発達心理学教室
Evaluation of Ability and Evaluation of Cognition
Toshitaka TAMARU*
…ねずみが ね こを ひっばつて,ねこが いぬを ひっぱって,いぬが まごを ひっぱって, まごが おばあさ んを ひっぱって,おばあさんが おじいさんを ひっぱって,おじいさんが かぶを ひっぱつて一一 うんとこし ょ どっこいしょ やっと,かぶは ぬけました。(おおきなかぶ,福音館書店)は じめ に
ある国のある学校 のあるクラスで,「おお きなかぶ をひ きぬ く」授業 をした とす る。 そのクラスに は,6人
の生徒があた。名前 は,「お じいさん」,「おばあさんJ,「まご」,「いぬ」,「ね こ」,「ねずみJ だ。6人
とも個性的な生徒であ り,そ
の能力 も多様であつた。おお きなかぶ は,い
ちばん力の強い 「お じいさん」で もひ きぬ くことはで きない。 そこで,教
師のあなたは,ま
ず,「お じいさんJに試 させて,つ
いで「お じいさん」 と「おばあさん」 と2人
でや らせてみて,次
に「 まご」 を加 えて, さらに「いぬJを
,そ
れか ら「ね こJを
,最
後 に「ねずみ」 も一緒 にして, 6人
全員で うん とがん ばらせた。 そして,や
っ とかぶ をひ きぬ くことに成功 させた。 さて,授
業が終 り,評
価 をしなければな らない。 あなたはこの6人
の生徒 をどのようにして評価 するだろうか。生徒 にどんな力が身 についた と考 えるだろうか。生徒 はいったい何 を学 んだ と考 え るだろうか。 それぞれの生徒 に即 して評価 しようとす るとき, 3つ
の考 え方がある。<考
え方①>
「おお きなかぶ をぬ く」学習 をしたのだか ら,生
徒 には「ひ きぬ く」能力が形成 されたはずだ。 この能力 の測定 には,背
筋力 を調べてみることが妥当だろう。そこで一人ひ とり測 ってみると,「お じいさんJは
80kg,「おばあさんJは
501cg,「まご」は40kg,「いぬ」は301cg,「ね こ」は20kg,「ねず み」は3 kgだった。 したがって,「お じいさん」は80点 ,「おばあさんJは50点 ,「まご」は40点 ,「い ぬ」は30点 ,「ね こ」は20点 ,「ねずみ」は3点
としよう。「ねずみ」は3点で は少 しかわいそうだが, 事実だか ら仕方あるまい。補習で もさせて もっ と力 をつけさせ よう。 一 局 敏 丸 田<考
え方②>
「ひ きぬ く」能力 といって も,さ
まざまな能力の総合であるか ら背筋力だけにたよるのはどうか と思 う。 もっ と客観的な評価法がない ものだろうか。幸い,こ
こに「ひ きぬ く」総合能カ テス トが ある。 これ はすでに大勢の人 に実施 され標準化 された ものである。 これな ら一人ひ とりにや らせて みることがで きる。結果 は,偏
差値 で示 され ることになっている。 さて,「お じいさん」 は65,「お ばあさん」 は60,「まご」 は50,「いぬ」 は45,「ね こ」 は40,「ねずみ」 は28と出た。「お じいさん」 はわがクラスの中で はいい成績 だ と思 っていたが,全
国的 にみるとまだまだだな。「お じいさん」は 来年A校
への進学 を希望 しているが,こ
れで は当落線上 だ。「かぶをぬ く」問題 も出 る可能性がある とい うか ら,も
っ と努力 させなければいけないな。<考
え方③>
評価 は子 どもを励 ますために行 うものだ。 それなのに,他
人 と比較 されてばか りいて は,能
力の 低い生徒 は劣等感 をもって しまう。現 に「ねずみ」はやる気 を失いか けているで はないか。 しか し, 彼 だって,以
前 は背筋カ テス トで2蛯
だったのが,今
回は3 1cgに増 えている。つ ま り,50パ
ーセ ン ト・ ア ップである。 これ は他の生徒 よ りも高い能力の上昇である。 ここはきちんと評価 しなければ な らない。 それに「ねずみ」は「ひ きぬ く」能力 は低 いか もしれないが,「はしる」能力 は高 く,「お ばあさん」よ りもいい。彼 自身のい ろい ろな能力 どうしを比べて,「ひ きぬ く」能力 も評価 したほう がいいので はないか。 さて,あ
