十 大正十五年十二月博士の﹁貨簡の生成﹂が甫めて上梓され、以って吾が沈滞せる貿幣論界盟故に新たなる息吹を ふきかけられた如くに思はれた。そして翌昭和二年十叫月には﹁貸席の本質﹂が牽刊され、叉昨年九月には﹁貨幣 の轍能﹂の刊行を見るに至った。この三着は後に硯はれんとする﹁貨簡の慣借﹂と共に陣士、貨幣論の仙犬鰻系た る﹁貨絡の理論﹂を構成するものである。 既刊の三着は ー 未刊の〓苛も恐らくさうであらうと確信するものであるが ー 推敲斧婁の痕著しいものがあ り、極めてよく精錬されたる思想が琢磨せられたる文字の中に盛られて透るのを見る。故に此の書は〓誠にして 持て去らるべきものではなく再議三讃して初めてよ︿理解され得るものである。而して余自身も或ものは再読し 或もの些二讃しその都度新たに何等かのものを教へられてゐる。 〓 今韮に余は既刊三番中投近の蟄別にか1る﹁貨幣の職能﹂につき読後の所感を述べてみたいと思ふ。 ﹁貨幣の職能﹂な頼みて
﹁貨幣の職能﹂を読みて
井
︵七九︶ 七九︵八〇︶ 八〇 第四巷 秀一.班 ﹁貨幣の職能﹂は時間的には﹁貨幣の本質﹂に後れて上梓されたけれども、鰹系上は之に先き立ち、博士の膿系 ﹁貨幣の理論﹂の第二部を構成するものである。余が嘗て﹁貨幣の本質﹂を読みたるとき、余はその中に既に柴に貨 簡の職能に闘する多くの所詮の述べられてあるのを見て、時間上後れて磯表される﹁貨幣の職能﹂の内容に就き叉 その書物の畳に就き軽い不安と叉好奇の心とを以って待望んでゐた。然るにいよく之が磯行せられ、現賛の形 をとつて現はれたとき、余の不安に感じたる事が或意味正於いて適中し、叉余の全然薄明しなかった方面に於い て博士の朗快を聞くことを待て非常に愉快に感じた。 行論の便宜上今﹁貨幣の職能﹂全篇の内容を示せば左の如きものである。 言 第一箇 経済の基礎概念 第二箇 経済敢昏に於ける貨幣の地位 第三箇 貨幣職能の分析 第四箇 貨幣に封する欲望の哉達 第五箇 貨幣に剖する欲望の限界 然るにこの中侍統上貨幣職能論として本来の存在横を有するのは第三箇のみである、そして綺準備的或は補充 的の朗論として第二箇が之に加り得る。此の二筋を合計して紙数約六十買ある。即ち仝謂約百六十式中六十頁が
その本来的の部分にして他は然らざる部分に廃する如くに思はれる。そして著し之のみならば﹁貨簡の生成﹂、﹁貸 衛の本質﹂と相匹適した蒜≡しての鰐裁を保つことは恐らく困難であらう。この鮎に余の不安があつたのであ る然るに此の不安は、かの内容豊かなる第剛箇経済の基礎概念︵囚十貢︶訂加へられたことによつて、その大卒を 拭はれた。そしてこの嘲嵐の加へられた寄は⋮両博士の不断なる韓的精進の叫端を物語るものであり、叉他聞陣 士の貨幣理論にその礎石む供するものとして、誠に意味深ぐ思ふ。由一貨幣理論は一般的経済理論上の山且場を確 立したる後に於いて初めて完璧を得るものであるが故に、樽士の鰹系上﹁生成﹂に拭く本書の容首に於いて之に蟹 を染められたことは全くその宜しきを得たものといはなけれぼならぬ。 斯くの如く第一箇の重要性は之息日光し得るが、第四箇、第五箇は本来は﹁貨幣の慣値﹂に於いて述べられるも のか、又は﹁貨幣の理論﹂金牌の補論として附加さるべき性質のものではなからうか。怜士が之を韮に収められた に就いては勿論相雷の理由あるこjlは思ふが、その中に各分冊の鼻音大凡均舛にしたいといふSy⋮∃eざ河∃乃 至は炭く解してC。コくeコけぎa芽ヨがその動機の叫部を占めてはゐないであらうか。斯くの如き疑問を有する余は 本稿に於いて故初の三箇のみを取扱ひたいと瓜ふ。此鮎著書に封するの祀を快くこと甚しいが預め裕恕を乞ひた い〇 王 政て高垣博士は経済を如何に親ぜられるやといふに.それは﹁人間の有する生存目的を達するためになす外界 ﹁斑幣の職能右讃みて ︵八一︶ 入山
