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前回に引き続き ホロコーストの記憶を歩く フィールドワーク報告の第 2 弾! オランダ アムステルダムから飛行機で向かった先はチェコのプラハ ナント 1 時間半で着きました チェコ ( プラハ ) ~ 中欧最古のユダヤ人街がある場所 ~ 日本では クリスマスが終わるとお正月となるのですが ヨーロッパ

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Academic year: 2021

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冬休みを利用して「ホロコーストの記憶を歩く」フィールドワークへ行ってまいりました。

8 日間(実質5 日間)で3ヶ国訪問するという強行軍。オランダ⇒チェコ(プラハ・テレジン)⇒ポーランド(アウシュビッツ・

クラクフ・ワルシャワ)をまわりました。

ホロコーストは、人々がふつうに暮らしている生活の中で起こった出来事。すぐそばで起きた事実。訪れた国々には、いつ

でも歴史に触れ、学べる場所がたくさんあり、そして、それを学ぼうと方々の国から来訪されており、またそれを受け入れる

体制がありました。国をまたいで感じたことは、どの国でも、この負の歴史を受け止め、そして記憶に留めようとしている

こと、そして大切に語り継ごうとしているということでした。

◆オランダ(アムステルダム) ~昨年度の平和劇「アンネの日記」はここから~

日本から飛行機で11 時間。オランダとの時差は8 時間。着いた頃には夕方でした。

早速アンネが暮らしていた隠れ家へ。小雨の降る中、向かったアンネの隠れ家。

「こんな風に隠れ家へ向かったのかな」と劇のことを思い出したりもしました。

ここはチケットを予約しないと入れない、世界中の人が注目している場所です。

翌朝は、連行された後に一時的に身を置いていたオランダ劇場跡(現国立ホロコースト記念館)へ。

時間の関係でゆっくりと見て回れず残念!

↑ アンネも聞いていた 西教会の鐘の音を聞きました ↑ チケット制でも長蛇の列 ↑ オランダ劇場跡 国立ホロコースト記念館 ↓ ↑ Amsterdam 地名の由来となったダム広場 (アムステル川をせき止めていたダムがあった場所) 王宮と新教会が近くにあります ↑ 運河(人工的に造られた水路)が多く 船舶が通るときにのみ橋が挙がる「跳ね橋」 があります ↑ ←アムステルダム中央駅 東京駅のモデルとなった 赤レンガ作りの駅 昼間と夜とでは、 雰囲気が まるで違う ←ゴシック様式の 新教会 流石は芸術の街 街並みもキレイで どこでも絵になる 街にアートが あふれている→ 次はチェコに移動 プラハを拠点に テレジンへも 行きます! ←NIJNTJE ナインチェ(蘭) 昨年亡くなられた ブルーナさんも オランダ生まれ to be continued…

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前回に引き続き「ホロコーストの記憶を歩く」フィールドワーク報告の第2 弾!