なたはどの考 えを選ぶだろうか。あるいは,これ らとはまた別の考 え方を とるだ ろうか。1.能
力評 価 の考 え方 学習の結果身についた能力の評価の仕方には,主
として 3つ の方法が用いられている。 それぞれ絶対評価,相
対評価,個
人内評価 と呼ばれているが,厳
密には評価全体ではな く,評
価の 一部 として機能する可能性のある技法である。いま取 り上げた 3つ の考え方に関して言えば,考
え 方① は絶対評価に,考
え方② は相対評価 に,考
え方③ は個人内評価に対応 している。「おお きなかぶ をひきぬ く授業 を受けた生徒の評価 としてはどれが適切か,半J断を下す前に3つ の評価技法の意味 について検討 しておきたい。A絶
対評価 子 どもの学習の事実あるいは学力 を評価す るとい うとき,その判断の拠 り所 となる規準criterion が問題 になる。規準 なしに善 し悪 しを判断す ることはで きないか らである。評価の価値規準が外的 に存在する とき,絶
対評価 と呼 ばれ る。物理的な対象については絶対的な価値判断が行 われ る。物 が重いか軽 いかな どの評価 を求 め られ る場合,物
の重 さは客観的には測定可能 な対象であ り,そ
の 測定用具 (膏)も
信頼性が高い ものである。正 しい測 り方 さえ実行すれば,誰
が測 って も50kgの物 は50kgである。 その重 さを解釈 した り評価 した りす る場合 も,501cgは 80kgよ りも301tg軽い こと,50
1cgは25kgの2倍
の重 さであることな ど簡単 に分かる。 しか し,学
力の測定や評価の問題 になる とそう簡単ではない。漢字100字を正 しく書 けることが教 育 目標 の ときは,50字書 けた子 どもは100点満点中50点であるとして絶対評価す ることが可能であるか も知れない。だが文章構成力 な どになると何 をもって達成規準 とす るか迷 うところである。人 に よって評価規準が異なるか も知れない。論文式テス トを実施すれば同 じ答案 に対 して採点者 によつ て採点結果が異 なるか も知れない。 さらに
,50点
と80点との違いは,501cgと801cgとの違いほ ど明瞭 ではない。 まして,50点
の人 は25点の人 の2倍
の学力であるとは言 えない。0点だか ら文章構成力 も0だ
とは言 えない し,100点
だか ら文章構成力が完全 だ とも言 えない。このような事情 によ り,教
育目標や測定方法 をあいまいにしたまま絶対評価 を行 お うとす ると,評
価者 の恣意がそこに紛 れ込 むおそれが出て くる。 そうなれば教育評価 は非教育的 にな り,学
習者である子 どもと評価者である 教師 とのあいだの信頼関係 は失われる。仮 に,恣
意的な評価 の もとに,子
どもの処遇 (進学 。進級 など)が
決定 され るな らば,こ
んな不公正な ことはない。 ところで,今
回の生徒 に関 して は,背
筋力 の測定 は客観的で信頼性 も高いにして も,背
筋力 を測 ることで学習成果の評価 とす るのが妥当か どうか とい う問題が残 る。生徒たちが学んだ事柄 はもっ と多面的であるだろう。背筋力で測れ るものは,学
習の本質的な事項で はないか も知れない。 とす ると背筋力 による評価 は,客
観的なもの とは言 えな くなる。別 な人が評価 した ら,別
の指標 を用い るか も知れないのだか ら。 そうした複雑な問題 を避 けて使われ るのが相対評価である。B相
対評価 相対評価 とは,学
習成果 をある生徒集団の得点分布 に照 らして解釈 しようとす るものである。橋 本の言 うように,「厳密 には,標
準検査 におけるように,集
団にそのテス トを実施 した結果 に基づい てあらか じめ統計的に設定 された規準(nOrm)に
照 らして解釈す るものである」。ち しか し,実
際 には,テ
ス トを行 つた後,そ
の結果の平均値か らの偏 りによって個々の子 どもの学習成果 を判断 し ようとす るものが多い。要す るに,あ
る子 どもの成績 を評価す る際 に,他