︵八二︸ 八二
第四奄 弟l 鋭
審鱒.の計慮的なる奴得彪埋である﹂と・せられるやうセある。即ち博士自身の著書転就いて見るに、次の様な文字 が見出される。 ↓自然は人間を二つの王座の礪絆に繋いでおる。自己保存の本能と種族維持の本能と之れにして、人類が既に 生存し、現に生存せる事葦は雄摺にこのととを澄明する。﹂︵﹁職能﹂三二貝︶↓而して生存の目的のためには、外界 客鰭の計慰的なる取得彪埋を必要とする。経済的なるもの1表徴は即ち誠にある、この目的に踊聯せしめたる斯 かる計慮的行動を経済相動と云ひヽ人間生活の之を内容とする部分を経由生活と呼び、経臍者相互の関係に於て 経済行動をなし、経済生消を営むための配合的横棒を経番組披と云ふ。﹂︵﹁職能﹂三二頁︶ 而Lて経済と技術とは如何なる鮎に於いて異同ありやといふに共に外界客封に封する、又は之に関する行動で あることは同じいが、併し経済は両つの目的に摘達し、堪って低値意識的となるが、技術は革に経済資規の手段 咋過ぎないといふ鮎に於いて興る。︵﹁職能﹂三三貢参照︶ 而して鼓に目的といひ手段といひ共に相関概念ではあ るが経済の目的とする所謂生存目的は原始的基礎的なる目的でぁるが、技術が叫の手段である場合の目的となる ものは生存目的よりも次順位のものであるといふのである。︵﹁職能﹂一八貢以下参照︶ それ故に経済と扱術とは 別個のものであり、又その置餌の嬰鮎はこゝにあると考へられてゐるやうである︶ 細低値に就いては次の語が見出される、円く﹁低値は客鰻の自然的性質にあらすして、鹿て一つの目的を橡想 し、之に閲聯せしめてわ主慣に於ける意義の認識なりと解せらるべきが故に、以上の目的︵生存目的︶に閲聯せしめて外界客鰭の有する重安さを判断せらる1とき、裁に鰹臍償値の現象を生ずる﹂と。︵﹁職能﹂三三買︶而して
此の意味の経済僧触は更に特殊的経済檀佑と姦的控臍償借とに分たれ、前者は財の保持するところ、後者は貨
幣の保持するところのものとなさる1のである。︵﹁職能﹂五九貫垂厘︶次に博士は経済は元来融禽的なりや個人的なりやに就いて言及して居られる。惟ふに現今の叫般的趨向として
は個人主義的経潮解より赦合的、普遍的経済単に向はんとしつゝあるのに、隙主は此の際保守的の態度をもつて
個人主義的傾向に輿みせられる。
日く﹁経済そのものゝ本質に於て、配合的ならざるべからざるの珊なく、必ずしも統合に掠らざれぼ存立の直
義なしと観るべきではない﹂と。︵﹁職能﹂三六1七翼︶ 閻蒜甘−フマンの冨を引用して日く﹁経済理論に勤しては 如何なる綜合鍵済も、大なる敢禽的仝憾も存しない。唯だ個人粧臍とその紺係が存するのみ﹂と。︵三七頁︶叉臼く﹁個人の心の外にある敢脅の心は蒐く、個人の意識を超えてその外に立つ社食の意識の存することを観るを得
