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近代黎明期における3人のフランス留学技術者たち 利用統計を見る

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(1)

著者

松浦 茂樹

著者別名

MATSUURA Shigeki

雑誌名

国際地域学研究

4

ページ

229-247

発行年

2001-03

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00003880/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

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国際 地域 学 研究 第4 号200! 年3 月 229

近代黎 明期 におけ る3 人のフ ランス留学 技術者たち

松 浦 茂 樹* 1 。 は じ め に 明 治 維新 を経 て日 本の 近代化 が本 格的 に進 めら れて い くな かで 、国 土 の社 会基 盤整 備 を担 う土 木 技 術 に も進 展が みら れた。 人力 を中 心 にし た 従前 の土 木施工 が大 きく転 換し た の は、1896(明 治29) 年 に着手 し た淀 川改 良工 事 であ る。 この工 事 は、 同年3 月に 成 立し た 河川 法の下 で 初 めて行 われ た 事業 で あっ たが 、欧 米 から多 数 の 施工 機械 が導 入さ れ、 そ れ まで の施工 状況 を一 新 し た。 また こ の 改良 計 画 は、 日本人 技術 者 の みの手 に よっ て策 定さ れ、 計 画面 で も画期 的 な もの だっ た。 さて こ の近代 黎明 期 の土 木技 術 に 指 導的 役割 を果 たし た の は、欧 米 帰 りの留 学生 た ち であ った。 なか で も、 フ ラン スのエ コ ール ・ セ ント ラル を 卒業 し た古 市 公 威 (1854∼1934)、 沖 野 忠 雄 (1854 ∼1921 ) の活 躍 は華々 し かっ た。 前 者 は河 川 法成 立に重 要 な役 割 を果 たし 、 後者 は淀 川改 良工 事 を 指 導し た。 後 、 古市 は男 爵 を授 けら れ、 沖 野 は″直 轄 事業。 の父 と謳 わ れ た。 一 方、 同じ エ コ ール・ セ ント ラル を 卒業 し 功績 を残し なが ら も忘 れら れ た一人 の技 術 者が い る。 山田 寅吉 (1853∼1927) であ る。 本 報 で は、 エ コール ・ セント ラ ル で の成 績・勉 学状 況 を 参考 にし なが ら、 近代 黎明 期 に活 躍し た3 人 の技術 者 た ちの生 き方 に つい て 論じ る もので あ る。 なお1829年 に創 設 さ れた理工 系 大学 の名 門 エ コ ール・ セント ラル の 教育 方針 につい て、 古 市 は後年 、 次の よ う に述 べ、 総 合的 な工 学教 育が 行 わ れ たこ とを 指摘 し てい る1)。 「 千八百 二 十 九年 ノ創 立二 係 り其 ノ 当初 二於 テ (工 学ハ ー ナ リエ 築 家 タル 者ハ 其 ノ全般 二 就 テ 知 識 ヲ有 セサ ルヘ カラ ス) 卜宣 言 シ、爾 来 此ノ主 義 ヲ守 リ テ 楡ラ ス。 機械 、土 木、 冶 金、 化学 ノ四専 門 ヲ設 クレト モ、 学 生 ハー 般 二各 学 科ノ講 義 ヲ総 テ聴 聞 セ サル ヘカ ラ ス。 分科 二依 り課 業 ノ差 別 アル バ実験 設計 ノ類 ノ ミ ナリ。」 2 。 仏 国 エ コ ー ル ・ セ ン ト ラ ル で の 留 学 と 勉 学 エコ ー ル・ セント ラ ル に山田 寅 吉、 古 市公 威 、沖野 忠 雄 は留 学し 勉学 に励 んだが 、留 学 す る まで の道 は山 田 と、東 京開 成学 校 の学生 か ら文部 省 選抜 の官費 留 学生 と なった 二人 とは、 大 きく 異 とし てい た。 古市 、沖 野 は共 に1854( 安 政元) 年生 まれだが 、 山田 は その 前年 の1853( 嘉 永6) 年生 まれ で、1 歳年 上 であ る。 *東 洋 大 学 国 際 地 域 学 部;FacultyofRegionalDevelopmentStudies,ToyoUniversity

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山 田寅 吉 はヽ九 州小 倉 の小 笠 等藩 士 の軽 輩 の長 男 とし て生 まれ、9歳 で藩 校思 永 館 に入 学し た。だ がヽ1866( 慶 応2) 年ヽ 小 倉 城 は第 二 次長 州征討 戦 で長州 藩 の攻 撃 を受 け た際、 自焼 し た。 こ の後 、 小笠 原藩 は豊 津 に本 拠地 を移 し た が、 山田 は藩 命 によ り長崎 で一 年 間英 語 を勉 強し た 後、1868( 明 治元) 年 頃ヽ 藩費 に よる イギ リ ス留 学 を命 じら れた。 こ の後 、70年 に フラン スに渡 り、 高 校 を経 て73 年、 エ コ ール・セ ントラ ル に入 学し たの であ る。 なお こ の73年 、明 治政 府 は海 外 に留 学し て い た373 人 全 員 に一 旦、 帰国 命令 を発し た。「 各藩 派遣 の ものが 廃藩以 後 その 学資 の政 府 へ の肩代 わり を 求 め た りし て弊 害が多 くな った の で、 帰国 命令 とい う措 置が とら れた」2)とい うが 、山 田 は帰 国 し な かっ た。 こ の後 は国元 か ら の送 金 は完 全 に断 た れ、 生活 費、 学費 を自 ら稼 ぎ なが らの 勉 学で あ っ た こ とが推 測 さ れてい る3)。 この 山 田の苦 学 に比 べ、 国 費留 学 生 であ る古 市、沖 野 は恵 まれて いた。 姫路 藩士 の 家 に生 まれ た 古市 公 威 は、1869( 明 治2) 年 、 新政 府 が復 興し た開 成所 に 入学 し てフ ラン ス語 を 選択 し、 翌70 年 、 藩の 貢 進生 とし て 大学 南校 に 入学 し た。 大学 南 校は その 後、 南校 、 第1 番中 学 と改称 し た 後、73 年4 月 開 成学 校 となっ た。 古 市 が 進学し た 開成学 校 は、74 年 に東 京 開成 学校 と改称 さ れ たが、 古 市 は諸芸 学 科 に在学 し た。 そし て こ の翌年 の75年5 月 、新 し い 官費 外国 留 学制度 が設 置 さ れた の に伴い、 同年7 月 、第 一 回 の 文 部 省 留学 生H 名 が欧米 各 国 に 派遣 さ れる こ ととなっ た。 古市 は、 こ の一 員 とし て フ ラン ス留 学 生 とな っ た のであ る。 なお こ の第 一 回留 学生 とし ては、 ア メリ カに 行っ た鳩 山 和夫、 小 村 寿 太郎 が い る。 フ ラ ン スに渡 った 古市 は、1 年 間、 エ コ ール・セント ラ ル の予備 科 の高 等学 校 であ る エ コ ール・ モ ンジ ュ で勉 強し た後、1876( 明 治9) 年7 月 、エ コ ール・ セ ント ラ ル に入学し た。 沖 野 忠雄 に つい て みよう 。 古市 と同 年 の1854(安 政元)年 に豊 岡 藩士 の家 に生 まれ た沖 野 は、1870 年 、 藩 の貢 進生 とし て大学 南 校 に入 学し フ ラン ス語を 選択 し た。 東京 開成 学 校で は物 理 学 科 に在 学 し た が 、1876( 明 治9) 年 、 文部 省 の 第2 次海 外留 学生 とな り、 古 市 の一 年後 、 フラ ン ス に渡 っ たの であ る。 そし てこ の年 の7 月、 古 市 と同 期生 とし てエ コ ール ・ セント ラ ル に入学 し た。 エ コ ー ル・セント ラ ルに入 学 し た と きの3 人 の記 録 が残 って い る(表1 −1)。全 科目 平 均 で み る と、73 年 入 学 の山 田 は20満 点で12.4(185 人 中70位)、75年同 時入 学 の古 市、 沖 野 はそ れぞ れ16.2(200 人 中6 位)、13.4(200人 中59位) であ る。 維新後10 年 も経 っ てい ず、 高 等教育 機 関 の整備 が 進 めら れる な かで の現 地 フラ ン スで の試 験で あ る。3人 とも上 位半 分 のな か に は入っ てい て、な か な か立 派 な成 績で あ る。 特 に古 市 は、 ず ば抜 けた 成績 となっ てい る。 さて3 人 と も、 通常 の3 年 間 の勉 学で エ コ ール・ セント ラ ル を卒 業し た。 し かし 勉学 を 進 め るに あ た り、 彼 らの境 遇 に大 き な相違 が あっ た。 古 市・沖 野 が国費 留 学 生 とし て生 活が 保 障 さ れて い た の に対 し 、 山田 は自 らの労 働 で生 活 費、 学費 を 稼が ねば なら な かっ た のであ る。 彼 ら3 人 は、 同 窓 生 とし て パ リで面 識が あっ た。 山田3 年 生、 古 市・沖 野1 年生 の時 、同じ 学生 ホテ ル に下 宿し て い た ので あ る。2年上 の先 輩 とし て、山 田 は二人 に大学生 活 を過 ご すた め の必 要な知 識 を 教 えた であ ろ う。 そ れが大 学生 活 を はじ めた ばか り の古 市・沖 野 に とって、 大 い に 参考 に なった こ と は想像 に難 くない 。

