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価値の実在性--価値判断と客観性---香川大学学術情報リポジトリ

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(1)

価 値 の 実 在 性

一 一 価 値 判 断 と 客 観 性 一 一

笠 原 俊 彦

I

序 前の論文において,わたくしは,真の価値ないし客観的価値を客観的に認識 することを諦め,経験一実在的とよばれる精神的態度をとることを明らかにし た。 真の価値を客観的に認識することができるという主張は,シェーンフ。ルーク においては,規範科学的思惟の根幹をなすと考えられていたのであるが,それ は,また,わたくしが形成した規範科学の理想型においても,やはり,その根 幹をなす標識である。なぜなら, この標識,すなわち規範科学の理想型の第二 の標識は,真の価値が存在するという主張ないし規範科学の理想型の第一の標 識を受けて,これを人聞の認識に関連づけ,このようにして,規範科学の観念 を成立させるばかりではない。それは,また,このことによって,政策論の主 張とL、う規範科学の理想型の第三の標識,および人間世界の全体的認識への貢 献の意図という第四の標識をも,基礎づけるものだからである。 この意味で規範科学の根幹をなす,真の価値を客観的に認識することができ る,とし、う主張をとることなく, しかもなお,科学的研究に携わろうとする者 にとって,残された途は,規範科学から区別される,経験一実在的とよばれる (1) 笠原俊彦稿 rr客観的」価値の認識の客観性J W香川大学経済論叢』第59巻第 3号, 1986 年12月。 (2)規範科学の理想型の標識については,笠原俊彦稿「規範科学の一理想型一価値判断と客観 性一J W香川大学経済論叢』第59巻第 2号, 1986年9月,とりわけ第V節を参照のこと。

(2)

-62ー 第60巻 第2号 348 精神的態度をとる科学の途,シェーンフ。ルークのいわゆる存在科学 (Seins -wissenschaft )ないし経験科学 (Erfahrungs-wissenschaft) の途であろう。 ここに経験一実在的とよばれる精神的態度とは,人間によって経験されるか ぎりでの実在,すなわち経験的実在,の世界によって画される限界を意識し, これを尊重する精神的態度であった。そして,科学とは人聞の認識行動および その結果である, という考え方をとるならば,存在科学ないし経験科学とは, このような精神的態度をとる人間の認識行動およびこの結果で、ぁ

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〕というこ とができるであろう。 このように経験科学の途をみずからの進むべき途として選ぼうとするとき, わたくしは,規範科学の理想型の第一,第三および第四の標識を,そのまま受 けいれることができない。わたくしが断念した規範科学の理想型の第二の標識 は他の三つの標識と密接に関連しているがゆえに,前者を断念するわたくしの 態度は,後三者に対するわたくしの態度を特定方向に向けることにならざるを えないのである。 これからの一連の研究において,わたくしは,存在科学の途を選ぼうとする 者にとって,規範科学の理想型の諸標識はどのようにみえることになるか,そ してとりわけ,規範科学の理想型の諸標識と対比して,存在科学の諸標識はど のようなものでなければならないか,を明らかにしたし、。わたくしが選んだ存 在科学の途は,けっして自明ではないからである。規範科学の諸標識は,いず れも価値判断にかかわるものであり,したがって,わたくしの考察は,存在科 学を価値判断にかかわる諸標識について明らかにすることになるであろう。 (3)笠原俊彦 前掲稿 51ー52ベージを参照のこと。 わたくしは,そこで r経験的実在の世界によって画される限界」が何かは重要な問題で あるように思われることを述べておいた。 (4) したがって,わたくしは,実在論の立場に立つ。ポパーと同じく (CfK R Popper, Objective Knowledge, An Evolutionary Approach, revised edition, Oxford, 1972, 1979, p 38.),わたくしも観念論が証明も反駁もできないと考える。ただ,わたくしは,観 念論に対しては,つぎのようにいいたいのである。 一ーたとえ,この世が夢だとしても,わたくしはこの世の中で考え生きるだけである。い まのわたくしに出来ることは,この世の中で考え生きることだけであるから。一一

(3)

349 価値の実在性 -63 わたくしは,まず,規範科学の理想型の第一の標識について, このことを明 らかにしたいのであるが, この論文では, とりわけ,真の価値ないし本質とし ての価値から区別される実在としての価値が実在するということの意味,すな わちその実在性の意味,を明らかにすることにしよう。

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経験科学の対象としての価値 規範科学の理想型の第一の標識は,人間の全体に客観的に妥当する価値,す なわち真の価値,が存在する,と考えることであった。そして,第二の標識は, このような価値を客観的に認識することができる, と考えることだったのであ る。 わたくしは,前の論文で,この第二の標識をとりあげ,真の価値を客観的に 認識することはできない, と述べたのであるが,このことは,規範科学の理想 型の第一の標識を否定するものlではけ、っしてない。わたくしは,真の価値が, 規範科学的意味で存在するとも,存在しないとも,いうことができなし、。わた くしにいえることは,それが,実在する人聞にとって認識できる実在ではない, ということである。 経験科学が認識しようとするものは,実在するもの,ないし実在である。そ こで,経験科学は,価値についていえば,実在する価値,ないし実在としての 価値を認識しようとする。 この価値は,規範科学の観点からすれば,概して,偽の価値とよばれるもの であるが,また,そのうちに真の価値を含むことができると考えられたもので ある。だが,経験科学は,規範科学と異なり,実在としての価値のうちに,真 の価値と偽の価値とを識別しようとするものではない。このような識別のため には,真の価値そのものの客観的認識が必要なのであるが,真の価値の客観的 認識は,実在としての人間にとって,少なくとも現在,不可能だったからであ (5) 笠原俊彦稿 rr客観的」価値の認識の客観性」

(4)