ない旬汎ゆる敢愈的なるものは個人を通じて親らる1其の相互作用的なる二聞に外ならぬ。故に経済硯象を離合 的立場に於て理解せんとする試みも、之を輿へられたる配合的なる存在そのま1に於て航す、言その保持者にまで還元するとき、配合的紺係構成の経過を瞭かならしむると北ハに、配合的現象の内部的性質をも理解せしむる
ものと信ぜざるを得ぬ﹂と。︵﹁職能﹂三八−九買︶即ち是に由つて観るに博士は全響−コi壱Sa=sヨuSの立場を離れ て空○ヨ仙sヨuSの立場に依らる⊥ものであ.る。 ﹁農幣の職能﹂ね誼みて ︵入三︶㌧ 八三︵入四︶ 入国 第四怒 秀一.兢 佃此の外将士は経済塾方法論に蟹を染めて居らるゝが、こ1には只博士がヴヰーザアの所詮に賛し、又マック ス。ヴエーバアの一計a卓pus概念に思を寄せらる1ことを附託するに止める。
四
以上に於いて余は高塩博士がこ竪琴臍理論の中に於いて探って以て己が立場となさるゝものに就いて顧みた。
そLてその思想がすべて熟慮研凝の末に畿表せられたるものにしで、みだりに攻撃の的とすることのできないものであることを覚える。併し余は鼓に企自身の蒙を辟らかるの横合を作らんがために、三感じたる鮎を述べで
みたいと思ふ。
兜づ博士は敢脅現象も皆個人現象又は個人現象の関係に過ぎないものであつて、いはゞ固有の祀愈現象といふ
如きものは存しないと考へられるやうである。この政令現象む偶人現象と置別して、前者に概念上、濁立の存在
を輿ふるや否やといふことがーかのuコiくerSaニsヨuSと夏iくぎal訂ヨuS乃至空。ヨisヨuSとの立場の別れるところであるが、併し普等が静かに考へてみるに、所謂政令硯象は之む全部偶人現象に分解し去ることのできないものではな
からうか。博士もりⅠフマンの富を引用して﹁個人経済とその関係が存するのみ﹂といはるゝが、既にその関係は
個人経済又は個人現象とは別個のものではなからうか。そして此の関係蜂孤立的個人の存在のみにては決して現
はる∼ことなき性質のものであらう。故にこの﹁関係﹂といふ如き現象は個人現象とはその意味の平面を異にした概念上並列させることのできないものと考へなければならぬ。余がかく云へば博士は経じて、そは個人を孤立的
偶人として狭く考へすぎるの過ちを犯してゐるものであつて囲鰭生活内部の個人と考へればその批難盟冒ない
であらうといはれるかも知れぬ。併し若し然りと■せぼ余は虞些冨たい。開館生活内部の個人を云為するとせば
そは既に金牌としての政令又は敢禽現象を預想さる1ものではなからうかと。換言すればその個人は孤立的個人、キナド的な個人ではなく、いはゞ赦禽的偶人、相互作用的個人でなけれはならぬ。之だけでは未だ充分言葉を壷
したものとはいひ得す、不充分不精確ではあらうがとに角、敢禽現象は赦合現象として全部個人現象に分解し壷
され得ない部分を有し、高踏博士の詮を以ってしては此の融合現象本来の現象が掬ひ上げ得られないといふ憾み
を止むるものではなからうかっ上に掲げたる如く博士自身﹁経済現象を敢愈的立場に於て理解せんとする試みも
之を輿へられたる祀脅的なる存在そのまゝに於て観す、盲その保持者にまで遥一冗するとき、政令的関係構成
の経過を隙かならしむ云三といはる1が、併しそれでは敢禽的紺係そのもの1構造が未だ理解せられないであ らう。そして私見を以つてすれぼ、敢愈と個人との関係は正にGaコN皇12ニの関係に於いて観るとき初めて良 く珊解さるゝもの1如くに恩はれる。そしてこの際の個人は、最早孤立的偶人ではなく、相互作用的個人又は敢合的個人と考へちるペきものと思ふ。換言せぽ敢愈関係又は敢倉現象を承認する限り一高垣博士も究極に於い
