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自然人の人格 利用統計を見る

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(1)

自然人の人格

著者

三野 陽治

著者別名

Y. Mino

雑誌名

東洋法学

11

1

ページ

59-89

発行年

1967-09

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00006155/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

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然人の人格

三 野 陽治

一 二 三 四 五 頃  次 民法上の人 人間の人格 権利能力と人格権 自然人の権利能力 自然入の権利能力と法人の権利能力

盲然人の入格

五九

(3)

東洋法学

六〇

民法上の人

       ︵1︶  一 民法上人とは権利義務の主体たる能力、すなわち権利能力を有する存在︵G霧≦霧窪︶であることを意味する。 民法上は人の種類に自然人と法人とがある。第一章は自然人として人間について規定し、第一条はその権利能力に関      ︵2︶ するものである。第二章は法人について規定し、第四三条はその権利能力に関する規定である。自然人と法人が権利 能力を有すること及び権利能力の範囲は法律の規定によって明瞭であるが、権利能力発生の根拠については自然人の 権利能力と法人の権利能力の本質に関する間題、従って法人存在の実体に関する問題として古くから学説上論議の存 するところである。ローマ法学派によれば実在するものは個人のみであり、また個人のみが権利の主体であるという       ︵3︶ 立場に立つから法人は擬制による個人たる存在と見ざるを得ないのであるが、通説によれば法人は組織体として存在          ︵4︶ する実在のものと見る。  二 法人には公法人と私法人とがある。公法人は私法入と同じく私法上の権利能力を有する実在である。私法人は その成立存在の根拠が私法に基づいているのに反し、公法入は公法に根拠を有するのである。そこで私法人も公法人も 実定法により創造された実在体であるということができる。しかし、公法人のうちで、国家は他の公法人たる公共団 体及び公の社団・財団の如く実定法にょり創造されたものではない。国家は実定法以前に成立存立する国民の団体で あって、他の公法人と異った特異の存在である。国家の起源に関する問題は法哲学上古来からの重要課題であって、学

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説多岐にわたるが、国家契約説が従来主張され、すなわち国家存立の論理的基礎は国民の合意にありと主張するので ある。国鋤暮によれば人間は生れながらにして自由を行漢すろ権利、すなわち自ら法則を立て、それに基づいて行動す る権利を有するけれども、実際には、人間はしばしば自由と恣意を混同し恣意的な自由によって他人の自由を侵害す るが、それでは人問の共同生活は成りたたないので、そこで現実の人問生活には、各人の恣意的自由を制限するし、 それによって社会共同生活を可能にするのが法である。この法に従うことによって人々の間にさまざまな法的関係が 成立する、ところで多数の人聞が法的関係に結びつけられ、その法が強制をともなって、有効に行れるためには単な る個人意思の上に位して、これを規律統制する総体意思が存在し、各人の権利を保護すると同時に、彼が他人に対し て負う義務を強行して行かねばならない。       ハぢロ  このような総体意思は国家においてはじめて存立する。国家は共同生活の維持発展を欲する人間の合意によって成 立したものであるから、自然人と同じく自然的存在であり、他の公法人のごとく実定法的存在ではないと主張する。  民法は国家其の他の公法人の私法上の権利能力については規定していないが、公法人の活動上財産権の主体である ことは当然であるのみならず、その本来の目的が国家的事業にあることから、民法にはこれを規定しなかったのであ る。  国が財産権の主体たることは国庫の財産取得に関する民法第七二条三項、第壬二九条二項、第九五九条の規定の示 すところであるが、他の公法人に関しては規定していないがドイツ民法にも公法人の不法行為能力に関する規定︵八 九条一項︶はあるが、公法人の私法上の権利能力に関する規定はなく、公権力の主体としての法人は私法上の分野に

   自然人の人格       

六一

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   東洋法学      

大二       ︵6︶ も権利能力をもつが、しかしこの権利能力は公法の分野に有する目的のための手段にすぎない。この解釈は我国法で も理論上異なる理由はないのであり、それは公法上の存立と活動の必要上当然に考えられるからである。  三 自然人の権利能力の本質を研究することによって、自然人たる人問と法入との本質的差異を明らかにすること が出来ると考える。各学派、学説によって見解を異にするが、帰するところは、自然人の権利能力は人間自体の特質 であるか、もしくは自然人は自然上の人間ではなく、法規に基づき根拠を有するところの法的人に外ならないもので あるかという問題である。この問題は人問共同生活の実体と法の本質に関する問題であって、現代及び将来の法律制 度を基礎づけるものとして重要である。 ︵玉︶ ω3甦象鄭σQo♪魏○露琴Φ馨舘鶏彰翻費σq①二一〇劉○βQ霧簿Nぴ8ゴ膨9卸一〇毎9一‘o o●虹︾ ︵2︶ ドイツ民法八九条、日本民法には公法人に関する規定はない、しかし、公法人が私法上の権利能力を有することは 解釈上ドイツ民法と異ならない。 ︵3︶ ω欝く蒔鵠ざω緒る 。富欝”頃︸ω●ρ ︵4︶ ω陸拶藁象pσqo♪帥逼。P9朕ρ目竹    渕旨器80目戴望譲な℃⋮≦○諏︾ピo翻門び#o財3の膨欝σqgにo財o路閑8一冒誌”騎α。ご ︹頓︾慧r︺ρ皿c o一 ︵5︶ 尾高朝雄著改訂法哲学概論 七一頁。 ︵6︶ ω汁聾弱◎言鴨♪欝碧Pω.爲憾

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二 人蘭の入格  一 人間の尊厳  すべての人間は出生の尊厳によって権利義務の主体たる特質ありとする思想は、一八世紀に入       ︵i︶       ︵2︶ って法哲学において唱えられたのであるが、この思想は次第に自然法学によって強調せられるようになったのである。  自然法学の父とよばれる9・江霧を始祖とする自然法学説は、渓餌蓉を先駆者とし、その後継者によって発展展開 せられたいわゆる理性法学︵<震雲類津器。算︶が樹立せられた。 これを後期自然法学と呼ばれる。潟婁栓が後期自然 法学において劃期的地位を築いたのは、彼が純粋理性批判において従来の独断的形而上学の理論に対し、深刻な批判 を加えると同時に他方では事実のみを重んじて相対論または懐疑論におちいる経験主義を批判し、権利の問題︵2﹁ p霧蓼一弩菖が事実の問題︵名8畳ω鼠・εと全く次元を異にすることを明らかにし、それによって必然の法則を超 越した尊厳な理性的自由の根拠を確立したからである。H診馨によれば、意思の普遍妥当的法則たる定言命令は、人 問が自己以外に権威に仰ぐところの他立命令ではなく、人問が自己自身の中に見出すべき自律の原理である。人は認 識の領域において自然界に法則を与える立法者であると同様に道徳の世界においても、自ら自己の意思を規律する立 法者でなければならない。したがって、人格は常に道徳律の創設者としての尊厳性をもって遇せらるべきであり、い かなる場合にも他の目的の単なる方便となり、奴隷となることは許されない。ここにおいて定言命令はすすんで、汝 は人をばそれが自己自身たると他人たるとを問わず常に同時に目的として取扱い、決して単なる手段として用いるこ