の子 どもたち と比べて判 断 しようとい うわ けである。相対評価 の代表 として, 5段
階相対評価 と偏差値 について以下で検討 してみたい。 (り5段
階相対評価 以前 は通知表 は5段
階相対評価 によるものが多か つた。 これ は,教
科や学習内容 にかかわ らず, あらか じめ5つの段階が用意 されていて,し
か も各段階 ごとの子 どもの比率 も決 まっている。比率 は正規分布 の考 え方に基づ き,「5」 と「1」 とが7%ず
つ,「 4」 と「2」 とが24%ず
つ,「 3」 が38%配
分 されている。 この考 え方 によると,
どこの学校で もどこのクラスで も必ずある比率である成績の子 どもが存在 することにな り,一
見公平な評価のように見 える。 しか し,教
師が授業 を工夫 してもしな くて も, 子 どもたちががんばって もなまけて も,ま
った く同 じ配点がなされ るわけで,教
育 とい う営為が正 しく行われたか どうか は分か らない。 よって,教
育 の改善 とい う目的のための真の評価 とはな りに くい。 さらに,全
員の努力 と協力 により,あ
る教育 目標 にみんなが剣達 して も,「 1」 や「2」 を誰 かにつけなければならない とした ら,こ
れほど非教育的な ことはない。 1969年 2月,テ
レビのモーエ ングショーで,通
信簿 の5段
階相対評価 に対する一父親 の批判 に対 し,同
席 した文部省 の次官 は,「通信簿 の記載の際 に,一
定 の比率の枠 は定めていない。通信簿 の記 載 は原則 として自由」と発言 した②。 これ以降,通
信簿 (通知表)の記載 を改善す る試みは全国に広 がっている。 鬱)偏
差値 相対評価 として多用 され るものに,偏
差値がある。偏差値 は,選
抜の参考のためには便利 な数値であ り
,標
準 テス トと一緒 に利用 される。偏差値 は,テ
ス トが標準化 されていることが前提である。 計算上 はどんな集団に対す るどんなテス トの得点 も偏差値 を算出で きるが,標
準化 されていないテ ス トの得点 の偏差値 は意味がない。 偏差値 は,学
力が正規分布す ることを仮定 した上で,個
々の子 どもの成績 を平均点か らの偏差 の 度合 いで表 した ものである。偏差値Tは ,下
のような式で算出す る。T=二
≦L止 孝 三望n_+50
(μ 平均値σ 標準偏差) 偏差値 は50が平均であ り
,60は
優秀,70は
きわめて優秀 となるし,40,30は
劣 ることを示す。偏 差値 は全国規模 の子 どもたちの学力 の比較 を可能 にす る数値であ り,自
分 の順位が数値 によって歴 然 となる。社会的背景いかんで は,偏
差値 は全国中の子 どもたちを受験戦争 に巻 き込み,熾
烈な争 いをあおる道具 ともなる。偏差値 は,あ
たか もその人間の価値 を測 る数値 のような顔 をして,多
く の子 どもを劣等感 に陥れることもで きる。C個
人内評価 これ は,個
人 の成績 の音 と今 を比べた り,個
人 内のある領域 の成績 と他 の領域の成績 を比べた り する評価技法である。橋本 によれば,個
人内評価 は,「一人一人 の生徒 に即 して,①
その過去 の成績 や,②
他の種類の目標の発達水準を評価規準 として,①
時間の経過における進歩の状況や,②
異な る目標 (能力)間
の長短や優劣を明 らかにするような解釈の方法である。」131 この方法は,個
人 に即 して進歩や学習状況を示す という利点があり,子
どもにとっても励みとな りやすい。子 ども同士の競争をあおるのではな く,子
ども自身の努力 を表 しやすい。しかし,基
礎 となる得点 は,先
の絶対評価 もしくは相対評価によって示されるものである以上,絶
対評価や相対 評価にまつわる諸問題か ら逃れているわけではない。2.教
育評 価 の基 礎 的意 義 上記の 3つ の考 え方は,評
価技法であり,評
価の一部 として用いることが可能だが,評
価それ自 体ではない。では,教
育における評価 とは本来何 を意味するのであろう。 「評価」 と聞 くと,共
通テス トや偏差値,通
知表や指導要録 といった言葉が思い浮かぶか も知れ ないが,そ