て之を個人現象に分解すべきものとせられるが表は之を許さるゝやうであるーその際取叔はる1個人概念は 個人のW2S2コSb2篭︻には非すしてそのF雲kニ○コSb2讐菟でなければならぬと思ふロ︵く早〇・Spaココ︰∼urrO昔de﹁ ﹁貨幣の職能しを頚みて ︵八五︶ 八五︵八六︶ Å六
第四億 弟︼ 躾
町ONia︰wisseコSChaf芳h卦Be官f巾sbi巨コ乎↓ubiコ笥コ.︼8Ⅵ.S●︼袋許 仙潤詣、商工耗臍研究二巻︼耽九七貫以下参照︶五
以上に於いて余は﹁貨幣の職能﹂中第叫箇たつき考究したるが故に次に第二箇以下につノいて顧み年いと思ふ。
高垣博士に従へぼ貸簡職能の研究には﹁凡そ二偶の順路﹂があり得る。﹁仙は経済政令を全慣として眺めつゝそ
の間に於ける貨幣の地位を把捉するものにして、他は貿偶の職能と肇へらる1絶ての摺動の態様をとり個別的に痛穿して、分鶴より集祝に至り之が統刷観念を求むるものである。﹂ この中第叫の方途による研究をば﹁職能﹂の
琴一節に於いて、叉第二の方途による研究をぼその第二惑に於いて論ぜられる。今その前者より述べよう。
併し此の問題は貨幣起原の問題と関連するが故に、務め少しく之に開設しなければならぬ。博士は日く﹁貸簡
の起原に関しては、如何なる流通過程の裡より貨幣は成立したるかの問題と、如何なる貨物が貨幣となれるかの
問題とを、板常に障別して考へねぼならぬ﹂︵﹁生成﹂五貢︶となし、その前者に勤して墜直接的に行はるゝ流通の困難⋮⋮⋮を容易忙するための手段として自然に貨簡は現はれ発ったものである﹂と答へ、叉後者については﹁特
殊的耗臍低値を保持する財が、叫般的経済慣倍を保持する中間餞に代位せられる﹂に到ったものであるとなされ
る。︵﹁職能五二−1三貫参照︶由之に附加して日くノ、﹁代位者となるものは初め自ら債権ある流通客贈の内一般的に各憲せられて最も流通の容易なるものなりしが、節食的慣習、信認の確立等に基き、賞牌む離れし形式のみ
たよりで可能となるに至った、。然ればそは如何なる特殊的惜倍を保持せすとするも如何なる特殊的慣倍にも、縛 換せらるべき可儲性を有し、従ってその意味転於て﹂般的経臍偵備を保持する﹂と。︵﹁職能﹂五三日︶ 之山‘間貸轡の生成を物語ると同時佗、他面経済祀命に於ける貨幣の地位を云ひ現癒すものである。換言すれぼ 貸愕が経臍赦合に於いて占むる地位は他の如何なる特殊的慣値を保鏑する経済財とも軸換日夜なる.一般的経済概 倍を保持する瓢にあるとなさるゝのである。 斯く考へ来ると貨幣はあらゆる経済財の流通闘係の中心に立つものとなる。そこでか1る貨幣の地位はヘルフ ェリツヒ一のいみじくもいひなしたやうに、恰かも流通坂裡に於ける商人の作用に擬らへることができる。︵﹁職能﹂ 且六頁参政︶ そして﹁商人が流通の人的開係に於ける結合瓢をなせるに勤して、貨幣嬢物的関係にぬける結合瓢
をなす﹂︵占aspersO計訂Nwischeコ隻em︷訂s V雪kehrs致derHaコd訂rY ⊥詠sSach芳heZw訂ch㌢隻ed is什d訂Ge声。