オランダ・アムステルダムから飛行機で向かった先はチェコのプラハ。ナント、1 時間半で着きました✈

◆チェコ(プラハ) ~中欧最古のユダヤ人街がある場所~

日本では、クリスマスが終わるとお正月となるのですが、ヨーロッパではまだまだクリスマスホリ

デー!夜になるとマーケーットも開き、中央広場もクリスマスムード一色でした。

ここプラハでは、まず

中欧最古のユダヤ人街へ。ホロコースト記念館のほか墓地やシナゴークと

呼ばれる教会などへも行きました。途中のお店の入口前の足下で見つけたプレート。先日石岡さん

に教えていただいた「つまずきの石」です。ホロコーストで犠牲になった方が最後に住んでいた

場所であり、その方がここにいたという証。10cm 四方の真鋳のプレートには、名前・生まれた年・

死亡した年と場所が刻まれていました。生存者が周りからいなくなった時に“つまずいて”忘れな

いようにと、次世代へ語り継ぐために今もこの石は埋められているそうです。

↑1389 年には反ユダヤ暴動が あったと記されているプラハ。 ユダヤ人地区に入るとすぐに このダビデの星とヘブライ語が 目に入りました ←プラハ市街 ↓プラハ城 ↑ 旧新シナゴーク シナゴークとはユダヤ 教徒の祈りの家 教会堂のことです ↑ 2 枚のプレートには共に『CRUELLY MURDERED BY NAZIS IN AUSCHWITZ (アウシュビッツにてナチスに残酷に殺さ れた)』と 刻まれてありました。 いよいよ次回は テレジンへ! ハンナの過ごした 収容所はいったい どの様な所だったの でしょうか ← 旧ユダヤ人墓地 い ち ば ん 新 し い も の で 1787 年。この年にユダヤ 人墓地は廃止されました ↑スペインシナゴーク 入口横にある カフカの像 当時の埋葬について → ↑ 当時の写真や文書 などの資料がたくさん→ 展示してありました ↑ ハヌカ祭で 使われる燭台 大きさやデザイン も様々 シナゴークには、 装飾品や銀器などの日用品 ユダヤ民族に関する資料が 展示されています ↑ 厳かな雰囲気の シナゴーク内部

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前回に引き続き「ホロコーストの記憶を歩く」フィールドワーク報告の第3 弾!

今回の旅行で唯一の連泊できたのがプラハ。2日目は今回一番の目的の場所です。

◆チェコ(プラハ~テレジン~プラハ)

現地でツアーを予約して、いざテレジンへ!一つの街がまるごとゲットーとなったテレジン。

広大な敷地の中でしたが、現地ガイドの方も同行されたので、主要な場所へつれていってもら

えました。ただ、お話が英語だったので理解できないこともありました。それでも、私たちの

目に飛び込んできたものは、ここで何が起きたのかを知るに充分なものでした。ハンナと兄の

ジョージは、間違いなくここにいたのです。

↑ダビデの星 ナチスの収容所開放 70 周年の時に つくられた記念のモニュメント→ 収容所の入口にはスローガン であったこの文字が。 『働けば自由になる』 独: Arbeit macht frei→

←当時の収容所一室の再現 (ミュージアム) 高い壁に周囲を覆われ → 自由に出入りするることは できなかった テレジンでは 2 ヶ所ミュージアムに行きました。 著名な文学者や音楽家・芸術家もたくさん収容さ れていたテレジン、それについての展示も多くあ りました。体験を描くことで後世に伝えようと、 絵画もたくさん展示してありました。 今回の劇中劇「ブルンディバール」の展示もあり ました。今では、世界中にこの子どものための オペレッタが広まっているそうです。 テレジンへのフィールド ワークの後は夜行列車で ポーランドへ移動! 早朝からアウシュビッツ へ向かいました。 to be continued… ← 実際に使われていた収容所の一室 窓や洗面所もあり、ストーブも置いてあ ったようだ。この部屋に何人の人がすご していたのだろうか?多い時にはあふ れかえっていたのだろう。視察のある時 は、快適に過ごしていると見せかけるた めに、テレジンから他の収容所へ移送さ れたという。 ↑収容所近くに は無数のお墓が ありました 洗面所やシャワー室 → 実際には使うことは なかったと言われる これも視察の目を ごまかすためのもの だったのだろう ←最初に面接を 受けたところ 火葬場 → ↑ ←長い洞窟を出た 先にあったのは 射殺場と絞首刑場

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前回に引き続き「ホロコーストの記憶を歩く」フィールドワーク報告の第4 弾!

チェコのプラハから夜行列車でポーランドのクラクフへ移動しました。そして向かった先は・・・

◆ポーランド(クラクフ~アウシュヴィッツ、ビルケナウ)

