諸君、私が只今校長から御紹介に摂りました永井でございます。今回は別段深い準備もありませんし、叉参考
とする資料の持合せもありません。殊に専門に亙る議論を申上げることは却て大蔵大臣閣下の御趣旨に反する様
に存じます。それで私が平素取扱ってゐる仕事に就きまして、自分の知り得た財政上の常識に就いてお話中上げ
たいと存じます。殊に問題は﹁貸簡制度﹂と云ふ事に制限致しまして、それに就きまして常識的に叉国民として知
って置けぼ郡合の宜ろしいと云ふ程度に止めたいと恩ひます。
御承知の通り我国の貸簡制度は和銅元年武蔵の困に銅が出まして、之を初めて用ひまして和同開珍を鋳造しま
したのが金厨製で一定の形式を備へた我国貸簡の始めの様に恩ひます。随つて其の以前には物々交換があつたに
過ぎなかったのか、記録に於きましても明らかでありません。兎に角靡く貨幣経済の必要が認められたのは、支
部へ遣唐使が参って党方の貨幣が我国に渡米致した以来のこと1存じます。さて和何問珍錯迫後塵代貸簡の鏡造をなし、其の種類和同銭共十二種に上り村上天皇の御字に至り中止しました。之を畠朝十二伐と申します。而し
・てこの皇靭十二鏡は硯在我困の考古笹上の各科として、故も尊重せられて居るのであります。斯く我国の貨簡鎧
我囲の貨幣馴鹿我国の貨幣制度
永 井
︵一九七︶一義︵一九入︶ ︼六 第三巷 第三兢 過事業が村上天皇以後ヰ止されたのは我閣の銅の産額が非常に減退し、或は奈良の大仰を迫るなどからの関係で 畢詮は色々あるが兎に角銅の倭額が非常に減つたためであります。 藤原時代からすつと下つて、足利時代に至って支那銭永聖通賓の輸入が非常に盛であつて、.我国にこの永楽餞 が流通して居ります。殊忙成る時代に於きましては永楽鑓が模造されて流通してゐたといふ有様でした。それが 豊臣時代に至って禰苗に障って、我国の簡制と云ふものが段々に出来上りつ1ある時代であつたのであり奪す。 秀蕾の時分に大判などが闇釆たのであります。然し乍ら豊臣の天下は長く結きません結果、穂川時代に至り慶長 五年及六年に日本の幣制せ云ふ鴻のが、㌧現代的意味に於て確立七たのであります。 徳川時代に大判、小判等を迫ったのでありますが、大判は御承知の通り栢園形でどざいます。之は市場忙流通 tたものでなく、諸大名が儀式に際しまして、将軍家から祝儀に賜ったりしたものでありまして、絶て典儀的軋 使用して居つたのであります。大判は主に京都で鋳造致して予表面に金十爾と云ふ文字が入れてありますや之れ が禿げると手数料を出して乗らに雷更ぺて貨ふ様に牢つて焙りました。次に小判でありますが、これこそ使ふた めのものでありまして、之が徳川時代に於ける貨幣の基本となつたのであります。之も矢張り大判と同じ様に柏 図の形状をして居り、諸君は博党禽其他で度々御党の寄と考へて居るのであります。 小判に吹で二朱とか一分金とかの方形の金貨がどざいます、之も矢張り目方の小さな金貨と云ふ関係になつて 居ります。
銀貨は丁銀と科し細長い棺固形であります、叉豆板銀と云って小粒のものであります。其れが金に封して目方 で以て其の銀貨を勘定したのであります。現在の銀貨の様に露拾餞、就拾銀と云ふ様に銘厩の定まりたるものな く、銀の目方洩らと云ふ軍で貨幣の働きをして居った。然し乍ら後になつて徳川中籾後の時に五匁鋭、一分銀、 三栄銀、山朱叙と云ふ名で、親在の様に銘厩の定まつた貨簡が出水たのであります。大鰭に於きまして鋭は金に 封して叫先の比憤を持ち之を政府が定めたのであります。然し常時鎖国の結果、外囲の金鋭相場を十分研究しな かった焉めに、外囲の相場に従ひ改めると云ふ寄はなかつた楼であります。それで金が湛外に流出する等其他潜 太なる影響を及ぼしたのであります。殊に徳川時代に於きまして、現在の如き簡削が確立致さす叉所謂封建時代 で中央の櫻力が各地方に及びません結果徳川幕府は常に財政困難に苦しめられ、現在の如き租税例へぼ所得税等 を起すと云ふことは極めて困難で已むなく金貨宕は銀貨、銅貨の鋳造に依って財源の捻出を行って居た。其は現 在の状態から考へれば、殆んど想像の出来ないと云ふ風に考へちれるが、常時幕府の政党と致しましては現在追 って居る金貨の中に金が幾ら、銀が幾らと云ふ事は全く絶鰻的の秘密でありまして、政府の財務の長官であると 云ふ様な数名の人が知り得る程度のものでありまして、其の金貨の成分と云ふ事に就いては知ることが出来なか ったのでありますが、其の結果、五代将軍鋼膏の時、充藤八年に貸簡を改鋳して貨幣の品位を落したのであhてま す。然し乍ら品質下落と云ふ寄は如何に秘して居ても自ら分るものであります。其の結果物傾が聡史致しました 次いで八代将軍吉宗の時に貨幣を改錯し慶長の昔の制度に辟して金貨の品位を高め以て物偶の下落を計りました 我国の箆幣制度 ︵一九九︶ ︼セ