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松 浦: 近代 黎明 期 にお け る3 人 のフラ ン ス留 学 技術 者た ち 表−13 人の 入学時の成 績(満点 は20点) ①山田寅吉 出 生地:江戸 生年 月日:1853 年12月3 日 入学時 の席次:185 人中70位 最終学 歴:シ ヤルマーニ ュ高等学校 入学 試験の成績 科 目 口 頭 筆 記 特 記 算 術 ∼ 匹12 代 数一 初 等 幾 何 ∼ 二15 図 法 幾 何 一 三 角 法ヽヽ 二'0 13 解 析 幾 何一 16 物 理x > ロ 10 化 学 博 物 誌ダ デッサン、クロッキー、淡彩画 14、15 製 図 6 使 用 言 語 日 本 語 全 科 目 平 均 点 12.4 ②古 市公威 出生地: 東京 生 年月日:1854 年8 月12日 入学時 の席次:200 人中6 位 最 終学 歴校:エ コール・ モンジ ュ 入学 試験の成績 科 目 口 頭 筆 記 特 記 算 術∼ 二16 代 数 一 初 等 幾 何 ∼ 匹.6 図 法 幾 何 一 三 角 法 ヽヽ、

匹^e

16 解 析 幾 何一 18 物 理x > ロ 16 化 学 博 物 誌 タ デッサン、クロッキー、淡彩画 15、14 製 図 17 使 用 言 語 日 本 語 全 科 目 平 均 点 16.2 231

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表 −2 ③沖野忠雄 出 生地 :豊岡 生 年月日:1854 年1 月20日 入学時の席 次:200 人中59位 最終学歴:江戸 入学 試験の成績 科 目 口 頭 筆 記 特 記 算 術ヽ 二16 代 数 一 初 等 幾 何 、 二,4 図 法 幾 何 一 三 角 法ヽ、 二i6 8 解 析 幾 何 一 10 物 理x

≫・

15 化 学 博 物 誌 ダ デッサン、クロッキー、淡彩画 14、8 製 図 14 使 用 言 語 日 本 語 全 科 目 平 均 点 13.4 3 人 の リ ー ダ ー 達 の エ コ ー ル・ セ ン ト ラ ル にお け る成 績 比 較 ( 数 字 は平 均 点 、 満 点 は20点 ) 入 学年 入 学 時 一 年 次 二 年 次 三 年 次 卒 業 成績 山田 寅 吉1873 12.4 (185人 のう ち70番) 14.04 (170 人 の う ち41番 ) 13.82 (150 人 のう ち72番) 14.48 選 考 試 験I5.O(〕 14.46 (選 考 試 験 前138人 の う ち59 番)( 選 考 試 験 後127人 の う ち43 番)( 専 門 領 域30 人 の う ち7 番) 古 市 公威1876 16.2 (200 人 のう ち6 番) 17.84 (180 人 の う ち3 番) 16,90 (171 人 のう ち6 番) 16.43 選 考 試 験17.05 16.85 (選 考 試 験 前163 人 の う ち12番)( 選 考 試 験 後154人 の う ち7 番)( 専 門 領 域41 人 の う ち2 番) 沖 野 忠雄1876 13.4 (200 人の う ち59番) 14.84 (180 人 の う ち39番) 14.48 (171 人 のう ち59番) 13.60 選 考 試 験14.30 14.11 (選 考 試験 前163 人 の う ち100番)( 選 考 試 験 後154 人 の う ち72番)( 専 門 領 域41 人 の う ち21番) 次 にエ コ ール・セ ント ラル で の3 年 間 の成 績 を見て み よう( 表−2、3)。1873年 入 学、76年 卒 業 の 山 田 につ い て先 ず みる と、 一 年 次の 平均 点 が14.04[席 次176人( 内 進級 者159人) の うち41 位]、 二 年 次 の平 均 点13.82[席 次150人( 内 進級 者149人) のうち72位]、3 年次 の平 均 点14.48、 選考 試験 金 属 橋 梁15.00、卒 業成 績14.46[席 次、 選考 試 験前138人 のう ち57位、 選 考試 験後127人 のう ち43位、 専 門 領 域30人 のう ち7 位] で あ る。 次 に76年 入学、79年 卒業 の古市 に つい て み よう。一年 次 の平 均点 が17.84[席次184 人(内進 級 者170

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松 浦:近 代 黎明 期に おけ る3 人 のフラ ンス留 学技 術者 たち 表 −33 人 のエ コ ー ル セ ン ト ラ ル の 卒 業 時 の 成 績 ( 満 点 は20 点 ) ① 山 田 寅 吉 個 別 試 験 総 合 試 験 第 一 学 期 第 二 学 期 第 三 学 期 平 均 応 用 力 学 18、16 】5 16 15 機 構 学 15、16 13 15 15 工 業 化 学 15、12 16 14 H 冶 金 学 14、14 16 15 14 鉱 山 開 発 12、H 12 13 公 共 工 事 14 16、15 15 15 鉄 道 14、14 17 15 17 農 業 15 法 律 化 学 実 験 16、18 17、18 18、13 17 夏 休 み の 宿 題 設 計 及 び 研 究 報 告 16、17 、15 15

X\X

材 料 強 弱 学 計 算 12 各 種 設 計 ・ 専 攻設 計 暖 房 13、15 14 蒸 気 機 関 15、17 16 織 物 工 場 14、16 15 道 路 16、15 15 停 車 場 15 車 輪 14、H 14 平 均 点14.48 選 考 試験 金 属 橋 梁15.00 卒 業 成 績14.46 14.5 233 人 ) の うち3 位]、二 年 次の平 均 点16.90[席 次171人 (内 進級 者169 人) の うち6 位 ]、3 年次 の平 均 点16.43、 選考試 験 ア ーチ橋17.05、卒 業 成績16.85[席 次 、選 考 試験 前163人 の うち12位 、選 考 試験 後154 人 のう ち7 位、 専門 領 域41人 の うち2 位 ] 沖 野 は以 下 の ようで あ る。 一 年 次 の平均 点 が14.84[席 次184人(内 進級 者170人 )のう ち39位 ]、 二 年 次 の平 均点14.48[席 次171人(内進 級 者169人 )のう ち59位]、3 年 次の平 均 点13.60、 選考 試験 金 属 橋 梁14.30、 卒 業成 績14.11[席次 、 選考 試 験 前163人 のう ち100位 、 選考 試験 後154人 の うち72位 、専 門 領 域41人 のう ち21位]3 人 の中 で入 学 試験 と同 様、古 市 の成 績 が ずぱ抜 け てい る。入 学 時 に比 べた ら落 ち てい るが、卒業 時 点 で選 考試 験後 、154人 の う ち7 位 であ る。こ れに比 べ同期 生 で あ る沖 野 は72位 とち ょう ど中 間 に

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②古市公威 個 別 試 験 総 合 試 験 第 一 学 期 第 二 学 期 第 三 学 期 平 均 応 用 力 学 20、18 18 19 18 機 械 構 学 15 15 16 15 18 工 業 化 学 19 17 16 17 18 冶 金 学 16 16、16 16 16 鉱 山 開 発 17 18 18 15 公 共 工 事 18 16、15 16 17 鉄 道 17 16、16 16 18 農 業 IS 法 律 化 学 実 験 17、17 18、18 18、16 17 夏 休 み の 宿 題 設 計 及 び 研 究 報 告 材 料 強 弱 学 計 算 16 各 種 設 計 ・ 専 攻 設 計 暖 房 14、14 14 蒸 気 機 関 14、18 16 市 役 所 13、14 、16 14 鉄 道 14、12 13 停 車 場 17 車 輪 14、18、14、15 15 平 均 点16.43 選 考 試 験 ア ー チ橋17.05 卒 業 試 験16.85 位置 し 、 入学 時 よ り も落 ち てい る。 学業 成 績 に関 する限 りで は、 古 市 と沖 野 の間で 勝 負あ っ た と考 えて よさ そ うであ る。 一 方 、山田 で あ る。卒 業時 、127人 のう ち43位だが 、入 学 時 に比 べる と健 闘し てい る。卒 業成 績 は 古 市 に劣 る とはい え、沖 野 を上 回 って い る。 古市・沖 野 と違い、 生 活費 、 学費 を稼 ぎ な がら で の こ の成 績 であ る。 立 派な もの と評 価し て よい だ ろ う。 秀才 ・ 古市 に劣 等感 はいさ さ か も もたず、 山田 は この 成績 に誇 り を もっ て 卒業 し てい っ た だろ う。 なお 山田 の1 年 次 の勉 学 ・性 格 記録 等 に「 彼 の家 庭 は十 分 裕福 であ る」 と述 べ ら れてい る。 彼 は 奨学 金 を もら って いな かっ た ので 裕福 に違い ない とし て、こ の よう に記録 さ れた とい わ れ る4)。し か し同 時 に、「 この所 勉強 し なか っ た。 物理 学 を勉 強す るの に苦 労し た 」と記 録さ れて い る。 さ ら に2 年 次「勉 強し てい るが 、 学校 の 進度 は彼 に とっ て速 す ぎる。3 年 次「 学校 の勉 強 につい てい くた め に