れほど,評
価 は点数 と結びつけて考 えられている。実際,評
価 に関連する技術の一部で ある測定法やテス ト法 は,受
験制度や学歴社会の中で機能 しているので,「評価=点
数づけ」として 理解 されやすいのも無理 はない。 しかし,そ
の本来の意義 は,そ
うではない。 20世紀に入 り,ア
メ リカのソーンダイク (Thorndike,E.L.)を 中心 とした教育測定運動が発展 し た。 これは,過
去の主観的な試験のあり方を反省 し改善 しようとするものであ り,そ
の結果標準テ ス トが次々 と作 られていった。標準テス トとは,能
力の測定において誰が実施 しても一定の値 を出 せるように工夫された測定用具である。そうなるためには,テ
ス トの作成過程で前もってある規模 の集団に実施 して統計的な意味を確かめてお く必要がある。標準テス トは,①
教示(課題 の与 え方) が定式化 され②規準 (通常の,あ
るいは平均的なパフォーマンス)が
確立 されたものである。い ところが,1930年
代に入って,教
育測定に対する批判が生 まれてきた。アメリカの進歩教育協会 の行った八年研究 (1933∼ 1940)の指導者であったタイラー(Tyler,RoW)ら
は,教
育測定の考 え方 に対 して,教
育評価の考え方を対置 した。要素的な知識の寄せ集めか ら子 どもを評価することはできない。教育過程が全人格的な ものである以上
,子
どもの態度・ 興味な ど内的過程 を問題 にしなけ ればな らない,と
いち また,橋
本 は教育評価 の意義 について次のように言 つている。 1930年代 における測定か ら評価への思想 の転換 を導いた考 え方 は,む
しろ教育学的な考 え方であ って,そ
の教育評価史上 における意義 は,評
価 は,`評価 のための評価でな く,教
育 目標 のよりよい 達成 のための評価でなければな らない〃 ということを宣明したところにあるであろう。俗) 以上のような歴史 を背景 にして,教
育評価 は一般的には次のように定義 され る。 教育評価 とは,生
徒 の学習成果やカ リキュラムな どの教育事象の価値や合 目的性 を,教
育 目標や 価値観 に照 らして判定す る組織的手続 きである。 その目的 は,児
童,生
徒 の適切 な指導や配置上, あるいは教育計画の立案上,賢
明な決定 を下す ことを援助す ることにある。今 日,教
育 は,教
育 目 標 と指導方法 と評価 とが1つのシステムを形成 した もの と考 えられてお り,そ
のなかで評価 は,フ
ィー ドバ ック機能 をもった もの として不可欠の位置が与 えられている。年) あるいは,簡
便 には次のようにも言われ る。 教育評価 とは,教
育の成果,教
育 の過程,教
育 のための諸条件 などについてのデータを集 め,教
育的決定 の資料 となるような形 に処理 して示す ことである。① いずれ にして も,教
育評価 を点数づけ と同義 に理解す る考 え方 は公式 にはない。教育評価 は,教
育 をよ くす るために教育全体 に関わるもの と想定 されている。教育評価 の対象 は,学
力のみな らず, 知能,技
能,態
度,行
動,性
格 な ど個人 の多面的な特徴や能力 にわたつてい るし,ま
た,授
業等で の指導方法 はもちろんの こと教育計画や学校経営 も評価の対象 となっている。教育評価 の用具 にし て もいろい ろ開発 され,い
わゆるテス トだけで はな く,観
察法,評
定法,逸
話記録法,面
接法,投
影法な どさまざまある。教育評価 の目的 は,本
来子 どものランクづ けで はな く,む
しろ教育方法や 教育諸条件 の改善 に向けられていると言 った方が よいであろう。 教育評価 とは,な
ぜ教 えるのか(教育 目的),何
を教 えるのか(教育 目標),
どこで教 えるのか(教 育環境 。条件),ど
う教 えるのか (教育方法)に
ついての,子
どもの学習 と発達 の事実 に基づ く反省 なのである。3.教
育 評 価 の 新 しい展 開― 一 完 全 学 習 と到 達 度 評 価 ― 一 教育評価 とは,広
い意味で は教育計画の適切性 についての判断であつた。「A子