   自然人の人格      六三

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   東洋法学      六四

とがないように行動せよと命ずるのである。これはまさしく、汽窪げによってギリシャ、ロ⋮マの昔から人類の不断の        ︵3︶ 理想としてもとめてきたところの人間性の尊厳を解明し理想の光は炬火のごとく人類の上に輝きはじめたのである。 そして、それは人類に対する永遠の光明であり、渓きげの学問上における不滅の功業である。  汽p客の理想主義哲学は一九世紀の末葉から二〇世紀の初頭にいたって、法哲学界において再び高揚発展せられて 新カント派の学説が生まれて、事実に対する理想の尊厳と存在に対する当為︵ω色費、︶の権威が確立された。  国欝げの理想哲学を継承し、かつ法哲学的思索において渓欝纂を超えて問題を解決したといわれる司周帥。・ ,は、そ の哲学的法律論において、人格者の尊厳の概念を提唱し、類㊤暮の定言命令の内容に一層明確な精神を与えたといわ れる。津奮は自然の法則に対して自由の法則の特性を説明し、すべての人間の尊厳の絶体的平等を強調している。 すなわち、団は①ωによれば、われわれが人問と交り、人問を取り扱うべきであるところの規則をわれわれに与える自 由の内部的規則は、相反するカの抗争を顧慮せず、だれがカの対抗において勝者であろうかを規定しない。カと強制 とは自然の法則である。まさに自然の法則に矛盾する自由の法則は、単に理性者に向って語り、理性者がいかにし て、その自由において相互に他を取り扱うべ巷であるかについてのみ顧慮する。自然において妥当するカの平等 ︵箒9爵夢簿α魯○睾葺︶の代りに自由にとって人格者の平等︵島。○巨・夢葺創角蒙拳8窪︶が唯一の法則と なる。しかるにこの法則は、その行為が意思によって規定されるところの理性者に対して語るのであるから、それは 意欲の法則たらねばならない。意思は目的に従って活動する。それ故、人格者の平等は理性的意思にとっては、自由 法則がその目的を定めるにあたり則るぺき唯︸の最高法則である。この法則により人間の共同態は︸切の自然の共同

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態から挙揚され、そこで各個の人問に人格的尊厳が必然に帰するところの独自の自由の世界としてのみ見られるにい      ︵4︶ たるのである。  法に関する哲学的思索の歴史は自然法の概念を中軸として展開発展したものと見られるが、現代における多くの法 学説においても、自然法の思想たる人問の尊厳は法哲学上不動のものと考えられる。一七八九年フランスの人権宣言 をはじめとし、その後にいたり各国の法制において、古代から人類が理想として、もとめてきたところの人間の尊厳 は法哲学上の概念から法規範にまで高められた。  法律哲学は、あらゆる人問に人間性を発見し、人間性は尊厳を有し、かつそれ自らが目的である。これが入格的尊 厳である。人格的尊厳は大小の比較を許さない。単に平等の関係︵9昏夢簿︶のみが許される。この人格的尊厳の       ︵5︶ 主体が人格と解せられる。人間性は人間が人間としての特質であって、人間の生物的存在としての特徴ではない。人 問が社会的共同生活を営むものとしての人問存在のすがたを特に顕著ならしめるところの人間自体に特有する性格を 現す概念である。尊厳なる人間性の主体たる人格を実践哲学的に考えるとき、そこには倫理学的意義における人格と 法理学的意義における人格とを見出すことが出来る。すなわち倫理的人格は人間の生活における内面的方向にそうて 成立するものと見られるが、しかしともに原理的には社会生活を基盤として成立する人間の性格の一面の現われであ ると言うことが出来る。そこで法的人格は人間が法的規範の支配のもとに社会生活を営むところの人間自体に特有な       ︵6︶ 性格から生まれる尊厳の主体と解する。この尊厳の主体が権利能力を有するのである。  二 法規範と人間の尊厳  人間の尊厳はギリシャ、・ーマの昔から人類の永遠の高い理想として宗教において、又

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   東洋法学      

六六 倫理学的哲学において幾千年にわたる中心課題として発見と実現につとめて来たが、文化の進展と学問の発達は漸く 入類に光.明をもたらし、人問の尊厳が法的に確認せられたのは、一七八九年フランスにおける人間および市民の権利 の宣言である。その第一条は、人間は自由かつ権利において平等なものとして出生し、かつ踏みとどまると規定した。        ︵7︶ このいわゆる人権宣言は人問の尊厳を確認し、かつこれを尊重すぺきことを法的確信として表明したものである。つ いで、一九四八年の人権に関する世界宣言において人間の尊厳と自由かつ平等に関して全人類のために不朽不変の原       ︵8︶ 則が確立された。人間の尊厳が宗教ないし倫理学・哲学上の観念から法的確信にまで高められたことは、もっぱら、 法文化のたまものである。  人問の尊厳は法的には基本的人権として認められる。基本的人権は自然権であり、それは国民としての権利である よりも、人間自体の固有する権利であるという自然法上の思想は一八世紀以後において各国法制によって承認せられ たものであるが、その法制の成立過程を見るに、劃期的かつ最初のものとして一七七六年のヴァージニヤ権利章典を あげることができる。ヴァージニヤ憲法は同年六月の権利章典と政治組織から成立するもので、他のアメリヵ植民地 における憲法制定の機運を作ったものであるが、人間の尊厳がはじめて憲法の規定にあらわれたものとして最も注霞 される。権利章典は一乃至一六の規定から成立し、その一において、人々はすべて生来ひとしく自由かつ独立であ り、︸定の生れながらの権利をもっている。そして、これらの権利は人々が社会状態にはいるようになる場合にも、 どのような契約によっても彼等の子孫から奪い去ることの出来ないものである。そのような権利とは、すなわち財産 を取得、所有し、幸福と安全を追及および獲得し、これによって生命と自由を亭受することが出来ると規定された。