〓e莞erich⋮das計−血﹂追出.S㌧N紹.︶といふ主眼がなされ得る。 次に番人は﹁貨幣祖亦財なサ﹂といふ博士の特殊なる主張を看過することはできぬ? 日く﹁若し欲望の封象となり、流通の客鰭となるものは絶て財なりとなすべくんば、貨倦もその内に包含せら れざるを得ぬ。然しながら貨幣の経済者に封サる紺係は⋮︰その中最も間接的なる﹂賜のや奉る︰。即ち、﹁貨幣は ⋮般的なる経臍憤億を保持して汎ゆる財匿柚換せられつ∼、際限なき軌邁を嚢つ七常に流通t.∵最後の到達鮎を さ有せぬ。﹂﹁蟹館は最高の意義に於ける商露なりとせらるゝことあるは、斯く綿々流通して止まるところなき革蜜 ﹁筏肝ゆ職能﹂巻絡みで ︷八セ︶ 入七
を指せるに外ならぬっ﹂︵﹁職能﹂五七−五八頁︶ ﹁然れば貨幣は特殊的経臍償倍を有する如何なる財にも輯換せらる1可能性を有ち、その意味に於て一般的な る経済慣倍の保持者にして、従って傾伯判断の封象となる。予が貨幣に慣値ありとの論時に達するはこの故にし て、貨幣に慣倍なしとするの詭は、たゞ之が山般的経済財と同様の意味に於て評偶の封象たらざるを意味するに 外ならざるペく、如何なる意味に於ても、然りと云ふことを得ない﹂と。︵﹁職能﹂露九買︶ 要言すれば博士にあつては貨幣は叫柾の財にして、叉或意味に於いて慣倍判断の封象となるのである。かく考 へることは貨幣を以って抽象的なるものと見す具照的なるものと現することにより初めて可能にして、その信仰 骨白も博士の言葉の中に見出される。日く﹁貨幣を以て具鰻的存在と観るLとは予も亦持て得ざるところ云2と。 ︵﹁職能﹂五九頁︶ 六 以上のところに於いて余は﹁貨幣の職能﹂第二箇の主張の主要なるものを大腰に於いて紹介し待たかと信するが 故に、叢に叫の疑鮎を披涯して数を乞ひたいと恩ふ。 捲土に従へぼ特殊的経済慣倍と一般的鮮臍慣倍とが区別せられ、前者は財が、後者は貨幣が之を保持する。然 るに此の際、特殊的経済惜倍及側般的経洒償値、従って爾飴の財と貨幣たる財との論理的闘係如何といふことが 弗四巷 夢 ︼ 携 ︵八八︶ 八八
余には明瞭に憎り得ない。特殊的経臍憤値と一般的経臍償櫨とを封比するとき、吾人はその表現に即して後者を 鵬般者GeコuS−Gattuコ監糾者を特殊軍Sp&es㌫r叶と考へるか、又はその内容に即して雨着を別種のものと見なけれ ぼならぬ。その前の見方に就いては、本釆特殊的、⋮般的といふ表現そのものより来る考方なるが故に詳論を侠 だすして容易に理解し得る。その後の見方に就いては棺詮明を要するかと思ふ。 抑々高垣博士の解せられる経臍憤倍の如何なるものなりやといふことは或は﹁貨循の憤倍﹂に於いて詳細に知り 得るのであらうが、今蓬詮かれるところに於いては次の如く云はれる。﹁慣佑は客鰻の自然的なる性質にあらすし て絶て一つの目的を預想し、之に開聯せしめての主牌に於ける意壷の認識なりと解せらるペきが故に以上の目的 ︵生存自的︶に、閲聯せしめて外界客鰹の有する重要さを判断せらる1とき、荘に経済低値の現象を生する﹂と。 ︵﹁職能﹂三≡貢︶ 略言すれぼ生存目的に向つて有する外界客腰の重要性、之が経済償櫨であると考へられる。勿 この論重要性は窄櫻岡有の性質ではなくして、人の主観的なる判断の結果である。然かも、その判断︵正しく云 へば評慣wer叶eコ︶の目棟となるものは﹁生存﹂といふことである0或客鰭が此の目標に向つて重大なる意義を有すれ ぼ、その客鰭は鮭臍償倍大なりとなされ、叉僅少なる意義を有するに止どまるときは、その客鰻は経済慣佑小な りと評慣されるのである。