はいい」とか「B
男 はだめ」 というように子 どもにレッテルを貼 って済 ます ことではなかった。 とは言 え,教
育評価 が教育 に関する評価である以上,子
どもの学習の事実 に対す る価値判断ぬ きには成 り立たない。 ど んなに「科学的」で「系統的」 な教材 (配列)で
あって も,そ
れだけで,子
どもの側 の受 け取 られ 方ぬ きに良い教材 (配列)と
判断す ることはで きない。同様 にして,大
人が聞 くとほればれす るよ うな雄弁な講義であって も,そ
れだけで よい授業 とは言 えない。肝心 なことは,そ
うした教育 によ って,子
どもが何 を学習 したかなのである。子 どもの学習 に関す る事実 に対 す る価値判断 は,教
育評価 の必須 の部分 を構成 しているのである。そこか ら
,教
育評価 というと狭 く考 えられ,子
どもの 学習 の評価,あ
るいはもっ と狭 く,子
どもの学力評価 のように扱われやすいのである。 もちろん, 学力 の評価 もそこだけで終わって しまい教育 の改善 に結びつかないのな ら真 の教育評価 とはいえな い。子 どもの学力 を評価することは,教
育 を評価す ることでなければな らない。A完
全学習 子 どもの学力 の評価が何故必要 なのか,そ
の元々の理 由は,子
ども一人 ひ とりにきちん とした学 力 をつけることである。教育評価 の立場か ら,そ
の課題 に取 り組 んだのが,1960年
代 か ら1970年代 にか けての,ブ
ルーム (B100m,B,S。)ら
の教育評価 の理論 と運動であった。 世界中いたる所で,教
育 は,長
い問選抜機能 に重点 を置いて きた。教師 も教育行政 にたずさわる 者 も生徒が どの段階の教育 まで受 けるべ きか を決定す るということに力 を注いで きた と言 えるだ ろ う。…・ 選抜 のための学校,と
い う考 え方 と対照的なのが,個
人 の発達 を教育の第一 の機能 としてみる考 え方である。 この見解の もとで は,学
校 の中心課題 は,複
雑 な社会で有意義 に生活 していけるよう な特性 を発達 させ ることにある。 この場合 に仮定 されているのは,才
能 は教育 によって発達 させ う るものであ り,学
校 は才能 を予見 し選定す ることよ り,む
しろ個人 の もつ可能性 を助長 してい くよ う努力すべ きである,
とい う考 え方である。191 こうした立場か らブルーム らは完全学習の課題 を提起する。 大抵 の生徒 は (おそ らく90%以
上 の生徒 は)我
々の教 えなければな らない ことが らの習得が可能 であ り,従
って,実
際 にそうした生徒 に習得 させ るような方法 を見つけることが教授課題 となるの である。つ まり基本的な課題 は,「習得」 ということによって何 を意味 しているのか を明 らかにし, 生徒 の大部分がそのような習得 を達成す ることがで きるような方法や教材 を捜す ことなのである。(lω この課題の下,ブ
ルームらは,教
育 目標 を①認知的領域,②
情意的領域,③
精神運動的領域に分 け,特
に認知的領域については,下
位分類 として,知
識,理
解,応
用,総
合,評
価 をあげ,そ
れぞ れの具体化をはかった。 また,学
習評価法 としては,①
総括的評価,②
形成的評価,③
診断的評価 を区別 した。総括的評価 とは,あ
るまとまった課程の達成調べるために学期末や学年末に行 う評価 である。 これに対 し,形
成的評価 とは,単
元の学習過程で行 うきめ細かい評価で,そ
の後の教授活 動の調整 をはかるものである。 また,診
断的評価 は,新
しい段階の授業に入 る前にその単元の学習 に必要 とされる能力や技能の有無をあらかじめ診断するための評価である。B到
達度評価 わが国では,1975年
,京
都府教育委員会が小 。中学校に対 して行った『研究討議のための資料, 到達度評価への改善 を進めるために』 という提起が,教
育評価のあり方の 1つ の新 しい方向づけと なった。高木 は,そ
の研究 と実践 について次のように述べている。 ① `何のために″(教育目標)の
確認,そ
れの実現のため②
`
何を
