを知ることになるだろ う。 バタイユは,古代社会における俗なる世界が死を 避ける世界であることを明らかにしている。しかし, 同時に,他方では,その世界のかたわらに聖なる世 界も存在していたことを明らかにする。そこにおい て人々は至高性と向き合っていたのである。したが って,彼らは二つの世界を常に維持していたのであ る。他方,彼らはおそらく上述のような無意味につ いての知覚を持ってはいなかったであろう。しかし, 彼らが至高性と俗の双方の世界に価値を置いていた ことは事実のように思われる。

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ところが,近代社会では,この二世界が大きく変 動し,至高性が追放され,俗の世界が大きく肥大し た。バタイユの思想はこうした近代社会を徹底的に 批判する。しかし,彼は俗の世界を破壊することを 主張しているのではない。あるいはまた,古代社会 のような生活を取り戻そうといっているのでもない。 あるいはまた,古代人のような無自覚な意識に戻る ことを可能と考えているのでもない。 彼が批判を向けるのは近代社会に存在する悲劇で ある。もっとも大きなものは戦争であるが,それだ けではなく,合理性と生産至上性によって人間の本 質である至高性が抑圧されているという事態である。 バタイユが俗の世界の無意味性を暴露するのはこの 悲劇を除去するためであると言ってよい。 無意味なものとはどうでもいいものではない。破 壊すべきものではないはずである。必要なことは, 俗の世界を破壊することではなく,その無意味性へ の自覚であろう。いったん形成された俗の世界をす べて破壊することなどおそらく不必要であろう。し かし,そこから悲劇を除去するために世界を再構成 することは可能であろう。その前段階として必要な のは世界の無意味性についての自覚となるだろう。 バタイユが言う意識を「逆向きにやり直すこと」と は,その操作の第一歩を示しているに違いない。 注 (1)もちろんバタイユの聖俗理論はデュルケーム のそれとは大きく違っている。最大の相違点は, バタイユが聖を違犯の世界としか捉えていないと ころにある。デュルケームの聖には浄と不浄の二 つの聖があったがバタイユはこの聖概念は歴史の 中(とりわけキリスト教の内部)で出てきたもの であると考える(Bataille[1988a=1973])。つまり, バタイユにとっては聖とは違犯であり俗とは禁止 遵守の世界となる。 (2)次のバタイユの説明を参照のこと。 「至高な世界,あるいは聖なる世界,つまり実行の 世界に対立する世界はまさに死の領域である」 (Bataille[1976e:269=1991: 48])。 (3)次のバタイユの説明を参照のこと。 「暴力を意味する死」(Bataille[1987:48= 2004: 72])。 「原初の禁止は暴力に対するものとしても説明さ れる」(Bataille[1987:45=2004:67-68])。 (4)もちろん,この分割線が一気に禁止と違犯の 意味を呼び起こすことはない。バタイユによれば, ネアンデルタール人は死を知覚し労働を行うが, 違犯という体験を持たない。その後にあらわれる, (ラスコー人を代表とする)ホモ・サピエンスだ け が 違 犯 を 行 う (Bataille [1979a:17-42= 1975:35-95])。 (5)次のデリダの説明を参照のこと。 「われわれが世界の中でもっとも親密なものと して,親密性そのものとして知っていると信じて いる外部,「空間的」,「対象的」な外面性は, 書かれたものグ ラ メ ー ,間-化としての差延作用,現在の 意味の中に書きとめられた他者の非-現前,生き た現在の具体的構造としての死への関係,なしに は現れないであろう」(Derrida[1967b:103= 1972 [1990](上): 143])。 (6)次のバタイユの説明を参照のこと。 「死の領域は,人間にとって禁じられた領域であ る。歴史的には,人間が死人たちを埋葬するとき に,聖なるものと俗なるものとの根源的な弁別が, はっきりとはじまる。他方,さまざまな生活態度 や,さらには現実世界の次元で,それを規制する さまざまな禁止の存在が,人間性を定義づけるこ とになる」(Bataille[1988e:423= 1973:147])。 (7)次のバタイユの説明を参照のこと。 「私たちの精神のもっとも内的な運動を制御する 方法で,時間さえかければ手に入れられるものが ある。すでに周知の,あのヨガ..だ」(Bataille [1973a:28= 1998:49] 強調はバタイユ)。 ここで言われている精神の「内的な運動」とは意 識の理性的あるいは知的運動のことである。 (8)このことをはっきり指摘したのはデリダであ る。Derrida[1967a=1977-1983(下)]の第Ⅸ章「限 定経済学から一般経済学へ」を参照のこと。

(9)

参考文献

(邦訳のある文献の場合,本文中の引用箇所につい ては一部変更したものもある)

Bataille, G. 1949 [1967] La part maudite, Minuit (=1973 [1989] 生田耕作訳『呪われた部分』,二 見書房).

―― 1961 Les Larmes d’Eros, Jean-Jacques Pauvert (=2001 森本和夫訳『エロスの涙』,ちく ま学芸文庫).

―― 1973a L’expérience intériuere, in Œuvres complètes〔以下「O.C.」と略記〕Ⅴ, Gallimard, pp. 7-234 (=1998 出口裕弘訳『内的体験』,平 凡社ライブラリー). ―― 1973b[1995] La théorie de la religion, Gallimard (=2002 湯浅博雄訳『宗教の理論』, ちくま学芸文庫).