-64- 第60巻 第2号 350 る。そこで,経験科学は,ただ,実在としての価値を認識しようとする。 実在としての価値は,本質ないし類としての人間ではなく,実在としての人 間ないし個人が有している価値である。それは,個人の行動およびこの結果の うちに現れる。そこで,それは,個人の行動および行動結果について研究され なければならなし、。だが,ここに実在としての価値とは,あるいは価値が実在 するとは,何を意味するのであろうか。 読者のなかには,価値が実在する, とし、うわたくしの論述に疑問を呈するひ とがし、るかも知れなし、。このようなひとは,例えば,つぎのようにいうであろ う。 一一草や木や石や山や川は,そして鳥や犬や牛や人聞は,たしかに実在する。 また,人聞が作った鉛筆や書物や衣服や家も実在する。だが,価値なるもの は,このような意味で実在するといえるのだろうか。草や木,山や川[,鳥や 犬,人間,さらには鉛筆や書物や衣服や家具,家などは,見たり触ったり, あるいは味わったり,そのにおいを嘆いだり,またはその音やさえずりや声 を聞いたりして,そこに実在していることを確かめることができる。だが, 価値なるものは,見ることも触ることも,味わうことも喚ぐことも,聞くこ ともできず, したがって,そこに実在していることを確かめることができな し、。 一一一 あるいは,また,かれはつぎのようにいうかも知れない。 一ーたしかに,あるひとがあるものを賞賛する言葉を,聞くことはできる。 また,そのような言葉を書物のうちに見ることはできる。しかし,ここに聞 いたり見たりすることができるものは,音声または紙上のしみであって,価 値ではない。音声やしみは,けっして価値ではない。一一 このような疑問に対しては,わたくしは,つぎのように答えたい。 (6) 真の価値と偽の価値との識別については,つぎを参照のこと。 笠 原 俊 彦 前 掲 稿 134ページ。 (7) ここにいう草や木,山や川,烏や犬や牛や人間は,いうまでもなく個体としてのそれで あって,類としてのそれではなし、。また,以下にしみ鉛筆,書物,衣服等も同様である。

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351 価値の実在性 -65-たしかに,価値そのものは,見たり触ったり嘆いだりすることのできないも の,すなわち,人聞の感覚器官によって感覚することのできないもの,である。 それは,人間の観念の一つ,しかも主要なそれである。そして,人間の観念そ れ自体は,人間の感覚器官によって感覚することができる形で存在するわけで はない。だが,それにもかかわらず,人間の観念,そしてこの一つである価値 は,実在する。わたくしは,このことを,以下のように説明しよう。 人聞が,草や木のような,感覚することのできる実在としての対象を意識す るとき,人聞は,ただそれを感覚しているわけではなし、。人聞は,実在として の対象を感覚するとともに思考し,観念を形成することによって,それを意識 する。わたくしが小道を歩いていて,例えばすみれをみつけるとき,わたくし は,その小道にあるこの特定の対象について観念を形成することによって,こ れを意識しているのである。このことこそ,感覚から区別される知覚の意味す るところにほかならなし、。もっとも,この場合,ここにいう観念の明瞭性の程 度は, さまざまである。すなわち,この観念は,いちじるしく履昧であるとと もあれば,非常に明確であることもある。 わたくしがここに形成した観念そのものは,この観念の対象としての実在と 異なり,わたくしが,または他人が,感覚することのできるものではなし、。に もかかわらず,それは実在する。わたくしは,この観念を形成し,わたくしの うちに実在させたがゆえに,わたくしが見た特定の対象を意識したのである。 わたくしが通る小道に実在するこの対象は,ただ実在するだけでは,意識さ れない。それは,また,たとえわたくしによって見られたとしても,それだけ では意識されない。わたくしに見えていながら, しかもわたくしが意識しない 実在は,無数にある。わたくしが出逢い見た特定の対象を意識するのは,わた くしがこの対象の観念を形成し, この観念をわたくしのうちに実在させている からである。この観念が実在しないならば,わたくしは,わたくしの眼前にあ り,わたくしが見ている対象を,意識することができず,したがって,そこに その対象が実在することを知ることができない。そこに実在するすみれは,い わば,わたくしにとっては実在しないことになるのである。

(6)

66- 第60巻 第2号 352 わたくしは,わたくしが感覚できる対象が実在することを承認し,わたくし がこの実在する対象を意識していることを承認するかぎり,わたくしがこの対 象について形成している観念が実在していることを承認せざるをえない。 このような観念は,わたくしがすみれに対して何らかの程度の関心を持つこ とによって,または注意することによって,わたくしのうちに形成され,実在 する。そして,わたくしがすみれに注意するのは, しばしば,わたくしがすみ れに価値を見出すことによるのである。このとき, この価値は,わたくしの意 識内容として実在する。 読者は,わたくしが,ここで r関心をもつこと」または「注意すること」と 「価値を見出すこと」とを区別していることに注意されたい。この二つは, し ばしば重なり合うが,しかし,けっして同ーではない。 ひとは,ある感覚的刺激を受けて何らかの対象に注意し,この対象について の観念を形成することがある。そして,かれは, この観念をもって,さらに同 種の対象を捜すこともあり,また,この観念を記憶することもある。にもかか わらず,かれは,そのとき,これらの対象に,必ずしも価値を見出しているわ けではない。例えば,幼児が初めて出逢ったある食物を指し示して,母親に, 「あれは何

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と尋ねるとき,かれは,かれが関心をもち,観念を形成したば かりのこの対象に,何らかの価値を見出しているわけでは必ずしもない。そし て,かれがこの対象に価値を見出す場合,この価値は,しばしばかれがこの対 象に注意し,観念を形成したのちに現れる。幼児は,母親によって,かれが疑 問を発した対象の名称を教えられ,それとともに,例えばそれが美味しいもの だと教えられ,または食べさせられて,その観念をより明確化するとともに, それに価値を見出すのである。 しかしながら,わたくしは,ここで,少なくとも,つぎのようにいうことが できるであろう。このような価値は, しばしば,わたくしが同種の対象に注意 することを容易にし,この対象についてのわたくしの観念の形成の仕方に,そ して,わたくしのうちにおけるこの観念の記憶に,重要な作用を及ぼす, と。 さて,わたくしは,以上の説明において,ひとが何らかの対象,例えばすみ

(7)