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その後一七八九年に制定されたアメリカ合衆国憲法には、ヴァージニヤなどの州憲法に見るような権利章典に関する 条章は存在しないけれども、その精神は尊重せられているのみならず権利章典に含まれるような規定が所々に散在し ていることは確かである。例えば人身保護令状の特権の停止に対する禁止や権利鋼奪法と遡及効ある刑罰法制定に対 する禁止等の規定がそれである。しかし未だ人権の保障が十分でないとして、制定当時多くの批判があり、その修正 要求が非常に強まったので、連邦主義者の指導者たちは新政府が成立した後において直ちに修正することを承認する という保障を与えて、漸く諸州の憲法議会によって批准せられたのであるが、かくて一七九一年にいたり、合衆国憲 法の権利章典とよばれ憲法修正第一条乃至第一〇条の規定が追加され、その第一条において宗教.言論・出版.集会        ︵9︶ の自由および諸請願の保障が定められた。  二〇世紀になって、殊に第二次世界戦争を経て人間尊重の思想は、多くの文化国家において普遍的に一般的法的確 信の域にまで到達し、各国憲法はいづれも人間の尊厳もしくは人権尊重が憲法によって保障せられることとなった。 すなわち例えば一九二四年のソヴィエト社会主義共和国同盟憲法、一九四六年のイタリヤ共和国憲法と同年のフラン       ︵鐙︶ ス共和国憲法、一九四九年のドイツ連邦共和国基本法などにおいて明らかにせられている。そしてフランス共和国憲 法は一七八九年の人間および市民の権利の宣言を確認したもので、憲法前文において、すべての人間は人種・宗教・ 信条の別なく譲渡することの出来ない神聖な権利を有することを宣言すると述べている。日本憲法もまた各国憲法と        ︵難︶ 同様に、基本的人権が天賦の人間固有の権利であることを明らかにしている。  三 人格者︵頴蕊豊︶の概念と人格︵評拳曾ぎ鼻簿︶の概念  人格者の概念と人格の概念は法律哲学的に思惟せ

   自然人の人格      六七

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   東洋法 学      六八 られる概念であるが、倫理学・心理学・社会学その他の人文科学において学問上の用語として普通的かっ基礎的概念 を示すところのものとされている。そして、この二っの概念は学間上、研究上の用語として、混同せられることがあ        ぬロ リ、またこの二概念の差別を認めながら、その差異に理論的重要性を置かないものがある。もとより或る学問的立場 で用いられる人格者と人格の概念が、他の学間的立場におけるものと同一でなければならないものでもなく、またす べての学問的立場において共通の同一内容の概念でなければならない理論上の根拠があるものでもないが、人間の本 質を研究の対象とするかぎりにおいて相互に密接に関連ある諸学問の研究において、概念混同から生ずる不正確さを 除くことは有益なことであると考える。人と人格を概念的に区別することは、その用語によってあらわされる内容を 強調する意味において、人格の概念を理解することが必要であるが≦。。 ,叶。目糞斜.、質によると、人間の最上の幸福は人 格のみであるというの。①跨。の言葉を人と人格の区別について、人格の意味が理解される。そして社会的現実を観察        おロ するなら、人間の外面的作用から見て、人と人格の区別は可能である。  法概念としての人︵譲話8︶とは権利の主体たる人問であり、人格︵勺.触.α囲、浮三ハ。5は権利の主体たる人間の特質 を意昧する。国嘗①・8霊ωによれば、法によって与えられる人の利益の満足に役立っ法的のカとしての権利の概念 は、この権利が与えられるところの主体、すなわち権利主体であって、法律用語において同意義であるところの人 ︵田湊8︶を前提とするものである。しかしながら人格︵弓段磐忌9ぎδは権利ではなく、人の法的特質であって、 それはすべての権利義務の前提条件であり、権利能力︵寄。房鋏笹磐魯︶と同じ意殊である。それ故に権利能力は権        ロ 利義務の主体となり得るところの人の特質である。

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 人と人格の区別は、概念と名称の問題としてこれを歴史的に考察するとき、これを明瞭にすることが出来る。古代 導!マ人によって用いられた鷺凄・墜という語は近代の法学者によって継承されて、人格者︵零霧8︶なる概念を 示すものとなった。ローマ法において人間について需塞。欝︸ω3汁霧”。署暮の三語が用いられ、法学的にそれぞれ 区別されていた。  慧誘・墨はもと演劇に用いられる陶器又は木彫の仮面を意味するものとせられていたが、これが転化して自然の人 間︵ぎヨ・︶と同意義として用いられる慣例を生じた。すなわち何らかの特殊の役割又はそれを演ずる人物を意味し た語が、単に自然の人閲を指称するに至ったのである。  ・ ・汁暮霧は人間の自由なる地位又は市民たる地位を意味し、。署客は自由権と市民権を有しかつ家族権を備えた入 間を意味した。・⋮マ人は家族制度を採用していたから、家の観念を重視し、一家の一員としての権利を有し、義務 に服する権能は人間の重要な資格と見られその権能を家族権と称した。このように見ると、古代のロ⋮マの法的生活 における需拳・蓼は自然の人問自体であり、。ε暮は人間自体にあらずして人間の資格、すなわち現代の法学にお       ︵15︶ ける人格︵淳拳9ぎ爵。5に類似する概念を意味することが知られる。    ︵玉︶ 費冒Oo8讐甲譲ξマタδ罵酒冒①算σ9財傷oω膨辞α登9にoびΦp男oo洋”罰阜ど一題︾鼠ご9嚢co︸       o o叶騨鐸象⇒σq①さ図○導露○一翼霧Ng巨廓宥σq①二8財○βOoω暮Nびqoダ師倉 ご δ︾縁r9轟ご       留くお身”o o場8露3。 。一さ暮蒔魯霧巨警霧寄。算9騨α.頃”鉾ρ    ︵2︶ 恒藤恭著、法学論叢﹁へーゲルによる自然法学批判について﹂九九六頁 普通にグロチウスを自然法学の父と呼び    カントを先駆者とする一群の学者を理性法学とし、自然法学に対立される学者があるが、これを自然法学に属せしめてい