―― 1976 a L’histoire de l’érotisme, in O.C.Ⅷ, Gallimard, pp. 7-165 (=2011 湯浅博雄他訳『エロ ティシズムの歴史』,ちくま学芸文庫).

―― 1976b La limite de l’utile, in O.C. Ⅶ, Gallimard, pp.181-280 (=2003 中山元訳『呪われ た部分 有用性の限界』,ちくま学芸文庫). ― ― 1976c ‘Notes—Conference’, in O.C. Ⅷ , Gallimard, pp.563-592 (=1999 西谷修訳「非- 知の未完了の体系 関連草稿」,『非-知』,平凡社 ライブラリー,131-198).

―― 1976d ‘Le paradoxe de la mort et la pyramide’, in O.C.Ⅷ, Gallimard, pp.505-520 (=1973 山本功訳「死の逆説とピラミッド」,『神 秘/芸術/科学』,二見書房,99-132 頁). ― ― 1976e La souvereineté, in O.C. Ⅷ ,

Gallimard, pp.243-456 (=1991 湯浅博雄訳『至高 性』,人文書院).

― ― 1979a[1993] Lascaux in O.C. Ⅸ , Gallimard, pp. 7-101 (= 1975 出口祐弘訳 『ラス コーの壁画』,二見書房).

―― 1979b[1993] La littérature et le mal in O.C.Ⅸ, Gallimard, pp. 169-316 (= 1998 山本功 訳『文学と悪』,ちくま学芸文庫).

―― 1987 L’érotisme, in O.C. X, Gallimard, pp.7-270 (=2004 酒井健訳『エロティシズム』,ち くま学芸文庫).

―― 1988 a ‘Du rapport entre le divin et le mal’, in O.C. XI, Gallimard, pp. 198-207 (=1973 山 本功訳「崇高なものと悪との結びつき」,『神秘/ 芸術/科学』,二見書房,226-242 頁).

―― 1988b ‘Hegel, l’homme et l’histoire’, in O.C. Ⅻ (articles Ⅱ , 1950-1961) ,Gallimard, pp. 349-369 (=2009 酒井健訳「ヘーゲル,人間と歴史」, 『純然たる幸福』,ちくま学芸文庫,232-272 頁). ―― 1988c ‘Hegel, la mort et le sacrifice’, in O.C. Ⅻ (articles Ⅱ, 1950-1961), Gallimard, pp. 326-345 (=2009 酒井健訳「ヘーゲル,死と供犠」, 『純然たる幸福』,ちくま学芸文庫,194-231 頁). ―― 1988d ‘la laideur belle ou la beauté laide dans

l’art et la littérature’, in O.C. XI, Gallimard, pp. 416-421 (=1973 山本功訳「芸術および文学にお ける美しい醜さ,あるいは醜い美しさ」,『神秘/芸 術/科学』,二見書房,259-268 頁).

―― 1988e ‘Qu’est-ce que l’histoire universelle?’, in O.C. Ⅻ (articles Ⅱ, 1950-1961) , Gallimard, pp.414-436(=1973 山本功訳「世界史とは何か」, 『神秘/芸術/科学』,二見書房,133-171 頁). ―― 1988f ‘La religion préhistorique’, in O.C. Ⅻ

(articles Ⅱ, 1950-1961), Gallimard, pp. 494-513 (=1973 山本功訳「先史時代の宗教」,『神秘/ 芸術/科学』,二見書房,172-205 頁).

―― 1988g ‘Sommes-nous là pour jouer? où être serieux?’, in O.C. Ⅻ (articles Ⅱ , 1950-1961), Gallimard, pp. 100-125 (=1973 山本功訳「わたした ちが存在しているのは,たわむれるためか,まじめでい るためか」,『神秘/芸術/科学』,二見書房,10-53頁). Brown, N.O. 1959 Life against Death, Wesleyan

University Press (=1970 秋山さと子訳 『エロス とタナトス』,竹内書店新社).

Derrida, J. 1967a L’Ecriture et la difference, Seuil (=1977-1983 阪上脩他訳『エクリチュー ルと差異』(上・下),法政大学出版局).

(10)

[1990] 足立和浩訳『根源の彼方に グラマトロ ジーについて』(上・下),現代思潮社).

Durkheim, E.1912[1994]Les formes élémentaires de la vie religieuse, Presses Universitaires de France(=1991 古野清人訳『宗教生活の原初形 態(上・下)』,岩波文庫).

Hegel, G.W.F. 1929 Phänomenologie des Geistes, hrsg. v.J. Hoffmeister (=1979[1995]金子武蔵訳 『精神の現象学』) (上・下),岩波書店).

Hollier, D. 1979 Le collège de sociologie, Gallimard (=1987 兼子正勝・中沢信一・西谷修 『聖社会学』,工作舎).

Kojève, A. 1947 Introduction à la lecture de HEGEL, leçon sur la phénoménologie de l’esprit professés de 1933 à 1939 à l’Ecole des Hautes Etudes, réunies et publiées par Raymond Queneau, Gallimard (=1987 上 妻精・今野雅方訳『ヘーゲル読解入門』,国 文社). 吉田裕 2001a 『異質学の試み バタイユ・マテリ アリストⅠ』,書肆山田. 吉田裕 2001b 『物質の政治学 バタイユ・マテリ アリストⅡ』, 書肆山田. 吉田裕 2007 『バタイユの迷宮』,書肆山田.

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