353 価値の実在性 -67 れ, v,こ価値を見出す, と述べた。わたくしは, この表現によって,例えばすみ れとし、う実在のうちに価値が実在し, これをわたくしが見出す, とし、し、たいわ けではなし、。価値はすみれのうちに実在し,それを,わたくしが,感覚器官に よって感覚し意識するわけでも,または何らかの他の方法によって意識するわ けでもなし、。わたくしには,価値を意識させる機構がわたくしに実在し,この 機構が,すみれという実在に触発されて,わたくしのうちに価値を意識させ, 観念として実在させるように思われる。この意味では,価値は,わたくしがす みれについて形成するもの,または,すみれに付与するものである。 わたくしは,いま,価値が何らかの対象のうちに実在するわけではないと述 べ,これを例示した。だが,ここで,わたくしは,ただちに,わたくしのこの 論述を限定し,価値が何らかの対象のうちに実在する場合をも認めなければな らない。観念のーっとしての価値は,ひとのうちに実在するだけではなし、。そ れは,ひとによってその外部に具体化されて実在するのである。 ひとは,その外部の実在を加工して道具を作る。ひとは,例えば羊毛を加工 して,衣服を作る。これは,羊毛から作られているが, しかし,たんなる羊毛 ではない。それは羊毛製の衣服である。そして,羊毛製の衣服とたんなる羊毛 との相違は,前者が人聞の特定の観念に則して加工され,この観念を具体化し ているところにある。このように具体化されている観念とは,着るためのもの, ないし衣服,とし、う観念と結びついた価値である。羊毛は,このような価値を 具現し,実在させることによって,衣服となる。そして,ひとは,かれが対峠 し感覚する実在のうちに,このような価値を読みとることによって,それを衣 服として認識する。すなわち,ここでは,かれは,外部に具体化されている価 値を,みずからのうちに,一つの観念として実在させるのである。 人間の外部へのこのような価値の具体化は,人聞社会における制度のーっと しての社会的構成体についてみるとき,一層明確である。ここで,わたくしは, 制度を,何らかの社会において何らかの範囲の人聞に共通な行動の型,ないし人聞 の社会的行動の型, として理解し,このような制度のうちで意識的に形成され ているものを,社会的構成体とよぶことにしよう。

(8)

-68- 第60巻 第2号 354 銀行は,このような社会的構成体の一例である。それは,建物でも器具でも, 受け渡しされる貨幣でも,または人間でもなし、。それは,人閣の社会的行動の 特定の型ないし様式である。この社会的行動の様式は貨幣に関して成立し,貨 幣をその成立の不可欠の条件としている。だが,貨幣に関して成立する人間の 社会的行動の様式のすべてが銀行ではない。銀行は, このような行動様式の一 つである。銀行とよばれる行動様式は, さらに,建物や器具を利用す町る。これ ら貨幣,建物,器具などが,すでに,人聞の価値を外部に具体化した実在であ ることは,いうまでもなし、。銀行は,これら,一部は不可欠の,一部は不可欠 ではないが有用な実在を用いる人聞のとりわけ意識的な特定の行動であり,こ の行動は,人聞の特定の観念と結びついた価値を具現する。この価値がその社 会の人間によって共有され具現されることによって,それは,銀行とよばれる 人聞の社会的行動の特定の型を示すのである。 人間の社会には,意識的または無意識的に形成されているさまざまな行動の 型ないし制度がある。そのうち,意識的に形成されている行動の型ないし社会 的構成体は,何らかの観念と結びついた価値が,その社会の人間によって共有 され,具現されることによって,成立する。ひとは, このような社会的構成体 を,直接に感覚するわけではない。かれは,そこに具現されている価値を理解 することによって,その社会的構成体を認識し,また,その価値の共有と実現 とに参加することによって,みずからも,その社会的構成体を成立させ,ある いは維持する。 このような社会的構成体こそ,社会科学の主たる対象であったし,また主た る対象である。社会的構成体の実在性を,あるいはそこに具現されている価値 の実在性を,認めないとき,経験科学としての社会科学は,成立の基盤を失う (8) そして,また,この社会的行動の特定の型が,そこに用いられるさまざまな実在に作用す る。例えば,銀行らしい建物などがこれである。ここでは,建物は,もはや,たんなる建物 の観念と結びついた価値のみて、なく,銀行とし、う行動様式が具現する特定の観念と結びつ いた価値をも具現する。この社会的行動の型は,人間の社会的行動の型を新たに作り出す。 例えば,銀行員らしい態度。そして,この社会的行動の型は,さきに述べた衣服にも作用す る。すなわち,銀行員らしい服装。

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355 価値の実在性 -69ー ことになるであろう。 人間の言語も,このような社会的構成体の一例である。それは,少なくとも ある時点以降,人聞が価値を認め形成してきたものの一つであり,この価値を具 現する。ただ,人間の雷語の場合には,この価値は,人間の価値を含むさまざ まな観念そのものを叙述し他の人間に伝えること自体をその主要内容のーっと する点で,他の社会的構成体から区別される。 人間の言語は, さまざまな実在を叙述し,観念として他の人聞に伝える。例 えば衣服は人聞が着るために使用するものであり, このことが衣服の具現する 価値の主要内容であるのだが,人間の言語は,衣服を例えばいま述べたように 叙述し,観念として他の人聞に伝えるのである。人聞の言語は, とりわけ人間 の言語それ自体をも叙述し,他の人間に伝える。わたくしが,人間の言語が具 現する価値は人間のさまざまな観念そのものを叙述し他の人間に伝えることを その主要内容のーっとする, というとき, これは,人間の言語自体の叙述の一 つなのである。 ひとは,まず,外部の実在を利用することなく,主に音声として,言語を形 成し利用する。それは,他人に理解されることを期待して形成され利用されて おり,そのため,一定の約束にしたがって形成され利用されている。この約束 は,一定地域にわたる社会の構成員のほぼすべてによって共有される。このこ とによって,それは,原則として,他人に理解され,ここに会話が成り立つの である。 ひとは,言語の形成および利用において,さらに,外部の実在を利用する。 ひとは, とりわけ,外部の実在を加工して,これを利用する。言語の利用を空 間的に拡大するためのラジオ,テレヴィジョン,電信,電話などの通信機器, そして,言語を記録し言語の利用をとりわけ時間的に延長するための文字,録 音機器などがこれである。 このように,ひとが外部の実在を利用することなく,または外部の実在を利 用して,形成し利用する言語が,たんなる音やしみでないことは,もはや,読 者の了解されるところであろう。人間の言語は,音声や文字によって観念を叙