″
(教科目標と
,基
本的指導事項の設定によって精選・系統化された教育内容)の 分析
, それを目標化するため, ③ `どこまで〃(基本的↓旨導事項ごとの到達 目標系列)の
系統的・構造的設定,そ
れの具体化の た め,④
`ヤ功ゝにして″
(教材の選択と配列
,お
よび授業過程の達成日標系列
)の分析
,そ
れによりよ
り良い授業が成立するか否かを診断して分析を修正するため
,⑤
`だれに″
(児童・生徒の学力と情意傾向の実態把握
)を
おさえ
,そ
のようにして設計された
計 画 に したが って, ⑥ `授業〃(教授・ 学習過程)の
全体 を, ⑦ `評価″(形成的評価 と総括的評価)を
生か して点検・ 改善す ること を通 して,す
べての児童 。生徒 に基礎学力 の基本性 の完全習得 と,そ
れの習熟 としての発達 性 を身 につけることを保障 しようとい う方向性 をもって進行 していつたのである。(11) 学び発達す る権利 の主体 は子 ども自身である。 そして,こ
の権利 はすべての子 どもにある。 そ う であるな らば,必
要な事項 はすべての子 どもたちに学習 されなければならない。そうした課題 が達 成 されているか どうか を明 らか にするために,教
育 に評価 を行 う必要がある。到達度評価 はそ うし た教育評価 をめざした学力保障への歩みであつた。4.能
力 の 評 価 か ら認 識 の 評 価 ヘ 子 どもの学習 の事実 について評価す るとき,そ
れ を結果 の側か ら行 お うとするのは,能
力 の評価 の立場である。能力 とい うの は,「動作や作業 な ど複合的な活動 をなす場合 に,その主体である個人 のなかに想定 され る力」(12Jを指す。 ここで は,「個人 のなかに」とい う点 に注 目してお きたい。 さら に「力」である以上,量
的な存在 として考 えられ る。個人的で量的な能力 は,比
較可能である。生 徒Aと
生徒Bと
は,能
力 においては比較 の対象 になる。先 に述べた絶対評価 も相対評価 も個人 内評 価 もいづれ も能力評価 の考 え方に立っている。 しか し,子
どもの学習 は能力的観点か らもっ ともよ く評価可能 なのであろうか。たんに 'ヒ 較や選 別のための必要 に とどまっているうちは,能
力的な評価で もいいか も知れない。 しか し,す
べての 子 どもの学力保障 をめざそうとするな らば,あ
る到達 目標 に至 るステ ップや過程が問題 にな り,能
力的な評価 の不備 は明 らかになる。完全学習や到達度評価 は,新
たな評価 を求めざるを得なかった。 評価 は学習の結果 として身についた能力 に定位す るので はな く,学
習の過程,子
どもの学習の一歩 一歩の歩 み,つ
まず きに定位す ることになった。評価 は質的にな り,領
域 に分かれ非常 に細分化 さ れ系統的 に示 されるようになった。私 は,こ
れを能力 の評価か ら認識 の評価への発展過程 にお ける 過渡的形態 として位置づ けられ ると考 える。 「認識」とは,成
果 としての知識 とともに作用 (心理学的には活動や過程)を
指す ことばで ある。 また,「認識」は,個
人 内の事柄 というよりも,人
々の間で共通 に分かち持 たれ る知識 を示す。 した がって,認
識 の評価 は能力の評価 とは異なった観点か ら子 どもを見 ることになる。 話 ははじめに戻 るが,「おお きなかぶをひ きぬ く」授業 を受 けた生徒 はいつたい何 を学んだのだ ろ うか。 た しか に,も
のをひ きぬ く際の力の入れ方 を学習 したか も知れない。それ は背筋力 によって 近似的に測定可能なのか も知れない。 しか し,そ
うした能力の形成 は,た
とえ教師の主観 においては目標 だった として も
,教
材 の客観的意味 においては本質的な ことだ とは言 えまい。「おお きなかぶ をひ きぬ く」授業で決定的な意味 を持 っているのは,い
ちばん力の強い「お じいさん」で も一人 で はかぶ をひ きぬけなかった こと,「おお きなかぶ をひ きぬ く」ためにはクラス全員の力が必要だった こと,力