   自然人の人格       

六九

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東洋法 学

る。 ︵3︶ ︵4︶ ︵5︶ ︵6︶ ︵7︶ 人問は自由かつ権利において平等なものとして出生し、 けられるにすぎない。 ︵8︶ ︵9︶ ︵の︶ ︵員︶ ︵珍︶ ︵B︶ ︵処︶ ︵β︶ 七〇 い書αQ9︾一寅○彰魚蓉拷80芦 お凱9窃︾ Oo霧び篶σ登“型馨α○算窪”G80 Q●切ρ 尾高朝雄著 法哲学概論 六九頁 恒藤恭著法学論叢、五巻二号、四七頁 恒藤恭著 法学論叢、五巻二号、四〇頁 恒藤恭著 法的人格者の理論 三四頁 人問および市民の権利の宣言第一条        かつ、ふみとどまる。社会的差別は共同の利益の上にのみ、         世界の憲法 大沢章編 人権に関する世界宣書第一条 9二響。暮o 。葱。 。ぎさ︾欝魯・馨09観ω藻暮ご巨ご9鉱・℃囲蓉3G冶知轟轟♪ ソヴエート社会主義同盟憲法  第ニニ条 イタリヤ共和国憲法  第二条 フランス共和国憲法  前文 ドイツ連邦共和国基本法  第一条 臼本国憲法 第一条 麟α箆のび窯欝暮二一90甕α冒鉱馨諮・プo男。諾○コむ○題ω●朗 タδ 。。 な同露象ぎ矯弓o拳○⇒qp創浮湊9一一9ぎ一伸餌誌≦・箕陣鷺Nぞ簿・9びむ蝋舗も o﹂co︸ 海召08・毒。 っi譲な一マ/ぐ○駕許欝欝○●ωい潟ざ 末松謙澄訳 ユスチニァーヌス帝欽定羅馬法学提要一一頁 恒藤恭著 法的人格者の理論 一二、ご二頁 設

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三 権利能力と人格権

 瞬 権利能力と人格権は共に、入格保護の臼的より、法制度上に認められて来たものであり、権利能力は人の権利 主体性を保障し、人格権は権利主体の入格的利益の保障を属的としている。  法は人を権利主体として承認する以外に、人の保障として、不法行為制度上人格権を認めている。しかし、これは 人の全生活分野を絶体的な法的利益として保護する包括的保護規定としてではなく、その保護対象は人の一定の利 益、すなわち生命、健康、自由、身体にすぎない。更に、人の全生活分野の保護として︸般的人格権の承認が問題と なる。  人格の概念を人の権利能力より以上に理解すべきである。何故なら、そのように理解すると人格にっいての権利と いうことは不可能だったからである。たしかに人格は権利能力をその中に包含するが、しかしながら、それにつきる ものではない。理性を有し、自律の能力ある存在としての人は法的利益として法により承認されねばならない種々の 特性を有している。そこで法的意味の人は権利能力を有するのみならず、常に権利を持ち、又持たねばならぬ存在で ある。  人格がその様に解されると、それにより人間にとって統一的、生得的、本来的の一っの権利が存立する一般的人格 権の思想に至るにちがいない。何故なら、権利能力が人間の本質に基づくと考えられる如く、一般的人格権も人問の    自然人の人納格      七一

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   東洋法学      

七二 本性に根拠をもっのである。個人の特性に基づいて人格権は、理性ある自由行動的な存在の価値を維持する権利とし て、換言すれば人格そのものの中に存し、その主体の個性と不可分に結合する生活利益をその保護の下におく権利と して定義される。  人格権の主体は理性を有し自律能力ある人間である。客体は人間にその本性により内在する利益の総体であり、そ れは、その本質により入と結合するものである。それは特定の個人に何ら関係のない物的利益と対立するものであ る。個々の利益は総体的人格状態の一部をなすにすぎない。それを人格的利益と呼ぼうと、又は一般的人格権の一部 の権利として人格権と呼ぼうと無関係である。個々の場合には常に人格権の特別の保護対象であるこれらの利益の中 の各々のもののみが侵害されるから、一般的人格権は多くの特別の個別権に分れる。個々の権利の侵害は常に一般的 人格権の侵害でもある。実際この個別権は一般的人格権の表現形式にすぎず、この如く、総体権の特有の性質をも、       ︵王︶ 放棄することは出来ないのである。  これらの観念は、特に近世自然法の影響の下に、法律上の明確な観念となったものである。ローマ法においても、 身体、自由、名誉等の侵害に対し、インユリア訴権、アキリァ訴権を認め、人格権の実質的観念を認めたのであろう が、独立の人格権を認めるまでにはいたらず、人格権が法律上の観念とされたのは、.○増・鉱煽ωに始まる自然法学派に よるものである。自然法学派は、生命権、自由権等の人格的利益を目的とする権利は、天然自由に生得せる天賦の権        ︵2︶ 利とし、人類の基本権又は人権といい、一九世紀に至り人格権の観念は更に強調された。  民法に規定される権利能力は、人間に結合し社会的地位や人間の性格や、行為能力、意思能力に結合するものでは

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ないことが特色である。民法の基本原則は一般的な人権の具体化である。それは永い発展の結果であり、特に自然法       ︵3︶ 思想と哲学的理想主義の成果であるものである。       ︵4︶  一般的権利能力の私法に於ける承認は一八世紀のドイッ法哲学の成果であり、民鈴馨の影響の下にはじめて人間の        ︵5︶ ︼般的権利能力の概念が私法典に取り入れられた。これが、オーストリヤ民法である。  法は人問のために存する。人問は法の前面に現れる。法は人問に奉仕しなければならない。そこで、法はまづ個人 に一般的に権利を有し、取得し、それを処分する可能性を保障しなければならない。それ故に、法は人間に法入格を 認めねばならない。この場合、法人格の概念は広く解して、権利能力並びに行為能力を包括して考えられる。  さらに、法は個人にその本質に従って、一定の自由と権利を与えねばならない。これが人権である。これは人間の 自由とその発展を一定の人間の自然の性質に適した関係で保障するものである。        ︵6︶  この二つの要求は同一の基礎に基づいているが、それは人間の尊厳である。  二 法的人格の概念はドイッ私法教義においては、伝統的に権利についての理論に関して論じられた。権利を、そ の利益に従って、行使するために法規にょり個入に与えられたカであると解する場合は、この概念は、このように保 障されるカが帰属し、その作用をなす主体が存在することを含むのである。この主体は法的入格の中に見い出され る。法により与えられた人間の利益の亭受のためのカとしての権利の概念はそのカが与えられる主体、すなわち権利 主体を前提とする。従って法的人格の本質は、権利義務を有する能力の点に認められる。それは権利能力と同一であ り、法により人間に与えられた性質であると考えられる。法的意味の人は権利能力を有する人間である。民法一条に