クラクフへ早朝に到着し、

「アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所跡」をめぐるツアーに参加

しました。ここは、第二次世界大戦中にナチス・ドイツが国家を挙げて推進した人権差別による

絶滅政策により一番多くの犠牲者を出した最大級の強制収容所であり、絶滅収容所でした。館内の

展示によると、1940~1945 年に130 万人がアウシュヴィッツに移送され110 万人が死亡したとされ

ています。その90%はユダヤ人だったそうです。アンネもここにいました。そして、今年の平和劇

で登場するハンナは、テレジン収容所からここに送られ、そのままガス室へ送られたのです。

このような過ちが二度と起こらないようにと、

「アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所跡」は

1979 年に世界遺産として登録されました。

このような棟がたく さんありました。最 初は 1 階建てだった ものが、足らなくな り 2 階建てに増築さ れたそうです。その 作業もユダヤ人が強 制労働させられたと か。棟内は資料館に なっていす。 ↑ 収容所の入口にはスローガン であったこの文字がここにも。 『働けば自由になる』 独: Arbeit macht frei

↑ ←掲載しきれないほどの 当 時 の 写 真 や 資 料 が ありました ←バラックのような建物の中 には 3 段ベッドが所狭しと 並ぶ。縦に寝ていたそう。 暖炉もあるが、燃料もなく 当時は役には立たなかった という。 当時使われていたトイㇾ→ to be continued… 遺体焼却炉 ↑ ← 実際に使われていた収容所の一室 寝返りもできないような 3 段ベッド <アウシュヴィッツ第一収容所跡> 先ず訪れたのは第一収容所跡 この収容所へ送られた人々は労働力 があるかないかで選別され、労働力 のない老人や子どもたちは、すぐに ガス室に送られ毒殺された↓ 数えきれないほどの日用品の数々 義肢や義足などの補助用具 大小さまざまな靴 そして名前の書かれたかばん ↑集団絞首刑場 ↑棟の間にある死の壁(射殺場) ↑収容所の周囲を囲って いた有刺鉄線の鉄条網と 見張り小屋 ←ツィクロン B こ れ が 毒 ガス の もと → この天井 の小窓から ガス缶を投げ入れたのです どれほどの尊いいのちがここ で失われたのだろうか… 強制労働の他 人体実験も 行われた。 1 日の食事 ↓ <アウシュヴィッツ第二収容所跡(ビルケナウ)> そして、広大な土地に数多くの収容所があった第 2 収容所跡へ 入口から内部へ 続く 1 本の線路 ↓ ↑この貨物車で 人を移送していた 壊された収容所 ↓ 煙突だけが残る ↓アンネはココにいた? アウシュビッツから クラクフへもどって きました

(5)

to be continued…

前回に引き続き「ホロコーストの記憶を歩く」フィールドワーク報告の第5 弾!

「アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所跡」から本日の宿のあるクラクフに戻ってきました。

◆ポーランド(クラクフ)