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70- 第60巻 第2号 356 述しこれを伝える。それは,観念のーっとしての価値を叙述する。われわれが, あるものを賞賛する言葉を聞きまたは書物のうちに見るとき,われわれは,た だ音声を聞き,紙の上のしみをど見るのではなく,そこに叙述された観念を読み とるのである。 以上から,読者は,実在するものを,ひとが直接に感覚できるものに限定す ることができないこと,人間の観念,そしてこの一つである価値が,実在する ことを,一応理解されたであろう。わたくしは,さらに,価値が実在するとい うことの意味を詳しく論じたい。 III 価値の実在性と望ましさの観念ないし狭義の価値 (1) 広義の価値と狭義の価値 実在としての価値は,何よりもまず,実在する人間としての諸個人が有して いる価値である。わたくしは,規範科学にいわゆる真の価値について主張され るところと異なり,それが誰によって諸個人に与えられたかは不明で司ある, と いわなければならない。それは,また,いかにして諸個人に与えられたかも, 少なくとも現在,不明である。にもかかわらず,それは実在するのであり,こ れを,わたくしは, 自分については, とりわけそのうちに認め,また他人に、つ いては,その行動と行動結果とを介して確認することができる。 わたくしは,規範科学においては,真の価値は一つの明確な意志の要求を表 (9) 人間の言語,とくに書き言葉がなかったならば,人間の今日の社会生活の大部分,とりわ け社会的構成体のほとんどは,成立しなかったであろうし,また維持されないであろう。 人間の言語は,人間の観念の形成に影響する。人聞は言語によって思考する。かれは,内 面的に言語を介して考えるだけでなく,その思考内容ないし観念を,みずからの外部に,と りわけ書き表すことによって,明確化しようとし,また,書いたあとで再考する。このよう な思考の過程で,かれは,他の人間の話を聞き,また,とりわけ醤類や論文や書物を読むこ とによって,言語を介して他の人間の観念の影響を受ける。そして,かれ自身も,その思考 の途中経過を,または思考の結果を,言語によって叙述し伝えることにより,他の人間の観 念の形成に影響を与えるのである。 今日の社会生活の大部分,とりわけ社会的構成体のほとんどは,言語のこのような機能に もとづいて形成され,また維持されている。言語のこのような機能を認めないひとは,それ 自体人間の社会的構成体の一例であり,また他の社会的構成体に今日いちじるしい影響を 与えている,科学の実在性をも否定せざるをえないであろう。

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357 価値の実在性 rヶAマ , す質的内容を持った存在として考えられる,と述べた。規範科学においては, 真の価値は,人聞に対する一つの明確な意志の要求を表すものであるがゆえに, 人聞に対して,要求されることがら,すなわち要求内容,を示さなければなら ない。この内容は,人聞がその行動をこれに対応させることができるものであ り,それゆえにこそ,人聞は,みずからの行動が真の価値に一致しているか否 かを判断し,一致している場合には,その行動に意味を見出すことができるの である。 実在としての価値も質的内容をもっ, とみることができる。ただ, この内容 は,規範科学にいわゆる真の価値の場合とちがって,一つの明確な意志の要求 を表すわけではなし、。実在としての価値は,個人のさまざまな行動に対応し, このことによって,これら行動に応じた内容をもっ。この内容は,通常,個人 が望ましいと思う何らかの対象として意識されるものである。そこで,わたく しは,実在としての価値を, この節では, とりあえず,何らかの対象とこれに 付与される望ましいという観念とからなるものとして理解しておくことにしよ う。 ここに望ましいとし、う観念を,わたくしは,望ましさの観念とよぶことにし たい。人聞の社会的行動およびその結果を扱う科学においては,望ましさの観 念が付与される対象は,主として,何らかの社会的状態である。ある個人は, 何らかの社会的状態,例えば特定の外交政策,税制,雇用慣行,職場における 業績評価のあり方,を望ましいと考えることがある。ここに望ましいと考えら れる特定の社会的状態と,これに付与される望ましさの観念との結合体が,実 在としての価値の一例である。 ところで,価値とし、う言葉は,何らかの対象とこれに付与される望ましさの ( 10) 笠原俊彦稿「規範科学の一理想、型J67ページを参照のこと。 (11) あらかじめ断わっておけば,この説明は,次節に述べるように,不正確である。それは, 厳密にいえば,前節のわたくしの論述とも一致しない。だが,わたくしは,論述の使宜上, 本節では,あえてこのように説明しておきたい。このような説明は,その不正確さのゆえに, ある重要な論点を明らかにするのに役立つことになるからである。このことについては,次 節以降を参照されたい。

(12)

刀 - 第60巻 第2号 358 観念との結合体とは異なる意味に用いられることがある。例えば,ひとは,何 らかの対象を望ましいと考えることを価値判断とよぶ。この用語法においては, 価値とは,何らかの対象に人聞が付与する望ましさの観念である。ここでは, 人聞が何らかの対象を望ましいと判断すること,あるいは,その対象に望まし さの観念を付与することが,価値判断とよばれているわけである。 価値という言葉の以上二つの用法のうち,後者は,より分析的であり,価値 が何らかの対象におのずから存在するものではなく,この対象に対する人聞の 特殊な関係において生じること,すなわち人間がこの対象をみずからにとって 望ましいと考えることによって成立すること,を含意している。 わたくしは, ここで,これが実在としての価値の性格を明らかにするために 有用な用法であることを注意しておきたい。 規範科学における本質としての価値は,対象をそのうちに含む統一体である。 この統一体としての価値は,類としての人聞にとって, したがってすべての個 人にとって,所与であると考えられる。そこでは,人聞によって,何らかの対 象が望ましいか否かを判断され,かくして,望ましさの観念と結合された対象 が統一体としての価値として成立する,とし、うわけではなし、。本質としての価 値のうちに,対象と,これに付与される,人間からみた望ましさの観念とを区 別することは,無意味である。 これに対して,実在としての価値については,このような区別は意味をもっ ている。それは,実在としての価値が人聞の主観と関係することを明らかにし, このことによって,また,実在としての価値の他のいくつかの特質をも明らか にする途を拓くことになるからである。 しかしながら,対象と望ましさの観念との結合体を価値とよぶ用法もまた, 少なくとも論述の便宜上,捨てがたいものである。 そこで,わたくしは,以下の論述において,価値という言葉についてのこつ の用法のいずれをも,とりいれることにしたい。ただし,その場合,混乱を避 けるために,何らかの対象と望ましさの観念との結合体の意味での価値を広義 の価値とよび,何らかの対象に人聞が付与する望ましさの観念の意味での価値