之が博士に於いて本来の意味の経臍償偲である。而して発し余の解繹にして誤なしと すれば、博士が特殊的経済憤備と柄せらる1ものが之に相督する。そして怜士の所謂叫般的経済低価はこの脆疇 には屈し得ないものと思惟する。蓋し上にも述べたるが如く、博士は﹁手段と目的との関係は意識的、相封的にし ﹁貨幣の職能jな讃みて ︵八九︶ 入九
第四番 第 ︼兢
︵光○︶ 九〇 七、如何なる目的も之を自的系列の次順位のものに繋らしめて、その手段なりと解することを得る﹂︵﹁職能±九 頁︶と考へられるが、是に基いて考ふれぼ、人が外界容皆を計庶的に取得顔珊する際の目的となる生存目的と、 その取得魔灘、換言すればそ√の流通を容易ならしむるための手段として貨幣を使用するときのその目的とは均し く目的とはいへ、雨着はその目的系列の中に於いて占める地位を異にしてゐる。そLて博士に従って生存目的1 封!外界客膿の関係を経済的として特級附けたとすれば、流通助成目的−封∼貨幣の関係は本来経済的なりとし て特徴附け待ないものでなければならぬ。依って内容的に見て博士の所謂特殊的経済償値と一般的経済慣伯とは 意味の平面新兵にしたものといはねばならぬ。然るに博士がこの後者に就いてたとへ﹁叫般的﹂といふ形容詞叡附 ヽヽヽt せらる1にもせよ、一の陛臍憤値となさる1所以のもの如何、余の不敏未だ之を僻することを得ない。 錦之に附隠して云ひたい。博士は山般的経済財と同様の意味に非すとするも、兎に角貨幣に憤簡ありとなさる るが、之は云ふまでもない主である。只要は財の宿する償倍と、貨幣の有する低値と均しく慣倍といふとも、そ の意味が異なるといふことである。換言すれぼ財を評償する際の目標と貨幣を評供する際の目標と異なるといふ ととである。更に言を究めて云へぼ﹂般経済財が醗臍横位を保有すと云ひなすその立場に於いて、直ちに貸簡が 評偶の封象となり、又或郡の経済慣倍を有すと墜玄ひ得ない¢ではないかといふことである。然るに敢えて之を 主張せんとすれぼ立場の飛躍を釆たすことにならざ肯かを憐れる。 左右田博士が財を目的と親、貨幣むあくまで手段と考へられ、従って貨幣に惰倍を認められざるが如き、又はモルスタア.が財に封する人の心理的過程と貨幣に期する人の心理的過程の裔別より論じて貨幣に償棺を香衰する か如ざ高垣博士にとりては或は不満ならんも然かも諭掛上はその立場に息貰なるものといはねぼならぬ。 此の鮎に関して任次の諦曹み参照ぜられたい。 左右田事一・那智川村盟即諾貨幣ミ慣臆 五入貫、左右田啓一部署 吹刷檻野管肇の諸岡超 三四入質等 mtster︰ロ訂Seeledes Ge瓦es.N.コuf︼∵這巴.S.当山f︹ 拙稿エルスタアの慣鯨理論 商襲研究八巻二兢併載
七