   自然人の人格       

七三

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   東洋法学       七四

よりこの性質は国籍に関係せず、すべての人問に与えられる。人問は出生の完了により、これを取得し、死亡迄保有         ︵7︶ しているものである。        ︵8︶  三 権利理論の歴史は自然法学説の拾頭の時にまで遡り得るにとどまるに過ぎないが、﹁自由は他入の自由と共存す        ︵9ノ る限りで、個々の本来すべての人間に人間として帰属する権利である﹂と表現される如く、権利を自由権として理解 されたが、パンデクテン法学は一九世紀において、留くお囲曙によりこの古典的表現を取り入れた。その出発は法的に 規制された生活関係としての法律関係の概念であるが、も 。還お、蔓はたしかに、この法律関係を自己特有の言葉で有機 体として表したが、それにも拘らず、自然法の影響を強く受けているし、も Q碧、陣鵯︾の場合にも自由の観点の下に権利 が定義されている。権利の責務は自由の範囲を保障することにあり、権利の本質は個人の意思に、他人の意思とは独 立に支配する領域が与えられる点に存する。従って、人も権利能力として理解され、哲学的な人概念と密接に関連        ︵10︶ し、o oρ≦磐図はこの人概念を人間の結合体への移行を承認し難いものと考えたのである。  彼が法人擬制説を採ったのもこの理由が存するのであろう。権利主体の観念は一般的権利能力の観念と一致するか ら権利観念の如何により定まる。権利に関して意思説を採る者は意思の主体でなければ権利主体となすこと渉出来な いことになる。この前提を承認する結果として、法人を意思の主体とすればその人格は実在となり、之を意思の主体       ︵11︶ でないとすれば立法的擬制となる。       ︵⑫︶  四 権利能力は法的意味の人を表し、この場合の人格は人格者の意味である。人格者 ︵勺。触ω窪︶ の概念と入格 ︵㌣轟9誓蔓簿︶の概念とは、一は主体を意味し、他は主体の有する性格を意味するのであり、互に区別すること

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が必要であり、法的人格者の理論は、近代的思惟の所産であり、一七、一八世紀の自然法学者により先づ展開され、        ︵B︶ 自然権の主体としての人格者の概念が、近代的自然法学説にとって重要な理論をなした。更に譲鍔梓の影響の下に、 一般的権利能力の概念がはじめて私法法典に取り入れられたが、H雰暮は市民社会における、一般的権利能力を宣言        ︵M︶ した。彼は人間の法的地位を自由という自然の︵生得の︶権利と他の権利を取得する能力を以って根拠づけた。  これに対して、歴史法学派に属するω雪酋蔓は、自然法学者が実定法を超越する立場から法的人格者の理論を構成 したのに反し、実定法の立場から法的人格者の理論を構成したし、実定法の立場から法的人格者の本質を把握しよう        ︵妬︶ とするものである。  五 今日の法にとっては、法的意味における人は人間と同一である。そして人問は人より生まれ出たすべての生命 体である。これ以上人間を特徴づけることは不必要であり人間の概念のこのような内容決定は色々の意味で根拠づけ られる。まづ、価値評価の点では、人間という点に人としてのすべての特徴が包含され、さらに人間に由来するすべ てのものが人としての保護と利益を亭受するために、一般的普遍的な概念を見い出、すことが必要となる。一般的に妥        ︵矯︶ 当しうる概念が決められ、充足すべき要件が減少すると、それだけ、人の保護が十分となる。  この如く入の概念を規定することは、法における人の価億を表し、入の保護とその促進は正義理念の具体化である        ︵17︶ 法規が存することを示すものである。  人の価値を認め、これを保護することは、人を法的人として承認することである。この承認は人間の権利能力の承 認である。権利能力の意味を低く評価すべきではない。それは社套生活に人問が参与するため欠くべからざる要件で

   自然人の人格      七五

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   東洋法 学      七六 ある。それなしには人間は法律上存在しないものとして取り扱うべきことになろう。権利能力の否定は人の否定を意 味し、人間を保護なきものとする。それは殺人を無罪とし、奴隷制度又はその他の法感情に一致しないと考えられる        へ娼︶ 法制度に至り、せいぜいわずかな保護対象を認めるに過ぎないものとなるであろう。  人間と権利能力の同一視は民法においては明瞭に述ぺていない。一般に人間は権利能力を有すという原則はない。 民法一条はその始期を規定するにすぎない。従って人間の権利能力は自明のもとして前提している。そこで人を表す 人間の権利能力の規定は、法の以前にまたは法の外において与えられるもの、すなわち、人間をその尊厳︵≦鎧冠伽。︶ において認めているものである。そこで、人間に由来するすべての生命体が権利能力を有するのである。人間と権利 能力の抽象的同一ということから権利能力は死亡と共に終り、それは侵害も剰奪も出来ず、又その他の何らの理由か       ︵19︶ らも失れることは出来ないという結果が生ずるのである。  人間という事実に権利能力という法効果が結果するこの人間の権利能力の法規範を分析すると、この法規範の価値 は人間の尊厳︵≦費含︶に存する。又入間から権利能力を引き出すことはその範囲に関係する。一部分としての人間 は存在しないから、一部分の権利能力も存在しない。権利能力が人間の地位又は性質の結果である場合は、その前提 要件の一部として、一部分の権利能力のみが存在することになる。法人の一部権利能力の問題は、自然人と異って考       へ20︶ えるべきである。これは法技術の問題であり、︸般的法確信の結果としてではない。  六 自然法学派の権利観は個人がそれぞれ、フての本性として権利を体有するというように考えて、人間それ自身にお       ︵21︶ いて権利の源泉を求めていたようであるが、さらに歴史法学派もo 。餌く面薯においては、倫理的自由の中に、すべて

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の入問の法人格を基礎づけ、自由はすべての権利の基礎であり、前提要件であったし、又、評9賞はこの理論をさ らに形式化して、彼にとっても入格が権利の基礎をなし、入格権は人間の最も重要な権利であり、すぺての権利は自       ︵22︶ 由の発展に寄与するものとされた。       ︵23︶  権利を個人の人格と、さらに自己とその財産のために取得した尊厳に基づくと解するものもある。又、利益説を唱え       ︵24︶ る嵜豊謎も権利の主張を人格の主張とのぺている。  七 このように、権利の観念は人間の自由又は人格に関して発展して来たのであるが、特に、人格権としての自由         ︵25︶ 権を認める者があり、我国においても、私法上の自由権を是認し、その内容を各種の精神的又は肉体的活動の自由と し、肉体的活動の自由と共に、意思決定及び意思決定以外の各種の精神作用殊に思索感情のような精神的活動の自由も みだりに妨害されることなく亭受し得ることを法律により確保する必要があり、個人の精神的及び肉体的勢力に基づ く活動について人格者たる個人の活動としての自由を保護するのでなければ人格保護の立法の精神を生かし得ないと  ︵26︶ する。又、人格権を人の存在に関するものと、人の活動に関するものとに分け、自由権を後者の例とし、この侵害は        ︵27︶ 不法行為を構成するとする。        ︵28︶  又、自由についての権利を否定し、法的に保護された利益であるとする立場も存するが、その人格的利益の保護に ついては是認している。  八 人格権の保護対象を考察する場合、人と人格の概念は、すなわち、評拳魯と勺窪8呂。算簿とは区別して考え るべきであり、法的に観察すると、人格として意味を有するものは、人間の内的生活に限られる特徴であり、人概念