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③ 沖野忠雄 松 浦:近 代 黎明 期 にお ける3 人 のフラ ンス留 学技 術 者た ち 個 別 試 験 総 合 試 験 第 一 学 期 第 二 学 期 第 三 学 期 平 均 応 用 力 学 13、14 17 15 16 機 構 学 13 14、15 14 H 工 業 化 学 16、14 16 15 15 冶 金 学 13 14 14 14 14 鉱 山 開 発 12 13 13 14 公 共 工 事 14 14、15 14 】4 鉄 道 14、14 14 14 14 農 業 15 法 律 化 学 実 験 17、18 16、16 14、13 16 夏 休 み の 宿 題 設 計 及 び 研 究 報 告 12、8 、12 11

材 料 強 弱 学 計 算 13 各 種 設 計 ・ 専 攻 設 計 暖 房 H 、14 13 蒸 気 機 関 9 、H 10 市 役 所 12、H 、13 12 鉄 道 12、12 12 停 車 場 14 車 輪 13、15、14、12 14 平 均 点13.60 選 考 試 験 金 属 橋 梁14.30 卒 業 試 験14.11 12.4 235 苦 労 し た」 な ど と述 べ られて い る。 苦 労し なが ら の勉学状 況 を物 語 っ てい る。3 人 の成 績表 に は、そ の筆跡 か ら みて 同一 の指 導教授 が記 し た そ れぞ れの 素行、評 価が 次 の よう に 書 か れて い る。 匝 聶 ] よ く勉 強し 、つ いて き てい る。 規 則正 し い勉 強。 よ く理 解し て い る。 素行 は大 変良 い。 性 格 は穏 や か、 内気 な 性向。 頭 が よい。 将来 、 日 本 で は どこで も技術 者 とし て成功 するに 違い ない 。 賜 暇 司 まじ めに 勉学 し てい る。非 常 に よ く理 解し 、 授業 につ いて くる。 抽 象 する能 力 に長じ 、 そ れを上 手 に 構成 し 表現 す る。 実 践的 な 事柄 のほ うが 苦手 。設 計 の実 習 の時 に は デッ サン は適切 であ りな が

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ら、 ゆっ くり取 り組 み、終 わ ら ない。 優 秀 、立 派な人 物 だ。 [ 加 藤 ] 規則 正し い 勉強。 順 応 し てい る。 よく理 解し てい る。 設計 が で きる よう にな る た め勉学 が まだ必 要 。(現 実的 な考 え方 があ る のに ) 実行力 が弱い。 素 行 よい。 真 面目。 ゆっ くり 成長 し て い る。 さ て彼 ら3 人 は晴 れて 卒業 し 、工 学 士 の学 位を 得た が、卒業 後 、直 ち に帰国 し た ので は ない。2 年 程度 、 フ ラ ンスで さ らに そ れぞ れ修業 を積 んで帰 国し た。 山 田 につ い て みる と、1877(明 治10) 年1 月 から メ ーヌエ ロ・ ア ー ル会 社に勤 務し 、 鉄 道建 設 の 現 場 を体 験 す る とと もに、 機 関車 製造 の 実務 に も従事 し た。 そし て そ の翌 年 、パ リ万 国 博 覧会 に 視 察 に きた 松 方正義 の知 遇 を得 たの であ る。 当 時、松 方 は、 内務 省農 地 局長 で あっ たが 、 て ん菜 を 原 料 とし た精糖 事業 に 注目 し博 覧 会場 のみ で なくフ ラン ス北部 で 現地 調 査 も行 い 、 日本 へ の移 植 の 可 能性 を探 った。 その 過程で 山 田 に会 い 、 山田 の意欲 と熱 意 を確 認し 、 日本 政府 傭(月 額200 円 )とし て 「製 糖 業、 紡績 業、 農具 其 の 他製 造業 」 の調 査を命 じ た ので あ る。 そ の任務 を終 え 、 山田 が帰 国 し たの は79年3 月 であ る。 古 市 は1879年 、 卒業 後、 さ ら にパ リ大 学 の理 科大学 に 入学し 、 数 学、力 学 を中 心 に 勉学 に励 み、 翌 年 、 理 学士 の学 位 も得 た。 またこ の 間、 法科 大学 で も政 治 経 済学 を開 き、 知識 の 幅 を拡 げ、80 年10 月 、 帰国 し たの であ る。 沖 野 に つい て みる と、フ ラ ン スで 実施 研 究をし た後 、1881年5 月 に帰 国し た。 だ が卒 業し た後 、2 年 間 フ ラン スで 何 をやっ てい た のか よ くわ かって い ない。建築 を専門 にし、国費 留学 生 とし て沖 野 と一緒 に渡 仏し て エ コール ・ セ ント ラル に 入学・ 卒業し た山 口半 六 と行動 を共 にし てい た ので は な い か との推 測 もあ る5)。 3 。 帰 国 後 の3 人 の 活 躍 一 明 治10 年 代 か ら20 年 代 を 中 心 に1 )明 治10年 代 山 田寅 吉 は1879(明 治12)年3 月帰 国 し た後、 内務 省 勧農局 雇 、同 年6 月 猪苗 代 (安 積) 疎 水 工 事設 計 主 任 となっ て安 積疎 水工 事 の 実施 設計 を ま とめた。 こ の後 同 年9 月、 北海 道紋 箆 製糖 所 建 設 主任 とな り、 か ねて より課 題 の て ん菜 を原料 とし た 製糖工 場 の建 設 に着手 し た。 フ ラ ン スから 機 械 が 購入 さ れ、80年12月 に この工 場 は完 成 し たが 、水 漏 れな どの事 故 が生じ 成 績 はか ん ばしい もの で はな かっ た。 山田 は1881年4 月、農 商務省 が設 立 さ れた のに伴い 、農商 務 省御 用 掛 となっ た。し か し82年 フ月 、 官 を辞 し て東 京馬 車 鉄道株 式 会 社 の技 師長 に就 任し、 新 橋・上 野 ・浅 草 間 の馬車 鉄道 の設計 ・ 監 督 に従事 し た。 こ の鉄道 は、 馬 車 鉄道 とし て 日本 最初 の もので 、 その 後、 都心 部 に路線 を延 長 し 日 本 最大 規模 を誇 っ た。 翌83年 、 山田 は内務 省土 木 局 御用 掛 とし て官 に復 帰し た。 そ の後 、主 に東 北 に在 っ て、 北上 川 な

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松 浦:近 代 黎明 期 にお け る3 人 のフ ラ ンス留学 技 術者 た ち 237 どの修 築工 事 に従 事し た。82年 に鳴 瀬川 河 口 に開 港し た 野蒜 港 が そ の2 年 後、 台 風 に よっ て突 堤 が 破 壊 さ れた時 、現 地 にお 雇い 技師 で あ る オラ ン ダ人技術 者 ム ル デル が 派遣 さ れたが、 山 田 は費 用の 概算 を求 めら れてい る。 こ の時 山田 は、「 仙台 近 海築港 調 査」 を 内務 卿 に提 出し てい る。 内務 省 は、1886(明 治19)年7 月、 フ ラ ン スの制 度を 参考 に土 木 監 督 区署官 制 度を 制定し 、 全国 を東京 、 仙台、 新 潟、 大阪 、徳 島 、 久留 米 の6 区 に分 けて巡 視 長 をト ップ とする 監督 署 を置い た。 監 督 署の 任務 は、 そ の地 域 にあ る国直 轄工 事 の実施 と府 県 の土 木 事業 を監督 す る ものだ が、 そ れに 先立 ち 山田 は、「 仏 国工部 省 組織 概況 」 を三島 土 木局長 に提 出し てい る。 この 監督 署官 制度 の下 で 山田 は同 年7 月、 東 北地方 を管 轄 する第2 区の 巡視長 に任命 さ れた。 ま た 同年8 月 、 そ れまで空 席 であ っ た 関東 管 轄 の第1 区 の巡 視長 に も任 命 さ れた。 この た め、 現 在、 その後 継 機関 であ る建 設省 東 北地 方建 設 局 、関東 地 方建 設局 の両 方 か ら初 代局 長 と認識 さ れてい る。 さて内 務省 土木 局 にお け る山田 の 地 位 であ るが 、1883年7 月13日 の内 務省 職員 録 に は土木 局長 石 井 省一 郎 の下 で、 御 用掛 古市 公威 に続 い て山 田寅 吉 の名 前 が あ る。 さら に翌年9 月1 日 付 けの職 員 録 に は、 土 木局長 三 島通 庸 の下 に技 術 官3 等 技師2 級 山田 寅 吉(岩 手 県在 勤)、 続い て 古市 公威(新 潟県 在 勤)とあ る。表−4 に は明 治10 年代 の 内務 省土 木局 土 木技 術 者 の待遇 を示 し てい るが、山田 と 古 市が 全 く同 格であ っ て他 より 抜 き んで て い るこ とが分 か る。 山田 は古市 と並 び内 務省 土 木局技 術 陣 の先 頭 を走 ってい た ので あ る。 表−4 明 治10 年代 の内務省土木 局土木 技術者 の待 遇・月棒( 土木局 の発足MIO から土木 監督署の設 置M19 へ) *古 市 公 威F *山 田 寅 吉F 宮 之 原 誠 蔵A *沖 野 忠 雄F ’石 黒 五 十 二Mil 東 京 大 卒E 田 辺 義 三 郎D M −10 日 80 12 13 -120 808080 14151617 120170200200 (3.2) 200200 (3.2) 80130130150 (4.2) 120150