﹁貸簡の職能﹂の第二箇は経臍敢昏に於ける貨聴の作用︵地位︶に就いての山般的研究であつたが、その第三箇は 貨幣の個別的職能E旨e−巾unktiOコ2コの研究である。 之に関しては博士は先づヘルフェリツ、との蓼ぐを五偶の職能と、英米畢者の示す史に仙偶の職能とを列車して 研究して居られ驚今そノの各舟に謝する怜士の意見を聞かう。 第一⋮般的交換手段 此の職能は交換経臍上に於ける芸濃要なる職能ではあるが未だ本質的秒職能ではない、之は﹁貸魔の重職能 を包含し之を統合するの力を有せす、我等はその板嵐にありて斯かる職能を諭さしむるゝ所以のものに、本質的 職能む探ぐることを得る﹂︵﹁職能﹂七七買︶とせられる。 第二 仙般的支彿手段 ﹁貨幣の職能﹂む誠みて ︵九〓 九血第四金 策︼ 兢 ︵九二︶ 九こ 貨幣論の文献申支緋概念を純旋律的に規定したるもの︵例へぼクナツプの如き︶と、叉之を控臍的に規定したる もの︵例へぼエルスタアの如き︶とあることは周知の事驚であるが、高垣博士は別に表の見解を持せられるが故 にこの置別に就いてはあまり細論されてはゐない。放て然らば博士の意見とは何ぞや、日く﹁従来の螢詮に於て交 換手段たることを力詮する所以は、貨俺の起源に関して自然交換の困難に職由すとなす見解に探く拘泥するが故 であり、文殊手段たることを別に傘げんとするは、交換手段たることの意義に漏るゝものあり、而して其の部分 の重要なることを看過せざらんとするに出づる。貨幣の本質的職能に至りては、此等級てを綜合して然かもその 根底に立てるものを索めねばならぬ﹂︵八二頁︶といふことである。 第三 資本移痔疾介手段 ヘルフェリツヒにあつては此の資本移時の媒介手段たる職能は上記の二職能七共に相補ひて貨幣の本質的職能 をなす。之に封する高塩博士の朗詮は次の如くである。﹁貨幣の形式に於ける資本の盈響なる地位を占むることは 晋ふを保たざれども、資本の移柑は貨幣ならざる形態によりても行はるゝところにして、貨幣を以てするとき特 に流通性の大なるものあるに過ぎぬ。而して更生的に考ふるも、そは上記の二職能より来れる結典にして、此等 の三者を同等の関係におき、相率ひて三の本質的職能を証すものなりとするは到底認むることを得ない﹂。︵八 八頁︶ 第四 山般的償伯測度
玄に慣憶測度といつてもそれは金属主義的に、或は貨物貨幣詮的に解されたるものではなく、交換慣値、慣格 等の劇般的客観的表示wer訂己Sdruck一COヨヨ○コ詠コCヨぎatOr。fくaFe と同意義に解されたる貨幣の叫職能である。 蓋し﹁今日の貨幣経済組絨の下に於ては、汎ゆる財の憤格は貨幣によつて黎ホせられ﹂るものなるが故に、﹁之を名 づくるに低値測度を以てするは固より常らす、然りとて低値の仙般的若しくは客親的表示となすことは、畢なる 按術的表示と格別せられぎる﹂虞があるが故に、陣士はこの際、不満ながら在来の用語例に従って居られるので ある。︵﹁職能﹂九二頁、﹁本質﹂二叫−二頁蓼鳩︶ 庸債値測度たる職能と交換手段たる職能とにつき兜後の問題があるが、之に封して蛤土は﹁党彼の序次を立つ ることを待ない﹂︵﹁職能﹂九六貢︶とせられる。 第五 倍佑貯戒及輸送手段 この二職能は貨幣が時間的及び場新約に横倍を移粗することに嵐するものである。之等の職能は均しく貸幣の なす作らきではあるがさまで重安なものではない。ヘルフェリツヒも亦之を附随的職能として奉げてゐるに過ぎ ぬ。 第六 其他の職能︵殊に繰延支彿の棟準︶ 此の職能も前職能と同様あまり重要なるものではなく、殊に上米琴げられたる諸職能と畢復するの嫌ひがある。 以上諮柾の職能を検討したる末、高垣博士が到達せられる意見は次の如くである。 記見解の職能﹂み韻みて ︵九三︶ 九三