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359 価値の実在性 -73ー を狭義の価値とよぶことにしよう。 さて,価値について二つの用法を区別し,広義の価値が対象と狭義の価値と から構成されると考える行き方をとるとき,わたくしが広義の価値について考 えておきたいことは,つぎのことである。一一一広義の価値が実在するためには, その要素である対象が実在しなければならないのか,または,同じくその要素 である狭義の価値が実在しなければならないのか,それとも,対象と狭義の価、 値とのこつがともに実在しなければならないのか。一一 (2) 狭義の価値と広義の価値の実在性 明らかに,ひとは,何らかの実在する対象を望ましいと考えることがある。 例えば,現行の税制を,あるひとは望ましいと考える。このとき,広義の価値 は,実在する対象について成立し実在す町る。だが, また, ひとが,現行の税制 ではなく,いまだ存在しない何らかの税制を望ましいと考え,この実現に努力 することも事実である。ここでは,広義の価値は,実在しない対象について成 立し実在する。このように,実在としての広義の価値は,実在する対象につい ても,実在しない対象についても成立するのであり,したがって,対象の実在 性は,広義の価値の実在性の必要条件ではない。 対象の実在性が広義の価値の実在性の必要条件でないとすれば,狭義の価値 の実在性こそ,このような必要条件である,と考えられるであろう。 いまだ存在しない税制を望ましいと考えるひとがし、るとき,この税制という 対象は実在しないが,これを望ましいとする考えは実在するのであり,ここで は,狭義の価値の実在性が広義の価値を実在させているのである。上例の対象 に限らず,およそ,実在しない対象について,これに対する狭義の価値が実在 するとき,実在としての広義の価値が成立する。そして,この対象に対する狭 義の価値が実在しないとき,実在としての広義の価値は成立しない。 ( 12) のちに,わたくしは,狭義の価値を再考し,例えば,これに望ましさの観念のみならず, 望ましくなさの観念をも含めることになるであろう。だが,価値の実在性を論じようとする この論文においては,このような狭義の価値の詳細な考察は,不必要である。

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-74- 第60巻 第2号 360 同じことが,実在する対象についてもいえる。実在する対象についても,こ れに対する望ましさの観念ないし狭義の価値が実在しなければ,実在としての 広義の価値は成立しなし、。そこには,たんなる実在があるだけである。この実 在が実在としての狭義の価値の対象となるとき,ここにはじめて,広義の価値 が成立し実在する。 このように考えてくるとき,広義の価値に実在性を与えるものが,対象の実 在性ではなく,狭義の価値の実在性であることは明らかであろう。実在として の狭義の価値は,実在する対象または実在しない対象と結びついて,実在とし ての広義の価値を成立させるのである。 さて,わたくしは,いま,実在としての狭義の価値が,実在する対象または 実在しない対象と結びついて,実在としての広義の価値を成立させる, と述べ た。この表現は,二つの問題を含んでいる。第ーに,ここに,狭義の価値が実 在しない対象と結びついて,実在としての広義の価値を成立させるとは,何を 意味するのであろうか。第二に,この表現は,あたかも,狭義の価値が対象と 別個にそれ自体で実在し, これが対象と結合するかのような印象を,読者に与 えるであろう。だが,狭義の価値は,はたして,対象と別個にそれ自体で実在 することができるのであろうか。 このニつの問題のうち,第一の問題は次節でとりあげることとし,ここでは, 以下,第二の問題を考察しておこう。 狭義の価値は,通常は,対象と結びついて実在す}る。それは,何らかのもの ごとが望ましいとする観念であり,そのような対象と結びつかない形態では, 通常,意識されず,したがって実在しないのである。しかし,狭義の価値は, それだけで実在することもある。例えば,ひとが,漠然と何かをしたいと考え るとき,そこには望ましさの観念は実在するが,これは対象と結びついていな い。そこでは,ひとは,望ましさの観念ないし狭義の価値を付与するべき対象 を捜し求めているのである。これは欲求不満のー形態であり,これが多数の人 聞にみられるとき,そこに,特異な社会現象が生じることにもなる。 このようにして,わたくしは,実在としての広義の価値について,その要素

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361 価値の実在性 -75-である狭義の価値は,通常,対象と結びついて実在するが,それ自体で実在す ることもある, とし、うことヵ:で、きる。

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価値の実在性と対象および対象観念 (1) 対象と対象観念の区別および広義の価値の実在性 実在としての狭義の価値が,実在する対象または実在しない対象と結びつい て,実在としての広義の価値を成立させる,とし、う表現の論理的合意の一つは, 広義の価値が,いずれの場合にも,対象と狭義の価値との結合体であること, すなわち,実在する対象と狭義の価値との結合体であるか,または,実在しな い対象と狭義の価値との結合体であるか,のいずれかであることである。 わたくしは, ここにいわゆる実在しない対象と狭義の価値との結合体が,対 象を離れたそれ自体としての狭義の価値とは明確に区別されるべきものである ことに,読者の注意を喚起しておきたい。前者は,狭義の価値ではなく,広義 の価値なのである。 とはし、え,実在しない対象,および実在しない対象と狭義の価値との結合体, という表現は不明確であり,読者を混乱させる危険性をもっ。そして,この表 現の不明確性は, ここに表現されている観念自体が不明確であることによるの である。そこで,わたくしは,この観念および表現を明確化することにしよう。 あるひとが,いまだ存在しない何らかの税制を望ましいと考えるとき,この 税制は,たしかに実在しなし、。だが,このひとは,いまだ実在しないこの税制 についての観念をもっているのであり, この観念を望ましいと考えている。換 言すれば,このひとは,いまだ実在しない税制についての観念と望ましさの観 念との結合体としての広義の価値をもっている。そして,この場合,いまだ実 在しない税制についてのこの観念は,望ましさの観念と同じ意味で実在する。 このひとがこの税制についての観念をもっていることは,このひとがこれにつ いて望ましさの観念をもっていることと同じく事実なのである。 このように考えてくるとき,わたくしは,対象と対象についての観念とを区 別する必要に迫られる。後者を,わたくしは対象観念とよぶことにしよう。上