万一

(3.2) 150 (4.2) 150 (4.2)(4.2) 19 00 口00 口50 口50 口22II 80 120125125150 (4.3)(4.3)(3 )80125125150 (4.3)(4.3)(3) ( 注 ) 明 治10 年 代 に 内 務 省 土 木 寮 は土 木 局 と 改 称 さ れ 、 近 代 的 な 土 木 技 術 を 修 得 し た も の が 入 っ て く る よ う に な っ た 。(3.2)は三 級 二 等 技 師 、(2 )は 二 等 技 師 を 示 す。 数 字 は 月 俸 を 円 単 位 で 表 わし た 。 東 京 大 卒 は、 東 京 大学 理 学 部 土 木 工 学 科 卒業 で あ る 。 フ ラ ソ ス、 ド イ ツ、 イ ギ リ ス、 ア メ リ カ に 留 学 し た こ と は 、そ れ ぞ れF 、D 、E 、A で 表 わし 、 学 位 令 に よ る 工 学 博 士 を後 日、 獲 得 し た も の に ぱ を 付 し て あ る 。M は明 治 で あ る 。 な お 、 明 治19 年 に は全 国 が6 地 区 に 分 け ら れ 、 土 木 監 督 者 が お か れ 、 巡 視 長 ( 一 等 ない し 三 等 技 師 )、 巡 視 ( 三 等 ない し 六等 技 師 )、 巡 視 禰 ( 技 師 、 属 ) が 配 置さ れ た。 出 典 ) 金 関 義 則 「 古 市公 戚 の 偉 さ4 」『 み す ず 妨 二十 巻 第 九 号 』 み す ず 書 房1978 年 を 基 に作 成 。 次 に、エ コー ル・ セント ラエ ルの 専門 領 域 におい て、41人 中2 位で 卒業 し た古 市 公威 を みよ う。 古 市 は、1880年(明 治13)年10 月 に帰 国 し、同 年12月 には 内務 省土 木 局 雇 となっ た。月 俸120円 であ っ

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た。 翌81 年10月ヽ 兼 任 とし て東 京大 学 理学 部講師 とし て数 学 を担当 し、 一 年間 教 えた。 この 後、82 年 に はヽ 氾 濫 の ため札 幌 に水 害 を もた らし た豊平 川 の現 地調 査 を行 い、 翌年2 月 に は改修 計 画を提 出 し た。84 年 に は新 潟 にあ っ て、 信 濃川、 阿 賀野川 など の現 地の 修築 事業 に 従事 し た。 そ し て彼 に よりヽ 信濃 川 河身改良 計 画 が策 定 さ れた。 し かし約2 年後 の86年5 月、 内 務省 土 木局 の兼 任 の下 に 帝 国大 学 工科 大学 長 を命 じ ら れた。86 年3 月、 学制 改革 が行 われ て帝 国大 学令 が公 布 さ れ、 文 科、 法 科、 理科、 工 科 、医 科 の5 大 学 か らな る 帝国 大学 が誕 生し た。 工 科大 学 は、 基本的 に旧東 京 大学 工芸 学部 (85年 に理 学 部 か ら土 木 等 の 工学 関 係学 科分 離し て 誕生 ) と工 部 省所 管の工 部 大学 校 が合併 し た もので 、土 木 学 科、 機 械 工 学 科、 造 船 学科、 電 気工 学 科、 造 科工 学 科、 応用化 学科 、 採鉱 冶金 学 科 の7 学 科 か ら構 成 さ れた。 誕 生当 初 の2 ヶ月間 は理 科 大学 長 菊 池大 麓 が工学長 心 得で あっ た が、5月 から初 代工 科 大 学長 とし て 古 市が 就任 し た ので あ る。 時 に古市 、若 干、33歳 で あっ た。内務 省 土木 局兼任 で 、な ぜ古 市 が工科 大 学長 に任 命 さ れ た のか 、 判 然 とし な い とこ ろが あ る。 フ ラン ス留 学時 代に も証明 し た 抜群 の才 能 があ り、 講 師 とし て の経 験 もあ っ た から と言っ て し まえ ば それ まで だが 、そ の経 緯 につ いて 今 の ところ明 らか にす る こ と はで きな い。 ただ東 京大 学 と工部 大 学 校 とい う歴 史 も校風 も違 う2 大学 の合併 で あ るので 、 学部 内 の 摩 擦 は大 き く、一 体化 さ せて い く のに は学問 の力 のみで な く行政 能力 も必要 とさ れた こ とは 間違 い な い だ ろう 。 特に 工部 大学 校 か ら の抵 抗 は大 きく、 廃校 に反 対し て 学生 大会 が 開か れた 。 またイ ギ リ ス人 の土 木学 教 授アレ キサ ンダ ー が相 容 れな いとし て辞 職 して 帰国 し た とき に は、 土 木 科学 生 は痛 惜 の あ まり 休講 の動 き を示し たの であ る。初 代 学長 古市 の仕 事 は、先 ず 学校 内 の ま とめ と融和 で あ っ た。 さ て留 学 から 古市 に半 年 ほ ど遅 れて1881 (明 治14) 年5 月 に帰国 し た沖 野忠 雄 は、 同年7 月、 月 俸100 円で 職 工学 校 (後 の東 京工 業 大学 ) 雇 となっ た。 そ の2 年後 の83年、 月 俸150円 で 内務 省土 木 局御 用 掛 に任 ぜ ら れ、 職工 学 校 は兼 務 と なっ た。 そして 翌 年の6 月 に は、 富士 川 の修 築 を命 じ ら れ4 等技 師 となっ た。86年 に は3 等 技 師 とな り北 陸地 方を中 心 にし て 直轄 工事 の 監督 を行 っ て い たが 、 同 年、 土 木監 督 区署 官制 度 の成 立 と と もに北陸 地方 を担 当 す る第3 区 の土木 巡 視長 に 就任 し た。 2 ) 明 治20年代 山田 寅 吉 が1887( 明治20) 年2 月 に 官 を辞し 、民 間 に転 出し た。 新 天地 は、87年1 月14 日 に設 立 認可 を東 京府 知事 に 申請し 、 同 年3 月17 日に認 可さ れ た有 限会 社日 本土 木 会社 であ る。 こ の会 社 の 創立 委員 会 の委 員長 に渋 沢栄 一 、委 員 副長 に大 倉組 の大 倉 喜八郎 、 久 原庄三 郎 、委 員 に 藤田 組 の 藤 田伝三 郎 な ど財 界大 物が名 を連 ね、資 本 金200万円 とい う巨 大 な資 本金 で もっ て 設 立 さ れた。社長 に は大 倉 喜八 郎が 就任 し たが、 山田 は技 術陣 のト ップ であ る 技術 部長 とし て 参 画し た のであ る。 また 工 部 大 学校 、帝 国大 学工 科大 学 を 卒業 し た土木 、建 築 の多 く の気 鋭の 優秀 な技 術者 が 参加 し た。 こ のた め、 他 の業 界企 業 におい て技術 者 不足 とい う状 況 に陥 った とい う。 で はなぜ 山田 は官 界 を去 り民 間 に行 っ たの だろ うか。 山 田 は、 こ れにつ い て何 の記 録 も残 し て い