   自然人の人格       七七

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   東洋法学      七入

の中には、個人的に発展する可能性が包まれている。たとえ、このような可能性は人概念の前提要件ではないとして も、法はすべての人にこのような可能性を保護すべきである。その限りで、人は潜在的人格として、又、人格を人の       ︵29︶ 発展の継続として表わされる。  このような人格を基礎とする権利として、発表の自由の私法的保護と、芸術的活動の自由についての権利が与えら  ︵30︶ れる。精神的創造物に著作権が認められるのは人格評価の表れであり、又、営業活動については、ドイツにおける人       ︵笥︶       ︵3 2︶ 格発展の基本権は経済活動についての権利を有するとして営業活動も人格権とされている。 ︵1︶ ︵2︶ ︵3︶ ︵4︶

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︵7︶ ︵8︶ ︵9︶ ︵幻︶ ︵n︶ ど9旨≦o疑♪U器菊⑦o翻汁餌窮蝕σq①po嵩廓坤一愈 這㎏題o Q・嵩晒 宗宮信次著名与権論 一九照頁 ≦o暮巽津鉾鷺!勺o諺○辮¢爵伽層03α三一〇げ冨①客9ω≦g腔一躍§<嵩審oプゴ Gい沖ω.一ρ OO雛目騨PH⇔島く箆葺簿貿ゆΩOo簿o旨ωoげ騨津賞α霧男江<p鐸ooげ貫○増α昌戴旨σqq①ω一c o錫⇔αげo鍛ぎPO類山o質 ︸騨げ門劉貰pαo暮9 む題yω。ざ OO”目騨P欝騨●04ω●⑬ρ OO言欝OR幻oo悶募げoσQユ諏Ω巽導o旨ωoプ一一9さβ屑o誘○⇔薮pα象o日財oOほo⇔α巽銭oβωoげΦ鷺ooぴ汁ρ ω﹄Oy OO賞αq︸碧貸04ω.慾ρ 末川博著 不法行為並に権利濫用の研究 一四五頁 渓欝⇒3嵩簿魯℃げ賓o 。一翻αoωo o一簿翰!W︾鉱一‘る一ゆω。蕊い Oo賞α織︸O霧ω環三①9貯o男g綱酔霞峯瓢簿菊09粋器o財暮凶α○穫勺Q諺9轟ざ包3答︾おい紛 鉾賂地 鳩山秀夫著 民法研究 四五〇ー四五一頁

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人の人格

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東洋法学

八○

四 自然人の権利能力

 一 権利能力の思想が成文化された関係を見るに、・ーマ法、ゲルマン法の諸法律には人間の一般的権利能力に関 する規定を設けていなかった。これは封建思想に支配されていたからであるが、文化の未だ発達しない時代において は国民が容易に封建思想から脱却できなかったので、一七五八年のバイエルン国法、一七九四年のプ・シャ国法も未 だ人間の一般的権利能力を確定しなかった。しかるに、一八一八年に施行したオーストリャ民法典がはじめてその第       ︵1︶ 一六条において、すべての人間を権利の主体として承認するという原則的規定を設けた。  一八九六年のドイツ民法の現代の文化国民の意識に適合して、人間の権利能力を自明のものとして前提し、何等特 別の規定を設けていない。民法第一条はドイッ民法の解釈と同様に解される。何となれば入間の一般的自由と権利能 力は倫理上の必然性︵簿三ω。ぎぎ牙。&噂魯︶であると考えられ、証明を要しない原則が確立されているからで  ︵2︶ ある。  人間の権利能力は人問自体の特性と認められるから、権利能力を問人から廃除することも、自由意思による制限も       へ3︶ 法律上許されないし、また行政行為によっても判決によっても人間に対して権利能力を拒絶することは出来ない。す べての人間は権利能力を有しているが、人間は人種、国籍、性別、宗教によって区別せられることはない。もとより 古来の奴隷が廃止せられたことは勿論、近代まで存続していた僧侶に対するドイッ普通法上の財産取得能力の制限は    ︵4︶ 消滅した。

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 二 通説によれば、権利能力は人問に特有な資格ではない。その資格は法によって、従って国から与えられたもの である。国家は法の創造者であり、権利義務と共に法的人間を創造する。法的人間は権利義務の主体であり、自然的 人間とは無関係である。人間は法により最初から権利能力を与えられているから、法的人間のみが存在する。すなわ ち自然人は自然の人問であるものではなく、法にょり人間であり法的人問があるにすぎない。人間には権利能力が与 えられ、権利義務の主体となりうる資格があるから人問である。すなわち人間であるから権利能力を有するものでは ︵5︶ ない。  この説は、ゲルマン法学派の主張するところで、今日まで多くの法学者によって支持されているが、その根拠とす るところは、国家が権利義務とともに法的人問を創造するのは、国家構成員について法的地位を認めるという公法上 の基本理念に基づくものである。しかしこの説明は、国家構成員以外の入間について人類共同生活において人間の尊 厳を無視するものであり、かつ、人問の法的地位に関する歴史を無視するものである。  三 法律によって人間に権利能力が付与されるものならば、権利能力は国籍によって制限せられることになる。国 家の立法行為は国民に対してのみ効力を有するからである。これに反し権利能力は人問自体に属するものであるとす るならば、権利能力は国籍にも、国家の意思にも依存しない独立のものとなる。もとより公法上の要件を必要とする ことなく、又法律にも優先する。この見解は合理主義的自然法の立場に適するものであって、今日の文化国民の認識        ︵6︶ からすれば、すべての人間が内外国入の別なく権利能力を有することは自明の原則となっている。  入問の概念と人格者の概念の一致は歴史的に確認することが出来る。古代においてはたとえ明瞭でないにしても、