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-76- 第60巻 第2号 362 例でいえば,そこにし、う税制が対象であり,この税制についての観念が対象観 念である。そこでは,対象は実在しないが,対象観念は実在する。 この区別を用いれば,-実在としての狭義の価値が,実在しない対象と結びつ いて,実在としての広義の価値を成立させる」というさきに述べた表現は,正 確には,つぎのように言い換えられなければならない。 一一実在としての狭義の価値が,実在しない対象についての実在する対象観 念と結びついて,実在としての広義の価値を成立させる。一一 このような言い換えを用いるとき, さきに述べた「実在しない対象と狭義の 価値との結合体」と「対象を離れたそれ自体としての狭義の価値」との区別が 明瞭になる。それは,-実在しない対象についての実在する対象観念と実在する 狭義の価値との結合体」と「対象観念をもたない孤立した実在としての狭義の 価値」との区別である。 実在としての広義の価値が実在としての対象観念と実在としての狭義の価値 との結合体であることは,実在する対象についてもいえることである。実在す る対象についても,実在としての狭義の価値と結合して実在としての広義の価 値を成立させるのは,実在する対象そのものではなく,実在する対象について の実在する対象観念である。 このようにして,わたくしは,実在としての広義の価値が実在としての対象 観念と実在としての狭義の価値ないし望ましさの観念との結合体であることを 知るζとができる。実在としての広義の価値は,まさに実在としての観念その ものなのである。 広義の価値をこのように理解するとき,わたくしは,ここで,広義の価値を 構成する対象観念が,狭義の価値と同じく,少なくともある時点のあるひとに とっては,単独で,すなわちこの場合には狭義の価値と結合することなく,実 在することができることを指摘しておくべきであろう。このことは,第11節に おいて,わたくしが「関心をもつこと」と「価値を見出すこと」とを区別し, この説明のために述べた幼児の疑問の例のうちに,すでに示されていることで ある。

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363 価値の実在性 -77-(2) 広義の価値としての「客観的」価値 実在としての広義の価値が,実在としての対象観念と実在としての狭義の価 値との結合体,この意味において実在としての観念そのものであり,しかも, 実在としての対象観念が,実在しない対象についても形成されることから,わ たくしは,実在としての広義の価値の理解にかかわる一つのことがらを,明ら かにすることができる。それは,あるひとが何らかの価値を有しており,かっ それを真の価値と信じているとき,この真の価値と信じられているものは,実 在としての広義の価値の一つであること,これである。 規範科学においては,真の価値は,本源的存在ないし本質であり,実在から 区別されるものであった。それは超越者によって類としての人間に与えられて いる価値であり,これは,実在としての人聞が有している価値と同ーではない, とされたのである。そこでは,実在としての人聞が有している価値,すなわち 実在としての価値は,偽の価値である。たしかに,規範科学においても,真の 価値は実在としての価値のうちに現れることはある, とされている。そして, この場合には,実在としての価値のうちに真の価値が含まれることになる。だ が,規範科学においては,このような事態は常態ではなく, また,ニつの価値 の根本的相違を否定するものではけっしてないのである。 このような規範科学の主張は,真の価値の内容が,一般に,実在としての価 値の内容と異なることを含意している。たしかに,真の価値として主張される 価値は,しばしば,事実とかけ離れた内容をもっ。理想としての国家,理想と しての企業,理想としての人間などがこれである。このような内容をもっ価値 は,事実としての国家,事実としての企業,事実としての人間などの内容をも っ価値から区別される。真の価値といわれるものが, しばしば,事実から離れ た理想として主張されまた受け取られるのは,このためである。そして, この 理想としての内容をもっ価値ではなく,これから区別される事実としての内容 をもっ価値のみが,実在する価値として理解されるのである。 このようにして,真の価値は,実在としての価値から,二つの意味で区別さ れることになる。すなわち,第一に,規範科学の主張者のいわゆる本質である

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-78ー 第60巻 第2号 364 ことによって,そして第二に,その内容が事実からかけ離れていることによっ て,である。 規範科学の主張に由来するこのような区別は,経験科学の主張者の価値につ いての研究態度に,重大な影響を与える。かれは,経験科学が価値を扱うとき, 真の価値と主張されるものを,そこから排除しなければならないと考える。そ の理由は, こうである。 経験科学は実在を研究する。ところが,真の価値は実在ではなく,したがっ て,これは,経験科学的研究から外されなければならない。経験科学が扱うこ とのできる価値は,実在としての価値であり,規範科学において真であると主 張される価値ではなし、。 このような考え方は誤りである。真であると思われ主張されている価値は, 実在としての価値の一つであり, したがって,経験科学は, これを扱うことが できる。わたくしは,このことの説明を,真の価値と実在としての価値とをそ の内容によって区別する考え方を批判することからはじめよう。 理想としての内容をもっ価値と事実としての内容をもっ価値とを区別し,後 者のみが実在するという考え方については,広義の価値についてのわたくしの これまでの説明, とりわけ対象と対象観念とについての説明を用いるとき,以 下のように批判することができる。 理想としての内容をもっ価値,または事実としての内容をもっ価値というと き,ここに内容という言葉によって暗黙のうちに意味されているものは,対象 観念ではなく,対象である。対象観念から区別される対象は,これが事実から 区別される理想であるとき,理想としての内容をもっ価値については実在しな い。これに対して,事実としての内容をもっ価値については,対象は実在する。 そして,ひとが,理想、としての内容をもつか,事実としての内容をもつか,に よって,価値の実在性いかんを判定するとき,ここでは,対象観念ではなく, 対象の実在性いかんによって,価値の実在性いかんを判定しているのである。 ( 13) このような限定句をつけたのは,事実から区別されない理想が存在するからである。だ が,このことおよびこれがもたらす問題は, ここで論じる必要はないであろう。

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365 価値の実在性 -79-このような考え方は, ここにいう価値が対象観念と狭義の価値との結合体で あることを看過している。それは,ここにし、う価値が対象観念と狭義の価値と から構成されている,とし、う事実を把握することができず, ここにしづ価値が 対象と狭義の価値とから構成されていると,少なくとも暗黙のうちに,考えて いる。そして,このような誤解にもとづいて,実在しない対象と狭義の価値と の結合体としての価値は,この価値を構成する対象が実在しないがゆえに,実 在する価値ではなく,実在する対象を構成要素とする価値のみが,実在する価 {直である, と考えるのでるる。 だが,ここにいう価値を構成しているものは,対象ではなく,対象観念であ る。そして,対象の実在性ではなく,対象観念の実在性が,望ましさの観念な いし狭義の価値の実在性とともに,ここにいう価値の実在性を規定する。 ひとが理想としての対象ないし実在しない対象について価値を形成すると き,この価値を構成するものは,この対象と狭義の価値ではなく,この対象に ついての観念と狭義の価値である。そして,かれがその価値を形成したとき, ここには, この価値の構成要素としての対象観念と狭義の価値とが実在し,こ れから構成される価値すなわち広義の価値が実在する。この価値の実在性し、か んは,対象の実在性いかんとは関係がなし、。 さて,わたくしは,第