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松浦: 近代 黎 明期 にお け る3 人 のフ ラン ス留 学 技術 者た ち 239 な い ので 客観状 況 か ら推測 す る以 外 に ない が、 内務 省土 木 局 にあっ て先頭 を走っ てい た 山田 が新 会 社 の 技術 指 導者 とし て強 く勧 誘 さ れた こ と は間違 いない だ ろ う。 内務 省技 術 陣 の中 で、 実務 にお け る これ まで の実 績 は誰 に も劣 ら ず、 第一 人 者 とみて よい だ ろう。 これ に比 べ第一 区、 二 区 の巡視 長 とし て の仕 事 は、当時 、満足 のい く もので は な かっ た と思 わ れる。厳し い 財政 の な かで 、ここで は、 河 川の 修築 事業6)が細 々 と行 わ れて い るに す ぎな かっ た。し かし全 国 的 に みる と、87年度 か ら国 、関 係3 県 に よ る木 曽 川改 修事業 に着工 し よう とし て いた。 また京 都府 工事 とし て、85年 か ら琵琶 湖 疎 水 工事 に着 手 して い た。 一 方、 鉄道 事業 が当 時、 脚光 を浴 びて い た。 民 間会 社 で あ る日本 鉄 道 会社 が1881(明 治14) 年 に 設 立 さ れ、84年 に は上 野∼ 高 崎 間が 開通 し た。 また同 年、 関西 で は政 府 に より長 浜・ 敦 賀間 が完 成 し た。 翌85 年に は日本 鉄 道会 社 に より 山手 線品 川 ・赤 羽間 、利 根 川橋 梁 を除 い た東北 線 大宮 ・宇 都 宮 間 が 開通、 翌 年に は利 根川 橋 梁 が完 成し た。 また政 府 によ り東 海道 線 が着 手 さ れた。 こ の後、86 年 から89年 に かけて 、 鉄道 の企業 化 に対し て一 大 ブ ー ムが生 じ てい た ので あ る。 この動 向 の中で 、 日本 最初 の馬 車 鉄道 を 完成 させ た 山田 は、 じ っ とし てお れな くなっ た か もしれ ない。 また 注目 す べき こ ととし て、 古市 公 威 へ のラ イバ ル心 があ っ だ ので は ないか と考 えて い る。 山田 は、 後 の1909(明 治42)年 に自 ら書 い た履 歴 書 の中 で、「明 治 十 九年 五月 ヨ リ仝 二十 三年 五 月 二至 ル 間 日本 土木 会 社技師 長 ト シテ」 と記述 し て い る。 し かし 「明 治19年5 月」 とい う の は、 明 ら かに間 違 いで あ る。 山田 は、 うっ か り と間違 えた ので あ ろう か。 こ こで興 味 深い こ とは、 この1886(明治19 )年5 月 は古市 が土 木局 兼任 で 帝国 大 学 工科 大学 長 に就任 し た年 月 であ る こ とで あ る。 こ れを偶 然 の一 致 と するの に はあ まり に も符 号 が合 い すぎ る。 筆 者 は、 意識 的 に 山田 はこ の ように し た と考 えて い る。 古市 はフ ラン ス留 学 時、 素晴 らし い成 績 で卒 業し て いっ たが 、苦 労 し て卒業 し た山 田 はけ っし て 引 け 目 を感 じ てい な かっ た。 あ るい は留 学 生 の先輩 とし て、 面 倒 を みて やっ た との気 持ち を抱 い て い て もお かし くない。 し かし 古市 は、 工 科 大学 学長 就任 後、1888 年5 月、 わ が国 最初 の学 位 授与 に お い て5 人 の1 人 とし て 工 学 博 士 を取 得、 同 年11 月 に は内 務 大 臣 山 県 有朋 の10 ヶ月 に わた るヨ ー ロ ッ パ諸 国巡 回 に随行 し た よう に、 官界 の 中 で着 実に歩 んでい く。 この 古市 との 比較 で後 れを とっ た 山田 が、 官 界 にお け る自分 の今 後 に つい て見 切 り をつけ、 民 間 の建 設業 界 に新 しい 天地 を求 めた こ とは想 像 に難 くない 。 さ て日 本土 木会 社が 指向 し た の は、 単 な る工 事請 負 で はない 。計 画 ・設 計 まで 含 めた土 木事 業 一 式 を担当 し よう とし た のであ る。 その当 時 、官 庁 か らの発 注 は、 特命 見 積り 方式 (命 を受 け た民 間 側 か ら の見積 もりに基 づ いて、 発 注 額 が定 めら れる) で行 わ れて いた 。 優秀 な技 術者 を抱 えた民 間 が技 術的 な主 導 権 を握 り、計 画 ・設 計 ・工 事 を すべて行 う 条件 が あっ た ので あ る。 特 命見 積 り 方式 で の契約 な ら ば、 官 界 に対 す る山田 の存 在 は大 き かっ た だろ う。 彼 が民 間 に転 身 し た の も、自 らの実績 と実力 を 自負 す る と ころが大 きかっ た に違 い ない。 内務 省 土木 局 の枠 に縛 ら れる こ とな く、民 間 にあ って 幅 広 く技術 活 動 がで き る との判 断が あっ た と思 わ れ る。 し かし そ の目 途 は は ずれた。

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1892 (明 治25) 年10月 、 日本土 木 会社 は解散 となった。 そ の背景 とし て 言わ れ てい る のが 、89 年2 月 に公 布 さ れ、90年4 月 に施行 さ れた会 計 法・会計 規則 との関 連 であ る。これ に よって 公 共事 業 に 対 す る請 負契 約 の方式 が初 めて 成文 化さ れ た が、 そ れ は一 般 競争 方式 を原則 とし て い た。 つ ま り発 注側 で あ る国 が予 定価 格 を作成 し 、基 本 的 に最低 価格 入札 者 が落札 ・ 契 約 する もの であ る。 こ れに よっ て 計 画・ 設計 は官 側 が主体 的 に行 う こ とにな り、 主 導権 は明 ら かに官 側 が握 り、 そ れ まで の 特 命 見 積 り 方式 に比 べ、民 間 側 の立 場 は極 め て弱 くなっ た ので あ る。 また1886(明 治19) 年頃 から 始 まっ た 鉄道ブ ーム が、90年、 恐 慌 に襲 わ れ て去っ てい った。 民 間主 体 で あ る鉄 道 の仕事 も、 著 し く 減 少 し てい った ので あ る。1892 年 の 解散 後、 日本 土木 会 社 の事業 は大 倉喜八 郎 が継承 し 、や が て今 日の 大成 建設 へ と発 展し て い く。 だ が、 山田 は 解散前 に 日本 土 木会 社 を去っ た。 そ れ は90年 中 頃 のこ とで あ り、 同 年6 月 か ら 「個人 ト シテ」 設 計及 び請 負 工事 に 従事 し たので あ る。 設 計 及 び請 負工 事 に対 して 、「 個人 ト シ テ」従 事 する とは どう いう こ とだ ろう か。 発注 側 あ る い は 民 間 の建 設 会 社 とい う組 織に 属し て い ない こ とは確 かで あ る。 つ まり自 ら が経 営者 であ る企業 を起 こし て い ない。 設 計・ 見積 りは 彼自 身 が一人 で 頑張っ た とし て も、 請負 っ た工事 は集団 で やっ て い か な くて は なら ない。 そ の全 体的 な 指揮 と出来 高 の評 価 は彼 が行 っ た として も、 作業 す る労働 者 、 そ れ を監督 する技 能者 は必 要 で あ る。 こ れら の人 員 を どの よう にし て確保 し てい た のだ ろ う か。 山 田 は、「個人 ト シテ」受 注 し た が、 そ の工事 ご とに下 請 けに 出し てい た と みる のが 妥 当だ ろ う。 基 本 的 な設 計 と見 積 りそし て 工事 の 監理 が、 彼 の業 務 で あっ た と思 わ れる。 次 に 帝国 大 学工 科大 学長 に あっ た 古市 公威 の動 向 を みて い こ う。 先述し た よ うに、1888(明 治21 ) 年H 月 か ら翌89年9 月 に かけ て、 工 科大 学長 を辞 任し 内務 大臣 山 県有 朋 のヨ ーロ ッ パ視 察 に首 席 随 員 とし て同 行し た。 この時、 山県 の 厚い 信頼 を得 、以 降、 山県 閥 の有 能 な幕 僚 とし て重 きを なし て い く。帰 国後 は すぐ に工 科大 学長 に復 帰し た が、翌90年6 月 に は学 長 兼任 で土 木局 長 に 任命 さ れ た。 また 同 年9 月、 他 の帝 国大 学 学長 と ともに最 初 の貴 族 院 議 員 に勅 選 さ れた。 土 木 局 長 の席 は94年6 月、 山 県欧 州巡 遊 の とき同 行し て い た都 築馨 六 とな り、 古 市 は土 木技 監 とな っ た。 し か し96 年2 月 の都 築 の辞 任後 、再 び 古市 が土 木 局長 兼 任 を命じ ら れた ので あ る。 この ように 古市 公威 は明 治20年 代、 工 学教 育 のみ なら ず土 木行 政 も指 導し てい っ た ので あ る。 と ころで 明 治20年代 終 わり、 土 木行 政 は画期的 な転 換 が行 わ れた。 日清 戦 争後 の1896 (明 治29) 年 に河 川法 が成 立し 、 この 法 律 の下 で国 直轄 事業 とし て洪 水 防 禦事業 が 展開 し てい く ので あ る。 こ の法 律制 定 に 関し、 国 会で 陣頭 に立っ て 説明 し たの が古市 公威 で あっ た。 河川 法 は1896年3 月7 日、 衆議 院 に提 出、 同月14日 衆議 院 で可 決、 直 ち に貴族 院 に送 付 さ れて25 日 に は可決 成 立し た。超 スピ ード で 審議 さ れた が、 それ は淀 川改 修 が大 きな 推 進力 となっ て い た。 政 治的 に地 元 と約 束し た国 直 轄 に よる淀 川 改良工 事 に着手 するた め、 法 規の 面 から 急い で制 度 化 を 図 っ たので あ る。因 みに、 洪 水 防禦 を目 的 とし た内務省 に よる淀 川 改良計 画 は前 年、 既 に策 定 さ れ て い た。 こ の計画 策定 を現 地 に あっ て指 導し た のが、 沖野 忠雄 で あ る。 沖野 は1886(明 治19) 年7 月、 北 陸地 方 担当 の第3 区土 木 監督 署巡 視長 に就 任 し てい た が、 山 田