︵こ00︶一入
第三懸 弗三航
が∵音素の死後墟々患い物を迫ると云ふことになり常に貸鞄の改鋳に依り政府は財府の摘縫を馬し氷った放吟徳 川幕府は鮭沸上では絶えず困窮致した次第であります。 吹で徳川時代に於習まして銅貨で寛永遠繁と云ったものを造った。.三代将軍豪光の時寛永上二年に支郵の貨博 の形式を摸して∵叉の寛永通貨を鋳造致しました。之が大いに通貨として茸力を蟄挿しましたもので現在の明度 通用の溢貸であります。徳川未明に至り四文の冤水通貨を︵裳に波あるもの︶を鋳造しました。之も現在二度通用 あ法賀であります。叉緒川の末期となるに捉ひ銅の産額が減少、叉日本で産出したものが海外に流出致しました 巧め、に、銅鏡の鋳逸が甚だ困難となり絨其他の原料を以って冤永通貨を製造する様になりました。徳川時代は二 質して現在残って居る寛永通貨が流通されました。叉文久年間に四文の文久鑓を造ったのであります、之は現在 k於ても一厘五毛の通用力があります。蘭ほ天保年間に百文の天保通貨と云ふのが出釆ました。之は諸君は御存 知ないかも知れませんが、私址ハは子供の時に能く少し足らない人の寄を天保銭の磯だと云って居りました。天保 通貨の個打が下りまして、粥に判する換算が著しく下落し明治になつてからも二十四年末まで八鹿に通用したも ので、足らない寄を天保銭と俗に申して居りました。 要するに徳川時代に於きましては金貨本位▼でありましたが、葦際に於きましては、金銀複本位でドゥも海外の 市場に暗く金の相場と鎚の相場の欒動に依り我閥は財政経済上非常に大打撃を受け多大の損寄患家つたのであり ます。併し乍ら財政上に於きまして、現在の意味に於げる貨幣の改鋳と云ふものが叫芥の政肘の財源でありました。慶長以釆貨幣の改鋳を行ふことが寵紘、貿永、正徳、車保、尭文、文政、天保、安政、嵩延の九回に及び夫 れに依って国防もやり教条も色.々の事柴も進めた次第であります用 明治初年通貨の鹿通が甚しかつた雷勃外交の問題となり、各国の公使達は共に新政府に強硬な抗議をなしまし た。′夫れで政府は通貨の整理と云ふ事に第仙手を清けることになり明治晃年貨幣司と云ふものを設けて通貨の整 理に着手したのでありますが、我闘従来の貨幣別虔は諸外国の夫れに比し非常陀劣つて居ると云ふことが判り、 放球朗に通貨の黎理をなすことになつて同二年に造幣寮を作りました。矢れで常時の笥情に鑑みまして政府は常 勧銀本位を採用する考へでありましたが常時亜米利加に居り牽⊥た伊藤公等が熱心佐金本位を主張したる結英予 金本位制老採用することになり、又貸名は十進法を探ることになりまして新なる貨懲が生れることになつたので あゆます。∵ 壷︵の常時の貨幣制度はどうであつたか.と云ふと、∵之は諸藩が貸簡史の第叫貫を播くと極めて明瞭に分るのであ めます。兎に角政府は新堂を造らうと云ふので、明治二年の経りに英曹利に機械を証文し、侍英人の近衛技師を 招閑しました。明治二年に大阪の現在の場朗匿工場の建築に着手して明治初年に出水上つた。常時三億右大臣が 文武夜宮を随へ大阪に氷られて盛大な開発披露の式を奉げた寄が記録吃遣って居ります。明治四年から潮形式の 栗簡がせの申に出ることになつたのであります。明治四年の新貨簡制度では金本位であつて、銀貨以下絶て補助 貨簡でありました。文官時﹁メキシカシ、ダラー﹂が哉閑地場は勿論東洋の貿易市場に流通して居りましたので、 我閲の貨幣制度 ︵二〇こ一九
第三態 第三航