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節で,本質としての価値が対象をそのうちに含む統 一体であり,これを,対象と,これに付与される,人聞からみた望ましさの観 念とに区別することは無意味であると述べた。これまlで、わたくしが論じてきた ことからすれば,ここにいう対象が実在としての広義の価値の構成要素である 対象観念に対応すること,そして,本質としての価値のうちにも対象を望まし いとする意志が存在し,これが実在としての広義の価値のもう一つの構成要素 である望ましさの観念ないし狭義の価値に対応することは,読者の容易に推察 されるところであろう。 だが,規範科学の理想、型においては,本質としての価値は,実在する人間と しての個人がこれを有することによってはじめて価値となるわけではない。そ れは,実在する人間の思惟とは別個に,これに先立って存在する。それは,超

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-80ー 第60巻 第2号 366 越者の意志として,類としての人間に与えられ,したがって,個人としての人 聞に,その思惟のいかんにかかわりなく,あらかじめ与えられているのであり, それゆえに,それを,個人としての人間の観念である対象観念と望ましさの観 念とに区別することは,そもそも無理なのである。 しかしながら,本質としての価値といえども,これが論議されるためには, 何らかの個人によって主張されなければならなL、。そして,ある個人が何らか の価値を本質としての価値ないし真の価値として主張するとき, ここに真であ ると主張される価値は, これがまさに真の価値であるか否かとは別個に,その 個人の観念として実在する広義の価値であり,したがって, このうちに分析的 に対象観念と狭義の価値とを区別することは可能なのである。わたくしは,真 の価値と,真の価値として主張される価値とが,まったく異なる認識論的局面 に位置することに注意しなければならない。 このようにして,実在から区別される本質として主張される価値は,実在す る広義の価値のーっとして理解されなければならなし、。ここにいわゆる本質と しての価値ないし真の価値は,対象観念と望ましさの観念ないし狭義の価値と から構成され,しかも,このこつの構成要素は, ともに実在する。このことに よって,このこっから構成される「真の価値」は,実在するのである。 ある個人が真の価値の存在を信じ,何らかの価値を真の価値として主張する とき,かれがその特定の価値を有しており,かっそれを真の価値と信じている ことは,事実である。ここに真の価値と信じられている価値は,実在としての 価値の一つである。それは,実在する人間としての諸個人が有する諸々の価値 のーっとして,実在する。それは,諸個人が有するさまざまな観念としての価 値の一つである。いかなる価値であれ,したがって真の価値といわれる価値で あれ,個人によって有されている価値は,実在としての価値である。 さて,このように考えてくるとき,真の価値ないし本質としての価値と実在 としての価値との区別についての主張は,意味をなさないのであろうか。実在 する人間によづて有されているこつの価値は,いわゆる真の価値が,一般に, 実在しない対象について形成されることを別とすれば, ともに実在する広義の

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367 価値の実在性 -81ー 価値であり,これを区別することは無意味なのであろうか。否である。 わたくしは,実在としての広義の価値について,ニつを区別することができ る。一つは,真の価値ないし本質としての価値と主張される価値であり,他の 一つは,真の価値とは主張されない価値である。前者は,いわゆる客観主義者 によって信じられ主張されている価値であり,後者は,主観主義者が有する価 {直である。 この場合,客観主義者のいう真の価値ないし本質としての価値を主観主義者 の価値から区別するものは,前者がその保持者によって真ないし本質であると 確信され,主張されていることである。これに対して,後者は,その保持者が, 真の価値であるとは,少なくとも主張できないと考えている価値である。 主観主義者のなかには,みずからの保持する価値が真である,あるいは本質 である, と秘かに信じているものがし、るかも知れなし、。ただ,主観主義者は, その価値が真ないし本質であることを証明する方法が,少なくとも現在,存在 しないことを知っており,それゆえに,諸々の価値の相対性を認めざるをえな いことを知っている点で,客観主義者から区別される。 このように,実在としての広義の価値は, これを有する個人の, この価値に 対する態度の相違によって,二つに区別される。このような態度の相違とこれ に対応する価値の区別は,価値の研究において考慮されるべきことである。そ れは,例えば価値の修正ないし変更の問題を扱うときに,重要な意味をもつこ とになるであろう。 いずれにせよ,以上から,読者は,真ないし本質であると主張されている価 値は,このように主張する個人によって有されており,それゆえに,実在とし ての価値の一つで、あること,そしてまた,それゆえに,経験科学が扱うことの できる価値であることを,理解されたで、あろう。

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シェーンフツレークの実在概念と広義の価値の実在性 これまでの論述に関連して,わたくしは,ここで,もう一つの問題を論じて おかなければならない。それは,わたくしの以上の論述における実在概念と,

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-82- 第60巻 第2号 368 シェーンフ。ルークのいう実在概念との整合性の問題である。 シX.._;/フ。ルークは,現実を思惟的現実と実在的現実とに区別していた。前 者は,たんに思惟的にω存在するものであり,このようなものとして,わたくし は,例えば,夢の中で小鳥のように空を飛掬しているわたくしとわたくしの犬 をあげることができる。これに対して,後者は,たんに思惟的に存在するもの でなく,実際に存在するものであり,例えば,せいぜい跳ぶことしかで、きない わたくしとわたくしの犬がこれである。そして, この後者,すなわち実在的現 実のみが,実在である,とされていたのである。 ところで,、わたくしは,価値が人聞の観念である, と述べてきた。狭義の価 値も,そしてこれと対象観念とから構成される広義の価値も,すべて人間の観 念であり,この意味で思惟的存在である。それでは,このことは,価値がシェー ンフ。ルークのいう思惟的現実であることを意味するのであろうか。わたくしは 価値が実在であると述べてきたのであるが,にもかかわらず,この価値はシェー ンフ。ルークにおいては実在的現実すなわち実在ではなく,このようにして, シェーンフ。ルークのし、う実在とわたくしのいう実在とは,矛盾するのであろう か。否である。両者は同一ではないが,矛盾はしなし、。 このことを明らかにするために,わたくしは,シェーンフ。ルークのいう現実 の意味を,正確に把握しなければならない。 シェーンフ。ルークのいう現実とは,わたくしの用語でいえば,対象である。 そして,かれのいう思惟的現実とは,思惟のなかでのみ存在し実際には存在し ない対象,すなわち,わたくしのいう実在しない対象であり,かれのし、う実在 的現実とは,実際に存在する対象,すなわちわたくしのいう実在する対象であ る。シェーンフソレークは,対象についてのみ,実在性のいかんを問題としてい るのである。 わたくしは,対象について実在性のいかんが問題になることを否定するもの では,けっしてなし、。だが,実在性のいかんを対象についてのみ問題とする行 ( 14) 笠原俊彦 前掲稿 51ベージを参照のこと。