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松浦 :近 代 黎明期 に おけ る3 人のフ ラン ス留学 技術 者た ち 241 寅 吉 の辞任 を受 けて87年4 月 、東 北地 方担当 の第2 区の巡 視長兼 務 を命 じ ら れ た。この後、90年8 月、 巡 視 長 は署長 と改称 さ れる と と もに沖 野 は第4 区 (大 阪) 署長 、 さ ら に兼任 とし て91年8 月 まで第5 区 (広島 )、 第6 区 (久留 米) の署 長 とな っ た のであ る。 第4 区署 長 とし て沖野 は 木曽 川、淀 川 を担 当 す る こと となっ た が、木 曽川 で は1887年 か ら内務 省、 愛知 県・ 三 重県 ・岐 阜県 が一 体 となっ て3 川分 流 の改修 事業 を行 っ て いた。 この事 業 は オラン ダ人 お 雇い 外国 人技 術 者 デ・ レ ー ケに よ り計 画 さ れた もので 、 日本 に とっ て本 格的 な 河川事 業 の嘴 矢 と 判 断し て よい。 当時 、 唯一 とい っ て よい 大規 模 な 河川事業 であっ た 。 淀川 で は1874年 度 から91年 度に か け て河身 修 築 (河川 で の低 水路 の整備 と山間 部で の 砂防工 事 が 主体 ) を完了、 翌 年度 か ら完 成 区間 の 修繕 を行 っ てい た。 先述し た よう に、96年、 河 川 法 の制 定 を みた が、 そ れに は淀川 改修 期 成運 動 が 重要 な推 進力 となっ た。91 年 から地 元 支出 に よ る測量 が行 わ れ、94年、 沖 野 は内務 大臣 に 「淀 川 高 水防 御工 事 計画 意見 書」 を提 出し た。 こ の後、 土 木技 監・ 古 市公威 た ち から な る技術 官 会 議 で この 意見 書 が審 査さ れ、 若干 の 修正 が命 じ ら れた。 翌 年、 改修 計 画 とな り、 いつで も着工 で きる状 況 となっ た ので あ る。 河 川 法制 定 に対 し、 現場 の 実務 面で 沖野 が 重 要 な役 割 を果 たし てい た と評し て よか ろう。 こ れに先立 ち沖 野 は、1892年 か ら95年の 工事 竣工 ま で 、 大阪 市上 水道 敷設 の工事 長 を委 託 さ れて いた 。 淀 川改 良 工事 で は最新式 の施工 機 械 の 導入 のた め技 師 が派遣 さ れ、 主 にフ ラ ン ス、 イ ギリ ス、 ド イ ツか ら浚 渫船、 掘 置機、 汽 関車 な どが 購入 さ れ た。 こ こ に機械力 を本 格的 に駆 使 す る、 わが国 初 め ての 大規 模土 木工事 が展開 さ れ たの で あ る。 わが 国 を代表 す る もう一 つ の代 表 河 川 ・利 根 川で改 修工 事 に着 手 し たの は、1900(明 治30)年 度 で あ る。 この工事 で も欧 米 か ら施 工 機 械 が多 数購 入 され、 淀 川 と同 様 に機械 工 場が設 定 さ れた。 淀 川、 利 根川 工事 を通 じて、 自 らの機 械力 に より施 工 を行お う とす る内務 省直 轄 工事 の直 営 方式 が名 実 と もに確 立し た ので ある。 4 。 明 治30 年 代 以 降 の3 人 の 技 術 者 た ち 沖 野忠 雄 は1911(明 治44)年 まで署 長・所 長7)とし て大阪 にあっ て 淀川 改良 工 事 を完成 さ せた。 ま た明 治30年代 から開 始さ れた大 阪市 営 の大 阪 築港 工事 で も、依頼 さ れて工 事長 を務 めた。河 川改 修、 築港 工事 と1 日お きの勤務 で あ っ た とい う。 この後 、 河川改 修 につ いて 淀 川 の みな らず 、多 くの直轄 改 修 に関 係し て いっ た。1897(明 治30) 年6 月 に は、 石黒 五 十二(1885-1922)とと もに土 木監督 署 技監 とな り、 東 日本 の一 区、 二 区、三 区 は石 黒、 四 区か ら七 区 の西日 本 は沖 野 の受 持 ち になっ た。 土 木監 督 署技 監 は暫 くし て廃 止 となっ た が、 石黒 が98年、 技 監 とし て 海軍 に 転 じ た ので、 直轄 改修 におい て 沖野 の役 割 は一 層高 まっ た。 ま た土木 技 監、土 木局 長 とし て土 木行 政 を陣頭 指揮 し てい た古 市 公威 が、98年7 月 内務 省 を退 官し た。 この後 、 上木 局工 務課 長 を兼 務し た 沖 野 が、直 轄 改修 にお い て指 導的 役 割 を担 った ので あ る。1910 (明 治43) 年、 わ が国 は大 水 害 に遭 遇し 、 これを契 機 に臨時 治水 調査 会 が組 織さ れ た。 沖 野

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は技 術陣 を代 表 し、 原田 貞 介(1865-1939) と ともに委員 とし て 参 画し た。 こ の調 査会 に よ り、 そ れ まで 国費 によ る治水 事業 費 単年 度200∼300 万 円位 だっ た のが、lOヵ 年1 億8000万 円 とす る第1 次 治 水 計 画 が樹 立さ れ たので あ る。 また技 術陣 のト ップ とし て11年、 新 た に内務 技監 が 設置 さ れ、 沖 野 忠雄 が任 命さ れ た。 こ こに沖 野 は、 名 実 と もに技 術 陣 のド ン となっ た ので ある。 こ の後 、1918( 大正7) 年7 月 の退 官 まで 、沖野 は技 監 とし て 河川 関係 の予 算権 、人 事 権 を一 手 に 握 り、全国 の直 轄改 修 を指 導し た。技監 とし て歴 代 の大臣 の 信 用 も篤 く、治水事 業 は沖 野 一 任で あ っ た とい う。 また事業 の有利 な進捗 のた めに は法規一 点 張 りの 議論 に耳 を 貸さ ず、 内務 省 の ロ ーマ 法 皇 と 異名 が付 け られ、「あ の老 爺 さ んが 大臣 の所 に行 く とき はす ばらし い 勢い で あっ た」と、後 々 ま で語 ら れてい た8)。 内 務 省 に よるこ の明 治改 修 は、 昭和 初 期 までか かっ て竣工 す る。 この事 業 を技術 者 集 団 の中 核 と なっ て 推 進し た沖 野 は後 世、 直 轄 事業 の 父 と謳わ れた。 山 田寅 吉 は、 日本 土 木会 社を 辞し た後、 鉄 道工 事 を中 心 に「個 人ト シ テ」工事 を受 注し た。「 個人 ト シ テ」 事業 を請負 い、 山 田 の責 任 の下 に工 事 は行 わ れた が、 先述 し た よう にそ の技術 者 とし て の 実 質 的 な役割 は、基本 的 な設 計 、 見積 り そし て工 事 の監 理 が中 心で あ った。 さ ら に地 域 に対 す る事 業 説明 と と もに官 界 で の経験 、 また太 い人 脈 に基づ き事 業許 可 の交 渉 等 も行っ てい た と思 わ れる。 こ れ ら を指し て、 彼 は 自ら をConsultingCivilEngineer と称 し た ので ある。 彼 が個人 とし てこ の よう な事業 を行 え た のは、 政 府 にお け る経歴 とと もに、 技術 者 とし て世 間 か ら の 高い 評価 があ っ た から だろ う。1899( 明 治32) 年3 月、 工 学博 士 会の 推 薦に よ り工 学博 士 号 が 授与 さ れてい る。 また京 義鉄 道工 事 を1904年、 個人 とし て請 負 っ たが、 それ は03年12 月 に京 釜 鉄道 株 式 会社 総裁 に就 任し てい た古 市 公威 との関 係であ った とさ れてい る。 山 田が 請負 っ た の はこ の軍 用 鉄 道 の一 部 であ っ たが 、満 州 とつな が るこ の鉄道 は日 露戦 争 時、 兵員 、物 資 輸送 に重 要 な役割 を 担 っ た。 明 治40年代以 降、 やが て山 田 は活 躍 の場 を朝 鮮半 島 に移し てい く。 その 理由 とし て、 国 内 の 仕事 全 体 が減 少し た こ と、 また法 制 度 の整備 に伴い 個人 とし て立 ち 回 わる範 囲が 狭 まっ た こ とが 考 え ら れる が、 それ とと もに 山田個 人 の技 術力 が 古 くなっ た こ と も想定 さ れる。先 述し た よう に、1896年 か ら始 まっ た淀川 改良 工 事 がわ が 国最初 の本格的 な近代 機械 施工 工 事 あ り、画期 的 な もの で あっ た。 それ以 前 と比 べ土 木 の現場 は大 きく異 なっ た のであ る。 また山 田 は、 日本各 地 さ ら に朝 鮮半 島で の鉱 山開 発 を志向 し はじ め た。 ここ で 山田 は計 画 ・設 計 等 の 技術 的役 割 の みで なく、 事 業家 とし て も自らを 位置 づ けて い る。 鉱山 開発 事業 を発 掘 し 、技 術 的検 討 を加 え る ともに 出資者 を 募 り、 自 ら もその一 員 となっ てい るので あ る。1920( 大正9) 年 か ら2! 年 にかけ 豊国 炭礦 株式 会 社社 長 との記録 が あるが 、彼 の手 が け た鉱 山開 発 の一つ が も のに な り、 そ の経営 者 に任 命さ れ た もの と思 わ れる。 晩 年 の 山田 の活躍 の場 は朝 鮮 半 島 に移 り、業 務 も干 拓 地造 成 に移 っ てい く。 そ れ も技 術 者 とし て の みで な く事業 者 とし て の立場 で あ り、 黄海 沿い で の干 潟 の水 田干 拓 を 進 めて いっ た。 最 晩 年、 大 規模 水 田 経営 者 とし て 臨津 面水 利 組合 の 組合 長 とな り、 借 金 の下 に干 拓地 の整 備 を進 めてい っ た。