の弱い「ねずみ」 も精 いっぱい力 を出 し切 る必要があった ことである。一定の合力 によっ てはじめて「おお きなかぶをひ きぬ く」 ことに成功す る可能性が生 まれたし,ま
たそうすれば必ず 成功 した とい うことである。個々人の能力の大小 は,「おお きなかぶ をひ きぬ く」課題 の前で はさし て重要な問題 で はない。肝心な ことは,個
々人 の力で はな く,集
団的な合力であ り,そ
れに対す る 認識である。 「おお きなかぶ をひ きぬ く」ためにはどうした らよいか。 これについて はすべての生徒が学ぶ こ とがで きたはずである。力の最小 のものであって も,集
団的な力の意味 を学んだ とした ら,そ
れ を 評価すべ きである。逆 に個人的 にはどんなに大 きな力 を出せ る者であって も,集
団的な力の意味が 分か らなかった ら,高
い評価 を与 えることはで きない。 もちろん,こ
こで言いたい ことは道徳的な ことではない。「おお きなかぶ をひ きぬ く」とい う教材 は,み
んなでイ中良 くす ることの大切 さを意味 しているので はない。 クラス全員が力 を合わせてはじめて「おお きなかぶ をひ きぬ く」 ことがで き た というのは,事
実認識 の問題である。合力 をなん らかの計測装置で測れば,「おお きなかぶ をひ き ぬ く」ための最低限度 の力が分か るだろうし,そ
の力 を得 るための人員 も予想で きるし,さ
らには 「おお きなかぶ をひ きぬ く」機械 を開発す ることもで きるか も知れない。 『おお きなかぶ』 をた とえに使 って議論 を進 めたために意 を十分に尽 くしたとは言いがたいが, 要 は,学
習の本質,学
力の本質 は,個
々人 の能力の形成で はな く,誰
もが分かち持つ ことので きる 認識 の形成であ り,そ
れ こそが評価 されなければな らない とい うことである。そうした認識 を基礎 にしてはじめて個々の能力の形成 も意味 を持つのであるか ら。 教育評価 は,個
人 の能力 のように数量化 しやす く測定 しやすい ものを とりあげて示せばよい もの で はない。教育評価 を選別の手段 として用いると,ど
うして も個人差 を表 しやすい もので評価 しよ うとす る傾 向を生む し,そ
こか ら評価 は個人的な能力へ向かいがちになる。 しか し,重
要な ことは 教育 において本質的な ものは何か,学
習上すべての生徒が欠か してはな らない ものは何かについて の,議
論である。 それな くしては,教
育や授業 についての反省 はで きな くなってしまう。個々人 の 能力 についての解釈 はで きて も真の評価 はで きな くなって しまう。 人間の進歩 は,個
人 の限界 を越 えることか ら始 まった。人間 は,歴
史 の中で,自
分 ひ とりでで き ることがいかに小 さいか を,ま
た共同の力がいかに大 きいか を繰 り返 し学 んで きた。 自分の個人的 な能力 を高 めるだけでな く,社
会的な力 を認識す ることによって,知
識 を増や し,興
味や欲望 を拡 大す ることがで きた。社会的であることが人間の発展の礎であった。 自分 だけが知っていて他 の誰 も知 らないような知識 は,人
を出 し抜 くとき以外 には役 に立 たない。みんなが分かち持 って はじめ て知識 は生 き,社
会的な共同が生 まれ,産
業や コ ミュニケーシ ョンも発展す る。個人 の発達 も同様 である。人間の発達 を,個
人的な能力の枠内に閉 じこめてはな らない。教育 は子 どもの社会的な認 識 の発達 をめざす ことが必要である。認識 とい う知識 の社会的な分かちあいを上台にして,個
別能 力の形成 も意味 を持つ。 それゆえ,能
力の評価 の前提 として認識の評価がなされなければな らない のである。 自分 の方が誰 それ よ り何点いい とか悪い とかにばか りかかず らう子 どもを育てることが教育 の目 的で はない し,評
価の目的で もないはずだ。教育評価 は,教
育 を貶 めるために行 うものではな く, 教育の質 をいっそう高い ものにす るために,人
間的な発達の本性 に即 した学力 をすべての子 どもたちに保障す るために