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369 価値の実在性 -83ー き方は,狭すぎる。わたくしは,シェーンフ。ルークのいう現実,すなわちわた くしのいう対象と,対象観念とを区別し,後者についてもその実在性を認めな ければならない。ひとが,実在しない対象を思惟するとき,対象は実在しない にもかかわらず,対象観念は実在する。さきほどの例でいえば,小鳥のように 空を飛朔しているわたくしとわたくしの犬は実在しないが,このようなわたく しとわたくしの犬についてのわたくしの観念は実在する。 わたくしは,実在する対象についても,実在しない対象についても,対象観 念が形成され,実在することができる, と述べた。また,人間には望ましさの 観念ないし狭義の価値が実在する, と述べた。そして,ひとが,このような対 象観念と狭義の価値とを結びつけるとき,ここに広義の価値が実在することを 示したのである。 このようにして,わたくしは,対象についてのみならず,対象観念,狭義の 価値,およびこれらによって構成される広義の価値についても,実在性を認め る。この意味で,わたくしの実在概念は,シェーンフ。ルークのそれを拡張した ものなのである。 V 結 この論文では,わたくしは,価値が実在するということの意味を明らかにし ようとした。わたくしが述べたことは,以下のように要約することができるで あろう。 実在する価値ないし実在としての価値は,本質としての人間ではなく,実在 としての人間ないし個人が有している価値である。それは, このような人聞の 観念の一つであり,それ自体を感覚することはできないが,しかし,実在する ものの一つである。そもそも,人聞が感覚することのできる対象としての実在 は,人聞がこれについて観念ないし対象観念を形成することによって意識され る。人聞は対象観念をそのうちに実在させることによって,対象を意識するの であり,対象観念が実在しなければ,人聞にとって対象は実在しなし、。対象に ついてのこのよう'な観念は,人聞がこの対象に何らかの程度の関心をもつこと

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-84- 第60巻 第2号 370 によって形成されるのであるが, このような関心は,しばしば,人聞がこの対 象について,より正確にいえばこの対象の観念について,価値を意識し,この 価値をみずからのうちに実在させることによって生じる。 このような価値は,人間のうちに実在するだけでなく,さらに,人閣の外部 に具体化されて実在する。人聞は,特定の対象観念と結びついた価値に則して, 外部の実在を加工し,何らかの道具を作るのであるが,この道具はこのような 価値を具現し実在させており,この価値が読み取られることによって,それは, 他の人聞にそのような道具として意識される。このことは,人聞が意識的に形 成する社会的行動の型としての社会的構成体,そして,この社会的構成体のー っとしての言語についてみるとき,明瞭である。 実在する価値は,広義においては,何らかの対象についての観念ないし対象 観念と,この対象観念についての望ましさの観念ないし狭義の価値との結合体 である。広義の価値を構成するこのこつの要素のうち,狭義の価値は,広義の 価値を実在させるための必要条件として実在するとともに,それ自体でも実在 する。 広義の価値のもう一つの構成要素である対象観念は,広義の価値を実在させ るもう一つの必要条件である。この対象観念は,実在する対象についてばかり でなく,実在しない対象についても形成され実在すiる。このような対象観念が, 狭義の価値と結びついて,広義の価値を成立させるのである。狭義の価値と同 じく,対象観念も,それ自体で実在することがある。 実在する広義の価値を構成するものが,実在する対象と実在する狭義の価値 ではなく,実在する対象観念と実在する狭義の価値であること,そして,ここ にいう実在する対象観念が実在しない対象についても成立することは,規範科 学の支持者が主張するいわゆる真の価値が実在する広義の価値の一つであるこ とを教える。規範科学の支持者が,事実ではない理想としての内容をもっ価値 を真の価値,実在から区別される本質としての価値,として主張するとき,こ こにいわゆる理想としての内容は,しばしば,対象として理解されるのである が,しかし,それは,対象ではなく,対象観念なのである。この対象観念は,

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371 価値の実在性 -85-対象が実在しないにもかかわらず,真の価値を主張している人間のうちに実在 し,同じくこの人間のうちに実在する狭義の価値と結合して, ここに,真の価 値と思われている広義の価値を実在させているのである。 このように,対象観念,狭義の価値,広義の価値に実在性を認めるわたくし の実在概念ないし実在性概念は,シェーンフ。ルーグのそれより広いことが注意 されなければならない。シェーンフ。ノレークが現実を思惟的現実と実在的現実と に分け,後者のみを実在とよぶとき,かれが現実とし、う言葉で理解しているも のは対象のみであり,かれは,実在する対象のみを実在として理解しているの であるが,わたくしは,対象のみならず観念をも,実在のーっとして理解する からである。 以上のようなわたくしの価値理解は,科学的研究における価値の取り扱いに 重大な影響を与える。第一に,直接には感覚できない存在である価値を実在の ーっとして認め,これを経験科学において扱おうとするとき,経験科学が人聞 によって経験されるかぎりでの実在,すなわち経験的実在,によって画される 限界を尊重する,ということの意味,および,経験科学において価値をいかに 扱うべきか,が問題になるであろう。第二に,広義の価値が対象と狭義の価値 とからではなく,対象観念と狭義の価値とから構成される, というわたくしの 理解は,例えば,広義の価値の構成要素としての対象観念と対象との関係につ いての諸問題の存在を意識させ,またこれらの解決を可能にすることになるで あろう。 このような諸問題は,もちろん,わたくしのこれからの研究に含まれるべき ものである。

参照

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