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松浦 :近 代 黎明 期 におけ る3 人 のフ ラ ンス留 学技術 者 た ち 243 し かし 失敗 し 、破産 し てし まっ た。稲 作 の収 穫 直 前にな っ て2 年 続け て水 害 にあ い全滅 し てし まい、 個人 財 産 す べて を失っ た ので あ る。 まさに「末 路 が悪 かっ た」ので あ る9)。 山田 は1927(昭和2 )年、 療 養先 の別府 で 失意 のう ち に死 去し た。 享 年74歳。 まさ に疾風 怒 濤 の生 涯で あっ た。 古市 公威 は1898{ 明 治31) 年7 月 、 東京 帝 国大 学工 科大 学長 、 内務 省土 木 技監 、土 木局 長 とも周 囲 の強 い 慰留 に も関 わら ず辞任 し た。時 に古 市44歳。その理 由 に つい て古 市 は何 も語 って い ない が、 大 隈重 信 の政 党 内閣 が4 ヶ月 の 短命 で 倒 れ、98年11月山 県有朋 第 二 次 内閣 が成 立 す る と、古市 は逓 信 次官 に就任 し た。 こ の後、1900 年10月逓 信省 を辞 任 し た後 、03年3 月、 鉄 道作 業局 長 に就 任。 同 年12月、 鉄 道作 業 局 長 を休 職し 京 釜鉄道 株式 会 社総 裁 とし て 風 雲急 な朝 鮮半 島 にわ た り釜 山∼ 義州 間 鉄道 の建 設 に献 身 し た のであ る。 そし て 日露戦 争 後 の1906(明 治39) 年 に は韓 国総 監 督 府 鉄道 管 理局 長 に就 任し 、 翌 年6 月 まで そ の任 にあ っ た。 古市 は、 この よう に きら びや かな 顕官 の道 を歩 んだ 後、1919(大正8 )年、 男 爵を 授け ら れ、24年1 月 に は枢 密顧 問官 に就 任し た。一 方 、工学 界、工 業界 で も重 き をな し、数々 の 要職 を こなし て いっ た。 そ の主 な もの をみ ると、1906(明 治39)年帝 国 学士院 会 員 に勅 選、14(大 正3 )年土 木学 会初 代 会 長 に就任 。17 年 には工 学会 会長 、 財 団法人 理化 学研 究所 所長 、20 年 に は東京地 下 鉄道 会社 社長 、 学 術研 究 会議 長 に就任 。29 年に は75歳 の高 齢 な がら東 京で 開催 さ れた万 国工 業会 議 会長、 また世 界 動力 会議 日本 国 内委員 会 会長 に就 任 し た。 ここで 古市 が 初代 会長 となっ た土 木 学会 の創立 につ いて みよう。 工学 関 係の 最初 の学 会 とし て、 工部 大学 校 の卒 業生 が中 心 となっ て工 学会 が1879 (明 治12) 年、 設 立 され た。 当初 こ こに は工 学 す べて の専 門家 が 参加 し たが、85 年 に日 本鉱 業 会、86年 に造 家学 会( のち の建 築学 会)、88 年 に電 気学 会、97 年に造 船 学会、 機 械学 会、98 年 に工 業 化学 会 が設立 さ れ、 工 学会 に 残 る専門 家 は土 木工 学 を 専攻 す る もの がほ と んど という状 況 になっ た 。 この ため、 こ とさ ら 新 たに土 木 学会 は必 要 ない とい う こ とで設 立 され なかっ た ので あ る。 土 木 学会 創立 に 際し、1854年 生 ま れの 古市 と沖 野 忠雄 が還 暦 を迎 える とい うこ とで、 その記 念 の た めの 資金 が募 集 さ れた。 そ の全 額 を古市 と沖野 は、 土 木学 会創 立 の た めに寄 付し た ので あ る。 創 立翌 年 の1915年 の第1 回総 会で 初代 会 長 古市 は 次 のよう な講 演 を行 い、 土 木工 学 の特質 、 そし て土 木技 術 者 の幅 広い 活躍 を願 っ た。 「 余 ハ、 極端 ナ ル専門 分業 二 反対 スル者 ナリ。 専門 分業 ノ文 字 二 束縛 セ ラレ、 萎 縮 スル如 キハ 大 二戒 ムヘ キコト ナ リ。 殊 二本 会 ノ 方針 二 就 テ、余 ハ此 ノ説 ヲ主 張 スル者 ナリ。 本 会 ノ会 員 ハ、 技師 ナ リ技手 ニ ア ラ ス将校 ナリ兵 卒ニ ア ラ ス。 即 指 揮者 ナリ。故 ニ、 第一 二指揮 者 タ ル ノ素養 ナカ ルヘ カ ラ ス。 而 シテエ 学 所 属ノ各 学科 ヲ比 較 シ、 又 各学 科 相互 ノ関 係 ヲ考 フ ルニ、 指揮 者 ヲ指 揮 スル人 、即 所 謂 将 二将 タ ル人 ヲ要 スル場 合 ハ、 土 木 二於 テ最多 シト ス。土 木 ハ、 概 シテ 他 ノ学科 ヲ利 用 ス。 故 ニ、 土 木 ノ技術 ハ 他ノ専 門 ノ技師 ヲ使用 ス ル能カ ヲ有 セサ ルヘ カ ラス。 且又 土木 ハ 機械 、電 気 、建 築 ト 密接 ノ関 係ア ル ノ ミナ ラス、 其 ノ他 ノ学 科 二就 テ モ、例 之 ハ特 種造 船 ノ如 キ用 具 二於 テ、 或 ハ せ めん と鋼鉄 ノ 如 キ用 材二於 テ、 不 断相 互 二交 渉

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ス ル ノ必 要 ア リ。 茲 二於 テカ (工 学ハ 一 ナリ工業 家 タ ル者 ハ 其 ノ全般 二就 テ知 識 ヲ有 セ サ ル ヘ カ ラ ス) ノ宣 言モ、 全 ク無 意味 ニ ア ラ スト 云フ ヲ 得ヘ シ。」 5 。 お わ り に エ ッ フェ ル塔 を建 設し た エ ッフ ェ ル も卒業し た フラ ン スの名 門 理工 大学 ・エ コ ー ル・ セン ト ラ ル に明 治10年 前後 、留 学し て 卒業 し た3 人 の土 木技術 者 たち につ い て述 べ て きた。 帰 国 後、 内 務 省土 木 局 に身 を 置い た が、 そ れぞ れの 個性 に 基づ いて自 ら の道 を歩 ん でい っ た。 それ を整 理し た の が 表 −5 で あ る。時 代 は富 国 強兵 、殖 産興 業 を旗 印 に、近 代国 家 建設 に邁 進し た明 治時 代で あ る。最 高 教 育 を受 けた3 人 にか け られ た期 待、 また その 役割 は大 きか っ た。 行政 、 教育 また工 学・ 工 業 の実務 の面 にお いて 最 も華々し く活躍 し たの は、 古市 公威 であ っ た。 エ コ ー ル・ セ ント ラル を専門 領 域 にお い て2 番で卒 業し た 秀才 で あ り、卒 業時 、 フ ラン ス のあ る 製 造 会 社 から 月給800 円、その上 、会社 の 総利 益 の1 割 を賞 与 す る とい う好 条件 で誘 われ てい た。し か し 自 分一 人 の利 益 な ど顧 みてい ら れ ない、 日 本の ため に尽 くさ ねば なら ない とし て帰 国、 若 く し て 工 科大 学 学長 、 土木 局長 とし て国土 造 り に中 枢的 な役割 を担っ た。 この後 、長 州閥 の有力 者 ・ 山 県 有 朋 との強い つ なが り の下、 工 学・ 工 業 の最 高権威 者 とし て の地 位を 確立 し てい っ た。 古 市 は国 家、 社会 にお け る自 ら の役 割 を十 分、認 識し てい た。 自ら の人 生 につい て夫人 に対 し 次 の よう な言 葉を 残し てい る11)。 「余 は学者 に非 ず、 実業 家 に非 ず、技 術 者に非 ず 、色 釈極 め て分明 ならざ る 鶴的 人 間 と称 すべ き か」 「学 者本 来 の希 望 する 所 はそ の学 問 を以 て終始 を一 貫 す るに あ り と雖、 余 の如 く諸 種 の方 面 に 関 係 するを 余 儀なか らし めた る は蓋し 時 代の然 らし むる所 な り」 な お、作 家三 島 由紀夫 の本名 は平 岡公 威 だが、祖父 が 古市 公威 の名 を取 って命 名 し た もの で あ る。 さ て 結果的 で あ るか もし れな い が、 技術 者 とし て 最 も真 っ当 な道 を歩 み、成 功し たの が沖 野 忠 雄 で あ る。 内務 省 に入 っ て以来 、一 度 も外 に飛 び出 すこ と なく直 轄事 業 を中 心 に黙々 と業務 をこ な し てい っ た。 正 月、 部下 が 年始 の 挨拶 に行っ た ら高等 数 学の難 し い原 書 を読 んで い た とい う生 真 面目 な性 格で 、 内務 省土 木局 技術 陣 を引 っ 張っ て いき、 後輩 技術 者 に対 し て強 い影響 力 を残し た 。 全 く 個性的 な 道 を歩 んだ のが 山田 寅 吉で あっ た。 自 ら、 趣味 を 「事業 」 と述 べ た よう に、 自 分 の 技 術 を頼 り に、次 から 次 と多 く の事業 に携 わった。最 後 は野 た れ死 にの よう にし て世 を 去 り、古 市 、 沖 野 が死 後 も脚 光を 浴 びてい くな かで 忘 れ去 られて いっ たので あ る。あ の まま官 界に 山田 が 残 っ て い た ら どう なっ ただ ろう 。 古市 の比 較 は別 とし て現場 の土木 技 術 の第一 人 者 にな り得 た こ とは 想 像 に難 く ない。 あ るい は沖 野 の出 番 は なかっ た か もし れ ない。 最 後 に、 山田、 古 市、 沖野 の エ コ ール・ セ ント ラ ル の成 績・ 勉学 状況 の 記録 は武 井篤 氏 が 現地 で 入 手し た もので あ り、土 木学 会 土木 図 書館 藤井 肇男氏 から筆 者 は手 に 入 れた。 そ の日 本語 訳 は 、武 井 氏 の 「沖 野忠 雄 につい て の ノ ートIV 」(「月刊 河川」1978年2 月 号、 社団 法人 日本 河 川協 会 ) を 参