   自然人の人格      八一

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   東洋法学      

八二 既にω・嘗馨学派や曽8学派によって基本的に人間の人格が主張せられたし、奴隷の完全な無権利能力は腿ーマ       ヘ7︶ 法においても既に問題があった。  権利能力の概念は、ローマの市民の人格に相当するが、ローマ法によれば自由人は法律と命令で法的地位を有する に反し、他方、奴隷は市民法︵冒。 ・・一<εにより権利の主体と認められないで法的には物たる性質の人間であった。 自由人にも市民と非市民とがあり、市民は市民権を有し公法上も私法上も完全な権利の主体となるが、非市民は自由 禦を有するけれども、市民権を有せず、又財産取得の能力にも制限があった。この法的地位の区別は人間自体による のではなく、市民の資格を基礎として決定せられたから、人間の価値は市民としての資格と同視せられた。これはギ リシャ人や翼ーマ人が自らを被征服者もしくは外国人と分離することによって優越性を示したのである。しかし法制 の変遷によって市民としての資格は国籍の概念に代ったのであるから、私法上の権利能力は国籍の観念とは裁然と区        ︵8︶ 別せねばならなくなったのである。  四 入問自体に人格を認めるという思想は、本質的にはキリ子.−教の影響をうけて発展したが、啓蒙思想とドイッ 観念論によって、自然法と権利の理念において人間の理性的倫理的性質が強調せられ、一九世紀のはじめにいたり、 。ハンデクテン法学が国家における人問の法的地位のみでなく、人間自体の権利主体としての性質を表現するところの        ︵9︶ 人間と権利能力の概念を明らかにした。  権利能力は人間の法的地位として歴史的発展の過程を考えねばならない。それは奴隷制度の変遷によって明らかに することができる。奴隷制度は法律文化史上の重要な研究対象であった。人問の価値と権利能力に関する問題として

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古くから注霞せられたところである。奴隷は市民的人賜の人格をもたないけれども、自然の人格を有する。法規が自 由市民について法的関係として承認し、形成するすべての生活関係に奴隷は事実上は存立しうる。奴隷にはこの法的 承認がなされないから、権利はなく、事実のみが存在するにすぎない。奴隷は奴隷女と婚姻関係において、継続的に 共同生活をなしうる。子供は準婚関係から生まれる。しばしば行れたことであるが、主権は奴隷に対し財産上の物を 事実上占有管理するものとして譲渡しえた。また主権は奴隷に対し個々の場合に代理権を付与した。奴隷は理性ある 動物であるから、法律行為を締結しうるし、不法行為を犯しうるし、しかも奴隷が締結した契約で自然債務的に義務 を負担する。この義務の履行を求める訴は奴隷に対して提起することができないが、奴隷の義務は発生するという見    ︵m︶ 解が存する。法律はこの自然的関係を抹殺することはできない。それはいかなる子供にも養育と扶養請求権を禁ずる ことが出来ないからである。この揚合ドイツ民法理由書の如く単に理性と倫理の命令のみと見るのは事実上妥当では ︵U︶ ない。  ドイツ普通法は、奴隷制度を認めなかったのである炉、ドイツ民法が一九〇〇年一月保護領に施行された当時にも 保護領では奴隷類似の古い状態が存続していた。保護領総督が一八九一年九月一臼奴隷の自由売買に関する命令を発 した。この命令では奴隷制度と人権的不自由状態を認め、奴隷が身受売買と代金を支払った後自由人となることが許 された。しかし、一八九五年六月二五臼の奴隷の奪取と奴隷売買処罰に関する法律により奴隷売買は禁止された。一 九〇〇年四月施行の領事裁判権に関する法律によって古い法律制度は廃止された。この奴隷の廃止は法律上の人種差       ︵鴛︶ 別待遇を取り除いて、人間の自由平等を確認したのである。

   自然人の人格      八三

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   東洋法学      八四

 五 権利能力の概念,は一九世紀のはじめ、パンデクテン法学が人問の国家における法的地位のみならず、人間自体 の主体的個性を現わし、人問の地位を市民権から分離したことから発展したものである。人問の価値は市民的資格も しくは国家構成員たる資格をはなれて人間自体に存在することを認めたからであるし、人間自体に価値を認めること は、倫理的理性的観念によって形成せられた原理︵憶8幹巳霧。︶であるが、これが法的確信の域にまで達したとき法的        ︵鴛︶ 人間の概念が生まれ。そこで法的人間という概念は、人問の尊厳が承認されたことであり、人問は宗教国籍人種性別 に差異あることなく、人類共同生活において自由で平等であるとせられる。そこで法的人間が国家構成員たる資格に 関係なく、従って国家の法によって創造せられるものでないことは明らかである。国家の意思は国民に対してのみ効 力を有するもので、国民的資格に関係ない事項を規律することはできないからである。すなわち、法的人間は人間自 体であり、尊厳の主体たる自然の人である。しかし人間性は人間生活の全領域にあらわれるものであるから、人問の 尊厳は宗教的倫理的もしくは社会的又は法的の各生活関係において存在することとなるが、法的関係において現われ       ︵14︶ るところの自然人が法的人問である。  六 法的人間は人格を有する、入格は権利義務の主体と同義である。権利能力は権利義務の主体となりうるところ        ︵葛︶ の人問の法的特質、黛Φ団鰐、一q 。。財鶉簿。一嵩.触娼。触。 ,霧であって、それ自体権利義務ではない。  私法上の法人は権利能力を有するが、法学従ってその有する権利能力は国家の意思によって創造せられる ︵民法三 三条、四三条︶に反して、自然人の権利能力は人間が法的人間として、国家の意思に関係なく、人問の特質として具 有するところのものである。

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 公権力の主体である法人は私法の領域においても私法上の権利能力を有する、しかしその権利能力は公法の慎域に        ρ16︶ おいて存在する主たる鼠的を達するための手段にすぎない。法人の権利能力については別に研究する。 ︵1︶ ︵2︶ ︵3︶ ︵4︶ ︵5︶ ︵6︶ ︵7︶ ︵8︶