︵九四︶ 九四 雰四懲 雰一携 円く﹁貨幣が斯かる諸種の械能を意くす所以は、更にその根底に其等を生む本渡の零するに因らねばならぬ。即 ちそは流通経済敢昏に放て、叫般的経済偵低を保持するの職能にして、之れなくんぼ貨幣は上述するところの如 何なる職能をも英たすことを得ず、汎ゆる職髄はこの叫鮎より放射する﹂と。︵﹁職能﹂山〇八1九頁︶ 故後に吾人は悼士の論断に耳を傾けよう。 ﹁経済杜合を全舷としてその内に於ける貨幣の地歓を者ふる場合にも、個々の職能を瓢検してその本末を乱す婁 合にも、予は同叫の論結に到達する。流通経済眈倉に於て汎ゆる財は経済低値を保持すれども、その内の成る財 は何等かの銅係に於て生活目的に役立つこと大に、従って尊蚤せらる1こと多くしてその慣値漸次に仙股的とな り、即ち人に封する紺係に於て、時間的場所的開係に於て一般的なる憤億をそれ自らの内に保持し、如何なる特 殊的経消償値の保持者にも輯換可能の力を相楽りて、斯くて貨幣は生成したものである。予の貨幣職能諭は如か る貨幣生成理論に盛付けられた?貨幣を以て控臍致命に於ける仙般的経臍償億の保持者なりとする本質理論も、 この職能拙論と携行する。而して貸循をば財と並べて低値判断の封象たり得るとなし、その上把貨幣の慣値些関 する諸種の理論を築かんとする見解も、この職能甜に脚地を置く︵︺﹂ ︵﹁職能﹂血〇九−∴○頁︶ 八 以上顧みたるところにより吾人の知り得たる事柄は、諸単著の撃ぐる所謂鴛循の職能の根底には、之等職能を 教排せしめる所以のもの二偽畠博士の言を以て云へば、叫般的経済憤値を保商するといふ梅原的なる職能がなけ
れぼならぬといふことである。
博士の耽の職能親は、博士自身が明言せられる如く貨幣本質観と相伴ふものである。試みに﹁貨幣の本質﹂中の
代表的なる叫句を摘記すれば次の如きものがある。日く﹁貸借を以て州の祀脅に於て鵬般的経済低値を保持する
ものと科するは、.祀合に於て人、時、虞の閲係に於て普遍的なる経済慣借を有ち、従て他の特殊なる経済偵値の 保持者に栂換可能なる力をそれ自らに塘へることを意味するに外ならぬ。﹂︵こ讐ハ頁︶ 而して﹁貨幣なる語によ りて赦はるゝ内容が、時に従ひ炭狭の差を生するは常然にして、嘲般的に経臍慣倍を保持すと認めらる1限りに 於て貨幣たり、叫般性を失ふとき貸得たるの本性をも失へるものと見ねばならぬ﹂と。︵﹁本質﹂二四七1八買︶ 元来高垣博士は普通の意味に於ける職能笹訟に賛同せられるものゝ如く︵﹁職能﹂二頁︶であるが故に、その論究の結諭に於いて、叫般的経済横倍の保持者を以って貨簡の職能ともなし、叉本質ともせられるのは論理の雷然で
あるように忍へる。然るに博士にあつては貨幣は山具闇的なる存在であら、叫般的控憐情倍を保持するものでな
ければならぬ。︵﹁職能﹂丘九頁、﹁本質﹂叫m二ハ頁参照︶ 若し然りとすれば博士に於いては貨幣は二万に於いて叫般的経済偵佑を櫓ひ、他方に於いては何等か典鰹的存在たることを必妥とする。換言すれぼ高垣博士が観て以っ
て貨簡なりとせられるものは、叫般的経済低値の保持といふといふ職能と、具鰭的存在といふ態様とこの二偶の
條件を具備するものでなければならぬ。而して若し人あつて紳士に、この二偶の傑件の軽重につき間ふたとすれ
ぼ、博士は恐らく輌偶の條件に瞭蓋なしと答へられるであらう、叉然か答へられなければ紺士日頃の主張盟月か
﹁貨幣の職能﹂ね沼みて ︵九五︶ 九五︵九六︶ 九六