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松浦 :近 代 黎明 期に お ける3 人 の フラ ンス留 学技術 者 たち 表 −53 人 の フ ラ ン ス 留 学 技 術 者 た ち の比 較 245 山 田 寅 吉 古 市 公 威 沖 野 忠 雄 誕 生 年 嘉 永6 年(1853.12 ) 安 政 元 年 (1854.7) 安 政 元 年 (1854.1) 出 身 藩 福 岡藩 士 族 姫 路 藩 士 族 豊 岡 藩 士 族 日 本 の 大 学 大 学 南 校 、 開 成 学 校 大 学 南 校 、 開 成 学 校 留 学 先 ( 仏 )エ コ ール・セ ント ラ ル ( 仏 ) エ コ ー ル・モ ン ジ ェ エ コ ー ル・セ ント ラ ル パ リ 理 科 大 学 ( 仏 ) エ コ ー ル・セ ン ト ラ ル 費 用 負 担 福 岡 藩 官 費 生 文 部 省 派 遣 文 部 省 派 遣 帰 国 年 月 明 治12 年 (1879 )3 月 明 治13 年 (1880 )10 月 明 治14 年 (1881 )5 月 博 士 号 1899 年 ( 第4 回 ) 1888 年 ( 第1 [1 ) 1891 年 ( 第3 回 ) 死 亡 年 1927 (73 歳 ) 1934 (79歳 ) 1921 (67 歳 ) 帰 国 後 、 明 治10 年 代 の 職 歴 と 任 務 内 務 省 猪 苗 代 湖 疎 水 工 事 設 計 主 任 (1879 ) 内 務 省 北 海 道 紋 竃 糖 所 建 築 主 任 (1879 ∼81 ) 内 務 省 土 木 局 (1882 ) 東 京 馬 車 鉄 道 会 社 技 師 長 (1882 ) 内 務 省 土 木 局 (1883 ∼87 ) 内 務 省 第 二 区 土 木 巡 視 長 (1886.7) 内 務 省 第 一 区 土 木 巡 視 長 兼 任 (1886.8) 内 務 省 土 木 局(1880 ∼98) 東 京 大 学 理 学 部 講 師 兼 任(1881) 帝 国 大 学 工 科学 長(1886.5 ∼98.1) 職 工 学 校 (1881.7) 内 務 省 土 木 局 (1883 ∼1918 ) 内 務省 第 三 区 土 木 巡 視 長 (1886.7) 明 治20 年 代 以 降 の 職 歴 と 任 務 内 務 省 以 来 退 官(1887.2) 有 限 会 社 日 本 土 木 会 社 技 師長(1887.3 ∼90.5?) 「 個 人 ト シ テ 」 事 業 に 従 事 宇 ノ島 鉄道 会 社 技 師 長(1909) 豊 国 炭 坑 株 式 会 社 社 長(1920) 臨 津面 水利 組 合 理 事 長(1921) 山 県 有 朋 内 務 大 臣 の欧 州 諸 国 巡 回 に 随 行 (1888.11∼89.9 ) 貴 族 院 議員 に 勅 選 (1890 ) 内 務 省 土木 局 長 (1890.6∼94.6 )(1896.2∼98.1 ) 逓 信 次 官 (1898.7∼33.10 ) 鉄 道 作業 局 長 官 (1903) 京 釜 鉄 道株 式 会 社 総 裁(1903 ) 韓 国 総 監 府 鉄 道 管 理局 長 官 (1906.6∼07.6 ) 帝 国 学 士 院 会 員 に 勅 選 (1906.9) 土 木 学 会初 代 会 長 に就 任 (1914 ) 工 学 会 会 長 に 就 任 (]917 ) 男 爵 を 授 け ら れ る (1919 ) 東 京 地 下 鉄 株 式 会 社 社 長 (1920 ) 枢 密 顧 問 官 (1924 ) 内 務 省 第 二 区 土 木 巡 視 長 兼 任(1887.4) 内 務 省 第 四 区土 木 監 督 署 長(1890 ∼) 兼 第 五 区 、 六 区 署 長(1890) 大 阪 府 水 道 敷設 工 事 嘱 託(1892) 大 阪 市 築 港 事 務 所 工 事 長 嘱 託(1899)( 土 木 監 督 技 監(1897 ∼98)) 大 阪 土 木 出 張所 所 長(1905 ∼H) 内 務 技 監(1911 ∼18) 土 木 学 会 第2 代 会 長(1916)

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照し て東 洋大 学国 際地 域 学部 担本 せ つ 子先生 の協力 の下 に訳し た もので あ る。 当 然 の こ となが ら 文 責 は筆 者 にあ る。 関 係諸氏 に 深 く感 謝い たし ます。 注 釈 ・ 参 考 文 献1 ) 古 市 公 威 「 土 木 学 会 の 方 針 に つ い て 」『土 木 学 会 第 一 回 総 会 会 長 講 演 』1915 年 。2 ) 武 井篤 「 沖 野 忠雄 に つ い て の ノ ー ト(1)」『 月 刊 河 川 』 昭 和52 年 川 月 号 、 社 団 法 人 日 本 河 川 協 会 、1949 年 。3 )r 魁 星 』 山 田寅 吉博 士 事 績 調 査 会 、 社団 法 人 東 北 建 設 協 会 、P.42 、2000 年。4 ) 前 掲 書3 )5 ) 武 井 篤 「 沖 野 忠 雄 に つ い て の ノ ー ト (Ⅳ )」『月 刊 河 川 』 昭 和53 年2 月 号 、 社 団 法 人 日 本 河 川 協 会 、1978 年 。6 ) 修 築 事 業 と は、 治水 と と も に 舟 運 路 の確 保 を 重 要 な 目 的 とし 低 水 路 の整 備 と砂 防 工 事 が 主 体 であ る 。7 )1905 (明 治38 )年 、 土 木 監 督 署 は廃 せ ら れ、 地 方 に は 直 轄 河 川 の 施工 と調 査 を 行 う 土 木 出 張 所 が 配 置 さ れ た 。 土 木 出 張 所 の長 が 所 長 で あ る。8 ) 真 田 秀 吉 「沖 野 博 士 伝 」 旧 交 会 、1959 年 。9 ) 内 務 省 初 代 土 木 局 長 ・ 石 井 省 一 郎 が1930 年 、 あ る 座 談 会 で 述 べ た 言 であ る。10 ) 前 掲 書1 )11 )r 古 市 公 威 」 故 古 市男 爵 記 念 事業 会 、P.35 、1937 年 。 主 要 参 考文 献 金 関 義 則 「古 市 公 威 の 偉 さ1 ∼4 」『 み す ずJ175 、176 、216 、222 号 、 み す ず 書 房 、1974 ∼1978 年 。 武 井 篤 「沖 野 忠 雄 に つ い て の ノ ー ト(I) ∼(IV )」『 月刊 河 川 』昭 和52 年H 月 、12 月 号 、 昭 和53 年1 月 、2 月 号 。 社 団 法人 日本 河 川 協 会 、1978 年 。 故 古 市 男 爵 記 念 事 業 会 「 古 市 公 威 」1937 年 。 真 田 秀 吉 「沖 野 博 士 伝 」 旧 交 会、1959 年。 山 田 寅 吉 博 士 事 績 調 査 会 『魁 星 』 財 団 法人 東 北 建 設 協会 、2000 年 。 土 木 学 会 日 本 土 木 史 研 究 委 員 会 「 近 代 土 木 技 術 の 黎明 期 」 土 木 学 会 、1982 年 。 菊 岡 倶 也 『建 設 業 を 興 し た 人 び と 』 彰 国 社 、1993 年 。 松 浦 茂 樹 「 沖 野 忠雄 と明 治 改 修 」『 水利 科 学 』 第40 巻 第6 号 、 財団 法 人 水 利 科 学 研 究 所 、1997 年 。 松 浦 茂 樹 「 忘 れ ら れ た 技 術 者 ・ 山 田 寅 吉 」「 水利 科 学 」 第43 巻 第5 号 、 財 団 法 人 水 利 科 学 研 究 所 、1999 年 。

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松 浦: 近代 黎明 期 にお け る3 人 のフ ラン ス留学 技術 者た ち

ThreeCivilEngineers,whostudiedabroadinFrance

andtookanactivepartatthedawnofModernJapan.

ShigekiMATSUURA

247 IntheearlydaysofMEIJIEra,whenJapanbegantoadvancethecourseofthe Modernization,threeyoungmenstudiedabroadinFranceandgraduatedfrom EcoleCENTRALECollegeinParis. TheyareTorakichiYAMADA,KouiFURUICHI,TadaoOKINO.They camebachinJapanandtooktheleadofthePublicworksandCivilengineeringat thedawnofMinistryofHomeAffairs. Aftersomeyears,theybegantomoveontheirowncourceinaccordingtotheir idealandcontributedtoInfrastractureDevelopmentinJapan.

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