︵こOt〇 二〇 我邦に於て也之と何故の貸簡を流用せしむるが便利であると云ふので﹂囲の貿易銀を鋳造したのであります。而 して右貿易銀は開港窃に限り無制限に流通する定めでありまtたが、明治十山年から全国的に流通しても芸文な くなりましたので、我周の貨幣制度は賛質に於ては金叔複本他に攣ったのであります。 次いで明治十五年月本銀行が出奔まして、岡十七年には諸君御承知の通り叫国鉄の免換券の蓉行せらるゝに至 りネムしたので明治朴年の貨幣法㈱鹿に至るまで∵詰り日本は溺柴上銀本位に欒ったのであります。併しどうも常 時世界夜於ける銀の相場が金に封Lて段々下落し初めたのであります。殊に日清哉寧少し以前は甚だ下落を見た ・のであります。其の結果物僧職虜し、貿易状態は逆嗣となり、日本朝野は之か鶉めに苦しんだのであります。有 識者問には貨簡制度を替へなければなら酌と云ふ試論が起り、金の準備の必要を感じて釆ねのであります。睾に 牒滑職渾の結果、帝国から二倍テールの僻金を得ることになつたのであります。遼東牛島退付に封し三千琴デー ル、威晦衛守備費に勤し百五十嵩テ﹂ル、卯ち約二笹二千萬テール飴を滑固から取る事になつたのであります。︼ 着償金偲倫敦に於てポンドの馬替にて受取ることにし途に明治童十年三月金本位の貨魔法が牽布され、同年十月 から之控施行し允のであります。語り口満城寧の結果、我図の金本位が確立したのであります。癖順日英他杵於 せまして生命を落し、血庖流した結英が現在の金本位拡欒りた次第であります。 両して金本位の緒英ぺ常時行はれた金貸は忽ち二倍の偵となや、今迄は五園のものが十図になりました、詰り 二分を以て金一園、﹁匁を以て金五園と云ふこ之になつたのであります。貸簡法制定の結果如何なる貨衛が出来たかと云ふことは、諸君御承知と思ひますが、此の間特に申上げて碇きたいのは現在の五十鑓の補助貨の問題で あります。前申上げました通り、金本位になりました結典、以前の二園の銀貨と云ふものが厳止になつたのであ ります。其の結果五十錦銀貨が一帝大きな月方を弔するものとなつたのであります。数次改正しまして今日に至 つたものでありますが、政府に於きましては補助貸の性質上銀貨の品位若は草魚を段々少くすると云ふ風な考へ に進んで参りました磨、世界賊軍の結英漸次銀慣が暴騰して今までの銀貨では其の銀貨が梅外に流出し又は苺潰 される危険に頻したのであります。政府は銀貨の改鋳をしなければならぬ事になつたのであります。それで大正 七年に国英を募集し之が現在の五十餞銀貨の模様の蒐となつたのであります。大正九年三月には銀の相場が八十 九斤飴収容僻しま七たが夫れから段々下って居ります。 ふので鋳潰鮎百片の銀貨を迫ったのであります。戯の相場か百片になりますと驚償と銘償が同じことになり、其 れ以上騰貴すると銀貨は鋳潰さる1呆れがあることになります。この新銀貨に付き叫寸申上げて置きたいことが ぁりますっ常校の澤田校長さAの御兄弟に東京焚術蓼校出の浮田宗山と云ふ陶案家陶家があるのであります。固 葵に堪能な方でありますので、前に中上けた、大正七年に募集した国英申入選者の勘案を宗山氏に修正を講払、 之を原礎として大赦省の鼠簡委員倉の議肛附し、其の決定せしものが現行の五十銀銀貨の国英であります。諸君 が本校の生徒である関係上、特に附け加へて申上げた次第であります。 侍此の銀貨及其の他の補助貨幣に就きましては、所謂償幣覇造豪金の間覇其他色々財政上の問題が多いのであ 我国の庶幣制皮 ︵二〇三︶ 二一 」
りますが、時間の関係上申上げる寄の出来ないの櫨誠に遺憾と存します。 葡補助栗の溌銀白銅貨ででざrいますが、”之は明治二十叫年昨始めて疇迫致しました。現在の白銅貨には穴があ りますが之は矢張り外囲の党例に依りましたのでノ、他の銀嚢と見別けが容易であると云ふことと、J惰造が割合陀 周射であると云ふ関係からであります。仙銭帝銅貨は明治三十年の創設でそれ以前は銅貨であつたのです。.銅薯 は貨幣の材料に不適常でありますので、三十年から青銅貨に攣ったのであります。 賂りに附加へて申上げて筐き磨いのは我国の現在の幣制と云ふ鴻のでありますが、貸簡の形状が極めて多いの であります。極めて多粁多様な通貨か行はれて居ると云ふことです。乏偲取引上に付ても改発上に付ても梅暦て 不便が多いこ上でありますから、我々は何とかして日本の貸愕を統t﹂少くとも形状的に統弄ると云ふ考へ を以て現在嘗行しっゝあるのであ凋ます。新しく形状常流山致します薦めに、哲貨幣を成るべく速に回収すると 云ふ方針を探って潜ります。或は叫定の期間後は其の流通を禁止すると云ふことも必要だらうと考へられます。 甚だ怒らぬ事を申上げまして、叉申下げたい串も樺山あるのでセざいますが、眈忙濠衰致しました時間が恰密 潮来致しましたので甚だ邁憾でどざいますが、玄で節することに致します・。極めて郷なことを血⋮系統に申上げて 御静聴を潰しましたことは幾雷にも既謝致サ次第であります。︵経︶ ︵木桶に大阪造幣局幸水井繁氏の水麿−こ於て烙でれたろ講演の僅託わでる。窒貝本編輯潜︶ 賂芋懸 弟三誠 ︵二仁川︶ 二二