ポーランドにある世界遺産の古都「クラクフ」の街並みは、遠い昔へタイムスリップしたかのよう。

観光は後に回して、まず目的のカジミエシュ地区へ向かいました。ここには、かつてのヨーロッパ最大級の

ユダヤ人地区があり、映画「シンドラーのリスト」のロケ地にもなったことでも有名です。1335 年にカジ

ミエシュ大王によってクラクフとは別の街としてつくられたエリアなのだそうです。カジミエシュ大王は

当時迫害されていたユダヤ人の保護に熱心に取り組んだため、多くのユダヤ人がクラクフに移り住むように

なり、15世紀以降、第二次世界大戦まではユダヤ人が多数を占める地区として発展しました。

↑ ←大小さまざまなシナゴークが点々とあり、ダビデの星やヘブライ文字 やユダヤのシンボルである燭台がデザインされているものなどを観る 事ができ、旧市街とは別世界でした。 to be continued… ↑ ホロコーストにより 命を落としたユダヤ系 ポーランド人のための 記念碑 → ポーランド中央部の 都 市 に 設 け ら れ た リッツマンシュタッ ト・ゲットーの地図。 ワルシャワゲットー に次ぐ規模だった 胸につけさせられた ダビデの星 ↓ ←ガリツィア ユダヤ博物館 2004 年にオープンした現代的な博物館で、クラクフの街 に住むユダヤ人の暮らしを記念したいと考えたクリス・ シュヴァルツの発案により、古いユダヤ系工場内に設け られたそうです。カフェや文献の販売もありました。 ↑ クラクフの名物 オブヴァジャネク ↑ゲットーへ送られる人々 ゲットー内の様子↓ ↑ヴァヴェル城 旧市庁舎の塔 → ←ヤンフス像と織物会館 旧市街を巡る馬車ツアー↓ ← 年代別に当時の貴重 な文書や写真、遺物な ど が 分 か り や す く 展示されていました そして、ホロコースト 関連の場所が一同に 会す展示ブース そ れ ぞ れ の 説 明 も とても丁寧にされて いました ↓ 旧市街へつづく石畳の道 この道を当時も歩いて いたのかと思うと… ↓ 翌朝、クラクフから ワルシャワへ列車で 移動!フィールド ワークもいよいよ 終盤です。 ↑ 聖マリア教会 中央広場はクリスマ ス一色でした☆彡

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前回に引き続き「ホロコーストの記憶を歩く」フィールドワーク報告もこれが最後です!

ポーランドのクラクフからワルシャワへ移動し、映画にもなったあの場所へ・・・

◆ポーランド(ワルシャワ)

ワルシャワには最も規模の大きいゲットーがありました。ゲットーの広さはワルシャワ市全体の

2.4%にあたり、40万人以上ものユダヤ人が収容されたとされています。そのゲットー跡地や

ワルシャワ蜂起の様子を模った記念碑、そしてワルシャワ動物園へ。

なぜ動物園へ?今年初めに公開された映画

「ユダヤ人を救った動物園 アントニーナが愛した命」

の舞台となったのがこのワルシャワ動物園だったのです。ポーランド人の中にも、

勇気を持ってホロコースト政策に立ち向かい、ユダヤ人を助けた人たちがいました。見つかれば

自分や家族の命もなくなる「覚悟」のいることです。もしも自分だったら、

皆さんはどう思われますか?

一日かけてもまわりきれないほど広い敷地を持った動物園 ですが、冬季ということで屋外にはほとんど動物はいませ んでした。今は平穏な動物園、しかし、当時のことを思う と胸が痛みます。今でも当時のトンネルが残っているとい うことで探し回り、やっと見つけました。当時、動物園は ナチスドイツの管理下にありました。その状況下で 300 人 を匿い、命を救った際に使った地下シェルターへ続くトン ネル。行き来する時の緊張感が伝わってくるようでした。 アントニーナの家もあったのですが、残念ながら closed。 外にあった募金箱に募金をして帰りました。 the end. ↑ 入口に向かう途中にあったモ ニュメントにはメッセージが たくさん! ワルシャワゲットー跡 市内のいたるところに ある道路に刻まれた の文字。そこに壁が あったという証。 ホテルまでの帰路にパヴィアク刑務所 がありました。この刑務所は、1830~ 1835 年の間に建てられた刑務所で今は 歴史を物語る博物館として、残った部分 が公開されています。 1939 年に第二次世界大戦が始まって ドイツがポーランドに侵攻してからは、 反体制活動家たちが捕らえられて収監 されていた場所で、1944 年までの間に 収監された 12 万の人々のうち 3 万人以 上が殺害されて、残る人々は強制収容所 へと送り込まれたのだそう。 1944 年 8 月 1 日のワルシャワ蜂起後に は、残る収監者たちも射殺され、建物は ドイツ軍による爆破によってほとんど が破壊されたとのこと。 ゲットー跡にはポーランド・ユダヤ人 博物館が建てれていて、周辺は記念 広場となっています

ホロコーストは、人々がふつうに

暮らしている生活の中で起こった

出来事。すぐそばで起きた事実。

訪れた国々には、いつでも歴史に

触れ、学べる場所がたくさんあり、

そして、それを学ぼうと方々の国か

ら来訪されており、またそれを受け

入れる体制がありました。

国をまたいで感じたことは、どの

国でも、この負の歴史を受け止め、

そして記憶に留めようとしている

こと、そして大切に語り継ごうと

しているということでした。

平和劇でも大切に語り継いでいき

ましょう!

無事に帰って きました!

参照

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