自然人

oα 獲¢黛一嶺¢さ区○彰導窪腔霧艶ヨ罷費αq巽ζ9窪Oo。 qgNび8F属倉7δ財鼠一ごω。潟 田暮① oo弩?譲むマ≦○協騰い魯吾gぴ︵ざωヒ ご霞磯R試oぎ霞男o鳥皆︾罷創。ご蹴︾昌一G Q9転c o ω9β象嶺鵯♪勲曾○こω。露︸ 鶴pgo8議ρ㊤。砂●○こω●紫c oい 麟疑508さ潮斜9。○こω●蕊 濁旨簿≦○窺ー譲きω2雲篇○一︷9︾艮器職q嵩α劉鴇脅脅る 。菊oo算錬鉱喰8淳審。 。寓o霧o冨♪6厭●9箋 ω富離島嶺σqo♪餌る●○‘ω.蕊 図旨質①8①蜜。 ・︸曾p。Oこo o添ご” 国導簿名○探ー韻§ω2翌噺○犀ω︸欝魯。○ごω●㎏9 曽窪α欝σQo♪㊤●曾○‘9臨 9醇匿ρd窪審90。 。男二く騨窪Φ93田9ンω。鳶一 民①一零♪溝雲鷲礪〇三〇露①鳥oG ・ω9暮ω話9欝げ①ωo︸の︾乱一ωヒざ ω蜜μα冒鴨♪㊤扇.○ご9群鴇 絹p器8霧霧”¢9p。○‘ω,鳶c o” 謬旨ωゴタδF餅餌●○ごω.ひメ 国讐。 。ぴ≦○︸酒ゆ逼・○ご9塔 未松謙澄訳 ユスチニアマス帝醤⋮マ法提要 一一頁 鍔旨馨≦○騨︸曾餅○←9α切

 の人格      八五

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五 自然人の権利能力と法人の権利能力

 一 法人は人間としての個人以外に、その構成員たる個人から独立して権利能力の主体たる組織的結合体である。 法人の権利能力は私法又は公法の領域において、もしくは公私法の領域において存するのであるから、私法人の私法 上の権利能力を有することは本質的であるのに反して、国家その他の公法人が公法上の権利能力を有し、その題的を 達する範囲内において私法上の権利能力を有する。従って公法入の私法上の権利能力は公法上の権利能力に随伴して        ︵王︶ 存在するところのものである。  二 法人の本質について、チ、の存在が古くから学説上争われている。茅、れは法人実在説と擬制説である.

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 法人の実在を否定し法人は擬制的なものであるとする説は、ローマ法学派の伝統的な考え方であり、後期註釈学派 の時代から、文献の示すところである。特にこの説の主唱者であるo っ署置揖によれば、人格の本来の観念は人問の概 念と一致する。それはすべての法が人間のために存在するからである。自然人はすべて権利能力を有し、自然人にあ らずして権利能力を有するものはない。しかし例外として、権利能力は技術的な単なる擬制によって考えられる主体 にまで拡張される。それが法人である。すなわち、法人は法人の目的を達するために創設された人である。この説は        ︵2︶ 纂⋮マ法以来永い間法学上において法人理論の根拠となっていた。  三 近代にいたり企業の発達が動機となって、擬制説を否定し法人の観念に対し新見解が示された。それは劇誉鐸 を主唱者とする目的財産説である。その主張するところによれば擬制された実体は存在しないから、現実の人は存在 しないことということになる。存在しないものは何等権利をもつことができない。さらに、擬制されたものは意欲を もたない。  意欲のないところに権利は成立しないし、又、意思能力なければ権利能力は存しないことになる。権利能力と行為        ︵3︶ 能力は機能的に結合している。そこには現実に貝的財産のみが存するのである。すなわち、何人にも属しないところ の一定の目的に役立つ財産が存在するのである。この説は、財産には所有者なき所有権、債権者なき債権、債務者な き債務すなわち主体なき権利が存在することを認めるのである。この説明によっては擬制人の不健全なる観念を除き 去ることはできるけれども、法人の本質を明瞭にすることはできない。  四 法人実在説においては人間以外に人格の主体が実在するとなすものである。9毘容によれば、個々の人類の結

   自然人の人格       

八七

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   東洋法学       八八 合は、その個人を離れて特別の統一体を構成する。その統一体は機関によって自ら意思を有し、その機関によって自 ら活動をなし、自ら独立の生命を有する社会的有機体である。社会的有機体は自立し、統一体として生活の主体たる ことは、これを有機体と見ることができる。国家の体形を見ることはできないけれども、その構成部分を見ることが できる。国家機関の活動は有機体の一部を示すものである。社会有機体は特別の意思をもっているから法的人格者で ︵4︶ ある。国家その他の団体が各機関によって団体の目的を達するための統一体的活動をしているから有機体と見ること は必ずしも不当ではないが、有機的組織体の区別は判然しないから有機体本来の用語からすれば適当ではない。又、 団体は有形的ではないが、存在は社会的に疑うべからざるものであり、そして、実体を有する団体自身が社会の組織 体と結合することは技工的ではなく必然性を有することである。何故ならば個人財産制をとることはたしかに社会生 活には合目的的であり、高い文化の社会には欠くべからざる形成であり、財産が個人所有権の生硬性から解放されて これを人類一般の利用へと供されるよう調和する必要がある。これは要するに自然の入問の集団、営造物、財団が財        ︵5︶ 産取得能力をもつことである。  私法人において、社団法人と財団法人の差異を人の集合を基礎とするか、財産の一団を基礎とするかに求めんとす るのは学者の通説であるが、しかし法人は常に必ず一定の員的に供せられた財産を有するのでなければ社団は組織体 としての活動力をもつことはできないし、その存立を失うこととなる。さらに、財団についても財産の保有が目的で なく、一定の目的に使用せられることが存立の基礎となることは社団法人と異ならないのである。すなわち、法人は 社団と財団とを問わず組織体としての存立には財産的要素は不可欠のものであるから、財産取得能力を有するのであ

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る.ここに権利能力の本質を見る、纂ーマ法においては権利能力の主たるものが財産取得保持の能力︵8簿鷺。まぽ臼︶   ︵6︶ であった。この財産取得能力こそ法人の権利能力の本質である。すなわち、先に述べたように、自然人の権利能力が 人間の尊厳を本質とするのと異なるところである。    ︵1︶ ω3讃α旨鴨さ国○匿糞o馨鍵N痛岳膨締αQo同ぼoげOpの①。 。魯Nぴ羅oF¢一誘矯    ︵2︶ O①羅言謎︸℃霞留馨窪扇ρごω●窃諮       ωひ㊤仁α冨αqoご ρ僧○ご ρ朕ρ       ω㊤︿おpざo り層簿o睡︸ω鳥●萄︸ω●鱒ω9    ︵3︶ じ ごユ寂”富疑冨魯α㊦ω︾弩山。客①凄。。暮。 。”一︸鼠だ︵一c 。鳶︶7ω。巽︸    ︵4︶  O醇昌びq同⑳”勲①●○こ ω,窃y       鳩山秀夫著 民法研究 一巻 照四八頁    ︵5︶  ○一g魏ρ憎ユぐ餌#8プ3一︸ω●︷↓撫︸    ︵6︶ O。琶び弩α磯”曾貸○¢ω●窃沖       末松謙澄著 ユスチニアヌス帝欽定羅馬法学提要 八四頁       ︵本学助教授︶

自然人の人格

八九

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